サイコバグなお兄ちゃん、Vtuberになる。 作:にいるあらと
これだけは訊いておかないといけないと思い、私は意を決して口を開いた。
「お兄ちゃんは、どこからどこまで仕組んでたの?」
軽快なキーボードの打刻音が止まった。
お兄ちゃんは私のほうを見ずに、モニターに目を向けている。
「仕組んでた、っていうのはどういう意味かな?」
「そのままの意味だよ。だって、そうじゃなきゃおかしいもん」
「おかしいこと……あったかな?」
「あったよ。あの荒らしグループがターゲットにする対象がお兄ちゃん以外にとって
「…………」
お兄ちゃんは黙り込み、PCの作業をやめて、天井を仰いだ。
悪事が露見して途方に暮れている。
そういう表情では全くない。後ろめたいような雰囲気はまるで感じられない。話が長くなるからどこからどうやって説明をしようか悩んでいるだけのように見えた。
「うーん、と……まず一つ確実に言えることは、めろさんのことは完全に成り行きだったよ」
「それ以外は仕組んでたってこと?」
「やめてよ、拡大解釈だよ。そんな、すべての人間を手のひらの上で転がして楽しんでいた悪の親玉、みたいなポジションを僕に押し付けないで」
冗談めかして微笑みながら、お兄ちゃんはようやくこちらを向いた。足を組み、膝に両手を重ねて、にこやかに話す。
いつもとなんら変わりのない笑顔で、お兄ちゃんは続ける。
「そもそも僕としては仕組んでいたつもりはないんだけど……礼ちゃんはどこがおかしいって思ったの?」
「……これまでも時々、なんだか変だなあとは思ってたよ。だって、考えてみたらおかしいもん。配信やSNSとかで荒らしてる人たちが纏まって行動してるのは調べてたらなんとなくわかるよ。でも、その人たちの人数や、メインで使っているアカウントを正確に把握するなんてできるわけない。それどころかお兄ちゃんはグループ内部で起こっていたメンバー同士の
荒らしたちはアカウントを複数用意していて、本来の人数よりも多くのアカウントが稼働していた。もちろん荒らしグループとは関係のない人たちもジン・ラースのアカウントに誹謗中傷コメントを投稿していた。そんな中で荒らしグループの、しかもメインで使っているアカウントを特定するなんて、いくらお兄ちゃんでもできるはずがない。
その上、お兄ちゃんに絡みに行った私を除けば、所属ライバーは荒らしの被害がほとんどない。お兄ちゃんとコラボした私だってお兄ちゃんほどに誹謗中傷がくるわけじゃない。なのにずっとお兄ちゃん一人にだけ集中するなんて、どう考えても自然な流れじゃない。
何をしてたの、という意思を込めてじっと見つめると、お兄ちゃんは困ったように苦笑いを浮かべた。
「はは……えっと、そうだね。やってたことの内容としては……ヘイト管理してた、ってところかな」
ヘイト管理。ジン・ラースの立場ではどうあっても誘導はできないし、ジン・ラースが荒らしグループについて言及したのは昨日の法的措置に関する投稿だけだった。それ以前には配信でもSNSでもまったくと言っていいほど触れていない。
無関係なリスナーとして接触したとしてもまともに取り合ってくれないはず。レイラ・エンヴィに対して誹謗中傷行為をするな、だとか言っても、レイラ・エンヴィかジン・ラースのファンだと思われて相手にされないのがオチだ。
敵対していても、中立的な立場でも、荒らしグループの考えを操作することなんてできない。
ならば、もう、可能性は一つしかない。
「……つまりお兄ちゃんは、あのグループの中にいた……参加、してたの?」
グループの内側。メンバーの一人として意見を出すことで、荒らしグループを誘導していた。
正解、とでも言うように、お兄ちゃんは一つ頷いた。
「そう。グループに名を連ねていた。より正確に言うと、グループには参加したんじゃなくて、件の女性Vtuberの熱心なファンと僕を含めた集団が、グループとして形成されたんだよね。後から参加したわけじゃないんだ」
「言ったら……初期メンバー、みたいなこと?」
「あははっ、そうだね。荒らしグループの初期メンバーだ。僕としては保険のつもりで距離を縮めてただけなんだけどね。いざ彼らが暴走しそうになった時にブレーキ役を担えるようにと思って、仲を深めておいたんだ。でも実際にはブレーキよりもハンドルの役目に近かったのは、少しばかりユニークだったね」
楽しそうに口元を綻ばせる。私が夢結の失敗談を話していた時にお兄ちゃんが見せた表情と、なんら変わらない笑みを浮かべている。
「初期メンバーになるってことは……グループが形になる前から、お兄ちゃんは荒らしグループのメンバーにコンタクトを取ってたの?」
「うん、もちろん。めろさんや他の人たちにSNSを通じて接触して情報収集を始めたのは、僕のデビュー前からだよ。合格の通知が来て、少し経った後くらいだったかな」
お兄ちゃんが『New Tale』の四期生に合格したという通知は、その日のうちに私にも教えてもらっていた。教室にいたから歓喜の声は上げられなかったけど、代わりに近くにいた夢結の手を取って振り回した。その後、夢結も誘っておめでとうの会を開いたから記憶に残っている。
あれは五月の下旬頃だったはず。お兄ちゃんは二ヶ月以上も前から、荒らしグループのメンバーに接近していたのか。
「そんなに……早かったんだね」
あの頃は、件の男女Vtuberはまだ炎上していなかった。界隈では男女でのコラボにとやかく言うようなリスナーは少なくとも表ではいなかった。
炎上の初日どころか、炎上の前から、お兄ちゃんは動き始めていた。
情報収集だなんてお兄ちゃんは
お兄ちゃんのことだ。おそらくは新しくSNSのアカウントを作り、不審がられないように偽装を施し、件の女性Vtuberのファンでも装ってグループメンバーに声をかけたのだろう。
