名前だけ知っている、でもどこの誰とも分からない。
そんな関係はよくあるけれど、なんとなくいい気分はしないもの。
だけど、それにもきっと意味がある。
人間同士の関係は、そんなものだから。

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すれ違うアオい影

「――すいません、千夏ちゃんいますか」

 玄関口から聞こえてくる声は、何処か弱々しいのになぜか良く通る。夏休みも後半に入ったある日、二階の自室でダラダラしていた俺が反応してしまうくらいには。どうやら今は誰もいないらしい、俺が出るしかなさそうだ。

 ま、暇だから良いんだけどさ。

 夏休みはいつだって部活の最盛期なんだけど、今の俺はインターハイを逃し千夏先輩ともギクシャクしたままで、練習日になっていない休日をもて余していた。て言うか部活がないなら自主練にいくべきなんだろうけど、でも億劫になって仕方がない。こんな気持ちになってはいけないのに、どうも上手くいかないままだ。

 まったく、良くないな。

 そんな事を考えながら階下に降り、玄関を開けるとそこには一人の女子がにこやかな顔で待っていた。髪は千夏先輩より少し短く、鮮やかな黒。活発そうというか、見た感じ女子っぽくはない。バスケ部の仲間だろうか、雰囲気は渚さんたちに近い。

「あ、……今いないんです。用事なら……」

「そう、じゃユメカが来たって伝えてください。じゃあね猪股くん」

 俺が言い終えるより早く、彼女……ユメカさんは踵を返して走り去ってしまった。

 なんなんだ、と呆然とすることしばし。暑さに汗を感じ始めた頃、ようやく俺は違和感に気付いた。

 友達同士で用があるなら、普通訪ねる前にLINEなりなんなりで連絡しないか。それさえ知らない仲で「千夏ちゃん」なんて親しげな言い方しないだろう、それに――それに。

「何で知ってるんだ、千夏先輩がここにいるって……?」

 確か先輩はチームメイトにも、自分が猪股家にいるとは教えていない。親戚の家にいると言っている筈だし、ここを教えるほど仲が良いならそれこそ連絡先を知らないのはおかしい。

 あれこれと、おかしい。

 汗は冷や汗に変わり、じっとりと背筋を伝い降りていく。

 考えるな、これ以上考えるな。

 そう自分に言い聞かせて、俺は家へと入った。物陰にまだ彼女がいるのではないか、と軽く怯えながら。いや、怯える理由も分からないけど。

 

「――それ、ユメカだよ」

 千夏先輩が笑ってそう言った途端、空気が僅かに変わった。松なんちゃら先輩は一瞬だけど明らかに動揺していた、まるでその名前が忌避すべきものであるかのように。そして俺も、夏休みのあれを思い出して硬直してしまう。千夏先輩だけが、何の動揺もなくニコニコ笑っている。

「……そう、だっけ。それでさ」

 まるで取り繕うように話題を変える松なんちゃら先輩は、既にヘラヘラした顔…千夏先輩曰く「うさんくさい顔」…に戻っていた。ここでユメカって誰ですか、なんて聞くほどの度胸は俺にはない。中等部の頃の話みたいだし、割り込むのも良くなさそう。それにこの二人が俺を蚊帳の外にして盛り上がるのは気に入らないけど、それ以上に今の俺にとっては目の前のアップルパイが重要すぎる。食いしん坊でスイーツ好きの千夏先輩が自分史上最高の逸品と言うだけあって、これスゴい美味しい。

 斯くして大きな争いには至らず、平和にお茶会は終わる事となった。俺の心に、小さな齟齬を残して。

 

 夜も更けて、あとは寝るだけな弛緩した時間。

 俺は改めて昼間の――いや、遡って夏休みの事までを思い返している。

 実はあの日、千夏先輩にユメカという人が訪ねてきたという話はしていない。なんとなくその話をしそびれて、そのまま時間が経ってしまって言えなくなってしまったのだ。我ながら情けないけれど、当時の俺は千夏先輩と向き合える状態ではなかったから。

 そう言えば、あれは何時くらいだったか。日差しが強かったし昼くらいか、でもその時間に母さんがいないなんて珍しくないか。それにバスケ部は練習日だけどバド部は休み、なんてのも滅多にない。ひとつの部活だけで体育館を全面使う訳でなし、大体は練習日も一緒なのに。

 ………………あれ。なんだろう、何かおかしくないか。

 考えれば考えるほど、妙な感じが治まらなくなってくる。

 だけど、……でも。まさかこんな時間に、千夏先輩の所へ聞きにいくわけにはいかない。そりゃあの人は俺を()()()()目では見ないだろうけど、こっちとしては非常に気まずい。夜の夜中に好きな人の部屋へ、って危険すぎる。

