遥か遠き家族への捧詩   作:神話好き

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 多機能フォームの試用や、文章を書く練習兼ねた作品なので、申し訳ありませんが更新がかなり不定期になってしまう予定です。それでも良いという人だけお進みください。


開幕・ある荒神のあらまし

 慟哭すら許されぬ地獄で、顔を上げれば世の遍くを優しく見守る眼が在った。荘厳で、慈しみに満ち溢れていて、その美しさたるや筆舌に尽くしがたい存在。

「何故なのですか、我が愛しの弟よ。禁忌を侵し、理に反してまで何を欲すると言うのです」

「…………」

「胸襟を開かぬのであれば、いかに妾と言えど此度の狼藉を全くの不問とは出来かねるます。そのような事態は望むところではありません」

「おれは……、(おれ)は……ただ……」

 ああ、憎い。目の前の彼女にこのような顔をさせてしまっている身勝手さが、理解していながら止むことなき衝動が、そして何よりも己の我が儘を貫き通せてしまう力が憎い。

(おれ)はこれしか知らぬのだ。奴原は自身を顧みる事すらせず、声高に姉上へ鼎の軽重を問うた。だから切った。(おれ)は暴でしか物事に向き合う手段を知らぬ愚物であると理解していながらも、他の生き方は知らなんだ……」

 誰がどう聞いたところで愚の骨頂。許されざるは明白。捨て置いて貰えるのならいか程この心は軽くなるだろうと、幾度も想った。世界の全てから否定されてしまえば、(おれ)が間違っているのだとはっきりと分かるのに、我が麗しの姉上は斯様にも(おれ)の事を憂いてくれる。どうしようもない碌で無しな自分を、真摯に受け止めようとしてくれる。

「凡百が(おれ)の武を見る。一挙手一投足に畏れが常に付きまとい、上辺だけの敬服はに虚しさしか残らない。故に(おれ)は問おうと決めた」

 結果、追放の憂き目にあおうとも、甘んじて受け入れよう。世はことも無し。(おれ)がいなくとも然したる問題なく世界は廻るだろう。

(おれ)への畏れも忌避も無い。そんな存在からなら答えがもらえるのではと醜く足掻き、縋った挙句の果てがこの有様。やはり己が間違っていたようだ……」

 からりと物音を立てて剣が手の平から抜け落ちる。もう、いい。ここまでだ。悪逆非道の誹りを免れない所業の数々、これ以上を願う資格すら有りはしない。ならば最期はせめて潔く散ろう。この方の手でなら、(おれ)は納得して逝ける。

「貴方は、愚かでした」

「……返す言葉もない」

「ですが、間違っているとは思いません」

「何を――」

 言っているか、と口にしようとして思いとどまったのは、偏に彼女の双眸が(おれ)だけを見ていたからに他ならない。常世を照らす貌ではない。そこに在ったのは、生まれて初めて見るただ一人の姉としての彼女の姿だった。

「妾は決断をしなければならぬ身なれど、今の言葉に一切の虚偽はありません。我が愛しの弟よ、いつか貴方が自分自身を許せた時、今度は本当に意味で家族となれることを祈っています」

「……ああ。ああ……っ!」

 あまりにも予想外の言葉に頭蓋が揺れた。感嘆の嗚咽を漏らしながらも跪き、一度は零れ落ちた剣を取る。ならば、(おれ)が歩むべき道が確か見えた。己は己を肯定してくれたこの人の剣となろう。彼女がどこまでも慈愛で世界を照らすのなら、(おれ)はこの身に宿る強大な武で曙光を護っていこう。そして、いつか―――。

 

○○○

「……懐かしい夢だ」

 感慨深く呟いて小鳥の囀りを聞きながら目を開ければ、未だに薄暗い和室の天井が目に入る。訳あって居候に身を窶して早数十年。この光景も見慣れたものになって久しい。立ち上がり障子戸を開いて庭に出て、日課となっているご来光を拝む。一日として欠かすことなく捧げてきた祈りは、今日も変わらず天へと昇っていくのだろう。

「おはようございます、ミコト様」

「鴉か。うむ、良い朝だ」

「朝餉のご用意が出来ております。御頭様が首を長くして待たれているやもしれません」

「重畳。では参ろうか。邸で世話になっている以上、あまり主を待たせてもいかん」

 手早く和服へと着替えると、丁寧な礼を続ける執事然とした老人、鴉天狗の言伝に従い部屋を出る。

「しかし、八咫が(おれ)よりも早く起きるとは珍しい。ここ何十年かは無かった」

「本日はすず様をお招きするご予定ですので」

「なるほど、合点がいった」

 ということは、(おれ)もそろそろ行動を起こすべき時期が来たか。百までは届かないが、凡そ九十と余年もかかってしまったが、これで漸く目的が果たせる。最も、相手は慎重に慎重を重ねてくるだろうから、此度の悲願の達成はまだ遠くなるかもしれない。

