【短編集】憧憬の愛玩動物   作:ryure

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https://syosetu.org/novel/302509/21.html の蛇足。

大切だから、しっかり大事にしまい込むの。二度と傷つけないように、今度こそ間違えないように。
大切だから、しっかり大事に縛り付けておくのです。二度と手放さないように、二度と分かたれないように。


幸せであれ、夢見る君よ

「いい夢見ました……」

 

 もそり。

 隣で布団にぬくぬくしっかり守られていたからだが「定刻」になった瞬間に起き上がる。かく言うぼくも定刻前になったから起きて待機してたんだけど。サブウェイマスターを辞めてから結構経つけれどそういう長年……というか「前」から根付いた習慣はちっとも薄らぐものじゃないみたい。

 

 あ、ノボリのほっぺたの絆創膏がめくれかけてる。顔洗ったら新しいのに変えてあげなきゃ。それから、もう無意識に顔をひっかくことのないように今日もやすりで爪を整えてあげないとね。

 まずはノボリを洗面台に連れて行かなきゃね。見たところ寝ぐせらしい寝ぐせはないけどちゃんとブラシで整えて……。

 

 そんなことを考えてたらノボリってばベッドから半分転がり落ちるように勢いよく起き上がるなんて! そんなの危ないじゃないか! 何が怪我につながるのか分からないし、そんなサブウェイマスターだったころの朝みたいな勢いなんて要らないからゆっくり起き上がってほしい。ううん、ノボリはなんにも悪くないんだけどね? ぼくが起こしてあげたらよかったね。ああもう、ぼくの配慮不足!

 

「おはようノボリ兄さん、ねえちょっと待って!」

「おはようございますくだり……」

 

 とっても眠そうにむにゃむにゃしているかわいいノボリがおぼつかない足取りでベッドルームから出ていこうとするのを慌てて止める。パジャマの胸元のボタンがふたつも外れて、襟ぐりが大きく開いてちょっぴりセクシー。ゆったり居心地よく眠れるように選んだ大きめのパジャマがちょっとずり下がっているのか両足がすそを踏んでいるし、セクシーなことに構っている暇はないんだけどね!

 

「あのね、すそ踏んでるよ。ごめんねノボリ兄さん、ちょっと座ってくれる?」

「ん……」

 

 そのままベッドに逆戻りしそうなほど眠そうなノボリ。せっかく頑張って起きたのにね。ぼくがそっと両肩を押すとぽすんと大人しく座り、ぼくがズボンのすそを折り返すのを細めた目で見守ってくれる。

 

「まあありがとうございます……んふふ、このまえすそを踏んずけて滑ったの、見てたんですか?」

「え?」

「あ」

「知らないよそれ!」

「い、いえ、うっかり踏んずけただけで転んではいないので」

「ならいいけど、ううんちっともよくない! ノボリ兄さんこのパジャマ気に入ってるみたいだけどそれじゃあ危ないよ……! とりあえずワンサイズ落としたのを取り寄せるから! 今日のところはぼくのパジャマの洗い替えを着て? ぼくのはすそ長くないし!」

「もう。相変わらずクダリは心配性ですね」

 

 ぼくが心配性なんじゃなくてノボリがちょっとおおらかすぎる! ねえシャンデラ! ねえシビルドン! ほらボールをこんなに揺らしてうんうんって頷いてるよ?

 

 手早くノボリの両膝裏に右腕を差し込み、肩に左腕を添えた。そしてぐるりと身体を回すようにしてさっと寝かせる。セクシーな着こなしになっちゃう上着はとりあえずあとまわし。すばやく、だけど丁寧に諸悪の根源のズボンを引っぺがし、続けて足首の下に手を添え、ぼくのズボンを履かせようとして……。

 

 ノボリったらディグダが穴に引っ込むみたいにきゅっと足を引っ込めぼくの腕から逃げ出したんだ!

 

「ちょ、ちょっと! ズボンくらい自分で履き替えられますからそんなのいいです!」

「……そうだよね! ごめんねノボリ兄さん! 差し出がましい真似をして!」

 

 ぼくの行動は行き過ぎたお世話だったらしい。珍しくも羞恥に頬を赤く染め、ぼくのズボンをむんずと掴みひったくったノボリはすっかり目が覚めたみたいでさっさと身に着けると足早に部屋から出ていってしまった。

 さあっと血の気が引く。背筋が凍りついたように冷たいものが走り、やってしまった! と底冷えする後悔が一瞬で身体を支配する。でもそんななんの意味もない感情を振り払う。ノボリがぼくを嫌いになるなんて絶対にありえないんだもの。ちょっと恥ずかしかっただけ。わかってる。

 

「……ま、待って……」

 

 わかってるさ。それでもさすがに、声は震えちゃったけど。

 

 ちょっと悪かったかな、今のは大切な人扱いじゃなくて、子ども扱いだと思ったのかな。でもね、今やるべきはそんな反省だけだよ。

 仕方ないよね、ノボリのお世話はなにがなんでもぜーんぶしたいんだもの! 

 

 またぼくの見ていないところで怪我をしないか、ぼくがちゃんとしてないせいでなにか不都合なことや不自由なことがないか気になるし……朝顔を洗うことや髪や爪を整えること、怪我の手当、具合が悪くないか確かめたり、それだけじゃなくて。ノボリはたまに恥ずかしがるけどせっかく恋人……特別大切な人間の関係に戻ったんだからお風呂だって一緒に入りたいし、そうしたら髪の毛も身体もなにもかもぼくがきちんと綺麗にしてあげたいし、怪我を隠してないか確かめたい。隠してた怪我ってもうここ三ヶ月だけでも小さな逆剥けまで含めたら十五箇所もあったんだよ? 体調不良だって悪化するまで教えてくれないし! 

 心配だからご飯の用意とか家のお掃除だけじゃなく部屋の移動とかもぜーんぶ見守って一緒に寄り添って片時も離れないでいたい。

 

 だから、だから、ぼく。少しでも頼れるように、完璧にならなくちゃ。「前」よりうまくやらないと。ノボリは「前」のことを思い出してくれたし、ぼくのことを変わらず大事に思ってくれているけどそれにあぐらをかいて悲劇の二の舞になりたくないんだもの! 

