その日、安瀬桜は朝から張り切っていた。
誰にも見られないよう朝日が昇る前に起床してポロポロと涙を流しながら仏壇を清掃。それが終われば、父、兄、義姉の分の朝食を用意し、自分の朝食をぱぱっと掻き込むと次は家全体の大掃除へ。
事故の怪我が治りきっていない
安瀬桜は実に効率的に汚れを駆逐していった。掃除の原則に従い、上から下へ。その結果、昼飯の前には掃除は終わり、安瀬家は築30年だと言うのにまるで新築のような輝きを取り戻していた。
「掃除は苦手だったろう。お前がまだ家に居た頃、掃除係はいつも私だった」
「苦手、とできないはまるで違う物であるよ親父殿」
畳と障子の和風な居間。そこのちゃぶ台で親子は冷たいお茶を啜りながら言葉を交わす。この部屋の内装は安瀬桜と安瀬雨京の趣味であった。父娘共々、
「それに家の掃除はやらせていたが正しいのじゃ。食事は外食、洗濯はコインランドリーで事足りるが、掃除は別であろう? 男やもめには蛆が湧く。覚えさせなければもしも1人で生活するような事態になった時に支障がでよう」
「正論だな。耳が痛い」
「…………」
「…………」
「ふぅ」
肩を少し落として固まった父に、娘は相変わらず言葉が少ない人だといった感想を抱く。
こちらから話題を振らなければ、その日はじっと本か新聞を黙読し、野球の中継が始まるまで植物のように過ごすといった動き無い性分。仕事に出れば優秀なのか稼ぎは良いものの家の中では昼行灯。しかし威厳がないわけではなく、むしろその逆で、ひとたび口を開けば持ち前の厳格さで家庭内の緩みを引き締めるといったリーダーシップを持ち合わせる。
真面目、規律、平穏の三拍子が安瀬雨京を構成している物であり、安瀬のような生まれついての異常者が無事に高校を卒業できたのは彼の教育の賜物であった。
(初孫ができ、ついに眉間のしわが取れるぞと思ったが、この様子では一生変わらぬかも知れぬ……孫に怖がられても知らんぞ、我は)
安瀬は長年の家族感でその無言を受け入れ、父親を習いゆっくりと茶を飲む。
1つアクションを起こせば大きな騒動を引き起こす彼女であるが、今日は大掃除だけで満足している様子だった。安瀬桜は父親を前にすると、どうにも背筋が伸びてしまい、いつもの異常な行動力が鳴りを収めてしまう傾向にある。
「それで? 兄貴と千代美さんは寝室で二度寝でござるか?」
「ここ最近は目まぐるしかった。睡眠時間がまるで足りてなかったから、昼まではきっと起きない」
「それは善き哉、善き哉。帰省した甲斐があるというものでありんす」
「あぁ助かる」
「…………」
「…………」
会話が切れると、独特な間を置きながら2人は茶を一口啜る。
「
安瀬は湯飲みに口を付けながら、ちらりと傍にあるベビーベッドに視線を向ける。
「あの運動部バカだった兄貴の
「陽光も赤子の頃は静かだった」
「ほぉ兄貴が? 意外であるな」
「むしろ手が掛かったのは基本的にお前だ。少し目を離すと必ずトラブルを引き起こす。赤子の頃から、高校を出るまで、ずっと」
「……だ、大学に入ってからは拙者もちゃんと落ち着いたでござるよ」
「…………」
安瀬雨京は確かな嘘を聞いて静かに笑う。
恥ずかしさから視線を伏していたせいで安瀬はその笑みを見落としたが、もしも彼女がそれを見ていれば父親の珍しい微笑みに固まってしまっただろう。
(大学に入れて良かった)
安瀬桜が常識的だった期間は、彼女がこの世に生を受けてからたった2年しか存在しない。それは母親を亡くし、大学に入るまでの間。
雨京の笑みの理由は、すっかり手の掛かる子供に戻ってしまった娘を見れたからであった。
「陣内くんにあまり迷惑かけないようにしないさい」
「う、うるさいのぉ……昔と違い、大学に入ってからは落ち着いたと言うておるではな────」
「
「は、はい。気を付けます」
「よろしい」
娘の素直な返事を受け、雨京は湯飲みに残ったお茶を満足げに飲み干す。
反して安瀬の方は『ぐぬぬっ、幼少期からの刷り込み教育が未だに抜ぬぅぅ……我はこの呪縛からいつ解放されるのじゃあぁぁ』と条件反射で返事をしてしまった事を悔しそうに嘆いた。
「……さて」
お茶を飲み終わった雨京はおもむろにして立ち上がった。
「親父殿? 何用か?」
