サイコバグなお兄ちゃん、Vtuberになる。 作:にいるあらと
最初はおまけというか『一方その頃』みたいなやつのつもりでつらつら書いてて、前話の最後にくっつけようと思ってたんですけど長くなったので分けました。
「はぁ……よかった。とってもよかった」
「やっぱり寧音の推しは世界一かわいい」
イラストをなんとか無事に描き上げ、礼愛へ送ってからあたしと寧音は昨日と同じようにノートPCを二台置いてお兄さんと礼愛の配信を一緒に見ていた。
睡眠不足と疲労のダブルパンチで配信が始まる寸前まであたしも寧音もふらふらだったけれど、配信冒頭からお兄さんと礼愛の仲の良い掛け合いという睡魔を殴り殺すような右ストレートを受け、眠気なんて吹き飛んだ。
だというのに、二人は挨拶した後、だめ押しするようにイラストについて触れて感想を話してくれていた。
めちゃくちゃ褒めてくれて、感謝してくれていて、こちらのほうがありがとうございますという気持ちでいっぱいだった。もう眠気がどうとかってレベルじゃない、テンションが上がってばきばきに目が冴えた。寧音に至っては泣いていたくらいだ。二人して情緒が壊れている。
「寧音はちょこちょこゲームはするけど、みんなでやれるパーティゲームとかばっかりでFPSはやったことないんだよね。そういう配信もちゃんと観たことなくて詳しくないんだけど、なんだか強かったね、お兄さんもれー姉も」
「うん。あたしもよく知らないからどれくらいすごいのかわかんなかったけど、すごかった。礼愛もそうだけど、お兄さんはもっとすごかった。さすが礼愛の先生だわ」
「れー姉もお兄さんも、ゲームしてる時いつもとフインキ違っててよかったよね!」
「ほんとそれ! やっぱあそこだよね、一番よかったとこって言ったら!」
「そうだよね!? もうほんと寧音きゅんきゅんきちゃったもん!」
オタク同士、話しているうちに共鳴してどんどんテンションが上がっていく。配信を観ていた時の熱が冷めやらぬままに感想を言い合えるというのはとても楽しい。これもまた、同じ推しを持つ同志がいてこそだ。
どちらともなく名シーンを言い合う。似たもの同士だからなのか、姉妹だからなのか、口を開いたタイミングは同時だった。
「礼愛や少年少女さんに指示出す時の普段より鋭い言い方!」「お兄さんのいつもより幼い感じの笑い声と話し方!」
「…………」
「…………」
「はぁ? 寧音正気?」
「そっちこそちゃんと観て聴いてたの? 寝てたんじゃないの?」
盛り上がり最高潮からの急転直下。あたしたちの周りだけおそらく氷点下。
オタクだからこその共感があれば、その逆もまた然り。性癖に刺さったポイントの相違や解釈違いがあるのもオタクというもの。好きだからこそ、衝突する時に生まれるエネルギーも破格である。
「ふだん底抜けに優しいお兄さんが鋭くきつめに指示出してるのがギャップがあっていいんじゃないの。魅力ってそういうもんだから。それでいて余裕のない状態でも口汚くならないのがお兄さんのいいところなんだけどなぁ、お子様にはまだ早いかぁ、お子様だもんなぁ」
「いつも一歩前に出て守ってくれてるようなかっこよさも、引っ張っていってくれる頼りがいもある。そんな中、感情が昂った時に見せる無邪気な一面がはちゃめちゃにかわいいんだろうが。そういう不意に見せる天真爛漫なところに母性をくすぐられるんだよ。わかるか、マゾ豚が」
「なにが母性だ。乳もないくせに」
「ライン越えたなばかやろう」
「あ、やべ」
思わず言い返してしまったら、的確に地雷を踏み抜いてしまった。
オタク同士で諍いが発生してヒートアップしても大抵の場合は口喧嘩の域を超えることはないが、こいつの場合は違う。容易に、良心の呵責もなしに物理で攻めてくる。
そして実力行使になった場合、勝敗は大方やる前から決している。
手と手の掴み合いになり、体力と筋力に乏しいあたしが押し負け、床に押し倒され、頭突きされて決着だ。この間、三十秒も経っていない。スタミナとパワーの最大値があたしと寧音で違いすぎている。
「はっ。勝つことがわかりきった戦いというのは虚しいものだ……」
「お、おい……。どけ……どいて……重いから」
あたしのお腹に跨りながら、何か悟ったふうのことを言う寧音。
手を押さえつけられているせいで起き上がれない。振り払う腕力も、強引に起き上がる腹筋もない。三つも歳が下の貧相な体の妹と喧嘩して、力で負ける貧弱な体の自分が情けない。
「ゆー姉ほど重くないよ。この……こんな無駄肉をつけてないからねっ、寧音は!」
「いだだだだっ! 掴むな! ごめんて、悪かったってば!」
跨った体勢のまま、寧音はあたしの胸を鷲掴んだ。容赦がない。
「くそっ……勝者に与えられる唯一の戦果が敗北感なんてっ。この世界はどうかしてるよ……」
「あんただけだよ、どうかしてるのは」
「勝ったところでこの乳をもぎ取れるわけじゃない……虚しい」
「なんて恐ろしいことを考えてんだこいつ……」
「せっかくのいい気分が台なしだ……もう寝る。推しに夢で甘えてもらうんだ……推しを夢で甘やかすんだ……」
寧音はまだ寝てもいないのに寝言を吐きながらすくっと立ち上がると、幽鬼の如くふらふらと自分のベッドに歩いていく。
さすがに限界が来たのだろう。寧音は帰ってきてから着替えていなかった中学校の制服をぽいぽい脱ぎ散らかして、下着姿になったところで糸が切れたように倒れ込んで寝息を立て始めた。
