内容を執筆しながらイメージした曲、羊◯学の夕◯を聴きながらお楽しみください。
夕凪
***
保健室に向かったハリーは、ポンフリー校医から淡々と迎えられた。ハリーが保健室に入ると、青ざめた表情のダフネもそこにいた。
「遅かったですね、ポッター」
ポンフリー校医は、淡々と言った。そこにはいかなる感情も含まれていなかった。
「先生……コリンの容態はいかがですか」
「ミスタ・サーペンタリウスから説明を受けている筈ですが?」
「……はい。コリンの左脚は吹き飛ばされたと聞いています」
ハリーはそれ以上は何も言えない。吹き飛ばされたのではなく治らないのだと。
「クリービーの治療の第一段階は終わっています。今、クリービーは睡眠の魔法によって眠りの中にあります。痛みもありません。ですが、貴方達はこれを観なければなりません」
「本物のカースというものが人体に対して齎すものについて、余すことなく把握しておかなければいけません。それが、貴方達の義務です」
ポンフリー校医の言葉通り、コリンは睡眠薬か、それとも軽度のステューピファイによる効果か、規則正しく一定のリズムで寝息を立てており、起きる気配がなかった。ねずみ色の髪の毛が、寝息と連動して動いている。
す、という音がした。
ポンフリー教授がコリンの患部を杖で指したのである。包帯によって何重にも巻かれたコリンの左脚、ふくらはぎより下には、本来あって然るべきものがない。ポンフリー校医の魔法によって、包帯が透明になり患部が明らかになる。
ポンフリー校医の魔法は、患部の周囲を可視化する透視魔法であった。包帯によって巻き付けられた皮膚だけではなく、筋肉や骨、血管といった微細な部分すら拡大し、映し出して見ることができるという優れた魔法だ。
魔法族は、マグルのように患部を切開し、手術する必要は、本来はなかった。そんなことをする必要などありはしない。
しかし、マグルの分析技術が盛んになるにつれて、ヒーラー達の間でもマグルの技術を模倣し、魔法に転用できないかという試みがなされてきた。治療用の透視魔法は、患者の患部にダメージを与えることなくカースやジンクスによる影響を観察するうえで非常に重要な魔法であり、ヒーラー達の間では重宝されていた。
(ひどい火傷だ……いや。それだけなら、まだいい)
ハリーは症状を見て息を飲んだ。コリンの皮膚が、おそらくは吹き飛ばされた時のカースによって醜く、黒く焼け爛れていた……だけではなかった。
熱量によって焼け爛れた皮膚は確かに問題であった。白い水泡のようなものが左脚のふくらはぎにまで広がっている。その火傷のカースはコリンの肉体に耐え難いダメージを与えているに違いない。
それでもまだ、熱傷の深度はⅡである。おそらくは、ポンフリー校医の治癒が成功したのだ。
火傷のカースだけならば、まだなんとでもなる。治癒には時間がかかるが、皮下の細胞にまで影響を与えるレベルではなく、治癒が可能なカースであったと言える。
……そう。
結果だけを見れば、治療可能。しかし、その言葉の裏にある過程は恐ろしい。コリンが生き延びることができたのは必然によるものではない。
(……火傷状態を維持するカースと……脚を吹き飛ばすコンフリンゴ系統のチャームの複合。それに加えて、未知のカースまで受けている。……これは……)
ハリーはポンフリー校医による治療の工程を想像し、安易な結論を否定した。
少なく見積もっても2種類の複合的なカースを受けている以上、ヒーラーは複合的なそれぞれの症状に対して適切な治癒魔法をかける必要があり、尚且つ回復阻害の効果もついているので回復阻害を打ち消すための別の治癒魔法をかけ続ける必要がある。
(ポンフリー校医は……ほぼ一晩中コリンを治癒し続けて下さったんだ……!)