茶の用意、おかわり、使い終わった湯飲みの片付けなどは安瀬の仕事である。男子厨房に入るべからず、などという今の時代ではとても口にできない因習は安瀬桜と雨京の親子間だけでは未だに現役であった。
よって雨京が会話の最中で立ち上がった事に安瀬は疑問を抱く。
「煙草だ」
聞いた瞬間、安瀬の手から陶器の湯飲みが真っすぐに滑り、高台が木板にぶつかってこつんと音を鳴らす。すぐ下にちゃぶ台が無ければそのまま畳にお茶をぶちまけていた事だろう。
「桜も吸うか?」
放心している安瀬桜に追撃を加えるよう、雨京は10mのメビウス、通称オリメビを差し出して見せる。
「せ、説明を。ちゃんとした説明を寄越せ」
いつの間にか、父が煙草を吸い始めた。しかも自分と同じ銘柄で、尚且つ自分よりも重いタール数の物だ。
大昔に喫煙していたのは陽光の結婚式で聞かされていた。だが、自分の知らぬ間にその20年の禁煙が破られていた事実に安瀬は強い衝撃を受ける。
「胃を壊したせいか食欲があるのに量が食べられなくてな。その穴埋めだ。体に悪いのは分かっているがこれが一番しっくりきた」
「…………ぅ、うむむむむ」
父には長生きしてほしい、という願いを密かに抱える安瀬は苦悶の表情を作る。だが自分も喫煙者である手前、即座に否定する材料が彼女の中で組み立てられずにいた。
「胃の傷が完璧に癒えれば、また止める。そう心配するな」
「…………本当であろうな」
「あぁ」
雨京は短く返事をした後で、居間から外に通じる大窓を開き、縁側に腰を掛ける。
安瀬も無言でそれに付き従い、父の隣に座った。
雨京が煙草を咥えたのを見るに、安瀬はポケットから出したマッチを手早く擦って火種を添える。
「ありがとう」
「ん」
父の煙草に火が付いたのを確認した後で、彼女は父のオリメビを一本貰い受け、消えかけているマッチから火を移す。
「ふぅ……あ、灰皿はどこかの?」
「これだ」
そう言って雨京は携帯灰皿を取り出した。
「ケータイであるか。家に陣内が来る前に、外にちゃんとした灰皿を置かねばの」
「なに? 来るのか、彼が」
「あぁそういえば言ってなかったか」
安瀬が帰宅したのは一昨日。四国旅行最終日の夜。昨日は家族一緒になって外に遊びに出かけていたため、陣内梅治の来訪を伝えることを失念していたのだ。
「栄太が生まれたから、記念樹を庭に埋めようと思っていてな。その手伝いを陣内に頼んだのじゃ」
「そうか。なら、彼が来る日は寿司を取ろう」
「寿司? この連休にか? それは、えらく高くつきそうじゃが……」
「別にいい」
「それなら……まぁ、お願いするでありんす。あぁそれとビールも3ダースほど用意して欲しいのじゃが」
「あぁ、買い付けておこう」
「…………自分で言っておいてアレであるが3ダース、でござるよ?」
「彼の好みは?」
「え? ……たしか、サッポロの黒ラベルであったか」
「分かった」
「…………」
「…………」
「……………………すぅぅぅぅ、ふぅ」
「……………………すぅ、はぁ」
会話の間、今度は茶の代わりに紫煙を繋ぎにする。
真面目な父と喫煙を共にする居心地の悪さからか、想像以上に自分の想い人に対して好意的な父親への気恥ずかしさからか、いつも以上のスピードで安瀬の煙草は減っていく。
(しかし重いでござるな、これ。頭がクラクラするでござる)
安瀬が普段吸っているのは5mgのメビウスである。脳に直撃する鎮静物質の量は普段の倍だ。
安瀬は軽度のヤニクラを感じ、それを誤魔化すために彼女は朝から触っていなかったスマホを取り出して意中の彼や友人たちからの下らないメッセージが入っていないかを確認しようとする。
「────は?」
スマホに表示された文章を見て、安瀬桜は愕然とした。
『バイクで転んで太腿が折れた。大した怪我じゃないから見舞いは別にいい。特に安瀬と西代は帰省してて遠いからマジで大丈夫』
脈絡がなく、簡素かつ、些か情に欠ける事故の生存報告。
「…………」
安瀬は煙を深く吸い、目を鋭く細めた。
陣内の事故報告を聞いて、彼女は怪我の心配するでもなく、迂闊さに怒るわけでもなく、生きていることへ安心するでもなく、ただ訝し気にしながら煙草を指の間に挟んだ手で口を覆う。
感情を動かすその前に、思案すべき事があると言わんばかりの所作だった。
「桜、どうした」
