肉塊の魔女 作:なな
「未知の事態になったら撤退しろ」――カルメウスの指示に従うなら、騎士たちはすぐさま逃げるべきだったし、彼ら自身そうする気でいた。
この森の恐ろしさは身をもって知っている。霧に満ちた樹々の間から、殺意に満ちた獣たちが襲ってくる。いくつかの種とは交戦を重ね、対処法も分かっていたが、依然として未知の森であるには違いない。
だから未知に遭遇したときは必ず逃げること。
何かあれば、たとえ仲間を見捨ててでも、村に情報を持ち帰らなければならない。
だが、それは騎士たちの「未知」からも外れた存在だった。
森で出遭った恐ろしい獣たちは、初めて見る存在でも、彼らの常識に収まる範囲の未知だった。それらは鳥や狼や鹿の延長にある、つまり禽獣の括りで理解できる相手に過ぎなかった。
しかし、目の前にいる、このおぞましい肉塊は。
「来るなあああああああ!!!!!」
ドルマンが小屋から飛び出たとき、見張りの騎士は恐慌をきたしていた。
肉塊が触手じみたものを伸ばしてくるたびに悲鳴を上げ、狂乱しながら剣を振り回している。技術も何もあったものではなく、迂闊に近づくこともできない。
いくら荒い剣筋とはいえ、そこは騎士だ。当たれば人体くらいやすやすと切り裂く斬撃である。それなのに、切り付けられても触手にはまったく傷ついた様子がない。すべて跳ね返されている。
ただ肉塊も絶叫しながら剣を振り回す男には警戒しているのか、慎重に距離をとり、ゆっくりと触手を動かして様子を窺っている。
その光景がドルマンには恐ろしい。
まるで目の前の肉塊が知性を持っているようで。
そんな思考を見透かしたかのように、肉塊はこちらへ顔を向けた。
「譟ソ縺ョ遞ョ」
ドルマンの背筋を悪寒が走り抜けた。
これはまずい。触れてはいけない。とにかく関わるべきではない。肉塊を見た瞬間に凍り付いていた思考が再開し、カルメウスの指示を思い出す。
「――ッ! 撤退だ! 今すぐ逃げる!」
「でも、まだあいつが戦ってます」
「もう奴を正気には戻せん! 我々だけで逃げるしかない!」
自分同様に思考が停まっていた様子の鎧騎士を怒鳴りつけ、ドルマンは獣人少女の姿を探した。
しかし先ほどまで背後にいたはずの彼女は、あろうことか肉塊に近づこうとしていた。触手と剣が交錯する危険地帯へ、無防備に走り寄っていく。
「止まらんか!」
ドルマンはとっさに彼女の襟首をつかんだ。しかしなおも少女は足を止めようとしない。
そればかりか、敵意に満ちた表情でこちらを睨み返してくる。
「お前たちこそあの人間を止めろ! 魔女さまに何をしてるんだ!?」
「魔女、あれが?」
信じられない思いで少女と肉塊を見比べる。
彼女は言ったはずだ。あの小屋で魔女と共に暮らしており、そのために小屋を離れられないと。その相手が、あの醜怪な化け物だとでも言うのか。
そのときドルマンの脳裏に思い浮かぶ知識があった。
特殊な分泌物を出すことで知られる植物がある。その分泌物を精製した物質は幻覚剤に用いられ、中毒症状を発した人間は精神に異常をきたすという。
そうなると完全に人が変わってしまい、妻の姿が化け物に見えて襲い掛かったり、逆に何もない場所や野犬に向かって求愛することもある。
この少女も、あの化け物になにか投与されたのではないか。あるいは、それこそがこの肉塊の力なのか。そうでなければ、腕の中で本気で暴れる少女の姿に説明がつかない。
身体能力に優れた獣人とはいえまだ子供だ。ドルマンは無理やり少女を抱え上げると、鎧の騎士に投げ渡した。
「この子を連れて先に逃げろ!」
「先にって、ドルマンさんは!?」
「暴れるようなら気絶させても構わん。私はこいつが追ってこないよう食い止める」
「あんな化け物相手に無理ですよ! 一緒に――痛ぇ!」
拘束が緩んだ隙をついて、クロンは騎士の指に噛みついた。牙が骨まで届いた感覚とともに、身体は地面に投げ出される。
