サイコバグなお兄ちゃん、Vtuberになる。   作:にいるあらと

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歌っているところは書かないと言ったな。あれは嘘だ。

こういう感じなら間に合うかなと思って休みを使って書いてみたら間に合ったので書き足しました。その分今回は長くなってしまいました。
ただ書いてみたはいいんですけど、求められているものがこういう形なのかはわかりません。楽しんでもらえるといいんですが。


わたしはどうやらここまでのようだ。

 

 ロックバンドグループのバイブスが上がる名曲をお兄さんが歌って全身の血液が沸騰したり、お兄さんとれー姉の尊いが過ぎるデュエットを聴いたり、れー姉とゆー姉の息も声も合ったデュエットを聴いたり、ゆー姉と梓ちゃんのアニソンに合いの手を入れたり、わたしと由紀ちゃんと梓ちゃんでマイクを回しながら一緒に歌ったりもした。

 

 部屋を出なきゃいけない時間までもうそろそろ。あと二人は回らないな、次がラストの一曲だな、というタイミングで狙い澄ましたかのようにお兄さんにアンカーのバトンが渡された。

 

 最後にお兄さんの歌で〆る。どんな運命だ最高かよこれだけで神の存在を信じてもいい。

 

「お兄ちゃん、なに歌うの? 『誓い歌』?」

 

「最後の一曲で、しかもこの部屋でラブソングっていうのも、ね?」

 

「えー! うち兄ちゃんの『誓い歌』聴きたーい!」

 

「うーん……以前人前で歌ってみたらとんでもないことになったから、なるべくなら控えたいかなあ、って」

 

 『誓い歌』は、れー姉が配信でもしばしば『お兄ちゃんに歌ってもらったんだー』とリスナーに自慢している珠玉のラブソングだ。

 

 それが直に聴けるのであれば是非とも聴いてみたい思いはあるけれど、直接聴いてしまった場合ときめきすぎて心臓が活動を停止する恐れがある。

 

 この部屋には中学生の女の子がいるんです。由紀ちゃんはともかく、お兄さんを推してるわたしと、お兄さんのことを推しも同然の認識をしている梓ちゃんがいるんです。心臓に負荷がかかる行為はちょっとまずいです。

 

「あ、そうだ。お兄ちゃんあれは? 『青色花火』。音楽番組で流れてた時にこの曲いいねって言ってたよね?」

 

「そうだね、何度か聴いたしそれにしようかな。果たしてラストの曲に相応しいかはわからないけど……失恋ソングだし」

 

「そんなの言い出したらどの曲ならふさわしいのって話になるでしょ」

 

「そうじゃんそうじゃん礼愛姉の言う通りだし! テンション上げて終わってもしっとり終わってもそれはそれでいいっしょ!」

 

「まあ、それもそうか。というか、最後に歌う人って本当に僕でいいの? 歌いたい人がいるならその人に……」

 

「いやなに言ってるんですかお兄さん。最後に歌うのならお兄さん以外にいませんよ。お兄さんを押し退けて自分が歌う、なんて言える人間はここにはいません」

 

 わたしが言おうとしたことをぜんぶゆー姉が代弁してくれた。わたしも、隣の梓ちゃんも二人して同じようにこくこくと頷く。

 

 一曲目に歌っていた男性三人組ロックバンドの夏らしいアップテンポな歌もそうだし、れー姉とデュエットで歌ってた恋人同士の痴話喧嘩を綴ったような二曲目も、ゆー姉と梓ちゃんのリクエストによるアニメ主題歌の三曲目も、どれも半端ではない歌唱力で歌い上げてくれた。

 

 そんなお兄さんを差し置いて自分が歌おうというような自信家はこの部屋にはいないのだ。

 

「そ、そうなんだ……それじゃあ僕が歌わせてもらうね」

 

 お兄さんがゆー姉と話している間にれー姉は端末で曲を入れていたみたいだ。メロディが流れ始めた。

 

「ほい、(あん)ちゃん。ばっち歌ってね!」

 

「期待が重いけど……うん、ありがとう。由紀さん」

 

 一曲前に歌っていた由紀ちゃんからお兄さんはテーブル越しにマイクを受け取った。

 

 マイクを握り、大きく息を吸って一度目を(つぶ)る。再び目を開いたころには、まるで別人なんじゃないかと錯覚するくらいに雰囲気が変わっていた。

 

「『「今夜の花火大会、一緒に見に行かない?」溢れそうな不安、押し殺して君を誘った』」

 

 ディスプレイに表示される歌詞を見ながら、お兄さんは歌い始めた。

 

「『乗り気じゃない、顔見ればわかった。叶わない恋、前からわかってた』」

 

 眉を曇らせて、裏側に大きな悲しみを隠しながらも表面上は平気そうに振る舞うように歌う。

 

 歌はまだ始まったばかり、まだAメロなのに、お兄さんのその表情と声でわたしはすでにうるっときてる。

 

「『君の好きな人は僕の親友で、君がどれだけ、惹かれてるかも知ってるよ。わかっていたけど諦められなくて、君が街を出る前、これが最後のチャンス。自分に言い聞かせて、君の手を引いた』」

 

 この歌は、悲恋の歌だ。長い間好意を寄せていた人と少しずつ仲を深めていたはずなのに、いつの間にか親友と付き合っていて、自分の手の届かないところへ行こうとしている。もう手遅れなのはわかっているけど、最後に想いを伝えようとする歌。