娘の変調を敏感に察した雨京は、スマホを凝視している安瀬桜に何事かと問う。
「……陣内が事故を起こしたらしい」
「なに?」
緊急性を持った話題を受け、雨京は即座に煙草を携帯灰皿に突っ込んでもみ消した。
「無事、なのか?」
「足を折ったようじゃが、幸運にも怪我はそれだけ。相手がいない単独事故であるとも、本人は言うておる」
「……そうか」
ほっと安堵が混じった溜息を付きながら雨京は胸を撫でおろす。
「ひとまず、無事でなによりだ」
ひとまず。安瀬雨京はそう言葉を区切る。彼の懸念点はその先にあった。
「だが、その……彼は大の酒好きだと私は認識しているが…………まさか、その事故は飲酒運転なんかが理由では────」
「ない」
雨京の専売特許を奪うようにして、安瀬は言葉少なく、それでいて力強く父の疑惑を否定した。
「ない、のか?」
「あぁいやまぁ……恐らくは」
一度強く断言したものの、安瀬は少々自信なさげに頷く。
普段の陣内のアルコール中毒っぷりから考えるに、彼が飲酒をしたままバイクを運転して1人ですっころんだというのはあまりにも自然すぎる筋書き。
だが彼の複雑怪奇な内面に深く触れ、加えて頭が切れる者だけはそこにちょっとした違和感を覚えるのだ。
大雑把であり、気が回る。
粗暴であり、心優しい。
鈍感であり、機微に聡く。
自堕落であり、努力家。
不誠実であり、誠実。
どちらの側面も、彼を構成する要素。二面性はどんな人間にも存在するがここまで両側だけが際立った人間は珍しいとしか言いようがなかった。
(確かに、やりそうと言えばやりそうではある…………が、どうにも…………)
今回、安瀬が引っ掛かりを感じたのは彼の誠実さの部分だった。
大学や道端で酒を飲むくらいは平気でやるが、見ず知らずの他人を危険に巻き込むような真似は控える。これが陣内梅治の単独事故を、ただの事故として受け入れづらい理由であった。
「切羽詰まるような緊急事態であればその限りではないが、平時であれば陣内はその様な事はしない……はずである」
「ならば何故?」
相変わらず雨京の言葉は極端に短かった。足りない言葉を補完するなら『ならば何故お前はそんな顔をしている? ただただ不注意から起こしてしまった事故というだけじゃないのか?』であった。
「理由がないから…………困っておるのではないか」
はぁ、と嘆息に身を沈めながらぼやくように安瀬は言を切り返す。
自覚させられた初恋に踊らされている西代と、そもそも深い考えを巡らせるタイプではない猫屋。
2人が迫る事が出来なかった真相へ、安瀬桜だけが一歩足を掛ける。
「………………」
嫌な予感に釣られて安瀬の脳は急速に回り始めていた。
今の段階では何も判断できない。そう考え、詳しい情報を求めるため彼女はスマホに再び意識を戻す。
陣内からのメッセージは事故連絡だけではなかった。グループチャットではなく、安瀬個人に送られていたメッセージを彼女は開く。
『悪い、安瀬。そう言った訳で庭弄りの手伝いには行けそうにないです。この埋め合わせは後日必ずします』
反省の意を示しているのか、雑過ぎる敬語で陣内は文章を綴っていた。ここはいつも通りの反応であると感じ、安瀬は続く文言に目を通していく。
『具体的には冬休み、実家に何かしらのお手伝いに行かせてもらおうと思ってます。馬車馬のように働くので何かお仕事を用意しておいてくだせい』
「……ん? 冬休み?」
『あぁそれと、前に雨京さんと陽光さんが俺にお礼をしたがっている聞いたが、改めて考えても俺の方がお礼を言う立場なんで、その時に菓子折りを持ってお礼? ご挨拶? みたいな事をしたいと思ってます、はい』
「へ? え?」
『なんだかんだ言ってお前の世話になってるのって俺の方だし、今回も約束を反故にしちゃってそっちのご家庭の予定を崩したからな。一緒に菓子折りの内容を考えてくれたりなんかすると助かる。俺1人で考えると、酒しか思い浮かばないから』
「………………む、むぅ」
冬休みに、実家に、挨拶。
その三単語が、凄まじい速度で安瀬の脳内議題を挿げ替えた。
冬休みと言えばクリスマス、もしくは正月である。どちらであろうが、実家に異性が来る日としては規格外のイベントデー。もはや特別な意味しか持たない来訪である。
(か、勘違い、するでないぞ我っ!!)
