寒さが支配する十二月。空を見上げれば、群青色に染まった海。そこにいくつもの輝きが流れていた。ずっと見ていると吸い込まれそうで危なっかしい。それはまるで万華鏡。幻想的でとても綺麗だ。
その空気をぶち壊す喧騒をイヤホンで塞ぐ。慣れた手つきで標準の音楽アプリを開き、適当な音楽を流す。
夜は暗くて怖い。こうすれば隣に誰かがいるようだから安心できる。
それにしても寒い。ポケットに入れている手を深く沈み込ませる。バンドの練習を終えた直後は身体も火照っていてこんな寒さどうってことなかったけれど、数十分も経てば、服の隙間から入ってくる空気は痛みに変わっていた。外に吐き出す息も白い。手を温めても、すぐに意味をなさなくなる刹那的な手段でしかなかった。
完全な詰み。早く家に帰って風呂に入りたい。
歩を早める。すると、音楽とは別の着信音が鳴った。鳥のさえづりのような音だ。
ポケットから嫌々手を出して確認すると、意外な人物からの連絡が入っていた。湊さんからだった。
湊さんとは仲が良いというわけではない。学校では会えば挨拶する程度。しかも彼女とは音楽の方向性が違うので、度々衝突もしている。つい最近も言い争ったばかりだ。
送信先、間違えてんじゃないの?
とにかく考えても仕方がないので全文を見ることにした。そこには、深く詮索をしてしまう文章が書き込まれていた。
『『聞きたいことがあるからファミレスに来て』』
なにこれ、どういうこと。
あたしはすぐに悴んだ指を必死で動かし文字を書き込もうとするのだけれど、途中で指が止まる。
なんであたしに言っているんだろう。
だって、普通はリサさんだ。リサさんなら、湊さんの相談事を快く引き受けるだろうし、よく考えてくれるはず。普通であれば、湊さんはリサさんに相談するはずだ。
なにか、ある。
送信しようとした文章を消す。再び文字を打ち直し、誤字がないかを確認してから送信ボタンを押した。
すぐに既読がつき、返信が来た。
『『ありがとう。場所は――』』
場所は近かった。道も分かる。引き返すことになるけれど、まぁ、いいかな。湊さんは先輩だし、断る訳にはいかない。それに相談の中身も気になるし。
あたしに相談ってなんだろう。
背負うギターケースのストラップを掛け直し、目的の場所へと足を進めた。
どうやら湊さんは先にファミレスについているようで、あたしは追う形となった。父さんに帰りは少し遅くなることを連絡して、承諾をもらうとホッとする。
目的のファミレスへ到着すると、店内には優しいピアノの旋律が流れていた。どこかで聞いたことのある曲だけれど、名前は思い出せない。
スタッフに席を案内される。話は先に済ませてあったようでスムーズだった。
席に座ると、コーヒーを頼んで落ち着く。テーブルの向かいには湊さんが優雅に湯気の立つコーヒを飲んでいた。端には先端が破られたスティックシュガーの残骸が六つ。その味を楽しむかのように目を瞑っていた。
うわ、甘そう。
湊さんはソーサーにカップを戻すと口火を切るのだけれど、まず、あたしが言いたいのは湊さんの髪型についてだった。話はそれからだと思う。
「こんばんわ、美竹さん」
「こんばんわ、湊さん。髪型変えたんですね」
「そういうわけではないわ。これはあなたに見せるためよ」
「あたしに? なんでですか?」
「美竹さん。この――ポニーテールだったかしら。これを見てどう感じたか、率直な感想がほしいのだけれど」
文字通り、湊さんはポニーテールという髪を後ろにまとめる結び方をしていた。その違和感は自身の体内で拭いきれるものではない。いつもは下ろしているのが湊さんのいつもどおりの姿。
イメージチェンジもいいところだ。その理由を聞きたかったのだけれど、その変化にどう感じているか、逆に尋ねられることになった。
髪を結ぶという行為が慣れていないのか、湊さんは何度も髪を触る。ポニーテールという髪型の名前の時点で躓くところを見ると、髪型を変えるのは初めてなのかな。
「どうって言われても。いいと思いますよ、っていうのが正直な感想です」
「他には?」
「……可愛いと思います。ポニーテール」
「……ありがとう」
湊さんは少し恥ずかしながらも言う。まさかそんなことを言われるとは思わなかったと顔に書いてある。