推しの配信というドーピングがあったからここまで起きられていただけで、そもそも限界ではあったのだ。
お肌のケアやスタイルの維持に余念がない寧音は基本的に早寝早起きだが、昨日(日付的には今日だけれど)は筆が乗ってしまって結局夜中三時近くまでイラストを描いていた。そこから仮眠を取って登校し、友人からの誘いも断ってすぐに帰宅して続きに着手し、配信開始予定時間の三十分前に納得のできる出来にまで仕上げた。
寝不足だし、神経は擦り減らしたし、集中力も枯れ果てたし、体力は使い切った。最後の力を振り絞ってベッドで倒れただけ頑張ったほうと言える。
もしかしたら極度の眠気のせいで、姉を押し倒して胸を鷲掴みにするなどという狼藉を働いたのかもしれない。
いや、やっぱりそこはあんまり関係ない。寧音はシラフであんな感じだ。やる時はやる。
「はぁ……まったく」
ベッドに近づく。顔を覗き込むと、ものの見事に熟睡している。数秒ですやっすやだ。
そんな夢路に発つ寧音を見送りつつ、放り捨てられた制服に皺が残らないよう回収し、だらしない顔と格好で寝ている寧音に布団を被せておく。風邪をひくような気温ではないが、さすがにパジャマも着ていない肌着状態では冷えるかもしれない。
「ふぁ……はふ。
気持ちよさそうに布団にくるまっている寧音を見ていると、あたしまで眠気がぶり返してきた。
部屋を出て、あくびを堪えながらキッチンへ向かう。シャワーも浴びたいけれど、脳みそが睡眠を求めている。動くのも億劫だ。気分転換に何か飲もう。
冷蔵庫から姉が箱で購入しているエナジードリンクを一本拝借した。
「んー……」
独特の味がするそれを飲みながら、礼愛に頼まれている手描き切り抜きの件を考える。参考にするため、スマホで動画共有プラットフォーム内で投稿されている手描き切り抜きを見てみた。
見た感じ、配信内の印象的なシーンや面白かったシーンの音声だけを切り取って、配信画面の代わりに絵にする、といった印象だ。描く枚数は多そうではあるが、デフォルメ化したり、最初に手間はかかるけどソフトを使って各部をレイヤー分けして動いているように見せたりすれば省力化を図れるかもしれない。
動画の尺や、どこを切り抜くとか、具体的な部分は何も進んでいない。そのあたりは礼愛と相談しないといけないけれど、プレッシャーがあると同時に楽しみにもなっていた。
結局は配信者をイラストに落とし込むだけで、大筋は切り抜き動画とほぼ同じものだ。ファンが自分の推しを布教するためにやっているような感覚なのだろう。
であるなら、もっと単純に考えてしまっていいかもしれない。配信を観ていて自分がどのシーンが面白いと感じたか、格好いいと感じたか。基準はそこでいい。
「それならやっぱり指示……オーダー、っていうんだっけか。オーダーを出してた格好いいところを……」
今日のお兄さんと礼愛の配信を思い返す。
ぱっと頭に浮かんできたものだけでもいくつもある。的確に指示を飛ばすあのシーンはかっこよかったしなぁ、敵をパカスカ撃ち抜くところもかっこよかったし、寧音が言っていたあのシーンは確かにいつものお兄さんなら見せない少年っぽさがあってかわいかった。
しかしこうなってくると際限がなくなってしまう。涙を呑んで、イラスト化するシーンは選ばないと。
考えれば考えるほどに、推しのかっこいいところやかわいいところを自分の絵で自分のやりたいように表現できるというのは得だ。しかもその活動を推しが認知していて、その上推し本人から期待されて応援までされているというのは幸せでしかない。望外の喜びだ。絵描き冥利に尽きる。
これまではプレッシャーと楽しみな気持ちが半々だったけれど、今は楽しみなほうへと天秤は傾いている。
それはやはり、今日実際にお兄さんが配信のサムネにも使ってくれて、わざわざ時間を割いてイラストについて紹介までしてくれて、たくさん褒めてくれたからだろう。その成功体験が、あたしの手を引いて背中を押してくれる。気持ちを前のめりにさせてくれる。
ただ一つ気掛かりなことが残っている。
「礼愛なら絶対渡そうとしてくるよなぁ……」
この件が『依頼』という点だ。
礼愛はあえて依頼という言葉を使った。それはつまり、あたしをイラストレーターだと見做して仕事を発注したということになる。イラストレーターの商品である絵を納品したら、対価として報酬が支払われることになるのだろう。
個人的には、遊びに行った時にご飯でも奢ってもらおう、くらいの気持ちだったが相手はあの礼愛だ。筋を通そうとするだろう。頑固で律儀な礼愛がわざわざ『依頼』と口にしたのだ。そのあたりを曖昧にする女ではない。あたしが固辞したところで、礼愛なら力づくで押しつけてくるのが目に見えている。
どうすれば
あたしは礼愛から報酬を頂いて、お兄さんの配信であたしがスパチャして、お兄さんはそのお金を礼愛のお世話に使う。
おお、なんと素晴らしいサイクルだろう。みんながすっきりできる最善の解決策だ。礼愛に金銭面の話をされたらこれでいこう。
そんなことを考えながら、ちびちびとエナジードリンクを飲んでいる時だった。
「うおっ……びっくりした。……すごいタイミングだ」
ヴヴヴ、とスマホが振動した。なんともタイムリーなことに、礼愛から着信が入っていた。
「はいはい、どしたん」
『お、まだ起きてた。よかった』
「うん、ぎりぎりでね。もうシャワーも浴びずに寝そうなくらい眠たかったから、今は眠気覚ましに姉のエナジードリンク勝手に飲んでる」