炎上騒動の前段階の時点から、匿名掲示板やSNSでは不穏な空気にはなっていたらしい。
炎上騒動の前段階では真相がわからず不安そうなファンとして声をかけ、炎上騒動の初期段階で荒らしグループと同じように傷心したファンの振りをしていれば、簡単に心理的な距離を近づけることができたはず。
ただ、一つわからないことがある。
「どうして、あの荒らしグループの規模が大きくなるってわかったの? 荒らしグループの結成前の段階じゃわからないよね?」
あの荒らしグループが明確にいつ結成されたのかは私はわからないけれど、確実にそのずっと前からお兄ちゃんはグループを構成するメンバーたちに接触していた。他にも件の女性Vtuberの囲いをやっていた人たちはいたはずなのに、なぜ過激な活動をする人たちにピンポイントで距離を詰めることができたのか。
マジックの種明かしのつもりもなければ、得意げな顔をするわけでもない。勉強を教えてくれる時と変わらない様子で、私の疑問にお兄ちゃんは答えてくれる。
「ああ、それは簡単だよ。めろさんと似たような熱心なファンの人たち……囲い、って言うんだよね。ふふっ、ちゃんと配信活動周りの単語の勉強もしたんだよ。その囲いをやってた人たちにね、手当たり次第接触したんだ。荒らしグループ以外の人たちは慰めや説得が効いて、新しい推しを見つけるなり、新しい趣味を見つけるなりして傷心から立ち直った。だから集団を作ることも、荒らし行為をすることもなかった。最後まで慰めや説得が効かずに残ったのが、あの荒らしグループだったってだけの話だよ」
「…………囲いをやってた人たち、全員に?」
「名簿があったわけではないし、SNSで精力的に活動してる人ばかりじゃないから全員かどうかはわからないけど、メッセージを送れる人には全員に送ったよ。いくら囲いを作るのがうまいといっても、個人でやっているVtuberさんだからね。囲いの人数は高が知れてるよ」
絶句する。すぐに言葉が出てこない。
たしかに私の疑問は解消された。
でも解消された結果、さらに驚愕すべき事実が生まれてしまった。
お兄ちゃんが接触していたのは荒らしグループのメンバー全員、だけじゃなかった。囲いをしていたリスナー全員だった。
たしかに合格が決まってからデビューまでしばらくは、いつも飄々としているお兄ちゃんが少し忙しそうにしていた。部屋に篭る時間が増えていたし、私との勉強中やお喋りしてる時にもスマホを確認することがあった。私はてっきり配信の勉強や配信活動で使う機材の習熟、事務所の人との相談とかでばたばたしてるのかな、なんて思っていた。まさかそれらと並行して囲いの人たちに近づいていただなんて、想像もしなかった。
それらの行動のどこが一番とんでもないか。それだけ多くの人とメッセージのやり取りをして、メッセージの文章だけで囲いの人たちを慰めて励まして傷心から立ち直らせたことも、そこももちろんとんでもないことだけれど。
なによりも畏怖を感じたのは、それらの途方もない労力を費やさなければいけない行動が、お兄ちゃんのデビュー前、炎上騒動が本格的に拡大する前から行われていたことだ。
自分がデビューする頃には鎮静化するかもしれない。鎮静化していなくても、自分には影響がないかもしれない。そもそも自分が負うべき責任などないのだから対処に動く必要なんてない。
そう考えても不思議ではないのに、そんな面倒なことをしなくてもいい言い訳なんていくらでも浮かぶのに、どうしてお兄ちゃんは動いたのか。
「……騒動が本格化する前から、なんでそんなことしてたの?」
「もちろん邪魔になるからだよ。『New Tale』からデビューするってだけで大なり小なり荒れることは予想できる。その時に炎上騒動が重なったら、礼ちゃんとコラボできるようになるまで時間がかかっちゃうでしょ? だからデビューで荒れるのと炎上騒動が重ならないようにするために、騒動が本格化する前に鎮火させたかったんだ。僕なりに出来る限りの手は尽くしたんだけど、まあ……失敗しちゃった。……めろさんの説得が間に合わなかった」
ここで、お兄ちゃんは初めて表情を曇らせた。
「めろさんという荒らしグループの象徴になる人が参加していなければ、きっとあそこまで規模が大きくなることはなかったんだ。件の女性Vtuberさんの配信の名物リスナーにして切り抜き師というネームバリューは思いの
こんなこと、他に誰ができるのか。少なくとも私では、何から手をつければいいのかすらわからない。
なのにここまで手を尽くして、普通の人では考えすらしない段階から動いていたのに、それでもまだ足りなかったと言って、本当に心から後悔している。
お兄ちゃんは、自分に課す『ここまではやって当然』のハードルは高すぎるし、自己肯定感は低すぎる。
「……そんなの、お兄ちゃんのせいじゃないよ。お兄ちゃんは炎上騒動をどうにか最小限にしようとがんばって、実際に最小限にできたんだよ」
「そうかな? ……そうだといいな」
「お兄ちゃんが荒らしグループに潜り込んで、悪意の矛先を誘導してくれたおかげで、事務所のみんなは誹謗中傷を受けずに済んだ。お兄ちゃんが矢面に立ってくれたおかげで、私の同期も、先輩も後輩も、みんなが傷つかずに済んだんだよ。……みんなのこと、守ってくれてありがとね、お兄ちゃん」
感謝を告げた私に、お兄ちゃんは何も言わずに口元に笑みを作るだけだった。
お兄ちゃんの仕草一つ。それだけで、お兄ちゃんが『事務所のみんな』のためにやったんじゃないことが、わかってしまった。
お兄ちゃんは私に嘘をつかない。夢結に言ったら疑われたけど、これは本当のことだ。