 

 こういった失恋や悲恋を、お兄さんは経験したことがあるんだろうか。そんな経験はないんじゃないかってわたしは思う。お兄さんが振る側ならともかく、振られる側というのは想像がつかない。

 

 想いが実らなかったことなんてなさそうなのに、なのにどうして、お兄さんの歌声はこんなにも胸を締めつけるんだろう。

 

「『夜空に咲いた大輪の花は、赤、黄、緑、天を仰ぐ人たちの笑顔彩って。綺麗だねって呟く僕に、そうだねって答えた君の、俯いた顔照らす青色花火。今夜散った愛色花火』」

 

 まだ一サビの終わり。これで終わりなわけじゃない。これで終わりなわけがない。この歌はラストの大サビが一番涙腺に響く。

 

 言うなれば、今はジェットコースターの落ちる前だ。まだ上がっている途中だ。

 

「っ……」

 

 なのにもう、わたしは泣きそうになっている。お兄さんの顔がぼやけてちゃんと見えないくらい涙が溜まっている。

 

 やだ。いやだ。ちゃんと見ていたいんだ。目に焼きつけておきたい。配信でもまだ歌ったことのないお兄さんの生歌を聴く機会なんて今後あるなんて思えない。この記憶が決して薄れないように脳みそに刻みつけておきたい。

 

「『閉店まで飲み明かしたこともあったね、飲みすぎた君を家まで送ったっけ。映画を観に行ったこともあったね、お洒落なカフェにも詳しくなったよ。オールでカラオケとか数え切れないし、二人で買い物も何度行ったかわからない』」

 

 ああ、ずるい。この歌はPVも刺さるんだ。

 

 この歌『青色花火』が話題になったのは動画共有プラットフォームからだった。曲も歌詞もさることながら、PVが胸にぐさぐさ刺さるとバズった。

 

 サビでは花火大会に『君』と一緒に行っているシーンが流れていた。今は、アルバムを開いて懐かしむように、『君』との思い出を振り返っている。

 

 楽しかった時の二人の出来事を思い出しているシーンだからか、お兄さんの声も強がって無理をしてるような明るさで。それがなおさら、胸が痛い。

 

「『今君は僕の隣にいるのに、でも君の心に僕はいないんだ。一緒に過ごした時間って、なんだったんだろう。君にとって僕って、なんだったの?』」

 

 こんなにもたくさんの楽しい出来事があった。こんなにも一緒にいたのに、どうして僕じゃなかったんだろうと。切実に叫んで、悲痛に押し殺した。それでもわずかに口からこぼれてしまったような非難。

 

 歌声から、それらの言葉にしづらい感情が伝わってくる。そういう感情が、お兄さんの声には込められている。

 

「『僕の暗い人生を、鮮やかに彩った君色花火。ぱっと咲いて今夜散った、また独りに戻る灰色花火』」

 

 二サビが終わり、残るはCメロと大サビ。

 

 だめだ。耐えられる気がしない。心を一番揺さぶってくるのはここからなのに、もうわたしはいっぱいいっぱいだ。

 

 瞬きしたら涙がこぼれるのを確信している。ハンカチはバッグの中だ。取れない。鼻の奥のほうが沁みるようにつんと痛い。

 

 この際、紙ナプキンとかおしぼりでもいいやって思って、涙がこぼれないようになるべく顔を下に向けないようにして探していると、視界の端になにかが落ちたような気がした。隣に座る梓ちゃんをちらと盗み見る。

 

「っ……んくっ、すんっ……ぐすっ」

 

 ぽろぽろと、梓ちゃんは大粒の涙を滴らせていた。感受性豊かな梓ちゃんにはお兄さんの歌は効きすぎてしまっているようだ。

 

 心配しないでほしい。わたしもすぐにあとを追うことになる。

 

「『ぬるくなったビールには手をつけず、トマト嫌いなのに頼むカプレーゼ、好きな映画はラブロマンスとスプラッタ、ココアパウダー振ったカプチーノ、影響されて好きになったVOCALOID(ボカロ)、計画性のないショッピング、誕生日は八月二十日、君とのすべてが忘れられないけど』」

 

 Cメロに入って、Bメロで出てきたアルバムから一枚、また一枚と思い出の写真がひらりひらりと落ちていく。Bメロの時は静止画だった思い出がCメロでは動画になっているという演出がされている。

 

 動画みたいに枠の中で動いている思い出の写真がひらひらと舞いながらごみ箱に落ちていく。

 

「『クリスマスに作ったチーズケーキ、バレンタインで渡したガトーショコラ。今考えればわかるんだけどな、気がないことはわかってたのにな』」

 

 Bメロの時はアルバムを開いて懐かしむだけだった。これからもどうにかこんな日々を過ごせないかなと期待していた。

 

 なのにCメロでは、そのアルバムに入っていた写真を捨てている。もう内心では諦めてしまっているという心理描写だった。

 

 それを反映させるようにお兄さんの声色も悲愴なものになっていく。

 

 否応もなくわたしの心はぐちゃぐちゃに踏み潰される。

 

「『夜空に咲いた大輪の花は、赤、黄、緑、天を仰ぐ人たちの笑顔彩って。綺麗だねって呟く僕に、そうだねって答えた君の、右手には青く光るスマホ、映ってるのは『あいつ』の寝顔』」

 

 Aメロの時には映されていなかった、俯いていた『君』の手元。

 