『はは、怒られるんじゃない?』
「いいのいいの。また冷蔵庫に補充しとけば気づかんから。何本残ってるとか、そんなの気にするような姉じゃないからね」
『勝手に飲んどいてここまで悪びれないのもすごいや。そうだ、夢結のせいで忘れるところだった。イラスト、ほんとありがとね。めっちゃよかったよ!』
「忘れそうになるのをあたしのせいにしようとすんな。……んー、まぁ……どういたしまして。配信でもすごく褒めてくれてて、こっちもすごく嬉しかった。なんなら寧音なんか感極まって泣いてたからね」
『あははっ、なんで描いてくれた側が泣いてんの。貰った側が泣くならわかるけど』
「オタクってそういうもんなのよ。推しが楽しそうにしてるだけで嬉しいし、推しにプレゼントできるだけで満足なんだから。なのに推しに認知されて、自分に向けられて感謝なんかされたらもう、幸せすぎてキャパオーバーで泣くよそりゃあ」
『そのオタクの生態系についての情報は一般的なものなのかなあ?』
「そうだよ。少なくともあたしの知ってるオタクの七十五パーセントはそんな感じの感性だから、一般的と言ってもいいね」
ちなみにその統計のオタクは、あたし、寧音、きー姉、礼愛の四人を参考にしており、礼愛を除いた三人はあたしが言ったような感性をしているので、この統計は間違っていない。不備も不正もない。
『でも、そっか……寧音ちゃんもがんばってくれたんだ。寧音ちゃんは今何してる? 代われる?』
「ごめん、寧音のやつ、配信終わってすぐに寝ちゃった」
『あー……それもそうだよね。一日足らずであれだけ力入ったイラスト描こうと思ったら、睡眠時間削るしかないもんね……。学校もあったんだし』
「いやもう、ぜんぜん気にしなくていいよ。描いてるうちに興奮して寝付けなかっただけなんだから、あいつ」
『そう言ってもらえると助かるよ。罪悪感も途端になくなったし』
そんな軽口を叩きつつも、若干声が沈んでいる。
寧音に負担をかけてしまったことを気に病んでいて、でも自分が落ち込んでいるのは頑張った寧音の本望ではないと理解しているから、明るく振る舞おうとしているのだろう。
気づかれないように礼愛が振る舞うのなら、あたしはその意を汲むだけだ。
この話を寧音に聞かれていたら、あたしの言い方については怒るかもしれないけど、あたしの意図については怒りはしないはずだ。姉以外には優しいやつだから。
「ちょっと鬼気迫ってて怖かったくらいなんだから気にしてやる必要はないね。まぁ、どっかで寧音と話すタイミングがあったら、その時にでもイラストの感想言ってあげてよ。それだけできっと飛び跳ねるくらい喜ぶだろうから」
『……うん、ありがとね。そうだ、夢結明日時間ある? イラストとか手描き切り抜きのことで、詳しく話を詰めておきたいんだけど』
「おっけ。いいよ」
『できれば寧音ちゃんとも話したいんだけど……寧音ちゃんは忙しいかなあ?』
「あたしは暇みたいな言い方すんな暇だけど。寧音は休みの日は学校の子たちと遊んでることが多いから、保証はできないかな。一応伝えてはみるけど」
『ありがとー。よろしくね』
「そんじゃ、これでもう用件は全部? 切っていい? ねみぃんだ」
『え、ちょ、ちょっと待って!』
「えー。……あたし、この通話が終わったらすぐにシャワー浴びて布団にくるまって昼まで寝るんだ……」
礼愛と話しているうちに飲み切ってしまっていたエナドリは、今ひとつ効能を発揮してくれなかったようだ。ちょこっと眠気が治まったような、気のせいなような、そんな程度だ。
とりあえず浴室で寝落ちしないくらいに時間を稼げそうならそれでいい。今すぐお風呂に向かえば間に合うはずだ。
『だったら通話切らないで! 終わったら好きなだけ布団浴びてシャワーにくるまって寝ててもいいから、ちょっとだけ待って! サプライズが……』
「布団浴びてシャワーにくるまるって、どんな寝方だ。今のコンディションでも寝れんわ」
どうやら言語野に支障が出るくらい慌てているようだ。後半はばたばたがさごそと、物音が聞こえてきた。サプライズを用意していることを事前に伝えるような斬新なサプライズが、この世に存在していいのか。
でも待てと言われたので待つ。どちらかというと猫のほうが好きだけれど、あたしの性格は犬寄り。
「ねー、礼愛ー、時間かかるようならもう脱いでていいかなー?」
『風邪ひいちゃうんじゃないかって心配して喋れなくなっちゃうから、脱ぐのはもうちょっと待ってもらってもいいかな?』
「なんあなあじあぁ」
『ゆ、夢結さん? 大丈夫?』
あたしのスマホから、お兄さんの声がした。取り乱しつつもどうにか冷静に返事はできた。危なかった。
やるじゃん、礼愛。たしかにこれはサプライズだ。紛うことなきサプライズプレゼントだ。事前に聞かされていたのにしっかり驚かされた。ありがとう、今日はきっといい夢を見れる。
時折メッセージのやり取りはしていたけれど、こうして通話するのは初めてなのだ。すぐ耳元から聞こえるお兄さんの声というのは、なかなかどうして幸せなものである。もしかして夢なのか。であれば覚めなくていい。いい夢を見てる。
「こっこ、こ、こ……」
『こっこ? 国庫?』
「こ……こんばんは」
『ふふっ、うん。あははっ。こんばんは、夢結さん。仁義です』
