ディルックは激怒した…必ず、彼の邪智暴虐の酒カス風神をぶん殴ってやるんだと決意した。
ディルックに酒カス風神の考えは分からぬ、ディルックは酒場『エンジェルシェア』のオーナーである、何でもいいからツケを払って欲しいと常日頃から考えていた…しかし、厄介事には人一倍敏感であった。
ディルックは最早かの狼の魔物に対して悪感情を抱いていなかった…ツケを代わりに払った挙句に追加で注文した酒代の全てを一括で払い、何だったら伸びている酒カスをどうにかこうにか引き剥がそうとしたり、助けを求めて此方を見るその視線がどうにも幼い子供を思わせるようで、最早敵意を向けられるような状況では無かったのだ。
風神バルバトスの眷属なのではないかという疑問があったのも含んではいるが…それはそれとして、何というかこう、あまりに不憫と言わざるを得なかったのである。
だから…そう、だから───
「───落ち着け、落ち着くんだ蛍、まだ暴れるような時間じゃないっ…!!」
「───どいてディルックっ!! そいつ殴れないっ!!!」
自分の後ろでガタガタ震えている白狼を庇いながら、何とか件の旅人を宥めようとしているのは、別に可笑しな話ではないのである。
きっかけは、突然だった。
「───おっ、ディルックの旦那じゃないか!!」
「───久しぶり、ディルック」
カランカランッとドアのベルが鳴る、扉の開く音と一緒に鳴り響いたその音は客の来訪を報せる音色、普段であれば喜んで歓迎したその来訪者はディルックからしてみればあまりに都合が悪かった。
いらっしゃい…そう言葉にしようとする前に、自分へと挨拶をした金髪の旅人こと蛍の視線がある一点に固定される…そう、酒カス吟遊詩人ことウェンティに未だに抱き枕にされている哀れな白い狼のところに。
ベシベシっとウェンティを叩いていた白い狼…その動きがピシリっと止まる、まるで水元素の後に氷元素を叩き込まれた魔物のように、凍結反応を起こして身動きが取れなくなってしまった魔物のように、ピシリッとその動きを止めた。
蛍の瞳は見開かれていた、まるで長年探し求めた何かを…例えるなら過去の偉人が残した財宝への手掛かりを見つけたかのような反応、メラメラと瞳の奥で何かを燃やし始めた蛍にディルックの脳裏に予感が奔り始める…そう、厄介事だ。
そんな両者? の反応なぞ露知らず、今日も今日とて明るく元気に挨拶をし、輝く笑顔の元に自分へと話しかけていた蛍の相棒ことパイモンは白い狼に気がつくや否やこれまた輝かしい笑顔を浮かべながら、まるで旧知の友に出会ったかのように声を上げた。
「おぉっ!! この前の白いのじゃないかっ! 元気にして───」
そう言いかけたパイモンを遮るように、まるで悲鳴でも上げるかのように、絶対に会いたくない天敵中の天敵に出会ってしまったかのように…白い狼は、悲鳴のような雄叫びを上げた。
「───ッッッ!!!!??」
電光石火とは正にこの事なのだろう、先程まで引き剥がせなくて厄介に思っていたのだろう酒カス吟遊詩人を一瞬で引き剥がしたかと思えば次の瞬間には捉えることも難しいと言わざるを得ない程の速度に加速、次の瞬間には白狼はディルックの真後ろに居た。
ヒシっと後ろから抱きつきガタガタブルブルッと震える仮称風神の眷属、思わず剣を抜きかけたディルックもあまりの怯えようにその手を止める…一体こいつは目の前の旅人に何をされたのだという疑問が浮かび上がってくるのは、仕方のないことではなかろうか。
その巨体故か、まるで隠れきれていないその身体を必死に縮めながら震える白い魔物、たすけてと懇願する幼子のような瞳にディルックは何も言えず、肝心の元凶である蛍は何処か困ったように頬をカリカリと掻いていた。
あちゃーっとパイモンが額に手を当てる、まるで困ったものでも見るかなような反応だ、どう反応すれば良いのかまるで分からない、一体どうしろと言うのか。
「………ぷぷっ……」
そんな時だった…その声が響いたのは。
堪えきれないと言う様に吹き出したのはウェンティだった、一体何時から起きていたのか頭をグワングワンと揺らしながら頭を起き上がらせた酒カス風神吟遊詩人はその頬を赤く染めながらあははあははっと陽気に笑い声を溢していた。
「ハハハハハハッ!! ねぇ聞いたディルックっ? 妖怪『素材置いてけ』だってさ、旅人も変な渾名付けられたよねぇっ…あはははははっ!!!!」
笑い転げ酒カス風神、一体何がそんなに可笑しかったのか腹を抑えてヒーヒーしているその姿は、曲がりなりにも神であるとは思わせてくれない、精々が迷惑な酔っ払いだった…少なくとも、この瞬間までは。
───ビシリッ!!
