大丈夫だよ、もう少しすればみんなのところに戻れるからね。私は少しだけ歩みを止め、冷え切って動かなくなった彼の方を見てそう語りかける。
どうしてこうなったのか、そのきっかけも思い出せるか曖昧になってきた自分に、乾いた笑いが出てしまう。私は、私たちは、この雪山に二人でいたんだ。思い出せることは、それしかない。
だけどいつからか、一緒にいた彼は私の言葉に返事をしてくれなくなった。その事実に耐えられなくて、毎晩泣いていたのだけれど、その涙もいつしか枯れて、もう何も感じることができなくなっていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。そんなことを考えていたら、吹雪がまた強くなった。私は歩みを止めない。もし今ここでそれを止めてしまったら、私が私を保っていられなくなる気がするから。なにより、彼を連れてみんなの元へ帰ることだけが、今の私に出来る彼への最大の贖罪だから。
ふと思い立って、私は彼の唇にキスをしてみた。こんな環境下だ、彼のそれは当たり前のように冷たかったが、どこか温もりを感じるような気がした。
このキスで彼が起きてくれないかな、なんて考えてしまう自分に嫌気がさす。目の前の彼は呪いで眠っているわけじゃない、もう死んでいるのだ。
それは、誰にも打ち明けたことのない、私の、私だけの、秘密の片想いだった。彼はみんなに愛される人だから、みんなの王子様だから。私だけの王子様になって、なんて虫が良すぎる話だ。
それに、私が想いを打ち明けなければ私と彼はずっと友達でいられる。この居心地がいい関係を壊したくなくて、私は想いを秘めていた。
でも、最期に、彼が死んでしまう前に、言っておけばよかったな。あなたのことが大好きだ、って。
そんなことを考えて、彼が私だけに教えてくれた秘密の言葉を口にしたら、わけもなく体が震え出して、気が滅入りそうになった。
一体、いつになれば目に映る景色が変わるのだろうか。どれだけ歩いても、どれだけ時間が過ぎても、私たちを取り囲むのは、雪、雪、雪。
どんなに美しいものでも、ありふれてしまってはその美しさも欠けてしまう……なんて言葉があっただろうか。雪が降ってくるなんて儚いね、なんて言ってみんなと笑い合っていたあの日を懐かしむ。
今頃、ハロハピのみんなは元気にしているだろうか。千聖や、麻弥や、私を慕ってくれる子猫ちゃんたちも、みんな、みんな。
雪山の中で二人も行方不明なんだ、きっとみんな心穏やかでないはずだろう。だからこそ、一刻も早くみんなの元に戻らなければ。彼のことを、謝らなければ。
そんな時、私は何かに足を引っ掛けて転んでしまう。障害物となったそれは、動物の腐った死骸だった。それを目にした瞬間、私たちもいずれそうなるのかもしれない、という考えが頭の中をよぎり、気が狂った。
ぐちゃぐちゃと汚く飛び散った頭の中を一度整理するために、彼に語りかけてみることにした。手始めにシェイクスピアの話や、バンドや演劇部の話をしてみたりして。
だんだん寒さで呂律が回らなくなってきていることに、自分でも驚愕する。それと同時に、自分ももうここまで弱ってしまったのだな、と実感した。
だけど、最後に口にしたあなたへの愛の言葉だけは、しっかりと、はっきりと伝えられたのは、少しだけ嬉しかった。今の私に残っているのは、あなたの死体とあなたの面影だけだから。
その日から、私は彼に話しかけるのが癖になった。歩くことをやめ、彼の隣に寝そべり、まるで夢見る少女のように彼と語らい合う。
普通に考えてみて、おかしいことだとはわかっている。わかっているが、私はこうして彼の死体に縋らないと自分を保てなくなってしまうほどに気がおかしくなっていた。
この時点で、私がすべきことなんて、もはやどうでもよくなっていた。彼と語らいあっている時だけは、寒さを忘れられた。むしろ、身体が燃えるように熱くてしょうがないんだ。
そんな日々を繰り返しながらも歩いていると、まるで建物の照明のような明かりが見えた。もしかしたら、ここに誰かがいるのかもしれない。
よかった、これで、私たちはいつもの日常に帰れる。絶え間なく身体を打ちつける吹雪からも、歩くたびにナイフで刺されたように足が痛む雪面からもおさらばだ。
「薫ちゃんは、幸せになってね」
そんな時、彼が死に際に遺した言葉を思い出す。私が聞いた中で一番優しい声色で口にした、彼のその言葉を。
彼はそう遺して死んでしまったのに、私は今も生きていて、またいつもの日常に戻ろうとしている。本当にそれでいいのか? 私は自分にそう問いかける。
覚悟を決めるのは早かった。私は髪を解いて、上着を投げ捨て、靴を脱ぎ、まるでワルツを踊るかのように、一枚一枚、身に纏っていたソレを取り払っていく。
「私は救われるんだ、幸せになれるんだ! もう何も怖くなくて、もう何も苦しくない! そして何より、大好きなあなたのところへ行けるんだ!」
誰に届くでもない言葉を高らかに叫び、私はついに一糸纏わぬ姿となる。そしてまた、大好きな彼の隣に倒れ込むんだ。
フフ、おかしいね。普段の私なら絶対こんなことしないのに。大切な人たちを悲しませるようなことなんて、するわけないのに。きっとこうなってしまったのは、この寒さのせいだ。そういうことにして、私は目を閉じる。
降りしきる雪が私たちを包み込み、その身体を優しく温め、だんだんと感覚がなくなっていく。遠のく意識の中、私は空に向かって指で文字を描いた。
「今、ここで、幸せになろう」
十二月二十四日午前〇時、〇〇山の山小屋付近で凍死した男女の遺体が発見されました。死因は遭難からの凍死だと考えられますが、女性の方は衣類を何も着ていない状態で見つかっており、警察が身元の確認を進めると共に事件性について調査するとのことです。