 周りの人たちは見上げた顔が花火の色で鮮やかに彩られているのに、俯いている『君』が青色に照らされているのは『あいつ』との写真を表示しているスマホを見ているから。

 

「『年に一度の打ち上げ花火より、隣に立つ僕なんかより、俯いた君を笑顔にするのは、青く光る『あいつ』との写真か』」

 

 一緒に花火を観にきてるのに、横に『僕』がいるのに、『君』はいつでも見れる『あいつ』の写真を見て微笑んでいる。

 

 そのことに馬鹿にされたと怒るでもなく、『あいつ』へ嫉妬するでもなく、ただ『君』にとって『僕』は心の隅にも置いていないような存在なんだと知って悲しんでいる。

 

 かすかに顔を覗かせる独占欲や、もうどうにもできないんだなというような寂しげな諦念、最後に少しだけでもいいから振り向いてほしい恋心、もっと自分が押していたら結果は違っていたのかなという後悔も、その声はたしかに持っている。お兄さんの歌声にはすべてが乗っている。

 

「『わかってた、知っていた、僕なんかじゃ、ダメだって。それでも今日は、せめて今日だけは、僕を見ててよ、僕だけ見ててよ。……そんなこと、言えないや……。夜空に咲いた、大輪の花。今夜散った、愛色花火。せめて最後は、幸あれと祈るよ。君と『あいつ』の、青色花火』」

 

 この『僕』は『君』のことがとても大事で、とても大切で、『あいつ』のことは恨んでいても嫉妬していてもおかしくないのに、それでも最後は二人の幸せを願ってしまうような、そんな優しい『僕』。

 

 もちろん『君』に対しても『あいつ』に対してもいろんな想いがあった。絶対にポジティブな感情だけじゃなかった。それでも最後にはすべて呑み込んで二人の幸せを祈った。

 

 そんな相反するような感情も、白と黒では区別できない複雑な感情も、お兄さんは表現していた。

 

 叫ぶように、がなるように、声を震わせて振り絞るように。心の奥深くにまで突き刺さるくらい、表現していた。

 

 どうしてこんなにも感情豊かに歌えるのかわからない。

 

 一曲目ももちろん上手だったけど、一曲目はここまで痛切なほどには感情は乗っていなかった。

 

 この『青色花火』だけ、痛々しいまでに感情が込められていた。それはもう、聴いているこちらの感情がぐちゃぐちゃになるくらいに。

 

 気付けば、拭うこともできずに頬を伝って涙の雫が落ちていた。

 

 お兄さんの歌の余韻を味わいたい。その気持ちはとても強くある。でもこんな顔をお兄さんに見せられるわけがなかった。

 

 ゆー姉にこの場をどうにかしといてとお願いして、わたしと梓ちゃんは由紀ちゃんの手を借りながら部屋を出て、化粧室へと避難した。

 

 

 こうして、わたし史上最高のカラオケは終わった。

 

 本当に、この上なく幸せな時間だった。

 

 まるでライブに行った後のようなふわふわとした夢見心地に浸っていて、こんなのお金払わずに帰っていいわけがないと思った。

 

 でもお兄さんはわたしからお金を渡されても絶対に受け取りはしない。そのくらいはわたしでもわかってた。

 

 だからせめてお会計はわたしがしよう。

 

 そう思っていたのに。

 

「すいません、お兄さん。お会計まで……」

 

「僕から誘わせてもらったんだから、ここは払わせてもらわないとね」

 

 結局お兄さんが支払いを持ってくれた。わたしもこそこそと機は窺ったけど、お兄さんに隙はなかった。守りが堅すぎる。

 

 なんなられー姉に、例のアイコンタクトでみんなを外に連れ出すように指示していた。気を遣わせないようにという配慮まで施されていた。あまりにも如才ない。

 

 お会計の順番を待つ間に、お兄さんは歌もダンスも褒めてくれた。ダンスに関しては由紀ちゃんに無茶振りされただけなんだけど、お兄さんからたくさんかわいいと褒めてもらえたのでプラスマイナスで言えば大幅にプラスだ。顔から火が出るどころか体に火がついたような羞恥心を味わわされたけれど、直接かわいいと言ってもらえる対価だと考えれば安いもの。歌もダンスも本気でやりきっただけの甲斐はあった。

 

 お会計も終わり、お店の外で待っているゆー姉たちに合流しようと外に体を向けたけれど、お兄さんはこちらを向いた。

 

「あ、そうだ。僕、寧音さんに言いたいことがあったんだ」

 

 そう言って、お兄さんはわたしとの距離を詰めてくる。

 

「え? えっ? な、なんっ……です?」

 

 あまりにも躊躇いなく近づいてくるお兄さんに驚いて後ろに退がろうとするも、すぐに背中が壁についた。これ以上後ろに行けないってなってもお兄さんは接近し続け、体の一部すら接触していないのが逆に不思議なくらいの距離でようやく止まった。

 

 同時にわたしの思考能力も止まった。息も止まりかけた。どういう状況だ、これは。

 

「手描き切り抜きのこと、まだ直接お礼言えてなかったから。寧音さんもとても忙しいのに引き受けてくれて、本当にありがとう」

 

 誰かに聞かれたくなかったみたいだし耳元で声を潜めて話したかったのだろうけれど、身長差がありすぎた。お兄さんはわたしの頭のすぐ上に口を寄せて囁いた。

 

