サイコバグなお兄ちゃん、Vtuberになる。   作:にいるあらと

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『寝かしつけ』配信です。
これからのお兄ちゃんの交友の輪に影響があるとかないとか。


『おやすみなさい』

 お兄さんの寝かしつけ配信(催眠音声)を待ち焦がれすぎて、気を紛らわせるために夏休みの課題に打ち込んだあたしは出された課題をすべて終わらせ、二十四時前にはベッドで待機していた。

 

 PCでは不都合が多いのでスマホを枕の脇に置き、充電が切れないように充電器もしっかりとぶっ差し、ワイヤレスのイヤホンを耳に装着して聴く体勢を整えている。

 

 仰向けに寝転がり、タオルケットを胸から足にかけて、その上から指を組んでお腹に乗せるというディズニープリンセスのようなスタイル。気分はさながら眠れる森の美女だ。実際は美女でもないし、王子様に寝かしつけられる側なんだけど。

 

『……大丈夫そうかな? こんばんは。『New Tale』所属の四期生、悪魔のジン・ラースです』

 

 くだらないことを考えているうちにお兄さんの配信が始まった。

 

 寝かしつけ(こういう)配信をするというのを前もって知らせていたからか、いつもよりもお兄さんの声が抑えられている。声量は控えめだけれど、その分ウィスパーボイスチックになっていて、これまでとは一味違う魅力になっている。

 

 耳をくすぐられるような、いやもう鼓膜を通り越して脳みそをくすぐられるような、そんな艶のある声だ。

 

 おい大丈夫か礼愛、あたしこんなの続けられたら三徹してたとしても寝られる自信ないぞ。

 

 でもいつもの配信と違って隣にうるさいのがいない分、お兄さんの声に集中で「んくふっ……」きそうにはなさそうだ。ノイズキャンセリング付きのお高めのワイヤレスイヤホンを買っておくべきだったな。寧音の不快な鳴き声が聞こえてしまう。早く寝てくんないかな。

 

『前回の配信の最後にも告知と一緒に触れましたけど、本題に入る前に、なぜこういう配信をやることにしたのか、そのきっかけのお話をさせてください』

 

 わぁっ、と声が出そうになったのをぎりぎりで噛み殺す。

 

 礼愛から聞いた、あたしのために企画してくれたやつの話だ。

 

 あ、え、そんな、お兄さん、配信であたしのためにとか言っちゃったら、その他のモブの脳みそ壊れちゃうよ。あたしのすぐ近くのベッドで転がってるキモリスナーとかだと頭が爆発しちゃうかもしれない。ちょっ、やん、困るなぁ、お兄さん。リスナーに深い関係だと仄めかすような、いわゆる『匂わせ』だと思われちゃうよ困るなぁ。

 

『知人が話していたのですが、夏場でもエアコンの冷気が苦手でクーラーをつけられないという方が一定数いるそうで』

 

 おい。おい礼愛。話が違うよな。あたしのためとかいう例の件はなんだったんだ。

 

『それを聞いて、もしかしたら僕の配信を視聴してくれている人間様の中にも、同じようにこの熱帯夜にエアコンを使えずに寝苦しい思いをしている方がおられるのではと思ったのです』

 

 礼愛の話を寧音にしなくてよかった。『お兄さんの寝かしつけ配信はあたしのためにしてくれるんだよぉ?』なんて寧音に自慢したら嫉妬で殴られそうだなと思って控えていたのだけど、その判断は違う意味で大正解だった。馬鹿な女の馬鹿な勘違いだったとバレた時、どれだけ寧音に馬鹿にされるかわかったものではない。

 

 なんだよ礼愛め、ぬか喜びさせないでよ。

 

