FULL GATE!! -全バ転生者です-   作:猫井はかま

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気づいたら後書き含め100kb超えたわ!はっはっは!

あけましておめでとうございます。新年一発目から湿度がひどいもん書いてしまいました。
今年もよろしくお願いします。





山は危険でいっぱいです

 

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

 中央とも呼ばれる学園の生徒会室で、一人の女性がパソコンを操作していた。

 陽が暮れ薄暗くなった室内で執拗にある動画の一場面を繰り返している。

 その動画は学園内の警備用に設置された監視カメラの映像だった。

 延々とリピートを繰り返し――部屋が明るくなったことに気づく。

 

「あらルドルフ、難しい顔しちゃってどうしたの?」

「ああマルゼンスキー……なに、『件の少女』のことで少しね」

 

 学園生徒会長シンボリルドルフは画面から視線を外し照明をつけた女性を見つめる。

 ルドルフの政務を支える女性、マルゼンスキーは告げられた言葉に柳眉を歪めた。

 

「件の――年代からして、『特別週間案件』?」

「ああ。我が校……否、URA史上最大の恥部。中央トレーナーの大量逮捕者を生み出した三大事件、『特別週間案件』『東海ダービー案件』『大脱走案件』――その一人だよ」

 

 東海ダービーとは愛知県ウマ娘競技会が主催するローカルシリーズ所管のレース。別組織が運営する中央の生徒会が言及する類のモノではない。少しレースまわりに詳しければそれが隠語であると気づいただろう。

 

「……『トウカイテイオー』『メジロマックイーン』――『スペシャルウィーク』」

 

 マルゼンスキーは不快感を隠そうともせずに隠語の裏に秘されたその名を口にする。

 

「未就学の頃より『特定の環境にある者たち』から付け狙われる少女たち……か」

 

 トレーナーがウマ娘の望まぬ接触をする。しかも自己判断も難しい幼年期に。人並みの倫理観を持っていれば眉を顰める事案である。青田買いなどという言葉では済まされない問題行為だ。

 

「中央だけで30人以上の逮捕者を出した大事件……しかもそれは一度に起きたのではなく毎年のように繰り返された。おまけに逮捕された者たちを聴取しても運命だとかあやふやでスピリチュアルなことばかりを話して埒が明かないときた。今ではURA幹部ですら関わりたがらない呪われた案件扱いだ。寺社の管轄にしようという動きさえあったらしい」

「あらあら、根性が足りてないわねぇ~……お姉さんMK5よ?」

 

 少し溜めて告げられた言葉。明らかに考えてからの発言にルドルフは溜息を漏らす。

 

「……マルゼン、私の前では無理をしなくていいと言ってるだろう?」

「ごめんなさい……もう癖になってて……あー、なるべく自然体にするわ」

「そうしてくれ。まったく、()()()というのは厄介だな?」

 

 さらりと告げられた通り、マルゼンスキーは転生者であった。

 それを知っているのは目の前の生徒会長だけであり、他の誰にも漏らしていない。

 マルゼンスキーはかつてどこかに存在した『マルゼンスキー』を演じて生きている。

 異世界と呼ばれるべき遠いどこかの『彼女』を。

 

「ええ、とてもね――それに振り回されて破滅したのが『彼ら』。地方トレーナーや中央以外のウマ娘も含めれば100人近いんだったかしら?」

「正確な数はわかっていないよ。事件初期には示談で済ませたケースもあったようだからね。特にメジロ家は独自に対処したようで、余計に総数がわからなくなっている」

「あらあら怖いこと。マグロ漁船ならまだ穏便ね?」

「人権とは、法治国家とは、と疑問を呈したくなってしまうな」

 

 掘り下げまい、とルドルフは瞑目する。

 シンボリ家の遠縁にあたる『トウカイテイオー』の件ではシンボリ家の末端が動いた形跡があったからだ。本家筋のルドルフとしてはメジロ家をとやかく言える立場ではない。元より家族を守ろうとした結果なのだから強く言うつもりは毛頭ないのだが。

 

「……トウカイテイオー。私の息子、か」

 

 呟き執務机に拵えた厳重な鍵付きの引き出しを開ける。

 取り出されたのは複数の種類さえ雑多なノート。

 

「私の息子なのにシンボリ家に直接生まれないというのは驚きだな。マルゼン、君の言う……なんだったか、『生産牧場』とやらが関係しているのかな?」

「さあ……そこいらの法則性は不明のままよ。あたしだって全てを知ってるわけじゃない」

 それに、とマルゼンスキーは釘を刺す。

「あまり混同するのはやめなさい。前世は前世、今のその子はあなたがおなかを痛めて産んだ子じゃないでしょう」

「ふっ、耳が痛いな。痛みも伴わず親面するなというわけだ。見賢思斉、その言葉に従おう」

 

 ノートの表紙には『ウマ娘プリティーダービー』と書かれていた。

 

「転生者というものは厄介だが――君のように楽しませてもくれるんだね」

 

 ルドルフはノートを開きパラパラと捲る。

 ふと手が止まるのはトウカイテイオーの――競走馬のトウカイテイオーの情報が記されたページだった。父シンボリルドルフ・母トウカイナチュラルと書かれた文章を指で撫ぜる。

 

「君が記してくれた『ウマ娘プリティーダービー』の情報は本当に役立つよ」

「……肝心な部分は明かしていないけどね」

「我々の戦績。つまりは未来か。そんなもの知る価値は無い。我々の幸福には不要だよ」

 

 ばっさりと切り捨てる。

 

「定められた未来など誰が欲しがるものか。未来は白紙だからこそ価値がある」

 

 それに、とルドルフは剣呑な視線をマルゼンスキーに向けた。

 

「知ってしまえば囚われる。君が『史実』通りに引退しかけたように」

 

 かつてトゥインクルシリーズを走っていたマルゼンスキーは『史実』と同じように負傷し引退を決めようとしていた。だが当時の生徒会やまだ幼かったルドルフに説得され、8戦8勝の業績を以ってドリームシリーズに移籍することで引退を回避したという過去があった。その怪我は、現代医療をもってすれば簡単に治せるものだったのに。

 

「……手痛い意趣返しね。前世と混同したのはあたしが最初だもの」

「そんなつもりはなかったが……螻蟻潰堤と思い謹んでくれ。君のような才人が安易に去ろうとする姿など二度と見たくない」

 

 一息つきルドルフは別のページを開いた。

 

「さて、問題のスペシャルウィークだが……サンデーサイレンス産駒……血統は、ほう? 君の孫か。なるほど強くなるだろうねこの子は。ふむ? 君とシラオキ系の娘となると、この子の母も強かったのかな?」

「あの子の母は――いえ、個人情報の範疇よ。黙秘させてもらう」

「……君がそう言うのなら」

「それで、その子がどうしたの? 何かを見ていたようだけど」

 

 マルゼンスキーが生徒会室に入った時、ルドルフはパソコンを覗き込んでいた。

 入口からも今の立ち位置からもパソコンの画面は見られない。

 

「ああ、彼女がね――()()()を見て顔色を変えていたんだ」

 

 手配書。その言葉を察せない生徒会役員はいない。

 何事もそつなくこなし隙さえ見せないルドルフが行った唯一の奇行。

 無敗の三冠を成した皇帝の王冠に傷をつけた最初の一人。

 

「さて、ざっと見たところサラブレッド『スペシャルウィーク』と『彼女』の間には何の関係もない。血縁に至ってはかすりもしていない。だが――この世界ではわからない」

「ルドルフ? 何を」

 

 長い付き合いのあるマルゼンスキーすら絶句する。

 

「大惨事の中核である少女が我が怨敵『カツラギエース』と関わりがある」

 

 皇帝シンボリルドルフは大衆の前では決して見せない凄惨たる笑みを浮かべていた。

 

「今までの調書には一切書かれていなかった情報だ。どんな関係か? 転生者が関わる事案か? 年齢的に噛み合わないが、『ヤツ』の血を引く者なのか? 親と子が同世代に存在しうるこの世界ならば、本来交わらぬ者たちが親子となることも有り得るのではないか? 転生者などという荒唐無稽な存在が関わるとしたら、そんな有り得ないことも起こるのではないか? 『ヤツ』の娘だとしたら――この少女もまた、私の首に牙を届かせる存在なのではないか」

 

 心から嬉しそうに、楽しそうに、皇帝は笑う。

 だがその笑みは、獲物を前にした肉食獣のそれだった。

 

 

「ふ、ふふ」

 

「楽しみだよ『カツラギエース』の後継者かもしれない君が」

 

「ああ楽しみだスペシャルウィーク。君の走りを、早く、速く、疾く、味わいたい」

 

 

 朗々と謳い上げるが如く。

 されどのその言葉に血生臭さを感じずにいられない。

 己が背筋が冷たくなったのは錯覚ではないとマルゼンスキーは表情を強張らせる。

 

「――ルドルフ」

 

 獅子を思わせる皇帝の哄笑は低く、生徒会室に響いていた。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 春先というのに何故か寒気がする今日この頃皆さまいかがおすごしでしょうか。

 スペシャルウィーク(12歳。誕生日はゴールデンウィーク期間中なのにそれなりの頻度で平日。なんかくやしい)なんですけれども、しょっぱなから困っております。

 はい。相部屋のキングちゃんと軽いにらみ合いが発生してしまいました。

 ちなみに悪いのは私。

 

「部屋の半分はあなたの領域なのだから好きにすればいいとは思うの。でもね。これはちょっと。……どうなのよ」

「ごめんねごめんね。でもカツラギさんって人気が出てすぐ引退しちゃったからグッズがほんとに少ないんです。ぱかぷちも一種類しかないくらいで」

「仕方ないのも理解はできるんだけど――部屋に手配書貼るって」

 

 そう、先日手に入れた私の憧れの人であるカツラギエースさんの手配書……いやほんとになんなんだこの手配書。悪いことなんもしてないのになんで賞金首になってんだ。

 ともあれそれを飾ることでもめているのである。

 全面的にキングちゃんが正しいと思う。思うのだけど、そこは譲れない。

 

「カツラギさんの他のポスターってライブとかの笑顔のばっかでこの写真雑誌に掲載されただけでポスターになってないんですよこの勝ったのに静まり返る観客席を見上げてる愁いを帯びた横顔って他に無くてメチャクチャ希少で」

「ああうん……本当にこの人のこと好きなのね……」

 

 はい大好きです。

 恩もあるけどその後自分で調べたあの人のレース見て大ファンになりました。

 かっこいいんだよ爆発したって形容された末脚とか鬼気迫る入れ込み具合とか。

 特にさ、クラシックシーズンの京都新聞杯が最高なんだよね!

 動画あるよ見る? え、もう15回見たからいい? そう……

 

「ルドルフ会長とかミスターシービーだとグッズも豊富で色んな表情見れるけどカツラギさんの笑顔以外のってほんとこれだけなんです悪いとは思うけどほんとこれ貼るの許してください」

「……まあ我侭言わないあなただもの。これくらいは我慢するわ」

 

 キングちゃん! キング様! キーング!!

 いやっほうありがとうめっちゃうれしい!