魔法薬による治癒は、患部の状態が整ってから行わなくてはならない。火傷状態の皮膚に塗布するポーションがあっても、まず皮膚を再生しなければ話にならない。
ハリーの頬に冷や汗が滲んだ。コリンの状態を現状の治療が可能な状態に戻すまでのポンフリー校医の献身的な治療工程が目に浮かんだからだ。
高度な治癒魔法は多大な精神力を要するのは勿論だが、一晩中付きっきりで患者に付き添う必要もあったはずである。
ハリーの脳内に僅かな後悔と、校医に対する感謝と尊敬の気持ちが溢れ出てくる。ポンフリー校医の治癒がなければ、コリンは今頃命を落としていたかもしれないほどの呪いであったのだ。
コンフリンゴ(爆破)とインセンディオ(燃焼)だけではないのだ。
「……?黒い渦がコリンの骨にかかっている……」
コリンの患部の最端。つまり、吹き飛んだ左脚の先端部。腓骨と脛骨の部分。今では本来あるはずの足首がなくなった箇所に、黒い魔力の渦がかかっていた。
「あれは……脛骨が汚染されている……?セクタムセンプラと同質の……治癒阻害用のカースかしら……?」
ダフネの呟きにポンフリー校医は頷いた。
「付け加えると、神経と肉体との繋がりを遮断するカースもです。それが、ミスタ・クリービーを蝕んでいます」
ポンフリー校医はそのカースを知っている。しかし、正式名称を明かすことはなかった。明かせばハリーはデスイーター達への報復にそのカースを使うだろうという負の意味での信頼があったからだ。
「……クリービーが受けたカースは爆発と共に肉体に感染する、卑劣極まるものです。患者の神経系に作用し、吹き飛んだ肉体との接続を絶ち。患者をその状態で固定化させてしまう」
「そんな……神経系の魔法は治癒魔法じゃ対応できないのに……」
ハリーは思わず呻いた。
魔法族はマグルに比べ無駄に屈強であり、大概のことでは死なない……というか、死ねない。少なくともハリーの認識ではそうだ。
例えばテレポートに失敗し、腕や足がどこかに吹き飛んでロストしてしまったとしても、骨を骨生えの効果があるポーションで生やし、錬金術師の精製したエリクシル(希少な魔法生物から回収した素材や致死性の毒草を調合することで得られる万能薬。実際には用途は限定されており、けして万能ではない)で肉体を再生させるという手段がある。
しかし、今回のように悪質なカースによって肉体内部にまで侵食が及んでいる場合はそれは不可能なのだ。
神経系に作用しているカースの場合、カースに侵食された部分を切り落とし再生させるという手段すら有効ではない。患部を切り落としたとしてもカースが残り続け、カースをより上部へと上げてしまうことにすらなりかねないのだ。
「ではどうすれば?神経系に作用するのでは、再生させることも……魔法薬による治癒はできませんか?」
ダフネが青褪めながら尋ねるが、ポンフリー校医は首を横に振った。
「私では……これ以上は、どうすることもできません。義肢をミスタ・クリービーは然るべき設備の整った病院に入院させなくてはいけませんが……英国国内での治癒は、ミスタ・クリービーの身の安全を考えれば適切ではありません」
それは事実上の敗北宣言であった。
ポーションマスターであるスラグホーン教授と、ベテランのヒーラーであるポンフリー校医。ホグワーツが誇る鉄壁の2人であってもどうにもならないことは、ある。
「な、なぜですか……?国外に行かなくても、治療は……」
「ミスタ・クリービーの身の安全のためです」
疑問を投げかけたダフネに対するポンフリー校医の言葉は簡潔であった。そして、自分に言い聞かせているようでもあった。
ハリーは5年生の頃を思い返していた。
(……義肢が英国の病院に有ったとしても……ダメだ。闇陣営のターゲットになる可能性は充分にある……)
ハリーはダフネに説明する。
