将来妹が鬼に殺されるかもしれないので絶対阻止したいお兄ちゃんの話   作:シグル

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鬼殺隊の最古参の柱は愛しいひとと祝言を挙げる
前編


 

 

 音柱や集まった隠とともに残った雑務を手早く終わらせ、紅葉と美鶴殿と二三言葉を交わし、合同で任務に当たった面々と軽く挨拶を済ませ、によによキラキラしているものから怨念が込められていそうなものまで多岐にわたる視線を背中に受けつつ、俺はようやっと鯉夏をときと屋まで送り届けることができた。

 任務とはまた別の疲労を感じるも、暫く傍らの温もりに触れていればそのうち何処かへ消えていくだろうと経験上わかっている。

 俺と鬼によって荒らされた鯉夏の自室は、戻ったときには綺麗に片付けられていた。そこまで酷い状態にならなかったとはいえ、片付けてくれたであろう美鶴殿に面倒をかけたことに変わりはない。また今度礼をしよう。

 それはそれとして、鯉夏だ。

 部屋に戻って共に腰を落ち着けてからぴったりと俺にくっついて離れない。

 震えてはいないし、控えめに握られている手も冷たくはない。とはいえ怖くなかったわけではないだろう。

 顔色を確認したくて握られている手とは反対の手で頬を撫ぜる。

 ぱっと上げられた顔に収められている大きな瞳。そこに恐怖の色が含まれていないことに安堵し、覗き込むように顔を近づけた。

 

「鯉夏、怖かっただろう。よく頑張ってくれた」

「ぁ…」

 

 ちう、と赤くなってしまった目元に唇を寄せ、宥めるようにそっと抱きしめる。

 小さく声を溢した鯉夏が控えめに俺の羽織を握るから、痛くしないよう注意しながら柔らかな温もりを抱き締める腕に力を込めた。

 

「…初めての、ことだったから…」

 

 ややあって胸元からくぐもった声が聞こえてきた。

 

「"鬼"という存在も、それがこの吉原にいたことも知らなかったから…びっくりしたんです」

 

 それは果たして"びっくりした"で片付けていい話なんだろうか。

 咄嗟に浮かんだ疑問は脇において、ゆっくりでいいという意図を込めて鯉夏の背中に添えた己の手を軽く跳ねさせる。

 

「色々と衝撃的で…でも、あなたが守ってくださると約束してくれたから怖くなかったんです、けど…」

 

 すり、と俺に甘えてくる鯉夏をそのままに、ゆらゆらと身体を揺らしていく。

 

「なんでしょう…安心、してしまって…それで…」

 

 だんだん言葉の間隔が伸びて、こちらにかかる体重が増していって。

 

「…──すぅ」

 

 深くなった呼吸音に、ほっと息が漏れた。と同時にこれからどうするかと脳内で頭を抱える。この態勢のまま寝かせる予定ではなかったから何の準備もできていない。

 彼女が落ち着くまで側にいるつもりだった。

 こんな血腥い、非現実的で非日常的な出来事があった直後だ。怖くないと言っていたし、実際そうなのかもしれないけれど、あのとき見せた涙だって間違いなく彼女の心が表面化したものだから。それがどんな感情だったとしても、一人で泣かせるなんてしたくなかった。泣くのならどうか、俺の前で。欲を言うなら俺の腕の中で泣いてほしかった。

 

「もう耀哉のこと怒れないな…」

 

──妹を泣かせたら、いくらお前でも怒るからな、耀哉

 

 義理の弟となった友人にかつて言った言葉が蘇る。

 俺はもう鯉夏を泣かせてしまったから、たとえ耀哉があまねを泣かせたとしても怒れないだろう。苦情は言うかもしれないが、流石に自分のことを棚に上げられるほど俺の面の皮は厚くない。