でも、本当のことだけど、それがすべてではない。
お兄ちゃんは嘘にはならないよう言葉を選び、嘘にはならない範囲までしか説明をしない。そして、嘘をつくしかない状況に陥ったら、言葉を口に出さずに表情で相手に解釈を委ねる。
お兄ちゃんが口を
守りたかったのは『みんな』ではなかった。『私』だった、ということなのか。
「……そっか」
いけないことだとは、思っている。
私一人を守るためにお兄ちゃんは行動していた。
事務所の人にお兄ちゃんが考えた対策を提案したのは、別に『New Tale』や、所属するライバーたちを身を挺して守るためじゃなかった。荒らしグループのヘイトが少しでも私に向かないようにするためには、荒らしグループのヘイトを丸ごとジン・ラースに集めたほうが楽で確実だったからだ。
もちろんお兄ちゃんだって、被害に遭う人数は少ないほうがいいとは思っていただろう。私の安全が確保されているという前提なら、できるだけ被害を小さくできるやり方を選ぶだろう。あえて多くの人が傷つくようなやり方を選ぶお兄ちゃんではない。
でも、私の安全が確保されていなければ、何を犠牲にしてでも、四期生の同期や、他のライバーや、事務所自体を生贄にしてでも、お兄ちゃんは私を守る方策を選んでいた。今回はただ、私を守ることと所属ライバーを守ることが同義だったから助かっただけだ。ついでで助かっただけなのだ。
現に『New Tale』は少なからず損を被っている。所属ライバーには誹謗中傷や荒らしの被害がなかったことで活動は続けられたので、収益の部分はそこまで悪化はしていないだろう。だけど今回の件で信用という部分には確実に傷がついた。ジン・ラースの面白さが広まりファンがつくにつれ、『New Tale』の『ジン・ラースと所属ライバーを一切関わらせない』という対処に疑問の声が上がることが、匿名掲示板でもSNSでも多くなった。もしかしたら所属ライバーや、他事務所のライバーさんも、わざわざ表で口にはしないけれど内心では思うところがあるかもしれない。
お兄ちゃんなら、そのリスクは行動する前から見えていたはず。これらはその上での行動だ。『New Tale』が信用を落とすことになるかもしれないけど、私を誹謗中傷や荒らしに晒されないようにするために、あのような対策を取った。あの対策が私を守るためにもっとも効率的で、もっとも安全性と実現性が高かったから、お兄ちゃんは事務所の人たちを言葉巧みに説き伏せて強引に提案を呑ませたのだ。
人の思考を操ることに関して、お兄ちゃんの右に出る人を私は知らない。無自覚的な、洗脳にも等しい人心掌握のせいで、お兄ちゃんは高校を中退する羽目になったのだ。信頼を勝ち得ていたお兄ちゃんの立場なら、事務所の人に言い分を通すことは容易だっただろう。
お兄ちゃんの対策は、メリットは確かにある。でも果たして、お兄ちゃんはその先に発生するデメリットまで説明したのか。おそらくは話していないだろう。訊かれれば答えていただろうけれど、裏を返せば、訊かれなければ話さない。
私を守るために好都合だったから、ついでで所属ライバーは助かった。私を守るために不都合だったから、容赦なく『New Tale』の信用という部分を切り捨てた。
お兄ちゃんのことなら、ずっと一緒にいる私が一番よくわかる。これはお兄ちゃんから一番愛されている自信があるからとかではなく、ただの事実だ。お兄ちゃんならそうする。
お兄ちゃんは私の心身の安全を守るためだけに事務所の人を振り回して、自身の思惑を通すために利用しようとした。
結果的には、所属ライバーは被害に遭わず『New Tale』だって信用以外には傷がつかなかった。今回はたまたま良い方向に転がっただけで、巡り合わせが悪ければお兄ちゃんの手によって守られていた私以外のすべてが奈落の底に落ちていた可能性だってあった。
仮にそうなっていたとしても、お兄ちゃんは何も感じはしなかったのだろう。
お兄ちゃんのその考えはいけないことだとは思っている。
でも、お兄ちゃんが価値基準の中心に私を据えてくれていることに、悦びを感じてしまっている。承認欲求が満たされてしまっている。
そんな薄汚く仄暗い愉悦のせいで、その考え方は世間一般の常識とは違うんだよ、とお兄ちゃんに注意することはできなかった。
お兄ちゃんは私に嘘をつきたくないから、私はお兄ちゃんに幻滅されたくないから、お互いに口を閉ざす。お互いに利益がないなら、触れないでも良いだろう。
大好きだからって、愛しているからって、家族だからって、心の内側を全て明かさなければいけないわけじゃないんだ。
「……そうだ。どうやって『New Tale』にヘイトが向かないようにしたの? いくらグループに潜り込んで『New Tale』には手を出すべきじゃない、なんて言っても、そんなこと荒らしたちは聞いてくれないよね?」
「四期生のデビュー配信の後に荒らしグループで話し合いがあったんだ」
「……デビュー配信の後? たしかあの日って……」
「礼ちゃんが配信の予定を取り止めた日だね。そうだ、礼ちゃんの部屋に行く直前にね、夢結さんが激励のメッセージくれたんだ。あんな配信の後だったのにメッセージもらえて、とても嬉しかったなあ……。夢結さんのあのメッセージのおかげで、礼ちゃんの部屋に乗り込む決心がついたんだよ」
思い出すように目を細めるお兄ちゃんは、心から嬉しそうで、幸せそうだった。お兄ちゃんが心を許せる相手が増えたことは少しもやもやするけれど、でも友だちができたお兄ちゃんは幸せそうだし、私も親友を褒めてもらえて気分がいい。
いや、今はそれはいい。
「私はお風呂あがってからは部屋に戻って寝たけど……お兄ちゃんはそこから荒らしグループと話してたの?