 

 あぁ、呆然としてる時間なんてない! 短い廊下を駆け抜け、すでに前髪からぽたぽたと雫を垂らしながら自分で朝の身支度をしていたノボリに抱き着いてやんわりと、だけど有無を言わせず手に持っていたものを取り上げた。もう、ちょっと見てない間にまた血の気が引いたよ。目が離せないんだから!

 なにやってるの! と大きな声で言いたい気持ちをぐっとこらえ、努めてやわらかく優しい口調になるように心掛けた。

 

「ノボリ兄さん! さっきはごめんなさい! ぼくが全部悪かったからどうか、お願い、許して……? でもね、刃物なんてすっごくすっごく危ないから、剃刀使うことはぼくに任せてもらっていい?」

「……わたくしの手つき、そんなに血相を変えて取り上げるほど危なっかしいですか?」

「ううん。でもノボリ兄さんの白くて滑らかな肌に万が一、新しい傷が増えたらと思うと、ぼく夜も眠れないくらい怖いの。ね、だから、いいでしょ? ぼくにやらせて?」

「まったくもう。お前ときたら。仕方ないですね」

 

 そう言って目を閉じてすべて任せてくれるノボリはぼくに甘い。ぼくのことが大好きだからたいていのことはお願いしたらこうやって最終的には許してくれる。心配になっちゃうくらい簡単にやりたいようにやらせてくれる。でもそんなのぼくだけだもんね。ならいいの。

 

 丁寧に泡立てたきめ細かいフォームを、ここのところ陽の光を全く浴びることなく何度も細胞が入れ替わっている、透き通った白い肌に塗り付け、そっと鋭い刃を滑らせる。そうやってゆっくりと細心の注意を払って肌を整えると最後にお湯で濡らしたあたたかいタオルで拭う。うん、完璧。

 

 あ、そうだ。

 これからはノボリがもっと楽にお世話を受けられるように洗面室に背の高い椅子を用意しよう。ノボリがちゃんと鏡を見られるように、だけど楽にしていられるように。座ってた方が楽に決まってるもの。もうすっかり完治したけど足を怪我したこともあったし、いつも「もう大丈夫ですよ」って言ってくれるとはいえ特別冷え込んだ日や気圧の変化が激しい日には古傷が痛む……なんてことがあり得るかもしれないし。

 ……もう! なんで気づかなかったんだろう! 見た目にはよくなっていて一見機能に問題がなくても人間の身体なんてものは完璧じゃないんだから意味もなく痛むことだってあり得るのに! ぼくってばそれを確認したことがなかったなんて!

 こんなのだから「前」、ノボリが連れていかれちゃったんだ! ちっともぼくがちゃんとしてないから!  ノボリをちゃんと守れなかったから! もう、もう、もう! ぼくってば! もっともっとうまくやらないと、いけないのに!

 

 そうやってあふれだすネガティブな気持ちはしっかり胸の奥にしまい込む。これはノボリに見せていいものじゃないからね。ぼくがやるべきなのは無意味な後悔じゃなくて素早い行動だけ。早いところここに椅子を用意して、これからの体調チェックの際は古傷の痛みも確認する。ぼくの知らないところでは傷んでるかもしれないし……そうだ、血行が良くなると古傷が浮き出て見える場合があるって聞いたことがある。

 ノボリってば恥ずかしがるからお風呂は一緒に入ってないけど……お風呂場ってただでさえ転びやすくて危ないし、もしかしたら湯船で痛みをこらえてたかもしれないんだね。それに身体を温めるのもリスクが伴うもの。冷え切った身体を一気に温めると心臓にもよくないし、ノボリの入浴の仕方もチェックしないとね。

 もちろん、ノボリはまったく外に出ないからこれまでも極端に身体が冷え切っているなんてことはなかったと思う。見たところ特に古傷が痛んでるってこともないし。でもね、リスクが少しでも、髪の毛ひとすじほどでもあるなら見過ごすわけにはいかないよね。

 

 なんて考えているうちに髪の毛のセットまで終わった。今日は軽めにワックスをつけてちょっとラフな感じにしてみたよ。似合っててかっこよくて、誰にも見せたくないな! うん、もちろん手持ちたちは別だよ? 彼らは放浪したぼくの同志であり、ぼくらの種族が違うだけの兄や姉、あるいは弟や妹みたいな……そういう存在だからさ。

 

「……どう?」

「とてもいい感じです。これなら店を開けますよ」

「そうかな?」

「そうですとも。とっても手際が良くてびっくりしてしまいました。髪の毛のセットも素敵ですね。わたくし、こんなにできたかわいいひとがいてなんて幸せなんでしょうか」

「褒めすぎだよノボリ兄さん!」

「そんなことはありません。ほらクダリ、わたくしは凝り性なお前ほど手先が器用ではないかもしれませんがやらせてくださいまし? 剃刀を使われるのは少々怖いかもしれませんが髪の毛のセットくらいはできますよ。おそろいの髪型にしてあげますよ」

「わ、ありがとう! じゃあお願いしてもいい?」

 

 かわいいかわいいぼくのノボリはにっこりと笑ってぼくの後ろに立って確かめるように頭を撫でてくれる。そしてぼくがさっきまで使っていたブラシやワックスを使って少し慣れないながらも丁寧な手つきでぼくの髪の毛をセットしてくれたんだ。

 鏡に映るおそろいのぼくら。幸せそうな笑顔。心の底からじんわりとこみあげてくるのが幸福って言うんだね。

 

 ノボリの目はきらきら光っていて、ぼくのことを心底愛おしそうに見てた。ぼくの目も今ばかりは同じように幸福な光を宿していて……あぁ、幸せだ!

 

 でも、ぼくは鏡に見とれているうちにノボリの頬にできた小さなひっかき傷を見付け、やるべきことを思い出して慌てて救急箱を持ってきてほっぺたの手当をすることになったのだけど。

 ノボリにいろいろやってもらうのは本当に幸せなことだけど! ノボリの身体をしっかり守らないでノボリの優しさを受け入れていいわけじゃないのに!