「ダフネ。1年前入院していたオーダーの一員が殺されかけた事があったんだ。闇陣営としても、将来的に自分達に歯向かうだろう敵を生かしておく意味はない。英国国内の大病院だと、入院中のコリンに変なちょっかいをかけてくる可能性は充分に考えられるんだ」
「……そう、そうなの。国内での本格的な処置は難しいと言うことですね?」
「ええ。病院という不特定多数の人間が出入りする環境は、闇陣営にとっても絶好の狩場です。嘆かわしいことですが……ミスタ・クリービーはホグワーツを去ることになります」
ポンフリー校医の言葉は事実であった。それが重くのしかかる。
「……」
暫くの間、重苦しい沈黙が流れた。口を開いたのは、ポンフリー校医であった。
「いいですか、グリーングラス。ヒーラーとして患者を治癒する上で、自身の領分を超えた事態には必ず直面することになります。その絶望的な瞬間に意固地にならず、患者の為になる選択が取れるか。それが、本当に求められることです」
「……先生……」
ヒーラーとしての言葉は、無慈悲であり残酷で、そして必要なことであった。
「人としての情と、自分自身の能力。その患者にかけられる時間。それらを考えて判断するのです。それが本当に求められることです」
ポンフリー校医が噛んで含めるようにそう言い渡すと、次いで、医療用の救急箱を開いた。十字架のマークが刻まれた救急箱は、実際には異空間が広がっていた。
「……中にお入りなさい、ポッター、グリーングラス」
ハリーはポンフリー校医に一礼してダフネに目配せすると、真っ先に救急箱に飛び込んだ。ハリーはクィディッチで回転しながら飛ぶ羽目になった瞬間のような感覚を味わった。
ダフネは、ポンフリー校医に会釈して、左足からおずおずと入り込んだ。救急箱が自分を蟻地獄の中に引きずり込むような感触に、ダフネは悲鳴をあげた。
***
「……大丈夫かい?」
ハリーは自分の真横に尻餅をついたダフネに左手を差し出した。救急箱の中はだだっ広い異空間であった。
「そう見えるなら目が悪いわ!」
ダフネに言われ、ハリーは己の眼鏡を指差した。ふん、とダフネは鼻を鳴らす。
「テレポートといいポートキーといいこれといい、異空間への転移ってどうしてこんなにも乱暴なのかしら……?」
「改善できる魔法使いが居たなら、その人は歴史に名前を残すだろうね」
尻餅をつきながらも、ダフネはハリーの手をとって立ち上がった。その瞬間、ポンフリー校医が慣れた様子で救急箱の中に姿を見せた。ポンフリー校医は厳しい顔で、ハリー達に言った。
「レベリオ。ポッター、グリーングラス。あれをご覧なさい」
ポンフリー校医が隠蔽魔法を解除すると、そこには幾つもの棺があった。
ポンフリー校医が、棺の中を透視魔法で明らかにする。申し訳程度の花束に囲まれた、幾つもの骸骨。
「……アレが……貴方の考えた魔法で齎された結果です、ポッター。デスイーター達の骸です」
ハリーはその言葉を聞いても、揺らぐわけにはいかなかった。微動だにしなかった。
ハリーがザムザやその父親やダフネの手を借りて開発したサペレ・アウデは、何人ものデスイーター達を骸に変えたのだ。
(……当然の報いだ)
とさえ、ハリーは思った。デスイーター達の生死に今更心を動かすわけにはいかない。
ヴォルデモートの命令にへりくだり、何人もの友人や、別に死ぬほどでもないような人々を手にかけてきた連中に情けなどかけている暇はない。
だが。
(……僕はザムザに人殺しをさせた。ザビニの母親は死んで、グリーングラス家は失墜した。これから先もそうだ。……都合のいい言葉を並べ立てて皆を殺し合わせる。それが……そうするべきだと思ったから。そうしないと勝てないと思ったからだ)
その一点で、ハリーの心臓はどうしようもなく痛くなる。まるで蛇が巻きついているかのように。
それははっきり言えば意味のない感傷であった。今更そんなものを抱くならば、始めから仲間など作るべきではない。必要なのは勝つための思考であって、無駄な時間の浪費ではない。
