サイコバグなお兄ちゃん、Vtuberになる。 作:にいるあらと
翌朝、いつも以上に早く起きてしまった。
それもそのはず。いつもより二時間から三時間くらいは早く床に就いたのだから、それだけ早く起きることになる。外はまだ日が昇っていなかった。
起きたのならベッドから出て着替えたり食事の準備などを始めたいところだけれど、いまだに僕の腕を枕にし、僕の服を掴んで離す気配のない礼ちゃんまで付き合わせて起こしてしまうのは忍びない。よくこんな硬い腕を枕にして眠れるものだ。
礼ちゃんが起きるまでの間暇なので、気持ちよさそうにふにゃふにゃしている礼ちゃんを眺めていた。この距離にいて夜中に僕が目を覚まさなかったということは、今夜は悪夢に魘されることはなかったようだ。
「んっ……んー……」
窓の外が白み始めてくるくらいまでしばらく眺めていると、礼ちゃんがもぞもぞと動き始めた。日常的に早起きを心掛けている礼ちゃんだけども、それにしたってまだいつもの起床時間には余裕がある。
やはり布団に入った時間が早かったので僕と同様、礼ちゃんの覚醒も早くなったようだ。
「おはよう、礼ちゃん。まだ早いけど、どうする? もう少し寝とく?」
「んぅ……んーん。おきる。昨日、ランニングサボっちゃったし、そのぶん長めに走りたい」
「うん、そうだね。じゃあ起きようか」
「あー、でも……ちょっとまって」
僕が体を起こそうとした時、礼ちゃんに腕と服を掴まれてまた横に引き戻された。
目をしばしばさせていた礼ちゃんは僕の背中に手を回し、まるで伸びをする感覚で『んーっ』と唸りながら抱き締める。推定一般女子よりも筋力に優れている礼ちゃんにそうされると、わりと冗談抜きで呼吸が止まる。せめて一言くらい声掛けしてもらわないと、お兄ちゃんは覚めない眠りに落ちることになるよ。
「っ……ぐふっ」
「うーっ、おっけ! 補給ばっちり! 目もぱっちりだ!」
「そ、そう……よかったよ」
起き抜けに兄を仕留めかけた礼ちゃんは足取り軽やかに部屋を出ていく。
一日の始まりから僕は気息奄々もいいところだけど、そのぶん礼ちゃんが元気な様子でよかった。
この道十八年のベテランお兄ちゃんの眼力をもってしても、さすがに礼ちゃんの心中を察するには時間と会話が足りなさすぎたが、一見する限りにおいてはメンタル面は大丈夫そうだった。目の充血や腫れも、昨日よりはまだましだ。
少し安心して礼ちゃんの背中を見送ってから、スポーツウェアに着替える。
前の会社に勤めていた時はその時間すら確保できなかったけれど、退職してからはまた早朝ランニングを再開していた。昔は僕の後ろをついてくるので精一杯だった礼ちゃんも、この数年でスタミナがついて軽く会話しながらでもランニングができるくらいになっていた。
礼ちゃんの成長に感動しつつ、宣言通りいつもよりも長めになった朝のランニングを済ませて、シャワーを浴びて朝食を摂り、礼ちゃんを学校に送る。家に帰ってくれば家事を片付けて、父さんに頼まれていたデータまとめを終わらせてファイルを送信する。昼食は自分一人だけなので適当に消費期限が近づいている物と余り物を胃袋に流し込む。そこからは礼ちゃんを迎えにいく時間になるまで自由時間になる。
自由時間は、ゲームに触れたり、庭の手入れをしたり、買い物に行ったりと日によってやることが違う。今日は勉強だ。
礼ちゃんから質問された時に答えられないような情けないお兄ちゃんになりたくない、という情けない一心によって高校中退以後も見栄を張って勉強は続けているのだ。
夕方、礼ちゃんを迎えにいく。昨日に引き続き夢結さんも一緒だった。
夢結さんが一緒だと礼ちゃんのテンションがいつもと違って面白いし可愛いし、僕がこれまで触れてこなかった分野のお話をしてくれるので嬉しいのだけど、今日の夢結さんは眠そうな印象だった。本日のカリキュラムに体育はなかったはずだけれど、お疲れのご様子だ。後部座席で礼ちゃんと小声でこそこそ内緒話を始めた時は、無駄に鋭敏な僕の聴覚が二人の会話を聞き取ってしまわないように音楽をかけた。
