ノアのメモロビを見てる前提です。
持ってない人は気合いでガチャを引いてからご覧ください。
翌日
〜セミナー生徒会〜
沈みかけている夕日の差し込む生徒会室で、カタカタと自分のタイピング音だけが聞こえてくる。
2週間もシャーレで“先生”に付きっきりだったので相当な仕事が溜まっていると覚悟していたのだが、思いの外少なく拍子抜けしてしまった。
いや、ユウカちゃんが代わりに処理してくれていたから少なくて済んだのだろう。しっかり者で優秀な子だとつくづく思わされる。
「ふぅ...」
区切りがついたので一度パソコンから目を離し、窓からシャーレの方角を見る。
「“先生”とユウカちゃんは大丈夫でしょうか...」
今日からシャーレの当番には別の生徒も入るようになり、その初日はミレニアム繋がりということでユウカちゃんが抜擢されていた。
ただし、以降も私の当番の回数は他の生徒と比べても明らかに多めであり、私の記憶力に対する周囲からの期待とプレッシャーの表れでもあった。
向こうが順調ならば、そろそろ報告書類を作成するためにここに戻ってきても良い時間だ。
物事を上手く運べるユウカちゃんだから心配はいらないとは思うけれども、自分が初日にやらかしてしまったのでソワソワと落ち着かない気持ちがどこかにあった。
そんな事を思っていた矢先、コンコンと生徒会室の扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞー」
この時間にわざわざ生徒会室を訪ねてくる人なんて1人しかいないので、やや適当な間延びした返事をかえす。
入ってきたのは予想通り、シャーレで当番をしていたユウカちゃんだった。
「ただいま〜」
「お帰りなさいユウカちゃん♪ 久しぶりの“先生”とのお仕事はいかがでしたか?」
「ノアのおかげで順調に終わったわ。むしろ以前よりスムーズだったくらいよ」
「それは良かったです。他の学園の生徒が当番に入っても問題なさそうですね」
「そうね...」
報告内容に反してユウカちゃんの表情は決して良いものではなかった。こういう時のユウカちゃんは、だいたい何か不満や違和感を抱えてたりする。
「どうかしましたか?」
「うーん...なんて言うかその...」
ユウカちゃんがここまで歯切れが悪くなるのは珍しい。と、なればその対象が誰なのか予想はつく。
どうするべきかと私の方をチラチラと伺ってくる彼女に向けて、いつも通りの笑顔を向けてみる。
「他言はしないので安心してください。秘密はしっかり守る主義ですから」
「まぁ...ノアならその心配はいらないと思うけど...先生には絶対に言わないでちょうだい」
「分かりました。約束しますよ」
「仕事は順調だったんだけど...こう、イマイチ噛み合わなかったっていうか...。記憶を失ったせいかもしれないけど、いつもの先生と違う違和感が...みたいな?」
やっぱりそうか。
それが私が最初に思ったことだった。だってそれは私も最初に感じたことだったから。
今の“先生”はかつての先生の動きを意識してなぞっているとは言え、たった2週間で完璧に模倣することはできない。昨日のデートでも何度か指摘はしていたのだから。
私のような記憶力が無くても、先生と強固な信頼関係を築いてきたユウカちゃんだからこそ、即座に感じた違和感なのだろう。
「そればかりは仕方ありませんよ。自己認識にも多少の影響が出るくらいの記憶喪失なのですから。“先生”は先生、そうでしょう?」
「それは分かってるわよ...でも早く何とかして記憶を取り戻してもらわないと...。なんだかモヤモヤするって言うか...!」
自分の知ってる先生と違うと感じてしまったからだろうか。ユウカちゃんの顔には明らかな焦りの色が見えた。
気持ちはすごく分かる。あの時の私はユウカちゃんよりもっと酷い状態だったのだから。
仮に彼女の記憶力が私と同程度だったならば、きっと焦りを通り越してしまっていただろう。私みたいに酷い言葉を言ってしまっていたかもしれない。
一度地の底に落ちたおかげというのも変な言い方だが、目の前にいる友人を自分でも驚くくらい冷静に見ることが出来ている。
「落ち着いてください。現時点で業務に支障はありませんし、私が見る限りでは人格もそこまで影響は出ていません。“先生”にこちらの焦りを悟られてしまったら罪悪感を持たせてしまう可能性がありますよ」
丸々2週間も貰っておきながら記憶に関しては進展が無い。自分の役目を考えると少しは焦るべきなのだろうが、それでも私の中で焦りは微塵もなかった。
側から見れば不自然なくらい冷静な私にあてられたのか、ユウカちゃんは大きく深呼吸をして頬をペチペチと叩いた。
「...そうね、少し頭を冷やすわ。ありがとうノア、冷静でいてくれる人が近くにいると助かるわ」
「どう致しまして♪ 私も最大限の努力はします。ですが、可能性として考えないわけにはいかないと思います」
屋上で“先生”と分かり合えたから?