「では、中へどうぞ」

「ああ」

 ふすまが開くと、そこには予定通りに小柄な少年、八咫鴉がいた。

「遅いぞミコト!」

(おれ)が遅いのではない、八咫が早いのだ」

「そうでしょう。なにせ御館様は一睡もせずに朝を迎えましたから」

「そ、それを言うなよぉ!」

 鴉天狗の暴露によって羞恥心に駆られて手を振り回す八咫。狼狽えて顔を真っ赤に染めている様は外見相応にも見えるが、名実ともに八咫烏。これで結構いい年齢のはずだ。はしゃぎたくなる気持ちは分からなくもないが、これでは威厳の欠片も無く少しばかり心配である。

「だが、そうなると親子水入らず、とはいかんだろうが、邪魔者は少ない方がいいか?」

「い、いやー。流石にそこまでミコトを粗雑に扱う訳にもいかんだろう。色々と……、主に私の立場的に」

「む、そうか?(おれ)は別段構わんが」

「ミコト様は時折無茶を仰られますなあ」

「済まぬな。人の世の理にはどうも疎い」

 引き攣った顔の両人を見るに、やはり(おれ)がズレているようだ。武しか取り柄のない身なれど、姉上方のお蔭で名前は世に広く知らしめられている。誇らしいが、必要以上に畏まられてしまうのだけはどうにかならないものか。

「相分かった。遠慮をするなと言っておいて(おれ)が遠慮をするのもまた可笑しな話だ。何が出来るわけでもないが、見届けさせてもらおうか」

「おお、それは在り難い!後世までの自慢になる!」

「後は……、そうだな。酒を振る舞うか手合せくらいしかしてやれん。逗留の対価にしてはちと不足気味か?」

「いえいえ、対価などとんでもございません。ここにこうして存在してくださるだけで、奴らも攻めては来られますまい」

「抑止力、か。もどかしいな。せめて(おれ)の間合いに奴原が入ってしまえば如何様にもしてしまえるというのに。巷では働かない者をニートなどと呼称するらしいが、現状己はそれに近いようだ」

「そ、それは少し違うんじゃないかなー。うん、違う違う」

 うんうん、と何度も納得させるように頷いてから、八咫は一旦箸を置く。面持ちは神妙に。眼光は更に鋭く。朗らかでおちゃらけた雰囲気は霧散し、緊張の糸が張り詰めていく。その口から語られる内容は言うまでもない。此度の己の獲物にして八咫鴉の怨敵、幻咬。その残滓の尾についてだ。

「御身は人の世を阻害しない程度に力を抑えているとお聞きしました」

「そうだ。領分を超えた力はあまり人の世に関わるべきではない」

「もし、もしも、私たちが力及ばず幻咬に敗れ去った時は矜持を曲げてでもあの子を守ってやって下さい」

「御頭!」

「不敬だと言うのならこの首を差し出しましょう。だから、だからどうか!」

 鴉天狗の静止を振り切って、土下座を敢行しようとする八咫の首元に自らの裡より顕現した(つるぎ)の切っ先を突きつける。

「この(つるぎ)を見よ」

 死を予感して固く堅く閉じられていた目が開いていく。緊迫ではない、けれど圧迫感のある神々しさが一帯を包み込み、気が付けば早朝の邸からは鳥の声はおろか、風のそよぎに至るまで全ての物音が消失していた。

「あまり己を見くびるな、八咫。己がこの剣で何を成したか、よもや知らぬ存ぜぬとは言わせんぞ」

 一見、ただの両刃剣らしき形をした鉄塊にしか見えないそれの放つ異様なまでの存在感に、突き付けられている八咫烏だけではなく、傍から見ていた鴉天狗までも心臓まで凍りついてしまいそうな冷たい汗をかいている。返答はおろか呼吸すら儘ならない時間の中で、八咫烏は歓喜していた。例えその身に制限を課していようが、目の前にいる存在がならば、何があろうと残滓程度に負けは有り得ない。