魔女と別れ、人間どもの集落に連れていかれるというのは、彼女にとっては死刑と同義だった。
一方で親指に噛みつかれた騎士は、あまりの痛みに一瞬我を失っていた。
そもそも彼にしてみれば、獣人の少女を連れていけ、というドルマンの指示が不満だったのだ。仲間の騎士を助けるならともかく、少女とはいえ敵国の市民。あんな怪物を前にして、なぜ人間たる自分が命を懸けて獣人を助けなくてはいけないのか。
「クソ、いい加減にしろ!」
激高とともに倒れた少女に馬乗りになると、腰の剣を引き抜く。
教練で何度か試したことがあった。柄で眉間を殴りつけ、気絶させる技術。当たり所が悪いと相手を殺してしまうが、彼にはそれなりに自信があった。獣人の丈夫さなら死なないだろう、という計算もある。
いずれにせよ倒れたクロンからは、怒り狂った人間が剣を振り下ろしてくるように見えた。
そうして。
クロンは生まれて初めてその言葉を口にした。
物心ついたときからそんなものは無いと知っていて、応えてくれる相手がいないことは明らかで。
だからどこまでも空虚で、心に浮かべる価値もない、今までの彼女にとってまったく無意味だった言葉を。
「
……その言葉の意味は知らずとも。
恐怖と嫌悪に満ちた視線で睨まれ、信頼に満ちた視線で助けを求められた肉塊は。
きっとこう見えたのだろう。人間が獣人を無理やり連れ去ろうとし、それに抵抗されたことに腹を立て、首筋に刃を突き立てるのだと。
あるいは知らなかったのかもしれない。森の外にいるただの人間が、森の獣たちとくらべてどれほど脆いかを。
若い騎士は口元に怒りを残したまま、背後の幹へと吹き飛ばされ、不自然に捩れた姿勢で動かなくなる。
その胸元から、光り輝く欠片が地面に転げ落ちた。
それは彼が不器用な妻に持たされていた魔除けのお守り。
小さな小さな円い鏡が、枝葉を透けて降り注ぐ太陽の光を返している。
その、罅割れた鏡に映った己の姿と。
相変わらず狂乱する騎士の姿と、新たに剣を振りかざした人間の姿を見て。
肉塊は一度、大きく震えた。
ど、どうしよう。どうすればいい? 死体が、人間の死体が、一人、二人、三人? 正当防衛? 殺人犯?
俺は化物なのか?
いや、でもまだバレてない。誰にも見られてない。じゃあ証拠隠滅だ、死体がなければ行方不明だ、だれかに訊かれてもそんな人たち見てないって言えばいいじゃん。そうだよ、死体を隠さなきゃ。ここは森の中なんだから穴掘って埋めれば――いやいや、もっと簡単な隠し方あるだろ。頭まわってないな。
この生肉は何なんだ?
よし、死体は消したからこれでオッケー。ここには誰も来ていない。ここでは何も起きていない。……じゃない、死体消したらだめだろ。警察に出頭して事情を説明すれば情状酌量されるはずだ。ケモ耳少女だってきっと証言してくれる。あ、でももう死体食べちゃった。どうしよう、これじゃもう言い訳できない。
俺は人間じゃなかったのか?
言い訳できないなら――逃げよう。逃げるしかない。あいつらはきっと霧が晴れたからやって来たんだ。なら、まだ霧が濃い場所に行けば誰も来ないはずだ。残念だけどこの家は捨てよう。家具は、もういいや。だれかが来る前にここから消えなくちゃ。
俺は――
駄目だ、混乱してる。頭がまったく回ってない。疲れてるな。とにかく霧に、霧に隠れよう。霧に隠れて、とにかく休みたい。何も考えない時間が今の俺には必要だ。そうだ、霧の中で眠っていた動物たちと一緒に眠ろう。あの美しい蛹の前で。問題は時間が解決してくれるさ。それまで寝て暮らそう。それがいい。
あ、ケモ耳少女、君も来る? いいよ、一緒に行こう。ほら、転ばないように手を――ああ駄目だ駄目だ、生肉は気持ち悪いよね、生肉じゃなくて俺も自分の手を、えっと、どれだっけ――?