若干悲しくなった気がしないでもないが、男に聞かれたくない話の一つや二つ、女の子にはあるのだろう。涙を堪えつつ、耳は音楽に、意識は運転に集中させた。
夢結さんをお家まで送り届け、自宅へと帰ってくると、僕が夕食の準備をしている間に礼ちゃんは入浴。礼ちゃんがお風呂から上がる頃には夕食は仕上げを待つだけになるので、僕もささっと湯浴みする。
まあ、そんな礼ちゃんの好みに合わせた結果、うちのキッチンの収納棚の実に二段が香辛料だけで占領されるような有様になっているが、礼ちゃんの幸せの前ではそんなことは
夕食を済ませると自室へ。僕の三回目の配信にして、昨日急遽組み込まれた二回目のコラボ配信の準備に取り掛かる。
昨日と今日の朝、すでにSNSでは告知をしてある。あとは配信開始直前にもう一度SNSで、これから配信開始します、という旨を発信すればいいだろう。他もだいたいは準備できている。やり方は『New Tale』のスタッフさん、主に安生地さんや雨宿さん、あと身近な大先輩である礼ちゃんにも教わったので万全だ。
問題はサムネイルだ。
設定の仕方は習ったし、作り方も礼ちゃんにご教授頂いたけれど、そんな偉大な先輩の教えを無に帰してなおお釣りがくるくらいに僕のセンスが絶望的だった。僕としては教えられたポイントを忠実に守っているつもりではあるのだけど、どうにも人に与える印象が僕の想定したものとは異なってしまっているようだ。
なのでもう礼ちゃんからは『配信内容に適した背景』の上に『ジン・ラース』を重ね『短い文章で説明』するだけでいいと言われてしまった。
お洒落とか目を惹くようなのとか奇を
教えてもらっておいて満足に結果を出せない不出来な兄で申し訳ない。でも、この方面だけはだめなんだ。そういった感性がおそらく死んでいるんだ。もしくは芸術的センスというものが最初から僕の中に搭載されていないんだ。
他の準備は瞬く間に終わったのにサムネイル作りだけで四苦八苦悪戦苦闘して頭を抱えていると、急にPCから音が鳴った。なんだろうと思ったら、礼ちゃんから画像ファイルが送られてきていた。
「お兄ちゃんっ! もう見た?!」
一旦サムネイル作りを休止して開こうとしたら、ファイルを開く前に僕の部屋の扉が開かれた。
「さっき送られてきたファイルの話だよね? 今確認しようとしてたところだよ」
「それなら一緒に見よっ!」
「え、何を送ったのか説明するわけじゃないんだ……」
「いいからはよっ!」
肩をぺしぺし叩かれながら急かされた。
礼ちゃんが浮かべる満面の笑みから察するに、おそらくサプライズ的な何かなのだろう。そうなれば僕はその指示に唯々諾々と従うほかない。
こんな場面で『ブラクラ作ってみたんだ!』みたいな冗談をぶち込む礼ちゃんではない。そう信じて画像を開いた。
「うっわあっ……っ!」
それは、イラストだった。感性が死んでいる僕でも理解できるくらいの、理解させられるくらいの傑出した画力と迫力だった。
磨き抜かれたエメラルドのような瞳を輝かせ、敵意剥き出しの笑顔でアサルトライフルを右手で掲げ、左の拳をおそらく敵がいるのだろう方向へ向けている
静止画でありながら、凄まじいまでの躍動感。殴りつけるような臨場感。溢れんばかりの熱量が迸っている。
二人の表情といい、服の皺や質感といい、とてつもなく精緻で美麗なのは言うまでもない。僕たちの性格や関係性をよく理解している構図。拡大してもなお
頬に伝う汗が、乱れた髪が、銃器に刻まれた擦過痕が、服のそこかしこに滲む血と汚れが、舞い上がる砂塵が。言葉なんて不要とばかりに、ここが血と泥と硝煙に塗れた退廃的な世界であることを如実に表現している。世界観に説得力を持たせている。
特筆すべきなのが、もはや神経質とすら言いたくなる色彩だ。レイラ・エンヴィもジン・ラースもお互いに衣装の基調が暗色で、風景は褐色がメインという、どう足掻いても華やかさなど表現のしようがないように思う。それでも地味な印象を抱かせないのは、雲の切れ間からスポットライトのように二人を照らす薄明光線であったり、戦場の中心で砂埃に揉まれても折れることなく咲き続ける緑と赤、二輪の小さな花だ。目線がレイラとジンの二人から、自然とそれらに移るのだ。色の比率で言えば明らかに黒色や灰色、褐色が多いはずなのに、なぜか鮮烈に網膜に焼き付く。目を