「それで、他には?」
それにしても、湊さんが髪型の感想にここまで執着するのは驚きだった。湊さんは音楽にしか興味が沸かない人だと思っていた。こうしてあたしに意見を求めているということは、リサさんになにか言われたのだろうか。それなら納得がいくのだけれど、ここまで深く詰めてくる理由はなんなのだろう。
頼んでいたコーヒーが来たので、火傷に気をつけながら慎重に飲む。
体の芯から温まるようだった。
一息ついて、本題へと入る。
「あの、結局相談事ってなんなんですか」
「そう言えばそうだったわね」
あたしはまだ湊さんから相談ごとの内容を聞いていないことに気づいた。
湊さんはバッグから透明のファイルに入っている紙を数枚取り出す。クリップを外し、束になっているそれを渡してきた。
「これって……」
五線譜だ。それも真っ白。タイトルも音符も書かれていない、さらに言えばシワひとつない真新しいもの。それが四枚ほどある。ペラペラめくっても、どのページにも何も書かれていなかった。
察してしまった。クリップを付け直し、テーブルに置く。
「作詞の相談ですか」
「そうよ。美竹さんも作詞するでしょう?」
「しますけど。でも、そういうのはあたしじゃなくてリサさんたちと考えたほうが、Roseliaの雰囲気に合う歌詞が出ると思うんですけど」
「ええ、そう。美竹さんの言う通りだわ。メンバーと考えた方がRoseliaに合った歌詞も出てくる。けど今、作り悩んでいる曲は色々な人の意見が欲しいのよ」
湊さんによると、あたしに相談する前に香澄や彩さん、こころにも同じようなことを聞いたらしい。
「Roseliaのメンバーにも聞いてみたんですよね。どうだったんですか?」
「いい回答を得られなかったわ。全員、経験がないそうなの」
「経験って、なんのですか?」
湊さんは間を置いてから一言。
「恋よ」
「……あの、ラブソングを書きたいんですか」
「ええ、そうよ」
「あたし、恋とかしたことないんですけど」
「私も恋って感情がよく分からないの。だから今日はポニーテールにしてきたの」
「それに何か意図があったんですか?」
湊さんは自らの髪を撫でる。
「美竹さんは薄々気づいてるかもしれないけれど、私は普段こういった髪型をしないのよ。でも、いつもと違う髪型をすると、ときめくものだってリサが言っていたの。それを試してみたかったのよ」
それで湊さんは、あたしに意見を積極的に求めてきたというわけね。
湊さんを見たときに抱いた印象は、ときめいたものとは言えないだろう。
どうすれば恋という感情がわかるのだろうか。検討がつかない。
「あたしたちには難しいテーマですね」
「そうね。難しいテーマ、かもしれないわ」
経験のないものをテーマにしたところで詰まるのは目に見えている。しかし、湊さんは現に詰まっている。それでも諦めないということはやはり、何かしら理由があるのだろう。
ラブソング。恋はあたしもしたことはないから、自分の知識だけでは助言は難しい。他の人の意見を聞いて、それを捻って答えてみることにしよう。
「そういうのってなんとなくですけど、リサさんが知識広そうじゃないですか。なんて言ってたんですか?」
「支えてあげたい、ずっと一緒にいたい。そういう思いが恋だって言ってたわ」
「もしかして、リサさんって恋したことあるんですか?」
「ないと思うわ。私たちは中学の頃から羽丘女子学園(ここ)だったから」
確かに。羽丘は中学から高校までエスカレーター式の女子校。異性と触れ合うことはまずない。
「小学生や幼稚園の頃は」
「あまり覚えていないわ」
昔のことだもの。そう言い湊さんはコーヒーに口をつける。あたしも少ししか飲んでいなかったので、冷めないうちに飲むことにした。
「美竹さんは知っているか分からないけれど、前に一度、恋に近いものの曲をカバーして歌ったことがあるのよ」
「知ってます。聞いたことがありますから」
「ええ。今、話しているものは恋なのだけれど、リサの言っていることと近い気がするの。歌っている時に気づいたの。恋と愛は似ているのよ」
「……たぶん、違うと思います」
それでは恋=愛になってしまう。