……ああ。
君が握ってくれたこの手が、俺の手か。
良かった、ちゃんと君と繋げる手が見つかって。
「これは良くないなあ」
カルメウスは鬱陶しく垂れる髪をかき上げて言った。
そんな彼を見て、ハインは不思議そうにあたりを見回す。
一緒に来た三人の騎士が森の樹々を調べている。帰ってこない探索隊を探しに来た先で見つかった、石造りの粗末な小屋。そこで彼らは足を止めていた。
「特に何もありませんが。無人の小屋があるだけでしょう」
「そう見えますかね? 小屋の周りの森、争った形跡があるでしょう。地面の土はえぐれてるし、枝も折れてる。この鋭い傷は剣じゃなきゃつきません。探索隊はここで何かに遇って、まあ、消えたんでしょ」
「消えた?」
「ええ、ここから先、三人の痕跡は綺麗になくなってます。獣に食われたとしても血の跡が残るでしょうが、それすらなし」
「小屋にはなにかありました?」
「簡素な家具だけですね。あとはまあ、獣人の毛が中に落ちてました」
「なるほど、住人は獣人でしたか。彼らには霧の効き目が薄いのでしょうね」
「そんだけの理由で獣人が森に住めるなら、
まったく良くない、とカルメウスは肩をすくめた。
予想を超える異常事態に、彼の直感が最大の警告を発していた。とにかく良くないことになっている。一刻も早くこの場を離れるべきだ、と。
しかしハインには危機を感じる感覚器がないのか、いつもの口調で話している。
片手に持った霧避けの覆面を持ち上げ、こちらに見せた。
「では、そろそろ霧の中へ行きましょう。調査も終わったようですし、これの性能を確かめないと」
「すみませんがそいつは無理ですよ、博士。今すぐ村に戻ります」
「失踪した探索隊の調査が終わったら霧に入る、という約束のはずです」
「探索の指揮は俺が執るって約束はしてませんがね、でもこの場では俺の判断が優先です。残念ですが」
苦笑しながらカルメウスが促すと、ハインは「それは困りましたね」と俯いた。
「この覆面の試験は急いでする必要がありますし、その重要性は理解していただけたはずですが。ですよね、皆さん?」
「皆さん? それは誰の――っと」
カルメウスは腰の剣に伸ばしかけた手を止めた。
先ほどまで森を調べていた四人の騎士たち――そのうち三人が腰に手をやりながら、カルメウスを鋭く睨んでいた。
じりじりと距離を詰めながら、騎士の一人が真剣な顔で言った。
「隊長、私も霧に入るべきだと思います。今しかないですよ」
残りの二人もその言葉に頷いている。
「おいおい、上官への反逆か? 度胸あんなあ」
「単なる意見を述べているまでです。剣に手を伸ばしているのは、森の獣を警戒してのこと」
「そいつは頼もしいね」
カルメウスは笑みを浮かべ、ハインの顔を見た。
「なるほど、さすがの手管だな。まさかこんな短期間で誑し込んでたとは。こいつら全員、妻帯者のはずなんだが」
「この実験の意義を丁寧に説明して、理解していただけました」
「丁寧な説明なら、俺にしてくれりゃあ話が早かったのに」
「あなたはそんなことで靡かないでしょう」
「ずいぶん真面目な男に見られてたんだな」
さてどうするか、と頭の中で計算する。
この三人を相手して、倒すことはできるだろう。最も弱い相手から襲って、三人の意表をつけば可能だ。その場合、自分も手傷を覚悟しなければいけない。出血しながら、村まで歩いて帰れるかどうか。
しかしこの三人も、ハインの命令に絶対服従というわけではないはずだ。現に、彼らの構えにはカルメウスを殺してやろうという殺気がない。心配性の隊長を説得するだけ、とか、霧にちょっと入るだけ、とか、そんな軽い頼み事を聞いているつもりなのだろう。
もし霧の中で、ハインが致命的な行動を取ろうとしたら、それには協力しないはずだ。
やれやれ、とカルメウスはため息をついた。
「わっかりましたよ。博士の実験に俺も付きあいましょう」
「ご理解、ありがとうございます」
そう言って、ハインはその端正な顔を微笑ませた。