「すっ……ごいね、これ……」
言葉がない。僕の貧相な語彙では、この凄絶なイラストを表現しきれない。口惜しい、この一葉に相応しい賞賛の言葉を送れないことが、とてももどかしい。
「でしょでしょ?! やばいでしょっ?! っあーっ! ほんともうっ! もうっ! ここまでのイラスト描けなんて言ってないよ!」
礼ちゃんが僕の肩を掴んで前後左右にぐらぐらと揺らす。
礼ちゃんは随分と昂っているようだ。まあそれもそうだろう。
きっとこのイラストを見た時の反応は二つに一つ。インパクトに脳みそを揺らされて思考能力が飛ぶか、感情を揺さぶられてテンションが暴走するか、そのどちらかだ。
「ん……え? もしかして、昨日言ってた依頼してるのってこれのこと?」
礼ちゃんの発言を聞いて想起されるのは、昨日の夜に安生地さんとの話し合いで出た『信頼できる知り合いに仕事の依頼もしています』という言葉だ。あの時はVtuberレイラ・エンヴィとして知り合った、切り抜きなどをしてくれる人のあてがあるという意味なのかとも思ったけれど、話題の主流から逸れるので深くは考えていなかった。
「ううん。こっちは別件……というか、おまけなのかな? メインで頼んだものとは別に、手が空いてたら、できればでいいからサムネイルに使えそうなイラストとか描いて欲しいなっていう程度のつもりだったんだけどね。まさか昨日の今日で描き上げて送ってきてくれるなんて思ってなかったよ」
「信頼が置けて、絵が描ける礼ちゃんの知り合いと言うと、もしかして……」
僕と礼ちゃん、つまりは今、界隈において最低な意味で最高にホットなトピックであるジン・ラースとレイラ・エンヴィに関わってくれるような優しくて、礼ちゃんが明言するほどに絶大な信頼を寄せていて、その上で絵を描く技能を有するお人。
僕の頭の中には、たった一人しか浮かんでこない。
「そ! お兄ちゃんの想像通り、夢結にお願いしたんだよ! お願いした時の夢結、すっごいかっこよかったんだから。理由を説明して、依頼の内容も説明して、それでも躊躇いなく一言で受けてくれたんだよ。あまりにも迷いがなかったから私聞き返しちゃったんだよね。ほんとにいいの? って。そしたら夢結、なんて言ったと思う? 『困ってるんでしょ。なら手伝わせてよ』だって。夢結がちゃんとまともにかっこいいところなんて久しぶりだったよ! 危うく夢結ごときに泣かされるところだった!」
どうやら本当にサプライズにしたかったようで、これまで僕にはあえて黙っていたのだろう。明かしてもいいとなった途端に口が回ること回ること。
礼ちゃんは、夢結さんを心の底から信頼していて、心の底から大好きなのだ。口ぶりから、声色から、表情から、身振り手振りから、何から何までとてもわかりやすく全身でそれを証明していた。
夢結さんの言葉がとても深く心に沁み入ったのだろう。夢結さんのセリフは思い出す素振りすら見せずにすらすらと口から衝いて出ていたし、そのセリフを再現する時の礼ちゃんの声は震えていた。
辛いことばかりで苦しい時に、迷わず助けにきてくれる。
そんな友人想いな夢結さんの振る舞いに胸を打たれたのだろう。『夢結ごときに』なんて強がっているけれど、しっかりと目が潤んでいて目尻から涙がこぼれそうになっている。
礼ちゃんは高校で素晴らしい友人と──親友と、巡り会えたんだね。
在りし日の記憶が、僕の胸をちくりと刺す。古傷が疼くくらいに羨ましいけれど、素直に喜ばしい。
「夢結さんって本当にいい子だね。いい子だとは思っていたけれど僕の想像を超えてきたよ」
「うんっ! 私の数少ない自慢の一つだからね、あんなのでも!」
礼ちゃんは鼻を啜りながら胸を張った。性格的に本人の前では手放しで絶賛なんてできっこないだろうけれど、せめて僕の前でくらい強情にならずに褒めてあげればいいのに。そして後日、僕から夢結さんに伝えるのだ。そうすれば褒められて照れる夢結さんと、褒めていたことを知らされて怒りながら恥ずかしがる礼ちゃんが見られる。