『あと同じくらいのタイミングで礼ちゃんからも興味深い話を聞いたんですよね。なんでも、夏休みの時期になると学生さんは生活リズムが乱れがちになってしまうのだとか。普段よりもちょっとだけ夜更かしするなどでしたら影響は少ないでしょうけれど、昼夜逆転するくらいになってしまうと健康にもよろしくありませんし、学校が始まった時に体内時計の調整が大変になってしまいます。まだ暑さの残る季節に睡眠不足や徹夜などで外に出てしまうと体調を崩してしまうことにも繋がってしまいますし、危険ですよね』

 

 おお、礼愛よ。心の友よ。あたしは信じていたよ。

 

 寝かしつけ配信をやる理由が『あたしのため』から『あたしのためでもある(・・・・)』に知らないところで変わったようだが、それでも比率的に言えば五十パーセントだ。一リスナーにして一ファンでしかないあたしにとっては身に余る光栄だ。今日の配信、なんならこの話だけでも満足だ。いや、全部聴くけれど。

 

『なので、すぐに寝つけるように悪魔が睡眠のサポートをさせていただこうかと思った次第です。ところで、ですね? 話が変わるようでいて変わっていないのですけれど、最近ボイストレーニングに行くようになったのです。人間様のお時間をいただいている以上、より良い配信をお送りできたらなあ、と考えておりまして』

 

 礼愛も触れていたボイトレの話だ。

 

 そもそも『New Tale』の四期生に応募しようとしていた時点で天稟と呼べる声を持っていて、字幕がいらなくなるくらいの滑舌も持っていた。それ以上になにを望むのだという話なのだが、お兄さんは現状の自身の能力にあぐらをかかず、慢心せず、なおも向上心を持ち続けている。

 

 そうやってがんばり続けようとする姿勢は、とても応援したい欲をくすぐられる。

 

 あたしの推しは眩しいなぁ。だからこそ、その背中を押してもっと輝かせたくなる。努力が報われてほしいと願ってしまう。

 

『僕としてはですね、たびたびいただいております「歌とか聴いてみたいです」というコメントにその気になってしまって、歌を歌わせていただくのなら表現力を磨かないと、と思いボイトレに行ったのです。ですが……なぜかトレーナーさんには喉の使い方、声の出し方について先に学んだほうがいいと熱心に促されたんですよね……。おかげでいろんなユニークな芸を身につけることができたので、役に立っているといえば役には立っているのでしょうけれど』

 

 トレーナーさんから学んだ、とお兄さんが言ったことでようやく気がついたことがある。

 

 今回の配信は最初から囁くように耳に心地いい声でお兄さんは話しているが、その声のトーンがずっと一定に保たれている。意識しなくてもすんなり頭に入ってくるくらいに聴き取りやすいのに、それでもウィスパーボイスを維持しているのだ。声の調子を完全にコントロールしている。このウィスパーボイスが、礼愛言うところの変わり者の講師とのボイトレの成果なのだろう。

 

『今回の企画もそうです。トレーナーさんから声の出し方を学んでいなければ、寝かしつけ配信を思いつきはしても実行に移すことはなかったでしょうからね』

 

 お兄さんはまだ今日の配信を企画したきっかけを話しているだけで、まだ本題の寝かしつけには入っていない。だが、もうすでに眠りに落ちているリスナーは何人も出てきていることだろう。

 

 片耳のイヤホンを外して耳を澄ませると、寧音の寝息が聞こえた。

 

 本領発揮していない今の時点で、一般的な生活リズムをしている人くらいなら寝かしつける力がある。

 

 添い寝されて耳元で喋っているかのような囁きと、ふだんの配信よりも明らかにゆっくりと意識されている話の速度、抑揚を最低限にした口調。そして、お兄さんは配信が始まってからというもの、一度もコメントを読んでいない。

 

 寝かしつけ配信とは銘打っていても、コメントを送る人は必ずいるだろう。しかしコメントを拾うことはせずに淡々と進めている。それがまた、意識が他に向けられることなくお兄さんの声にだけ没入していく一因になっている。絵本の読み聞かせに近い感覚だ。

 

 まずい、これはまずい。あたしまで頭の中がぼんやりとしてきている。企画した理由の説明時間だけで、あたしの十八時起きというアドバンテージが失われつつある。

 