 尤も、耀哉が意味もなくあまねを泣かせるとは思っていないんだが。

 はぁ、と小さく溜め息を吐いて気持ちを切り替える。

 腕の中にある温もりと重みが心地良いが、いつまでもこのままではいられない。

 寝苦しいだろうから着替えさせたいし、ちゃんと布団で寝かせてやりたい。目元だって冷やしたほうがいいだろう。

 しっかりと握り込まれた羽織と規則正しい寝息を立てる鯉夏を見下ろす。

 とりあえず、羽織を脱いで鯉夏を横たわらせるなりすれば動くことはできるか。少なくとも布団は敷ける。濡らした手拭いも外で用意すればいいし、着替えは…。最悪帯を緩めるだけでもいいか…。外に行くときに美鶴殿と真菰がいれば応援に呼ぼう。まずは起こさないよう細心の注意をはらって羽織を脱がなくては。

 よし、と今後の方針を決めたところでこちらに近づいてくる気配に気づいた。慣れ親しんだそれは音もなく窓の外に降り立ち、カタリと小さな音を立てて室内に入ってくる。

 

「お邪魔をしてしまい申し訳ありません、一宮様」

「いや、構わない、美鶴殿」

「…鯉夏さん、もしかして眠っちゃいました?」

「…つい、寝かしつけてしまった」

 

 俺の言葉にふふ、と笑った美鶴殿は、手に持っていた物をこちらに差し出した。

 

「目元を冷やすのに必要かと思いまして。よろしければお使いください。私はお布団の準備をいたしますね」

「ああ、ありがとう。助かる」

 

 ひんやりと冷えた手拭いを目元に当てたら起きてしまうのではないかと心配したが、「ん…」と僅かに身動ぎしただけで覚醒には至らなかった。

 

「今夜はこのままここでお休みになられますか?」

「…そう、だな。今夜は一人にはしたくない」

「承知いたしました。…よかった。帰るとか言い出したら縛って鯉夏さんの横に転がさないとと思っていたので」

「…」

 

 くすくすと笑っているが十中八九本気だろう。

 本当に、俺の周りにいる女性陣は強い。

 

 

 

 

✽✽✽✽✽

 

 

 

 

 ふと意識が浮上する中、なにかそこそこの重さのある温かいものに包まれているなとぼんやり思う。

 

「……?」

 

 目を開けて、まず視界に入ったのは釦がついた布だった。寝起きで頭が働いておらず、それが何を意味するのかまで思考が回らない。それでも自然と上を向いた先に見えたものに、静かに身を強張らせただけに留めた自分を褒めたいと思う。

 太陽が顔を出す前の、夜の気配が残る薄暗い室内。夜目が利くわけではないけれど、それでも私がこの方の事を見間違うはずがなかった。

 

「あおいさま…」

 

 思わず溢れた声が静かな室内に溶けていった。

 とくとくと心臓が脈打つのがわかる。朝一番に会えた事実に緩みそうになる口元に力を入れるが、効果があるのかはいまいちわからない。重かったのはあおい様に抱きしめられながら寝ていたからだろう。

 無意識に薄い頬に手を伸ばそうとして、そこで初めて、自分が何かを握りしめていることに気がついた。

 濃い青から徐々に明るくなっていく、鮮やかな色彩の羽織。ちょうど、今くらいの時間帯の空の色だ。

 もはやこれが誰のものか、なんて聞かずともわかる。あおい様のものだ。それもたぶん仕事着だろう。

 昨夜の記憶はときと屋に戻ってきた段階で途切れている。多少の会話はあったかもしれないが、状況から察するに、私はあおい様の羽織を握りしめたまま眠ってしまったのだろう。

 やってしまった。

 じわじわと罪悪感と自己嫌悪が湧き上がってくる。けれども同時に、ひとりにしないでいてくれた気遣いを嬉しく思う自分がいて、なんだか色々と落ち着かない。

 

(起こした方がいいのかしら。でもまだ朝も早いし、疲れてもいるだろうし…寝顔も、もう少し見ていたい…)

 

 最後に自分の欲が顔を出す。いやだって、いつも私よりも先に目を覚ましていて寝顔を見る機会なんてなかったから…。

 そうやって誰に対してかわからない言い訳をしていれば、頭上から押し殺したような笑い声が聞こえてきた。と、同時にぎゅう、と身体に回されていた腕に力が込められる。

 