「うん。チャットだと説得力が足りなくてコントロールが難しいから。でも、少し声色変えただけで気づかないものなんだね。声真似の練習した甲斐あったよ。それでその話し合いで、誰かが話し始める前にまっさきにジン・ラースを
その時の雰囲気を思い出しながらやったのだろう。『これから男女で絡もうとした奴は──』という流れの演説を、別人としか思えないくらいに声色を変えて喋っていた。
それは声を張っているものではないのに、無性に胸に響いて、否応なしに気持ちを奮い立たせた。強い感情を向ける相手がいない私でさえ、この有様だ。
怒りや悲しみなどの鬱屈とした感情の火が燻っている荒らしグループのメンバーがこんなセリフを聞いて、しかも標的まで用意されたら、煽られた感情を標的にぶつけることしか考えられなくなるだろう。
「わ、私がリア凸しに行った後、気分の悪いコメントとか投稿とか……まあちょっとは増えたけど、もっとたくさん来ると思ったのにお兄ちゃんほどには多くならなかった。あれもなにかやってたの?」
「ああ……あのリア凸は本当に驚いたなあ……読めなかった。うれしかったけどね。礼ちゃんとのコラボの後、実際にグループ内で一部のメンバーが『ジン・ラースとコラボしたレイラ・エンヴィも攻撃すべきだ』って意見を出してたからね。その時は『ジン・ラースは我々の切願を踏み躙る憎い相手だが、レイラ・エンヴィはそうじゃない。異性同士のコラボなら問題があるが、二人の関係が兄妹だと実証されているのなら我々の方針に反しているわけじゃない』とかなんとか筋が通っているのか通っていないのかよくわからない屁理屈を捏ねて『我々の原理原則に立ち返れ!』とか言って勢いと熱量でメンバーの目を眩ませたんだよね。『あくまで標的はジン・ラースただ一人で、ジン・ラースさえ潰せればそれで我々の理想は叶うのだ!』みたいな感じで、勝利条件を単純化したんだ。いやあ……あの時はいくらなんでもさすがに苦しいか、と冷や汗をかいたけど、自分で想像していた以上にメンバーたちから信頼されていたらしくて、僕の意見は受け入れられてたよ。正直びっくりした」
お兄ちゃんはグループの結成前から交流を図っていた、と言っていた。その時から先のことを見越して発言力や説得力が増すように信頼関係を築いていたのだろう。声色で誤魔化すだけじゃない、信頼関係という下地があるからこそ、他人の思考にバイアスをかけられるくらい言葉に重みが出るのかもしれない。人の思考を操ることをまるで意識しないでここまでうまく立ち回れるのは、もはやそういった素質があるからとしか思えない。
「お兄ちゃんは、私とコラボしてからも荒らしたちに隙を見せなかったよね。言葉選びも問題がないように気を遣ってた。叩く材料がなかったら荒らしたちは標的を変えそうなものなのに……それからずっとジン・ラースだけを狙い続けさせるなんてできなくない?」
「礼ちゃんすごい! よくわかるね! そうなんだよ。ターゲットを『New Tale』全体にして、ジン・ラースの反応を見るのもありなんじゃないか、みたいな人もいたんだ。そういった方針に流れないように、焦れるような雰囲気になった頃を見計らって度々『ジン・ラースさえ辞めさせることができれば、自分たちの悲願は成就する。「New Tale」の事務所には責任があるが、所属するライバーに罪はない。これ以上我々のような犠牲者を増やさないために、清廉潔白な正義の行いをしよう』とかって綺麗で耳触りの良い言葉を並べてお茶を濁してたんだよ。荒らしグループの活動は正しい行為なんだってメンバーは思ってるから、というか思わせてるから、甘い言葉でメンバーの自尊心や義侠心をくすぐってあげれば、うまくいってなくても案外誤魔化すことはできたね」
「え……そ、そんなその場凌ぎの言葉でなんとかなる? だって、グループとしてはなんの成果も出してないよね?」
「結局のところ、本人たちの気分の問題でしかないんだよね。不快感を取り除いてあげて、各々が欲しがる気持ちの良い言葉をかけてあげれば、僕の指示に従ってくれる。荒らしグループの人たちは実に愚直で、ヘイトの操作は容易だったよ。いや、でも難しいことではなかったけど、大変ではあったかな。メッセージのやり取りが手間だった」
少し眉を下げながら、そう言ってのけた。荒らしグループの少なくはない人数を、そのグループの中心人物さえ自分の目的通りに動かしても、お兄ちゃんは少し面倒そうに肩を竦めただけだった。
「……お兄ちゃんはさ、荒らしグループに参加してたんでしょ? グループの内側にいるなら、誰がどんなことをしていたかとか詳しく知ってたの? ……たとえば、証拠になるようなこととか」
「うーん……たぶんほとんどは把握できてたんじゃないのかな。定例報告会みたいにみんなチャットルームに報告するようになったからね」
「え……なんでわざわざ証拠残すの……。正気の沙汰じゃないよ……」
「メンバーの一人が誇らしげにこんな内容をジン・ラースに言ってやったぜ、みたいな自慢をグループチャットに書き込んだことがあって、それを過剰に褒めちぎったんだよ。そこから次第にみんな定期的に報告するようになったね。……くふっ、あはは。こういったところが愚直で扱いやすくてとても可愛いんだ。褒められたい、認められたい、って尻尾を振っているようだった。承認欲求を刺激して自尊心を高めてあげれば、何の疑問も不信感も抱かないんだ……ふふっ」