「九尾の全盛ならいざ知らず、尾の二本や三本が束になったところで些末な事よ。理解したなら面を上げろ」

「……試すような真似をして申し訳ございませんでした」

「重ねて言うぞ。見くびるでない。そも、(おれ)が子から親を奪うわけが無かろう」

 軽く笑みを作って剣を消すと、言葉の意味を理解できず咀嚼に勤しんでいる八咫の額にデコピンを繰り出した。

「あだっ!」

「反省しろ、馬鹿者。……む?」

「…………」

「どうやら、気を失っておられますね」

「なら、暫く放って置くか。男児が日がな一日一人で悶々としている様は、あまり目に優しいものでもあるまい」

「……怒ってらっしゃいますか?」

「ふん、そうだな。だが、畏れを受けるは(おれ)が過去に背負った業だ。まったく、(おれ)が八咫烏を、ましてや友を害するなどと思われていたのは少々残念ではあるがな」

 短く嘆息してから席を立つ。咄嗟の昂ぶりは如何ともし難く、発散させてやらねばしこりが残ってしまいそうだ。部屋の片隅に置かれた木刀を掴んでから、顎に手を当て考える。八咫はのびているし、鴉天狗はこの後監視の任が控えている。天狗の弟子、加藤虎太郎も教師としての仕事がある平日の早朝から軽い手合せに付きあわせるのは酷だろう。同じく一乃谷の兄妹も学校。やはり無難に素振りか。そんなことを考えていると、頭の片隅に先日の会話がよぎった。

「鴉よ。その方の監視対象、確か名を如月双七と言ったか」

「ええ。それがどうか致しましたか?」

「素振りの度に一々皆を退避させるのも心苦しいと思っていたところ。もし良ければ(おれ)も出向こうかと」

「私は一向に構いませんが……。いきなりミコト様と対峙などして彼が潰れてしまいまわないでしょうか?」

「なに、手合せをしようというなどと考えてはおらんよ。それでも無為に一日を過ごすよりは余程いい。若人同士の仕合を見るのもまた一興」

「ほほほ、若人扱いなどいつぶりでしょうか」

「そうと決まれば話は早い」

 気配を探ってみるも動き回る意思は感じられない。連日通りに対象の二人は未だまどろみの中にいるらしい。鴉天狗の監視は完璧。警戒心や敵愾心など微塵もない穏やかな眠りの中も今日を境に崩れ去ってしまうかもしれない。さあ、あやかしを祖に持つ人の子は、待ち受ける過酷の最中にどのような道を選ぶのか。此度の降臨、実に心躍るものになりそうだ。

 

 

・・・

 武部涼一。いや、現在は如月双七と名乗っている少年は、酷く混乱していた。元々幼い頃に施設へと収容された彼は、常識には疎いと自覚している。自覚はしていても、恐らくこの状況下でそんな認識はあてになどならない。というよりも、こんな一日が世間一般で言う日常ならば、自分の調べた像と違いすぎて話にならないからだ。

「クソ……っ」

 思わず悪態が漏れる。施設のある島から逃亡して一日たりとも平穏は無かった。それはいい。覚悟の上だ。けれど、この街に入って以降に関してはどうにも認識が甘かったと言わざるを得ない。敵はドミニオンの追手だけだと楽観視し、監視にも気づけない体たらく。更に言えば昼間の鴉と名乗った老人とつい先ほどの生徒会役員との戦闘、既に計二回の敗北を喫してしまっているではないか。自惚れていた。島からの脱出劇がなまじ上手くいってしまったから、高々十年近く憲法の真似事をしただけの自分がそれなりなんじゃないかと慢心してしまったのかもしれない。

「悔しいのは分かるがその辺にしとけ、如月。詳しい事情は知らないが、御頭様も悪いようにはしないだろう」

「それは……、そうかもしれませんけど」

「遅かれ早かれこうなっていたかもしれないんだ。だったら悩むべきはこれからのことにした方がいいとは思わんかね?」

 双七が隣ですやすやと寝息を立てるすずの顔を見ると、同時に乗っていた車のスピードが落ちる。どうやら目的地に着いたらしい。

「来たか」

「――――……っ!」

 車内に満ちる煙草の匂いから逃げるため速やかに降車し、玄関口らしき場所へと向かっている途中に、漆黒の長髪をそよがせる一人の和服に身を包んだ男性が現れた。いつの間に、どうやって、ただ佇んでいる男を一目見てそんな思考は吹き飛んだ。気配が違う。存在が違う。力が違う。いつ?どうやって?答えは簡単。いつだってどうやったって、だ。この人にはそれが出来るだけのこと。終始纏っている雰囲気だけで緊張して呻き声すら出てくれない。