「ふ、ふふ。おはよう、鯉夏」

「お、はようございます、あおい様…起きてたんですか…?」

「ん?今起きたんだよ」

 

 楽しげに細められた片目に、ずっと前から起きていたのだろうことを察した。なんだか恥ずかしい。

 熱くなった頬を隠すように手を当てていれば、あおい様の顔が近づいて額にふに、と口づけられた。

 

「っ…」

「ふふ。…残念だがそろそろ帰らないといけなくてな。正面から入っていないから見つかると不法侵入になってしまう」

 

 先程よりも熱くなった頬をそのままに、起き上がったあおい様に続いて私も身を起こす。

 

「あの、あおい様」

「ん?」

「その…一緒にいてくださり、ありがとうございました」

 

 そう言ってあおい様を見上げれば、優しく細められた淡い色合いの瞳が私を映した。

 

「よく眠れたか?」

「はい、おかげさまで」

「そうか、よかった」

 

 安心したように笑うあおい様に、こちらも自然と頬が緩む。

 

「それじゃあ、また後でな、鯉夏」

「はい、また後で」

 

 軽く身なりを整えたあおい様がひょいっと窓から出ていくのを見送り、少し早いけれど私ももう起きることにした。

 今日はいつもより、随分と身体が軽い。

 その事実に一人でふふ、と笑みを溢した。

 

 

 

 

 

 真っ白い雲が気ままに浮かぶ、澄みきった青空。ピチチ、と聞こえてくる鳥の囀りに、遥か頭上からこちらを照らすお天道様。風も穏やかで過ごしやすい気温は外を歩くのに気持ちがいい。

 昨日までと変わらない光景なのにどこかきらきらと輝いて見えるのは、私の心持ちの違いだろうか。

 ゆっくりと歩みを進めていく先には、内と外を隔てる大門がある。

 …そこを潜ったら、もう二度と外には出られないのだと思っていた。

 禿から遊女になって、そして花魁になって。お金を稼げるようになりはしたけど、その分出ていく金額も増えていった。借金を返してここを出るなんて夢のまた夢で、本音を言えばとうの昔に諦めていたの。

 朝、大門でお客様を見送って、その度に"いいなぁ""私も出たい"と叫ぶ心に気づかないふりをして、ときと屋に戻って支度をして、そしてまた夜には別のお客様の相手をする。そんな毎日を、これからずっと過ごしていくのだと思っていた。

 仲のいい遊女はいた。禿の子たちは可愛いし、親父さまにも女将さんにも、理不尽な思いをさせられることなんてそう滅多になかった。それでもやっぱり、吉原(ここ)を出たいという思いは変わらず私の中にあり続けた。

 この感情を、なんと表現すればいいのだろう。

 今日、私はこの吉原を去る。共にありたいと望み、共にあってほしいと望まれた場所で、私はこれからを生きていく。

 信じられないくらい嬉しくて幸せで…想いが涙になって溢れてきそう。でも仲が良い子が最後だからって綺麗にお化粧をしてくれたから、絶対に泣きたくはなかった。それに、今日は笑顔でいたいのだ。"ときと屋の鯉夏花魁"から、ただの"鯉夏"になるんだから。愛しい人(あおい様)には笑顔の自分を見てもらいたいし、ここで別れる皆にも笑顔の私を覚えていてもらいたい。

 自然と浮かぶ笑顔をそのままに、人通りの少ない通りを進んでいく。これまでの花魁道中とは時間も、私自身の服装も違うからどこか落ち着かないけれど、一歩一歩しっかりと歩みを進めていった。

 そうして見えた大門の手前側。朝方に見たままの、穏やかな表情を浮かべて立つあおい様と目が合った。私の姿を視界に収めたまま、柔らかく微笑まれるだけで心臓がとくりと音を立てる。足取りも軽くなり、自分の口元がより緩んでいくのがわかった。

 

「おはよう、鯉夏。…綺麗だ」

「おはようございます…あかね様。ありがとうございます」

 

