──人生の中でこれほど緊張した場面を、私は思い出せない。
いつもの教室の前。いつも通りのお弁当箱。いつも通り──なんかじゃない私の心。
ふと頭をよぎったのは、あの日──奏くんに、私の原点を話した時。あの時、私は部屋の中で彼を待っていた。入ってきた奏くんは、自分の部屋だと言うのに、やけに緊張した面持ちだった。
こんな気持ちだったのかな──いや、あの時の奏くんに比べて、私の状況はあまりにもちっぽけだと思ってた。
だって、友達にごめんって、言うだけなのに。
それでも、私は、怖い。昨日、奏くんに背中を押してもらったのに、朝からずっと気がかりで、上の空で。いざその瞬間が来ても、私はどうにも、一歩を踏み出す踏ん切りが、中々つかない。
私は、本当に、変わってしまった。昔の私なら、悪いことをしたら悪いことをしたときちんと反省して、一晩寝て、次の日にはすぐに謝れていたのに。
謝ることにすら勇気がいる。そんな自分が、やっぱり嫌い。
──だけど。
『咲さん。俺は……咲さんが自分を嫌うそれ以上に、君のことを愛するよ。たとえ君が、わがままになっても、臆病になっても、元気一杯になっても。咲さんが……信濃 咲だから』
こんな私のことを、それでも愛すると言ってくれた人がいたから。
だから、私は、進もうと決めたんだ。
一歩、踏み出し、扉を開く。
「……よぉ。教室の前でうろちょろしてたけど、告白でもされんのか? アタシ」
見慣れた光景に、一人席に座ってスマホをタップしていた赤嶺……いや、瑠璃さん。恐らく、アプリで漫画でも描いているのだろう。
その様子は本当にいつも通り……のように見えてしまうのは、私に観察眼が備わっていないからだろう。
機嫌がいいのか、悪いのか。体調がいいのか、悪いのか。怒ってるのか、怒ってないのか。なんにも、分かりそうにない。
「……告白、じゃない、けど」
「ったく……どーせ中学でのこと気にしてんだろ? わっかりやすい奴だな……」
さらり、と瑠璃さんはなんでもないことかのように。呆れたような笑みに、少し小馬鹿にされた気分。
いや、実際私がばかだったのは事実だ。私が傷ついていたからと言って、他人を傷つけていい道理なんてないのに。だったら、この程度甘んじて受け入れよう。
「……そんなに、分かりやすい?」
「何年傍にいたと思ってんだ。3年だ。流石にその程度分かるさ……最も、最近の咲は随分と感情が表に出るようになったからなぁ。誰かさんのおかげでな」
──良かったよ。
ため息混じりに、そのまま空中に消えてしまいそうなほどの声量で吐き出されたそれが、瑠璃さんの本心だと気付けないほど、私はばかじゃない。
だけど、私は、本当に……本当に、ばか、だった。
「……おいおい、分かりやすくなったとは言ったけどよぉ……そんな泣きそうな顔すんなよ」
私だって、泣きたい訳じゃなかった。私が悪いんだから、私が涙を流すなんて、あんまりにも卑怯だ。私は卑怯者になりたいわけではない。これまでもずっと卑怯者だったのだから、これからは少しでも、誠実に。
堪えろ。堪えて見せろ──瑠璃さんの三年間に比べたら、この程度どうってことない。
「だっ、て……私、瑠璃さんのこと……なんにも気にかけてなかった」
「ま、そーだな。高校入るまで、咲がアタシを鬱陶しく思ってたことぐらい、知ってるよ」
「っ……だったら!」
「でもよ」
思わず声を荒らげそうになった私を、瑠璃さんが言葉で制す。普段の小馬鹿にしたような声色ではなく、芯の通った、強い意志のある声。
少なくとも、私にはそう聞こえた……そう、感じ取った。
瑠璃さんはスマホを机の上に置いたまま、私の前まで歩いてくる。少し薄暗い教室で、彼女の髪がキラキラと輝いて見えた。
「今は、そうじゃないんだろ? ……だったら、アタシにとっては、十分だよ。お前が前向けてんなら、それでいい」
──私は、この瞬間まで、赤嶺 瑠璃という人物のことを誤解していた。
いや、誤解させられていたと言った方がいいだろう。
何が他人に興味が無いだ。彼女は……ずっと、私を、見て。今も、私を見る目は、柔らかくて。
……本当に、なんで気付かなかったんだろう。
「……教えて、欲しい。なんで、私なの」
「あん? 咲がすっげぇ可愛かったから……そういうことにしといてくれねぇか? アタシだって、隠したい本音のひとつやふたつ有るもんだぜ?」
「……うん、わかった」
ずるい、本当に。
なんで私の周りには、こんなに優しくてかっこいい人がいるんだろう。奏くんに、叔父さんに、瑠璃さんも。
気付かなかっただけで、私はずっと、恵まれていたのかもしれない。自分に降りかかった不幸に、目が眩んでしまっていただけなのかもしれない。
──こんな人達みたいに、なりたい。
私は、奏くんや叔父さん、瑠璃さんみたいな人になりたい。人の心に優しく寄り添える、そんなかっこいい人になりたい。
まるで小さな子供のような、具体例も何もない、将来の夢。
「……瑠璃さん、私と、友達になってください」
「棺桶に入るまででいいか?」
「……できれば、来世も」
私の目標は、どうやらかなり高いみたいだ。