幼い頃からの憧れ、サブウェイマスター。憧れているとは言ってもそのものになりたい訳じゃなくて、彼らと一緒にトレインにノッテタタカウ鉄道員になるのが夢だった。
それが叶って。毎日最高だ!
そうだ、きっと一般人は知らないことだけど。あの二人は同じ香りの香水をつけているんだ。真面目な二人だけどそういうところ、すごく大人っぽくって憧れるなあ。
ピリリリリリリ。
突然鳴り響く電子音、出所はノボリさんのライブキャスター。その瞬間、事務所内の空気が凍りついた。だってノボリさんの通話相手なんて分かりきっているのだから。
「こちら、ノボリでございます」
『ぼくクダリ! あのね、久しぶりにスーパーマルチの乗車だよ! すぐホームに来て?』
「分かりました」
ライブキャスターの着信越しのクダリさんが黙った瞬間、怖々とした控えめなため息とともに事務所の中の時間が動き出す。
なんというか、間違いなく尊敬する猛者で、世界的にみてもダブルバトルの頂点のひとりなのに、クダリさんは近寄り難い。見た目からしてまだまだ年若い……そういえば正確な年齢を知らない……上司だけどとても気さくだし、だけどこっちを尊重してくれるし、誰にでも優しいし、いつもにこにこ笑っているのに。なのになんだかどうしようもなく怖い。ポケモンバトルが強すぎるからかな、緊張するというか、目の前にいるととにかく恐ろしくて仕方がない。
いつの間にか無意識に息を止めてるし、もし電話じゃなくて目の前に本人がいるなら絶対に目が離せなくなる。もちろん、それは彼が危なっかしいからとかじゃなくて、怖いからだ。何をされるか分からないからだ。気を抜いたら頭から取って食われるんじゃないかってありえない妄想をしてしまう。絶対にありえないって頭では分かっているのに。もちろんクダリさんの悪いうわさなんてひとつもないし、その衣装みたいに潔白な人間なのは就職してからよくよく理解しているつもりなのに。
もちろん、いつか彼のような人間になりたくて就職したのだから人間として苦手とかそういうわけでもないのだけど。クダリさんは間違いなく人生で出会う中でも指折りのいい人だ。
なのに、なのに、どうしようもなく怖い。きっと野生の歴戦ポケモンみたいにその実力が本物だって本能で理解しているからだろうって無理やり飲み込んでいる。
反対に、その片割れのノボリさんの方は話しかけやすいし、ずっととっつきやすい。ノボリさんってクダリさんと反対に言葉がいつでもすごく丁寧だし無表情だし、かと思えばすごくハキハキしていて声が大きくて……不思議なバランスで形作られていて、黒い衣装だからかパッと見は怖そうだけど……醸し出す雰囲気からいい人なのがわかるっていうか。なんというか、すごく魅力的な人だ。
ノボリさんのことを好きにならない人間はいない。今日もノボリさん専用のシュレッダーはラブレターや不純なファンレターを食べるのに忙しい。やまほどギアステーションに送られてくる贈り物、直接無理やり渡されたり置き去りにされる貢ぎ物。鉄道員は「わきまえている」し、この立場を失いたくないからそんなことしないけれど、気持ちは変わらない。
ノボリさんのことを優秀な上司として、優れたポケモントレーナーとして尊敬している一方で誰も彼もがノボリさんの「特別」になりたい。
……鉄道員が「わきまえている」のは一般人と違ってクダリさんと直接関わっているからに違いない。ノボリさんがどれだけ魅力的でも、ふらふらっと近づく前に現実を思い出す。
「では乗車してきます。手に負えない事態が起きましたらスーパーマルチの車掌室あてにコールしてくださいまし」
「はい! いってらっしゃいませ!」
あぁ、真面目な人だけどノボリさんっていい匂いの香水を付けていて、それも素敵なんだよなあ。甘い香りで、ノボリさんがいるといつもはっきり香る。だけど不快なんてことはなくて、いなくなるとさっぱりなくなってしまう。クダリさんからも同じ匂いがするのにどうしてこうも印象が違うんだろう。