 

 最近、仕事を辞めてぼんやりしがちだったノボリもこの生活に慣れてくれたのか怪我することもあんまりなくなったし、毎日が夢みたいに幸せなものだからぼくの方こそちょっと気が抜けてぼんやりしちゃっているのかも。しっかり気を引き締めないといけないね。

 

 ノボリのほっぺたの傷にはもう絆創膏は必要なかったけど、改めて鏡を見るとどこまでもそっくりなぼくたちが誰にでも簡単に見分けられるのはなんだか物悲しくて、やるせなくて、歯がゆかった。ノボリのすべてをきちんと管理しきれなかったぼくの罪を突き付けられているような気持ちだった。もちろん、表面上はノボリを心配させないように笑顔を浮かべていたけどね?

 

 そんなぼくの心を知ってか知らずか、ノボリも鏡をじっくり見ておそろいの姿に目を細め、「これが夢みたいに幸せ、というものなんですねえ」なんて感想を言っていたけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうだノボリ兄さん、さっき新しいパジャマが届いたよ」

「あら。もう届いたのですね」

「うん。だってノボリ兄さん、あれ気に入ってたじゃない? 早く着てほしくってさ」

「ありがとうございます! すごく生地が良くてよく眠れるんですよ。そうだ、今日もパジャマを借りてもいいなら一日くらいクダリも着てみては? きっと病みつきになりますよ」

 

 ノボリの足にパジャマと一緒に注文した新しいもこもこの靴下……ただし滑って転ばないように足底には滑り止めがついているもの……を履かせる。にこにこしているノボリはかわいいなあ。ふわふわの毛並みが自慢のデンチュラと実は結構もふもふのドリュウズが寒くないように両サイドに寄り添ってて、シャンデラが旋回して暖房気取り。うん、みんな仲良しでいいね!

 

「いいの? じゃあ一日だけ借りてみようかな!」

「気に入ったらおそろいにしたらいいんです。ね?」

 

 さっそく包みを開けてふわふわの生地に抱きつく姿を見ているとぼくまで笑顔になっちゃう。丁寧にタグを探り当てた白い指が引き出しからハサミを探し出す前にぼくがハサミをゲット。差し出した手にパジャマを寄こしてくれたのでひと安心。刃物なんて近づけたくない! ノボリが触れていい刃はポケモン由来のものだけなんだよ? 人工物はきっとノボリを傷つける。可能性が少しでもあるなら絶対に触らせたくない! うん、分かってるよね。分かってるからノボリはぼくに任せてくれたんだ……大丈夫、大丈夫!

 

 今日もノボリはぼくのパジャマを着て、ぼくがあげた靴下を履いて、ぼくがプレゼントしたマグカップでぼくがいれたホットミルクを飲んで。うん、これなら危なくないよね。指差し確認するまでもなく、ノボリは今日も安全!

 

 でも、みんながいてくれるとはいえ退職してから引っ越して、それから一度もノボリは家の外に出てない。窓から外を見たことくらいは何度かあるけどそれも数えるくらい。それって、すっごくノボリを我慢させていることだよね。ノボリは優しいからぼくがやりたいようにさせてくれるけど、やりたいようになさいって言ってくれるけど。ぼくはそれに甘えっきり。そんなのフェアじゃない。

 せめて居心地よく過ごしてほしいよね。

 

「えーっと、歯ブラシとシャンプー……バスタオル。それからひざ掛けと……」

 

 ノボリを手持ちたちに任せている間、同じ部屋でぼくは端末を睨んでいる。すべての物資はオンラインショッピングか手を回してる別のルートか、とりあえず現物を見て買い物はできないわけだから吟味は慎重に。もちろん狭い家じゃないけど居住空間には限界もあるし、むやみやたらと物を買うのもダメだし。

 

 そうそう、ノボリ仕事辞めてからあんまり体を動かさなくなったからか寒がりになっちゃったみたい。かわいく甘えてぼくか手持ちにぴったりくっついてくることが多くて。暖房はつけてるけど、それにしたって前よりかなり寒がってる気がする。ひざ掛けあるといいかなって。ノボリもひざ掛けくらい持ってたかな? 持ってたとしてもぼくからのプレゼントってことで。

 

 そうだ、寒がりになったんならあの布団が薄すぎるかもしれない。この前冬物に変えたけどノボリの私物ってどれもシンプルなものが多くて布団もあんまりふわふわじゃないんだよね。新人だった頃に量販店のセット品でも買ったのかな? 物を長く使うのはノボリの良いところだけど、お金が自由になってからも後生大事に使い続けなくてもいいのに。ついでに買い替えちゃおう。

 いや、せっかく恋人関係に戻ったんだし大きなベッドをひとつ買って寝室を一新してみるのもいいかもしれないな。引っ越し当初は兄弟でしかなかったから寝室は別の部屋だけど、一緒に寝た方がきっとノボリもあったかいし、なにか体調の変化があったとしたら分かりやすいよね。これは勝手にやるわけにはいかないなあ。いいタイミングで話を切り出さないと……。

 

 ちらりとノボリを見ると早くもウトウトしてた。最近はいつもそうだ。ぼんやりすることが減った代わりにすぐに眠ってしまう。かといって夜眠れないわけでもないらしい。きっと暇なんだろうな。……あのランニングマシン、腹いせに捨てちゃったけど、置いとけばよかったかな。あれ、ノボリと一緒にお金を出し合って買ったんだっけ。もっといい機種を買う? ノボリ、別にランニングが趣味ってわけでもないのに? また怪我するかもしれないのに? なくていいか。

 たくさんあったはずのバトルレコードもとっくに見尽くしちゃったみたいだし、テレビでバトル関連の番組があったら予約して何度も何度見てるし、ちょっと前までは戦術ノートを作って楽しんでたみたいだけどそれもやめちゃって……ああ、ぼくって本当に自由なはずのノボリをこんな狭いところに縛り付けているんだ。ノボリはぼくを受けいれ、やりたいようにやらせてくれている。

 

 少しばかり、ううん。こみあげてきたのは思わず口角が上がってしまうほどの優越感だった。同時にやってきた罪悪感なんて簡単に覆い隠せるほど。ノボリ、ノボリ、ぼくのせいでなにもかも錆びついて、不自由になってくれるかな。きっと安全に守られてね。

 

「ぼく、ご飯作ってくるね。みんな、ノボリをお願い」

 