 ということで早速貼り出したんだけど。

 

「手配書一枚貼ってあるだけで荒くれの集う酒場みたいな感じになるのね……」

 

 それは否めない。

 おかしいよねその他の部分は全部女学生の部屋なのにWANTED一枚で空気がガラッと変わるんだもの。なんで埋没しないんだよ貼ったの私だけど。

 嬉しいけど微妙な気持ちになるというブツを作ってくださったヤツにどういう感情向けていいのかわからないまま陽は暮れていった。

 

 

 

 

 

 

 その日私たちは複数クラス合同の授業に参加するためトラックに集合していた。

 いよいよ、レースである。

 といっても選抜ですらない模擬レースなんだけど、本格的に走れると皆気合が入っていた。

 今この場にいるのは厳しい入学試験を越えてきた日本全国選りすぐりのアスリートの卵だ。

 ただ走るのでなく競うということにウマ娘の本能がこれでもかと刺激される。

 意気軒昂、気炎万丈って感じで、入学して初めての模擬レースに燃えている。んだけど。

 なんかいる。

 

「アーッハッハァッ!」

 

 うわぁ高笑いしとる。

 なんかいつもよりテンション高いな……徹夜明けかな?

 制服のままだるだるの白衣を着たその人物は諸手を上げて歓喜を表した。

 

「いやぁ~若い芽が屯してるのはいつ見てもいいものだねぇ。可能性の数がそれだけあるということなのだから!」

 

 完全に言動がマッドサイエンティストじゃん。

 あんただって十分若いでしょうに、というツッコミできないくらいマッドじゃん。

 つうか学生。自分の授業に出なさいよ。今更学ぶことあんのか疑問ではあるけど。

 あの人英語とドイツ語で論文書けるからな……

 まあアレだよ。

 何故か一年の授業に三年生のアグネスタキオンがいるんだよ。

 ウマ娘って発育良いから体格差は殆どないけど醸し出す異様な雰囲気に遠巻きにされてる。

 いやもう明らかに怯えた視線向けられてんじゃん。初日からアレだったしな。

 

「教官」

 

 5人いる教官にアレ放置でいいんすかと指をさす。

 全員顔をそむけた。おい。

 

「……仕方ないのよ、実績があるから……」

 

 デビュー前って話じゃなかったっけ?

 

「彼女が見物に来てアドバイスすると怪我率が下がるって数字で出ちゃってるのよ……教員だけでこの数の生徒を完全に管理するのは不可能だしアドバイスがトレーナー顔負けの的確さだから口を挟むことも出来ないし」

 

 心底悔しそうに教官は言う。

 まあ怪我に関しては若くして引退に追い込まれたんだから人一倍過敏だろうし、なにより理論を重視する科学者。教官としては一生徒にお株を奪われる形になるが他の生徒の為になるなら目こぼしせざるを得ない、と。単純に人手が増えるだけで大分違うだろうしね……

 仕方ないかぁ。仕方ないのかなぁ……? それ加味しても危険じゃない……?

 早速怯え切った同級生が話しかけられて尻尾跳ね上げてるし。

 二言三言話すと「な、なるほど?」みたいな顔になってはいるけど。

 

「第一組はスタート位置へ!」

 

 言いたいことは山ほどあったが口で言ってどうにか出来るわけもなく授業は進む。

 アグネスタキオンはアップしてる生徒を見回しては目に付いた相手に近寄り話しかけるということを繰り返していた。教官の言うところが正しければアドバイスらしいのだが。

 ウマ娘は50㎞/hを軽く超えるスピードで走るから一つ二つ直せるだけで大分違うのだろう。と、思う。怪我したことないし予防とかそういうの詳しくないから何とも言えない。

 何組かが走り終え誰かがぶっ倒れて保健室に運ばれていった。多分ツルちゃん。

 ツルちゃんだから怪我ってことはないだろう。スタミナ切れかな?

 そういえば保健室って行ったことないけど保険医は誰なんだろ。まさかこの時点でいるとかないよな元祖不審者……

 

「やぁやぁモルモット君~、ようやく君のデータが取れるねぇ~」

「うひぃぇぁ」

「それどうやって発音してるんだい」

 

 やめて親しげにしないで噂になっちゃう……

 ほらぁ同級生の皆さん「え、アレと仲いいの」って目で見てるぅ。

 

「ま! 知らない仲じゃないし期待しているよ」

 

 そう言って不審者は離れていった。

 短い接触時間でごっそり気力持ってかれた気がする。

 あの人、元馬の転生者だからか行動が読めないんだよね……

 対タキオンの取扱説明書どっかにないかなぁ。

 

「スぺちゃんあの人は……」

「アグネスタキオンさんって先輩。走りの研究してるんですって」

「そ、そうデスか……」

「あの、あんまりこういうこと言いたくないんだけど……付き合う相手は考えた方がいいわよ」

 

 キングちゃんがそこまで言うほどかぁ……

 登場即マッドサイエンティストだもんな。そらそうだよね。

 一応フォローしておくと無差別に実験に巻き込もうとするけど殺すまではしないし何されるか想像もつかないんだけどまあ死にはしないしレースの邪魔になることもないと思われる程度だから危険度はそんなに高くないんじゃない?

 そう告げたら危なくなったらすぐに呼べとか考えなおしなさいとか色々言われた。

 うん。全然フォローになってなかったな? 事実だけど。

 ともあれ私の番だ。友達の応援を背にスタート位置に並ぶ。

 うん、やっぱり他人が走るのを見るより自分が走ってこそだ。ウマ娘だもんね。

 友達は全員別の組になっちゃったから競えないのが残念だけどまあ一回目だし。

 受験以来のレース。もう脚がうずうずして治まらないな。

 タキオンにいいとこ見せてやるなんて思いはあんまりないけどけっぱって(がんばって)

 

「スタート!」

「スぺちゃんっ!?」

 

 あ。

 出遅れた。

 

「うおおおおっ!?」

 

 やば、まじめにヤバい! 考え事してて棒立ちだった!

 このままじゃダントツげっぱ(ビリ)じゃん!?

 

「ん~、ヒト由来の油断か? いや出遅れは馬でも珍しくないしな……」

 

 ああああ耳に届くタキオンの冷静な分析がムカつくー!

 全部自分が悪いんだけどさぁ!

 くっそ出遅れ過ぎて「え? 作戦?」なんて呟きまで聞こえてくる!

 ごめんなさい普通にスタート大失敗です!

 他の人たちは私のことなんか気にせずどんどん先に行っちゃって現在団子状態。

 私は最後尾から…………バ身がわかんねえ! けっこう後ろ!

 今回マイル戦だからか団子が過密で抜けそうにない!

 助けてマイルの皇帝ニホンピロウイナー! マイルの帝王アキツテイオー!

 会ったことないニホンピロウイナーさんとアキツ寮長が青い空で呆れ顔した気がした。

 ええい神頼みは後にして現状を認識しろ私。作戦立てなきゃどうにもならん。

 後はコーナーを曲がって直線で終わり、団子は過密で抜けられないが内より――大外一気!

 加速ポイントは、ごちゃごちゃ考えてる暇なんて無い。ここから全力全開だ!

 

「――っふ」

 

 全力で地面を蹴り抜く。

 減速は考えない。大外回りならこっちの方が速い。

 一歩、二歩、脚を地面に叩きつけて加速力に変換する。

 流れる景色が一気に引き伸ばされる。ウマ娘の動体視力でも追いつかない加速。

 これが、カツラギさんを真似て身に着けた私の末脚だッ!!

 

「スパート! に、しても……!」

「――やるねぇ」

「ナンてパワー……ッ!」

「これが、スぺちゃんの」

 

 外野から聞こえてくる声が後方に流れていく。

 団子状態の集団から息をのむ気配が伝わる。

 大丈夫突っ込まないよ。

 私は外からブッこ抜く!

 

「追いつかれた……!?」

「嘘でしょ!」

 

 バラけない! みんな実力伯仲か!

 それならそれで好都合、これなら末脚も発揮できまい!

 なんて甘い考えが通用するならここは中央じゃない。

 団子の中から弾かれるように、おそらくは距離適性の高い末脚自慢の子たちが飛び出す。

 口に出さなくてもわかる。彼女たちは叫んでいる。

 

 ――ここは私の距離だ! どけぇっ!!

 

 ぞくぞくと、心地よい寒気が背筋を走るよ。

 負けてられるか、勝つのは――私だッ!!

 

「ぬっぎぎぎ……!」

「がああああッ!」

「勝ぁーつッ!」

 

 歯を食いしばったり叫んだり。

 各々自分らしい力の出し方で最終直線を突っ走る!

 並んで、追い抜いて、追い抜かれて、そして、

 

「ゴール! ストップ! クールダウンしながら止まれっ! 終わったから!」

 

 教官の叫び声があっという間に遠くなる。

 ゴールしたけどすぐには止まれず、徐々に減速しながら脚を冷ましていく。

 はぁ、はぁ――結局、ゴールでも5人くらい固まっちゃったな。

 えっと、順位は……?

 

「ええと……誰が何位?」

「カメラ導入しとくんだった……」

「肉眼で判別できないでしょアレ」

 

 教官が3人くらい集まってなんかごにょごにょ話し合ってる。

 いや順位発表。私以外の子も焦れてきてんぞ。

 まだかなーとコースに視線を向けると残りの教官とタキオンがなんかしゃがみ込んでる。

 なにしてんだろと耳をそっちに集中した。

 

「……ふぅん。教官君、こりゃ埋め戻さないと足つっかけるね」

「え、ええ……ここまで深く抉れるなんて……」

「オグリキャップがカサマツ時代に消えない足跡つけたって聞いたけど、まさかこれ……」

「ダートとターフじゃ話が違うが――いずれは届くかもしれないねぇ」

 

 小声で話してるせいか流石に聞こえづらいな。話の半分も聞き取れないや。

 オグリがどうのダートがどうの……芝のレースなんだけど?

 

「コース整備に入ります! 次の組はしばらく待機!」

 

 うおっ、いきなり大声出さないでびっくりする。

 結局順位は審議の結果5位まで入線扱いということで幕引きとなった。

 みんななんとなくもやもやしたままゼッケンを返しコースを出る。

 勝った負けたがはっきりしないのって存外ストレスになるな。

 レースを終えたのに参加者全員一言も喋らないよ。私含め。

 クールダウンを終え一息つく。

 スタートのポカはさておき一応想像通りには走れたかな――という自己分析は霧散する。

 無数の視線が私に注がれていた。

 4つじゃない。10や20ではきかないほどの数。

 レース参加者だけじゃない、見学してたウマ娘たちまでもが私を睨んでいる。

 育ちが育ちだから私は敵意に敏感だ。その本能が警鐘を鳴らすほどのギラギラした、負けてなるものかという視線。ぞわぞわと毛が逆立つ。ぶるりと震えてしまいそうだ。――ああ、やっぱり中央はいいな。競う相手が、こんなにもたくさんいる!

 

「うひぉよわぁッ」

「ほぉう……なるほどねぇ」

 

 なんでいきなり足撫でまわすかなこのタキオンはぁ!

 ご丁寧に袖まくって素手でやるんじゃないよ!