『声の出し方などの技術が形になってきたので、今回の企画をする踏ん切りがつきました。悪魔はあくまでも悪魔であって、夢魔ではありませんから、ちゃんと夢の国に誘うことができるか不安ではありますが、頑張ろうと思います』

 

 これ以上がんばられたらあたし、もう耐えられないかもしれない。なんなら始まる前から絶対に相当数が寝落ちしてるよ。寧音もすっごく期待してたのに本題の催眠音声が始まる前に落ちちゃったし。

 

『あ、もし万が一寝てしまった時のために、スリープモードは設定しておいてくださいね。スマホから聴いてくださってる人間様は、明日の朝に慌てないよう充電器に繋ぐことを忘れずにお願いします』

 

 もう手遅れだよお兄さん。その注意は配信開始の第一声でしておくべきだったよ。

 

 寝落ちしてしまった人たちがちゃんと充電してから寝落ちしたことを祈っている。

 

『本当ならASMR用のマイクを使ったほうがいいのでしょうけど、まさか配信活動でこういうことをするとは思っていなかったので、ASMR用のちゃんとしたマイクは用意しておりません。いつものマイクを使っていきます。申し訳ありません』

 

 たしかにASMR用のマイクはピンからキリまであるし、その中でもいいのを使おうと思ったら目玉が飛び出るくらいお高かったりするからね。お兄さんは基本的にゲーム配信を主軸にやっていくつもりだっただろうし、用意していなくても仕方がない。

 

 なんならいつも使っているマイクで充分すぎるほど効果があるので、本職用のマイクじゃなくてよかったくらいだ。専用のマイクだった場合、夢の国に誘われたまま帰ってこなくなる可能性がある。

 

 今回の寝かしつけ配信の結果次第では、懐に余裕のあるリスナーが専用のお高いマイクをお兄さんに使ってもらうべく『New Tale』に送りつけそうだ。

 

『では、やっていきますね。……んんっ』

 

 もう咳払いがえっちなんだよなぁ。

 

 えっちな咳払いからしばしの静寂を挟み、とうとう始まった。

 

『……ん? どうしたの? 寝れないの?』

 

「っ────」

 

 息が詰まった。心臓を潰す勢いで握り締められたような気分だ。

 

 表現力のためにボイトレ行ったとかなんとか言ってたけど、行く必要がどこにあるんだ。許容量をオーバーするほどに感情が込められている。これ以上に表現力を高めたところでそんなの素人には違いがわかんないよ。

 

 夜眠れないあたしをお兄さんが心配して部屋まで様子を見にきてくれた、そんなシチュエーションが頭を()ぎる。ふだんの配信中のお兄さんのきりっとした他所(よそ)行きの声とはまた違う、どこか甘くて優しい雰囲気の声だ。礼愛と話している時の声に近しいものがある。

 

 お兄さんはくすりと笑みをこぼした。

 

『だから言ったでしょ。夜にホラー映画なんて観たら寝れなくなっちゃうよって』

 

 あ、これモデルは礼愛だ。

 

 以前、夜にホラー映画を観て寝れなくなってお兄さんに添い寝してもらった、という暴露話を聞いたことがある。今回の寝かしつけの台本の原作はその時の話なのだろう。

 

 声の甘やかさといい話し方の自然さといい、なんでこうもクオリティが高いのかと思ったら、礼愛をモデルに見立てているからか。とんでもなく腑に落ちた。この出来も納得である。

 

『そんな顔しないで。寝るまで隣にいてあげるから。はい、目を閉じて。余計なことは考えないで、僕の声にだけ耳を傾けて』

 

 横にいる。

 

 あたしの隣からお兄さんの声がする。

 

 マイクの横側とかに移動したのか、片方の耳から強くお兄さんを感じる。そのせいで、本当にベッド脇にお兄さんがいるような錯覚に陥る。

 

