曇天の下、弓道場は昨夜の降雪で白く染まっていた。
幸い雪かきをするほどではなかったが、矢道は誰の足も付いていない綺麗な雪の絨毯で覆われている。朝から着替えて弓を引くのは少し忙しないスケジュールになってしまったが、それでも凛とした空気を吸って目を閉じると、来たかいがあったと少しだけ気持ちが上向いた。
「────」
風紀委員の活動もない今日は、少し思うところがあって弓道場に足を運んだ。
私だけしかいない弓道場は広く寒々しかったが、今はその孤独がどうにもありがたかった。
深く息を吸って、深く息を吐く。体の内の熱をゆっくりと冷まして、白く濁った体温を空に捨てた。
肺から取り込んだ玲瓏な夜の欠片を全身に巡らせる。自分にまとわりついていた余計な思考や感情を全て追い出して、ただ静謐な体温だけを自分の寄る辺にする。
的を見つめ、一足で静かに踏み開く。
あらゆることを自らの内から追い立てたにも関わらず、それでも私の中に居座る
ただ、
弓を引いて捨てられる程度の感情であればそれでいい。いや、そうあってほしかったのだと思う。
だけど、結局のところ私はそれを捨てることができなかった。であれば、ただそれにひたすら向き合い、自らを鍛えていくしかない。
石を積むように。指折り数えていきながらひたむきに正解を探して努力を積み重ねていく。それが私の全てで、あの子とは違う私にできる、ただ一つのことだった。
ギターをする私を覗く姿を見た。
それが意味することを私は何も知らなくて、だけどはっきりと理解していた。
これまでも幾度となく繰り返してきて、私はそれから背を向けて逃げ出し続けていた。
意味もなく、理由もなく襲い来る災害のように訪れるそれの次の標的は、どうやら私の最後の支柱だったらしい。
「っ、────」
改めて息を整える。
弓を左ひざに置き、右手をゆっくりと腰に持っていく。
感情を乱さないことを意識する。
ただ問題に目を向ける。自分の中に渦巻く物を全て殺し、理性で正面から向き合う。
私はずっと逃げ続けてきた。いつまで逃げればいいのかもわからないまま、ただ恐怖に身を任せて足を動かし続けてきた。
だけど、勉強だって運動だって芸術だって。この世に遍く物事のいずれにおいても私が勝てないというのであれば、私が逃げ切れないというのも当然のことだったのかもしれない。
意識を丹田に収める。
逃げ出していた私をぐっと大地に降ろし、背後にあってそれへとゆっくり向き直った。
あの子はいったい、私に何を求めているのだろうか。
好かれていることくらいは分かる。それを理解できないほどに鈍感でもなければ、人でなしでもなかった。ただ私がそれを受け入れることができないだけだった。
真面目とは真剣勝負ということだ。
私にはそれしかなくて、それだけがあった。
正解を求めてひたすら努力を重ね、結果を得る。それらは全て私の全身全霊をかけた真剣勝負であり、それは全てあの子のちょっとした興味のひとつに踏みにじられてきた。
私の勝負はいつだって負け続きで、だからこそここまでやってくることになってしまった。
ゆっくりと構える。
私達の勝負は、追いかけっこのそれだった。
私が逃げてあの子が追う。そう考えると、私はもしかしてあの子と真剣勝負をしたことなんて一度もなかったのかもしれなかった。
ずっと一緒に過ごしてきて、幼い頃は気にも留めていなかったはずなのに、私はいつからあの子のことを敬遠するようになったのだろうか。
あの子は他人のことを理解できないというが、私もあの子のことを理解できていないという点では何一つ違いなどなかった。
あの子は私と一緒にいたかっただけなんだろうと思う。私程度ではそのくらいしか分からなくて、そこにある愛情なのか、寂しさなのか。それの正体を伺い知ることはできなかった。
一緒にいるために同じことをする。
あまりにも当然な考えで、だけど彼女はそこから生まれる結果を何一つ想像することもできなかったのだろうか。
……できなかったのだろう。
無邪気な彼女は、私のような感情など持ち合わせてはいない。きっと彼女にとって今の私の悩みなど定義すらされていない些細な事象のひとつに過ぎないはずだった。
静かに打起し、力まないように意識する。
見上げる必要はない。気持ちは上を見てしまうけれど、狙いはどこまで行っても正面にしかないはずだ。
私達は同じところから生まれたが、同じところなんてほとんどありはしなかった。
名前に始まり、性格も、能力も。何一つ揃っていることなんてなくて。私はいつだって太陽がいないから存在しているだけの夜に過ぎなかった。
孤独で、寒くて、醜く逃げ惑うだけ。
私達は一つの物を二人で分け合ったはずだというのに、本当にそれは均等だったのだろうか。同じように分かたれた力だったのだろうか。
偏りがないように引分け。
思考がゆっくりと私に近付いていく。だけど、確信を得るようなものは何一つありはしなかった。
避け続け、逃げ続け、逸らし続けた果てで、私はとうとう諦めることを諦めなければいけない段階まで来ているようだった。
もはや私に逃げ道などありはせず、あの子はもう眼前まで迫っていた。
何がしたいのだろう。何を言いたいのだろう。
進学でもして遠く離れてしまえば満足なのか。それとも、もう近寄るなと冷たく遠ざけたいのか。あの子が近付いてくることなんて分かり切っているのに、私はそれを拒絶しきれなかった。
なぜなのだろう。私はまだあの子に何かを求めているのだろうか。
嫌っているのかと問われれば、たぶん違うのだろう。嫌悪ではなく、嫉妬でもなく、ただあの子の姉としての負い目なのだと思う。
だけど、それを理解したところで変わるものなどなかった。
私にとってあの子はとある恐怖の象徴であり、私の限界を知らしめる壁のようなものだった。
心身が一つに会い、じりじりと力が満ちていく。
とめどなく言葉に直された感情を集めて、ただ目線の先にある中央に輝く太陽を狙いすます。
あの子がギターを始めたとしたら、私はそれをきちんと受け入れることができるだろうか。
……無理だろうなと思う。
私に残されたものはほとんどない。
きっとギターすら抜かされて、私の探す答えのその先を出されたら私は正気ではいられないような気がする。それは予感であり、確信だった。
ぞわぞわと這い上がるような暗い感情が集まり、
「……────」
胸廓を開き、張りつめていた二つの力が離れた。
夜と昼の間を切り裂いた矢が、真っすぐに飛んでドス、と音を立てて届くべき場所へと届いた。
姿勢を崩さず、そのままの姿勢でその場所を見つめる。
全身に満ちかけていた嫌な感情から目を逸らさずに弓倒し、正面から向き合う。
「…………」
ただ一射に自分の感情を込めた。
私に取り巻く感情と向き合って、あの子とのこれからについて考えて。
多分、今の私に出せるこれ以上の答えはきっとない。
それが全てで、それしかなかった。
弓をしまい、改めて結果を見つめる。
「────」
霜の降る音は聞こえなかった。