 危ない。うっかり本名を呼んでしまうところだった。

 ちらりとあおい様を見上げるとくすくすと楽しそうに笑いながら私の頬に手を伸ばしてくる。人差し指を曲げて触れるか触れないかの距離でそっと肌を辿る様子からあまり気にされていないことは察せるけれど、気をつけなくては。

 情報というのは武器になる。どんなに些細なものであっても数が集まれば物事の輪郭を捉えるのには十分だ。

 あおい様は以前、ご自身のことを"上に立つ人間"だと仰っていたし、美鶴さんからもあおい様は柱という彼らが所属する鬼殺隊の最高位なのだと説明を受けた。それに昨夜、私は周りの方たちに指示を出すあおい様の姿を見ている。その方たちに慕われていることも、短い時間であっても十分伝わってきた。

 そういう方の妻になるのだ。しっかりしなくては。

 内心で改めて決意を固めている間に、あおい様は親父さまと挨拶を交わしていた。私も見送りに来てくれた子たちと別れの言葉を伝え合う。

 

「鯉夏。達者でな」

「はい。親父さまも、どうかお元気で」

「…それじゃあ行こうか」

「はい」

 

 最後に親父さまとも挨拶を交わし、差し出されたあおい様の左手に自身の右手をそっと重ねた。途端、本当に嬉しそうに相好を崩すものだから思わずきゅ、と指先に力がこもってしまう。

 今の笑顔、凄く可愛らしかった…。

 あおい様と知り合ってから既に何度も同じ感想を抱いているのだけど、この人は私をどうしたいのだろう。8つも年上の男性なのに、その頭を撫でてあげたくなるなんてここに来たばかりの私に言ったってきっと信じてはくれない。

 あおい様が歩くのに合わせて歩みを進める。少しずつ大門に近づく度に、心臓がどくどくと脈打つのがわかった。

 そう遠くないはずの距離が永遠に感じられた頃、あおい様に手を引かれて一歩、大門の外に足を踏み出して──。

 

「──…」

 

 流れる空気が、変わった気がした。

 内と外とで物理的に遮断されていたわけではないのだから、空気そのものは吉原と変わらないはずなのに。どうしたって外の空気のほうがずっとずっと呼吸がしやすい。

 

「少し行ったところに人力車を待たせている。途中までそれに乗って帰ろう」

 

 無意識のうちに歩幅がだいぶ小さくなっていたらしい。あおい様にしてみれば立ち止まっているようなものだったろうに、こちらを見下ろす視線はどこまでも柔らかかった。

 

「途中まで、ですか?」

 

 小さな子を見るような視線に気恥ずかしさを感じながら、気になったことについて問いかける。

 

「ああ。道中に甘味処とか小間物屋があるんだ。他にもいくつか店もあるし、軽くにはなるが案内できたらと思ってな。…付き合ってくれるか?」

 

 繋いだままの手を軽く持ち上げながら問いかけてくるあおい様に、私は今日一番の笑顔を見せて大きく頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 人力車を降りて、宣言通り甘味処と小間物屋の場所と、あとは普段からよくお世話になっているという米屋や八百屋といった店にも案内してくれたあおい様は、ゆく先々で声をかけられていた。

 

「あらあおいさん、随分な別嬪さんを連れてるわねぇ。…え、お嫁さん?!まあまあまあ!そうなの、お嫁さん!それはめでたいわねぇ!これ…は今渡したら荷物になりますね。今度寄ってくださいな、おまけにしますから!」

 

「なに、嫁さんだと?!おい婆さん!婆さん!藤の坊が遂に所帯を持つってよ!」

 

「こんにちは、お兄ちゃん!その人だれ?およめさん?わあ、すてき!わたしもね、およめさんになるのが夢なの!」

 

「兄さん、さっきから騒ぎになってますけど…ああ、もしかして好い人ですか?へぇ!別嬪さんっすねぇ。目の保養になるや。今度寄ってください、安くするんで」

 