『まずは嫌なことを忘れちゃおうか。ほら、体に力が入ってたら、もっと眠れなくなっちゃうよ? 嫌なこと、怖いことを忘れて、今日あった良いことを思い出してみて。……ん? 僕? 僕は……そうだね、今日のご飯はおいしく作れたなあ、とか。そういえば洗濯物干してる時に蝶々がタオルに留まってたなあ、とか。庭に小さなお花が咲いてたなあ、とか。くすっ……うん。そんな些細なことでいいよ。今日は雲一つなく晴れていて、吸い込まれるような空がとてもきれいだった。そんなことでも、いいんだよ。まるで落ちてしまいそうな、沈んでしまいそうな、星空だった、そんなことでも、いいんだよ』

 

 まずい。これ本当に催眠音声かもしれない。お兄さんが意図してやっているかどうかはわからないけれど、今のところ催眠音声に近しい気配を感じる。

 

 ファンサービスの過剰なお兄さんのことだ、これはきっと眠りに落とすにはどうすればいいかを考えた結果なのだろう。結果的に催眠音声と同じ道を歩んでいるだけだ。ていうか礼愛も一度デモで受けたんなら、お兄さんのやり方にストップ出しておけよ。

 

 この神に愛された声質に、ウィスパーボイスに、間の取り方。かかりやすい類いの人間は簡単に沈むぞ。

 

『そう、そう。リラックス、できてきたね。目、頬、唇、舌。ゆっくり、リラックスしていこうね。暖かくなってる場所、僕が触れてる場所、わかる?』

 

 お兄さんが、脳みそをどろどろに溶かすような甘い声で囁いてくる。

 

 どんどん深みに落ちていく感覚がある。本当に、あたしのおでこの部分が暖かくなってきている。お兄さんにそっと触られているように感じる。

 

 触られた部分が、心地よくなって、暖かくなって、そこから力が抜けていっているような感覚だ。

 

『うん、力抜けてきてるね。いいよ』

 

 あまりにもタイミングがよすぎて、実際にあたしのおでこを触っているのかと思った。

 

『次は肩、暖かくなってきたのわかるかな? 次は腕、力、抜いていこうね。手のひら、ゆっくり閉じていってみて? 僕の指、わかるかな』

 

 肩、腕、手のひらと暖かくなって、指示通りに手のひらを閉じていく。というかもはや頭で考えるより先に体が動いている。

 

 言葉に従ってゆっくり手を閉じていくと、感じた。お兄さんの長い指を握った感触。赤ちゃんがお母さんの指を掴むようなイメージで、手のひらでお兄さんの指を包むように握っている。

 

 なんだ、なんだこれ。手のひらに、たしかにお兄さんの暖かさを感じる。

 

 どうなっている。今あたしは、起きているのか。それともすでに寝ていて明晰夢の中に入っているのか。

 

 わからない。ここにいるはずのないお兄さんの体温を感じて、自分で意識しなくても体が動いていて、心地よい微睡(まどろみ)耽溺(たんでき)していて、夢と現実の境があまりにも曖昧になっていて、もうなにがなんだかわからない。

 

『うん、手のひら、暖かくなってるね。指、一度、離してもらっていいかな?』

 

 そうお兄さんはあたしの耳元でお願いしてくるけれど、この温もりを手放してしまえばお兄さんが離れてしまうような気がして、手が動かなかった。あるいは、手を開いて、と指示されなければ開けないのかもしれない。

 

『ふふっ、大丈夫、大丈夫だよ。ちゃんと、寝るまで一緒にいるからね。大丈夫だよ』

 

 手を開かなかったことを注意されてしまった。お兄さんを困らせたくはないので、ゆるゆると開いていく。手のひらから温もりが、お兄さんの体温がなくなってしまう。

 

『心臓の上のあたりに手を置くね』

 

 あたしが驚かないように一声をかけてから、お兄さんはあたしの胸の中央より心なし左側に手を置いた。胸元がじんわりと熱を持つ。気恥ずかしさより、今は安心感のほうが強かった。

 

