──シャーレオフィスビル 喫煙所テラス前階段
いつになく静かな一日だった。
今日のシャーレに舞い込んできた依頼は大掛かりなものは少なく、先生がキヴォトスに来たばかりのようなものが多かった。
先生が赴任した当時はヴァルキューレも小規模案件に手が回らず、そちらはシャーレが、いや、先生が担当していた。生活安全局が担当するような案件も先生が積極的に関わり、生徒や市民の助けとなっていた。
だが、現在は違う。
D.Uで起こる事件は一旦ヴァルキューレが担当し、手に負えなかったり各学園が関わるなどはシャーレが動く。
治安維持の最終兵器的ポジションになったのは構わないが、生徒たちとの関わりが減ってしまったことを先生は少し寂しく思っている。
時刻は午後八時三十分を少し回ったところ。
当番だったマリーはとっくに帰宅しており、シャーレオフィスにいるのは先生だけ。
去り際に『今日は穏やかな一日でした。先生もゆっくりお休みになられて下さいね』などと釘を刺されてしまったほどだった。
確かに連日の疲れもある。
大人しく一服して、日付が変わる前に床に就くのも悪くなさそうだ。
今日は忘れてしまわないよう、IDカードを改めて首に下げる。スマホもジャケットに仕舞った。
帰り支度を整えた先生が、オフィスの照明を落とした。
◇◆◇◆◇
テラスに続くドアを開ける。
軋んだ音を立て外開きに動く先に、予期せぬ先客がいた。
「今晩は。先生……良い夜ですね。クックックッ……」
「……何の用だ」
先生の眉間に皺が寄る。
警戒心からか、それとも嫌悪からか。
先生の視線をものともせず、先客は腰を折って腕を広げた大袈裟なお辞儀をした。
真っ黒のスーツに黒いネクタイ。襟のバッジと白いシャツが妙に目立つ。
それもその筈。黒服と呼ばせている人型は頭部も黒く、顔であろう部分には目と口に見える青白いひび割れが走っている。
「クックックッ……良い物が手に入りまして。先生もお酒をお召しになると、小耳に挟んだものですから」
黒い手袋を着けた左手で、テーブル付灰皿に乗っている瓶とグラスを指す。
先日の『転落防止柵に物を置けない事件』を聞きつけたエンジニア部によって、両サイドにちょっとしたテーブルが付いた灰皿。耐荷重は十二キログラムほどらしい。
そのテーブルに置かれた、丸い氷の入ったロックグラスと琥珀色の液体が入ったガラス瓶。
「如何ですか。先生……お付き合いいただけますか」
先生は問い掛けを無視して、灰皿の横に立つ。
テラスのドアを背にして、灰皿を挟んで大人が並び立つ。向かって左側が先生、右側が黒服。
何も言わず、コートの内ポケットからシガーケースを取り出す。
「おやおや……つれませんね。クックックッ」
パキリとスクリューキャップが開いた。
先生が煙草に火を点けるよりも早かった。
黒服が静かにボトルを傾け、両方のグラスに少しずつ琥珀を流し入れる。
「ご安心ください。毒や異物なんて入っていませんから」
さあ、と言う代わりに、黒服が先生の近くにグラスを置く。
先生がグラスの縁を摘まむように、グラスを覆うようにして、温もりを伝えないよう、右手に取る。
「ありがとうございます。では、私達の親睦と先生のご健勝を祈って……乾杯」
グラスを合わせるようなことはしない。
黒服は揚々と月に向かって杯を掲げ、先生は気持ち程度に持ち上げる。
持ち上げたまま、先生はグラスを唇に運ばず、鼻先にグラスを運んだ。
「先生。先ほども申し上げましたが──」
二の句を告げる前に、先生が左手の人差し指を黒服に向かって立てて、彼を制する。静かにしろ、と。
改めてグラスに鼻先を近付ける。
豊かなスモーキーさと芳醇なピート。さらにはフルーティーな甘さを感じる。
香る酒精も尖りを感じない。丹念にエイジングされた、円熟した逸品のようだ。
少しグラスを振る。
柔らかなウッディーさも感じる。
香りを楽しんだあと、グラスを口に運ぶ。