「でも、夢結さん大変だったんじゃない? 今日も学校あったのに、昨日の今日でこれだけ凄いイラストを描くなんて」
僕が度肝を抜かれたのは、まさしくここなのだ。
礼ちゃんと僕がコラボ配信をしたのが昨日のこと。そしてFPSを予定していると予告したのは昨日の配信終了間際。そこから描き始めたのだとしたら、猶予は二十四時間もない。睡眠時間と学校の時間を引けば、どうやっても捻出できる時間は十時間に満たないだろう。
プライベートな時間を削ることになっただろうし、もしかしたら睡眠時間もイラストのほうに充てているかもしれない。いつ礼ちゃんが夢結さんに依頼を出したのかわからないけれど、このクオリティのイラストを描き上げるにはあまりにも時間が足りないのではないだろうか。
「大変だったとは思うよ。授業中も、まあそんなに珍しくないことではあるけどちょくちょく寝てたし、帰りの車の中ですら眠たそうにしてたし。ただ、夢結から連絡があったんだけど、妹ちゃん……寧音ちゃんも手伝ってくれたんだってさ。依頼のほうも二人でやってくれるみたい」
「そうなんだ、妹さんまで……配信の後お礼言わなくちゃね」
「通話掛けてあげて。きっと夢結のほうからはできないだろうから」
「うん、そうするよ。依頼料とかの話もしておかないといけないしね」
もともとお仕事の依頼をしていたようだけど、それに加えてこれほど秀逸なイラストまで描いてもらったのだ。
いくら友だちとはいえ、労働には報酬が支払われるのが自然な形だ。礼ちゃんからは言い辛いだろうし、僕からそういう話をしておいたほうがいいだろう。
と、思っていたのだけど、制止するように礼ちゃんが僕の肩に手を置いた。
「そのあたりは私が話しとくから、お兄ちゃんは夢結と寧音ちゃんにお礼を言うだけにしといてね?」
そう言いながら礼ちゃんは肩に置いた手に力を込めた。肩を揉むような力ではない。少々痛い。制止の仕方がちょっと野蛮では。
「で、でも……」
「私から夢結にお願いしたんだよ? 契約は私と夢結の間で交わされてるの。それなのにお兄ちゃんが間に入るのは訳わかんないよね?」
「……それは、たしかにそうだね……」
「うん、そうだよね。じゃ、そういうことで」
その主張はもっともだったし、なにより礼ちゃんは意固地でもある。今回は正当性が礼ちゃんにある以上、意見を翻させることは至難の技だ。
僕としては複雑な気持ちだけれど、礼ちゃんがそう言うのなら任せよう。
「それじゃあ、報酬の話は礼ちゃんにお願いするよ。僕はこのイラストに文字重ねてサムネイルに……このイラスト、サムネイル以外にも使っていいかな?」
「え? まあ、いいんじゃない? なにに使うの?」
そう言いながら、礼ちゃんは肩から手を離して僕にもたれるようにしなだれかかった。肩越しに腕を回される。僕の頭を抱えるような形だ。
「普段の配信の背景に使わせてもらおうかなって」
「ふふっ、そんなに気に入ったんだね。どんどん使ってあげてよ。夢結もきっと喜ぶし」
「それなら使わせてもらおうかな」
これだけの質の高いイラスト、一回の配信のサムネイルだけで役目を終えさせるのは勿体なさすぎる。なんならデスクトップの壁紙にも登録したい。
「私も背景のイラストに使おっかなあ。……あ、そろそろ私戻るね。そうだ! もう
「そうだね。僕はFPS配信は今回が初になるし、格好悪いところは見せられないしね」
「頼むよ、お兄ちゃん。私いっつも配信で、お兄ちゃんは私よりもFPS上手いんだよ、って言ってるんだからね! 私を嘘つきにしないでね!」
「なんでハードルを上げてきたの? 緊張してる人に対する声掛けじゃないよ?」
「緊張なんてしないでしょ、お兄ちゃんは。じゃ、向こうでね」
僕の頭を抱えるようなもたれかかる体勢から立ち上がり、頭を抱えたくなるような言葉を残して礼ちゃんは部屋を出ていく。
設定された高すぎるハードルをくぐったりしないように努力しよう。まずは、違うFPSゲームをやりすぎて狂ってしまったエイムの感覚を取り戻すところからだ。
「……頑張るか」
自分に言い聞かせるようにひとことこぼしながら、今日やるゲームを起動した。
次から別視点です。