『もうちょっと呼吸ゆっくりにしてみようか。吸って、吐いて、吸って、吐いて。すう……はあ……』

 

 呼吸を合わせるように、吸っては吐いてを繰り返していると、下のほうから『とん、とん……』と小さく音が聞こえ始めた。泣いている赤ちゃんをあやす時に胸や背中をとんとんとすることがあるけれど、それに似た音だ。

 

『一日のよかったこと、おぼえてる? 料理が上手にできた、かわいい花が咲いてた、蝶々が、ひらり、ひらりと、舞っている。夜空が、綺麗だった。真っ暗で、体が落ちていきそうなほど、綺麗だった』

 

 お兄さんの声が、どんどんふわふわとしてきて、ゆっくりとしてきて、一定のペースを刻むとんとんの音と、徐々に重なっていく。

 

『真っ暗な、夜空に、沈んで、沈んで……しずんで、しず、んで……』

 

 重なる音と声が、だんだん遠ざかって、あたしの体は沈んで、一定のリズムを保っていたはずのとんとんも、いつの間にか間隔が空いてきているような気がして、ほんとうに鳴っているのかすらわからない、あるいは幻ちょうかもしれないくらい、弱々しいとん、と一緒にあたしはきれいで黒にぬりつぶされた星空に、おちて、しずんで、とけて──

 

『おやすみなさい』

 

 ──お兄さんの、声。

 

「っ!」

 

 刹那、あたしは目を開いた。声を聴くや、開いた。そのつもりだった。

 

 あたしの目に映ったのは、自室の天井。窓から差し込んだ太陽の光が反射して照らされていた。

 

 隣を見た。もちろんお兄さんはいなかった。

 

「……あ、さ?」

 

 気がついたら、朝だった。

 

 ベッドの上で上半身を起こす。あたりを見やれば、ワイヤレスイヤホンは枕の近くに転がっていた。スマホは設定した通りにスリープ状態になっていた。

 

 朝、だった。

 

「なんか、すっごい気分爽快だ……」

 

 ここ最近の中では一番と断言できるくらい寝覚めがいい。寝過ぎたような頭の重さもなく、寝足りないような布団恋しさもない。とてもすっきりとしている。

 

 部屋の反対側のベッドに目をやれば、そこは無人だった。寧音はもうすでに起きているようだ。

 

「…………ああ」

 

 起きるまでお兄さんは(そば)にはいてくれなかったのか、と落胆した。

 

 二、三秒ほどしっかりと間を置いて、そんな自分に驚く。

 

 最初からお兄さんはいなかったのだ。

 

 でも無意識的にそう考えてしまうほど、お兄さんを近くに感じていた。左胸にはまだ温もりが残っている気さえする。そう、ホラー映画を観て眠れなかったあたしを、とん、とん、と胸のあたりをぽんぽんしながら寝入るまであやしてくれていたのだ。

 

「……完全に落ちてたなぁ……」

 

 こうなってくると、お兄さんの昨日(日付的には今日)の配信タイトルは誤りでしかないだろう。余裕で寝かしつけの域を超えている。

 

 相手の眠気を誘うのではなく、眠りに落ちるまで強制的に持っていくのは寝かしつけではないのだ。それで言うと、寝かしつけの範疇に収まっていたのは本題開始前の企画説明の部分だけだった。

 

 その後は完全に催眠の導入だった。

 

 お兄さんがどれくらい催眠音声を意識して台本を書いたのかわからないけれど、あの仕上がりでまったく意識していないなんてことはないはずだ。

 

 おそらく、寝かしつけ配信をすると決めた段階で、どうすれば聴いている人を気持ちのいい睡眠に導けるかお兄さんは情報収集したはずだ。その時に、催眠音声も参考資料として学んだのだろう。

 

 状況設定に沿った話運び、滞りなく眠りにつくための誘導と、寝入ることが難しい人用の催眠。どれも無理のない展開だったが、なによりも自然だったのは催眠への導入だった。

 

