今回より主役が登場し、物語が少しずつ動き始めます。
お楽しみいただければ幸いです。
規模こそ中堅ながら、堅実かつ良心的な経営で評判だった東雲商会が、未開の原野も同然である飲食業の開拓に打って出る。
このある種の博打とも受け取れる発表に、多くの顧客だけでなく同業者からも不安や心配の声が聞かれたが…
発表から僅か10日後。墨田区本所に開店した『チューハイと一品料理の店
これだけでも十分に驚くべき事だが、東雲商会が次にとった戦術は驚きを通り越し、奇々怪々とすら表現出来るものだった。
なんと、赤羽、上野、品川、新宿、新橋の5ヶ所に東雲亭2号店~6号店を一気に開店し、営業を開始したのだ。
チェーンストアというアメリカ流の経営形態*2を取り入れたやり方は、これまでの常識や慣例を無視したものであると、一部から戸惑いや批判の声が上がったものの、全ての店が繁盛したことでそれらの声はすぐにかき消されていった。
その後も東雲商会は積極的に新店舗の開店を行い、東雲亭の他にも―
富裕層を対象とした高級洋食店『レストラン東雲』
家族や若者を対象にした格安洋食店『ビストロド東雲』
洋菓子店『パティスリー東雲』
ラーメン店『東雲軒』
カレー専門店『カレーの東雲』
など多種多様な飲食店を開店し、その全てを繁盛させていった。
時は流れ、
東雲商会の経営者である
東雲商会が僅か3年でここまでの急成長を遂げたのには、
彼の名は
麟矢視点
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
英国製のスーツに身を包み、菫の香りがする香油で髪をキチンと整えた俺は、居並ぶ大人達へ深々と頭を下げる。
ここにいるのは、父であり東雲商会社長でもある東雲辰郎を筆頭に副社長、専務、常務、部長と東雲商会を動かしている重鎮の皆さん。
皆、それぞれに俺の事を可愛がってくれているが、それはそれ。こういう場での礼儀をしっかりしておくに越した事はない。
「気にすることはないよ、麟矢君。皆美味い物が食えると楽しみにしているからね」
「いや、まったく。専務など昼を少なめにしているほどでしたからね」
「おいおい、常務。それは言わない約束だったろう?」
副社長の声に続き、専務と常務がそんなやり取りを交わして、室内が笑い後で包まれる。頃合いだな。
「それでは、本日の料理を用意させていただきます」
一礼し、一旦隣接する厨房へ移動した俺は―
「準備のほうは?」
重鎮の皆さんへお出しする料理。その調理を行っている人物…料理長へ声をかける。
「…問題ありません。ちょうど出来たところです」
東雲商会が飲食業へ進出する際、月収100円*4でスカウトした元帝国ホテル副料理長。
寡黙で何を考えているかわからない事もあるが、料理の腕はピカイチで、
今回も完璧なタイミングで作ってくれたようだ。
「お待たせしました!」
早速出来立ての料理を皆さんへ配っていく。本日の料理は…
「皆様にお配りしたのが、本日の料理。『フィッシュ・アンド・チップス』です」
「フィッシュアンドチップス…」
「
「幾つか種類があるようだね?」
「はい、魚は今回鱸、鰈、芝海老。芋はジャガイモと里芋を用意しております。魚は塩と胡椒、芋は塩で味を付けておりますが、お好みに応じてレモン汁や
「タルタルソース…この白いやつかね?」
「はい、朝採れの卵に大豆油、酢など混ぜて作る『マヨネーズ*5』という調味料に、刻んだ
「ふむ、まぁ…まずは頂いてみるとしよう」
「そうですね、せっかくの揚げたて。冷ましてしまっては申し訳ない」
質問を後回しにして、フィッシュ・アンド・チップスを食べ始める重鎮の皆さん。その反応は…言うまでもあるまい。
常務視点
麟矢君が出してきたフィッシュアンドチップスという料理。
「んんっ!?」
まずはそのままでと思い、ナイフで適当に切ったそれをフォークで口に運んだ瞬間、衝撃が走った。
サクリと小気味良い音をたてながら衣がほどけ、まず感じたのはやや強めに振られた塩の味と油の甘味。そこへ魚…鱸のホクホクした身の美味さが後追いしてくる。鱸は洗いや焼き物でよく食べているが、揚げても美味いとは!
