「『蜘蛛の糸』という話がある」

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第1話

「『蜘蛛の糸』と言う話がある。」

読んでいた本を閉じ天井に吊るされた仄明るい照明を見ながら男は少女に話の水を向ける。

 

男(名を神田という)は人間であり、少女、黒谷ヤマメは妖怪であった。理を異にする二つの存在がこの部屋には入り混じっていた。

部屋と言っても人間が住むような木肌の部屋ではなく、岩窟の中に無理矢理居住スペースをねじ込み造られた部屋だ。常に薄暗く、四方八方は岩肌に囲まれている。この部屋は黒谷ヤマメの部屋であり、人間である神田は訳あって妖怪である黒谷ヤマメと衣食住を共にしていた。

 

寝具の上で暇そうに寝転がっていたヤマメは怪訝そうな顔をして神田を見た。

 

「火事、殺人、あらゆる悪事を重ねて地獄に堕ちた男の話だ。

男は極悪人であったが生前一つだけ小さな善行をした。道端を這う蜘蛛の小さな命を儚んだっていうただそれだけのことだ。

その為に極楽から地獄を覗いていた御釈迦様が憐れみ、男に助け舟として一本の細い細い蜘蛛の糸を垂らした。

男は縋る思いで糸にしがみ付き登っていく。が、他の罪人まで糸を伝って付いてくる。

糸が千切れるのを焦ったか、男はこの糸は俺のものだお前ら下りろ下りろと喚く。

途端、糸は千切れ男は地獄の底に落っこちてしまった。」

 

「殊勝な男が理不尽な報いを受ける悲しい話だね。」

ヤマメは両の手を水平に目の下に当てがい、よよと露骨に泣き真似をして見せた。

 

「お前は蜘蛛の命にどれほどの価値を置いてるんだ。」

「一寸の蜘蛛にも九割九部九厘の魂と言うでしょ?」

「だいぶ欲張ったな。」

 

呆れたという顔の神田にヤマメは「どうして今その話を?」と訊いた。神田の顔が神妙な面持ちに変わる。ヤマメにはその瞳に些かの不安の色が見てとれた。

 

「俺が此処に来るまでのことを考えていた。」

 

神田がこの稀有な生活を送るにはそれなりの経緯があった。

いったい神田は外来人と呼ばれる幻想郷の外から来た人間だった。右往左往して運良く人里に着いた神田は、その境遇を憐れまれ、とある心優しい商家に奉公人として身を置く事になった。神田の属性は真面目で仕事は卒なくこなし、また人間関係を怠る事もなかった。

その様な真面目が功を奏し、幻想入りして数年、神田はその商家の娘をもらい、自らの商店を開くまでに至った。

 

全てが順調であった神田に転機が訪れたのは店を開いて四、五年経ったある日のことだった。

神田の妻が流行り病を患った。この病は適切な処置をしても、その生き死には天命に任せるしかないような恐ろしいものだった。

神田は店を仕舞い粉骨砕身して妻の看病をした。が、その甲斐虚しく妻は呆気なく逝ってしまった。

 

神田の悲劇は無慈悲にも此の儘では終わらなかった。

今度は直近に神田と出会った者、神田と親交のあった者など神田に関わった者が次々と流行り病に倒れていった。それでいて奇怪なことに神田自身や神田に関わらなかった者が病に臥すことはなかった。病は神田の周りで完結していた。そのためいつしか”神田は疫病神”という噂が流れ広まっていった。神田を見る人々の目は恐怖と軽蔑に変わっていた。

 

居場所を追われた神田は人里の離れ家に住まざるを得なかった。神田は孤独と人間不信からすっかり神経衰弱に陥り、日常生活もままならなくなってしまった。そんな時ただ一人だけ健気に神田に献身する者がいた。それが黒谷ヤマメだ。彼女は神田の商店の常連だった。神田は自分と関わって猶、病に罹る様子のないヤマメを不思議がりその訳を問い質した。ヤマメは素直に自分が妖怪であり、人の病に罹るわけがないと答えた。

神田はヤマメが妖怪であることを聞いて驚きはしたが、全く恐れはしなかった。神田はもう自分に縋ることができるのは彼女しかいないと感じていた。

 

そこからヤマメは週に三、四回神田の家に通うようになった。そしてそんな日々が続いたある日、ヤマメは神田にある提案を持ち掛けた。妖怪の世界なら貴方は今より幾分も自由な暮らしができる、私の処に来ないか、と。神田には考える必要もなかった。神田は快く承諾し、斯くして人間と妖怪の奇妙な生活が始まった。

 

「あの時のお前はまさに地獄で白々と輝く蜘蛛の糸の様で」

 

「それで、改めて私に感謝してるの?いやー照れるね。」

ヤマメは照れくさそうに頭に付けた大きなリボンを引っ張った。

 

「ふと思ってしまった。どうして俺は地獄にいたのか。」

神田は依然として静かに揺れる照明を見て、いや、決してヤマメの顔を見ないようにしていた。だが明らかに場の空気が冷たく変わっていくのを感じていた。

 

「思えば訳の分からない事ばかりだった。俺に関わる者だけが病に罹りそれでいて俺は罹らない。まるで誰かの意図で俺は地獄に突き落とされたみたいで、それからお前という蜘蛛の糸が都合良く降って来た。思ってしまった。俺はまさか蜘蛛の糸に助けられたのではなくて、蜘蛛の糸に絡め取られたんじゃないかって。」

 

神田の頬を冷や汗がすうっと伝っていく。神田の頭の中で点と点が繋がろうとしていた。だが神田はすぐさまそれを有耶無耶にした。自分にはもう目の前にいる妖怪しか信じられず、点と点が繋がって仕舞えば必然と自分はどうしようもない破滅に向かうと感じていた。

 

「なんてな、冗談冗談。」

神田は苦笑しながら目の前の妖怪少女に向き直る。ヤマメはくつくつと笑いそれから耐え切れず大きな声を上げて笑った。

 

「恩人に向かって何だその冗談は、このこの」

ヤマメは両の人差し指を前に出し、心底楽しそうに交互にチクチクと神田の腹を刺した。

 

「悪い悪い。そろそろ飯時だ、夕飯の材料買いに行くか。今日は何がいい?」

そう言いながら神田は財布と鞄を手に玄関へ向かった。

ヤマメは「鍋がいい」と答えながら、玄関に向かう神田の後を追った。

 

神田にはもう選択肢がなかった。だが今のままでも十分幸せだった。例え蜘蛛の糸に絡め取られていようが構わないとも感じていた。

 

 

だから

 

 

向き直った時一瞬見えた

 

 

彼女の

 

 

能面のように張り付いた冷たい笑みを

 

 

神田は早々に忘れようと思った。

 

 


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