脳裏に浮かんだ素朴な疑問をそのまま私が口にすると、お兄ちゃんはわらった。
私の傍には、生まれてからずっとお兄ちゃんがいてくれていた。お父さんもお母さんも仕事が忙しくなって家を空けることが多くなっても、お兄ちゃんだけはずっと隣にいてくれた。
誰よりも、お父さんやお母さんよりも、お兄ちゃんを見てきたし知っている。その自負がある。
でも、こんな顔で嗤うお兄ちゃんは知らない。いつもは柔らかい微笑みを作る口角を三日月のように吊り上げ、いつも暖かく見守ってくれている瞳の奥には冷たい闇が広がっていた。
「な、なんで……お兄ちゃんはそんな報告をさせるようにしたの? やっぱり証拠を集めるため?」
怖いお兄ちゃんを見たくなくて、矢継ぎ早に質問する。
すると、さっきまでの表情は鳴りを潜め、いつもの優しいお兄ちゃんの雰囲気に戻った。
「いや、証拠は十分どころじゃないくらい集まってたし、そっちは重要視してなかったかな。定例報告会は、意欲の程度を測るのに便利だったんだ」
「意欲の、程度……って?」
まるで要領を得ない回答に、私はおうむ返しに聞き返した。
「僕としては、平和的かつ前向きに荒らしグループに解散してほしかったんだよ。そのために時間稼ぎをしていたんだ。まず荒らしグループ内で標的をジン・ラースに限定する。次にこれといって叩く材料を提供しないように立ち回り、過激な方策も取らせないように手綱を引いて、標的を変えないように
デビューしてからこれまでずっと荒らしグループに邪魔されてきたのに(そうさせるように仕向けたのもお兄ちゃんなんだけど)どうしてそんな穏便な解決を望んでいるのか。
その疑問は一旦呑み込み、続きを促す。
「怒りを薄めて……どうするの?」
「怒りを薄めれば説得しやすくなるんだよ。怒りなんて本来長続きするものじゃないんだ。強い怒りを感じ続ければ精神的に疲弊していく。限界まで疲れればそこで一旦冷静になる。冷静になった時を見計らって声をかけ、自分たちが今どれだけ危うい行為をしているか認識させられれば、無益どころか損でしかない荒らし行為から手を引くように説得できる。意欲の程度を測るっていうのは、怒りがどれだけ冷めてきているかの指標代わりなんだ。怒りが冷めて冷静になり始めていたら、荒らし行為をする頻度が落ちる。報告をする頻度が落ちる。そういう人たちに個別に接触して、グループを離れるように諭していったんだ。実際に効果はあったよ。顔を出すグループメンバーも漸減していってたし」
わからない。わからないわからないわからない。
なぜお兄ちゃんがそんな手間のかかることをしているのか、まったくわからない。
訴えるための証拠なら嫌というほどある。相手も突き止めている。法的措置に出るなら事務所の人も手厚くバックアップすると約束してくれていた。それ以前に、法律事務所で弁護士をしているお父さんに相談すれば、いつでもインターネットトラブルに強い専門の弁護士を紹介してもらえた。お兄ちゃんが一言言えば、荒らしグループなんていつでも片付けられたのに。
なんでそこまで、時間も労力もかける必要があるのか。
まるで理解できない、そんな顔を私はしていたのだろう。
お兄ちゃんは寂しげに微笑んで、説明してくれる。
「荒らしグループの人たちは慰めや説得が効かなかった、っていうのは話したよね。説得が効かなかったのは、まだ彼らの怒りが強すぎたからだったんだ。裏切られた時に湧き出した怒りをどこかに、あるいは誰かにぶつけないと前を向けないんだろうなって思った。その感情をぶつける先として、ジン・ラースは都合が良かった。僕はどんな悪口を言われても響かないから被害は出ない。ジン・ラースに集中させてしまえば他の先輩たちや同期に被害が出なくてお得だしね。『New Tale』にリスクやデメリットはあったけど、なるべく損害が出ないように努力はしたから許してほしいな。……そうやってジン・ラースだけに怒りを吐き出すように仕向け、時間をかけて頭を冷やさせ、どれだけ危ない綱渡りをしているか自覚させ、説得することで荒らしグループから抜けさせる。そうしていけばいずれ全員が前を向いて歩けるようになる……僕の考えは間違ってなかったと思ったんだけどなあ」
「ち、がう……ちがうよ、違う。どうしてお兄ちゃんが荒らしの人たちを助けようと……更生させようとしてるの? そんなことする必要……ないでしょ?」
きょとんとした顔をしたお兄ちゃんは、次いで破顔した。
戸惑っている私に、お兄ちゃんが言う。
それはとても、純粋で、幼げな笑顔で。
「困っている人、苦しんでいる人を助けるのは、人として当然のこと……礼ちゃんが僕に言ってくれたことだよ。僕が小学生の時、クラスメイトから嫌われて居場所がなくてとても苦しい思いをしていたら、礼ちゃんはそう言って僕を助けてくれたよね。寄り添って、慰めて、励ましてくれた。絶望の
照れくさそうに笑うお兄ちゃんが、なぜか遠ざかっていくように感じた。
『こまっている人がいたら、たすけてあげましょう』
小学生の頃、道徳の時間に先生から聞いたばかりのその言葉を、当時の私は実践した。正直なところ、かなり昔の話で細部まで記憶は残ってはいない。でも憶えている範囲でなら、特別何かをしたわけではなかったはずだ。お兄ちゃんが落ち込んでいるようだったから、抱きしめて、一緒にいて、お話ししただけ。