「しっかりと、目を逸らさず御覧なさい。これがカースです。貴方がやろうとしていることをその目で、深く受け止めなさい」
その時、ハリーの横でダフネが膝をついた。
「ダフネ……」
ダフネの全身から、流れるような汗が滲んでいた。吐き気を堪えているダフネに、ハリーはリベナイトをかけた。そんな魔法でどうにかなるものではなかったが。
(……この骸の中には、ダフネの見知った誰かが……。スリザリン寮の誰かの親もいたかもしれないんだ……)
ハリーの胸が、今更そんなことで痛むべきではないのに、鈍い痛みを訴えてきた。
戦闘中の脳内物質が充満した思考から一転し、戦闘が終わり落ち着いた後の思考回路に切り替わった上で目の前の光景を直視すれば。
否が応でも頭の中であえて切り離してきた、考えるべきではない余計なことまで脳は思考を回してしまう。
わかりきったことである。
そもそもデスイーター達も、スリザリン生かそうであるかを問わず誰かの親である。ダフネと生前付き合いがあった家の人間かもしれないし、アズラエルとだって家ぐるみの付き合いがあって、ザビニとだって面識はあったかもしれない。
いや。
そうでなくても、自分達の産み出した魔法で、想像より多くの骸を生み出したという事実。
普通の神経で、心が耐えられるわけもないのだ。だからハリーは戦闘での死そのものはデスイーターの自業自得だと割り切る。そうでなくては最初からこんな魔法を開発したりはしない。
それでも、自分が命じた作戦で仲間に人殺しをさせたという事実は変わらない。
ハリーの魔法によって発作的な症状がおさまると、ダフネはきっと牙をむいた。
「で……ですが……この悪魔の魔法があったからこそ救われた生命もあるはずです……」
「……ええ。今回は」
冷静にポンフリー校医は魔法の功績を認めた上でこう付け加えた。
「しかし、次回からは違います。闇陣営は報復の為に死の呪いだけではなく、多種多様な魔法を駆使してくるでしょう」
ポンフリー校医が懸念しているのは、闇陣営による報復という名のカースによる無差別攻撃だった。
「責めているのではありません。ただ、ポッターが戦い殺すという選択を取るなら、そして貴女がヒーラーとして生きるなら、然るべき覚悟をしなさいと言っているのです」
「覚悟、ですか……?どのように」
「闇陣営の卑劣さからして、攻撃はこの先苛烈さを増すはずです。被害者の数も呪いの種類も今までとは比べ物になりません」
「目の前で救える命と救えない命がある。その時、倫理的に正しくなくとも、貴女は生命の選別をしなくてはならないという現実が訪れるということです」
ヒーラーとしての判断は、現実的に治癒が可能か否かを見極めるということである。魔法による治癒はけして万能ではなく、数が増えれば当然ながら手が届く範囲は狭くなるのだ。
「一方で生命を救いながら、一方で救った生命が別の生命を奪うという矛盾に向き合う覚悟です。私が見た限り、グリーングラスは精神的に、今よりも遥かに強く逞しくあらねばなりません」
「それは、その通りですが……」
「二人にひとつ裏技を教えておきます。ペトリフィカス・トタルス(石化)を使うことはできますね?」
「はい。相手がこちらを認識していない状態であればですが」
「私も可能です。でもなぜその呪文を使うのですか?」
石化魔法は、相手の意識を奪うことなく全身を石に変える魔法である。戦闘においては、発動から石化までのラグが僅かに存在するため、ステューピファイ(失神呪文)と違い不意打ちに用いられる。
「複数のカースによって生命の危機にある患者が複数名いて、治癒にかけられる時間と人手が足りない場合には、これを用いて肉体を変えることで進行を止められるからです」
「えっ……いや……待ってください。患者に対する呪いの重複は避けるべきではありませんか?」