 鼻腔をくすぐるお兄さんの清涼感のある香りと、耳から入って脳を侵すようなウィスパーボイス。視界がお兄さんの胸元で埋め尽くされている分、余計にほかの感覚に意識が集中してしまった。

 

「ぴゃっ……ぃ、いえっ。ま、前に、通話でお礼言ってもらってますから、そんなの、ぜんぜんっ……ち、近っ」

 

 近い、近いのだ。離れてもらわないと、本当にそろそろ呼吸が怪しくなってくる。頭の中で考えていることが千々に散って溶けていく。言葉がまとまらない。もやもやとして不明瞭な頭の中で、お兄さんの声と心臓の拍動だけが鳴り響いている。

 

「直接顔を合わせられる距離にいるのに通話だけっていうのも、なんだかなって思って」

 

「ぜんぜん、気にしないでもっ、ぁいっ……。あん、あ、あふっ……あんなの、ファンからすれば趣味だからっ……だいじょぶれす」

 

 お兄さんの話している内容も今ひとつ理解が追いついていない。耳から注入された甘美な毒が脳を弛緩させる。耐え難いのに心地のいいぴりぴりとした痺れは耳と頭を蹂躙し、背筋に沿って全身へと回っていった。

 

「ふふっ、夢結さんと同じようなこと言ってる。姉妹だなあ。こうやってお礼を言うのも僕の自己満足かもね。ごめんね」

 

「はっ、んぁっ、ぃっ……いえっ、感謝っ、は……だいじだし、だいじなことだと思い、ます……」

 

 指の一本も、髪の一本も、お兄さんとは触れ合っていない。体温さえ届きそうな距離にいるのに、直接触れることはない。

 

 そんな時に、お兄さんが小さく笑みをこぼして、吐息がわたしの頭を撫でた。

 

 瞬間、ぱちっと火花が散るように視界の端が白く飛ぶ。背を走る電流と、内臓が持ち上がるような形容し難い感覚に襲われる。比喩でもなんでもなく、本当に一瞬息が止まった。

 

 もはやお兄さんと会話ができている気がしない。ぎりぎり脳みそまで届いた単語に対して、その場しのぎの言葉を装飾して返しているだけだ。

 

「寧音さんにとってはどうってことないかもしれないけど、僕にとってはとても嬉しいことで、なによりとても助かったんだ。だから僕にできることがあったらなんでも言ってね。お返しさせてほしいから」

 

「っ、ぁっ……だっ! っ……は、ぃ。あぃがとう、ごじゃしゃすっ……っ」

 

 『僕にできることがあったらなんでも言ってね』という言葉を頭で認識したその時には、わたしの意思を介する間もなく口が私欲にまみれた欲望を声に出そうとしていた。

 

 なけなしの理性を必死で掻き集めて抑え込む。

 

 お兄さんの優しさは知っている。義理堅いのも、慈悲深いのも、よく知っている。

 

 でも、あまりにも不注意がすぎる。考えがなさすぎる。その発言がどれだけ人の良心を試しているのか、お兄さんはまるで理解していない。

 

 きっと大抵のお願いならお兄さんは笑みを湛えながら快諾するのだろうけれど、してしまうのだろうけれど、だがしかしこれはそういう話ではないのだ。

 

 推しにささやかなお願いを聞いて欲しいという願望と、推しに邪な欲望をぶつけたくないという良心のせめぎ合いがオタクの心の中で勃発していることを、お兄さんには理解してもらいたい。

 

 迂闊な発言は控えてほしい。あと不用意な接近も避けてほしい。オタクにはオタクの矜持と葛藤がある。魔が差したらどうするんだ。

 

「あははっ、なんで寧音さんがありがとうなの? 僕がありがとうって感謝する立場なのに。それじゃみんなのとこ行こうか。待たせちゃってるしね」

 

「……ぁぃ」

 

 声を潜めなければいけない話が終われば、こうして身を寄せる必要もない。

 

 お兄さんがわたしから離れる。

 

 出口に向かおうとするお兄さんを追おうとするも、わたしの足は言うことを聞いてくれない。

 

 幸せの許容量を超えてしまったのだ。足ががくがくしている。膝が笑っている。おそらく誰も(れー姉以外は)聞いたことのないお兄さんの至福の生ASMRを脳髄に直で流し込まれたのだから当然だ。

 

 一歩でも足を踏み出せば、その場でかくんと膝を折って床にへたり込む自信がある。顔も、のぼせたみたいに熱い。だらしない表情をしてそうなのでお兄さんの顔も見れない。

 

 わたしはどうやらここまでのようだ。お兄さん、わたしのことは気にせず先に行ってくれ。

 

「調子が戻るまでどうぞ。僕の手でよければ、だけど」

 

 お兄さんが手を差し出してくれた。

 

「ありがと、ございます……」

 

 推しに文字通りの意味で手を(わずら)わせるなんてオタクとしてもファンとしてもあるまじき行いだけど、とてもうれしかった。

 

 大きな手のひらに、わたしの手を乗せる。本当に触れていいのか、このまま握ってしまってもいいのかとおっかなびっくりだったわたしの手を、お兄さんは包み込むように握ってくれた。

 

 その大きな手は少しひんやりしていて、火照って熱く感じていたわたしにはとても心地よかった。

 

 

 

 *

 

 

 

「ん……ふぁ、あふっ……」

 

