1.
加藤がようやく
膝裏をキツく握っても、脹脛からの出血は止まらない。
中腰の姿勢で花山を睨み上げながら、伺いをたてるように、そろりと加藤は帯を解き、それを肉のちぎれた部分にキツく、巻いた。
加藤は立ち上がった。
だが、これで多少はマシに動ける。
ここまでの過程で、花山はただ黙って見ているだけであった。
加藤が腰を落とし、両腕を持ち上げて構えてから、のそり、と花山が歩を進めた。
安易に走ってしまった。
それがミスであると、加藤は実感している。
焦っていた。
花山薫という大怪獣。
その拳が掠めるたびに、「これをまともに食らったら終わりだ」という、心中の不安が焦燥に駆られた。
あのまま投げに徹していれば──
そう思わずにいられない。
花山薫はけろりとしている。
相当に頭をぶつけてやったのだから、ダメージは必ずあるはずなのに、そんな素振りがまるでない。
花山の拳が引き絞られる。
前に──
加藤は踏み出した。
ローキック。
花山の前足を蹴った。
硬い。
鉄芯のような感触が蹴り足を痺れさせる。
力が入らなくなっていた。
不安が、恐怖が、あるいは憧憬が、加藤の心の隙間に入り込んでしまっている。
集中しろ!
目を見開く。
花山薫の拳が落ちてくる。
もう一歩だ。
もう一歩踏み込め──
踏み込んだ。
花山の懐に。
背中を、ものすごい熱が通り抜けた。
それまでは道着に護られていた肌が、花山の拳の軌跡にびりびりと焼かれていく。
顎に向かってショートアッパーを放った。
ローキックを打った。
ハイキックを打った。
打った。
打った。
打った。
まるで、それしかないかのように、加藤は拳を、蹴りを打ちまくった。
それを、範馬刃牙が悲痛の面持ちで見ていた。
勝負ありだ。
その思いが、確信となって刃牙の思考を占めた。
こればっかりは、もう、覆しようがない。
加藤清澄の打撃では、花山薫にどうというダメージも与えられないだろう。
急所を穿てばどうだ……とか、そういう次元の話ではない。
加藤清澄が弱いのではない。
花山薫が強いのだ。
花山薫の肉体は、才能は、加藤清澄の
刃牙の思考に準ずるように、加藤の息が上がっていた。
対する花山は、ただ、立っていた。
「テメェ……ッッ」
屈辱──
敵とさえ見なされていないのか、おれは。
「ざっけんじゃねえ!!!」
加藤はハイキックを打った。
蹴り足から飛んだ血が、花山の頬を赤く染める。
ふざけんな!
その思いが、加藤の頭を加熱させた。
ふざけんなッッ!!
ふざけんなッッ!!
おれだって、ここに立つ資格があるんだッッ!!
おれは、花山薫の敵なんだッッ!!
敵に対して、てめえ!
なんだ、その眼はよォッッ!?
おれだって、ゲバルに勝って、ここにいるんだ。
おれだって、オッサンやジャックや繰神のおっさんに鍛えられて、克巳さんに勝って、ここにいるんだよォッッ!!
こんなに──
こんなに差があるなんて────
腹に打ち込まれる乱打をまるでものともせず、加藤の顔を、花山の拳が撃ち抜いた。
加藤は後方に激しく吹き飛び、膝をついた。
2.