「ミコト様。態々出迎えなどしていただかなくても」

「中でアレがどうにも五月蠅くてな」

「……なるほど。そういう事情でしたか」

 突然現れた彼は虎太郎先生や刀子先輩と二、三言葉を交わすとこちらを見る。よもやこの人が御頭様なのだろうか。だとしたら、どうすればいい。力ずくとなってしまえば成す術なくすずを奪われてしまうのは、どう足掻いても避けられない。

「怯えるでない、人の子よ。(おれ)はこの件に関して手出しをする心算は無い。まずは邸へと入るがいい。貴様らを呼びつけた張本人が待っている」

 まるで自分は人ではないような言い分も、つっかかりなく流れ込んでくる。それはそうだ。だって鴉さんの時よりも数段この人が同じ人間だなんて思えないのだから。

「無駄に緊張させてしまったか。まあ、許せ。まともな神経を持った人間と接するのは稀なこと故に慣れていないのだ」

「えっ!?あっ、はい!」

 呆気にとられながらも返事をすると、ミコト様と呼ばれた彼は表情を変えることなく身を翻して邸の中へと入っていった。その後ろを虎太郎先生と刀子先輩が、更に後ろを僕たちが着いていく。相も変わらず緊張感はものすごくて、立派に手入れを施された庭や古くても綺麗な作りの家屋まで気を回す余裕も無く、逃走経路すら覚束ないままあれよあれよと、あっという間に鴉さんの待つ部屋へと通されてしまった。

「お手数をおかけしました、ミコト様」

「良い。この程度を手間とは思わん」

「皆さんもお揃いのようですので御頭様を……、とその前に――失礼」

 いつぞやと同じくいつ動いたのか分からない速さで、鴉は双七の担いでいたすずを軽くポンと叩く。いや、叩くと言うと語弊があるくらいに優しく、割れ物を扱うようであった。警戒していたのがバカらしくなるな、なんて考えていると、これまた心配していたのがアホらしくなるくらいあっさりとすずは目を覚ました。

「すず!」

「ふ、ふぇ……?あれ、ここどこ?」

 混乱しながらも聡いすずは、鴉の姿や見慣れない部屋から現状を説明するまでも無く理解したようで、肩から降りても尚、袖口をぎゅっと掴んで離そうとしない。特に怯えが尋常ではない。双七も臆病な自覚はあるだけに理解できる。すずの様子は明らかに異様だ。

「では、御頭。お入りください」

「…………っ」

 その瞬間をすずと一緒に固唾をのんで、一瞬呼吸すら止めて待って……。

「ご苦労だった―――」

 軽い笑みから表情を変えない鴉と、偉そうに出てきた子供を三度交互に見詰め、言外に何かの間違いではないかと訴えかける。が、駄目。このどう多く見積もっても十歳と少しあるかないかの少年こそが御頭様。なんと悪い冗談だろう。唐突に頭痛と眩暈がしてきた。

「……やはり、貴様に足りないのは威厳のようだな」

「ミコト様、それ以上は。御頭も結構気にしておりますので」

「だぁー!なんだその反応は!ていうか大前提として少なくともミコトと鴉はこっち側であるべきだろう!?白状者か!?」

「今朝方に白状者として扱われたと記憶している」

「ぐ、ぬぬぬぬ……」

「あの」

「ん?ああ、そういやいたね、君。すっかり忘れてたよ」

 目の前で繰り広げられる茶番に痺れを切らして声を掛けたことを即座に後悔させる応対を経て確信した。如月双七はこいつを馬が合わない。人生経験豊かとは言い難い歳月を重ねてきた双七でも、初手で喧嘩を売ってきた輩は初めてだ。第一印象は最悪だし、ふざけた態度がそれに拍車を掛けているのも事実だけれど、一切合財を黙殺してでも問わなければならないことがある。