 沖野Tかと思ったじゃないか!

 

「トモも素晴らしいが……何より良いのはバランスだな。なるほど、こういう筋肉の付け方をすれば足首が……コレはバラし甲斐があるなぁ……ッ」

 

 褒められてるっぽいけど撫で繰り回されて気持ち悪いしなにより言い方ぁ!

 多分解析し甲斐があるって言いたいんだろうけどそれじゃ解体されそうじゃんさぁ!

 

「ふぅん――相当高負荷のトレーニングを積んできたねぇ。これで壊れてないとはよほど優秀なトレーナーがついていたのかな?」

「え、いやお母ちゃんが見てくれてただけですけど?」

「ほう、君のご母堂は一廉の人物らしいな。一度意見交換してみたいものだね」

 

 アグネスタキオンにここまで言わせるって。

 ただの酪農家じゃなかったのお母ちゃん。

 

「それじゃあ――っと、おいそこの君!」

 

 5mは離れている子にいきなり呼びかける。

 案の定その子は悲鳴じみた声を上げていた。

 

「力が入り過ぎている。セーブを覚えないと足を壊すぞ」

「え? で、でもスペシャルウィークさんは」

「筋肉の配分が違う。君は瞬発力を高レートで弾き出すための筋肉だ。一瞬で出せる力は君の方が強いがその負荷に他の部分が耐えられない。このちびっ子は筋肉が関節を守る鎧になってるからあのパワーを連続で出しても平気なんだ。君の下腿三頭筋、脛の筋肉は素晴らしいが諸刃の剣だということを憶えておきたまえ。要は使いどころを誤るなってことさ」

「な、なるほど……」

 

 遠目に見ただけでそこまでわかんの。

 うーんこれは教官が追い出さないのもわかる気がする。

 なんて考えていたらぐりんと不気味な軌道でこちらを向いた。

 

「で、君だが」

「あっはい」

「とにかく無駄が多いね!」

 

 おぅ。

 

「特にスパートだが……君、ピッチ走法なのにストライド走法意識してるだろ?」

 

 え、なんでわかるの。

 

「ピッチ走法には不必要な力みが見える。だから踏み込みが強くなりすぎるんだ。将来的にはストライド走法を主軸に置きたい、みたいなこと考えてるんだろうが現状身についてるピッチ走法の邪魔になってるねぇ。混ぜないで切り替えたまえよ」

「なして一回見ただけでそこまでわかるんです……?」

「見て筋肉を触診すれば大体わかるだろ。わかんない奴がいるとしたらただのバカだぜ」

 

 天才ってすぐこういうこと言うー。

 けどまあ参考になったのでお礼を言うとタキオンはじゃあねと去って行った。

 切り替え早いにも程があんだろ。なんだろうこの独り相撲感。

 ともあれ。混ぜるな、か……無自覚だったけど憧れの走りが表に出ちゃってたのか。

 ううん、これ意識しただけで直せるかな? 誰かに指導を頼むべきか……

 

「ぎゃああああああッ!!?」

「コンプちゃんーっ!?」

 

 え、なにこの悲鳴。

 思わず顔を向けた先では晴天の昼間にも関わらずなお眩しい発光体がいた。

 

「なにこれ!? なに!? 私どうなってんの!?」

「ぎゃああこっち来んなー!?」

「コンプがやられたー! 逃げろ、逃げろおおぉぉっ!!」

 

 ゾンビパニックの映画みたいになってんじゃん。

 誰かタキオンの薬飲んだな。眩しっ。

 毎秒単位で色が切り替わって直視していられな、眩しっ。

 ていうかコンプ……? 光り過ぎて誰かわからんけどもしかしてクラスメイ、眩しっ。

 現実で光られるとこんなにも目に痛いのかタキオンの発光薬。

 あ。すっげえ速さでタキオンが逃げてる。

 教官もとんでもない速さで追いかけてる。

 素人じゃないとは思っていたけど重賞クラスはいけんじゃないのあの速さ。

 やっぱ指導陣も魔境だわ中央。

 

「スぺチャン! 逃げマスよ!」

 

 急に腕を引っ張られる。

 エルちゃんが見たことないほどに焦っていた。

 え? なんで? 目が痛いレベルで光ってるけど光ってるだけじゃ、

 

「アレ! ()()()んデスッ!!」

 

 は。――はぁっ!?

 

「ネイチャがやられたー!!」

「カワカミ頼む動かないで! あんたが暴れたら感染者が爆増すんの!」

 

 混乱が加速度的に広がっている。

 うつ、感染? は? 薬剤で光ってるだけじゃ、まさか!?

 ウィルス人工的に作り上げたなあのマッド女!!

 このご時世になんてもん作りやがる!

 感染者は積極的にうつそうとはしてないみたいだけどちょっと接触するだけで感染するからパニック状態の現状では何の意味もない。パニックを起こした感染者が走り回ればそれだけで爆発的に感染が広がるのだ。

 っていうかなんでいきなりバイオハザード始まってんだよ!!

 ここカプ●ン世界だったの!?

 

「――ッ、この声!」

 

 知ってる悲鳴に振り返れば眩し過ぎてよくわからん状況だけど走り回ってる感染者の中にグラスちゃんが取り残されていた。

 

「た、助けないと……!」

「おバカ! あの子はもう無理よ! あなた自身が助かる道を選びなさい!」

 

 エルちゃんに掴まれた反対の腕をキングちゃんに引っ張られる。

 それが正しいのはわかる……! 今飛び込んでもただ感染者が増えるだけだ。

 でも、見捨てるなんてできない。だって友達なんだ……!

 かなり早い段階で感染したのか諦め入って寝転がってるセイちゃんを跨いで走り出そうとするとひと際強く、最初から掴まれていた腕が引かれた。

 あっぶなセイちゃんに触るとこだった!

 

「え、エルちゃん……?」

「――スぺちゃん」

 

 青い眼が澄んでいた。

 怖いぐらいに澄み切っていて――決断を下したのだと、示している。

 

「あなたとフレンドになれて、楽しかったよ」

 

 これは、ダメだ――!

 

「エルちゃん! ダメ、そんなの間違ってる!」

「アハハ、アタシバカだから――そんなの、知らない」

 

 私を放しエルちゃんは駆け出す。

 捕まえようと伸ばした手はキングちゃんに引き戻され届かなかった。

 

「なんで、キングちゃん……!」

「……ッ。女の、覚悟を踏みにじるなッ!」

「ッ」

「あの子は、自分を犠牲にするって決めたのよ……誰にもそれを止める権利なんて、ない」

 

 私を掴むキングちゃんの手が、震えていた。

 ああそうだ。私は、助けたいと思っただけだった。

 エルちゃんみたいに――身を捨ててなんて、思いつかなかった。

 中途半端な私の助けたいなんて、止められて当然だ。

 あっという間にエルちゃんは蹲るグラスちゃんの元に辿り着き――感染者との衝突を、身を挺して防ぎ切った。

 

「――え、エル……」

「ハァイグラス、メイアイヘルプユー?」

「エル、エルッ、どうして……!」

 

 じわじわとエルちゃんの身体が感染し光っていく。

 そうしている間にもパニックを起こした感染者たちが走り回り、グラスちゃんにぶつかりそうな相手だけをエルちゃんは体で止めていた。

 

「初めて会った時から、思ってたんデス。グラスは、アタシが守らないとって」

「エル、やめて! 私はもういいから!」

「嫌デース。その、ッ、オネガイは……聞けない、ネ」

 

 突き飛ばせば終わる。

 エルちゃんに触れてさえしまえば守る理由もなくなるから。

 だけどそれはエルちゃんの想いを否定することに他ならない。

 

「エル――ッ!!」

 

 悲嘆に暮れながらも、グラスちゃんはただ……耐えることしかできなかった――

 

 

 

 なんつー茶番劇は発光が30分くらいで治まったので次第に落ち着いていった。

 捕縛されたタキオンの後遺症は無いという発言で遅れて感染した子も光っぱなしではあったが時間経過を待つ余裕ができたみたい。なおタキオンは本校舎玄関ホールに吊るされた。目が死んでる美少女が簀巻きで吊るされてるのを見なきゃならない一般生徒の気持ちを慮ってほしい。実験結果にご満悦なのかずっと笑ってて怖ーんだよ。

 キングちゃんが聞いた話によるとあのウィルスはマジでヤベエから絶対漏らすなとか色んなことがあったらしいが踏み込みたくなかったので詳しくは聞かなかった。キングちゃんも忘れたがっていたようでそれ以上話すことはなく早々に切り上げる。

 

「エルちゃんとグラスちゃんは?」

「グラスさんを庇ってぶつかりまくってたから念のためにと保健室に連れてかれたわ。エルさんは平気だと言ってたけどあんなことのあとじゃね……」

「いや冷静になってみると恥ずかしくって顔出せないってとこじゃないの」

 

 セイちゃん。ステイ。

 思ってても言うなよそれは。

 変にテンション上がっちゃったんだよみんな。

 ほらキングちゃんも思い出して顔赤くしてんじゃん。

 いいよね一人寝っ転がって恥ずかしい思いゼロのご身分はさあ!

 

「だって光るだけだし……」

 

 そうだけどね!? そうなんだけどさ!

 あの場で冷静さ保つの無理くない!?

 などとじゃれ合ってる間に自習時間も終わり――タキオンのアレで午後の授業が1コマ未満潰れたのだ――下校時刻となった。今日は模擬レースあったから自主練はなし、休養に当てるように言われてるのでみんな制服姿で帰っていく。普段ならここからジャージに着替えて自主練なのでルーチンが狂う感覚だ。なんとなく解散しちゃったからこの後どうするって決めてないなあ。

 人影がまばらになってきた教室でぼんやりしていると、誰かが近づいてくる足音がした。

 

「少しよろしいでしょうか」

 

 声に振り向けば眼鏡をかけた長い三つ編みが特徴的な少女、イクノさんがいた。

 イクノディクタス。50戦以上を怪我無く走り抜け『鉄の女』と呼ばれた名馬。その魂を受け継ぐウマ娘だ。アニメ2期でチームカノープスの一員として色々盛り上げてくれたのを憶えている。ターボにプロレス技かましたり。

 ここは現実でアニメとは違うとわかっているがどうしても印象は原作に引っ張られる。ついでにいえばここの人たちって転生者疑惑あるしな。ドーベルさんとか判断できない人もいるからその辺曖昧なんだけど。

 あと背が高い。羨ましい。

 

「えっと、あなたは」

「申し遅れました。隣のクラスのイクノディクタスと申します。先ほどの合同授業でご一緒させていただきました」

 

 あれこれ知ってますよ、なんて態度は見せず知らない体で問い返せば極々普通の切り返し。今のところ怪しい点は無い。

 するとスペシャルウィークさん、と声に熱が籠った。

 

「あなたの走りに感銘を受けました。私が目指す壊れない走りに通ずるものをあなたの走りに見ました。不躾とは重々承知していますが是非ともその強靭な足腰の作り方を教わりたいんです」

 