 でも、このままにしておいて良いものだろうか。

「……いや、別に良いのか?」

 何ヵ月も前に訪ねてきたと今さら聞かされても、千夏先輩としては困るよな。それに、先輩の交遊関係まで俺が把握する必要も理由もない。

 この胸のモヤモヤさえ飲み込んでしまえば、それで済む話だ。

 そう結論付けると、棚上げにしてきた睡魔がちょうどよく襲ってきた。それに身を任せ、俺は目を閉じる。

 明日もすることはいっぱいある、頑張ろう。

 

「大喜くんさ、ユメカに会ったことあるんだっけ?」

 明けて次の日、朝練中に突然問い掛けられ俺は思わずバドラケを取り落としそうになった。

 昨日ユメカって言ったときに知ってる感じだったからさ、と続ける千夏先輩の顔はいつも通り。涼やかなその表情は、やっぱり真意が読み取れない。

「なんかユメカってさ、()()()()()()()()()()()来るんだよね。もしかしたら、それで会ってるのかなって」

「あ、いや……昨日彼処で初めて聞きました、です」

 咄嗟に嘘を吐いてしまったけれど、その意味が分からない。ここで言ってしまえば良いのに、どうして。

 でもなんだか、ここであの事を言ってはいけない気がする。直感だけど。

「えっと、バスケ部の方……です?」

「……昔ね。一緒にいたんだけど、今はいないんだ」

 それがどういう意味なのか問おうとするよりも早く、千夏先輩は自分の練習に戻ってしまう。

 失敗したなーと思いながらも落ちていたシャトルを拾い上げた時、俺はふと気が付いた。

 誰かが、見ていることに。

 それが誰のものなのかは分からない、でも確かに視線を感じる。もう冬が近づく今の時期、朝練に来る生徒は少ない。更にそれを観覧するようなのは、滅多に居やしない。千夏先輩のファンたちだって、放課後以外では集まらない。

 なのに、どうして。こんなにも、強く気配を感じてしまうんだ。

「――嘘はよくないよ、猪股くん」

 ぞわり、と背筋に走る悪寒。声はすぐ後ろに迫っている。

 あの夏に聞いた声が、またそこにある。

 怒っているわけでもない、ただただたしなめるような優しい声が。

 なのにどうして、こんなにも――怖いんだ。

 振り返るのが怖い、こうしているのも怖い。

「まあ、別に良いんだけどね。じゃあ、千夏ちゃんによろしく」

 パタパタと去っていく足音を耳に残して、声は冷気に溶けていった。

 ようやく振り返った所には、勿論誰もいない。千夏先輩は少し離れた所でシュート練習の真っ最中、とは言え声がすれば気づく筈なのに黙々とボールを放り続けている。

 何が起きたのか、それとも起きていないのか。何も分からないまま、朝練の時間は過ぎていった。

 

 結局あれは、なんなんだ。もう時刻は昼休みなのに、未だ悪寒の残滓が頭にこびりついて離れてくれない。

 少なくとも千夏先輩はあの声を聞いていないし、ユメカさんもそっちに声が届くとすら思っていなかったんだろう。

 そんな事あるのか、あの距離で。

 まさか、幽霊とかそんななのか。今は一緒にいないというのは、そういう――?

「いやでも、無いよな……今時さ」

 今はもう21世紀だぞ、令和の御時世に幽霊とか無いだろう。どんだけアナログな話だ、無い無い有り得ない。有って欲しくない。むしろ無いといってくれないと嫌だ。

 真っ昼間に訪ねてきたのを応対したわけだし、実在しているのは間違いないと思う。だけどあれこれとおかしな事ばかりで、なんだか自信が無くなってきそうだ。

 千夏先輩や渚さんたちに聞けばすぐ何処の誰か分かる筈なのに、現状それが出来ないのが厄介すぎる。出来ないというより、したくないだけなんだけどさ。

「どうしよう、かな」

 俺は机に突っ伏したまま、何度目かの溜め息を吐く。どうしようもないんだけどさ、実際。

 でも、このままではいられない。そんな不誠実でどうする、俺。

 なるべく早く覚悟を決めて、千夏先輩に聞いてみよう。あと嘘吐いた事をちゃんと謝ろう、時間は経ったけど夏休みの事も。

 その時にきっと、俺たちは大きく変わる。それで何かが終わって、何かが始まるんだ。それが良い方向かどうか、それはまだ分からないけど。

 とりあえず、だ。放課後までに気持ちを整理しておこう、帰ってから千夏先輩と話せるように。

 何処か問題を棚上げしたような気はするけれど、そんな思いを振り切って俺は立ち上がる。

 午後イチの授業は移動教室だ、そろそろ行こう。

 ――教室の隅に感じる気配は、きっと気のせいだ。大丈夫、俺は大丈夫。

 

   

 


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