「何でこんなことをしたんだ。俺やすずだけじゃなく、一乃谷先輩たちまで巻き込んで」

 剣呑さを前面に押し出してそう言った。気に障ればどうなることか分かったもんじゃないのだろうが、どうでもいい。場合によっては……。

「自分の力なら、一秒でここまで辿りつくことが出来るから殴ろう、なんて思わない方がいいよ」

 憮然として容易く双七の腹の内を探って見せた少年は、こちらの動揺に興味すら持たずに続きの言葉を紡いでいく。

「私が鴉をあてがって一乃谷の坊やに戦ってもらったのは、他でもない君のことを試しておきたかったからだよ。……尤も、鴉が戦ったのは自らの意思だけどね」

 瞬間、理性が暴力的な奔流に飲み込まれた。

「俺を試すだなんてことの為だけに……、そんな下らない事に他人を巻き込むな……!」

 激しい怒りから捻出された罵声も、その言葉に目の前の少年が放つ怒気に飲み込まれて虚しく潰える。

「何が……何が下らないか!君は―――」

「八咫、落ち着け」

 空気が凍る。隣にいるすずの震えだけが立ち上がる力を双七に与え、文句もまだまだ言い足りないのに、人とは思えない者たちの会話を見つめることしか叶わない。

「気持ちは分からなくもない。しかし、事情を知らぬ者にいくら怒号を重ねたところで意味は無いだろう」

 ミコトの諌めに、少年は激昂した勢いに任せて胸倉を掴まんとしていた腕を引っ込め、バツの悪そうな顔で口を開く。

「……君がすずと名付けた彼女は、君の隣にいる彼女は、そんじょそこらの化け狐なんかじゃない。この世界において最高位の零位を持つ白面金毛の大神獣。九尾の狐の最期の末裔なんだよ」

 呼吸を忘れた。白面金毛九尾の狐。その名前はこの国に住んでいて知らない人がいないくらい有名な名前だ。伝説上を生きる神にも等しい存在。そんな馬鹿なと否定できればいいのに、場の雰囲気が、御頭と呼ばれた少年の眼差しが、俯いているすずの態度が、覆しようのない事実であると示している。

「いいかい、彼女は妖怪なんだ。その意味を深く理解しろ。神にも勝る存在が、どうして人間の生活に交わることができる。三千年を生きる私やそこにいるミコトですら神経をすり減らしながら人間と関わりを紡いでいるというのに、若い彼女にそれが可能だとは思えない」

 咄嗟に名前の出たミコトへと視線を注ぐ。先の会話で、彼はまともな神経を持った人間と接するのは稀だと言った。詰まりは悠然と腕を組み成り行きを見守っているこの男性ですら、人と密接になることを避けているのだ。

「それでも……。猶予は与えたつもりだよ。だけど君は生かせなかった。今日の失敗に、鴉と一乃谷の坊やとの二度の敗北。流石にもう傍観してはいられない」

 御頭の持つ雰囲気が激化し、とうとう少年の形をした何かにしか見えなくなった。瞳の奥の輝きは心の裡など既に見通しているぞと強制的に理解させられ、言霊など使われていないのに、視線を逸らすことが儘ならない。

「聞くよ。君はそれでも彼女を護ると誓えるか?これから先相手取るのは、私や鴉と同じく人外のあやかしだとしても、絶対に救って見せると言えるのか?答えろ。高天原に御座す天照大神に誓え。さあ、さあさあ!」

 隣にいたすずが御頭の言葉に息をのむのが伝わってくるが、どうしたと聞いてやれる余裕は無かった。限りなく真っ白に近い思考の渦の中、一刻も早く答えねばならないのに、如月双七はその答えを手繰り寄せることが出来ない。御頭の荘厳な雰囲気に飲まれたからではない。むしろ、目の前の存在はそうならないように配慮すらしている節があるのに、誓えるの一言を送り出せない。覚悟はしてきたつもりだったけれど容易く打ち砕かれた。それなりに戦えるよう鍛えていたけれど、軽くあしらわれた。なら、どうする。本当に誓えるのだろうか。堂々巡り。答えは出ない。御頭が何を言わんとしているのか、告げられるまでも無く理解している。確かにここなら安全だ。双七を乾杯させた鴉を配下に持つ御頭と、同じく双七と比較するのが烏滸がましいレベルの開きがあるだろうミコトがいる。委ねるのが最善だ。そんなことは決まり切っているのに。

「分かりません」

「…………」

 唖然とした御頭を尻目に双七は粛々と胸中を晒す。

「俺はすずと一緒にいたいと思っています。だから、すずがどうしても人間と相容れないというなら、俺は……」

 傍らで怯える少女を見る。小さな小さな、守っていくと決めた少女。事情があろうと、特別だろうと、この気持ちは嘘じゃない。掛け替えのない家族の為ならば、何だってやろう。