 ふむ? 確か原作のイクノディクタスは走れなかった過去があるから徹底的に自分を管理する、みたいな感じだった、はず。そういう理屈ならタキオンが言ってた私の頑丈な脚の作り方を知りたくなるのも頷ける話か。私がやってた頃は未実装だったから詳しいところまではわかんないんだよな……ドーベルさんと同じパターンじゃん。

 

「つまり私のトレーニングをやってみたいと」

「はい。もちろん拒否してくださっても構いません。門外不出の教えや部外秘であった場合無理を言える立場ではありませんから」

 

 あるらしいね、一族秘伝とか。

 まあうちは箸にも棒にもかからないどころか親類縁者不明っつう寒門以前の家柄なんですけど。産んでくれたお母ちゃんの血筋からして不明だからなうち……家系図がお母ちゃんと私の二代で終わる超シンプル仕様。

 だからまあ隠さなきゃってことは無い。

 

「別にいいですよ。今からは無理ですけど週末に自主練する予定でしたし」

「! ありがとうございます。しかし、週末ですか?」

 

 ああ数日開くもんね。

 

「学園内じゃできないトレーニングなのでできるとこまで行くんですよ。都合が悪いのならまた別の日にでも……」

「い、いえ大丈夫です。少々予想外なだけですので。何か準備は必要でしょうか」

「口頭じゃ忘れ物が出るかもしれないので後でメールします」

 

 そしてアドレスを交換して別れた。

 予定外だったけどトレーニング仲間が出来たのは嬉しいな。

 週末が楽しみだ。

 

 玄関ホールではまだタキオンが吊るされながら笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 学園の、特に一年生の間に流れる空気が変だ。

 タキオンのアレから日が経ってないからかと最初は思ったがアレの被害は学年全体というわけじゃない。空気がおかしいのは全体なのでおそらくは違うだろう。ならゴルシかと思えばそうでもなさそうで、ここ一週間ほど中等部の校舎では見かけてない。アレの場合学園にいるのかという疑問も生じてくるので深く考えたくはないのだが、ゴルシが姿を見せずになんかする、というのはまずあり得ないだろう。騒ぎを起こすなら自分自身でってタイプだろうし。

 二大問題児じゃないならなんなんだ? となるんだけど……

 

「わかんないなぁ……」

 

 大体なんかあったらアイツらって思っちゃうんだよね。実際拉致られたし。

 実害受けた記憶が強すぎる。大概の違和感塗り潰しちゃうぞこれ。

 

「どうしたの? うわの空で」

 

 声をかけられはっとする。

 

「あ、すみません。折角誘ってもらったのに」

「いいよ、考え事くらい誰でもするし」

 

 そう笑って許してくれるのはメジロドーベル先輩。

 カフェテリアでランチセットをおかわりしてたら売り切れてしまい次何食べようかメニューとにらめっこしてたらお茶に誘われたのだ。

 そうしてこの部屋に連れてこられたのだが。

 ここどう見ても食堂じゃないんよね。私たち以外誰もいないし。

 なのに給仕さん出てくるんだけど、どういうことなのかな? もしかしてメジロ家が専用として学園から買い取ってるエリアだったりします? ちょっとスケールでかすぎてりかいできない。

 

「悩み事?」

「悩み、ではないんですけど」

 

 空気がおかしいってだけだからなぁ。

 警戒心強めの私だから気にしてるだけかもしれないし。

 でも変に誤魔化すような話でもないし言っちゃうか。

 ドーベル先輩が答え知ってる可能性だってある。

 

「なんか一年生に情緒不安定な子が急増してるんですけど何か知りません?」

「情緒不安定?」

 

 うん情緒不安定。そうとしか言えない。

 さっきの私じゃないけどうわの空だったり妙にカリカリしてたり、あんま言いたかないんだが生理中みたいな様子の一年生がやたら多いのだ。

 問われても思い当たらないようでドーベル先輩は首をひねる。

 

「タキオン先輩のバイオハザードじゃなくて?」

「アレに遭ったら情緒ブッ壊れるでしょうけども」

 

 聞けばああいうの月イチくらいの頻度で起きるらしい。マジかよ。

 タキオン内包してんのに壊れないなんて人間社会って意外と頑丈だな……

 マッドはさておき、それ以外だとドーベル先輩はわからないらしい。

 流石にいきなり解答とはいかないか、と思ったら先輩の顔色が変わった。

 ウマホを取り出し何かのアプリを起動する。ちらと見えたのは……カレンダー?

 

「あ、あー……近い内にわかると思う。その、あんまり口に出したいことじゃないから……」

「はあ……?」

 

 その後は話を濁されたままお茶会は終わった。

 話し上手な人じゃないけどあまりに不自然な断ち切り方。

 ドーベル先輩の顔が赤かったような気もしたが……体調悪かったのかな?

 

 

 

 先輩の言った通りすぐにわかった。

 彼女が顔を赤くしていた理由も。

 一年生の空気がおかしかったのはとある授業のせいだと判明したのだ。

 もっともそれを理解したのは授業を受けてからだったのだが……

 そして件の授業が始まり――――終わって先生が出て行っても誰も動こうとしなかった。

 正確に言うと、受けた衝撃が大きすぎて何かしようという気にもならない。

 うん。落ち着こう。

 考えをまとめて、まとめ、て。

 

 ――ウマ娘は同性同士でも子供が作れるってなに?????*1

 

 ちょっと待って。え? じゃあさ、もしかして。

 なんなの神秘の一言で放り投げないでよどういうことなのこれ。

 嘘でしょ。ちょっとほんとに? 今まで信じてきたものが崩れるんだけど?

 前世に比べて同性婚の法整備進んでるなって思ってたけどそういうこと?

 え? もしかして、お母ちゃんがお父ちゃんだったりするの……?

 前々から不思議ではあったけどお母ちゃんが日本国籍持ってる理由ってそれ!?

 

 混乱から脱した者からウマホを取り出す。

 ある者はLANE*2に高速で文字を打ち込みある者は直に電話した。

 そして始まる阿鼻叫喚の地獄絵図。

 ほっとする者もいれば懸念が当たり絶叫する者もいるさまは正に混沌。

 

Papa! Are you my father!?(パパはパパだよね⁉) really!? Tell me the truth! please!!(お願いだから本当のこと言って!!)

 

 エルちゃんが英語で捲し立ててるけど早口で何言ってるのか聞き取れない。

 というか他人に気を割いてる余裕がない。

 教室の惨状にぽかんとしてるのはほんの数人だ。知ってたんなら言ってよ……! どういう機会があればそんな話することになるのかわかんないけどさぁ!

 私もウマホを取り出す。

 中央に受かって初めて買ってもらった通信端末。

 お母ちゃんと札幌まで行っていっしょに選んだ私のウマホ。

 ロック画面を解除するのにひどく手間取る。こんな難しかったっけ。

 私とお母ちゃんはLANEやってないから電話をかける。

 呼び出し音が鳴り始める。お母ちゃんの顔が頭を過ぎった。

 物心ついたころからの記憶がフラッシュバックする。

 牛によじ登って怒られた記憶。

 初めてお母ちゃんに贈ったプレゼントは花冠だった。

 いつも美味しいご飯を作ってくれた。

 お母ちゃんが作ってくれたケーキは不格好だけど美味しかった。

 産んでくれたお母ちゃんのことを初めて話した日。

 お母ちゃんが泣くのを初めて見た。

 あれは、

 電話が繋がる。

 

「あ、お母ちゃん!? あの、その、っき、聞きたい、ことが」

 

 いつも通りのどうしたー? という返事に気勢を削がれた。

 お母ちゃんとは血が繋がってないと思ってた。それでも親子だと思ってる。

 お互い秘密なんて無いくらい信じあってて、悩みだって全部話していた。

 その関係性が変わるにしても、えっと、どう変わるんだ……?

 産んでくれたお母ちゃんが、だから、育ててくれたお母ちゃんの……?

 

「――元気してる? 腰大丈夫?」

 

 寮で初めて迎えた朝のことを思い出しながら口にする。

 一人だと腰痛めたら大変だよねって。手伝わなきゃって。

 そう、いつも通り。いつも、どおり……

 

「うん、うん……今度帰ったら手伝うね。うん、またね」

 

 通話を切る。

 話せなかった。

 訊けなかった。

 今でもこんな話どう切り出せばいいのかわからない。

 訊けば何かが変わってしまう。

 確証には至らないおぼろげな感覚が歯止めをかける。

 落ちるように座り込んだ。

 呆然とするしかない私の隣に通話を終えたエルちゃんが腰を下ろす。

 

「パパはパパでシタ……」

 

 安堵を滲ませる声音に嫉妬してしまいそうになる。

 そんな私の代弁をするかのようにセイちゃんが口を開いた。

 

「訊けるなんてすげーよエルちゃん……私訊く度胸ないよ……」

「私もです……まさかと思うと手が震えて」

 

 不安だったのだろう、いつもの面子が自然と集まっていた。

 セイちゃんとグラスちゃんはウマホを手にしたまま項垂れている。

 待機時間を過ぎ真っ暗になった画面が彼女たちの心象を表してるようだった。

 

「スタートのイキオイだけデス……一瞬考えこんだらアタシだって……」

 

 安心できたはずなのに疲弊しきった姿に何も言えなくなる。

 そうだ、家族の件が解決したって私たちの足元は揺らいだままなのだ。

 私たち全員転生者だから常識が完全にひっくり返った。

 いやまあこっちでも周りの反応とか中一まで教えられなかったあたり見ると結構な爆弾なのかもしれないけど……察するにこれ以上遅くすると間違いが起きたりレースに影響したりとかがあり得るけど人格形成が未熟な小学校じゃ教えらんないとかそーゆー感じだろうか。うん。こっちでも十分大ごとじゃないか。私たちの反応普通だよ。

 そういえば授業の最後にセラピー受け付けてるって言ってたな……衝撃デカすぎて流しそうになっちゃってたけど。

 

「……あれ? なんか少なくない?」

 

 いつものメンバーが集まったと思ったけど足りない気がする。

 そうだよキングちゃんが来てないじゃん。

 

「ああキングならあっち――え‶ッ」

 

 素っ頓狂なセイちゃんの声に振り向けばキングちゃんが背もたれに全体重預けて呆けていた。

 

「キングちゃん!?」

 

 やっべえ! そういえばキングちゃん原作と違って大分箱入りじゃん! 普段しっかりキングヘイローやってるから忘れかけるけどすげえ繊細だよこの子!?