ただ結果的に、お兄ちゃんの判断基準がそこで作られたのは確かだった。
お兄ちゃんはやっぱり、普通の人とは違う。
おそらくはサイコパスと呼ばれる人種なのだろうけれど、でも、一般的に言われているようなサイコパスとはお兄ちゃんは違う。人の心は理解できなくても、人の痛みに共感できなくても、理解して共感しようとしてくれている。他人の為に、自分ができることをするのは倫理的道徳的に正しくて、だからそうするべきなのだと思っている。
私がお兄ちゃんの判断基準を狂わせてしまったせいで、サイコパスとも違う価値観が培われた。
もし、普通の人の中から発生したバグがサイコパスなのだとしたら、サイコパスの中から発生したバグがお兄ちゃんなのだろう。
普通の人の輪の中では生きづらい。植え付けられた倫理観のせいでサイコパスのように利己的にも振る舞えない。
私のせいだ。小さい私の安い正義感が、お兄ちゃんに苦労の多い人生を歩ませることになった。
私の責任だ。
だから、私がなんとかするんだ。
これまでお兄ちゃんは苦労してきたんだ。これからはもっと自由に生きて、自由に振る舞ってもらいたい。普通の人の輪の中で生きづらいのなら、お兄ちゃんを理解してくれる人の輪を作ろう。
そのために、私はもっとお兄ちゃんを理解しないといけない。
私が一番お兄ちゃんを理解できていると慢心していた。理解度ナンバーワンの座にあぐらをかいていた。
まだ足りていなかったのだ。もっとお兄ちゃんを理解できないと、お兄ちゃんの隣にはいられない。お兄ちゃんの力になれない。
「そうやってがんばって説得してたのに、どうしてグループを急に解散させたの?」
お兄ちゃんのやってきたことを追っていけば、理解に繋がるはず。そう思って、質問を続ける。
「それはもちろん、礼ちゃんに攻撃し始めた輩が出てきたからだよ」
ちょっとお兄ちゃん私のこと好きすぎないかな。
お兄ちゃんは続けて言う。
「メンバーの一部の過激派が、グループの方針もめろさんの注意も無視して礼ちゃんに誹謗中傷や犯罪予告をやりだした。似たような輩が現れないとも限らないから、可能性の芽を丸ごと潰すことにしたんだ。……過激派メンバーの愚かさを見誤った。本当にごめん」
居住まいを正してお兄ちゃんは頭を下げた。どこにお兄ちゃんが謝らなければいけない部分があったのかわからなかった。とてもびっくりした。
「え? ちょ、なに?! 頭上げてよ! お兄ちゃんが謝る必要なんてこれっぽっちもないでしょ!」
「いや、僕が個人的な理由で時間をかけて説得しようとしたせいだ。一方的に攻撃できていることで気を大きくした輩が、礼ちゃんに誹謗中傷や犯罪予告を投稿した。……あの愚か者を持ち上げすぎた。過激派メンバーの短絡さを読みきれなかった僕の手抜かりだったんだ」
「別にあれくらいで傷ついたりしないよ! うちの眷属さんに言われるんならまだしも、よそから来た全然知らない人に悪口とか言われても私は気にしないし! それにいつもお兄ちゃんが傍にいてくれてるのに、不安になるわけないでしょ! あんまり馬鹿にしないで!」
学校に行く時も帰る時もお兄ちゃんの車で送り迎えしてもらって、さすがにお風呂は一緒に入ってくれないけど一緒にご飯食べて、時間がある時はお喋りしている。勉強を見てもらう時もあるし、一緒にゲームする時もある。共働き家庭の小学生が親といる時間よりも圧倒的に長い時間お兄ちゃんと一緒にいるのに、どこで不安や恐怖を感じればいいんだ。
なんなら最近はずっとお兄ちゃんと一緒に寝ている。もしかしたら誹謗中傷や犯罪予告があったせいで私が不安になっていると思って、お兄ちゃんは一緒に寝るようにしてくれたのだろうか。だとしたら、その部分だけは過激派ナイスアシストだ。
「ん? でもそれなら私にそういう犯罪予告がきた時すぐに対応したらよかったんじゃない? 証拠はいくらでもあったんだろうし」
「ああ……まあ、礼ちゃんに誹謗中傷や犯罪予告を送ってきた連中を追い詰めることはできたけど、ね。でもあの時の状態で法的措置をしたところで、僕らを取り巻く風向きが大きく変わることはなかったと思うんだ。やり過ぎた奴らが開示請求を食らっただけ、そんなふうに他人事だと思う人もいたかもしれない。対症療法としてならそれでも構わないんだけど、今後似たような輩が……礼ちゃんを狙うような愚か者がグループから現れないとも限らない。だから荒らしグループを潰す必要があった。そして僕らの環境を抜本的に改善するために、荒らしグループの悪行をわかりやすく見せつけて大多数の一般リスナーの同情を買っておく必要があった。ジン・ラースとレイラ・エンヴィは荒らしグループのネガティブキャンペーンで苦しめられてきた被害者なんだ、っていう考え方に誘導したかったんだ」
荒らしグループの悪行。一般リスナーの同情を買う。お兄ちゃんが反転攻勢に出たきっかけ。
「もしかして、捏造動画……あれもお兄ちゃんが作らせるように仕向けたの?!」
「捏造動画を作れとは指示してないよ。僕は過激派のメンバーにメッセージを送っただけ」
「どんなこと送ったの?」