『ノボリ、あと五分』
「はい。駆け込み乗車は厳禁でございます」
『もちろん。でも久しぶりだから楽しみなの!』
うう。客観的に見たらなんでクダリさんのことが怖いのかわからない。でも喋る度に空気が凍るんだよな。ハッキリ聞いたことはないけどみんなクダリさんのことは怖いと思ってそう。絶対にぶつからないように、みんな距離とってるし。ちょっとしたことで怒るような人じゃないのに。
「それでは出発進行!」
カツカツ、カツカツと軽い足音を立ててノボリさんがいなくなって、あっという間になくなる甘い香り。ようやく目が覚めたような気持ちになって目の前の仕事に取り掛かる。
「あのふたり、本当に立派になってくれて……身長も伸びてよかったなあ」
「先輩、いちばんの古株ですもんね。サブウェイマスターになりたてのふたりのこと知っているんですか?」
「なりたてどころか。あのふたりの手持ちがいっぴきしかいなかった頃から知ってる。こーんなちっちゃな双子くんだった時から……いや、この話はやめとこう」
最古参の再雇用の先輩はいつもそうだ。ふたりのことをまるで親か祖父みたいに話すことがあるくせに詳しいことは教えちゃくれない。
あーあ、長いこと計画凍結していたバトルサブウェイ構想を後押しした凄腕トレーナーの出現と双子のサブウェイマスターの就任なんて伝説級なのに。もったいぶって教えちゃくれない。
もしかして、ノボリさんとクダリさんって昔ちょっとヤンチャだったとか? ……品行方正なふたりのそんな姿、想像もできないや。
きっとプレミア情報を独占したいだけなんだ。いいなあ。
◇
「たのもー!」
「おねがいいたします!」
「また来たんだね。残念だけどバトルサブウェイ構想はまだ進んでないよ」
「えー! ぼくたち手持ち増やしたのに! ジムバッジも集めたよ! ほら見て!」
差し出されたお揃いのバッジケース。そこには重厚感溢れる金属製のバッジが煌めいている。
きっとバッジを取ってすぐに来たんだろう。そりゃあそうだ、彼らはライモンシティ預りの保護観察期間中も何度もライモン駅に来ていたものなあ。あの頃はとても小さかったふたりは少し見ないうちに年相応に身長が伸び、見違えるほど大きくなった。
まだ幼さは残っていたが、もう昔のように「まだないんだよ」で誤魔化せるとは思えない。いや、最初から誤魔化したくは無いのだが、予定は未定。二人をガッカリさせたくは無いが、悲しいことに計画は進んでいない。いつになってもサブウェイマスターに相応しい人物が見つからないらしい。
「お? おおー! ふたりとも八つ集めたのか! すごいじゃないか!」
「チャンピオンになることに興味はありません。わたくしたち、バトルサブウェイに挑みたいんです! 勝利という目的地に向かいながら胸躍るポケモンバトルを繰り返す! それはなんてブラボーなんでしょうか! ねぇクダリ!」
「そうだねノボリ! あれから何回もトレインに乗ったけどぼくたちすっごく気に入った! サブウェイの外はトンネル、真っ暗だけど着実に目的地に向かって進んでる! それってとっても素敵じゃない? 過程が見えなくても絶対にたどり着くってことだよね?
ぼくたち乗って揺れてるだけじゃ満足出来ない! 大好きなトレインの中で大好きなポケモンバトル! 最高! 相性最高バツグン!」
「うんうん、わかるよ。お兄さんも電車が好きだしポケモンバトルも好きだ。お偉いさんたち、早く計画を進めてくれたらいいんだけど……」
「むう。お兄さんは悪くありません。しかしこれではいつまでも挑めません。そろそろ神頼みの時期かもしれませんね。祈ればきっと叶います。かみさまはいつでもわたくしたちを見てくださっているので、いい子のクダリの願いはなんでも叶えてくださるはず」
「かみさま……」