「俺の何よりも大事なことは、すずと一緒にいること、ですから。すずがどうしても厭だと言うのなら、俺は諦める。学校だって辞めたって構わない」

 意を決した一言は、果たして届いてくれただろうか。

「……潮時だ、八咫。一先ずは引き際としておけ。経験上こうなった輩は梃子でも動かん」

「ミコトが言うと説得力あるんだよなぁ……。あー、もう!分かった、分かったよ!」

「へ?何?」

「いいよもう。認める、認めるよ!君たちを引き離そうとした私が間違いだった。まったく……、鴉が勝手に仕掛けた時から嫌な予感はしてたんだ」

 がっくり肩を落として深いため息をつく様は年相応で、あれだけ鋭かった眼光も見る影なく成りを潜めた。

「こうなったなら、君たちには話さなきゃならない話がある。が、その前に、ミコト」

「応」

 その一太刀は、部屋の隅にあった何の変哲もない木刀を用いて、誰にでも知覚できる緩慢な動きと、対象を優しくなぞるような力で行われた。総身を怖気とはまた別種の感覚が駆け巡り、例外なく全ての皮膚が粟立っているのが分かる。ストンとふすまが崩れ落ちようやく認識に体が追いつくなど、尋常な事態ではない。剣を扱わない拳法家であろうとも、何気なく行使されたそれが凄まじい技量の頂に位置すると悟った。もしも、御頭に拳を叩き込もうとしていれば、今頃両断されていたのはふすまではなく生まれてこの方慣れ親しんだ両の腕だったかもしれない。

「うわ!」

「きゃあ!?」

「……っ!」

 ゆっくりずれたふすまの向こう側から顔を覗かせたのは、神沢学園の制服を着ている見知った三名。小柄でツンツン頭の上杉刑二郎。眼鏡をかけた理知的な女の子、七海伊緒。見事な銀髪を揺らす目つきのキツい少女、トーニャ。

「もう、しょうがないわねぇ。刑二郎くんも、伊緒さんも、トーニャさんまで」

 刀子の言葉に少しの間気まずそうな沈黙が流れ、刑二郎は観念したようにその場へどかりと座り込んだ。

「分かった分かった。降参だ。忍び込んだりして悪かったって」

「アンタはどうしてこの状況で上から目線を貫けるのよ!」

 流れのままに啓次郎が伊緒にぶっ叩かれる茶番を経て、浮足立った雰囲気も一段落。気を取り直して今度こそと御頭がその口を開いた。

「最初に改めて自己紹介を。私の名前は八咫烏という。御頭でも八咫烏でも八咫烏様、好きなように呼んでくれて構わないけれど」

「やっ、八咫烏!?」

 驚愕と困惑をない交ぜにした声は至極当然の物。大いなる慈母、天照大神の遣いとして名を馳せる、この国で生まれ育ったのなら一度は耳にしたことのある芳名の持ち主。

「やっぱりそうなのね。鴉天狗が傍についているから、薄々そうじゃないかとは思ってたんだけれど、貴方は本当に天照大神の遣いだったんだ」

「さっきそう言ったろ?高天原の天照大神に誓えるか、ってね。何しろ私の……ええと、上役だから」

「でも、だとしたら貴方はいったい何者なの?八咫烏と一緒にいるのに、妖怪の気配が感じられないなんて」

 訝しいのに、嫌悪感を持てない。自分が何者かすら判別できない者との邂逅はすずにとって初めての経験だった。だからこそ、すずは人一倍敏感である自身の嗅覚から齎された真っ白な雪原を思わせる悪意の無さを信じることにした。

「済まないな、狐の少女。(おれ)の名は世に影響力を持つが故、軽々しく明かすことは出来んのだ」

「そんな、じゃあ、まさか……。本当に?」

「ふむ、聡明なようで何より。あるいは、母から(おれ)のような存在について聞き及んでいたか?」

「……すず?」

「信じられない……。この人、正真正銘の神様よ」

「然り。八咫の言葉を借りるならばこの身は上役が一柱。務めを果たさんが為に百年ほど前からここで根を張っている。仮初の名ではあるがミコトと呼べ」

 既に存在を知っていた虎太郎先生や刀子を除く全員、八咫烏の名を聞いても首をかしげていた刑二郎も含めて、が目を見開く。神様。すずがそう言い本人がそれを肯定したのだ。本当に、今目の前に立っている男性は神様なのだろう。

「か、神様!?マジでかっ!?」

「ふむ。名を騙る者が信に値しないのも道理か。丁度いい。一つ余興を挟もう」

 そう言って髪を数本切ると、瞬く間に植物へと変化した。

「……ん?ミコト、私の目に狂いが無ければそれは蒲だよな。なんだか見覚えがある上に途轍もなく嫌な予感がするのだけれど」

「案ずるなかれ。アレは少々喧しいきらいはあるがサポート役としてはこれ以上なく適材だ。それに、狐の少女にも一人くらいは長命ならではの悩みを相談できる知己がいた方がいいだろう」