「『このままジン・ラースが人気を得てしまうと手遅れになる』って危機感を煽って『付け入る隙がない、失言や暴言のなさは顕著だ』で不安を誘うでしょ? 次に『これ以上チャンネル登録者数が増えてジン・ラースの味方が多くなれば、奴を取り巻く環境の風向きが変わりかねない』って揺さぶりをかける。『弱みを見つけるまで待っていては手遅れになるかもしれない。自分たちのほうが悪者にされて最悪の場合訴えられるかもしれない』と焦燥感と恐怖心に火をつける。段階的に追い詰めて過激派メンバーがいい具合にパニックに陥ったところにタイミングよく『今我々が動かなければ、我々と同じように悲しい思いをする人たちが出てきてしまう。どうにか防がないといけない。それが我々の存在理由だったはずだ。付け入る隙がないのなら、作るのもやむなしだ』って御大層な言葉を使って一発逆転の光明があることを仄めかした。そうしてジン・ラースを悪者にして叩き潰せば訴えられずに済むかもしれない、と思わせた。……だいたいこんなところかな?」
「……そういうの、
「ジン・ラースに対しての侮辱や名誉毀損で過激派メンバーが訴えられた場合、教唆罪は構成条件を満たすね。でも過激派メンバーが訴えられるのはレイラ・エンヴィに対して行った犯罪行為だけだから、僕が罪に問われることはないよ」
「……お兄ちゃん、法律の勉強の仕方間違ってない?」
「間違ってないよ。ちゃんと使い方を学んだんだから」
ふつうは法を犯さないように、法を守るために勉強するはずだけど。
「そうやって藁にも縋る思いで飛びついた過激派メンバーの致命的なミスを期待していたわけだけど、まさかめろさんまで巻き込んで捏造動画を作るとは思わなかった」
「そこはお兄ちゃんも想定外だったんだ?」
「僕はてっきり自分自身の手で稚拙な小細工を弄するものだと思っていたんだ。あんなに差し迫った時にまで他人になんとかしてもらおうと考えるなんて思わなかったよ。最後まで過激派メンバーの愚かさは読み切れなかったな……精進が足りない」
「お兄ちゃんの考えではどうするつもりだったの?」
「予定通りなら、荒らしグループが炎上のネタを捏造するという悪辣な手段で陥れようとしたことを糾弾して、こちらには一切の非がないことを強調して
「……拾えた、命?」
「めろさんのことだよ。捏造動画で関わっていなかったら、僕にDMを送ってきてたかわからなかった。めろさんと通話する機会が生まれて、人生をやり直すきっかけになったのは、過激派メンバーの愚かさのおかげだね。荒らしグループの度を越えた悪行は明るみになったし、一般リスナーからの同情も買うことができたし、ネガキャンで植え付けられた悪いイメージの払拭にも役立った。法的措置通告によりグループは解散して、他の人たちも開示請求を恐れて荒らし行為をやめるようになった。僕たちの前に立ち塞がっていた障害物は綺麗さっぱりなくなった。最大公約数的な形に収まったと言える。人間万事塞翁が馬とはこのことだね」
運否天賦に任せてサイコロを振ったらいい目が出た、みたいな言い方をするけれど、こんなものは運ではない。
思い描いた結末へと事を運ぶために、お兄ちゃんは最初から差配していた。
お兄ちゃんは『すべての人間を手のひらの上で転がして楽しんでいた悪の親玉、みたいなポジションを僕に押し付けないで』なんて言っていたけれど、やっていることはそれと大差ない。違いを挙げるとするなら、お兄ちゃん自身には悪意はなく、ただ私を守るという善意しかなかったことだろうか。
炎上が始まる前から動き、炎上が始まってからも裏で糸を引き、想定外があっても柔軟に対応を変えて、多くの人の感情を操って、望んだ結果を掴み取った。誰にも悟られずに、誰にも疑われずに、自分の求めたものはすべて手中に収めた。
サイコロを振ってたまたま六の目が出たわけじゃない。言うなれば、お兄ちゃんは絶対に六の目を出すために全部の面を六に書き換えたサイコロを振ったのだ。
たった一人で、運にも人にも頼ることなく。
「私に、頼ってくれていいのに……」
せめて私くらいには、協力を頼んでほしかった。『こういうことを計画してるから手伝って』と言ってほしかった。
そんな悔しい思いからこぼれた本音。
聞かせるつもりのなかった私の本心は、鋭敏すぎるお兄ちゃんの耳に拾われた。
「こんな時間も手間もかかる下らないこと、いつも忙しくしてる礼ちゃんにさせられないよ。こういうのは日がな一日暇してるお兄ちゃんにでもやらせておけばいいんだ」
「……お兄ちゃんだって暇してるわけじゃないでしょ。家のことやって、私のことお世話して、お父さんやお母さんのお仕事お手伝いして、たくさんやることあるのに」
家事を全て受け持って、私の送迎も食事も制服のアイロンがけまでやって、弁護士をしているお父さんには法律や判例を調べたり資料の準備で、大学で教授をしているお母さんには事務処理や講義で使うデータを纏めたりして手伝っている。お兄ちゃんは決して暇ではなかったはずなのに。
するとお兄ちゃんはのん気に顔を緩ませる。
「会社行ってた時と比べれば時間にゆとりはあるから大丈夫大丈夫」
「比べるものを間違えてるんだよね」
「…………」
咎める視線を向けると、お兄ちゃんは逃げるように目を逸らした。
お兄ちゃんが倒れるまで働いていたことを、私はまだ許していない。お兄ちゃんが死んじゃうかもしれないと思った時の衝撃は、私の心の奥深くでずっと残響している。