「……あ! いえ。真面目な話、わたくしたちバッジを集めようがただの子どもですし、鉄道関係者でもありません。こうなればもう祈るしかないじゃありませんか」
「ぼくも頑張って祈ろっと。かみさま、お願い」
「いい子にします。家族仲良く、真面目に暮らします。だからお願いです、かみさま」
幼気な子どもたちが両手を組んで真面目に祈っている姿は微笑ましい。ふたりから香る、お菓子のような、花のような、とにかく甘い甘い香りが鼻につく。
頭がぼんやりする。
二人の願いが叶えばいいのに。いや、叶うべきだ。そうしなくては、なんとしてでも叶えなくては。
「もちろん、わたしが鉄道員になったのは、バトルサブウェイ構想があったからだよ。お兄さんも計画が進んでほしい。もちろん、上申書をあげておくからね」
「いや。その必要はないよ。若い鉄道員の情熱をこの目で見ることが出来たのだし、欠けていた最も重要な人材もこれで揃ったのだから」
後ろから声に振り返るとそこにはイッシュ鉄道の役員と会長が揃っていた。
今日来るなんて話は聞いていない。だけど、わたしがぼんやりして予定を聞きすごしていただけだろう。当たり前じゃないか、だって今日はそういう日だ。ノボリくんとクダリくんが願ったんだから。いや、願わなくても。彼らの望みは全て叶えられるべきだ。
あぁ、役員。会長。このひとたちならバトルサブウェイ構想を進められる。一生懸命プレゼンすれば少しは心に響くだろうか。やらねば、やらせていただかねば、だって。二人が望んでいるのだから。
だけれども、その必要は既になかったらしい。
「会長、やはりライモン駅からバトルサブウェイを通すのが利用客の呼び込みとしてもよろしいかと。ライモンシティのコンセプトにもあっておりますし、ジムもあります。挑戦者のクオリティにも一定の担保が見込めます」
「うむ」
「問題のシングル・ダブルサブウェイマスターの調達についてですが」
「最低限の実力の証明としてイッシュジムバッジを八つ持った腕利きのトレーナーを見つけねば。しかし、あくまでバトル『サブウェイ』。サブウェイマスターのコンセプトは車掌だ。挑戦者の闘争心を存分に引き出すエンターテイナーとして、また車掌として、そして新たなるバトル施設の強者なのだから立ちはだかる壁としての役目を果たせなくては」
「はい……仰る通りです」
「それだけではない。やる気に満ち溢れた未来ある存在でなくてはならないだろう。バトルサブウェイは新たな試みなのだから、長く続かねばならないのだから。力強さと瑞々しさを兼ね備えた存在が、バトルサブウェイと共に成長しなくてはならない。そのような難しい条件をクリアしたトレーナー……それも二人。これまで見つけることが出来なかった」
「会長の仰る通りです。それでは、今日は幸運ですね」
「うむ」
自分が務める巨大組織の会長と役員。新入社員でヒラの自分からすれば雲の上の存在。だけれども、今ばかりは心が通じあっているのがわかる。今同じ興奮を味わい、歴史の転換点を目にしようとしているのだから!
「発言よろしいでしょうか」
「もちろん。バトルサブウェイはサブウェイマスターだけでは成り立たない。勝ち抜いていく施設なのだから、道中のバトルも非常に重要なのだから現場の声は貴重。柔軟な若い現役鉄道員として忌憚のない意見を聞かせてくれるかな?」
「では。おそらくもっとも推薦すべき二人のトレーナーがこの場におりますので。彼らはジムバッジを八つ持ち、そしてバトルサブウェイの誕生を心待ちにしている存在でもあり、有望な若者でありますから」
「ぜひ会ってみたいものだね。それで、名前は?」
壮年の役員が二人を見た。初老の会長が二人を見た。わたしも二人を見た。二人は祈りのポーズを中途半端に解いて、こちらをぽかんと眺めていた。
ただよう甘い香り、込み上げる畏怖の感情、そこにいるのは痩せた成長期の少年たち。だけど、だけど、あぁ、わたしは彼らを上に置き、その手足となって働きたい!
