将来妹が鬼に殺されるかもしれないので絶対阻止したいお兄ちゃんの話 作:シグル
結局あれから一睡もせずに夜は明けた。未だに雨が続いているから太陽を拝む事が出来ない分、気分の切り替えに苦労する。加えてなんとなく身体も重いし何に対するでもない嫌悪感もする。
まあつまり何が言いたいかというと。今日の俺は絶不調だ。この一言に尽きる。
ここ何年もない状態につい溜め息を吐きつつこういう日もあるだろうと開き直った。俺だってただの人間なのだから、絶不調の日くらいある。
とはいえ、今日も今日とて仕事はあるのだ。報告書を書かなくてはならないし、珠世殿の屋敷に研究の進捗を聞きに行かなくてはならない。無一郎と有一郎の屋敷には美鶴殿が向かうと言っていたから俺は今日は行かなくてもいいか。朔の日故に見回り以外の任務が入っていないのは不幸中の幸いと言えるだろう。この状態で任務に行けば鬼に八つ当たりするか負わなくていい傷を負うかの二択だ。自分で判断しておいてなんだが非常に情けない限りである。
脳内を自己嫌悪やら愚痴やらが駆け巡っていく中居間に入れば、先に来ていた紅葉と美鶴殿に顔を合わせた途端目を見開かれた。
「随分とまあ…酷い顔だな」
「考えた割りに表現が直接的すぎて傷ついた」
「なら少しはそれらしい顔を作れ」
「一宮様、白湯をどうぞ」
「ああ、すまない。ありがとう美鶴殿」
差し出された湯呑みを手に紅葉の向かいに腰を下ろす。ずっ、と中身を啜り胃の辺りから熱が広がっていく感覚に一息ついた。
「…」
紅葉からの視線が刺さって仕方がない。いつもは美鶴殿の手伝いをしているのに今日に限ってここに留まっているのは偏に俺を気にしての事だろう。公私共に俺を支えてくれている二人に要らぬ気を遣わせている事実にまた溜め息を吐きたくなるがぐっと堪えて口を開く。
「夢見が悪かっただけだ。体調が悪いとかじゃない」
「けど調子がいい訳でもないんだろ」
「…まあ、今日は絶不調だろうな、とは思う」
歯切れ悪くそう伝えればそうか、と一つ頷かれた。
「今日は書類作業と…遊郭に行く日か」
「あとは珠世殿のところにも顔を出そうかと。胡蝶姉妹も行くみたいでな。様子を見てくるよ」
「分かった。ついでに睡眠薬でも出してもらえばいいんじゃないか?」
「いらん」
心底嫌そうな顔をしていたんだろう。拒否の言葉を出した俺の顔を見た紅葉が勢いよく吹き出した。それに対して抗議の声を上げようとして──。
「朝ごはんできましたよ~」
土間から聞こえる美鶴殿の呼び掛けに、文句の言葉は不発に終わった。
「とりあえず今日は座ってろ。運んでくるから」
まるで小さな子どもを見るような目を向けてきた紅葉は、そのまま立ち上がると襖の向こうに消えていった。
その姿を釈然としない気持ちのまま見送り再度湯呑みに手を伸ばし口に含む。
「……っ」
…舌、やけどした。
いつもより時間を掛けて報告書を仕上げ暁に持たせる。
飛び立つ背を見送り、畳に散らばる書き損じた紙に手を伸ばした。誤字脱字に墨の染み。…ポンコツすぎないか、今日の俺。とりあえず急ぎのものは終わらせたから残りは明日やろう。これ以上紙を無駄にしたくない。
そうと決まればさっさと着替えて出掛けるとしよう。
箪笥から隊服を取り出し身に付けていく。今日は任務ではないが柱として行くから流石に私服で、という訳にはいかない。
…というより、本音を言うと今日こそ隊服を着るべきだろう。
鬼殺隊士である証の隊服を身に纏い、
朝から変わらぬ量の雨粒を溢す空を見上げ、番傘を手に目的地を目指す。
いつもより人気のない通りを進みながらぼんやりと考えるのは件の協力者たちの事。そして、一部にしか明かしていない兄妹の事だ。
耀哉の名代として竈門兄妹──正確には竈門禰豆子だが──の様子を見に行って既に一年半。先日顔を出しに行った紅葉曰く、炭治郎は現在全集中の呼吸を身に付けるべくがむしゃらに鍛練を繰り返しているそうだ。まずは自力で、とのことだが、紅葉の見解としてはそろそろ兄姉弟子が手を出すだろうという状態らしい。ちなみにこの兄姉弟子とは鱗滝と真菰の二人を指す。冨岡は人に教えるのは不向きだろうし、まあ妥当な人選だろう。一方で、妹の禰豆子は相変わらず眠ったままだという。