 カラオケ店の前で由紀ちゃんと梓ちゃんとは別れ、わたしはお兄さんの車で送ってもらっていた。

 

 ちょうどいい車内の温度と、お兄さんの丁寧な運転によって最小限に抑えられている揺れ。抱き枕みたいになっている大きなぬいぐるみ。今日一日はしゃぎすぎた疲労が一気にきた。

 

 (まぶた)が重い。あくびがこぼれた。

 

「ん? ……ふふっ。寧音さん、疲れた?」

 

「んっ?! ご、ごめんなさいっ」

 

 油断していた。完全に気が(ゆる)んでいた。ぬいぐるみを両手で抱っこしているので口も押さえていなかった。恥ずかしい。

 

「あははっ、何に謝ってるの寧音さんは。そこまで時間はかからないと思うけど、お家に着くまで寝ててもいいよ?」

 

「い、いえっ、だいじょぶですっ」

 

 家まで送ってもらっているのに一人だけ寝こけるなんてできない。それにせっかくお兄さんの車に乗せてもらっているんだ。運転している姿を目に焼きつけておきたい。

 

「寧音ちゃん寝てたら? お家着いたら起こしてあげるよ。ほら、どうぞ?」

 

 隣のれー姉が肩をぽんぽんと叩きながら勧めてくる。

 

 わざわざ肩にかからないように、れー姉は綺麗な黒髪を耳にかけたり、反対側に流してくれていた。車には酔わなくてもれー姉の色香に酔わされそうだった。かっこいい。

 

「れ、れー姉っ、大丈夫だよっ! もう起きたっ」

 

「えー、そう? 歳下の女の子に肩貸すの、憧れだったんだけどなあ」

 

「礼愛あんたそれ、後輩の前で言っちゃだめだからね」

 

「なんでよ。いいでしょべつに。まあ、肩貸すなんて機会はそうそうないけどさ」

 

 れー姉とゆー姉がわたしの頭上を飛び越えて言葉のキャッチボールをしていた。

 

 ふと思ったけど、どうしてわたしが真ん中なんだろう。

 

 車に乗り込む時にれー姉に言われるがまま乗ったからなにも疑問に感じていなかった。よく考えるとわたしが後部座席の真ん中に座ってるのっておかしいよね。

 

「そうだ、寧音さん。後からメッセージで伝えようと思ってたけど、ちょうどいいから今言っとくね」

 

「え? なんです?」

 

「映画館でまるで僕と夢結さんが付き合っているみたいな話をしちゃったんだけど、あれ誤解なんだよね。ごめんね」

 

「ですよねぇぇっ?!」

 

 よかった。やっぱりゆー姉がお兄さんと付き合ってるなんて非現実的で非科学的な現象は発生してなかったんだ。

 

 薄々あれは嘘なんじゃないかなとは思っていたのだ。あのゆー姉がお兄さんと奇跡的に付き合えたとして、あんなにふだんの生活に変化がないなんておかしいし、お兄さんが話していた付き合うに至るまでの話にも不可解な点が散見されていた。

 

 わたしは最初から気づいていた。でもそれはそれとして神様ありがとう。

 

「声でっか……寧音うるさいって」

 

「あははっ! あれかあ! ふっ……くふふっ、あははっ」

 

「礼愛は笑いすぎでしょ……。あの時あたしがどれだけ焦ってたか……」

 

「でもどうしてあんな……付き合ってる、だなんて嘘を?」

 

「最初は付き合ってるって装うつもりはなかったんだ。僕が由紀さんの質問を勘違いしちゃったところが元凶だね。『二人って……』って訊かれた時に『アニメとか好きなの?』みたいな質問が飛んでくると思っちゃって。だから『僕から強引に夢結さんを誘って映画に付き合ってもらったんだよ』みたいに伝えるつもりだったんだけど、ちょっと僕の言葉が足りなくなっちゃって、でもなぜか会話がうまく噛み合っちゃって勘違いさせちゃったんだ。ごめんね」

 

 お兄さんはわたしたちにゆー姉と付き合ってるなんていう勘違いをさせるつもりはなかったらしい。それは構わないのだけど、そもそもどうしてお兄さんは『強引に夢結さんを誘って映画に付き合ってもらった』ということにしたかったのだろう。きっとアニメの劇場版を観たかったのはゆー姉、それとれー姉で、お兄さんは誘われたから同行したというくらいの熱量だっただろうに。

 

「い、いえ……それはぜんぜん、いいんですけど……。どうし、いってっ……え、なに?」

 

 お兄さんに訊ねようとしたわたしの脇腹に、ゆー姉が肘をぐっと食い込ませた。文句を言う前にゆー姉は先んじて耳打ちしてきた。

 

「……あたしと、あんたのため」

 

 短く、それだけ伝えてきた。

 

「……どういう?」

 

 ゆー姉の言葉に首を(かし)げるわたしに、れー姉がつけ足してくれた。

 

「由紀ちゃんが偏見とかなくてよかったよね」

 

「……あ」

 

 吐息混じりにれー姉はわたしの耳元で囁いた。

 

 その補足で、ようやく繋がった。

 

 お兄さんは映画館の時が由紀ちゃんと初対面で、どういう子なのかわかっていなかったんだ。

 

 由紀ちゃんは、その人がどれだけアニメやマンガを好きだろうと、それだけで見る目や接し方を変える子じゃないので、結果的に杞憂ではある。

 