「ノボリさんとクダリさんです」
「いい名前だ。まさしくサブウェイマスターになるべくして付けられたような名前じゃないか! どうかね、ふたりとも。眠らぬ街、影を知らないライモンシティの新たな目玉施設、ノッテタタカウバトル施設ことバトルサブウェイ! その心臓部として……いや。心臓程度の器ではないね。新たなる地下王国の絶対君主になってみる気はないかな?」
「……つまり、ノボリを、サブウェイマスターにしようってこと?」
「きっと、クダリもですよ」
「わぁ、ゆめみたい。大好きなトレインにいっぱい乗れて、大好きなポケモンバトルがいっぱい出来て、しかも来るのは歯ごたえバッチリのトレーナーなんでしょ? すっごく美味しそう、すっごい勝負できる!」
喜色満面のクダリ少年……いや、白い服のボスが一歩前に進み出る。あたかも黒のボスを背に庇うようにして。しかし、守られるどころかその背を預かるように黒のボスは口を引き結んだまま、じっとこちらを見つめている。まばたきさえ忘れ、こちらのすべてを
「でもね、ゆめみたい、じゃダメなんだ。ちゃんとぼくらのこと、知ってるの? あとから身辺調査してやっぱり無理! じゃいけないよ。ぼくらは、ぼくらは、だってぼくらは」
「もちろん知っているとも。特殊討伐許可、危険コード白。特殊保護観察、危険コード黒。だからなんだというのかね? それがバトルの腕に関係あるのかね?」
「……ううん」
「バトルの腕には関係なくとも、わたくし、人を食ったことがあるのですよ。そんな人間を雇っては、あなた方の新事業の名前を穢すのではないですか?」
「調べはついているよ。そうしなければ生きていけなかった。幼い子どもが親に捨てられて、あんな偏見の残る貧しい街に捨てられて……『きょうかい』に助けを乞うしかなかった。そうでなければ野垂れ死に。同情こそすれど、それを非難する人間がいるのかね?」
「わかんないよ、わかんないけど」
頭を支配する甘い香り、それは陶酔の心地。黒のボスの願いを叶えねば。
だって、サブウェイマスターの玉座が空いていたのは彼らを迎え入れるため。だって、わたしが鉄道員になったのは彼らに仕えるため。
白のボスの逆鱗に触れてはならない。彼の願いを叶えねば。
心を支配する甘い香り、それは畏怖の心地、サブウェイマスターの玉座が空いていたのは彼への捧げものにするためだ。
はやく、はやく、二人の願いは叶えなくては!
「みんなが待ち望んでいるんですよ」
「バトルサブウェイはライモンを代表する施設になるのです」
「君たちはまだ若い。どうかな、失敗を恐れずに挑戦してみてはどうだろう。大丈夫、このように君たちを理解してなお協力したいと思う人間はいるからね」
会長が手ずから従業員用の扉を開けた。役員が二人のための部屋を用意するよう近くにいた鉄道員に指示する。わたしはふたりにそっと後押しした。
「君たちにあったあの日から、きっと何かをなすだろうと思っていたんだ。偉大な存在になるに違いないと」
ゆっくりゆっくり二人が前へ進み出す。
ようこそ、我らがライモン駅へ。いや。
今日をもってこの地下鉄駅はバトルサブウェイへ生まれ変わる。全ての計画は明日にでも始動し、新しい王国が王を受け入れて歴史を刻む記念すべき日になる。
「シングルとダブル。都合がいいことに君たちがそれぞれ得意なバトルスタイルがあるように、ふたつの席があるんだ」
「ではわたくしがシングルですね?」
「ぼくがダブルだね」
「素晴らしい、素晴らしい。全くトントン拍子じゃないか。すぐにでも衣装の採寸をさせなくては……成長に合わせて作り替えさせ、最終的なデザインに近づけていけば……サブウェイマスターの成熟とともにこの地下王国も成熟するというわけだ」
強烈な甘い香りが陰気な地下空間を塗り替える。全ての鉄道員が……今トレインやホームにいる者以外が……いつの間にか勢ぞろいし、ずらりと並んでいた。そして会長から恭しく差し出された特別な制帽を受け取った二人を口々に歓迎する。
「我らが新しいボス!」
「白と黒のボス!」
「今日はなんていい日だろう!」
「ボクたちは二人を待っていたんですね!」
「車両の点検、今夜には済ませますから、明日には試運転しましょう!」
「ポスターも新しいものを作って、ボスたちをお披露目だ!」
じいっと黙ってその盛り上がりを見ている黒ボス。反対に困惑したようにボールを取りだした白ボス。二人とも喜びよりも困惑が勝っているように見えた。
「歓迎は早いよ。だって、ぼくたちまだ君たちにポケモンバトルを見せてないもの」
「もちろん後でじっくりと見せてもらいますが、既にお二方のジムチャレンジのバトルについてはここにいる全員が拝見しておりますから」