(珠世殿の仮説が当たってるとして、眠り続ける事によって何が得られるか、なんだが…)
人なら疲労回復だなんだと言えるが、彼女はあくまで"鬼"だ。同じ尺度で考えていいものか疑問が残る。
(まあ、ここで考えても仕方がないな。俺も専門じゃないから分からない事の方が多い。珠世殿に任せよう)
あと少し歩けば目的地が見えてくる。生憎の天気でいつも迎えに来てくれる茶々丸はいない。屋敷に着いたら撫でさせてもらえるだろうかと、あのふわふわの毛並みを思い浮かべてふと気づく。今日はしのぶ嬢がいるからきっとどこかで寝ている筈だ。となると顔を出してくれるかは茶々丸の気分次第か。
ならば仕方がないと早々に諦め思考を飛ばす。
思い出すのは一年近く前の、しのぶ嬢と珠世殿が顔を合わせた時の事だ。予想していたがまあ荒れた。何がって、愈史郎が。
「一度ならず二度までも…!!」と額に青筋を浮かべ目を吊り上げた様は今でも思い出せる。そしてそんな愈史郎を一声で収めた珠世殿は見事としか言いようがなかった。
しのぶ嬢はしのぶ嬢でにこにこと笑ってはいたものの、初対面でいきなり敵意を向けられた事による困惑と苛立ちのせいで笑顔が若干引きつっていた。まあそれも胡蝶によって収められていたのだが。
そんなこんなで本格的に始まった共同研究。初めはギスギスとした雰囲気で珠世殿が怯えるという珍事もあったが、次第に落ち着き今ではいい関係を築けていると思う。
…まあ極たまに毒と刺がふんだんにあしらわれた会話をしているが、喧嘩するほど仲がいいとも言うし大丈夫だろう。うん。
周囲に人の目が無いのを確認して土塀をすり抜ける。現れたのは立派な洋館。相も変わらず見事な術だ。
さて、果たして今日はどうだろう。手土産として持ってきた
ちなみにこれは余談だが。今日はその"極たまにの日"だったらしく、屋敷にはにこにこと不自然なくらいの笑顔を浮かべるしのぶ嬢と毛を逆立てた猫のような愈史郎がいた。
あの、しのぶ嬢。頼むから来たばかりの俺に意見を求めないでくれないか。話の流れが分からないから。
それから胡蝶も。そこで「あらあら」と笑ってないで助けてくれ。今日の俺では火に油を注ぐんだ。頼むよ。
*****
「あかね様。随分とお疲れのようですが…」
日中の用事をいつも以上に疲労を感じながら終わらせ、鯉夏に渡すための菓子を見繕い屋敷に帰宅した俺は今、藤宮あかねとしてときと屋に来ていた。
鬼がいる事は分かっているため警戒してはいるものの、彼女の前ではどうしても"空柱"の仮面は剥がれやすくなっているらしい。
形の整った眉を下げ、"心配です"と顔に書いた鯉夏が俺を覗き込んでくるのを苦笑と共に受け入れる。
「…そんなに疲れているように見えるか?」
「ええ。いつもより血色が悪いですし、それに」
するりとこちらを気遣うように頬を撫でる手が心地よい。
「笑顔が…まるで月に雲がかかってしまったような雰囲気です」
「…ふ、ふふ。鯉夏は本当に面白いなぁ」
男に向かって"月"だなんて、そう何度も使う表現ではないだろうに。初めて会った時から変わらず俺をそう評する鯉夏が面白くてそう言えば、揶揄われたと思ったのだろう。もう、と僅かに頬を膨らませるその様子にまた笑いが漏れる。
「そうむくれるな。確かにちょっとした疲れはあるが、体調が悪いわけじゃない」
実際、朝に比べれば大分調子も良くなってきた。顔色はまだ悪いようだがそれも次第に回復するだろう。だからあまり気にしなくてもいいんだが…鯉夏は、それでも心配してくれるんだろうな。
さてどうするか、と考えていれば横から小さく呼び掛けられた。
「…あかね様。」
目尻をほんのりと染めた鯉夏は何かを決意したような表情で俺の正面に回った。首を傾げる俺を他所に僅かに腰を上げ、両手をこちらに伸ばし、そして──。
「っ」
頬に当たる布の感触に、鼻腔を擽る甘い香り。頭上から感じる僅かな息遣いと伝わってくる温もりから、頭を抱きしめられているのだと理解する。