 などなどなど。

 年代も性別も関係なく、本当に色々な方からお祝いの言葉を貰う。その一つ一つに丁寧に応じるあおい様と共に、私からも挨拶とお礼の言葉を告げていって。当たり前だけれど、ここ(・・)があおい様の世界なのだと実感した。活気に満ちていて、笑顔と人情に溢れていて、とても暖かい。自分の大切な人がこれだけ多くの人に慕われている事実がこんなにも嬉しいことなのだと、私は今日初めて知った。

 

「思ったより話しかけられたな…すまない、驚いただろう」

 

 隣を歩くあおい様からそんな謝罪が飛んできたのは、人の波が去って暫くしてからだった。先ほどと比べ、辺りには民家が立ち並んでいて落ち着いた雰囲気が漂っている。

 

「ふふ、大丈夫ですよ。あおい様の普段の様子が垣間見れたような気がして嬉しかったです。皆様、いい方たちですね」

 

 ふふ、と笑いながら隣を見上げれば、こちらに顔を向けながらぱちくりとその隻眼を瞬かせるあおい様がいた。

 

「そうだな。気のいい人たちばかりだ」

 

 目尻と口元を柔らかく緩めながらそう言い、正面に顔を戻したあおい様は続いてぽつりと言葉を落とした。

 

「お前と外を気ままに歩いてみたかったんだ」 

 

 溢されたその内容に、今度は私が瞬きをする。

 

「なんの制限もなく、こうやって手を繋いで、俺が生活しているところを案内したかった。きっと、鯉夏とならどこに行ったって新鮮で楽しく感じるだろうから」

「あおい様…」

 

 眼帯に隠されていてその表情は見えないけれど、あおい様から発せられる声とその雰囲気でわかる。多分今、凄く幸せそうなお顔をしてらっしゃるわ。

 胸の内からこみ上げてくる衝動に身を任せてしまいたくなるのをぐっと抑える。それでも、自分の顔が緩んでいくのはどうしても止められなかった。

 

「あのね、あおい様。私もこうやって、貴方と外を歩きたかったんです」

 

 一緒ですね。 

 そう告げれば、あおい様は一言「そうだな」と優しさがふんだんに込められた声音で返してくれた。それがとても嬉しくて、幸せで。私はまたふふ、と笑みを零した。

 その後も他愛もない会話をながら、時折すれ違う人たちからお祝いの言葉をかけられ、私はあおい様の自宅へとやってきた。

 どこからか藤の花の香りが漂ってくる、立派な門構えの大きなお屋敷。

 思わず立ち止まってしまった私を、あおい様は一歩前に立って振り返った。

 

「空屋敷へようこそ、鯉夏」 

 

 その言葉に導かれるように、一歩足を踏み出す。僅かに空いた距離を詰める私を待って、あおい様はガラリと玄関を開けた。

 

「今帰った」

 

 途端、中からぱたぱたと足音が近づいてくる。以前あおい様が仰っていた、同居しているという同僚の方だろうか。

 

「おかえりなさいませ、一宮様、鯉夏さん」

「うん。ただいま」

 

 出迎えてくれたのは、すっきりとした顔立ちの女性だった。当然その顔に見覚えはない、のだけど…。私はこの方の声を知っていた。

 

「…美鶴さん?」

「ふふ、ええ。昨夜ぶりですね、鯉夏さん」

 

 昨夜とってもお世話になった隠の美鶴さん。

 いつかまた会えたらご挨拶を、その時には是非頭巾を取って、と思っていたのだけど、まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。

 

「もしかして、同居人って」

「ああ。美鶴殿とその旦那だよ。…美鶴殿、紅葉は?」

「お勝手にいます。鯉夏さんを出迎えるなら、一度顔を合わせた私のほうがいいだろうと」

「そうか」

 

 ふふ、と悪戯が成功したような顔で笑う美鶴さんは、私の両手を握って「これからよろしくお願いしますね!」と声を弾ませた。

 

「…はい、よろしくお願いします、美鶴さん!」

 

 嬉しくて同じように声を弾ませて返した私に、美鶴さんも嬉しそうに頷いてくれた。

 

「紅葉が居間にお茶を用意しているはずです」

「そうだな。いつまでも玄関にいるわけにもいかないし、行くか」

 