ハリーは思わず突っ込んだ。ペトリフィカス・トタルスによって石化された後、例えばレダクトによって身体を粉々に砕かれればその対象は死ぬ。呪いの重複とは原則として避けるべき行為なのだ。戦闘における悪用例を知っているハリーは、その手段を本能的に拒んだ。
「……待って。物質化によって、『肉体』に起きた変異を一次的に無かったことにするということですか?」
しかしヒーラー志望であるダフネにとっては話は別だ。ポンフリー校医の話は奇抜であっても、治癒のための重要なプロセスとして受け入れることができた。ポンフリー校医はその通りです、とダフネを褒めた。
「……そう言えば……4年前バジリスクによって石化させられた人たちの肉体は……石化された前の状態で保たれていたわ!カースの種類や状況にもよるけれど……これなら……」
「魔法が解ければカースは身体を蝕んでしまいますが、石化魔法の効力がある時間だけは、進行を止めることが可能です。本来はヒーラー課程の後期に覚える技法ですが、貴女達には時間が足りません。この技法だけでも覚えておきなさい」
そしてポンフリー校医は、ハリーとダフネそれぞれを見て薫陶を述べた。
「たとえ最適な治療がしたくても、出来ない。最善ではなく次善の策を選ぶしかない。……そうせざるを得ない瞬間というものは必ず訪れます。その瞬間があることを覚悟しておきなさい」
「はい、先生」
ポンフリー校医の言葉の中には、自分に言い聞かせているような響きがあった。ハリーとダフネはそれぞれ交互に頷いた。
「倫理と現実の狭間で時に倫理を、時に現実を見て、あえて間違った選択をする。善悪以前に、そうしなければならない時はあります」
そしてポンフリー校医はハリーへと向き直った。ハリーは校医の目を見た。ハリーのレジリメンスによって校医の目に浮かぶ感情は、微かな迷いであった。
「私たちは矛盾しています。子供や生徒を守るべき教師という立場にありながら、はっきり言えば私達は……」
「貴方たちを都合のよい兵器として扱ってきました」
「先生、それは違います。僕達は……いえ、少なくとも僕は、自分の意思で選択して選びました」
兵器、という単語にハリーは顔をしかめそうになったが、堪えた。ハリーにとって、それはあくまでも自分で選んだ選択であって、誰かから哀れまれる筋合いはなかった。
「ポッター、一つ覚えておきなさい。貴方は傲慢にも、己は他の生徒とは違う、下に扱われるべき存在だと考えているようですが」
ポンフリー校医の言葉に、ダフネは一瞬何のことかわからないというふうに困惑した。
「私にとっては、貴方は他の生徒と同じです。貴方の傷は、私にとってはコリン・クリービーが負った傷と同じように、本来であればこのホグワーツではあってはならないものなのです」
ポンフリー校医はハリーに目配せしたとき、ハリーに対して何らかの複雑な感情を見せた。それは後悔なのか同情なのか、それとも憐憫であるのかはハリーにはわからないが。
「毎年毎年、生徒達が本来遭うはずがないような騒動に巻き込まれ……或いは首を突っ込んで保健室に運び込まれる度に」
「その度に私はダンブルドアに対して異を唱えもしましたが、結局は見過ごしてきました。世界のためとか、英国の為だからではありません。貴方達一人一人が、自らの生命と尊厳のために避けれぬ困難に対して立ち向かうことは……罪ではないからです。それは、振りかかる試練に対しての挑戦にすぎません」
ポンフリー校医からの言葉は懺悔であると同時に、ダフネやハリー達に対する少しの救いであった。ダフネは複雑そうな顔で恩師を見ていた。
「ですから貴方達の選択を止めることは私にはできません。その権利もありません。今更何をと唾を吐きかけるのも、いいでしょう。貴方達にはその権利が充分にあります。ですが……」
「進むべき道の重さとその困難さ。乗り越えるための覚悟。自分の成す事の重大さを認識しておくべきです。貴方達を助けてくれるダンブルドアはおらず、これから先は未知の領域なのですから」