 友の危機に落ち込んでる場合じゃねえとグラスちゃんたちも立ち上がる。

 話しかけても無理だったので私が抱えて保健室まで突っ走った。

 運び終わった後一番小さいスぺちゃんが抱えなくてもよかったんじゃない? と私たちの中で一番でかいエルちゃんに視線が集まったけどほら、ウマ娘ってみんな力持ちだからそこは別に……バランス? うん、そうね……

 

 

 小さいつってもメロディーレーン*3ほどじゃねーし……

 本来のスぺちゃんだって500㎏超えないくらいの体格だし……

 常識がぶっ壊される授業はそうして私の心に小さな傷を残して終わった。

 

 

 

 

 

 

 待ちに待った楽しい週末。

 その筈だった。

 待ち合わせ場所の栗東寮玄関で顔を合わせた私とイクノさんは挨拶もなく黙り込んでいた。

 私たちに限らず一年生はみんなこんな感じなんだけど。上級生は恒例の季節だね、それもいつか思い出になるよみたいな顔して見てるけどアンタら本当に乗り越えたんだろうなと声を大にして問いかけたい。何人か明らかに顔背けてたじゃん。トラウマ思い出してたろ。

 深く息を吸って吐き出す。

 いつまでもこうしてても埒が明かない。

 重たい話はすっきりさっぱり終わらせよう。

 

「……イクノさん、あの授業受けました?」

「……はい。衝撃、でした……」

 

 ジャージ姿のイクノさんは俯き気味で、光の具合か眼鏡に遮られどんな顔をしているのかわからない。私もひとにあれこれ言える表情してないだろうとは思うけれど。

 

「…………何故うちは父が居なくて母が二人いるのかな、って、思ってはいたんです」

「イクノさん」

「思えば産院で撮ったらしい赤ん坊の私を抱く写真からして母二人しか写ってなくて」

「イクノさん」

「おかあさんと結婚するって言った過去が本気でヤバい気がし始めて……ッ」

「それは同性婚とはまた別の問題じゃないですかね!?」

 

 確か三親等内の結婚はできない……んじゃなかったかな?

 というか真っ当な親なら普通に喜んで思い出にするだけの話だと思う。思いたい。

 ……冷静に考えれば娘が父にお嫁さんになるって話と一緒だから問題ないという結論に達するのだが、私たち二人とも父親がいないのでその答えに至るまで30分以上かかったのである。――いや生物学上の「父」に当たる人は確実にいるわけで……やめよう! あたまこんがらがってきた!

 なおイクノさんのお母さんは二人ともウマ娘だそうで。うん。深くは聞くまい。

 そんなやり取りの末に目的地まで軽く走ることにした。

 ヒトならともかくウマ娘なら軽いジョギングくらいの距離だ。

 二人とも余裕があり話しながら走った。多少は仲良くなれたかな?

 

「山……ですか」

 

 辿り着いた目的地を見上げイクノさんは呟いた。

 山地トレーニングとは先に言ってあったけど実際に見ると思うところがあるのだろう。

 近くのベンチに腰掛け靴を履き替える。ランニング用の蹄鉄シューズじゃ山道は危険だからね。ワンテンポ遅れてイクノさんも履き替え始める。

 

「ご実家でも山でトレーニングを?」

「うん、実家が山の麓にあるので。子供の頃から山が遊び場だったんです」

 

 さて、注意喚起をしないとな。

 ここからはガチだ。

 町中走る時はうるさくて邪魔になると包んでいた熊鈴をリュックから取り出し口を開く。

 

「本当は原生林がいいんだけど慣れてない人いきなり放り込むと100%死ぬから」

「死ぬ」

「自然って容赦なんて概念無いからウマ娘だろうがヒトだろうが遭難したら死にます。たまに救助される人のニュースありますけど宝くじに当たるようなもんですあれ」

「宝くじ当選するほどの強運がなければ助からないんですか……」

「気候風土に原生生物、地形によってはガス溜り。殺意しかないですよ山って。人間は自然の中じゃ生きられません」

 

 ドン引きしてるけどこんくらい脅さないと一人で行っちゃう可能性あるからね。

 誇張してない事実だし。自然は怖い。これを忘れちゃいけない。

 生水飲めば寄生虫をはじめとしたデストラップ、食べれそうなものは毒混じりだもん。

 気軽に食べようとしてお母ちゃんや近所のヒグマさんに叱られたの思い出すなー。

 

「絶対に私から離れないこと。あと歩き方をよく見て真似してください」

 

 防犯ブザー10個装備してきたからもしものことがあっても助かる可能性は高いけどね。

 人通りとかから見るに最悪でも一週間くらいで発見されるだろうし。

 これが北海道だったら確実に死ぬけど。

 人口密度がねー。

 

「あの、スぺさん。そのベル? はいったい?」

「熊鈴です。ここになんかいるぞって音で知らせて熊と遭遇しないための道具です」

「それは聞いたことがありますが……ここいらに熊が出没したという話はありませんが?」

「熊の生息域って人間が観測して勝手に決めたものですからあてになりません。越境くらいならざらで海を渡ったケースもあります。この島には熊は出ない、なんて侮っていると遭遇して首が飛びます。物理的に」

「首が飛ぶ」

「熊に限らずイノシシやサルなど人間じゃまともに勝てない生物は大概そうです。餌を求めて、縄張り争いに敗れて、など理由は様々ですが確実なのは人間の都合なんて彼らには関係ないということですね。町に降りてくる野生動物はよくニュースになるでしょ?」

「なるほど……山の中なら何をかいわんや、ということですか」

 

 そういうこと。頷いて立ち上がる。

 今日は初回だから山道は走らない。

 イクノさんがいるからってだけじゃなく私も初めての山だからだ。

 山は一つ一つが別世界。山に慣れてる、なんて通用しない。

 まずはゆっくり慣れましょうとイクノさんに伝え山道へと踏み入った。

 

 山に入り1時間。

 徐々にこの山に馴染んでいくのを感じる。

 この感覚が危険なんだけど。油断と同義だからね。

 それでイクノさんの方は――

 

「不整地を歩くだけでこんなにも……! もし走っていたら、足首の角度一つ、間違えれば怪我をしますね……! しかしこれは、体幹が鍛えられるのを実感できます……!」

 

 息を荒げながらも目をキラキラさせて私の後をついてくる。

 どうやら彼女が望んでいたトレーニングになってるらしい。

 

「なる、ほど……! 常に考えながら、歩みを進める、これは、レースに役立ち、ます」

 

 流石と言うべきか、初回でそこまで気づくなんて。

 ウマ娘のレースはとにかくヒトとは比べ物にならないくらい長い。

 その長い道のりでバ群の形成、流れ、バ場の状態などあらゆることを考え処理しなければならないのだ。俗に「ウマ娘レースは頭が二つ要る」と言われる所以である。多分前世でいうところの馬と騎手の役割分担みたいなもんだとは思うけど、私たちはそれを一人でやらなければならない。

 事前にトレーナーと作戦を立てたりなどは出来てもレース中はどうしても一人だ。

 マルチタスクは必須になる――たまにこういうの全部すっ飛ばして勝つ人も出るんだけど、ああいうのは参考にしちゃいけない。天才とか化け物とかそういう類だあれは。

 歩みを進めながらちらと後方を窺う。

 イクノさんは体力がある方だが、慣れない道と長時間周囲を注意し続けたことによる消耗が激しい。少し休憩を挟んだ方がいいかな。

 

「もう少し行くとウマ娘用のコースがある開けた場所に出ます。そこでお昼にしましょうか」

 

 返事を確認し歩調を緩める。

 やがて森が途切れ目的地が見えてきた。

 山中の開けた場所に作られたダートコース。管理維持のしやすさから芝じゃなく砂にしたんだろうなと感じさせるそこは場所が場所だからか人影もまばらだった。

 一息ついて座れる場所を探しイクノさんを誘導する。

 荷物を置き持参したお茶を一口飲んだところで落ち着いた。

 

「ふう……いつもはこれを走って行うのですか?」

「そうですね。地元だとセコマ……コンビニの場所とかわかってますしもっと軽装なので。荷物を軽くするのは別の理由もありますけど」

「何故か訊いても?」

「知らないヒグマに追われたら直線だと追い付かれるんで木の上に逃げるんですけど、最悪木から木へ飛び移る必要があるので……下手な木だと登ってこられて逃げ場なくしちゃうんですよね」

「思ったより命の危機な上アクロバティックな理由でした」

 

 それ飛び移れる木がなかったら? と聞かれたので防犯ブザー鳴らして誰か来てくれるのを祈りますと答えた。すごい顔されたけど自然相手は最終的にそうなるんよ。

 ヒグマ相手はスぺさんでも勝てませんかなんて話ふられたけど開拓時代に重種の人がステゴロで勝ったって話は聞くけど重傷と引き換えって話だったし勝てる気がしない。ごく稀に気迫勝ちするウマ娘が出るから勘違いしがちだけどサシじゃ絶対勝てない相手だからね熊って。近所のヒグマさんだって思いっきり手加減してくれただろうにポンポン投げられたし。

 

「いつかは勝ってみたいですね……」

 

 だというになんで真剣なまなざしでそんなこと言うの……?

 

「イクノさん、いくらなんでも熊相手は……」

「しかし熊の最高速度は毎時60キロと聞きます。我々は70キロ……平地と不整地では全く話が異なるでしょうが、ただ勝てないと思うだけなのはどうにも悔しい」

 

 ……おっと? こいつぁ私の勘違いかな?

 あっはっはぁ。

 お弁当を広げて食パンそのままサンドイッチを一口。うん。おいしい。

 ひとここちついたのででっかいおにぎりを食べ始めたイクノさんと話を続ける。

 簡単に諦めるのが悔しいのはわかるけど絶対挑まないでくださいねと念を押した。

 私たち人類の脚は何万年も前から道を作りそこを走ることを目的としているのだ。自然そのままの場所を走る野生動物とは根本的に違う。基本的に熊に遭うなんてのは自然の中なんだから相手の土俵で走ることになるんだ。勝てないのがおかしいと思う方が烏滸がましい。

 そう説き伏せたのだけど微妙に納得してなさそうな気配を感じる。

 やだこの子すっごい脳筋。なしてそこまでして熊に勝ちたいの。

 勘違いと思ったのが勘違いってレベルじゃん。

 リュックの大部分を占めていたお弁当を食べ終えこの後どうするか考える。

 せっかくコースあるんだしひとっ走りしようかな?

 でもイクノさんの疲労抜けきってないよな……ん、見覚えのある、というか今私たちが着てるトレセン指定のジャージ。トレセン生もここに来るんだ――なんかこっちに近づいてくる? あれ、知り合いだった、か、な。って。

 

「やあ、奇遇だね」

 

 爽やかな笑顔でその人はそういった。

 

「る、るど、シンボリルドルフ生徒会長!?」

 

 そう、ルドルフ会長が。

 なんでここに……ジャージ姿からして自主トレ?

 いやでもチームリギルの会長がわざわざ学園外のダートコースって……?