“先生”が記憶に関して前向きだから?
それもあるだろうけれど。きっとそれだけじゃない。
「────“先生”の記憶が戻らない可能性を」
別にそのままでも良いのではないか。
いや────
いっそのことそのままの方が“先生”と1番深く関われている自分にとって都合が良い。
そんな最低なことを考えている自分がいるからだろう。
☆☆☆
1週間後
〜シャーレ部室〜
「〜♪」
最近耳にしてすっかりお気に入りになった曲を鼻歌で歌いながら“先生”が待つ部室へと向かう。
自分ので言うのもなんだが、その足取りは誰から見ても明らかに軽やかで、ここ数ヶ月の中でも1番と言っていいくらいかもしれない。
それだけ1週間ぶりに“先生”と会うのが楽しみだった。
私の人生最大のやらかしから始まり、屋上での出来事、そこから始まった奇妙な関係、お礼という名のデート。
わずか数週間でありながら、自分の中で記憶を失う前の先生よりも距離が縮まっている気がした。尤も、“先生”は私以外の生徒とはほとんど関係を結んでいないから当然ではあるのだが。
軽い足取りのまま部室の前に辿り着き、軽く咳払いをしてから控えめにノックをする。
「失礼します。生塩ノアです」
「どうぞー」
中から先生の声が聞こえたことを確認して扉を開ける。
目線のすぐ先では“先生”が振り返ってままこちらへ向けて手を振っていた。
「おはよう、ノア。久しぶりだね」
「おはようございます。...ふふっ、まだ1週間しか経っていませんよ?」
「ノアと1週間も会わなかったのは“私"にとって初めてだからね。今日もよろしくお願いするよ」
「お任せください。何かあったら遠慮なく声をかけてくださいね」
挨拶もそこそこに済ませ、“先生”の向かい側に座って作業を始める。
相変わらずな書類の山だが“先生”の記憶喪失は一部の生徒にしか知らされていないので仕方ない所ではある。
それでも想定より少ないのは連邦生徒会が一部負担をしてくれているからなのかもしれない。
そのまま作業に没頭すること早くも1時間、チラリと“先生”の方を見てみるが変わらずパソコンに向かい続けている。
が、いつもの“先生”より作業スピードが落ちていた。ほんの僅かではあるけど、1週間前の“先生”はこの時間ならまだ集中力を切らしたりはしていなかったはず。
────他の生徒と何かあったな。
私の勘がほぼ確信に近い形でそう告げていた。
「“先生”、この1週間で他の子も当番に来ましたがどうでしたか?」
「ん〜...みんな良い子だったよ。私の事情を知っているから色々とサポートもしてくれたしね」
突っついてみたが返ってきたのは当たり障りのない答え。
もちろんそう返って来るのは想定の範囲内だった。だって“先生”は変わらず優しいから、不満とか不安とかそういうのを生徒に向けて吐露する人では無い事は分かっている。
だから本来はこの時点で引くべきなのだろうが、今回はもう少し踏み込んでみることにした。
「その割には何か考え事をされているようですが...困り事でも?」
「少しね...。まぁ、でもこれは私個人の問題だから気にしないで」
────これはもう少し押せばイケる。
そう思った私は席を立って“先生”の隣に移動すると、作業の手を止めた“先生”の手に自分の手を重ねる。
「“先生”、1人で抱え込まないで下さい。ただでさえ色々と気を遣って疲れが溜まりやすい状況なのですから、相談相手の1人はいた方が良いと思うんです。少しでも頑張ってる“先生”の助けになりたいですから。口外はしないと約束しますから...ね?」
嘘は言っていないし心からの本心だ。でも自分にブーメランが突き刺さりそうな言葉も選んでるあたり、我ながらズルい女だと思う。
だが、確かな効果はあったようで“先生”はひとしきり考えた後にゆっくりと首を縦に振った。
「仕事自体は順調だったんだけどね...どうにも会話が噛み合わない部分があったというか」
別に驚きはしなかった。昨日ユウカちゃんから同じ内容を聞いたばかりだったから。
ただ、その辺りについて“先生”は既に割り切っていると思っていたので、仕事のスピードに支障が出るくらい悩んでいたのは少し驚きだった。
「かなり気を遣われているのが分かったんだ。私に合わせようと頑張ってくれるのは嬉しいし助かるんだけど、みんなの求める先生には程遠いんだって思っちゃって...分かっていた事ではあるんだけどね」
「“先生”...」
「早く記憶を取り戻してみんなを安心させないとなあって、そう思ってただけだよ」