やっばい。囁くようなトーンで、くすくす笑うお兄さんの声。こんな破壊力のある『こんばんは』なんてあたし知らないよ。だめだめ、えっちすぎるこんなの。耳が孕む。耳が妊娠したらお兄さん認知してくれるかな。
「あ、あの、あの……配信、すごくおもしろかったです」
『見てくれたんだね。ありがとう。配信に慣れてる礼ちゃんや、センスのいいチャットを打つ少年少女さんがいてくれたおかげで笑いの絶えない配信になって、僕もすごく楽しかったんだ。その楽しさを、配信を観てくれていた夢結さんにもお届けできてよかったよ』
あたしからの賞賛を受け取りつつも、お兄さんは謙遜を忘れない。自分の力だけで良い配信ができたなんていう傲慢な考えを微塵も持たない慎み深いお兄さんの姿勢が尊い。
「お兄さん、とてもゲームうまくて……か、かっこよかった、です……」
『礼ちゃん曰く、今日は僕が格好いいところを見せなきゃいけない日だったらしいからね。そう言ってもらえて安心したよ、ありがとう』
「そ、そんな……とんでもないです」
夜に、お兄さんと一対一で通話。なんか、とても、とてもいい。すごい。
どれだけすごいかって言うと、スマホを持つ手が震えるのだ。スマホを通してお兄さんにあたしの心臓がばくばくと高鳴っている音を聞かれてしまうんじゃないかってくらい、心臓がうるさい。息を荒らげそうになるが、それは命に換えても、呼吸を止めてでも我慢する。通話で『はぁはぁ……』とか聞こえてきたら、あたしならどん引きとともに通話を切ってブロックするからだ。
短く見積もってもあと半年はする機会のなかっただろう通話を今、あたしはしている。もしかしたら顔が見えなかったら緊張五十パーセントカットくらいになるんじゃないか、などと楽天的に考えたこともあったけど、顔が見えない代わりに声が近いので結局緊張感は変わらなかった。
なんだ、なんなんだ、これは。もう何もわからない。頭の中がパニックでわけがわからなくなってる。真っ白だ。緊張の波で頭の中が洗い流されている。
サプライズがあることだけは教えてくれたけど、そこまで教えてくれるならお兄さんに代わることも事前に教えておいてくれ。三日前くらいから言っといてもらえればあたしもどうにかできる気がする。こんな急にサプライズされても、あたしは覚悟とか決心とか、心と体と話題の準備とかできないよ。
礼愛はどうしてこんなことしたんだろう。配信前に送ったイラストのお礼だろうか。
だったら毎日描いて毎日お兄さんと夜通話する。寝落ちするまで通話したい。翌朝あたしは息を引き取っているかもしれないけれど、ぜんぜん成仏できる。
ああ、でもあたしは毎日あのクオリティのイラストを描けるような腕を持っていない。もっと絵の勉強や練習をしておけばよかった。後悔先に立たずってこの状況のことを表していたのか。こんな
『そうだ。イラスト、とても嬉しかったよ。配信でも少し触れたけど、こればっかりは直接お礼を言いたいと思ってたんだ。細かいところまで丁寧に描き込まれていて、僕と礼ちゃんの性格や関係を的確に表現した素晴らしいイラストを描いてくれて、ありがとう。見ていて引き込まれるような絵だった。心を震わせる一枚だった。とても感動したんだ。僕の宝物になったよ。本当に、ありがとう』
どうしよう、あたし死ぬかもしれん。
嬉しすぎて頭真っ白どころではない。視界がぱちぱちと明滅してきた。地に足がつかない感覚に襲われている。
嬉しいと幸せを一気に摂取しすぎて、頭はちかちか、体はふわふわしている。幸福許容量を超過して、脳みそが耐えられなくなったのかもしれない。やっぱりあたし死ぬかもしれん。
それでも、それでも一つだけ。あたしがここで尊死する前にお兄さんに伝えておかなければいけないことがある。
「……だとしたら、宝物たくさん増えますね」
『え?』
「だって、これからずっと贈り続けますから」
これは、何があってもずっと応援し続けるという誓いだ。お兄さん本人に直接言ったのは、あたしの決意の表れだ。
まだあたし一人では、どれだけ時間と手間をかけたところであのイラストには届かない。寧音がいたから今日の配信に間に合った。でもあたしと寧音だけでは、どうやっても届き得ないレベルだった。
きー姉がいたから全体のクオリティが底上げされたのだ。
繊細に、神経質なほど、妄執的なほどに描き込まれ、至る所に訴えたいメッセージが散りばめられていた。それだけでもあたしならどれだけ時間を要するかわからないのに、きー姉はそれに加えてあたしたちにアドバイスまでしてくれた。
途方もなく遠いのだ、きー姉のいる舞台は。果てしなく遠い。気が遠くなるような険しい道のりだ。
でも、その道のりに一歩踏み出す誓いをあたしは今、ここに立てた。
血の滲むような努力をしないといけない、絵についてこれまで以上に勉強もしないといけない。
それでも、やると決めた。
あたしは礼愛みたいに一緒に配信して支えるような方法は取れない。だからあたしは、あたしのできる方法でお兄さんを応援する。お兄さんの配信を彩る一枚を生み出すことで応援する。
なんていうのは半分くらい、綺麗に飾りつけただけの建前だ。
あたしが頑張りたいと思った理由は、もっと単純なのだ。単純で、不純で、独善的な欲だ。
あたしは、お兄さんから貰った言葉が嬉しかっただけなのだ。『感動した』『宝物になった』『ありがとう』そう言ってもらえて、心の底から嬉しかった。あたしの根源はそれだけだ。
いずれは、自分の力だけでお兄さんの心を震わせるような絵を描きたいなんて、そんな身の程知らずな願いを抱いてしまった。