あたしはよく分からなくて、テーブルを見つめながら言う。恋と愛は違うと思うけど、何が違うのかはっきり分からない。
「ねぇ、美竹さん」
――愛してるって言ってみて。
ドクンと胸が跳ねた。
なんだろ、今の。
体の奥の底から湧き上がる炎のような熱さが身を焦がしていく。
「な、なんですか、急に。変なこと言わないでください」
それでもあたしは平然を装う。窓に映る街灯で照らされた駐車場を見れば、多少のごまかしは聞く。しかし、嫌でも湊さんの顔が反射される。
その反応の原因を探るように、あたしの顔をじっと見ていた。
「どうしたのかしら」
「別に。なんでもありません」
「顔が赤いわ」
気持ちを抑えるためにコーヒーに吸い付く。苦味にこれほど助けられたことは無い。口の中がブラックの香りに染められた時、胸の高鳴りは収まる。
そうなるはずだと思っていた。
未だに頬は熱を帯びていた。
「あたしのことよりなんですか、それ。あ、愛してるって」
「恋人というのはこういうことを言って成り立つ関係らしいわ。だから、その言葉を聞けば恋という感情がどういうものなのか分かる気がしたのだけれど」
「いやいや、そもそも愛してるって両思いが前提で言う言葉ですよね。あたしが湊さんに言っても意味がないと思うんですけど」
「意味はあるわ。なんだか、そんな気がするのよ」
とにかく言ってみて、と急かされあたしはコーヒーを一口飲む。喉を潤して心の準備をする。別にしなくてもいいのだけれど、出来れば一発で終わらせたい。何度も言わされるのは嫌だし。
天井に一息吹きかける。カップを戻して、湊さんのことだけを考える。余計なことは考えない。この一言に自分が湊さんに思っている全てを乗せる。
「愛してる」
湊さんの髪がふわっと宙に舞った。繊細な一切れたちが光に照らされ舞い踊り、言の葉は胸を穿つ。
あたしの言葉が青き薔薇を撃ち抜いた。
「……わかったわ。ありがとう、美竹さん」
「別にいいですけど。どうしたんですか、顔を赤くして」
「なんでもないわ……美竹さんには関係のないことよ」
目を逸らす湊さん。頬もわずかに赤い。おかしい。さっきまで真剣な表情だったと言うのに、それでは照れているように見えてしまう。
「関係なくありません。教えてください」
「私のことはいいのよ。それより、分かったわ」
「恋のことですか?」
「ええ」
席を立つ湊さんを見ながら、あたしは呟く。コーヒーカップに入っていた飲み物は無くなり、テーブルに置いてあった五線譜はいつしか無くなっていて、学校の鞄を手に引っさげていた。
「ありがとう、美竹さん。コーヒー代は払っておくわね」
「え、あ、ど、どうも」
違う、そうじゃない。頭を下げてどうする、あたし。これでは湊さんが行ってしまう。
「構わないわ」
髪はなびく。細い切っ先のある後ろ髪が顕になり、空を裂く。触れてしまえば、手を伸ばしてしまえば拒絶され、指が切れてしまいそうだった。
「さよなら、美竹さん」
歩は進む。
足先は出口を見ていた。
スカートが揺れる。
髪も舞った。
肩を、掴んだから。
「美竹さん? どうしたのかしら」
自分の足がオレンジ色の床を踏みしめていた。対立する足先があって、距離が近い。二歩程度歩けば、湊さんの足を踏んでしまいそうだった。
湊さんの言葉に、尚もあたしは見続ける。その足先たちを。
今のあたしがどんな顔をしているのか分からないし、分からせたくない。故に、湊さんがどんな顔をして、あたしを見ているのかも分からない。
しかし、湊さんの声は弾んでいた。
ああ、もう。どうしてこんな時に限って、湊さんが頼もしい存在に見えてしまうのだろう。隣に湊さんがいてくれれば、それだけで薄暗い夜が昼の廊下になる。そこに交わされるくだらない雑談が、噛み合わない音楽話があたしにとって、闇を消し去る光になる。
でも、湊さんはあたしのことをそんな目では見てはいないだろう。
正直な疑問。どうしたのかしら。
そんなの――
「外、暗いので」
これしか、ないじゃないか。
湊さんは、優しさをくれた。
「送っていくわ。美竹さん」
耳元に囁かれたその言葉は、どうにも別の不安を掻きむしられた。
その夜のことはもう、思い出したくはない。