花山は加藤に歩み寄ると、髪を掴んで持ち上げ、強引に視線を合わせた。
「まだ、やるかい?」
強い眼で、花山は加藤を射抜いていた。
加藤は、
「へ……」
と笑って、
「たり、め……だ……」
息も絶え絶えに、そう言った。
それをしっかり聞き終えて、花山がボディを打った。
加藤は吐瀉物を吐き出して再び膝をつき、あられもなく闘技場を転げ回った。
それをまた、花山は黙って見届けていた。
「花山さん……」
刃牙が言った。
追撃を行わないどころか、加藤を見下す眼に慈愛の光さえ纏い出した、花山の意図がなんなのか、計りかねていた。
加藤が柵を支えに身を持ち上げた。
眼は揺れ、口元には涎と鼻水と血で汚れ、髪はほどけている。
天を見上げていた。
降り注ぐ照明の光を、朧げな眼で受け止めていた。
顔を下ろした時、すう、とその顔に、精妙さが宿っていた。
怒りでも、悲しみでも、悔しさでもない表情だった。
加藤は、花山を見た。
「まってて……く、くれたのかい」
つぶやくように、言った。
アリガトウ──そのような文脈を孕んでいた。
加藤が構えた。
観客は加藤の名を呼んだ。
花山の名を呼んだ。
しかし、ふたりにはその声は聞こえていなさそうだった。
真摯な態度で、加藤は花山につっかけた。
3.
加藤がやることはシンプルであった。
ローキックをやり出した。
一打一打、丁寧に踏み込んで、教科書的なローキックだった。
それを、花山は防御しない。
花山の様子に全く構わず、加藤は左右のローキックを打ち、打ち終わると距離をとった。
花山がずっ、と足を出す。
無造作な蹴りを打った。
それを、かがみ込むようにして躱した。
縮こめた身体から、力を爆発させるように、綺麗な正拳突きを打った。
それが、無抵抗な花山の脇に刺さると、間髪入れずにローキックに繋げた。
綺麗で、真っ直ぐな、加藤らしからぬカラテであった。
獅子尾龍刃のもとで、繰り返し繰り返しやってきた動きだった。
「加藤くん……」
龍刃が、愛おしそうに、その名を綴る。
切ない音のように、刃牙には聞こえていた。
龍刃がを閉じた。
目の前の光景を拒絶するかのように、口を、硬く結んでいた。
4.
花山薫は、加藤の攻撃をいくらもらっても、倒れなかった。
少しも後ろに
時たま拳や蹴りを出している。
かろうじて躱すものの、加藤の身を削るように、空を切った。
気づけば、加藤が花山の肉を叩く音が、しん、と静まった闘技場に響いていた。
加藤は一生懸命に殴っていた。
一生懸命に蹴っていた。
だが、それが、なんの意味もないようであった。
無常──
無情──
ただ、誰の頭にも、そういう言葉が浮かんでいた。
花山が口元を拭った。
血を滲ませた歯が、ころりと口から手に乗った。
「もういいか」
優しく、そう、言った。
5.
ああ、
と、加藤は思う。
そりゃあ、こうなるわな。
と、その言葉は続いた。
よくやった、という言葉が、闘争の舞台ではなんの意味もないことは、加藤はよく知っている。
相対して、負けた側には、「頑張った」は無意味である。
それでも、そこに、意味を見出したくなっている。
自分の無力への言い訳を、したくてしたくてたまらない。
だが、これはしょうがないだろ?
才能に、差がありすぎる。
おれの全てが、このひとにとっては、矮小なことなんだ。
おれの闘争の全てが、このひとには意味がない。
このひとは、ひとりだから。
少しだけ垣間見えた、あの世界。
この人が、カウンターで、ひとり、酒を飲んでいた。
おれじゃ、すぐに引き戻された、あの世界。
気づいたよ。
オッサンも、刃牙も、愚地独歩も──
範馬勇次郎も。
花山薫も、あっち側の世界の存在なんだって。
おれじゃ、
おれなんかじゃ、
向こうには行けないって──
悔しいさ。
悔しいけど……
おれだって、そこそこは強い。
ゲバルに、いい戦士だって言わせたぐらいには、おれだってヤれるんだよ。
だからこそ、
おれは、そっち側の人間じゃない──
ここまでが、すでに、出来過ぎなぐらい出来過ぎだった。
それだけなんだって──
花山が拳を引いている。
まっすぐな拳。
おれの、ど真ん中にぶち込まれる拳。
愚地独歩の
あれにやられるなら、それもいい──
そう思っちまう、拳。
あの時、先輩がいってた言葉がわかったよ。
花山薫とヤりあえば、全てを失うって意味と、全てを得られるって意味が、わかったよ。
おれの人生の全てを賭けても届かない。
真正面も、小細工も、このひとには等しく叩き潰される。
足りないものは、全てだ。
才能も、肉体も、経験も、全部足りない。
頭では、
でも、うん──
花山の拳が向かってくる。
全身を振り抜いている。
それを、おれは、身を削って躱した。
腕を掴んで、その勢いを利用して、花山を背負い投げていた。
──えっ!?