悩んで落ち込むというよりは焦っているようだった。
屋上の一件で自分を取り戻す事を決め、私と共に2週間取り組んできたがこれといった成果は無し。
そこから他の生徒たちにも会って、みんなが求めているのは“先生”ではなく先生だと改めて実感させられたのだろう。
「ごめん、生徒に話すような内容じゃなかったね。今のは忘れて」
きっとみんな、あの時の私ほどではなくても“先生”に対する違和感を拭えないまま仕事を手伝っていたのだと思う。そしてそれを“先生”は感じとってしまった。
“先生”だって万能じゃない。いくら表面上は平気そうにしていても言葉や態度で傷つくことだってある。私が言ってしまったあの一言だって、平常心の皮を被りながら少なからず傷付いていたはずだから。
私に彼女達を責める権利など無いが、自分を取り戻すために一生懸命取り組んでいる先生にとって、今回の彼女たちの行動で多少なりともダメージは受けてしまったはずだ。
だから今の私にできることは
「私は...“先生”のままでも良いと思います」
“先生”を肯定すること。
昨晩、ユウカちゃんにも似たようなことを言った。『“先生”の記憶が戻らない可能性を考えておいた方が良い』と。
返ってきた答えは『今はまだ考えたくない』だった。
別にその回答がおかしいとは思わない。いつ記憶が戻るか分からないし、こんな早い段階で諦める選択肢を選ぶ人はいないだろう。恐らく事情を知る生徒のほぼ全員がユウカちゃんと同じ回答をすると思う。
「“先生”は先生です。ちょっと色々忘れてしまっただけで、みんなが知る同一人物です」
でも、私の中では今のままが良いという自分と、みんなのために記憶を取り戻して欲しい自分。2つの気持ちがせめぎ合い、どちらかと言えば前者の方に傾いてしまっていた。
そうすれば“先生”にとって1番信頼できる生徒は私だから。
「焦らないでください。今はまだみんなも混乱しているだけですから。ゆっくり、ゆっくりと思い出していけば良いんです。それでも思い出すことができなければ────」
今だって“先生”は私に言いづらい悩み事を打ち明けてくれた。
それはきっと信頼の証。私と“先生”が僅か2週間という短い期間でありながら、確かな関係を構築できているという証明に他ならない。
「また1からやり直せばいいと思います。その時は私が全力でフォローしますから」
“先生”なら結局は他の生徒とも上手く関係を築いていくだろう。
時間はかかるかもしれないけれど、周りが受け入れてくれさえすればあっと言う間に以前と遜色ないくらいにはなるかもしれない。
だって“先生”は先生なのだから。
でも、その関係の最前線に私が立っていたい。
────ごめんなさい、ユウカちゃん。
貴方の恋を知りながらこんな事を考えてしまう私は、この上ないくらい最低かもしれません。
☆☆☆
同日の夜
〜ノア自室〜
お風呂を済ませて寝る準備を整えていた時、ポンとスマホからモモトークの通知を知らせる音が鳴った。
「あら...“先生”から?」
あまり夜遅くに連絡してくるタイプの人では無いので少々意外ではあったものの、それ以上に“先生”から連絡をくれたことの嬉しさが一時的に上回っていた。
が、この時間に来たからには急ぎの大切な連絡かもしれないと、少しだけ気を引き締めてトーク画面を開いてみる。
《今日はありがとう。情けない姿を見せちゃってごめんね。》
たったその一文だけが画面に表示されていた。
ありがとうが何を指しているのかは今更考えるまでもない。わざわざお礼のメッセージを送ってくるところが律儀というか“先生”らしいというか。
《気にしないでください。先生の本音が聞けて嬉しかったです。誰かに話しづらい事があったら、いつでも頼ってくださいね♪》
変な文章になっていないか見直しをしてから返信をすると、あっという間に既読がついて少しだけドキッとする。
“先生”が自分のために時間を使ってくれているのが嬉しくて、モモトークの画面を開いたままジーッと食い入るように“先生”からの返信を待つ。
《ありがとう。これからも頼りにしてるよ。》
頼りにしている。
その一言だけで嬉しくなってしまう自分は単純なのだろうか。普段から周りの人にそれなりに頼られていると思っているが、“先生”から言われると同じ言葉でも思わずにやけてしまう。
返信代わりのスタンプを送って画面を閉じようとした時、ふとある思いが頭をよぎった。
もっと“先生”とお話ししたい。
もう寝る時間だし“先生”もそうかもしれない。そうでなくても迷惑なのでは無いか?