 そう言いながら履物を脱いで室内に上がっていくあおい様に私も続き、三人で廊下を進んでいく。

 

「屋敷の案内はまた後でするから、一度ゆっくり休もうか」

「私の主人のことも紹介させてくださいね」

「はい、是非お願いします」

 

 ずっと声が弾んでいる私と美鶴さんを微笑ましげに眺めていたあおい様が不意に「そういえば」と口を開いた。

 

「吉原を出たら話をすると言って、まだ何も伝えていなかったな」

 

 数歩前を歩く美鶴さんが、一つの襖の前で立ち止まる。静かに襖が開けられるのを視界の端で捉えながら顔を上げれば、真剣な顔をしたあおい様と目があった。

 

「名乗るのが遅れてすまない。改めて、一宮あおいと言う。これからよろしくな、鯉夏」

 

 直後、おそらく居間の方から「ぶふっ」と吹き出す音が耳に届いた。

 

 

 

 

✽✽✽✽✽

 

 

 

 

 鯉夏とともに空屋敷に着いたのが昼過ぎだったこともあり全員で昼食をとった後、屋敷内の案内をした。瞳を輝かせながらきょろきょろと辺りを見回しながら歩く鯉夏が可愛くて、何度口元を手で覆ったかわからない。十年以上暮らしてきた屋敷が鯉夏がいるだけで鮮やかに色づいて見えるのだから、俺も存外単純な男だったのだろう。

 案内の間、色々な話をした。

 鬼殺隊のこと。任務のこと。鯉夏が聞きたがったから日輪刀や鬼のことも話した。胡蝶姉妹を始めとする蝶屋敷の面々や甘露寺や真菰などの女性隊員についても、今後世話になる可能性があるから話題にあげた。祝言には柱はもちろん、吉原での任務に共にあたった隊士たちを招いているから、顔合わせはそこで行えばいいだろう。他の女性陣に関しては別途機会を設ければいい。

 俺個人の話もした。

 元々は神職の家系で、鬼殺隊に入るために一宮家に養子入りしたこと。四人兄妹だったこと。以前話した長年の友人兼義弟が鬼殺隊を率いているお館様であること。

 普段こういった話はあまりしないから落ち着かなかったが、鯉夏が終始楽しそうにしていたから問題はない。

 鯉夏の私室は俺の部屋の隣だ。今は客人用の文机と鏡台、箪笥があるだけだから、改めて一緒に買いに行こうと約束した。着物とか化粧品とか、他にも入り用なものは多いだろうし、なにより鯉夏の好みを俺が知りたい。

 そんな話をしながら屋敷内と庭を案内し、離れや道場、裏山についての説明をしていればあっという間に時間は過ぎていった。

 美鶴殿と紅葉が用意してくれた夕餉を全員で食べ、少し早めではあるが鯉夏とともに床に入る。

 

「あおい様」

「ん?」

「…ふふ。呼んでみただけです」

 

 そう言って、心底幸せそうにはにかむ様子に思わず天を仰ぐ。既に横になっているから視界に入るのは天井だけだ。

 

「あおい様?」

 

 不思議そうな声が俺の名前を呼ぶ。きょとんとしているのがありありと伝わってくるその声音に、のろのろと鯉夏に向き合うように寝返りを打った。そうすれば当然、彼女の顔が視界に入ってくるわけで。予想通りの無垢なまでの眼差しに、出かかった溜め息を飲み込んで代わりの言葉を吐き出した。

 

「鯉夏」

「はい」

「今日は疲れただろう。ゆっくりお休み」

 

 片腕で上体を僅かに起こしたまま鯉夏の方へ身を乗り出す。柔い頬に手を伸ばしするりと撫で、晒された額に唇を寄せた。

 

「…おやすみなさい、あおい様」

「うん、おやすみ。いい夢を」

 

 頬を染め瞳を彷徨かせながら告げられた挨拶に、俺も口角を上げながら挨拶を返す。

 朝になって「また来月」と言わなくてもいいのだという事実を嬉しく思いながら、訪れる眠気に逆らうことなくゆっくりと意識を手放した。  

 

 

 

 

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