無理をしてほしくない。大変な時は、私を頼ってほしい。お兄ちゃんになら、どんな苦労でも、どんな困難でも、たとえ痛みでも、何をされても私は受け入れるのに。
でも今回の一件でわかった。お兄ちゃんは頼らなかったのではなくて、頼れなかったのだ。私が頼りなかったから、頼れなかった。
お兄ちゃんにとって、私は弱くて守らないといけない対象だ。庇護される立場では、いざという時にお兄ちゃんの力になれない。
強くならないといけない。お兄ちゃんを理解して、お兄ちゃんが動いた時にすぐに手助けできるように。
後ろで庇われるのではなく、隣に並んで立てるように。
「ま、まあまあ……今回のことは全部解決したんだからさ。機嫌直してよ。僕と礼ちゃんの回りの厄介事は綺麗に片付いたし、一般リスナーからの印象も良くなった。万々歳の大団円。みんな幸せ。それでいいんじゃない?」
「……はあ」
何も考えていないような、にこやかな表情をするお兄ちゃん。本当に『みんな』幸せになったと思っているのだろう。
お兄ちゃんの中の『みんな』は、幸せになったのだろう。その『みんな』に含まれるのは、お兄ちゃん自身と、私と、よくて夢結までだ。それ以外の人はまだ『みんな』には含まれていない。
これからは、その『みんな』を増やしていけたらいいな。それがきっと、お兄ちゃんにとっての幸せに繋がるはず。
「せっかく面倒なことが片付けられたんだ。これからはもっと楽しいことが増えるといいよね」
これだけ裏でいろんなことをしていたのに、お兄ちゃんはもうそんなことは意に介することもなく、これからのことを考えている。
たしかに、これまで以上に活動の幅を広げていけるようになるだろう。私もお兄ちゃんとやりたいことはたくさんある。
でもその前に、私にはやらなければいけないこともたくさんある。
迷惑をかけてしまった先輩たち、心配をかけてしまった後輩たち。そして迷惑も心配もかけた上、無礼と命令無視まで働いてしまった安生地さんや『New Tale』のスタッフさん。みんなに謝らないといけない。
これからの謝罪行脚を考えると胃が痛いけれど、これは私の軽挙妄動が招いた結果だ。頭を下げて回ることとしよう。
ただそれは、あくまでこれからの話。今だけはお兄ちゃんの前向きな言葉に乗っかっておこう。
そう、言ってしまえば、ようやくお兄ちゃんのVtuberとしての活動が正しい形で始まるのだ。否が応にも高揚する。
「きっと増える……ううん! 増やすよっ、いっぱい、今よりずっと、楽しいこと! 一緒にがんばろうね、お兄ちゃんっ!」
お兄ちゃんの配信活動は輝くようなものになる、と。私は腕を目一杯に広げて、全身を使って表現する。
ようやく肩の荷を下ろせたからか、お兄ちゃんは無垢な笑顔を見せてくれた。
「あははっ、うん。そうだね。一緒に楽しもう。これからもよろしくね、礼ちゃんっ」
顔が熱くなる。胸が高鳴る。
やっぱり私にとってお兄ちゃんは、他の誰よりも何よりも大切な人だ。
私たちはあくまでも兄妹だから、いずれ一緒にはいられなくなる日が来る。だからこそいつか必ず訪れるその時まで、私は全力で楽しんでいたいし、お兄ちゃんの隣で一緒に笑い合っていたい。
たとえ将来、五年後十年後、お兄ちゃんが私の知らない誰かと結婚したとしても、お兄ちゃんにとっての一番大切な人が私じゃなくなっても、それでも私にとっての『一番』は、ずっとお兄ちゃんだ。
「うん! いっぱい楽しもうね! お兄ちゃん!」
お兄ちゃんの幸せが、私の幸せだ。
一章でした。ありがとうございました。すっきりとした気持ちで読み終えてもらえていたら嬉しいです。
正直なところ、一章書くのだけでもすっごい馬鹿みたいに時間かかったんです。僕遅筆なので。
だからこれで終わりにしようかと思ってたんですけど、たくさんの感想と評価もいただきましたし、もっと書きたい話もあります。この次を見越して張った伏線……というか布石も放置しっぱなしだし、同期とのコラボもやってない。人間関係ももっと深めていきたい。やっとお兄ちゃんがまともに活動できるようになったのにこれで終わりというのはちょっと可哀想。ただただ配信でゲームとか楽しんでほしい。
てか、めっちゃ設定練ったゲームまだ出せてないんだよね!ということで僕が不完全燃焼なので、もう少し頑張ってみることにしました。
ただ、上述した通り引くほど遅筆だし、書き溜めしてから投稿したいタイプの人間なので次いつ投稿できるかはわかりません。全くの未定です。続きができるかどうかもわからないので一応、完結という形を取っておきます。完結した後に連載の設定って戻せるのかな……。
なにはともあれ、とりあえずはここで一区切りです。
この話が三十九話なので、だいたい一ヶ月ちょっとくらいですね。毎日読んでくれた方、毎日感想くれた方、評価してくれた方、ありがとうございました。あなたのおかげでもっと楽しんでもらえるような作品にしたいと思えたし、これからもまた書きたいなって思えました。モチベーションにも繋がりました。
酷評されたらへこむのでこれまでは精神安定のために感想の設定をログインユーザーのみにしてたんですけど、最後なのでログインしてなくても書けるようにしておきます。なにか気づいたことや思ったこと、感じたことがあれば感想いただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。