 

「そんな堅苦しくなくとも好きに呼んでくれていい。ルドルフとでもね。スペシャルウィーク、イクノディクタス」

 

 名を呼ばれ固まっていたイクノさんもびくりと反応する。

 

「わ、私たちをご存じで……?」

「生徒の顔と名前は憶えているよ。曲がりなりにも生徒会長を拝命した身だ」

 

 さらりととんでもないことを言ってのける。

 よくある話だが、生徒数が文字通り桁が違うトレセン学園でとなればその凄まじさは類を見ないだろう。疑惑――転生者ではないかということを考慮に入れれば、私たち原作キャラの名を言い当てるのは難しくもないだろうが……その身に纏う覇気が、そんな疑惑など消し飛ばしてしまう。

 

「先日の模擬レースはいい走りだった。将来有望だな」

 

 なにせ相手は日本の頂点に立つウマ娘だ。

 無敗三冠、唯一の七冠、ドリームシリーズ覇者。

 どれをとってもこの人だけというあまりにも強大な肩書。

 トゥインクルを退いて長いのに未だに凱旋門賞をはじめとした海外レースへの挑戦を望まれる、絶対の皇帝。

 

「あ、あり、ありがとうございます」

 

 返事一つ返すのにも緊張しきってしまう。

 王様――皇帝への謁見がいきなり叶ってしまった一般人の気持ちが痛いほどわかる。

 がちがちの対応に慣れているのか、気さくに話を続けてくれた。

 新入生の視点から見て学園に不備や不満はないか、今思いつかなくとも気づいたら教えてほしいなどといった生徒会長らしい会話が続く。

 緊張こそすれそんな和やかな空気の中会長と視線が重なった。

 

「その紫の瞳……」

「え、あ、これはお母ちゃん、母譲りで」

「ほう」

 

 会長の眼が細められる。

 

「そうか。君の瞳は母君譲りか」

 

 ……わざわざ話題に上げるようなことだろうか?

 紫色の眼ってそこまで珍しくないような……会長さんだって同じ色だし。

 

「――……似ているな。流星の形は違えど、眼差しは真っ直ぐだ」

 

 消え入りそうな呟き。

 だけど聞き逃せない。

 この人は、お母ちゃんを、産んでくれたお母ちゃんを知っている?

 私自身多くは知らない――お母ちゃんのことを……

 様子を窺っていると会長さんは視線をコースへ外し、再び私へと向けた。

 

「どうだろうスペシャルウィーク。私と走ってみないか?」

 

 一瞬何を言われたのか理解できなかった。

 

「……えっ!?」

「食後のようだし必要なら待つのも吝かではないが」

「いえ、それは、軽くしか食べてないのですぐに動けますけど」

 

 えらい勢いでイクノさんが私を見た。

 なんぞ。あなただって同じくらい食べてたじゃん。

 ああパンよりお米の方が腹持ちいいからイクノさんはまだ動けないのかな?

 

「それは頼もしいな。イクノディクタス、君は……慣れぬ運動で疲労が溜まっているようだ。仲間外れにするようで心苦しいが審判を頼めるだろうか」

「あ、は、はい」

 

 元々トレーニング目的で来ていたのか、会長さんはジャージのポケットからストップウォッチを取り出しイクノさんに渡した。

 

「で、でも……私と会長さんじゃ、勝負にならない、と」

「その見立ては正しい。本格化を迎えていない今の君ではG1級ウマ娘と走るなど無謀でしかない。だが、これは練習だ。今の実力を見つめ直す機会とでも思えばいいさ」

 

 敢えて私は勝負と言った。

 併走ではなく勝負と。それを会長さんは否定しなかった。

 ……やり合う? あの、〝皇帝〟シンボリルドルフと? あのディープインパクトでさえ並ぶにとどまった前人未到の偉業を成し遂げた大英雄と?

 あちらでもこちらでも変わらぬ絶対の皇帝。

 こちらの業績だけを見ても尋常じゃない。

 この人に勝ったのは歴史上二人だけなのだ。

 世界を騙した女、カツラギエース。

 稀代の爆弾ウマ娘、ギャロップダイナ。

 三冠ウマ娘二人に世界中から集った優駿、さらには観客まで幻惑したカツラギエース。

 類を見ない爆発力を持ちながら不安定極まりいつ爆発するかわからないギャロップダイナ。

 俗にシービー世代といわれる王の異名を持つウマ娘たちが乱立する魔境の世代。

 その世代の人たちしか、あの三冠ウマ娘ミスターシービーですらこの人には勝ってない……!

 今更ながら冷や汗が噴き出す。

 皇帝シンボリルドルフと競うという事実に押し潰されそうだ。

 ただのファンならいい思い出で終わっただろう。

 だが私はいずれトゥインクルシリーズを走る競技者。

 その道の頂点と競い敗れたら……消えない傷になってしまうのではないか。

 絶対に勝てない相手なんてものが心に刻まれてこの先走れるのか。

 違う、最初から負ける前提でどうする! その方が問題だろ私!

 競技者だっていうんならそんな弱気の方が間違ってる!

 

「……ッ」

 

 両手で自分の頬を張る。

 よっし! 怖気づくのは終わり!

 そんな私の様子を見て、会長さんは満足げに微笑んだ。

 

「実は君の走りが私の尊敬する人物に似ていてね――正直に言えば血が騒いだ」

 

 私の走りに似ている、それは、私が真似たのは。

 ……ああ納得だ。シンボリルドルフに勝った、たった二人のウマ娘。

 その一人、初めて皇帝に敗北を刻んだのが……カツラギエース。

 私が憧れその背を追い続ける中距離の王者と称えられたウマ娘。

 そりゃあ良い気がしないだろう。G1ウマ娘ともなればプライドの高さも並じゃない。

 だけど。

 ルドルフ会長ってここまで好戦的な人だったかな……?

 転生者……なのかもしれないけど、それにしたって何故に新入生と勝負なんて。

 カツラギさんのような先行策から逃げといった選手なんて他にもいるだろうに。

 

「ここのコースは一周1200m。身体が出来上がっていない内に長い距離を走るのはよろしくないからちょうどいいかな」

 

 1200……スプリント戦か。

 正直加速しきれるか怪しい気がするんだけど……会長の言うことは正しい。私たちはまだ本格化も来ていない未完成の体。例えばステイヤーの素質を持っていたとしても今3000mのレースなんてすれば体にかかる負担は将来の比ではない。たった一度のレースで壊れる可能性は低いだろうが……それでも短距離という安全性を捨てる理由にはならないだろう。

 どうにも自分の能力把握しきれてない気がするから全部憶測になっちゃうんだけど。

 経験が圧倒的に足らない。もっと練習しなきゃ。

 

「そうだな、あとは――」

 

 会長さんの視線が私に、特に脚に向けられる。

 タキオンじゃあるまいし見ただけで走力がわかるとも思えないけど。

 

「10秒」

「え?」

「10秒遅れて私はスタートしよう」

 

 言って予備なのかもう一つのストップウォッチを取り出し設定し始める。

 10秒。

 ヒトの最高峰が100mを駆ける時間。

 だがウマ娘なら並でも170mは軽く走れる。

 この人は自分だけマイル戦をしても構わないと言っているに等しい。

 いや加速の時間が要ることを考えれば200m追加するよりも条件は厳しくなる。

 ハンデ、ということらしい。

 彼我の実力差を考えれば普通に走っては勝負が成立しない。

 本格化前というどう足掻いても届かない力量差。

 冷静に考えればまだ足りないくらいのハンデだ。

 ――けど、それで納得できるほどウマ娘の闘争本能は安くないんだよなァ……ッ!

 格下どころか庇護すべき子ども扱いを、よりにもよって走る場でされるなんて……!

 

「参考に一走りしようか?」

「いえ結構です。あなたのレースは全部見ました」

 

 現代日本最高峰のウマ娘。それがシンボリルドルフ。

 トゥインクルを退きドリームに移ってなお最強説でトップに名が挙がる規格外。

 そんなウマ娘を研究しないやつなんかいない。

 

「それは重畳。後輩が勉強熱心で嬉しいよ」

 

 ああ焚きつけは成功だよ会長……!

 これで燃えなきゃウマ娘じゃない。

 馬の近縁種のシマウマはライオンだって蹴り殺すくらい気性が荒いんだ。

 同種でないとはいえその魂を受け継ぐ私たちがひたすら温厚なんてあるわけないだろうが……!

 ふつふつと煮え滾り始める頭で作戦を考える。

 怒りに任せてぶっ飛ばすだけじゃ勝てない。

 ここはダート。タキオンに無駄だと言われた力みが活きる環境だ。

 むしろ好条件。弱気の作戦を練る必要はない……ッ!

 

「作戦は組み上がったかな?」

 

「――はい」

 

 煮え滾った心とは別に冷え切った頭を用意する。

 この人に勝つにはどっちか片方じゃダメだ。

 全力を出し切る煮え滾る心。

 適切に判断する冷めた頭。

 両方を使いこなして挑まねば皇帝には届かない。

 

「それでは一周1200m。スタートとゴールの審判をさせていただきます」

 

 イクノさんがスタートラインの横に立つ。

 会長がおそらくは10秒にセットされたのだろうもう一つのストップウォッチを手渡した。

 

「……スぺさん、大丈夫ですか?」

 

 スタート前で張り詰め、表情が消えてるだろう私にイクノさんは問いかける。

 色んな意味が含まれているだろうそれに頷きで返す。

 正直一つ一つの意味を拾っている余裕がない。ただ走れるということだけを応えた。

 横に並ぶ会長は手を挙げることで問題なしと示す。

 

「それでは――」

 

 イクノさんが手を構える。

 私は前傾姿勢を取りスタートに備える。

 会長は構えなかった。

 

「始めッ!!」

 

 一歩目からフルスロットル。

 後方に砂煙を上げながら駆け出す。

 息を飲んだ気配は誰のものだったのか、あっという間に後方に消えていく。

 ――大逃げ! これしかない!

 加速力も最高速度も走行技術も全てが負けている!

 勝ち筋を見出せそうなのは頑丈さとスタミナだけだ!

 脳内時計が5秒を刻む。

 まだ会長は動かない。今の内に取り戻せないだけの距離を稼ぐ。

 脳内時計が8秒を刻む。

 あと一秒少しで会長が動き出す。

 気になる点があるとしたら、この作戦の大筋はカツラギさんがルドルフ会長を降したジャパンカップの再現になるということだが――

 

 途端。

 

 世界から温度が失われた。

 春の陽気が消えた。走って上昇し続けているはずの体温が感じられない。

 殺気。私のはるか後方で動き出した一人のウマ娘が放つそれが、全てを奪い去った。

 これが、これ、が……G1級ウマ娘の走る世界……!?

 異次元。別世界。私が今まで走ってきたレースはなんだったんだ……!?

 

「慣れてない筈の大逃げが様になってるじゃないか……!」

 

 遠いはずの声が近く聞こえる。

 錯覚? それとも、わからないわからない!

 殺気を一当てされただけで思考回路が狂った!

 なにを、どうすれば、逃げなきゃ――!

 

「流石は先輩の、カツラギエースの娘だ!」

 

 狂った思考回路が漂白される。

 今なんと言った? 誰がなんだって?

 娘……!? 私が、カツラギさんの……!?

 いやないでしょ!? 私生まれた時カツラギさん中学生だよ!?

 これ以上家系図ややこしくしないでほしいんだけど!?

 少なくとも私のお母ちゃんは産んでくれたお母ちゃんで――相手が育ててくれたお母ちゃんとは限らない? え? 逆なら、ありえる? たしかに父親が誰かなんて知らない。カツラギさんが私を産んだんじゃなく産ませたなら、年齢的に無理は生じ――ふっざけんなぁ!! それじゃ産んでくれたお母ちゃんが犯罪者になるじゃんよ!!

 なにクッソ失礼なこと言ってんだこの皇帝は!!!

 否定しきれないのは私が悪い!

 確認する度胸がない私の弱さのせいだ!