「こ、いなつ」
「──疲れているときは、人肌を感じるといいと、以前耳にしたことがあります」
そう言う鯉夏の声は若干震えていて、緊張しているのが分かる。
己の頭を抱き込む腕に込められた力は極小さなもので、少しでも嫌がる様子を見せればすぐにでも離れてしまいそうな程だ。
鯉夏の背に腕を回し、そのままぎゅう、と痛くない程度に力を込める。どこか縋るようなものになってしまったが、今はこの優しい温もりを手放したくなかった。
「…少し、夢見が悪かっただけなんだ」
「…はい」
ぽつり、と言葉を落とす。それに対する相槌も小さなもので、ここだけ世界から切り取られたような錯覚を覚えた。
「どうしても、助けたい人たちがいる」
脳裏に浮かぶのは己の半身に唯一の友。そして可愛い二人の姪。
「現実ではもちろん夢の中でだって助けたい。けど、今のままだと取り零してしまうみたいでな…方法が、分からないんだ」
あの爆発があの鬼の仕業でないことくらいもう分かってる。だって、あの鬼はきっとそんな事をしなくても容易く人を殺せてしまうから。
そもそも産屋敷邸の周辺には複数の結界が張ってある。最初は屋敷を隠すものだけだったが、今はもう一つ。鬼を中に入れないためのもの。正確には、
…耀哉の事だ。どうせ、千載一遇の好機とでも考えるんだろう。鬼を滅する事に全てを捧げている一族だ。その為なら自身の命くらい簡単に使ってしまえる。…あまねと子どもたちは、自分達の意志で共に逝く事を望むんだろうな。
愛する家族を巻き込んでまで果たしたい悲願。
そんな相手は俺の知る限りただひとりだ。千年もの長い時間、産屋敷家が求めた存在──鬼舞辻無惨。
どうせ眠れないからと、夜が明けるまで考えて辿り着いた結果がこれだ。そりゃ顔色も悪くなるか、とぼんやり投げやりな事を思う。そしていい加減鯉夏を離してやらなければと腕の力を緩めようとして、頭部に添えられていた彼女の手が動いたのを感じ動きを止めた。
ゆっくりと上下に動かされる彼女の手は、止まることなく俺の頭を撫で続ける。色も何も含まれてない、優しさだけで構成された幼い行為。
「──あかね様」
耳元で囁かれる、優しい声。
「…その方たちは幸せね。こんなに想ってくれる人がいるんですもの」
甘やかで、どこか安心するその音は、ゆっくりと全身に染み渡るようで。頭を撫でるその手つきがなんだか泣きたくなるくらい優しかった。身の内に蔓延る澱みが、その動きと共に少しずつ消えて行くようなそんな感覚。
大きく息を吸う。
鼻腔を擽る香りは花のように甘いのにどこか澄んでいる気がするのは、俺の彼女への印象が影響しているのだろうか。
朝露のような人だと思った。周りにいる者たちよりも圧倒的に纏う空気が澄んでいて、一等美しい
それこそまるで、日の光を一身に浴びる朝露のように。或いは、新月の夜に瞬く幾千の星々のように。そんな印象を、あの日彼女は俺に抱かせた。
「──すきだ」
彼女の体温に気が緩みすぎていたのか。気づけばそんな囁きが自身の内から溢れ落ちていた。常ならば何かしらの物音にかき消されているだろうその音は、密着していた彼女の耳にしっかり届いていたらしい。
「え…?」
どこか呆然としたような声にはっと我に返る。慌てて身体を起こし正面を向けば、そこにはぽかんと小さく口を開けた鯉夏がいて。
ざぁっと血の気が引いた。
「い、や…これは、その」
しまった。いくらなんでも緩みすぎだ。ポンコツにも程がある。
口元を手で覆い忙しなく視線を彷徨かせるその行為は、端から見れば先の言葉が本音であると言外に告げるものだ。
脳の冷静な部分が一時の睦言にしろと主張してくる。潜入調査中に色恋など言語道断だと、柱としての自覚を持てと、訴えてくる。
確かにそう、その通りだ。
…けれど俺は、彼女に対して生まれたこの想いを、殺したくはない。
手を下ろし、正面を見据える。眉尻を下げ瞳を揺らしながら俺を見る鯉夏が、どうしようもなく愛しいと感じて。その感情のまま目を細めれば途端に彼女の耳や首もとまでが色付いた。
「あかね様」
名を呼ぼうとして、それよりも早く鯉夏が声を発した。