少しだけ口に含んだ。
舌先に熱さを感じるも、すぐに柑橘系のフルーティーな酸味と甘さが顔を出す。
口を離さず、顔を上げて一気にグラスの中身を流し込む。
おそらくはワンショットに僅かに満たないほどの量。
酒精に口内を焼かれる。
しかし、アーリーウイスキーほどの尖りは感じない。
円やかな甘さと華やかさが味覚を刺激していく。
上を向いたまま、先生が喉を鳴らした。
食道を通り、熱さが胃に落ちる。
ビターチョコのような甘い苦味の後味。やや遅れて感じる、軽やかなスモーキーさ。
先生がグラスを持ったまま、左手でコートを開き無言で煙草を取り出す。
片手だけだというのに、器用に火を点ける。
オイルの香りと煙草をゆっくりと肺へ流し込む。
たっぷりと息を止め、唇を軽く、口付けるように開いた。
深い溜め息に近い穏やかさで、音を立てずに紫煙を吐き出す。
「……良い酒だな」
「先生のお口にあって何よりです」
空になったグラスがテーブルに置かれた。
酌をしようと動いた黒服よりも早く、先生がボトルを攫う。
咥え煙草のまま、先生がキャップを回した。
「すぐにお煙草を吸われたので、てっきりお口に合わなかったのかと」
「これほど上等な酒なら、コイツも立派な肴だよ」
煙草を左中指と人差し指で挟み、『コイツ』と指す。
トクトクと音を立て、ロックグラスに半分ほど注いだ。
葉巻をウイスキーの肴にする愛煙家は多い。
再び煙草を呑んだあと、グラスを口に運ぶ。
「なるほど……そういった楽しみ方もあるのですね。知りませんでした」
黒服がクックッと喉を鳴らし、グラスを傾ける。
再び紫煙を燻らせ、先生もグラスを傾ける。
先程のように、飲み下すような飲み方ではなかった。少し口に含み、酒を味わっている。
「では、先生。よろしければ、一本いただいても?」
先生がグラスを傾けたまま、横目で黒服を見やる。
今度は酒や煙草のためではない、深い溜め息を吐いた。
グラスを置き、黒服にシガーケースから煙草を一本差し出す。
「ありがとうございます」
真っ黒な手袋のままで、黒服が受け取る。
彼が煙草を咥えたのを確認し、先生がライターを取り出した。
先生も咥え煙草のままで、ライターに火を点す。黒服に炎の熱が伝わらないよう、彼の側を手で覆う。
煙草に火が点いたの確認し、金属音を響かせてライターが口を閉じた。
黒服が無言で煙草を吹かす。
煙を吐き終え、すかさずにウイスキーを口に運ぶ。
ふう、と長い溜め息を吐き、余韻に浸る。
「おお……これは……なんとも……良い物ですね。
流石は先生だ。色々なことをよくご存知でいらっしゃる」
煙草とウイスキーの相性に感動したらしい。
ちびりちびりと無言で杯を傾ける。
フィルターギリギリまで火口が来て、ようやく先生が煙草を捨てる。
その頃になり、ようやく黒服がグラスを空にした。
煙草を捨てた流れでボトルを取る。
キャップを外し、口を黒服に向けた。
「なんと……先生、ありがとうございます」
大袈裟に黒服が頭を下げる。
先ほどと同じほどの量、ワンショットほどの量を黒服のグラスに注ぐ。
「では先生。よろしければ私からも」
注ぎ終え蓋を閉めようとした先生に、黒服が声をかけた。
成り行きでテーブルに置いていた、四分の一ほど酒の残った先生のグラス。
黒服はてっきりそのまま注ぐものだと思っていたが、先生がグラスを呷った。
「先生……」
カラリと氷が音を奏でる。
「そのまま足してもらうのも、なんとなく、な」
「ありがとうございます。流石にお強くいらっしゃる」
度数四十を超える酒を呷っても、咽せることなく平然としている。
先生が飲み慣れている証左でもあった。
黒服が先生のグラス半分ほどに酒を注ぎ、ボトルを置く。
「では、改めて……」
「あぁ」
「「乾杯」」
今度は二人ともグラスを優しく重ね、音を立てた。
◇◆◇◆◇
帳が落ちきり、灯りも
銃声もサイレンも聞こえない。