 任せとけ! とみんなが返事をしてくれたからひと安心。端末を置いてキッチンに向かう。極端に活動的じゃなくなったノボリの様子は気がかりだけど、ぼくはぼくにできることをするまでだし、健康的でおいしい料理を作ればきっと喜んでもらえるよね。大好物ばっかり作っても芸がないけど、今日はノボリの好きなものをいっぱい作ろうかな。夜はノボリの好きなデリにするのもいいね。

 

 昼寝から目覚めたノボリは机に並べたてた好物にそれはそれは喜んでくれたし、サプライズ気味のデリに舌鼓を打ってたくさん食べてくれたから作戦は成功! 夜はその流れでベッドをひとつにする案も快く頷いてくれたから早速ふたりで新しいベッドをどれにしよう? っていろいろ調べる楽しい時間になった。

 

 すっかり遅くなってから寒々しいベッドにノボリを入れて、その日は応急処置的にぼくの部屋から持ってきた別の毛布を掛けて寝かしつける。

 ノボリったら注文したばかりの特注のベッドが届くのをもう楽しみにしてさ、すぐに来るわけないのに本当にかわいいんだから! ベッドってとっても大きな家具だから組み立ての必要があるし、かといって業者を家にいれたくないし、ぼくがやるのは確定にしても……工具を使うなんて危ないに決まってるし、小さな手伝いだってノボリにさせるわけもいかないし、どういう言い訳を使おうか今から悩む羽目になったのは予想外だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おはようございます。クダリ、もう起きているのですか? 準備が早いですねえ」

 

 「定刻」。きっちり目覚めたノボリは時計で時刻を確認し、ぼくに気づくとうっすら微笑んだ。今日はさっぱり眠気が覚めたらしく、珍しく起き抜けからはっきりした口調、しゃっきりした動きだった。まるで昔みたいに。

 そのまま流れるようにクローゼットに向かい、中から白いワイシャツを取り出す。この前洗濯してアイロンをかけておいたからピシッとしている。だけど、ノボリの探す手は止まらない。カジュアルなパンツには見向きもせずにノボリはないものを探し続けている。

 

 ぼくはぴんときて、それで、いちばんいいタイミングで伝えなくちゃと使命感に駆られた。今ノボリの行動を遮って伝えてもいい。少しの混乱ののちにノボリはちゃんと冷静さを取り戻す。だけど、ぼくにすごく申し訳なさそうな顔をして謝ってその日の残りはぼんやりしてしまう。

 いつだってノボリがぼんやりしている日は怪我しやすいし、覇気がない姿を見ているのも辛い。それなら、いちばんやんわりと伝えられるタイミングを見計らった方がいい。少しでもノボリにショックを与えないように。

 

「あら、スラックスはどこに行ったんでしょうねえ」

 

 ないよ、ノボリ。探しても無駄なんだよ。きみはもうサブウェイマスターじゃないんだから。そして二度と勤め人になることがないから処分したんだ。フォーマルな衣装やビジネス関連の服を全部捨てた代わりに素敵なカジュアルな洋服をプレゼントしたの、覚えてる? 

 きっと今のノボリの中にはないんだろうけど。

 

 これはぼくの罪のあかしだ。突然ぼくのエゴで仕事を取り上げられ、家事だって許されず、外出も許可されない。そんな張り合いのない日々はやっぱり人間の心身に大きな影響を及ぼすのさ。それはノボリだって例外じゃなくて、ぼくを愛しているからこそ理性では許容してくれているけど本能は狂って、ちょっとだけ、おかしくなってしまった。

 夢遊病ではないけれどきっとそれに近いんだと思う。

 

 「定刻」に起きて、たまに。ノボリの中の時間は数年前に巻き戻る。起きてすぐに身支度をはじめ、そして出勤しようとする。ぼくはそれを止めるために毎日ノボリの朝を見守っている。

 

 家から出たらすべて思い出す。一度、どうしても止めきれず……だってこんなことになったのはぼくのせいなんだもの……とうとう玄関を開けてしまったノボリは頭を抑えて玄関でうずくまった。そこにあったのは見慣れた都会の景色じゃなくて、自然あふれる人里から遠い我が家の周りの見知らぬ風景に困惑し、そして蘇った膨大な記憶に意識が遠のいたらしかった。

 

「まあ職場で制服に着替えるんですもの、ちょっとくらいラフでもいいですよね」

「ノボリ兄さん、準備してるところ悪いんだけど、今日はお休みだよ?」

「え? そんなはずはありません」

 

 だめか。これですんなり思い出してくれる日もあるんだけどな。

 

「突発的に有休をとったんだ。覚えてる? ぼくたち休暇消化率が悪いから上層部からせっつかれてさ」

「……そう、でしたっけ」

「うん」

「……あれ、わたくし、昨日、なにをしたんでしたっけ……」

 

 何もしてない。ノボリはご飯以外一日ソファで手持ちたちとお昼寝してただけ。どんどん気力を失って眠っている時間が多くなってるもの。最近はテレビをつけることも減ったものね。そんな毎日だから安全で怪我もずいぶん減った。ぼくたちはノボリがあっちこっち動き回らなくて安心だけどもともと活動的なノボリからしたらたまったものじゃないだろうね。

 だから、身体がこうしてすべてを忘れる日を作るのかも。

 

「大丈夫だよ、ノボリ兄さん。ぼくここにいるでしょ? 大丈夫」

「クダリがここにいる……」

「みんなもここにいるよ? ほらボール、揺れてるでしょ?」

「ふふ、みんな、わたくしたちに遠慮して出てこないんですか?」

「そうかも。誰だってギャロップに蹴られたくはないでしょう?」

「そうですね」

 

 すっかり穏やかな顔になったノボリはワイシャツを片付けるとぼくの前にやってきて、大胆にも手を掴みぼくをベッドに誘った。

 

「いつかみたいに。一緒に寝てくれませんか。きっともう一度目覚めたらわたくし、すっかり元通りですから」

 

 ベッドの上に乗っかっているヒトモシのぬいぐるみとシビシラスの抱き枕。ノボリはぼくに抱き枕を渡すと、自分はクッションを抱えて布団に戻っていく。

 

 その瞬間ボールからシビルドンが飛び出してぼくの腰から全員分のボールを奪うと部屋から退散した! ……気がきかなくてごめんね!