「……先生」
「ありがとうございます。……僕は先生がそこまで本気で言ってくださったことに感謝しています。……その上で……選んだやり方に後悔はありません」
ハリーは嘘を貫くことにした。というより、嘘を本当にしなくてはならなかった。
5年生のとき、仲間を募り、信頼できる仲間を増やそうとした。ファルカスのように死ぬ可能性を、そして、誰かの親かもしれない敵を殺す可能性を分かったうえで。
そう決めたのは他ならぬハリー自身だった。シュラークから受けた拳で済むような問題ではない。何人もの仲間から怨嗟の罵声や呪いを浴びせられようと、自分にはそれを受け止める義務があるとハリーは思った。
「ポッター。貴方は自分のやったことが取り返しのつかないことだと解っていて、それでもなお戦うと言うのですね?」
「そうです。……この戦いを早く終わらせること。……仲間達の犠牲を一人でも少なくすること。それが僕のすべきことです。それ以外の人道的非難は、甘んじて受け入れます」
「わかりました。ですが、これだけは覚えておきなさい、ポッター、グリーングラス」
「自分自身が過激な手段を取ってしまったとき、それ以外の選択肢もある、という事実を」
ハリーはその瞬間、一瞬だけであるが、ポンフリー校医の中にアルバス・ダンブルドアの姿を見た。
「選択肢の中に、過激で最悪のものを取ってしまった後。人は往々にして『それ以外の場面』においても、『他の選択肢』など無いと考えてしまいがちです。ですが、そうではありません」
「治療も戦闘も数ある選択肢の中で最適と思われるものを都度選択していく作業です。そして、最適と思われる選択というのは決して一つではありません。それをよく覚えておきなさい。クリービーの治癒に用いた魔法の記憶を救急箱に残しておきますから、休暇中に確認しておきなさい」
ポンフリー校医の言葉は、少なくともダフネとハリーの図星を突いていた。ダフネは恥じ入るように、ポンフリー校医と、棺の間で視線を彷徨わせていた。
***
清潔なベッドの上で、コリン・クリービーの意識は覚醒した。睡眠薬の効果が切れたのである。
「……あ……」
「……コリン。……起きた?」
「ハリー!?あ、いえ……」
「無理しなくていい。欲しいものはあるかな?飲み物を取ってこようか?」
ハリーは白々しくそう言った。
コリンに対してあくまでも偶然見舞いに来てたまたま、目が覚めたコリンと出くわした。そんな筋書きが立てられていた。
「あ……いえ大丈夫です。ポンフリー校医の魔法のお陰なのかな……痛みもないし、喉も渇いてないんです」
起き上がろうとするコリンを手で制して、ハリーは作り笑いを浮かべた。
「……なら良い。でも魔法は唐突に切れるから、何かあったらすぐ人を呼ぶべきだよ」
「はい。僕、この足のことは心配してないんです。魔法界には魔法で動かせる義肢もあるみたいですし。……そりゃあリハビリはキツイけど、ちゃんとやれば日常生活では支障が出ないってポンフリー校医から聞いてますから」
コリンはいやに陽気に言った。そう振る舞っているのが丸分かりだった。
「……それなら、よかった。コリンはどんな義肢にするつもりだい?」
「どうせつけるならかっこいい義足が良いですね。こう……映画に出てくるロボットみたいなやつ」
「それはいい。僕にも見せてくれ」
無理矢理笑おうとしているコリンに合わせて、ハリーは笑った。が、互いの痛々しさは拭いきれない。コリンの表情からは次第に取り繕った笑みが消え、不安と絶望の影がちらついていた。
「はい……あの……先輩……」
コリンは何かを言いたげにハリーに向けて口を動かしていたが、やがて、悔しげに目を閉じて言った。
「……先輩……僕はまるで役に立てなくて……お役に立てず、申し訳ありません……」