そんな考えもあったが、それ以上にベッドの上で画面越しに“先生”と2人きりのやり取りをしているという謎の高揚感。
気がつけば再びモモトークの画面を開いて送信ボタンを押していた。
《眠れないのでもしお時間に余裕があれば少しだけお話ししませんか?》
☆☆☆
3週間後
〜ミレニアムサイエンススクール〜
すっかり陽が落ちてしまった夜空には、いつもなら見えるはずの星々が雲で隠れてしまっていた。
下校した生徒たちの喧騒の代わりにザーザーと降りしきる雨の音が、静かな廊下には少々喧しいBGMになっている。
コツコツと響く2人分の足音が、日中の騒がしさに比べたら少々物足りなく感じてしまう。
「すみません“先生”。予定より時間がかかってしまいました」
「気にしないで。ノアにはいつもお世話になってるからね」
あれから公平性のために当番の機会こそ少し減ってしまったが、私と“先生”の距離は遠くなるどころか近くなったような気さえする。
分からないことがあればモモトークや電話で聞きにきてくれるし、当番でシャーレに向かった際には以前のように不安を吐露してくれる事もある。
個人的には生徒というより秘書のような感じ、“先生”として出来る限り公平に扱うよう努力はしているみたいだが、その中でも最大限の信頼を向けられているという自信はあった。
「それに明日は休養日だから夜更かしするつもりだったし」
「あら、不衛生ですよ? 今日も夕方前に会ってから6回欠伸をしていたので帰ったら早く寝てくださいね」
「カウントされてたんだ...バレないようにしてたつもりだったんだけどなぁ...」
「“先生”は欠伸をする時に一瞬だけ顔を右に逸らす癖がありますから。私の記憶力は誤魔化せませんよ?」
「ノアには敵わないね」
似たような会話を54日前にもした覚えがある。先生が記憶を失う前日だったはずだ。
もうそんなに月日が経ったのかと改めて時間の流れの速さに驚きつつ、横までチラリと“先生”を見る。
未だに記憶は戻らない。でも、本人の顔に焦りはなくしっかり前を見続けている。
全員が事情を知るアビドスを中心に徐々にシャーレ外での仕事も増えてきてはいるものの、特にこれといった問題はなく、本人の努力もあって他の生徒は“先生”が記憶を失った状態だということには“まだ”気づいていないようだった。
「それにしても雨は止みそうにありませんね」
「ここから更に強くなるらしいから帰れるか心配になってくるね...」
「あら、それでは私の部屋に泊まりますか?」
「え゛っ....」
「冗談です♪ 万が一の時は空き部屋があったと思うのでそちらを手配しておきます」
「びっくりした...」と呟く“先生”を見て少し勿体無い事をしたかなと思う。このまま押し切ればもしかしたら本当に泊まってくれたかもしれない。
先生なら速攻で断るだろうけど、私を1番に信頼してくれているであろう“先生”ならあるいは...。
「ノア...ノア?」
「は、はい!? 何でしょうか?」
「顔が赤いけど大丈夫?」
ボーッとしているところを指摘され、反射的に片手を頬に当ててみると確かに熱を持っていた。
つい先程まで心の奥底で考えていた事を思い出して更に顔が熱くなってくる。
「だ、大丈夫です! そ...それよりほら、窓が結露してますね。外もだいぶ冷え込んでしまっているみたいです」
どうにも“先生”相手だと誤魔化すのが下手になってしまう。とても他のミレニアム生徒には見せられない醜態だ。
諸々の恥ずかしさを誤魔化すように窓際へと駆け寄り、結露で白っぽくなった部分へ指をなぞらせる。
『Qui aimes-tu le mieux, homme énigmatique, dis ?』
書いたのは私が昔読んだことのある本に書いてあった詩。
記憶を失う前の先生と2人きりだった時に同じ事をした覚えがある。
誰もいないミレニアムの廊下、降り頻る雨、結露した窓への文字。まるであの時に戻った気分だった。
違う点があるとすれば先生は記憶を失い、“先生”と私の距離が近くなったこと。
そういう意味では『énigmatique』の部分は失礼かもしれない。“先生”がフランス語をそこまで知らないのは把握していたが、思わず記憶のままに書いてしまった。
「....」
“先生”は黙ったまま私の書いた文字を見つめていた。