あっという間に半分食べたところで我に返り、味付けを施していく。レモンの汁、
「麟矢君、このタルタルソースは絶品だな!」
私の一押しは、タルタルソースだな。美味さの伸びが半端ではない!
「うん、うん、鱸も美味いが、鰈も海老も美味い!」
鱸よりも儚くハラハラと口の中で砕ける鰈、大葉で巻くという一手間をかけた芝海老はプリプリとした食感が実に良い。何よりも…
「ぷはぁ! チューハイともよく合う!」
チューハイの喉越しが、口の中の油を奇麗に洗い流してくれる。これはたまらない!
「いかんな、常務。芋を食べずにこの料理を語るのは不完全というものだ」
「芋…おぉ、忘れておりました」
専務の声にそう答えながら、芋の素揚げに手を伸ばす。しかし、芋は芋…
「うぉっ!?」
次の瞬間、芋は芋などと侮っていた己の浅慮を恥じた。
皮ごと揚げられたジャガイモは、しっかりした歯応えがあり、皮を噛み切った途端、火傷しそうなほど熱いホクホクの中身が飛び出してくるし、里芋の方はネットリとした食感が実に良い。両方ともタルタルソースとの相性が良いのが、また素晴らしい。
「いや、素晴らしかった。麟矢君、今日も美味い物を食わせてもらって感謝するよ」
「お粗末様でございます」
私や社長達の賛辞に一礼して答える麟矢君。驕る事のないその姿勢、社長は素晴らしいご子息を持って羨ましい。うちの愚息達に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ!
「それでは、評決を取ろうと思う」
社長の一言で、その場の空気が変わり…ふぃっしゅあんどちっぷすを東雲亭の新たな料理として採用するか否かの評決が行われる。その結果は…満場一致で採用だった。
麟矢視点
「麟矢、このフィッシュアンドチップス、凄く美味しいわ」
「ありがとうございます、母上」
東雲商会での試食会を無事に終えた俺は、父…父さんと共に家へと戻り、帰りを待っていた母さんや執事の後峠さん、女中の皆さんへフィッシュ・アンド・チップスを振舞った。こちらの反応も上々で、嬉しいものだ。
「麟矢」
その時声をかけてきたのは、お茶漬けで軽めの夕食を済ませた父さんだ。
「話したいことがある。30分後、私の書斎に来なさい」
「はい…」
話したいことか…随分と真剣な顔をしていたし、
「父上、麟矢です」
「入りなさい」
30分後、父さんの書斎前にやってきた俺は許可を得てから入室し―
「座りなさい」
先にソファーへ座っていた父さんの向かい側へ着席する。
「話というのは他でもない…お前の、
「将来…ですか」
「うむ、単刀直入に聞くが…麟矢、お前は今…好いた
あぁ…将来についてって
「いえ、特にはおりませんが…」
「そうか、だったら話は早い。実はな…麟矢、お前には許婚がいるんだ」
「許婚ですか。まぁ、先程の質問からして、予想は出来ましたが…それで、何処のお嬢さんなんでしょうか? ぼ、私の許婚とは」
「うむ、私の
18年か…父さんが今年で35歳*6だから、成人前からの付き合いって事だな。
「ここにお嬢さんの写真があるから見てみなさい。
「はい」
そんなことを考えながら、俺は父さんから許婚のお嬢さんが写っているという写真を受け取り…
「え……」
写っている相手を確認した瞬間、言葉を失った。
おかっぱにした白い髪と髪飾りに使われている赤い丸組紐*7、着ている着物の柄、そしてこの顔立ち。間違いない…
「産屋敷ひなき嬢。今年6歳になる」
「えぇ、本当に…可愛らしい、利発そうなお嬢さんですね…」
この世界、『鬼滅の刃』の世界だ…。
俺はそんなことを考えながらも表面上は平静を保ち、父さんの話を聞き続けるのだった…。
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回、麟矢見合いへ行く。