「……バトルレコードの撮影は確かにいいよって言ったけど」
「バトル施設にはある程度有望なトレーナーの情報は共有されるものですから。これはたまたまなのですが、おふたりがライモンジムに挑まれた時に観客席にいましてね。これは、と思いバトルレコードを照会させて頂いていました」
「ふぅん……」
会長はいつの間にか敬語になっていて、目に見えて下手に出ていた。が、それに気づいても「当たり前」としか思えない。ボスだ! と勝手に祭り上げているのはこっちであるのだし、二人が拒否すればこの話は終わってしまう。勝手に見たということが気に障ってしまえばどうなることかわからない。
もうすでに、からだが、心が、そして魂が……ここにいる全ての人間が彼ら二人を自分たちのトップに据えたいと願っている。二人の望みが我らの望みと合致している。こんな素晴らしいことなどないではないか。
それにしても白ボスの一挙手一投足が気になって仕方がない。彼の機嫌を損ねていないならいいのだが。黒ボスを連れて帰る! なんて言わなければいいな、と思う。
「クダリ、そうは言っても楽しそうですね? やってみたいのでしょう? なら戸惑いなど後に回してしまいましょう」
緊張の瞬間、穏やかな口調で黒ボスが話し始めた。こちらのことなど見向きもせずに、白ボスの手を握る。
「うん、うん、ぼくとってもやってみたい。ノボリもでしょ?」
「えぇ。ですので、今は、今だけはしがらみなんて忘れてしまいましょう?」
「そうだね」
そうして、バトルサブウェイに二人の王が誕生したのだった。
◇
ライモンシティ、ギアステーション。ここにはいくつもの
フラットルール、持ち物制限……そのようなバトルルール以外にも存在するのは暗黙の了解。挑戦者ではなく、ギアステーションでサブウェイマスターたちと肩を並べて仕事をする得難い権利を与えられた人間に課された使命のようなもの。
それは、ボスたちのやすことなすことを見て見ぬふりし、二人の素性を詮索しないこと。
サブウェイマスターノボリは黒衣をまとったシングルバトルの頂点。サブウェイマスタークダリは白衣をまとったダブルバトルの頂点。二人は双子で、何物にもかえられない絆で結ばれている。それ以上のことは知らないし、知ってしまったとしても知らないふりをしなくてはならない。
「お腹すきました。ということはお前もでしょう?」
終電後。残った事務作業を片付けている時間帯。
踊るように黒ボスが白ボスの膝に乗っかかる。二人の会話を盗み聞きしてしまうのも本当は良くないのだけど、事務所で仕事をしている最中に聞こえてしまう分には仕方がない。
気づけばさっきまで少しのざわめきがあった室内には奇妙な沈黙が支配していたが、そういうものだった。
不文律は不文律だ。だけども、本音を言うと二人のことが気になって仕方がない。二人の部下としてここにいるのも大変に誇らしいことなのに、どうしてもそれ以上を欲しがってしまう。
「どうでしょう、ここは血の滴るようなステーキで腹を満たしてみては?」
「うーん」
「おやおや、では菜食主義になって出直しますね。ダメなら、仕事帰りに一緒に今日の夕食を選ぼうと思っていたのですけど」
「それは賛成!」
白ボスが黒ボスを抱えて音もなく立ち上がり、黒ボスの席にそっと座らせる。
「じゃあお仕事、早いところ終わらせよう? お店閉まっちゃう前に帰らなきゃ」
「……もう。クダリったらわたくしの使い方が上手いんですから」
甘い香り、甘い香り、甘い香り。白ボスの発する強烈な緊張感と黒ボスに誘引される意識。室内に充満するのはうっとりするような夢心地。ぼんやりとした脳みそが、ひとつの正解を導き出す。すなわち、我らのボスたちの望みを叶えねばという当たり前のことだった。
腰の曲がった古株の先輩鉄道員が、そんな二人の姿を嬉しそうに見て、今日も彼は年齢を感じさせない働きをする。僕も負けてられないな。先輩みたいにボスの信頼を勝ち得てもっともっと役に立ちたいんだから!
「おや、みなさん大変集中されていますね。わたくしも頑張りましょうか」
今日も二人のための地下王国は健在だ。この身を削って捧げてでも、この空間が存続すればいいと思ってる。
僕が小さいころから、いいや生まれる前からずーっとサブウェイマスターだったふたりの下で働けるのは本当に光栄なことだし、二人の強さはちっとも変ってない。小さいころの夢を叶えて鉄道員になってからもずっとずっと。二人は絶対強者であり続ける。
永遠に。永遠に。ずっと。いつか年老いて僕が死んだ後も二人はここにあり続ける。そう確信している。
だって二人は僕らの“かみさま”だから。