闘技場がわあっ、と湧いた。
獅子尾龍刃が目を見開いた。
範馬刃牙も驚愕していた。
加藤自身すら、自らが反射的にとった行いに動揺していた。
花山が立ち上がる。
そこに、蹴りを打ち込む。
いい蹴りが入った。
いい感触があった。
──あれ?
おい、どうした、おれの身体よ?
もういいんだぜ?
もう、おれは……
身体が熱い。
身体が熱かった。
拳を握っていた。
拳に力が入っていた。
おいおい、マジかよ、こいつ……
加藤の下腹部から脳天を突き抜けた。
突き抜けたものは、歓喜だった。
なぜ、今、歓喜が巡るのか、わからない。
わからないが──
「ッシャオラアッ!!」
花山に向かってローキックを放つ。
理由はわからない。
わからないなら、もう、わからなくていい。
そんなことは、もう、捨て置けばいい。
今、おれの身体が望むことをやってやろう。
今、おれの、おれの知らなかったおれが、やろうとしていることに、身を任せよう。
狂え──
狂ってしまえ──
狂って、己の全てを、ただ、叩きつけちまえ。
「キャオラァッ!!」
加藤の拳が、蹴りが、花山に向かって次々と打ち出された。
花山は、それを、いつものように受け止めていた。
6.
狂ったのか、加藤清澄ッッ!?
刃牙はそう思った。
あの花山薫と、真正面から殴り合うとはッッ。
絶対に勝てない。
絶対に。
体力が少しでも戻ったのなら、勝ちたいなら、さっきのように投げに徹すればいい。
それが、藁を掴んで天を目指すほどの頼りなさだとしても、唯一の勝ち筋のはずだ。
その証拠に、花山はビクともしていない。
だというのに、加藤のあの表情はなんだというのか!?
あの、嬉しくてたまらなさそうな、喜色満面の顔はなんだというのか!?
加藤の選択は間違っているはずだ。
闘争に対して、不誠実なはずだ──
だというのにッッ!
「痛ぇだろうなあ……」
龍刃が言った。
つれェだろうなあ……
刃牙の方を見ていない。
誰にいうでもない呟き。
自らに言い聞かせる言葉遣いであった。
でも、と続けた。
「相当、幸せだろうなあ……」
目を細めていた。
龍刃は目を細めて、たまらぬ感情を吐き出すように、顔を軽く振った。
7.
出し尽くす──
それが、加藤のたどり着いた答えだった。
勝つとか、負けるとか──
そういうものを遠ざける。
勝ちたい、という気持ちも遠ざける。
すると、負けるかも、という気持ちも、なぜだか遠ざかる。
ヤる。
加藤清澄がヤる。
やるべきことを、つまり、加藤清澄を出し尽くすことをやる。
考える──ということは、しない。
この身体の奥の奥、加藤清澄を形成する、加藤清澄の全てを拳に集める。
手を出す。
手を出す。
覚えている打ち方で、とにかく打つ。
勝つか負けるかは後でいい。
気持ちが良かった。
忘れていた。
これが──たぶん──加藤清澄の原初なのだ。
空手を、なぜ、続けたのか?
ボクシングや柔道じゃなくて、なぜ空手だったのか?