「君は何を言ってるんだ?君は僕の呼びかけに真っ先に答えたってロンが言っていたよ。それでどうして役に立っていないなんて言える?」
コリンに対してハリーは慰めや激励の言葉をかける必要があった。自分のエゴで戦争に巻き込んだ後輩に対して、惨めな思いをさせるわけにはいかなかった。
たとえその後輩が、一生癒されないような傷を負ってしまったとしても。
「でも僕は……」
コリンは何か言いたそうにしていた。行き場のない感情の捌け口を求める気持ちと、それを目の前のハリーに向けて良いのかと葛藤しているかのようであった。
ハリーは急かさなかった。コリンが再び口を開くまで何分かの時を要したが、コリンはついに堪えきれずに言った。
「僕は……本当に何の役に立てませんでした。デスイーターと戦う事もできなかった。杖を向け合う前に、全部終わってしまった。誰かを助けるどころか、助けられて終わってしまった……」
「……僕もそうだよ。だからコリン。その事で自分を卑下するのは辞めたほうがいい。君は僕と違って、他人に誇ることが出来ないような悪事はしていないんだ。コリンは自分を誇るべきだ」
ハリーは内心でずっと抱えていた本音をコリンに打ち明けた。
「初めてヴォルデモートと対峙した赤子の時も、一年生の時も。墓場でも、神秘部の時も、僕は奴に何もできやしなかった。……運が良かったんじゃない。いつも母さんや他の誰かに助けられて、生命を繋いでもらっただけなんだ」
ハリーは似たような話をこれまでコリンに何回かした覚えがあった。しかし、コリンはそれを謙遜としか捉えていなかったし、ここまで弱音を吐いたこともなかった。今回は、神妙な面持ちでハリーの言葉に耳を傾けていた。
「でも君はいつもいつも。本当に……やり過ぎてうざがられたとしても、自分の意志で行動した」
「僕にはそれがとても勇敢で凄いことだと思えたんだよ」
ハリーは自嘲を込めて言った。
ハリーは墓場でファルカスを守れもしなかった上、神秘部では皆の生命を危険に晒した。それにも関わらず、コリンは着いてきてくれた。
その忠誠に対して、どれだけ感謝の言葉をかけたとしても足りないだろう。
「……いや……仰っている意味がわからないんですけど」
「……つまり僕は……君には感謝しているんだよ」
「今回もそうだ」
ハリーには、ロンやハーマイオニーやコリンに対して尊敬があった。殺人に手を染めた自分とは違って、彼らは曇り一つなく正しく見えたからだ。
「君はダンブルドアや皆の生命を助けようとしてくれた。それがどれほど勇敢で、そしてどれだけ得難いことなのか……あえて言わなくても、裏の集会の皆がわかってる」
コリンはぐっと涙をこらえるような仕草を見せた。
「君を医務室に運んだ仲間達は、心の底から君に助かって欲しかったからそうしたんだ。尊敬する仲間に死んで欲しくなかったから……。だからコリン、何もできなかったなんて悔やむ必要はまるでない」
「……でも……やっぱり悔しいものは悔しいです」
コリンの瞳からは悔し涙が零れようとしていた。
(わかってるよ。こんな言葉じゃあ君にとって何の慰めにもならないってことくらい……)
役に立ちたかった。仲間を、友達を守りたかった。ヒーローになりたかった。
そんな思いは打ち砕かれて、冷たい現実がコリンを押しつぶそうとしているのがハリーにはわかった。
(……コリンだって、何もかも上手くいくなんて思ってた訳じゃない。覚悟はしてきた)
ハリーは仲間達の覚悟というものを軽んじていたわけではない。
シュラークにせよコリンにせよ、ロンやハーマイオニーやルナにせよ、戦い、その過程でアバダケダブラに撃ち抜かれて死ぬ可能性というものを一度は考えた筈だ。死や拷問の恐怖を感じ取った上で、それでも戦いに挑んだのだ。
だが。
どれだけ覚悟したところで、目の前の現実の残酷さが薄れるわけではない。