 杞憂ではあるけど、一目見て、簡単に自己紹介しただけですぐにそんなことがわかるわけない。

 

 だからお兄さんは最悪の場合に備えて『強引に誘った』ということにしたのか。姉がオタクだということを知った時、もしかしたら妹であるわたしにまで悪印象が波及するかもしれないから。

 

 それならお兄さんの予想通りになってしまったとしてもわたしへの影響はほとんどないに等しいだろうし、付き合っただけのゆー姉は逆に同情の目で見られるかもしれない。わたしたちは嫌な思いをせずに済むかもしれない。

 

 でも、その分お兄さん一人だけが、嫌な思いを背負うことになるんじゃないだろうか。

 

 わたしたちに嫌な思いをしてほしくないとお兄さんが思ってくれて、あの短時間でいろいろ考えてくれたのは、もちろんうれしい。

 

 だけどわたしたちだって──わたしだって、お兄さんにはもう嫌な思いをしてほしくない。お兄さんはVtuberとしてデビューした時にあれだけ嫌な思いをしたんだから、これ以上嫌な思いをする必要なんてない。

 

「っ……?」

 

 お兄さんに、人のことより自分を大切にしてくださいとお願いしようと口を開いたら、声に出す前にれー姉に人差し指をあてられた。少し悲しそうな困り顔を浮かべていた。言っちゃだめ、ということなのだろうか。

 

 ゆー姉に目を向けても、嘆息とともに肩をすくめられた。

 

 もしかしたら、二人はすでにお兄さんにそう言ったのかな。

 

 であれば、わたしがもう一度言ってもあまり変わりはしないだろう。お兄さんなら注意されても、その場ではわかったよと言いつつ、いざとなれば結局同じことをしそうだ。

 

 お兄さんがそういう手段を取らざるを得ない状況に陥らないよう気をつけたほうが、効果はあるかもしれない。

 

 仕方ない、か。お兄さんはこういう人なんだろうし、こういう優しい人だからわたしは推してるわけだし。

 

 そのわたしの推しは安全運転のため前方を見据えながられー姉とお話ししていた。

 

 美形二人の美声は、自分が話に加われなくてもただ聴いているだけで耳と心が幸せになる。穏やかな口調で言葉を交わす二人の会話は気持ちが落ち着いて、とても聞き心地がよい。

 

「……ふぁ、っ、んん……」

 

「はい、どうぞ」

 

「ん。……ん? ちょっ、れー姉っ」

 

「あははっ、だって寧音ちゃん眠そうだったから、つい」

 

 目がしょぼしょぼして長めに瞼を閉じていた間に、れー姉に頭を支えられて肩まで誘導されていた。あまりにも自然な所作だったので、れー姉に体を傾けて肩を借りるところまでいってしまった。恐ろしいまでのお姉さん力。

 

「帰ったらすぐ休んでね、寧音さん」

 

「そうだよ、寧音ちゃん。今日はいろいろあって疲れただろうし」

 

 二人に優しい言葉をかけられて心が揺らぎそうになる。お風呂入ってベッドに飛び込んだらそのまま朝まで熟睡できる自信がある。

 

 しかし、わたしの脳内リマインダーにはやらなきゃいけないことが列を成しているし、やりたいこともその列の最後尾に続いている。

 

「うぅ……で、でも、勉強しとかなきゃ。イラストも描きたいし……」

 

「勉強も大事だし、そんなに疲れてても頑張ろうとするのはとても偉いけど、眠たい時にやろうとしても効率悪くなっちゃうんじゃないかな?」

 

「お兄ちゃんの言う通りだよ。早く寝たら早めに起きれるだろうし、起きてからやればいいんじゃない?」

 

「でも、でも……その日の分の勉強終わらせてからじゃないと、イラストに手をつけちゃだめって決めてて……」

 

 気晴らしに、みたいな考えでイラストを描き始めてしまえば最後、勉強に戻るなんてできなくなるし、眠気が限界に達するまで手が止まらなくなる。

 

 だからわたしは、その日の分の勉強を片付けなければイラストに取りかかってはいけない、というルールを定めた。そうすればイラストを描きたいという欲で勉強もがんばれる。一石二鳥だ。

 

 その代わり、なにか用事があって勉強の時間が削られてしまうと必然的にイラストを描く時間がなくなってしまうというデメリットもある。

 

「そのイラストって、手描き切り抜きのものだったりする?」

 

「っ……」

 

「あ、あのぉ……」

 

 てめぇ、余計なこと言いやがって。と言わんばかりの圧がゆー姉から発されている。わたしも口を滑らせた自覚はあるよ、ごめんって。

 

 どうにか言い訳の言葉を捻り出そうとするが、その前にお兄さんが続けた。

 

「手描き切り抜きをやってくれてるのはとても嬉しいし、二人の応援はとても僕の力になってるよ。新しいのが投稿されたら絶対に観るし、たまに観直してもくすって笑っちゃう時もあるし、イラストがどんって出てきたら、やっぱり夢結さんと寧音さんはすごいなって感動する」

 

 めっちゃくちゃ褒められてる。この上なく褒められてる。褒め殺しだ。大絶賛だ。手描き切り抜きの動画には悪魔兄妹の知名度のおかげでたくさんのコメントが送られてきているけど、本人に直接いつも観てるって言われて、本人に直接感動するって言われるのは誰に言われるよりもうれしい。

 

 うれしいのに、この後に続けられるだろう話がわかってしまうので素直に喜べない。

 