 

「ほらみなさん気を遣ってくださいましたし。わたくし暑くてもいいです。そうでなくてもわたくしたちアツアツですので」

「もう。ノボリってば大胆! すっごくかわいい!」

 

 寝室どころかすべての部屋の窓にはシャッターが下ろされ、ノボリがあれから玄関に近づいたことさえない。

 

 ノボリはたまにおかしくなっちゃうけど、ちゃんとすぐにぼくのところに戻ってきてこうやって甘えてくれるから幸せなんだ。

 

 ぎゅっとくっついていれば、べたつく肌と汗のにおい、腕にのしかかる重さと深い呼吸。そして体温が逃げなくてやっぱり暑い。なのに、そんななにもかもが愛おしい、なんてこともない日がずーっと続くのさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事でぼくらの身体は構成されている。どんな生き物も生きている以上は外部から何かしらを摂取して消化し、エネルギーにしたり、血肉とする。日々食べることでぼくらの身体は新しくなっていく。

 つまり。ノボリに食べさせるものはとても重要だってこと。ノボリの髪の毛から指先の爪のかけらまですべてすべてぼくの管理した食べ物でできた細胞で構成したい。

 

 だから料理にはとっても気をつかってきたし、ノボリはそれを理解してくれていたと思う。

 なのに今日に限ってぼくのエプロンを身に着け、キッチンでなにやら物色を始めたノボリ。鍋を棚から取り出したところで止められたけど、あのね、キッチンなんて危ないよ! 包丁とかミキサーとか刃物がいっぱいあるし、万が一不用意にコンロに近寄ったらと思うと気が気じゃない! 

 

「今日はクダリの好物を作ってあげましょう。確か冷蔵庫にちょうどいい材料がそろっていましたね。具だくさんシチューですよ!」

「え! ……いや待って、ちょっと待って、ノボリ兄さん、料理するの?」

「この前喜んでくれたでしょう?」

「この前! あのね、ノボリ兄さん。シチュー食べて、一緒にお風呂に入ってから隠してた火傷に気づいて、手当が遅くなったから結構悪くなってたよね! ぼく怒るよ、もう危ないことはしないって約束したじゃない!」

「ええ。今後は気を付けますと申し上げました。今度は気をつけてやりますから。わたくし、怪我を理由にあれから毎日クダリに料理当番を押し付けている気がしてなりません。それでは良くありませんからね。いくらクダリが優しい人間でも甘えてはいけません。わたくしも寝てばかりしてないで働かねば!」

 

 家事なんてやらせないよ。もし怪我したらどうするの。仮にノボリに当番があるとしたら、どこにもいかないでそこで健やかに笑って過ごす当番だけだよ。

 

「ごめんね、ノボリ兄さん。ぼく、ノボリ兄さんに危ないことはしてほしくないの。ただでさえ火傷もまだ治ってないし……痛々しくって見てられない。もし悪くなったらどうしようって心配なの。水に触れるのも身体が冷えて良くないし、怪我も動かすとまだ痛いんでしょう? ぼく、怖いよ……ね、無理しないで?」

「クダリってば本当に心配性なんですから……仕方ないですね。これではクダリの家事負担が増えるだけですのに」

「それはいいの! ぼく、やりたくてやってるんだよ? 料理も洗濯も掃除も大好き! むしろ全部ぼくにやらせてほしいな? ぼく、ノボリ兄さんが美味しいって言ってくれるとまた作りたいって思うし、お洗濯してお部屋をピカピカにするとスッキリするんだ! ね、悪く思うことなんてないよ? やりたいだけなんだから」

「好きなことをわざわざ取り上げたりはしませんが……これではわたくし、ますますダメになってしまいますね」

「ノボリ兄さんはダメなんかじゃないよ。ぼくのことをそうやって気遣ってくれるじゃないか。ぼく、それだけですっごく嬉しい」

 

 不承不承、ノボリは冷蔵庫に伸ばしかけた手を下ろしてくれた。

 

「では、楽しみにしてますね」

 

 もちろん。ノボリの身体を構成する物質になるんだからね。栄養バランスバッチリに仕上げなきゃ。変なもの食べさせられないもの、これからはデリも控えて……ううん、きっぱりやめよう。ノボリが食べたいならぼくが作ればいい。

 

 ノボリに極端な好き嫌いがないのが幸いだね。きっと残さず食べてくれるから。

 

 肉も魚も野菜もバランスよく。ノボリが末永く健康でいられるように。たっぷりの野菜、たっぷりのキノコ、適量のタンパク質、身体に必要なビタミン類。ノボリの栄養摂取源のすべてがぼくの料理なんだもの、ぼくは勉強して完璧な栄養バランスを追い求める。

 同じものばっかり食べると良くないらしい。ぼくは世界中から色んな食材を取り寄せた。退屈しがちなノボリにも好評だったし。

 

 消化にいいように刻んだり、しっかり茹でたり、逆に栄養が抜けないように新鮮なままで出したり、素材によって調理法を変えてみたり。

 濃い味付けなんてもってのほか! 現代人は塩分を取りすぎてる。ぼく、これまでノボリの食事まで考えてもなかった! サブウェイマスターをしていたころは尚更で、もちろん「前」も……一緒に住んでたし、料理を互いに作ることもあったし、一緒にご飯を食べることも多かったけど栄養バランスを考えて食事なんてしてなかった!

 

 それもダメだったんだ。良かった、取り返しがつかなくなる前に気づけて。

 

 そんな日々が続いていたある日。その日は野菜たっぷりのソテーとキノコと豆のたっぷり入ったスープ。パンは焼き立て。ちょっと軽いかな? と思ったから小さなトマトサラダもつけてみたんだけど。

 ノボリは食事を前にぽそりとこぼした。

 

「最近、こういう食事が多いですね。栄養バランスを気にしてくださっているのはわかるのですが、たまには以前のようにジャンクなものにしませんか? クダリはあれから毎日料理してくださっていますし、いくら好きだからって毎日疲れるでしょう? たまにはデリでも頼んで……」

「ダメだよ」

「クダリの健康志向はもちろんいいものですけど。

 ええ、分かっています。これはわたくしのワガママです。なんの家事もしていない存在が手間暇かかっている料理にケチをつけるなんていいはずありませんけど……」

「ううん! それはいいの、むしろ食べたいものとかリクエスト、もっとしてほしいな?」

「では。子どもの時に食べたピザみたいな、しょっぱいものが懐かしいです……そうだ。ねえクダリ。わたくしが火傷してからわたくしが作るのは危なくて、よくないとおっしゃいますけど、一緒に料理すれば大丈夫ですよ。前、一緒に作ったハンバーガーでも作りませんか?」

 

 やんわりとノボリは繰り返す。ねぇ、どうして? どうして危険な食べ物を食べたがるの?