なに、あたしも馬鹿ではない。自分の腕に自信が持てない間は寧音と協力してきー姉のレベルを目指す。イラストの勉強については、身近にトップクラスのイラストレーターがいるのだから、そこから学ぶとしよう。きー姉は優しいので、極限まで忙しいという状況でもなければ、いつでも教えてくれる。
『……あ、ありがとう。なんて言ったら、伝わるかわからないけど……すごく嬉しい』
お兄さんにしては珍しいことに、しどろもどろというか、ところどころ言葉に詰まっていた。それにどこかくぐもったような音声だ。
もしかして引いてるとかいやそんなことは絶対ない。きっと照れてるんだ。そうに違いない。お兄さんかわいいなぁ。
「よかった。結構です、なんて言われたらどうしようかと思いました」
『そんなこと言うわけないでしょ……。すごく嬉しいけど、あんまり無理しないでね? 今日のイラストだって、時間なんてなかったはずなのにあんなに……』
「もー、礼愛もそうだったんですけど、お兄さんも気にしすぎです。徹夜とかはしてないんで安心してください」
『それなら、まあ……。あー、えっと……そうだ。一つ聞きたいことがあったんだった』
お兄さんもあたしと同じように通話するのは不慣れなのかな。口籠った様子のお兄さんに違和感を抱きつつ、答える。
「はい、なんですか?」
『イラストで礼ちゃんはアサルトライフル、僕はピストルを握ってたよね。イラストを描いてもらえたのが嬉しくて配信中も使う銃はピストルにしたけど、どうしてピストルにしたのかなって思ってて』
「えっと……もう礼愛から聞いてるかもしれないですけど、実はあのイラスト、あたし一人で描いたわけじゃないんです。今日配信中に紹介してもらった『ゆきね』は基本、あたしとあたしの妹の寧音でやっていくつもりで……」
『うん。礼ちゃんから聞いてるよ。夢結さんと、夢結さんの妹さんも手伝ってくれることになったって。そのことについてもちゃんとお礼言ってなかったね。ありがとう、夢結さん』
「い、いえ、そんな……あたしもやりたいと思ったから礼愛の誘いを受けたんで……。それで、あのイラストは手分けして描いたんです。レイラ・エンヴィはあたしが、ジン・ラースのほうは妹が描きました。鉄砲について詳しくないので姉から借りた資料を見てたんですけど、なんだかあたしのイメージで、礼愛は細い体でごつい鉄砲振り回して暴れてそうだなって思って、アサルトライフル……でしたか? それにしたんです」
『あははっ、そうだね。さすが夢結さん。仲良しなだけあるね。わりと礼ちゃんは前に出るプレイスタイルだ。ふふっ……暴れっ……』
あたしの人物評が可笑しかったのか、お兄さんは楽しそうに笑っていた。よくわからんが、推しの笑顔をあたしが作れたのだと思うと誇らしい。
「寧音の、妹のほうを見たら、ほとんど迷いなく拳銃にしてました。あたしも不思議だったので妹に聞いてみたら『映画の主人公みたいに拳銃でスマートに敵を倒しそうだから』って言ってましたよ」
『おわあ……』
「ふふっ、『おわあ』ってなんですか『おわあ』って。くふふっ」
『笑わないでよ……思わず出ちゃったんだから。んー……そうだね、そのイメージを壊さないように頑張るよ、ピストル持って』
「あははっ! この話、妹にはしばらく秘密にしておきますね。そのほうがおもしろそう」
『くすっ、僕にとってもそのほうがいいかも。これでスマートに勝てなかったら気まずいから。そうだ、今妹さんいらっしゃるかな? できたら妹さんにもお礼が言いたいんだけど』
「あー……あはは。礼愛も同じこと聞いてきましたよ」
『礼ちゃんも?』
「ええ。兄妹で考えること同じなんですね。……えっと、家にはいて、お兄さんと礼愛の配信もしっかり観させてもらったんですけど、昨日寝るのが遅かったので終わったらすぐに寝ちゃったんです」
礼愛の轍を踏んだのに、お兄さんとのお喋りが楽しすぎて失念していた。
ここまで失言してようやく、あたしは思い至る。心優しいお兄さんであればきっと、寧音が寝不足になったのはイラストを描いていたからだ、なんて考えてしまう。
『寝るのが遅く……あ。……そうか』
「……だ、大丈夫ですよ? 勝手に興奮して寝付けなかっただけなんで。心配しなくてもぜーんぜんおーけーですから」
『どこかで無理しないと、一日足らずで仕上げるなんてできないもんね。ごめん……いや、謝るのはかえって失礼だね。本当にありがとう。夢結さんもきっと疲れてる、よね?』
「あ゛っ゛……」
まずい。大変まずいことになる。
ここで選択肢を誤れば、あたしの命が危険に晒される可能性がある。
明日あたり、このことを寧音に報告したらどうなるか。
お兄さんと通話したよ。すっごく褒められたよ。あんたにも感謝してるって言ってたよ。お兄さんは直接お礼言おうとしてたけどあんた寝てたから気を使って控えてたよ。感謝を伝えておいてくれって言われたよ。
ちょっと想像して確信する。
うむ、何されるかわからない。
まず間違いなく、なんでその時通話を代わってくれなかったんだって騒ぐだろう。
いや、騒ぐだけならまだマシなほうかもしれない。最悪、鬼気迫る寧音に背後から刺されかねない。あたしに危機が迫っている。
結論。叩き起こしたほうがいい。
『夢結さんもたくさん頑張ってくれていただろうし……今日はもう』
「お兄さんちょっと待っててもらっていいですか?! すぐ、すぐに! 行ってきますので!」