「でもまず何よりも最優先にするのは寧音さんの健康だよ。勉強とお友だちとの付き合いが優先、体力や体調との兼ね合いを見て休息を取る。手描き切り抜きは余裕があればでいいんだ。無理を言ってるのは僕たちなんだから、睡眠時間を削ってまで急ぐ必要はないよ。やってくれてるだけで僕たちは嬉しいんだ。だからゆっくりやってくれればいいんだよ」

 

「……ふぅ。まぁ、時期も時期だし、優先するべきなのはどっちかってことですよね……」

 

「そういうことだね。もちろん、頑張って急いで手描き切り抜きやイラストを描いてくれてるのは言うまでもないくらいとても嬉しい。次はいつ投稿されるのかなって楽しみにもしてる。でもそれで寧音さんの健康を害すことがあっちゃいけないから。これについては夢結さんもだけどね」

 

「えあうぇっ……あ、あたしも?」

 

「あたりまえだよ。なんで夢結さんは関係ないみたいな振る舞いしてるのさ。最近は規則正しい生活をしてくれているっていうリークは入ってるけど、無茶しがちなのは夢結さんもだからね」

 

「リーク……礼愛っ!」

 

「夢結ー、すぐ私のこと疑うのよくないよー」

 

「あんたしかいないでしょうがっ!」

 

「そりゃ私だけどさあ、真っ先に疑いをかけられるこっちの身にもなってよー」

 

「なんでリークしてる立場の奴がこんなに臆面もなく反論できるんだ……」

 

「うぅ、うぅ……」

 

 れー姉が車内に充満する真面目な空気を換気してくれている間、わたしは(うめ)いていた。

 

 たしかにお兄さんの言ってることは間違ってない。大事な時期だし、わたしには行きたい高校もあるので勉強を優先したほうがいい。睡眠不足や体調不良になれば効率も落ちるから、健康にも気をつけておくべきではある。中学校を卒業すれば今の友だちとも気軽に会えなくなるから、遊べる時には遊んでおいたほうがいい。

 

 それはわかるけど、でも今のわたしは、今のお兄さんの配信活動を応援したいのだ。お兄さんの助けになれるだなんて自惚れたことは言えないけど、趣味のイラストで応援することはできる。

 

 『今やるべきことなのか?』と訊ねられれば絶対にイエスとは答えられないけど、その代わりに『今やりたいことなんだ』とは胸を張って言える。

 

 そのくらいやりたいことだけど、最近は両立させるのも難しくなってきた。

 

「寧音ちゃんって塾とか行ってるの?」

 

「ううん、行ってない」

 

 お母さんには塾とか行きたかったら行ってもいいんだよ、と言ってもらえているけれど、わたしは行くつもりは微塵もなかった。独力で十分に事足りるという自信もあったし、塾にかかるお金だって安くはないわけだし、元から少ないイラストに割ける時間が塾でさらに減ったら困る。なによりも、わたしの隣に座っているゆー姉も塾には行っていなかった。これでわたしが塾に通うのはなんだか負けた気分になるので見栄を張って断ったのだ。

 

「一人で勉強してるんだ? 寧音さんすごいね。立派だ」

 

「ふぇへっ、えへへっ……」

 

「でも寧音ちゃん、一人でやってると困る時とかない? ここよくわかんないなーってなったら自分で調べるしかないわけだし」

 

「まぁ……それはあるかも。とくに数学と理科系……生物とか物理とかが苦手で……」

 

「寧音さんの隣に現役で進学校に通ってる高校生がいらっしゃるけど、夢結さんには訊かないの?」

 

「あー、えっと……ゆー姉の説明や解答は信憑性がちょっと……」

 

「なんでよ?! あたしに質問しろよ! たぶんまだ中学生の範囲ならいけるって!」

 

「信憑性が、ちょっと……」

 

「生意気な妹だなほんとにこいつは!」

 

「それなら私が勉強見ようか?」

 

「いや、いやいやいやっ! さすがに大学受験控えてるれー姉に頼めないよ!」

 

「私は大丈夫だよ? そこまで根を詰めてやってないし。さすがに頻度は減ったけど、配信も続けてるくらいだしね」

 

「礼ちゃんは高校に入学した時に用意したカリキュラムをずっと地道にやってきたからね。ゆとりは作れてるよ。今の調子を維持できれば問題な……ああ、その手があったんだ」

 

「ん? お兄ちゃん、その手って?」

 

「僕が教えればいいんだ」

 

 会話がわたしを置いてけぼりにしてあらぬ方向へと飛んでいっている。このままだと、わたしの妄想すら凌駕したところに結論が着地しそう。頭がついていけてない。

 

「あ、それいいじゃん。そうしよ、お兄ちゃん」

 

「えっ?! お兄さんがっ?! いやでもっ……お兄さんも忙しいし、寧音のためだけに時間作ってもらうっていうのは──」

 

「ん? 夢結もやるんだよ?」

 

「──お兄さんにあまりに申し訳な……あたし、も?」

 

「そうだよ。あたりまえでしょ。なんで自分は関係ないみたいな顔してるの。夢結だって勉強しとかないといけないでしょうが。いっそお兄ちゃんに勉強教えてもらう場を定期的に作ったほうがよさそうだね。勉強会だ。苦手な科目をその時にお兄ちゃんに教えてもらえば時間効率もよくなるだろうし。うん、決定!」