 だけど! だけど!!

 負けたくない、負けたくないッ!!

 お母ちゃんをバカにした人なんかに絶対負けたくないッ!!

 

 萎えそうになっていた脚に血液と憤怒を無理矢理注ぎ込む。

 それは衰えかけた加速を再開させる。

 

「は、はは! それでこそ、それでこそだカツラギエースの後継者!」

 

 だけど、私の加速を嘲笑うかの如く声は、殺気は、信じられない速度で肉薄する。

 背中に静電気が走ったかのような痛みが生じた。なんだ、これ。

 故障、じゃない、表面的な痛み。皮膚に、電気が――

 

「どうした! 君の母はもっと速かったぞ! 君の血統を私に示せッ!」

 

 ま、さか、〝汝、皇帝の神威を見よ〟……!?

 アレはゲームのスキルじゃなかったのか!? ここ現実なのに!?

 嘘だ! 発動条件を満たしてない! ちが、現実だから? ゲームみたいな条件じゃない? 肌が、筋肉が、脳が、意識が雷光に焼かれていく。

 西洋における神権の象徴、日本でも神威を示す強大なる力。

 皇帝の身に纏う覇気が、稲光となって敵対者を焼き尽くす――――

 

「私の前を走り、私にその背を魅せ付ける!! カツラギエースの娘よ! 今度こそ、私は! 私こそが!! 貴様の瞳に我が背を焼き付ける時だカツラギエースッッ!!!

 

 並ばれた。

 必死に稼いだ距離は一瞬で無に帰した。

 負ける。

 勝てない。

 届かない。

 狂気さえ孕んだ雷光に、勝ち筋も作戦も悉く焼き潰された。

 追い抜かれたらもう追いつけない。

 抜き返すなんて物理的に不可能だ。

 10年走ってきた私が終わる。

 生まれ変わって積み上げた私が消える。

 彼から受け継いだ想いも、お母ちゃんにもらった愛情も――――

 

 ふ・ざ・け・る・なああああッッ!!!

 

「私はカツラギさんじゃないッ!!」

 

 肺が痛い。

 心臓が痛い。

 腰が痛い。

 脚が痛い。

 全身が痛い。

 

「私は」

 

 体中がひび割れそうだ。

 ミシミシパキパキと幻聴が聞こえる。

 筋肉が軋んでいる? 骨が割れている?

 違う、もっと奥底のような、表面のような。

 私の何かが、割れようとして――――

 

「――私、は――」

 

 全部を無視して、憧れたあの一歩を。

 爆発したと謳われた、あの人の一歩を!

 私の脚で! 私の意思で!!

 

 ――パキリ、とほんの僅かに、何かが割れた。

 

 

「スペシャルウィークだああああああぁぁぁッッッ!!!!」

 

 

 一歩。

 確かに追い抜かれた雷光に、一歩だけ。

 ほんの一瞬。刹那の間。

 私は並び立ち――追い抜かれ、置き去りにされた。

 

 

 

 

 

 

 どこを走っているんだろう。

 そもそも走れているのか。

 身体は前に進んでる気がするけど、わからない。

 どこまで走ればいいんだっけ。

 あれ……イクノさん? なんで駆け出そうとして、

 誰かに止められ、た……?

 顔を上げていられない。

 霞む視界の中に一本の白線が見えた。

 なんだっけあれ。

 何か、大事なモノだった気がする。

 横線。白い――ゴールライン。

 そうだ。あそこまで走らなきゃ。

 あと、何歩だろう?

 わからない。だけど、辿り着かなきゃ。

 わたしは……そのために、はしりだしたんだ……

 

「ゴールだ」

 

 誰かに抱き止められた。

 全身、指先まで脱力した体を支えられてる。

 

「見事な走りだった――スペシャルウィーク」

「……か、いちょう……?」

 

 ルドルフ会長が、腕一本で私を支えてくれている。

 

「――君は……カツラギ先輩の娘ではないのだな」

 

 紫色の瞳が、色んな感情を浮かべていた。

 ひとつひとつの名はわからない。無数の感情。

 

「一条の光の矢……いや、星の光か。彼女とは違う、君だけの光を見たよ」

 

 彼女……カツラギさん。

 私の、憧れの人。

 

「あの人は、月だったな。シービーという太陽の光を受けて輝く人だった。か細くとも自ら輝く君とは……違う、のだな――ああ、私は月の光に惑い星の光へ手を伸ばしたのか」

 

 滑稽な真似をしたと自嘲する。

 徐々に曇っていた思考が動き出す。

 そう、だ。

 私が激発した理由。

 何をおいても、これだけは糺さなきゃ。

 

「あ、の……お母、ちゃんの、ことは……」

「……君の光に触れて、君の怒りは理解したつもりだ。その上で言わせてもらうが……君の母君とカツラギ先輩の関係を疑ったわけじゃない。カツラギ先輩が君の母ではないかと思い込んでいたんだ。結果的に君の母君を侮辱するような真似になってしまったことは謝罪する」

 

 すんごく申し訳なさそうな顔で会長は言った。

 ……んあ? そう、言えば……お母ちゃんも、カツラギさんも、同じ紫の瞳で――――

 あー……あー、そういう、すれ違い、でしたかぁ……

 そうですね。私とカツラギさんって眼や毛色が一緒だしちょっと似てるんですよね。

 こっぱずかしい。

 かんっぜんに勘違いでブチギレちゃってたじゃん。

 これどっちが悪いかつったら両方悪いよ意思の疎通ができてないだけだよ。

 話せばわかるの典型じゃんよなにやってんの私。

 

「……わかってくれたなら、いいです……」

「すまないが、今は言葉でしか償えない。贖いは別の形で果たそう」

 

 いやもういいです……恥の上塗りになるんで忘れてください……

 穴があったら入りたいという概念をかんぜんにりかいした。

 ああ、もう……眠い、な……

 

「……今はゆっくり休めスペシャルウィーク」

 

 優しい声がかけられる。

 私を支える会長は、それ以上私に触れないようにしているようだった。

 それが、何故か安心できて……眠気が抑えられなくなる。

 疲れた――もう、休んでしまおう。

 

「理解したよ。君はカツラギエースじゃない。だからこそこう言おう」

 

 薄れゆく意識の中、されどその声はしっかりと届いていた。

 

「スペシャルウィーク。これから先何年かかろうと私はドリームトロフィーの頂で君を待つ。いずれ君が辿り着くだろう強者の祭典で最強として君臨し続けよう。君が君自身の牙を私の首に突き立てる日を一日千秋の想いで待ち続ける」

 

「これはシンボリルドルフとスペシャルウィークの約束だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 揺れる感覚。

 ヒグマさんの背に乗せてもらった思い出が過る。

 ん――いや待て。ここは北海道じゃない、はず。

 えっと……?

 

「……イクノさん?」

「目覚めましたかスぺさん」

 

 私はイクノさんに背負われていた。

 慌てて降りようとして、頭のてっぺんから爪先まで走る痛みに身をよじった。

 

「ぴぎゃっ!?」

「あ、動かないでください。全身筋肉痛という見立てです」

 

 全身、って。

 筋肉痛ってこんな痛いもんだっけ? ちょっと経験がないレベルなんだけど。

 なにしたらこんなことに…………あ。そうだ、私……会長とレースして……

 

「……負けた、んだ」

 

 呟きに、返事は無かった。

 うろ覚えだけど、抜かれた後はもうひどいものだった。

 どうやってゴールしたのか、ゴールに辿り着いたのかもあやふやだ。

 こんな――指一本動かせなくなるまで力を振り絞ったのに、なんにもできなかった。

 

「素晴らしいレースでした」

 

 私を背負ったまま歩みを止めずに彼女は言った。

 

「私もいつかあんなレースがしてみたいと、心から思います」

 

 声に嘘は感じない。多分、本気でそう言ってくれている。

 そっか。

 全力を出して、それでも届かなかった。

 だけど不様なだけじゃないって思ってくれる誰かがいる。

 そうだったなら、きっと、報われる。

 しばしの無言。

 首まで痛いから見える範囲は狭いけれど、見覚えのある風景だった。

 府中駅前……? もう学園まであと少しだ。

 

「え、山道を、私を担いで……?」

「心配しないでください。会長が配慮してくださいました」

 

 会長。その一言で体が強張る。

 そんな私にイクノさんは苦笑して説明してくれた。

 会長は眠ってしまった私をイクノさんに預けた後、山に不慣れなイクノさんが私を担いで下山するのは危険だと車道まで誘導してくれてシンボリ家の車で麓の駅まで下ろしてくれたらしい。あんな体たらくを見せた私が担ぐのは心配だろう? と私に指先すら触れず、麓から先も我が家の車では不安だろうと電車賃を渡して車から降ろし去って行ったそうだ。

 ……完璧な対応である。完璧すぎて顔をしかめるしかないくらい。

 電車賃にしたって私があんな真似をしなければ走って帰れただろうと言われたらぐうの音も出ない。実際その予定だったから。

 ここまでされたら文句の一つも出やしない。

 

「これほどのことが出来る会長がああなるなんて――ライバルというのは、重いのですね」

 

 ふと、イクノさんが口を開いた。

 カツラギさんのこと、聞こえていたみたい。

 

「……そう、だね……私たちも……レースを走り出したら、ああなるのかな?」

「想像も……できません。でも、羨ましいと、思ってしまったことは確かです」

 

 背負われた私からはどんな顔をしているのか見えない。

 

「それだけ思える相手がいる。それだけ競える相手がいる。ウマ娘として、走者の一人として、妬ましく思ってしまいます」

 

 イクノさんと同じようには思えない。

 私が思うライバル像とは違った。

 エルちゃんたちに感じる想いとは全く違う、強烈な感情だった。

 今の私じゃ言葉に出来ない会長のカツラギさんに向ける想い。

 だけど、傍にいただけで身を焦がすほどの熱量があったのは確かだ。

 どれだけの過去があればあそこまで想えるのだろう?

 レースでどんな思いをすればあそこまで執着できるのか?