『え? ちょ、ちょっと、夢結さん? もう妹さん休んでらっしゃるんだよね? それなら今日は……』
「いえ! 大丈夫です! お兄さんに代わる時は起きてますから!」
『いやそれ、寝てるところを無理やり起こしてるんじゃ……夢結さん?』
あたしは後からどれだけ寧音に怒られようと叩き起こさなければいけない。
ここでお兄さんとの通話が切れてしまったら、あたしから掛け直すなんて恐れ多いことはできない。そうなってしまえばもう取り返しがつかない。明日寧音はキレて、結果あたしは事切れる。
まだ死ねないんだ。死にたくない理由ができたんだ。人生を懸けて応援すべき神推しが見つかって、推しの活動も華々しい活躍もこれからというところで無駄死になんてできない。あたしの命はもう安くないのだ。
お兄さんが切ってしまわないように一気に捲し立てて、ちょっと待っていてもらえるようお願いする。部屋へと向かう途中でスマホからかすかにお兄さんの声が聞こえるが、唇を噛んでそれには取り合わないこととする。お兄さんが何を言っているかはわからないが、お兄さんのことなのできっと無理に起こす必要はない的なことを言っているのだろう。
優しいからなぁ、お兄さんは。
でも寧音は優しくないんだ。今寧音を寝かしたままにすると、明日あたしが永眠することになる。
勢いよく扉を開け放ち、部屋に飛び込んで、寧音のベッドに駆け寄った。
「すぅ、すぅ……ぇへ、ふふ」
「寝てても気持ち悪いなんて天性の才能だな……おい、起きろ寧音」
どうやら寧音は幸せな夢を見ているようだ。これだけあたしがどたばたして入ってきたのにもかかわらず、夢の世界から帰ってくることはなかった。
寧音がどれだけ幸せな夢を見ていようが、そんなことはあたしには関係ない。情け容赦なく寧音を叩き起こす。夢の中よりももっと幸せな世界が現実にあることを教えてやろう。
がくがくと揺さぶって耳元で声をかけ続けると、寧音の意識が浮上してきた。
「んぁ……。んんっ……な、なに……ぇ?」
「起きろ」
「……なに? なにっ? なにっ?! きっとたぶんおそらく幸せな夢を見てた気がするのにっ!」
起きて数秒で怒鳴れるくらいにエンジンがかかるのはシンプルにすごいな。レーシングカーばりのロケットスタートだ。都合がいい。
画面を見て、まだ通話が繋がっていることを確認する。よかった、お兄さんはまだ愛想を尽かしてはいないようだ。
「今代わりますね! はい、寧音」
眉根を寄せて怪訝な、というか不機嫌な顔の寧音にスマホを押しつける。よし、これであたしのミッションは完了だ。できた姉を持ったことを寧音には感謝してほしいね。
「なに……ほんとになんなの……。寝起きドッキリ? それならもう少しリアクション取れるコンディションの時にやってくんないかな……。はい。こちら叩き起こされた寧音。そちらどなたですか?」
まともなコンディションの時なら寝起きドッキリしてもいいのかよ。この妹、意外と懐が深い。
しかし、かなり正鵠を射た発言だな。この状況は寝起きドッキリみたいなものだ。
うるさいあたしに辟易した寧音は、非常にうんざりした顔をして寝転がりながらスマホを耳に近づけた。
気持ちよく寝ていたのに起こされたプラスそもそも寝不足プラス姉がうるさいという負の相乗効果によって、寧音のテンションと声はふだんとは比べるべくもないほど低くなっていた。大変不機嫌だった。
「……はい、初めまして。ええ、はい。え? ぁえ? …………ぇ゜?」
もちろんあたしにはお兄さんの声は聞こえない。どんな話をしているかわからないけれど、寧音のリアクションでどんな内容かはだいたいわかる。
礼儀正しいお兄さんは通話の相手が寧音に代わったことに気づいて、初めて話す寧音に自己紹介したのだろう。
そこで寧音は通話の相手が推しであることに気づいた。奇声を発して、たっぷり十秒近く黙って、そして寧音は飛び起きた。寝転がりながら話していい相手ではないと、もはや本能で理解したのだ。
勢いよく体を起こせば、もちろんかけていた布団はめくれる。下着姿で寝ていた寧音はどういう思考回路を辿ったのか、なぜか体を隠すように布団を手繰り寄せた。別にこれ、ビデオ通話じゃないけどね。
「あ、あのっ、あのっ……ちがくて! ゆー姉が、いきなりわた、渡してきて! ぁ、ぁ……応援してます!」
これ以上ないくらい
いつまでも見ていたくなる光景だったけれど、あたしが経緯を伝えてしまっていたのでお兄さんは気を使ったのか、短めに寧音との会話を切り上げた。
最後に、寧音がこくこく頷きながら『おやすみなさい』と呟いていた。
寧音が寝起きなことはわかっていたから、お兄さんは別れ際におやすみなさいとでも言ってくれたのだろう。なんて気高いサービス精神だ。でも常識的に考えてそんなこと言われたらテンション上がって逆に寝れなくなるよね。
「…………」
虚ろな目をした寧音があたしを見ることもなくスマホを返してくる。焦点がどこに合わせられているのかわからないし、なんならスマホを乗せた手が向けられている方向もあたしから若干ずれている。茫然自失とはこのことだな。
「はい、代わりました。夢結です」
『あ、夢結さん……あの、あとで寧音さんが落ち着いたら、お休みのところを邪魔してしまってすいませんでしたと伝えてもらってもいいかな? ……寝起きで混乱していたみたいだから……』
「わかりました、言っときますね。寧音には言いたいことは言えましたか?」