無言に気まずさも感じない。
心地よい静けさ。
二人とも、ゆっくりと立ち飲みを楽しんでいる。
「そういえば先生」
三本目の煙草に火を点けたばかりの先生に、黒服が告げる。
「私、こういうものも用意しておりまして」
どこから取り出したのか。
いつの間にかテーブルに白い小鉢が置かれていた。
中身は濃い茶色のパウダーを帯びた黒い立方体。金属製の小さなスティックが刺さっている。
「生チョコ……?」
「ご明察です。素晴らしい。流石は先生です」
生チョコかぁ……
先生が少し残念そうに月を仰いだ。
どちらかといえば酒の肴には塩気が欲しいタイプの先生。
洋酒なら甘味もマッチするとは知っているが、あくまでも知識だけのこと。
どうせならローストナッツやジャーキーをあわせる方が先生の好みではあった。
「ご安心ください。先生のお好みにあうよう、ビターに仕上げていますので」
「へぇ……」
言われてみれば、先生が知る生チョコよりも色が黒っぽいような気がする。光源が月明かりのみでわかりにくくはあるが。
せっかく用意してくれたものを無碍にも出来ない。口にあわなければ、そのあとは手をつけなければいいだけだ。
ピックを手に取り、躊躇なく口に放り込む。
ココアパウダーの風味のあとに、カカオの苦味が溢れ出てくる。
砂糖タップリなミルク生チョコしか知らなかった、先生の目が見開かれた。
ベースとなっているチョコレートが、カカオの多いタイプのようだ。
確かにカカオの苦味もあるが、生クリームでまろやかに包まれている。
舌でチョコを弄び、程よい苦味を楽しむ。
口の中に固形物がなくなってからウイスキーを含む。
鼻に抜ける柑橘系のフルーティーな華やかさ。苦味や生クリームの風味とのマリアージュ。
「ふぅ……確かに……いいな。コレは」
「でしょう? お気に召していただき、光栄です」
嬉しそうに黒服が口を歪ませる。
「どこで売ってるんだ?」
この味なら、甘味の苦手な生徒たちも楽しめるだろう。
なんならシャーレで常備……いや、定期的に購入しても良さそうだ。財源は先生の財布になるが。
「おぉ……売り物だと思っていただいたと。ますます光栄です。
先生、実は私の手作りでして……」
「えぇ!? お菓子作れるの!?」
「……そんなに驚くようなことですか?」
お菓子作りのイメージと、先生が持っている黒服のイメージがあわない。
このまま、スーツのままでエプロンを着けて作っているのだろうか。
「生チョコ程度なら簡単ですよ。私からすれば、食事を作る方がよっぽど……先生?」
気付けば先生が口を手で覆いながら俯き、小刻みに震えている。
この風体でエプロンを着けてコック帽を頭に乗せた黒服が、ボウルをかき混ぜたりしている姿を思い浮かべてしまったからだ。
酒が入ると笑いのツボがズレる。ハードルが低くなり過ぎるタイプの酔い方をするらしい。
「くっ……くくっ……ごめ……っ……ちょっとやめて……」
妙なツボの入り方をしてしまったようだ。
「こう……湯煎でチョコを溶かしてですねぇ……」
「ぶふっ! ホントやめて……」
中空で黒服が手をヒラヒラと動かす。
見なければいいのだが、先生の頭の中では、コック帽の黒服が独り言のようにレシピを暗唱しながら湯煎をしていた。
「こうしてココアパウダーを振って」
「あははは……か、勘弁して……」
先生の脳内では、いつの間にか長袖のコックコートになった黒服が、かなり真剣な目つきでココアパウダーを生チョコに振っていた。
スーツ脱いだら黒服じゃないじゃん、と頭の中でツッコミを入れる。そこでまた笑いがこみ上げてくる。
「器に盛って……完成です」
脳内のパティシエール黒服と、耳から入ってくる黒服のセリフがシンクロした。
パティシエール黒服はユウカがするようなドヤ顔で『完成です』と宣っている。
先生の笑いのダムが崩壊し、抱腹して大声で笑っていた。
~⏰~
「はぁ、はぁ、はぁ……あー……お腹いたい」