なんて書いてあるのか彼なりに解読してようとしているのかもしれない。食い入るように見つめる瞳が少し可愛らしかった。
「────本当に不思議です。やはり、紙に文字を書くときと違って気分が高揚しますね」
これも過去に先生と居た時に言った言葉。
同じことを繰り返すのは少々味気ない気もする。ただ、私にとっては先生との思い出でもあるから、“先生”とも共有をしたかった。
そう思うと記憶の片隅にあったあの時の思い出が鮮明に蘇ってきた。
「記録というのは本来、現在の意志を未来に伝達する手段だというのに────雨が止み、陽が登ったら消えてしまう刹那の記録だなんて」
「ノア....」
「理性と真実、合理を記録するのにこのガラスの板はあまりにも儚いですね」
そうこれは刹那の記録。どうせ明日には消えてしまうし、この時間なら明日まで誰かがここを通過することもない。
だからたった今書き足した『Je t'adore』も、きっと誰にも分からないだろう。
「でもだからこそ私は────」
「この大きなガラスページの方が好き、だったかな?」
時が止まったような気がした。
窓ガラスをなぞっていた指が反射的に止まり、瞳孔が開いていく感覚が自分でもわかる。
“先生”からの言葉にリアクションが取れず、その場に固まったままの私を煽るように窓の水滴が垂れ落ちて書いたばかりの『Je t'adore』を潰していく。
そんなバカな。“先生”からその言葉が先に出てくるはずがない。
────だって“先生”が言ったその言葉は一言一句違わず、あの時の私の発言の続きだったから。
そうなると答えは一つだった。
「もしかして...先生...ですか?」
首だけを動かしながらゆっくりと振り返ると、先程と変わらないが確かに先生の姿がそこにはあった。
パッと見た感じでは何も変わらない。でも、私には分かる。“先生”とは何かが違う。そして私が...みんなが知っている先生の姿だ。
「うん、いろいろ迷惑をかけてしまったね」
「どうして...いつから...ですか?」
唖然とするしかなかった。まさかこのタイミングで記憶が戻るなんて。
いつ? どこから? きっかけは? 唐突にぶつけられた特大の情報に脳がショートしている。
目が回りそうなくらいに混乱している私の横に立ち、先生が窓ガラスをなぞる。
「たぶん、ノアがガラス窓に文字を書き始めた瞬間かな。前にも同じことがあったから思い出すきっかけになったのかも」
「あ....」
きっかけは────私。
「せ、先生...領収書はいつも誰に渡してますか?」
「領収書? もちろん5000円以上の出費はユウカに報告してるよ?」
信じられなかった。思いつきで過去の出来事をそのまま再現した結果がまさかこうなるなんて。
後でしっかり記憶が戻っているか確認する必要はあるけれど、“先生”なら今の問いに対してユウカちゃんの名前は出てこない。私が財布の管理をしようとしていたから。
間違いない、先生だ。
「ノア、泣いてるの?」
「えっ?」
先生に指摘されて頬に手を添えると濡れた感触があった。
みんなの待ち望んだ先生が帰ってきた。時間はかかったけど使命を果たしたんだ。周りの...ユウカちゃんからの期待に応える方が出来た。
────なのにどうして涙が止まらないんだろう。
「何でもありませんっ...これはただの嬉し涙というものです...っ」
「そっか...えっと、ただいま。...で良いのかな?」
笑わなきゃ。先生は“先生”なんだから。何も変わらないんだから。またいつものように戻るだけなんだから。
ずっと涙を流してばかりだと先生に余計な心配をさせてしまう。
涙を拭うのも忘れて先生へ向けて精一杯の笑顔を向ける。
「お帰りなさい、“みんなの”先生」
さようなら、“先生”
先生の記憶が戻りました。ノアも課せられていた役目を果たすことができました。
今まで書いた中で1番のハッピーエンドでは?
もちろん今までの作品もハッピーエンドではありましたけど。
記憶って急に戻る(ド偏見)ので最後の方の書き方に少し苦労しました。
短編集なのに色々書きたいことが多すぎて長くなってしまったのは反省点です。これでもまだ抑えたほう...。
次回からマリー編になります。
常識力(バイクは盗む)と優しさが持ち味のキャラですが、彼女ならではのストーリーに出来たらと思いますので、少々お待ちください。