「やっぱり!私はあのあざとさの化身のような年増が大の苦手なん―――」

「御呼びとあらば即、惨、状!立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花ぁ!出雲の地より一っ跳びで馳せ参じたるは、白磁の御櫛を振り分く謎の美女!而してその実態は……」

 突然現れ、語尾に星マークが見えてきそうなハイテンションで見栄を切り始めた女性に対し、この場にいるほぼ全員の脳は暗黙の裡に理解を完全に放棄していた。

「数多の神々の末席に名を連ねる白兔神、因幡の白兎とは、あ、私のことぉー!」

「ちぃ!遅かったか!」

 ド派手な登場シーンの最中では半ば白目を剥きかけていながらも、八咫烏の悪態は早かった。手元から除くのはおそらくライター。正気とはとても言い難い血走った目を見るに、室内であるにも関わらず蒲を焼き払おうとしたらしい。

「やや、これはこれは!久方ぶりの召喚、どちら様かと思いましたら大旦那様じゃねーですか!壮健なお姿を拝見出来て、ウサギは幸せに御座りまする」

「変わりないようで安心したぞ、ウサギよ。うむ、実に良い元気だ」

「あいや、勿論!いついかなる時でもウサギはウサギであります故に!」

 白煙と共に現れて因幡の白兎と名乗った女性は、一人だけ三倍速で動いているかのように目まぐるしくぴょこぴょことミコトの周りを駆けずり回っている。

「うぉっほん!あー、ここは私の邸なんだけど」

「んん、なんですなんです?ぴーちくぱーちく五月蠅い囀りが聞こえると思ったら八咫烏のクソガキ、もとい小僧じゃねーですか。ご覧とおり今とっても忙しいので何か御用があるなら神社を通して下さいまし」

「……駄目だ。こんなのが同じ神獣だと思うと頭が痛くなってきた」

「その言葉、そのままこちらの台詞。おっと、反論は受け付けません!自分の糞で調合した傷薬を秘薬と称して他人に塗りたくる変態さんなんかに弁解の余地はありません!公判待たずしてギルティです!」

「その辺にしておけ」

 八咫烏が毎秒事に額に青筋を増やしていくのを見かねてかミコトが声を掛ければ、仰せのままに、と快活な返事をして後ろに控える。嵐のような人、ではないか。登場の際のが本当なら兎の神様だし。

「むむむ、しかし妙です、妙ですよ!大旦那様が現界しているにしては長閑過ぎやしませんか?」

「此度の相手は非常に狡猾でな。期が熟すまでは雌伏を余儀なくされている」

「なんと、ではではとうとうあの往生際を弁えない悪孤を滅するのですね!我らが治める神州にしつこく巣食う闇とて、大旦那様のお力添えがあれば一巻の終わりで御座いましょう!」

「鴉、八咫。そういう事で少し席を外させてもらう。使役の為に細かな契約を定めなくてはならんからな」

「ああ、もう。好きにしてくれ……」

 最期に部屋の中にいる全員、特に疲れ切った顔をした八咫烏、を一瞥してから、ミコトは部屋を出ていった。言葉節は丁寧であっても、如月双七の日常を散々かき回した八咫烏が散々振り回されるのだ。私見を胸中から出すことは無くとも、満場一致でもの凄くとんでもない人物として纏まった。

「はぁ……。じゃあ、気を取り直して話の続きをさせてもらうよ」

 眉間を抑えながら気だるげに、八咫烏はとある妖怪の昔話を始めた。加えて、その先に立ち塞がる宿敵、幻咬との因縁を。

 

 

・・・

「しかし大旦那様、呼んでいただいたのは大変喜ばしいのですが、態々御身の一部を憑代にしてまでウサギを召喚する必要などなかったのでは?」

 八咫烏の邸で自室として宛がわれている部屋へと、それまで静かに後を着いて来ていたウサギが我先にと畳の上を転がって小首を傾げる。

「ウサギは治癒や援護に秀でていますけど、大旦那様が怪我するとは思いませんですし、八咫烏でも十分じゃねーですか?」

「もしや迷惑だったか?」

「いえいえ、滅相もありません!ただ、理由があるなら仰っていただいた方が盤石のサポートをご提供出来ると思いまして。これでもウサギは久々の召喚で張り切っているので御座いますよ!あ、ちょいちょいっと出歯亀さん遮断結界を張っておきましたから聞き耳の心配ならしなくて大丈夫です!」

 嬉しそうに耳を交互に折りたたんで微笑んでいながらも、仕事は早い。己が力任せに大規模なやり方ならば、ウサギのは緻密でどこまでも繊細な手法。展開する速さも申し分ない。