 ウマ娘として、まだまだ未熟な私にはわからない。

 

「スぺさん? 眠ってしまったのですか?」

 

 声を出すのも億劫だ。

 なんとか返事をしようとして、強張るイクノさんに揺らされ、悲鳴が漏れた。

 

「いっ、ぎ……! い、イグノ、ざん……?」

 

 無理矢理覚醒させられた視界に、栗東寮の玄関と――その前に立ち塞がる二人の人影を見た。

 ん……? いやなんでいるの二人とも。あなたたち美穂寮生じゃ、

 

「「スぺちゃん」」

 

 本能が警鐘をガンガン鳴らし始めた。

 なんだ。え? これ知らないヒグマに遭った時の。

 

「「その人は誰?」」

 

 明暦の大火かよってレベルで脳内の警鐘が鳴り止まない。

 

「え。グラスちゃん……? ドーベル、さん?」

 

 イクノさんが小さく、これは拙い、と呟いた。

 続けて体重を訊ねられる。意味が解らんが38㎏ですと正直に答えた。

 しばしイクノさんは考え込み、ぼそりと斤量よし、と呟く。

 

「皆、本格化前――図らずも対熊の練習になりますね」

 

 ちょっと待て脳筋。

 まだ諦めてなかったんか。

 

「スぺさん。走れますか」

「無理です。動けません」

「置いて逃げる不義理はしたくありません。しばし――我慢してください」

「え」

 

 待って。

 何するかわかったから待って。

 ダメ今それ耐えらんない。

 説得するから、日本語通じるかわかんねー状態だけど。

 お願いだから待っ

 

 

 逃走を開始したイクノさんの背で私は悲鳴を上げ続けた。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 中央トレセン学園生徒会室に肉と骨の軋む音が響く。

 

「ルドルフ」

 

 冷え切った声でマルゼンスキーはルドルフに語り掛ける。

 

「言ったわよね、若い子に迷惑かけるなって」

 

 視線は合わせない――合わせられない。

 マルゼンスキーが腕を捻り上げる関節技をルドルフにかけているのだから。

 

「アームロック程度じゃ話を聞く気にもならないのね? わかったわ」

「待ってくれ釈明の時間を与えてくれマルゼン。確かに君の憂慮する事態にはなったが」

「ギルティ」

 

 ビキッ、と腕を捻る角度が深まった。

 

「あっ、ちょっ、落ち着こう話を聞いてくれ皇帝の腕はそっちに曲がらないからっ」

「あたしの孫……娘も同然の子になにしてくれてんの?」

「いやだからね? あっ、あっ、私の体で人体の可動域を確認するのはやめ、ようっ」

「お姉さんちょっとね――堪忍袋の緒がブッチギレたわ」

「待って。待って。マルゼン大事には至ってな、複合技に切り替えろと言ったんじゃなく」

「おいっすー。まーたカツラギのことでルドルフが暴走したってー?」

「あらシービーちゃんいらっしゃい」

「ちょっ、動かないで、腕がっ」

 

 ぼくんっ

 

「アッ」

 

 鈍い音が生徒会室に響き渡った。

 

 

 

 

 

*1
オリジナル設定。当作品の作者は百合婚を推奨しております。

*2
短文SNS。

*3
JRA最軽量記録を幾つも持つすごい小柄な現役牝馬。みんな大好きアイドルホース。










~登場人物紹介~

・スペシャルウィーク
 道民の転生者。北海道の山育ち。野生の猿と誤認され通報されたことがある。
 地元の猟友会では北限を超えた猿として有名だった。
 山は本当に怖いよ。ルドルフ会長とエンカウントするし。そんなのお前だけである。
 身長が伸びなくなるほど鍛えた結果が公表された。素でコレと並ぶオグリってなんなん……?
 この度憧れの人が自分の親かもしれない疑惑が生じる。
 それに付随して怒りのスーパーモードを発動した。
 皇帝への好感度は255下がった(タキオンと同程度)。
 未来のライバル発言でちょっと上がった(タキオンより髪の毛一本分マシ程度)。
 なおタキオンへの態度が塩いのは元馬の転生者だからではなくタキオンだからである。初手拉致監禁尋問脅迫フルコースの心証はすこぶる悪い。そこまでやったタキオンと一発で並ぶあたり会長の踏んだ地雷の大きさが窺える。
 多分馬のオペラオーやディープインパクトのような穏やかな馬が転生してきてたら普通に仲良くなってる。
 ただしステイゴールド。テメーは(ウマソウル的にも)ダメだ。

・アグネスタキオン
 前世は競走馬。URAの特別指定要注意人物。
 実はとある薬品を学園に売りカレッジエリアの研究室を一部屋取得してる。
 なので本校舎の旧理科準備室には近づいておらずカフェとの接点は現時点では無い。
 その薬品とは靱帯の治療薬。様々な症状を緩和し治療を早める夢のような薬だった。のでURAは厚労省に突撃をかまし爆速で薬事審議会から認可をぶんどった。URAが製造販売する権利を独占すればとんでもない利益を生むと試算されたが秋川理事長の「どんな経緯であれ利益は正しい道で還元されねばならん!」という鶴の一声でタキオン個人の収益になるはずだった。が、他の薬でも利益を出しているタキオンは要らんから研究室ちょうだいと突っぱね協議を重ねた結果純利益の1/3を受け取り研究室を私物化するという現状に落ち着いた。
 この行動が秋川理事長を除く学園上層部とURAから「こいつ利益でも釣れないあたりガチのマッドサイエンティストなんじゃ」と危険視される原因となった。

・ブリッジコンプ
 前世は田舎の警察官。退職するまで猪・猿・鹿・熊以外で出動したことはなかった。夏生まれ。
 今世も田舎出身で村代表として近隣の市主催のレースに出場。ぶっちぎりの一位を取る。県のスポーツ課の人に中央に挑んでみてはどうかと薦められ中央トレセンを受験、見事合格をもぎ取る。
 村総出(200人ほど)で送り出され故郷に錦を飾ることを決意する。目指すは天皇賞。
 珍しい尾花栗毛(金髪)のウマ娘で上京していきなりモデルにスカウトされた。偶然近くを通りかかったシニア級の先輩ウマ娘(転生者)に助けられ無事断るも都会って怖いと萎縮してしまう。先輩から「とりあえず風呂敷で荷物まとめるのは今時目立つから普通のカバン買おうね」とアドバイスされたり面倒を見てもらい徐々に慣れていった。
 新入生初のタキオンの薬の被害者。16,777,216色に光り輝いた。
 ちなみに薬の効果は筋肉痛軽減。慢性化しつつあった疲労が完全に抜け「マジかよ……」となりつつもタキオンへ律儀にお礼をしに行き無事データを取られる。ゾンビ映画のゾンビみたいなことにはなったが肉体回復は確かだったのでタキオンへの悪感情はあんまりない。なお薬ははちみつレモン味で美味しかった。
 スぺに対しては主人公云々以前に「私よりちっさい子がいる!」と仲間意識を抱いている。

・イクノディクタス
 前世は陸上競技者。ウマ娘知識はうろ覚え。もうそろそろ13歳。
 転生しウマ娘の体を得てヒトを遥かに超える走力に心を奪われる。
 この時点で前世がほぼ吹っ飛んでいる。走るのが楽し過ぎたのが悪い。
 幼い頃から走りに走り、走り過ぎて小学生の時ついに屈腱炎を患ってしまう。
 一度は二度と走れないと絶望したが家族の支えもあり克服、中央のレースを目指す。
 そんな経験から壊れない脚、屈強な走りを求め日々鍛え続けている。タキオンと違い理論ではなく目に見える成果を基準に考えているため実践第一主義。脳筋である。
 スぺの北海道の山野で鍛えられた剛脚を目にし求めていたものはこれだと確信する。
 女子力が筋肉になっているので恋愛ごとには疎い。小動物を見て「可愛いですね、脆そうで」と呟き同級生に精神科医を紹介されそうになったことがある。もちろん加虐趣味などがあるわけではないのだがいかんせん全ての物事を脳筋解釈してしまう全体的に残念な女。彼女的には脆い=庇護対象と言ったつもりだった。
 スぺのことは主人公だったことすら忘れておりむしろ大きな怪我無く引退まで走ったということの方が記憶に焼き付いている脳筋仕様っぷり。無事之名バ、いいよね……いい……
 実はスぺと似たような家族構成(本作オリジナル)だがスぺが家族の話をあまりしないのでイクノは気づいていない。またスぺが実母と死別してることは知らない。
 ルドルフには何故か本能的な畏怖を感じてしまう。


・グラスワンダー/メジロドーベル
 は???


・シンボリルドルフ
 前世は■■■――少なくともウマ娘の知識は持ってない。
 女性に年齢を問うのは感心しないな?
 普段は人望を集める演説下手な生徒会長。求む原稿書ける広報担当。
 全ウマ娘の幸福を願う人格者。
 だがその裏では初めて己に敗北を刻み付けたカツラギエースに執着する狂乱の皇帝。
 カツラギへの想いは既に妄執と化しており個人資産で賞金首にするほど。
 周囲に望まれるがまま無敗を重ねていった。唯一好敵手と見込んだ相手はクラシックの最中本格化を終えてしまい涙を流しながら謝りライバルの座から去ってしまった。無敗の三冠という前人未到の偉業を成した時、隣には誰もいなくなっていた。
 そして挑んだJC。日本人初の偉業を重ねるはずだったレースで、初めて道を阻まれた。
 紫の瞳、黒鹿毛の長い髪を振り乱した長身痩躯のウマ娘。
 空虚であったはずの皇帝の心は、敗北という巨大な傷に埋め尽くされる。
 次戦で報復を果たした時、皇帝の胸にあったのは欲しいという感情だけだった。
 カツラギという巨大な傷をつけられた皇帝の器が満たされることは決して無い。
 飢えた狂える皇帝はただ一人、額に流星を走らせる黒鹿毛のウマ娘を求めている。
 一人だけ世界観が違う。湿度が深海。
 カツラギエースが絡まなければ気のいいお姉さん。

・マルゼンスキー
 前世はウマ娘ガチ勢。ルドルフより少し年上。アニメもアプリもマンガもコンプしていた。
 ついでとばかりに実馬にも食指を伸ばしかなり広い範囲で学んでいた。
 そのため今生ではマルゼンスキーのキャラを守るのに必死になり精神的に追い詰められてしまっていたのだがルドルフに「無理に古い言葉を使わなくてもいい」と救われる。
 以降生徒会に所属しまだ若いルドルフのサポートとブレーキ役を担う。
 自身が知りうる競馬史・ウマ娘の設定を記した「マルゼンノート」の執筆者。
 ルドルフのオグリキャップスカウトを穏便な流れにするなど苦労している。
 一部では「皇帝の愛人」「女房役」などと噂されているが本人的には手のかかる妹分の手綱を握る姉役の気分である。ロケットスタートで病む妹分の世話が大変。
 スぺに対しては史実で孫だったということと今世で(主に不審者のせいで)苦労してることを知っているので複雑な想いを抱いている。


・教官's
 文章が長くなるので省かれたが5人中4人はウマ娘。もちろん全員転生者。
 トレーナーになるための下積みだったり教官職一筋だったり目的は様々。
 中には元重賞ウマ娘もいたりする。
 人格的には善良な方で「今年の新入生は黄金世代かぁ」くらいに見ている。
 原作キャラに会えたから、と暴走することなく職務に忠実な大人たち。
 生徒どころか同僚まで転生者ということには気づいていない。
 なお模擬レースに写真判定を用意しなかったのは新入生の初回模擬レースでこんな大接戦ドゴーンになった実例がなかったため。今後も頻度と有限の機材のやりくりを考えれば模擬レースに写真判定は用意されないだろう。秋川理事長にチクったら一発で導入されるだろうが。

・ツルマルツヨシ
 保健室送り(複数回)。






 グラスとイクノにスぺに対する恋愛感情は(今のところ)無いのでハーレムではないです。
 え? 結婚できるの? と気づいてしまったのでSANチェック入ってますが。
 感想一杯もらって気合入れて書いたら過去最長になったZE!
 だいたいタキオンと会長が悪いZE!

 猫井でした。


1/7 赤頭巾さん誤字報告ありがとうございました。

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