 催眠音声を聴いたことのある人でも、おそらくは経験のない入りだったと思う。耳に心地よく、その上最近身につけたとは思えない卓越した技術に裏づけされた声に集中していたところでのあの導入は避けられない。

 

 十八時起きで、実稼働時間六時間のあたしでさえ難なく『寝かしつけ』られた。不眠症の人とかにも効果がありそうなレベルだ。催眠音声フリークも満足の出来栄えだったろう。一つ悔やまれるとすれば、これだけ抜きん出た催眠音声適性があるのに刺激的(センシティブ)な内容のものを出してくれる見込みがないことだろうか。事務所の許可はともかく、確実に礼愛の許可は下りない。

 

「あぁ、くっそぉ……あたしが耐えていればワンチャンあったのになぁ……」

 

 礼愛は通話で、あたしがお兄さんの寝かしつけに耐えられれば、もし次回があった場合、その時の台本を書けるよう交渉してくれると言っていた。礼愛なら絶対あたしがいかがわしい内容の台本を書くと予想していただろう。なのにあそこまで言ってきたのは、礼愛もお兄さんの『寝かしつけ』を受けて、その威力を実感していたからなのだ。あたし程度では到底耐えることなんてできないと踏んでいたのだ。その通りで草。

 

「……はぁ」

 

 お兄さんの声で寝落ちすることができてとても気持ちがいい反面、台本を書けなくなったことで落ち込む。

 

 嘆息しつつ、スマホを手に取る。

 

 充電器を繋いで寝たのでバッテリーはマックスだ。時間は、学校がある時と同じくらいか、それよりも若干早いくらい。目覚ましもないのにこんなに早く起きるなんて、あたしにとってはかなり稀なことだ。

 

「ん? 通知?」

 

 メッセージアプリに通知がきていた。

 

 どうせ賭けに負けたことを礼愛に伝えないといけなかったので、ついでと思ってメッセージアプリを確認する。

 

 ごく稀にお兄さんからメッセージが届くこともあるけれど、基本的に通知があったら礼愛の可能性が高い。今回も当たり前のように礼愛だった。

 

 最初に通話がかかってきていたようだ。通話が切れて二分後にメッセージがあった。

 

『寝てて草』

 

「こいつっ……」

 

 あたしがわざわざ礼愛に伝えるまでもなく、あいつはすでにあたしが寝落ちしていることを確認してきていた。端的に煽ってきてるのが腹立つ。たった四文字でこんなにも人をむかつかせることができる礼愛は悪い意味で天才だ。

 

 しかし、寝るか寝ないかという賭けの勝負で、あたしは寝てしまった。明確に勝負に負けた。ここからなにを言おうと負け犬の遠吠えにしかならない。悔しい。既読無視しておこう。

 

 賭けには負けたのでお兄さんの『寝かしつけ』の台本を書くチャンスは失ったけれど、まだお兄さんのボイスドラマの台本を書くチャンスはある。

 

 昨日寧音が言っていた通り、手描き切り抜きやイラストで貢献できれば、こういうボイスドラマやってほしいです、とリクエストができるかもしれない。その流れで『お兄さんも忙しいでしょうし、なんならあたしが台本用意しますよ?』という感じでそれとなーく台本を書く役目をもぎ取れるかもしれない。

 

 そのためにも、手描き切り抜きをもっとがんばらないといけないな。

 

「んーっ! なんかめっちゃいいの描ける気するっ!」

 

 意識は明瞭、気分は爽快。せっかくだし、ご飯食べたあとは、ぱぱっと身嗜み整えて軽く家の周りをお散歩でもしてこようかな。軽く運動したあとならとっても気持ちよく描けそうだ。お散歩しながらどんな構図でイラストを描くか、イメージを膨らませよう。

 

 ベッドの上でぐぐっと背伸びして、勢いよく布団を跳ね除けた。

 

 

 




『寝かしつけ』配信でした。フラグは回収するもの。

次はお兄ちゃん視点です。
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