 ノボリは毎食美味しいって言ってくれるしそれに嘘はないと思う。だけど前に比べたら塩分摂取量を厳守してるから味付けは薄目だし、やっぱり家庭料理って言うのは市販のものほど派手じゃないし、彩りをよくするための調味料とか入れてないし。

 

 ただでさえぼくたち外に出ないし、また落としたりして怪我しちゃうのも怖いから運動器具も全部捨てちゃったから汗をかくようなこともしないし、塩分の摂りすぎを発散する方法もないからほとんど超過することもないと思う。だってきっちり量って入れてるからね。だからこそノボリはこんなに食べたがるんだと思う。

 もちろん、ぼくたち結構長身だから体重に合わせて基準量は計算したよ? それでも少なく感じるんだろうね。

 

「たまには、もうちょっと塩気のあるものが食べたいな、なんて。ねえ、一日くらい、いいでしょう?」

 

 う。おねだりのために下から覗き込むような上目遣いをするノボリ。なんてあざとくってかわいいんだろう! ぼくがノボリに弱いのをわかってるんだもの。もちろんノボリはぼくの弱点なんて全部知り尽くしているんだものね。

 

 そこで一度考え直して、ノボリのリクエストに応えたジャンク料理を出すとしたらどんなものがいい? と考えることにした。ノボリはひとより自制できる人間だもの、それでこんなに頼んでくるってことは我慢も限界だったんだよね? 自分でデリバリーを頼んだり……勝手に外出したりして外で食べるんじゃなくてぼくにこうやってお伺いを立ててくれる律義なところに報いなきゃ。閉じ込めて不自由させてるのはぼくの方なんだから!

 

 その日の夜。危ないからこればっかりは許可できなくて、ノボリに料理をさせることはしなかったけど。代わりに食卓にお皿を並べたり、料理を運ぶことを手伝ってもらった。今日ばかりは塩も脂も量らないで作った熱々のフライドポテト、チーズをたっぷり使ったミニピザ、そしてお手製ハンバーガーにはパティを三枚も挟んでみた。こうして並んでいるのを見るとぼくもおいしそうだって思えるから現金なものだよね!

 

 ノボリはとても喜んで食べてくれたよ。いつもより何度もおいしいおいしいって言ってさ。ニコニコ笑って、いつもよりずっと食べ終わるのも早かったし。食べ終わってからも名残惜しそうにポテトをディップするソースを眺めて惜しんでた。

 そんなの見たら「栄養管理のやりすぎも逆に身体に悪いよね」と考え直しそうになったよ。でも。

 

 その翌日の朝。

 ぼくたち、定刻に目覚める習慣がある。だからいつも通りぼくはその少し前に起きて、ノボリの部屋で待ってたんだけど。

 

「おはよう、ノボリ兄さん」

 

 ノボリは起きなかった。顔が見えないくらい布団に深く潜り、ぼくが貸した毛布を抱きしめて起き上がる様子がない。単にゆっくり寝たいだけだとしても一回起き上がる素振りくらいはすると思う。それくらいぼくらの習慣は根深いものだもの。

 

「ごめんねノボリ兄さん」

 

 胸騒ぎがする。

 そっと布団をはがすと露わになったのは、必死で身体を丸めて荒い息を繰り返すノボリだった! 片手は必死に腹の当たりを押え、もう片方の手が苦しいのか胸元を掻き毟る。何度も何度も嘔吐くような動作を繰り返し、堪えているのか胸元の手が喉に移り、片手で締め付けるように抑え、遂には口を必死で塞ぎながら頭を振り、もがき苦しんでいて……。

 

「あ、ああ、ノボリ……!」

「う、うう、あ、ぐぅゥ……く、だり?」

「どこか痛いの? 苦しい? 暑い? 寒い? ごめんね熱はかるね? 息できる? ゆっくりでいいから、そう、そう、ちゃんと吸って? 吐きそう? 片付けなんて心配しないで、吐きそうなら出しちゃっていいからね?」

「く、くだり、あぁ、うう……泣、かないで……」

 

 ぼくの馬鹿! 泣いてる時間なんてない! すべての部屋に配置してある救急箱から体温計を引っ張り出す。手で首のあたりを触った感じはちょっと熱いくらいだったけど、吐くことさえできなかったノボリは薄目を開けるのが精いっぱいなくらいぐったりとしていた。

 

「だい、じょうぶです、だいじょうぶ、ですから。なんだかちょっと、だるくて、あつくて、ウぐ……吐き気がして。風邪をひいたのかも……」

「風邪だとしても! ぼくは心配なの!」

 

 意識はあるけど辛そうなノボリからなんとか具体的な症状を聞き出し、白湯と薬を用意して抱き起す。むせないようにゆっくり喉の奥に流し込み、飲み込んだのを確認してしっかり布団をかぶせる。洗面器も用意したけど、吐き気は過ぎ去ってしまったらしくあとはゆっくり眠ってもらうしかない。

 

 ノボリの火傷の跡がくっきり残った手に縋り付く。ゆっくりとノボリの呼吸は落ち着いて、ゆっくりと熱い身体に入っていたこわばりが解けていく。

 ノボリ。ぼくの大事な、かわいいひと。どうかどこにもいかないで。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ぼくまた間違えちゃった、今度はもっと上手くやるから、間違えないから、ノボリを連れていかないで、お願い、ぼくもう間違えないから、お願い!」

 

 いつのまにか、取り繕うすべてが剥がれ、「前」のクダリそのものになっているのを自覚する。しっかり頼れて、ノボリをちゃんと守れて、いつでもスマイルじゃないけどその分ぜんぶぜーんぶノボリに迫る危険に目を光らせられるクダリじゃなくて。ノボリをみすみす失い、放浪人のまま死んでしまったあの哀れで無力だったクダリそのものだ。これじゃいけない、わかっているのに。

 

 ノボリは目覚めない。ぼくはずっとそこで跪いて懺悔していた。

 

 もう、間違えませんから。かみさま。ノボリを連れて行かないで。もっとうまくやるから、お願い!