 

「そ、れって、あの……お兄さんはいいんですか? わたしはとてもありがたい、ですけど……」

 

 頭の中で情報を処理しきれていないまま、お兄さんの意思を確認する。

 

 きっと笑顔で言ってるんだろうなとわかるくらいのふわふわとした口調で、お兄さんは答えた。

 

「うん、全然大丈夫だよ。僕から提案したことだしね。任せといて」

 

「あ、いいんだ……そうなんだ。え、これ、現実(リアル)?」

 

 こんなにわたしに都合のいい話なんてあるわけない。度を超えた妄想をしすぎて夢でも見てるんだと思う。幸せメーターの暴走具合からすると、きっとカラオケ店あたりから夢なんだろうな。

 

 カラオケに誘われて、お兄さんの歌を聴かせてもらえて、わたしの歌を褒めてもらって、生ASMRをしてもらって、ぬいぐるみのプレゼントまでもらって、家まで車で送ってもらう上に勉強会の予定まで立てられている。

 

 夢だ。夢でしかない。夢だとしてもここまで傲慢なお願いなんてしないけど、きっとこれは夢なんだろう。よし、それならわたしは目覚めなくていい。これからわたしは夢の世界で生きていく。

 

 そう決意を固めているわたしの額に、パチンという音とともに突如として衝撃が走った。

 

「起きたか」

 

 ゆー姉がわたしの可憐なおでこにでこぴんしていた。

 

「いたいっ……なにすんのゆー姉。寧音が夢から目覚めたらどうすんの」

 

「あんたが現実を受け止めてなさそうだったから」

 

 くいっ、とゆー姉はあごで指し示す。

 

「時間帯は何時頃にする? 午前中とかからやる? 夜までやるか夕方で終わらせるかどっちがいいかなあ」

 

「僕は夜でもいいと思うよ。時間が遅くなっても家まで送るし、晩御飯もうちで食べてもらえばいいんじゃない? 配信の時間がきたらちょっとだけ席外させてもらうことになるけど」

 

「おー、それもそうだね。お兄ちゃんの配信の時間中は私が夢結と寧音ちゃんの勉強見ればいいし、後から合流する、みたいな形でもいっか」

 

「……もしかしてこれ、夢じゃない?」

 

「幸か不幸か、夢じゃないんだよね……」

 

 その後、結局勉強会の細かい日程や時間を決める前に家の前に着いてしまった。

 

 せっかくなら、いつにするかまでちゃんと決めたかった。このままお互い予定が合わないまま勉強会なんていう重要イベントが自然消滅とかになったら悲しすぎる。

 

 そんな悲観的なことをつらつら考えながら車から降りようとしていたら、れー姉がメッセージアプリ登録しとこうよ、と切り出してくれた。勉強会用のグループを作るらしい。

 

「こういうの得意だから任せて!」

 

 ここぞとばかりに言い放ち、手早くグループを作成し、まずゆー姉を招待する。

 

 すでにれー姉とお兄さんと友達登録しているゆー姉が二人を招待すれば、二人に手間を取らせることがなくなる。グループに追加された二人のアイコンからわたしが友達登録の申請を送れば、二人は承認を押すだけでいい。面倒な手間なんて与えない。

 

 無事、れー姉とお兄さんを登録できた。

 

「寧音さん、ありがとう。僕あんまり使わないからこういう操作わからなくて……。助かったよ」

 

「い、いえいえ……えへへ、慣れてるので」

 

「まあお兄ちゃんはそもそも登録されてる相手が少ないからね」

 

「うぐっ……。で、でも今日こうしてまた一人増えたし……」

 

「このペースで、前言ってたフレンド登録者数の平均まで目指すの? 平均まで到達するのにとんでもない時間がかかりそうだけど」

 

「うぐっ……」

 

「い、いいじゃんれー姉! こういうのは何人登録するかじゃないよ! 頻繁に連絡を取り合う人が何人いるかのほうが大事だよ!」

 

「たしかに寧音ちゃんの言う通りだね。登録した人数じゃないよね。うん、そうだ。お兄ちゃんの場合は頻繁に連絡を取り合う人も少ないけど……」

 

「たくさん連絡してきていいからね、寧音さん。メッセージでも通話でも、いつでも返すよ」

 

「あ、ふぁ、は……はいっ、あり、ありがとございますっ」

 

「量より質で勝負するつもりなのかな」

 

「たぶん寧音でもそう頻繁にはお兄さんに連絡できないとは思うけどね……」

 

 そこかられー姉とお兄さんに遊んでくれてありがとうと伝え、とくにお兄さんにはカラオケの支払いも持ってもらったし、ぬいぐるみももらったし、こうして家まで送り届けてもらったのでそのことも重ねて感謝を伝えた。

 

 離れていくお兄さんの車を見届けてから、マンションに足を向ける。

 

「……にやにやしすぎでしょ。キモい超えて怖いって」

 

「これで喜びを押し殺せるようなオタクはオタクじゃないよ」

 

 アプリの友達一覧を開く。そこに並んでいる名前を見るだけで、しばらくは頬が緩んでしまいそうだ。

 

 家に帰ったらさっそくお兄さんへお礼のメッセージを送ろう。文面を考えるだけで心が弾んだ。




『青色花火』歌:お兄ちゃん(めろさんの心インストール)

これにて寧音視点終了。次お兄ちゃん視点で配信外のお話はおしまいです。
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