「いつ見ても見事な手際だな。片手間でこれとは」

「ウサギは鴉の坊やや稲荷の夜叉狐と違って手弱女でございますからねぇ……。小手先の業ばかり長けてしまいがちなのですよ」

「自分を卑下するのは悪い癖だぞ、ウサギよ。他でもない(おれ)が見事と言っているのだから、貴様は堂々と胸を張っていればいい。万が一にも貶める輩が在れば直々に出向いて成敗してくれよう」

「……ふふふ。大旦那様は相変わらずお優しい。高々畜生一匹の為にそこまで申してくださるとは、このウサギ、感涙の極みで御座いまする!」

「詮無きこと。あ奴の眷属であるならば、貴様は(おれ)の家族も同然だ」

 心なしか静謐になった室内の空気を切り裂いて、一振りの(つるぎ)が顕れる。二尺八寸の白刃は、神聖にして侵しがたく。刃先は菖蒲の如き形をした太刀。

「まずは、そう。大前提として神は遍く万象の外側に位置する超越者でなければならない。それが八咫を追陪から外した一番の理由だ」

「ありゃま、あの子狐からした静珠ちゃんの匂いはそういうことでしたか。いやはや、時間が経つのは早いですねぇ」

「第二に、これは(おれ)の問題なのだが、自覚がある程度にとっつき難い(おれ)では昨今の日の本に馴染むのは困難でな。縁結びを司る神社の主である貴様なら、文化的な面でも長じていると考えた」

「色恋は青春の華。御主人の縁を結ばせて頂いたが故に、神離れの進む今のこの国でも若い参拝客がわんさか押し寄せてくれまして。ええ、非常に在り難いことに、最近では落書きのおまけ付きですが」

「そして第三。最期の理由は……、貴様が目を逸らしているこの(つるぎ)

 せわしなくあちこちを見回していたウサギがびくっと肩を跳ねさせる。冷や汗をかきながら、あれだけ露骨に目を逸らしておいてバレていないつもりだったのだろうか。

「お、おおっと!ウサギはそろそろお休み時間で御座います!まこと、汗顔の至りではありますが、話の続きはまた後日、ということでいかがでしょうか?」

「この(つるぎ)を一時の間貴様に預ける」

「いやぁー!どうかご勘弁を、大旦那様!ウサギは畏れ多すぎて死んでしまいます!八百万の嫉妬で胃が穴だらけになってしまいますぅー!」

「白兔神は医療の信仰対象でもあると伝え聞いている。問題あるまい」

「うちは外傷専門なんですよぅ……」

 速やかに遁走しようとしたウサギの首根っこを掴み、着々と必要な手続きを踏んでいく。一時的な所有権の貸与と、緊急時に発動する防壁。使う機会など皆無だろうが、道具は使ってこそ。己から言わせれば、折角水底から回収したのに無駄に腐らせておく方が罰当たりである。

禊祓(みそぎはらえ)。ここに天神地祇(てんじんちぎ)が一柱、誓約(うけい)を以て事を成す。証は(これ)、この至高が一振り。銘をば八重垣(やえがき)。我らが慈母の御座(おわ)高天原(たかまがはら)へと名を轟かす、神代三剣が一つ也」

「謹んでお受けいたします。…………ああ、さようなら。ウサギの安寧」

 光が広がった。眩く暖かい太陽のような光は、剣とウサギを瞬く間に包み込み、認めで分かる契約の証として変化する。ともすれば小柄なウサギでは持ち運びすら困難だったであろう(つるぎ)はその大きさを変え、一寸五分ほどの首飾りとして鎮座した。元のをそのまま小さくした意匠は女性が身に着けるには武骨すぎるかもしれないが、そこは我慢してもらうしかない。下手に削ったりすると、欠片から新たな何かが生まれてしまう可能性を孕んでいるからだ。

「契約は恙なく完了した。(おれ)の助力に際しては気苦労多くなるやもしれんが、これも世の為と納得してくれると助かる」

「むうぅ……。でもまあ、よくよく考えてみれば大旦那様の無茶は大昔からの茶飯事。ともすればこのウサギ、身に余る期待を損なわぬよう粉骨砕身の心で誉れある大役を務めさせていただきましょう!」

「うむ、宜しい。頼もしい限りだ」

 かくして、どこまでも優しげな曙光の元に物語は幕を開ける。主役を張るは太古の約束か、古き因縁か、はたまた芽吹いたばかりの親愛か。それはまだ誰にも分からない。それこそ、神様ですら。

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