「うん」
はく、と一度空気を食べて、僅かに唇を震わせながら再度言葉を紡いだ。
「貴方は、冗談だと思われたかもしれないけれど」
先程よりも目尻が紅く染まっているのは、果たして俺の気のせいだろうか。
「初めてお会いした日。本当に、お月さまが空から下りてきてくださったのかと思ったんです」
「…うん」
心地よい声音に一度視界を閉じる。思い返すのは、彼女と初めて過ごしたほんの数刻の出来事。そして、以前耀哉と交わした会話の一端。
──どうか、君の心の赴くままに。
「…鯉夏。少しだけ、話を聞いてくれないか」
恋に落ちるとはよく言ったものだ。自覚してしまえばあっという間に後戻り出来ないところまで転がってしまうのだから。
本当は、何も告げずにいるつもりだった。鬼殺隊員はいつでも死と隣り合わせで、とりわけ柱は任務の危険度が段違いだから。加えて俺は既に守るものを決めている。これ以上は増やせないと判断していたのに、それ以上に鯉夏に傍にいてほしいと願ってしまうなんて。
やっぱり俺もこの手の調査は向いてなかったなと、真面目な顔で俺の言葉を待つ彼女を前に内心苦く笑う。
「俺がここに通っていたのは、ある目的があっての事だ」
周囲に人はもちろん、鬼の気配もないことを確認して口を開く。
「目的…」
「ああ。…詳しくは言えないが」
俺の言葉に、鯉夏は何かを察したような様子を見せた。…本当に、賢い子だ。今の短いやり取りで、少なくとも自分が利用されていたのだと理解しただろう。
「偽名を使い、客として世間話の体で貴女から情報をもらっていた」
唇を固く閉ざしつつも、真っ直ぐ俺を見つめる瞳に揺らぎはない。
「そうして何年も同じように過ごして…気付けばふとした瞬間に貴女の事が頭に浮かぶようになった」
長い睫毛に縁取られたそこが、ぱちりと瞬いた。
「くるくると変わる表情に、色々な想いを乗せる瞳。この菓子が好きそうだとか、この着物や髪飾りが似合いそうだとか。外を出歩いて目についたものを見てはそういう些細な事ばかり考えていた」
降り積もった雪のように、いつかは消えてなくなるだろうと思ったのに。
…境界が、あやふやになる。今話しているのは"あおい"と"あかね"、どちらなのだろう。
「俺は…本当の事を何も言えないのに、貴女に俺の隣にいてほしいと、そんな欲を抱いてしまった」
ここで堂々と「嫁に来い」と言えたらどれだけよかっただろう。鬼はおろか、刀や血腥さとは縁遠い生活を送っている相手に、それを言えるだけの自信と図太さがあれば。そうすればこんなにも情けない姿を見せなくて済んだろうに。
自然と眉間に皺が寄る。
いつの間にか外の喧騒は鳴りを潜め、夜の静けさが辺りを包んでいた。
「…貴女は遊女だ。
何も話せないと言いながらなお彼女を望むなんて、笑い話にもならない。都合のいい話だと一蹴されても文句は言えないだろう。…彼女の性格を考えれば、そんなこと声に出さないのは明白ではあるが。
静かに話を聞いてくれていた鯉夏は何も言わない。言葉を探すように口を開いては閉じを繰り返す様をじっと見つめる。…名を呼ばないのは、偽名だと伝えたからか、或いは。
そこまで考えて、一度視界を閉じる。話を切り出してから名を呼んでいないのは俺も同じだった。
「…いきなりこんな話をしてすまなかった。混乱しただろう。今日はもう休みなさい」
そろそろ帰る時間だと立ち上がろうとすれば、「ぁ…」とか細い声音に引き留められた。その声に再び視線をやれば、片手で口元を押さえる鯉夏の姿がある。うろ、と泳ぐ瞳に嫌悪の感情はない。
「また、来月…来てくださいますか」
小さな小さなその問いは、俺の来訪を願うもので。胸の内に宿った期待が僅かに大きくなるのを感じた。
「ああ、もちろん」
その言葉を安堵したように受け止めた鯉夏の頬に手を伸ばしたいのを全力で耐え、今度こそ帰宅するために立ち上がる。
「それじゃあ、おやすみ。いい夢を」
「…はい、おやすみなさい」
お気をつけてお帰りくださいませ。
その言葉を背中越しに聞きながら、俺は灯りの少ない廊下に身を滑らせたのだった。