『んー……ちゃんと伝わったかどうかはわからないけど、一応は。……夢結さんも寧音さんと同じように睡眠不足だろうから、そろそろ休んでね』
「うっ……。はい……」
いつまでもお話していたい、なんならあたしがベッドに入って寝るまでずっと通話繋いでいてほしいけど、さすがにそこまで厚かましくはなれない。あたしにだって乙女らしい恥じらいというものがある。
『……今日はありがとうね、夢結さん。イラスト、本当に嬉しかった』
「え? ああわわ、いや……あたし一人で描いたものじゃないんで、そんな……」
『手描き切り抜きのこともお礼を言いたかったんだ。忙しいだろうに引き受けてくれて、とても感謝してる。ただ、ありがたいけど無理だけはしないでね。投稿のペースなんて、本当に夢結さんと寧音さんのご都合に合わせてくれたらいいんだから、だから、えっと……体調を崩すような無理はしないでほしいっていう……そういう、そういう話でした。……おかしいな、なんだか話が纏まらない』
なんだ、急にどうしたんだお兄さん。いつも超然として余裕のある大人な立ち居振る舞いをするお兄さんが急にそんなふうに動揺しちゃうと、こっちまでどぎまぎしてしまう。
え、もしかして意識されてんのかあたし。気があるのか、脈ありかこれは。
いつの間にか落ち着いていた心臓が思い出したように高鳴り始める。
落ち着けあたし、どうせいつもの勘違いだ、落ち着け、ステイ。きっとお兄さんは配信終わりで舌が回らないだけなのだ。それに配信中は礼愛と少年少女さんにずっと指示を出していたし、頭も疲れていることだろう。話の内容がまとまらないのも仕方ない。
危なかった。自分に都合のいいように受け取って、また黒歴史を生み出すところだった。
「いえ……いえっ! き、気持ちは、すごく伝わりました! が、がんばります! 期待に応えられるように! もちろん無理しない範囲で!」
さっきのお兄さんの言葉はあくまでお礼と感謝であり、激励だ。心配してくれているのだ。あたしはお兄さんの言葉を胸に刻んで戒めとしなければならない。応援のつもりでお兄さんの心の負担になるような無様な真似だけはしてはいけない。推しに迷惑をかけるような奴はオタクにあらず。
『うん、そう言ってもらえると安心できるよ。睡眠不足で疲れている時にこんなに長々と時間を取らせてしまってごめんね。じゃあ、今夜はゆっくり休んでね。おやすみ、夢結さん』
「い、いえっ、お話できて嬉しかったです。おやしゅみ……おやすみなさい、お兄さん」
お兄さんが切るまで、スマホを耳に当て続ける女の彫像と化していた。通話が切れたことを確認してから、スマホをもつ手を下げる。
なるほどな、あたしに代わる時に寧音が茫然自失としていた理由をこの身で体感した。これはすごい。
なんだか今、とても胸がぽかぽかする。ぽかぽかでは明らかに表現不足な熱量があたしの心臓に宿っているけど、他の言葉では情緒に欠けるので変えるつもりはない。とてもぽかぽかする。
破壊力がすごい。おやすみプラスアルファで名前を呼ばれて、それに自分も返す。お互い言い合って通話が終わるのって、とても人生の幸福度が上がる。
「ちょ、ちょっとゆー姉! なんてことしてくれたんだ!」
あたしが感慨に耽りつつ幸せの形とは何かを考察していると、いつの間にか体に魂が帰ってきていた寧音に胸ぐらを掴まれた。
ずいぶんと乱暴な口調だ。どうやら寧音はたいへん混乱しているらしい。
「なによ? なにをそんなに怒ることがあるの? 人生はこんなに光で満ち溢れているというのに……」
「一人で勝手にトリップしてんじゃねぇよ!」
そこからはまさに独り舞台だった。あたしが口を開かなくても一人で勝手に喋っていた。相槌を入れる隙間すらない。
せめて通話の相手が誰か言ってから代われ、推しにとんでもなく失礼な口利いてしまっただろ、寝起きでぜんぜん頭回ってなかった、ちゃんと敬語使えてたか自信ない、生意気なこと口走ったかもしれん、最悪だ何話したか覚えとらん、などと感情を爆発させている寧音はノンストップで愚痴を叫び続けた。
「はぁっ、はぁっ……」
文句を吐き出すだけ吐き出して、寧音はようやく落ち着いてきた。息を切らすほど文句言うことなんてそうそうないぞ。起きたばかりなのに元気なやつだ。
「満足したか、寧音? 満足したなら、私になにかいうことがあるんじゃないかね?」
「ゆーねえ、っく、ぐすっ……あいがとぉ。いま……ねね、めっちゃしああせぇっ……」
頃合いを見計らってあたしが訊ねたら、あれだけ怒鳴り散らしていた寧音が今度は急に泣き出した。声を震わせ、肩を震わせ、ぽろっぽろと大粒の涙を落としていた。
怒っていたかと思えばもう泣いている。感情の振れ幅がとんでもないことになっている。心が揺れ動きすぎて壊れてしまったのかもしれない。
どれだけ控えめな表現を使ってもどん引きだけど、同じオタクとして、そして同じ体験をした者として共感はできる。肩を叩いて肯定する。
わかるよ、わかる。オタクの繊細なガラスハートを綺麗な笑顔で容赦なく殴りつけられたんだ。幸せって感情が止め処なく溢れるよな。うん、わかるよ。そもそも通話っていうコミュニケーション手段が悪かった。あのお兄さんの声をすぐ耳元に感じられるツールに問題があるよな。脳みそくすぐられるような気持ちになるよな。わかるよ、わかってるさ。
「どうだ? 落ち着いたか?」
「ぐすっ、ひっく……うん、落ち着いた」