「クックックッ……よもや先生に此処まで笑っていただけるとは。
嬉しい限りです。次はもっとネタを仕入れておくことにしましょう」
「ふぅー……いやぁ……すごいな。黒服は」
笑いが落ち着いたらしい。
目尻に浮かんだ涙を拭い、グラスを呷る。
「私は褒められて伸びるタイプですからね。
今度は手作りドライフルーツガナッシュでも」
「ぶふっ! の、飲んでる時は危ないって……」
食道を通り過ぎた後だから良かったものの、コレがまだ口内なら大惨事だった。
いや、先生が『真剣な職人の目つきでフルーツを選別するパティシエール黒服』を想像しなければいいのだが、どうしても脳内に現れてしまっている。
「おや? フルーツガナッシュはお嫌いですか?」
「そうじゃないってば……はぁーあ……」
笑いを落ち着かせるために深呼吸を数度繰り返した。
最後の一本、と決めてシガーケースを取り出す。
すると、黒服から視線を感じた。
箱を振り、彼に向かって一本差し出す。
軽く礼をして黒服が受け取る。ついでにライターも渡す。
黒服が慣れた手つきで、優しくライターを開けて火を点ける。
火を灯したまま、ライターを先生に差し出した。彼の黒い手袋はもちろん先生の側だ。
ゆっくりと、音が鳴らないようにライターの口を閉じた。指で勢い良く開閉するのは、ヒンジのダメージにつながるということを知っているらしい。
先生にライターを返し、それ以上は互いに何も交わさなかった。言葉も視線も。
紫煙を昇らせながら、残ったウイスキーで舌先を湿らせる。
どちらから言うまでもなく、この一本が最後だと感じていた。
ゆっくりと締めの一服を楽しむ。
先生の方が一口が大きい。
チリチリと煙草の焼ける音。ビルの隙間を抜ける風切音。どこかで鳴ったクラクション。
静かな雑踏に耳を傾ける。
フィルターまで吸いきった先生が、先に一服を終えた。深く紫煙混じりの息を吐き、ポツリと呟いた。
「何か、話があったんじゃないのか?」
「いえ……先生に一杯お付き合いいただきたかっただけです」
黒服も灰皿に煙草を落とした。
先生が踵を返す。
黒服もドアの方に向き直り、現れたときと同じように大きく腰を折った。
何も言わず、先生が数歩踏み出したところで黒服に向き直る。
「黒服」
呼びかけられて顔を上げた。
地面から上げた視界の中で、先生が何かを投げて寄越す。
「吸いかけで悪いけど、やるよ」
「……よろしいので?」
「酒代には到底足りないけどな」
歯を見せて悪戯っぽく笑う先生。
普段は敵対しているからか、それとも先生が『大人』の仮面を被り続けているからか。
黒服が知る限りでは、なかなかに珍しい表情だった。
「ありがとうございます……大切にいただきますね」
「ああ。おやすみ」
「えぇ。おやすみなさいませ。良い夢見を」
先生がドアの向こうに消える。
重厚な音で錠が落ちた。
テラスに残ったのは黒服だけ。
先生から受け取った煙草を早速一本咥える。
手袋を外すと、人差し指から闇のような黒い炎が小さく立ち上がった。
ライター代わりのそれを使い、煙草に火を点ける。
軽く口に含み、香りを楽しんだ後に深く息を吐く。
完全に肺に入れる先生とは異なった色の煙が吐き出された。
一服しながら黒い皮靴のつま先でテラスの床を叩く。
そこの床には弾痕と思しき真っ黒な穴が二つ。
仄かに奇跡の力を帯び、小一時間経った今でもその影響の残滓を感じられる。
黒服がテラスに顕現してすぐ、どこからか狙撃された跡だった。
どんな馬鹿にでもわかる警告だった。
『いつでもお前を撃てる』
『妙な真似をしたら、お前の頭蓋がこうなるぞ』
と。
その警告に対し、黒服は両手を上げて降参した。
そもそもここには戦いに来たのではない。純粋に先生との親睦を深めるためだったから。
半分ほど残った煙草を捨て、黒服が片手を真上に上げる。
次の瞬間、そこには煙草の残り香だけがあった。