 

 何が原因なんだ! 同じ環境でぼくが何ともないってことは、きっとなにか普段と違うことがあったということ!

 考えろ、考えろ、考えろぼく!

 

「あぁそうか」

 

 原因は、昨日の食事か。あれはぼくも食べたけど、きっと繊細なノボリには合わなかったんだ。あんな塩と脂過多な食事、身体に悪いに決まってる。完璧な管理をしなかった愚かなぼくへ、ノボリが直々に罪を突きつけてくれたんだね。

 

「ノボリ、ごめんね、ごめんなさい……」

 

 青白い顔をして眠るきみ。時々苦しいのかびくりと身体をすくめ、浅い呼吸を繰り返す。吐きそうな時に喉に指を突っ込んで吐かせたら良かった! ううん、もう昨日の夜の事だもの、胃に残ってないんだ。だから吐けなかった。あんな悪いものが大事なノボリの身体に吸収されてしまった! そしてノボリが苦しんだ! すべてぼくが、ぼくが浅はかなせいで!

 こんなことになるならあんなもの、食べさせるんじゃなかった!

 完璧な食事を、完璧な管理を、ノボリを今度こそ失わないために、ノボリのすべてを管理しなくちゃいけないんだ!

 

 そのうちまた腹を抑えて苦しみだしたノボリにこれ以上薬を飲ませるわけにもいかなくて、ただ安心できるように抱きしめ、背中や腹をさすってあげることしかできなくて、ぼくは何度も何度も妄想の中にいる昨日の自分を罵った。

 

 

 

 

 

 

 いじらしいクダリ。かわいらしいクダリ。お前はなんにも悪くないのにそうやって自分を責めて。全部全部、わたくしが「仕組んだこと」なのに気づけないでそうやって、後悔し必死になってわたくしを縛り付けているつもりになっているんですね。

 

 絶対に手放すものですか。どんな手段を使っても。わたくしのすべてはクダリのもの。クダリのすべてはわたくしのもの。クダリの心の関心も全部、わたくしのもの! だからごめんなさいねクダリ。あなたの心労の矛先にならせていただきます。

 こんなくだらない手段まで使わないと安心できないかわいいわたくしを許してくださいまし。

 

 わたくしが生きている限り手放しませんから。もちろん、死ぬときも一緒ですよ。

 わたくしを鎖でがんじがめにしたつもりで笑ってなさい。わたくし、そんなあなたをもっと大きな檻に閉じ込めて差し上げますから。

 

 そのためなら。毒を飲んで伏せっているくらいなんてこともありません。もはや医者すら信じず、独力でわたくしを看病するお前の前でせいぜいもがき苦しんでみせましょう。

 可哀想なお前は自責し、そしていっそうわたくしを縛り付けてくれるのでしょう? お前のそんな感情の矛先になっていなくては安心できないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝、ノボリと同じベッドでぼくは目覚める。隣で穏やかな寝息を立てているノボリが定刻になるとぱちりと目を開け、自分を見つめているぼくに気づいて微笑むのを見るのが大好き。

 さっきまで規則的な呼吸を繰り返してゆっくり休んでいたノボリが今は意志を持って動き、ぼくを認識していろんな表情を見せてくれる。それは何物にも代えがたい幸福に違いない。もちろん、ノボリの方もぼくを見てとろけるように嬉しそうにするんだもの。

 

「おはようノボリ兄さん? よく眠れたかな? 体調、悪いところはない? 熱はかるよ。……うん、大丈夫! よかったあ! じゃあ顔、洗いにいこっか」

 

 そっと背中に腕を差し入れ、身体を起こす。座ってもまだむにゃむにゃしているノボリの両手を掴み、優しく立たせてあげて、手を引いてゆっくり歩く。欠伸を繰り返しながらぼくの誘導するように歩いてついてきてくれる姿を見ると愛しさが爆発しちゃいそう!

 

 ノボリを洗面台にある専用の椅子に座らせ、万が一溺れたりしないように洗うんじゃなくて温めたタオルで丁寧に顔をぬぐい、刺激の少ない保湿剤を塗り、髪の毛をセットするの。そのころには目が覚めたノボリが「おそろい」がいいとか今日はあの髪型がいいとか、今日はぼくの分はやってあげようとか言ってくれるけど、うんうんって頷きながら聞くけどやるのはあくまでぼく。

 服は着替えない。着替えたいって言われたらするけど、そうじゃなきゃしない。だってパジャマや部屋着以外の格好って外に出る準備みたいなものじゃないか。ぼくからは恐ろしくて言い出せないよ。お風呂に入ったら別のパジャマに着替えさせてあげるの。ぼくもね。おそろいがいいもの。ノボリもその方が嬉しそうだし、ぼくに寄り掛かって寝ている時もあるから触り心地がいい方がいい。

 着替える代わりにノボリの腕と足に巻いてある、簡易バイタル測定器を取り替える。充電は一週間くらい平気でもつけど何があるか分からないから毎日入れ替えてるんだ。一度足の方が壊れてたことがあるからふたつ付けてもらってる。もちろんこれはぼくもつけている。計測器のデータはいつでもライブキャスターやパソコンで確認できてひと安心。寝ている時のデータも大事。ぼくが眠っている間にノボリのバイタル異常が発生したらアラームが鳴るようになっているからね。

 うん、問題なく交換できた。この「電子の首輪」まで甘んじて受け入れてくれるノボリはなんて寛大なんだろう!