何かに、罅が入ったような音がした。
何かとは何だと言われれば何かとしか言いようがないだろう…強いて言うなら、それは空気や気配と言った見えない何かから鳴った音だったのかもしれない。
「───…また、私をその名前で呼んだね?」
冷たい声があ辺りに響く、威圧を放ち鋭い気配を纏わせた蛍にパイモンは困惑したようにその名を呼んでいた…が、そんなパイモンをガン無視して一歩踏み込んだ蛍は、白い狼を見据えて……呟く。
「───ぶん殴る」
瞬間、蛍は駆け出していた…必ず、かの失礼極まりない白い狼をぶん殴ってやるんだと言わんばかりに迷いなく、さりとて容赦無く前へと踏み込んでいた…その視線の先にいるのが何であるのかは、最早言うまでもない。
やっぱりこうなった…そう内心で吐き散らしたディルックは拳を振り被った蛍の前へと進み出てその拳を受け止める、突き出された一撃がディルックの腕を打ち、重い打撃音を辺りに響かせた。
そして、一番最初に戻る。
何がお前をそこまで怒らせるのか…どう考えても先程酒カスが何気なく口に出したあの渾名が原因である、そしてそれを言ったのが後ろの白い狼であるということも何となくではあるが、分かっている。
しかし止めて欲しい、何でもいいからとりあえずここでやらかすのは止めて欲しい、何故ならこのままやらせたら大惨事になるのが目に見えているから、嫌な予感がビンビンっとディルックの脳を刺激するから…だからどうか止めて欲しい。
「落ち着け、気を静めるんだ蛍、どうしてもと言うならせめて表に出てからやるんだ」
「嫌だっ!! 外に出られたら絶対に逃げられるもんっ!! 今度という今度は絶対に逃さないんだからっ!!!」
ディルックの言葉は蛍には届かない、言葉の内容からして既に何度も何度も逃げ遂せられているのだろう、最早目が執念の塊のような感じになってしまっている。
そう言えば獣域ハウンドの特殊個体の調査という依頼が冒険者協会から出されていたなとディルックは思い出す、自分には関係無いからと記憶の片隅にぶん投げていたその記憶にディルックは思い至る…もしやこの旅人、依頼を受けてから今日に至るまで一切成果を上げられていないのでは?…と。
いや待て、それならそれで何か可笑しいじゃないかとディルックは考える、それならば何故パイモンは元気だったかと口にしたのか、何故蛍はまたと言ったのか…絶対に一度は会って、しかも会話までしているはずなのだ、ならばこの白い狼が魔物というより魔神の眷属らしい存在であることに蛍が気が付かないはずがない、だってどう見ても魔物の動き方じゃないもの。
ならば単純に渾名が気に入らなかったのか、しかしそんなことで本当にあの旅人が怒りを顕にするのだろうか、早々に怒ることのないあの栄誉騎士がたかが渾名程度で?
思考がぐるぐると回る、半ば混乱しているのもあるのだろう、偶にアホな思考が湧いて出ては引っ込めてを繰り返しながらもディルックはどうにか蛍を落ち着かせようと思考を加速させる……そして、ふと…白い狼がギュムッと額を自身の背中へと押し付けた。
───瞬間、ディルックの脳内を過る、存在しない記憶。
視界の先にいる金髪の旅人…栄誉騎士だ、暗闇の向こう側を歩くその姿に思わずディルックは呼び止めてしまった。
栄誉騎士が振り返る、当たり前に当然に、声を掛けられたといことで何時も通りに声に反応して自身の方へと振り返る……そして、ディルックは見た。
───コッチコイヨ〜、コッチコイヨ〜ッ……!!!
その背後に存在する、無数の亡霊のような何かを。
ぽんっと、ディルックは蛍の肩に手を置いた。
突然の行動に蛍は驚いたようにディルックを見つめる…が、そんなこと知ったことかと言わんばかりに、ディルックは真っ直ぐと蛍の目を見つめて…言った。
「済まない蛍…正直、君がそう呼ばれるのは仕方がないことだと思う」
「何で!?」
酒場に響いたその抗議の言葉に、ディルックは天井を見上げることしか出来なかった…あんなの見たら誰だって逃げるだろう…と、そんな声にもならない言葉を響かせて。
ディルック
色々疲れた人、白い狼から見た蛍がどう言う存在なのかを割と唯一知ってるかもしれない人…後に、助けてくれたということで時折カナタが手伝いに来る。