当然、彼女は舞い上がった。
(どうせあ奴の事じゃから何の気なしに言うておるに決まっているでありんす!! 文脈の意味以上の真意なぞきっとない!! あぁもう本当に馬鹿!! 馬鹿者め!! いっぺん馬にでも蹴られろ!!)
加速する思考回路は既に論理的な物からはかけ離れている。ふわふわとした怒りが絡みついたせいで、鉄製の歯車はポップなハート型のぜんまいに切り替わっていた。
(で、であるが………………父上に、
その言葉の響きのあまりの甘さに安瀬は表情を保つことができずに破顔してしまう。
古風な形式に憧れを抱く彼女に対して、その文言はクリティカルヒット。父の許しなんて物は時代錯誤であるが、愛され育てられた自覚のある娘にとっては嬉しい限りの正当な手続きであり、家族からの清い祝福に他ならない。
安瀬にとってそれはどれほど幸せに満ちた未来であろうかは想像に容易い。
「桜、どうした」
「ふぇ!? な、なにがでござる!?」
「顔をしかめたり、赤くしたり、緩めたり……なんなんだ? 結局、何に困っていたんだ」
「んぐっ……」
父に諭され、舞い上がった思考は一度正常に落ち着こうとする。だが一度抜かれてしまった骨が影響しているのか思考回路に先ほどのキレの良さは中々戻らなかった。
(……まぁ結局、帰ってから判断するほかないという事か、これは。まぁ流石にこんなのは拙者の考えすぎだとは思うがの)
これ以上考えても意味はないと判断して、彼女は吸いかけの煙草を咥え直して気持ちをリセットする。
(しかしバイク事故か……あのクソ
長い間、猫屋の片思いを見守る立場にあった安瀬は彼女が絶望的なまでに恋愛的な攻撃が苦手であることを見抜いていた。故に看病ごときで易々と今の関係が変わるはずがないと理解はしている。
(……それでもズルいぞ、猫屋)
ぷくーっと、安瀬の頬が面白くないと言わんばかりに膨らむ。彼女には、楽しそうに看病する猫屋と、表面上は煩わしそうにしながらも感謝してそれを受ける陣内の様子が容易に想像できたのだ。
「親父殿」
「なんだ」
そしてその不満の発散の矛先に選ばれたのは、娘が顔色をころころと変えている理由を探ろうとしていた父親だった。
「やっぱり禁煙しろ。今すぐに」
「急だな。なぜそうなる?」
「還暦間際の体に煙草はよくない、それに外で吸うとはいえここは赤子が住む家じゃ。反論は?」
「ない」
「よろしい。自他共に厳格である父親を持って我は幸せ者でござるよ」
「…………ふぅ」
先ほど陣内梅治に迷惑を掛けないようにと言い聞かせた時の意趣返しと思える問答に、安瀬雨京は控えめに肩を落とす。
(はたして彼は、このじゃじゃ馬の手綱をどう握っているのだろうか)
私は父親だからなんとかなったが他家の人間が娘を制御できるとは、とても……と雨京は内心で独り言ち、空腹を訴える胃袋を優しく撫でた。