 

 慎重に食卓までエスコートしたノボリに夜に仕込んでおいた朝食の仕上げをして用意する。ノボリはぼくの「健康志向」がどれだけ強固なものなのか分かっているからもう何も言わないのさ。それに体調を崩して辛い思いをしたのはノボリの方だしね。身をもってわかって、ぼくの心配に正当性があるって知ってくれているの。

 まあ、たまにはずるいくらいかわいい顔をしてメニューのリクエストしてくれることもある。そういうものはもちろん最優先で叶えるとはいえ、一か月単位で綿密に決めた献立リストと照らし合わせ、栄養バランスに問題がないか吟味に吟味を重ねて出すんだけどね。

 

「朝ご飯前にちゃんとした機械でバイタルを測ろうね」

「ええ」

「ありがとう。……あ、見て。たまたまだろうけど今日のぼくたち、バイタルの数字、一緒だよ! 体温も一緒だったし、今日いいことあるかもね!」

 

 健康管理ノートに数字を書き込みながら思う。

 もし、ぼくらのすべてのバイタルが一緒なら。ぼくたち産まれた日も同じ、まったく同じ遺伝子を持っていて、こんなにそっくり。一緒のものを食べて一緒に寝て、同じ空気を吸って生きている。なら、死ぬ瞬間も一緒になるかな? 難しいかもしれないけど、もう二度と、たとえ一秒一瞬でもノボリと分かたれる瞬間なんて要らないもの!

 

「じゃあいただきます!」

「ええ、クダリ、いただきます」

 

 おいしそうに口に運ぶ姿はぼくの宝物。こんな穏やかな時間をしっかり守って、こうやって健やかに生きてくれたらいい。ぼくたちといっしょにずっとずっと。ここで、危険な外なんかに出ないで、日の光を浴びない生活が永遠に続くの。

 ノボリのすべてがわかってる。ノボリが今何をしているか、どんな表情を浮かべているか、ぜーんぶわかってる。そして何もかもを手伝って、安全に完璧に過ごしていることが確定する。それでぼくはようやく安心できるんだ。

 

 食事が終わるとノボリは定位置になったソファに座る。今日は昔のアルバムをめくっている。幼いころのぼくたちをゆっくり指でなぞって、時折懐かしそうに笑みを深くしている。ぼくはそんなノボリを見ているのが好きだった。心底幸せで、これ以上良いことなんてないとまで思えた。

 ぴったり隣に座りながら、無邪気でまっさらな小さなノボリもかわいかったなぁなんてぼくも微笑みながら眺めている。あぁ幸せ。

 

「そうだ」

 

 ぼくの視線に気づいて顔を上げたノボリは言った。やわらかで穏やかな笑みを浮かべて。

 

「昨日の夜に気づいたのですが、持ち物まですっかりクダリから頂いたものばかりになってしまいました。もう、これだけ尽くしてくれるクダリがいないとわたくし、すっかりダメになってしまいますね? もうクダリが世話を焼いてくれないと生きていけないかもしれませんね」

 

 ああそうか。自覚していなかったけど、ノボリが寝ていたベッドもパジャマも、食事の時に使った食器も、今座っているソファもなにもかも。ノボリの近くにあるものは全部、ベッドサイドに置いてる小物まで自分が贈ったものなんだ。

 そして今のノボリは自分で食事のひとつさえ用意することが許されなくて久しい。身体を洗うのも、体調管理も、ベッドルームに戻る動作さえすべてぼくの管理下にある。ノボリはもう、ぼくがいないと生きていけないんだ!

 

 溢れてきた多幸感にぼくはつい、以前のような笑顔がでちゃった。だって心底ほっとしたんだもの。それこそが安心だった。ノボリの自由を奪い取り、高潔な人間を貶め、そしてぼくは幸せになった。なんてひどい人間なんだろう。そして、ぼくは何一つ後悔していない!

 

「嬉しい。今度は間違えないから。うまくやるから。ね?」

 

 感極まってノボリを抱きしめる。痛みがないように強い力は込めないけれど、ノボリが腕のなかから出られないように。出ようともしないだろうけど、出られない、そんな力加減で。

 

 もう、もう、あんなに自由で、あんなに強くて、あんなに高潔だったノボリはどこにもいない! 一人で生きていけないようにしてしまったのはぼくなんだ! それはあの別れを断ち切ったかのようで清々しく、あたたかい感情だった。むごい人間だ。わかってる。だけど、本当にそれが幸せなことだった。

 

「ずっと、ずっと、ずーっと。ぼくのかわいいひと、ぼくの腕の中にいてくれる?」

「ええ、ええ、わたくしのかわいいおまえ。ずっとずっと、わたくしたちがこの世から去る日まで、この腕の中にいさせてくださいまし」

 

 ノボリはそう言ってかわいらしくぼくにもたれかかってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 クダリの白くしなやかな手がわたくしの肌の上でまめまめしく働いています。もはや全ての行動を監視し、管理しきらなければ安心できないわたくしのかわいいひと。

 

 丁寧に服を脱がせてくれるクダリ。風呂に入ればボディーソープを泡立て、その長い指で隅々まで身体を洗ってくれるのです。どこか怪我をしていないかしっかり確かめられながら。風呂からあがっても、もちろん下着さえ自分で身につけることを許されません。それどころか濡れた身体で立つことは禁じられています。転ぶ危険性があるからだそうです。

 そのため、脱衣所にはわたくしのために用意された簡易ベッドがあり、わたくしはそこに寝転がって幸せそうなクダリの顔を見上げて全てを享受するのです。

 そのうち食事もすべて食べさせてくれそうな勢いですね。わたくし、何も悪いところもなく健康な成人男性なのですが、クダリはもはや異常を異常と認識できないのです。

 わたくしだけが、この箱庭の中で常識をかろうじて記憶している。とはいえ、無粋なことなので忘れさせていただきますけど。

 

 ああ、ああ、もう大丈夫です。幸せそうな微笑みを意識しなくとも笑いが止まらないのです。この笑顔はしばらく消せそうにないのです。手のひらで面白いように転がされているクダリはなんてなんてなんて、この世でいちばんなによりもかわいいのでしょうか!

 

 異常なまでに熱意ある眼差しに見守られ、異様なほど一挙手一投足を全て観察され、病的なほどあらゆるありふれた日常動作を危険だと制止されても。すべてすべて、なんてかわいいんでしょう! 不安で、怖くて、わたくしを管理したくてたまらないのでしょう。それはそれほどまでにわたくしは愛されている証左なのですから!

 

 これでわたくしは悲しみで狂い死ぬことはないでしょう、クダリをさびしく死なせることもないでしょう。きっとクダリは死の瞬間さえぴったりとそろえてくれるに違いないのですから。

 

 ああ。今度こそわたくしたちの夢のような日々は終わりません。わたくしたちは今世こそは、永遠にわかたれることなく、停滞の日々を生きるだけ。

 

 いいのです。それこそが夢みたいに幸せなので。

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