愚痴を吐いていた時間の倍くらいの時間泣き続けて、ようやく寧音は平静を取り戻した。
やはり寧音を叩き起こすというあたしの判断は正解だったようだ。泣くほど喜ぶのなら、その機会を失ったと知れば、どれほど絶望に打ち拉がれることになるかわかったものではない。絶望が憎悪に変換されてあたしに向けられる可能性があったのだ。適切なリスクマネジメントができたといえるだろう。
「落ち着いたんなら伝えるけど、お休みのところを邪魔してしまってすいませんでした、ってお兄さんが言ってたよ」
「待って。やめて。泣く」
「なんでだよ。まだ涙残ってんの? 出し切ったでしょ」
「ああぁぁ……寧音の推しやさしすぎぃ……。生意気なことぜったい言ってたはずなのに、なんでこんなに寧音のこと気にかけてくれるの……。あ……好きって伝えるの忘れてた……」
「忘れてて正解だわ。お兄さんを困らせんな。会ったこともない初めて話す女から好きとか言われても対処に困るだろ」
「そんなことないね。きっと受け止めてくれる。……っし。さて、やるか」
目元を手で拭って、充血した瞳をぱちっとさせた寧音は気力を
「ん? は? 寝直すんじゃないの?」
「こっちこそ、は? だよ。お兄さんの通話で眠気も血の気も吹き飛んだ。そのぶんやる気に満ちてるんだよ寧音は。あれだけ期待してもらっておいて今動かないとか……そんなのは悪だね」
あれだけ期待されているんだ。あれだけ激励してもらったんだ。動かずにはいられない気持ちはわかる。自分のやれることに全力で取り組みたくなる気持ちは痛いほど理解できる。
あたしもまったく同じ感情を抱いているけれど、それは許されない。
「だめ。今日は寝ろ。明日やれ」
「うるさい黙れ。寧音はやる。ゆー姉は寝てればいいじゃん。描く音で寝れなくなるようなデリケートな神経はしてないでしょ」
「お兄さんが心配する。だからだめ。あんたに言ってたかはわからんけど、今回のイラスト描くのにあたしたちが遅くまで起きてたことにも、お兄さんは罪悪感を持ってた。生活に支障来したり、体壊したりしたら、それはきっと何よりもお兄さんの負担になる」
「うぎぎぎっ……。で、でもっ、きー姉のお手伝いしてる時とか徹夜はあたりまえみたいな感じだったしっ!」
他所からもらった仕事はすぐに片付けるくせに、なぜか同人誌の執筆はむらっ気があるというかスケジュールの管理ができないというか、雑な姉なのだ。締切ぎりぎりまでためることを同人作家の様式美だとでも思っているのか。せめてあたしたちに分配するぶんの作業は先に回しておいてほしいところだ。おかげで佳境に差し掛かってくると生活習慣がまともな寧音でさえ徹夜になるし、あたしくらいになると二徹三徹まで見えてくる。
そんなあえて経験はしたくなかった経験を積んでいるので夜通し描いたりするのは慣れているのだけれど、それとこれとは別の話だ。
「関係ない。お兄さんが心を痛めるかもしれない。推しを曇らせるなんてオタクのすることじゃない。納期を遅らせてでも、あたしたちの体調を優先してくれるのがお兄さんだ。これで無理してどうにかなってみろ。お兄さんはとても心配して悲しむことになる。最悪の場合、慈悲深いお兄さんはあたしたちの身を案じるあまりに、強引に手描き切り抜きやイラストの任を解くかもしれない」
確証はないにしても、お兄さんの人柄を考えると決してありえないとは言えない可能性だ。
「やだっ! せっかく繋がりができたのに切られたくない!」
「そうだろう。もちろんあたしだってそう。あたしたちにできる応援は
「くっ……推しの優しさがこんな形で牙を剥いてくるなんて……。しかたない。寝ることにする。そのぶん明日早起きして描こう。……シャワー浴びてくる」
「いってら」
寧音はとぼとぼと歩いて部屋を出ていく。
できれば今この瞬間、胸を焦がす情動に突き動かされるままペンを走らせたかったことだろう。しかし、自分の感情と衝動を優先してお兄さんを蔑ろにしては、それこそ本末転倒だ。
でも大丈夫、安心しろ寧音。心の奥に灯った火は、時間を置いたくらいで消えたりしない。ゆっくりと考える時間ができたことで、さらに洗練されるかもしれない。そう考えると明日が待ち遠しくすらなる。どう表現しようかと頭の中を駆け巡るのだ。
「…………」
お兄さんの顔が頭をよぎる。通話の終わり際、艶のある声であたしの名を呼んだあの瞬間がリフレインする。それを呼水にするように、お兄さんとの会話を次から次へと思い出してしまう。
イラストをもらったことを本当に嬉しそうにしていた声。あたしがこれからも贈り続けると言った時の面食らった声。体調を気にかけてくれていた時の不安そうな声。話がまとまらなかった時の自分でも理解できないといったような戸惑う声。
でもやっぱり、一番好きなのは。
髪を優しく撫で付けるような、穏やかに寝かしつけるような、包み込んで甘やかに溶かすような、暖かい『おやすみ』の声。
体の芯に溜まり続けるこの熱を、イラストで発散できないのは結構辛いかもしれない。
「ん…………っ」
早くシャワー、浴びたいな。
次でお兄ちゃん視点に戻ります。またしてもゲーム配信。これまで配信していなかったのを取り返すようです。
*スパチャ読み!
みさちさん、赤色のスーパーチャットありがとうございます!
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