ハインの作った覆面は十分にその効果を発揮した。霧の中に入っても、いつもの息苦しい感覚や肺の痛みがなく、活動にほとんど支障を感じない。
それで彼女の実験は終わりのはずだったが、当然彼女の足は止まらず、霧の奥へ奥へと進んでゆく。そのすぐ後ろにカルメウスが続き、さらに後ろを騎士たちが追った。
霧の中では森の獣たちが眠りについている。
縄張りも種も異なる獣たちが一様に臥せっている様は、異常そのものだ。普段のカルメウスなら剣を放り出して逃げ出していただろう。
歩きながら背後の様子をうかがったが、騎士たちはこの光景に驚きながらも、まだハインに従うつもりらしく、律儀にこちらを監視している。
まったく、と内心で舌打ちする。人間というのはかなりの異常事態であっても、それを認識しようとしない。ましてや、目の前にハインのように平然と振る舞う者がいればなおさらだ。
ふと見ると、先を歩いていたはずのハインがすぐ横に並んでいた。覆面越しに氷のような瞳がこちらを捉える。
彼女はくぐもった声で、小さく話しかけてきた。
「以前、
「ああ、覚えてるよ。確か言ってたな。生まれたとき処置を受けなかった
「そのとおり。彼らは体内魔力の調律ができず、全身がめちゃくちゃな成長を遂げますからね。結局環境に適応できず死ぬこともありますし、およそ人間とは思えないような姿になってしまいます。私たちの常識では測れないような姿に」
「あいにくと俺は見たことも聞いたこともないが」
「おや、魔女の御伽噺を聞いたことはありませんか?」
「え? まあ、小さいころ婆さんに聞いたよ。あれだろ? 悲鳴林に住んでいたっていう、下半身が馬で上半身が女性の姿で、しかも全身を茨が覆ってたっていう、童話の化け物」
「彼女も
「いやいやいや、あれはただの寝物語だろう。まさかあんた、あれが実話だったと考えてるのか?」
「御伽噺というのは、根を辿っていくと歴史的な記録に行き当たることが多いんですよ。そのすべてが真実とは限りませんが」
カルメウスは眉をひそめてハインの横顔を見た。
彼女はただの貴族の家庭教師。三流天文学者だったはずだ。それがなぜ、ここまで
しかしそれを訊ねる前に、彼らは到着してしまった。
カルメウスの足が止まる。
異様な森の、異様な霧を抜けた先。
一本だけ葉を茂らせる巨木と、その枝に吊り下がった――巨大な白い蛹。
その、蛹の真ん中に。
一筋の、黒い切れ込みが入っていた。
「何なんだ、あれは……」
カルメウスは呆然と立ちすくんでその光景を見た。
白い蛹は身体を前後に揺する。その黒い穴からは、雪のように純白の、優美な翅がゆっくりと姿を見せていた。
背後を振り向いたが、当然三人の騎士たちは何も知らされておらず、口を半開きにして突っ立っている。
一人ハインだけが、軽やかな足取りで蛹へ接近していた。
「待て! 何なんだあれは!」
「この森の本体です」
ハインが振り返って答える。彼女は自分の足元を指さした。
「これ以上は近づかない方がいいですよ」
ハインの忠告を無視して、カルメウスは彼女の後を追った。
とにかく、彼女の目的はあの蛹だ。あの蛹に何をしようとしているかは分からない。だが何であれ、彼女の思う通りにさせてはならない。それは断言できる。
しかしなぜか彼女にはどんどん距離を離されている。足がやたらと重い。息が苦しい。気づけば、霧を吸い込んだ時のあの痛みが復活していた。急に霧が濃くなったのか、それとも覆面の効果が切れたのか。
カルメウスは膝から崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
そして、荒い呼吸を繰り返しながら、それでも前に進もうとした彼の視界に、さらに信じられない光景が飛び込んでくる。
白い蛹は大きく震え、無理やりにでも身体を出そうと蠢いている。しかし羽化を焦ったかのように、その体躯はところどころ溶けたように爛れ、未熟な裸体を曝している。
そう、裸体。
カルメウスが知る限り、天使、という単語がそれには最もふさわしい。
翅を背負った少女が、蛹から生まれようとしている。