思い出した。
愚地独歩に褒められたからだ。
何をやってもダメだったおれが、唯一褒められたからだ。
「加藤、オメェは才能あるぜ」って、愚地独歩に言われたからだ。
だから、空手だったんだ。
嬉しくなるために。
楽しくなるために。
おれは空手をやってたんだ。
相手に勝つ、ってのは、愚地独歩がそう言ってるからだ。おれ自身が、負けたくないって思ってたからなんだ。
だから、その辺は二の次もいいところだった。
忘れてたぜ。
加藤清澄が、今、あらんかぎりの加藤清澄を吐き出している。
いつもの──今までのおれなら、ここで安易に目つきやら金的に走ってる。
そして、カウンターでぶっ飛ばされてるだろうさ。
我ながらに綺麗に
加藤清澄がやってるんだから、これも、加藤流のカラテなんだ。
おれは、愚地独歩じゃない。
範馬刃牙じゃない。
愚地克巳じゃない。
獅子尾龍刃じゃない。
ジャック・ハンマーじゃない。
末堂厚じゃない。
おれは、加藤清澄なんだ。
こういうおれも、おれの中にいた──
ようやく、それに、気づけたんだ。
すげえよ、花山薫。
伝説の通りだ。
きっと、今のおれじゃ勝てない。
このひとは、おれなんかとは、全然違うステージに立ってるもんな。
だけど、おれは、これを楽しめる。
ヘンな話だけど、おれは、負けるとわかってることを、心から楽しめるんだ。
とんだヘンタイだな、おれって。
これは、愚地独歩にゃないんじゃないか?
刃牙よぅ、どうだい? オメェにできるか?
負けることに全力で挑んで、楽しむことができるかよッッ!?
加藤は見た!
自身の乱打にさらされる花山の顔。
口角がかすかに持ち上がっているのをッッ!!
加藤は嬉しくなった。
拳に、さらに、いっそう、力がこもった。
全身の筋肉が躍動していた。
「花山ァァアアッッ!!!!」
加藤は叫んだ。
右拳を振りぬいた。
8.
左のカウンターだった。
花山の左拳が、加藤の右拳が届くより先に、加藤の顔面のど真ん中を撃ち抜いた。
加藤は拳を出した姿勢のまま、固まっていた。
それは、花山のパンチの力の全てが、あますことなく加藤に注がれた証明である。
ずるりと、花山の拳から剥がれるように、加藤は倒れた。
「加藤くんッッ!!」
獅子尾龍刃が闘技場に飛び込もうとするのと同時に、その肩が掴まれた。
強い力だった。
龍刃が振り向くと、そこに立っていたのは末堂厚だった。
末堂は黙って、かぶりをふった。
観客席から歓声が上がった。
審判のコールが『勝負あ……』で止まっている。
龍刃は振り向いた。
加藤清澄が立ち上がっていた。
9.
意識があるのか、ないのか。
それが傍目からはわからない。
加藤清澄は立っている。
花山薫を見ている……のだろうか。
眼の光がふわふわとして、切れかけの電球のようであった。
だが、構えはとっている。
ふらついているし、顔は、鼻っ柱が潰れたままで、呼吸のたびに血を吐いていた。
審判たちは困っていた。
このまま続けたら、間違いなく加藤は死ぬ。
しかし、本人に闘志があるならば、おいそれと止めるワケにもいかない。
審判たちが光成に助けを求める中で、花山が口を開いた。
「いつでもいいぜ……」
優しい口調だった。
「いつでもいい。飯食ってる時でも、オンナといる時でも、クソしてる時でも、寝てる時でもよ……」
加藤の耳に、その言葉は届いているのだろうか。
花山は構わず続けた。
「次は……
花山が言い終わるのを待っていたのか、加藤がずるりと膝から落ちた。
うつ伏せに倒れると、もう、眼から光は消えていた。
『勝負ありッッ!!』
審判のコールが轟いた。
観客が拍手を捧げた。
その筆頭に、観客席から立ち上がって、微笑を浮かべるゲバルの姿があった。
花山が踵を返し、小声で「イテェ〜」とボヤきながら、頭を掻いて退場していった。
二回戦第四試合:勝者、花山薫ッッ!!
次回はまたインターバルです
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