「コリン。実はこれまで言うべきかどうか迷っていたんだけど……僕は君に言わないといけないことがある。……君のお陰で、君がいてくれたお陰で僕は三度命拾いをしたってことを」
「顔を上げて話を聞いてくれないか」
だからこそハリーは、コリンに対して慰めではなく事実を明かそうと思った。
「僕の……?」
「一度目は、僕が2年生の時だ。スリザリンの継承者がコリンを狙って、コリンは石になった。でもそのお陰で僕は、怪物の候補というものを絞り込むことができた」
「それはたまたまです」
コリンは即座に言った。それはそうだろう。コリンが意図して助かったわけではなく、本当に偶々のことであった。
「そうだ。でも君は、常日頃からカメラを手放さなかった。そんな君だから生き延びて僕達に本当に貴重なヒントを残すことができた」
「……二度目。僕が5年生のとき、コリンは僕を一度も疑わなかった。僕を全面的に支持してついてきてくれた」
「当たり前じゃないですか、そんなの。僕がハリーを信じないなんてことありえますか?」
コリンは憤慨したように言った。ハリーは首を横に振った。
「僕は世間的には腫れ物の、はっきり言えば新聞にとって都合のいい玩具だった。悪い噂が立っていて世間全部が敵に回っているのに、寮が違う生徒を信じるなんてことは普通の人間にはできない。君は、僕の知る限り最も勇敢なグリフィンドール生だった」
「……」
ハリーはコリンから目を離し、窓を見て言った。窓の外には小鳥がいて、人間のことなど気にもかけずさえずっていた。
「君のように、闇の魔術を使わない生徒が僕を支持してくれたことは間違いなく意味があった。僕の精神的なことだけじゃなくて、世間体という意味でもね」
「世間体って、僕って嫌われものですよ?」
どうやらコリンにも自覚はあったらしい。しかし、ハリーはコリンの言葉に首を横に振った。
単なる嫌われ者と闇の魔法使いとは違う。前者は普通の人間で、後者は英国魔法界においては犯罪者予備軍でしかないからだ。
「いや……違う。結局みんな、闇の魔法使いなんて求めていないから。人は常に正しくて、綺麗な人間を求めるんだ。アルバス・ダンブルドアのように慈悲深く、理性的な人間をね」
「綺麗な人間には、綺麗さを求める人間がついていく。闇の魔術に手を染めていない君が僕を支持してくれたとき、僕は……まだ皆の側にいていいんだって思えた。言葉にならないくらいに嬉しいことだったんだよ」
コリンはハリーの言葉を素直に受け取ってよいものかどうか少し迷っているようであった。しかし、間違いなくその頬は笑みを堪えていた。
勇敢さ。それは心持ちの問題というだけではない。それを表に出すことも立派な資質である。
野心を胸に秘め狡猾に立ち回るスリザリンのやり方では、結局のところ、大勢からの支持は得られない。
正しいという思うところを余すことなく表明するグリフィンドールのやり方の方が、人には好ましいのだ。
「そして今回も、君は僕と……いや僕だけじゃなくて、ダフネの生命を救った」
「いや……そんなことはありません。……敵に辿り着く前に僕は」
「いいかい、コリン。君がいち早く僕の言葉を信じて集まってくれたことで、デスイーター達は戦力を分散せざるをえなかった。ここまでは分かるね」
「は……はい。それはそうですね……」
「シュラ辺りはね、正直なところ僕の命令で生命を賭けるほどの義理はない。彼が生命を賭けたのは、君やルナという友人が参戦したからだ」
コリンは複雑な顔をした。
シュラークははっきり言えば癖が強い男である。ハリーとしても先輩として後輩として接し、端から見る分には面白いが、友人かと言われると首を傾げる。コリンにとっても、中々一言では言い表せない間柄だろう。
「もし君が居らず。集会メンバーの数が足りずに、デスイーター達が早く屋上に辿り着いていたとしたら?その時、屋上に辿り着いた僕とダフネはどうなっていた?」
コリンはまじまじとハリーを見ていた。
「……デスイーターをハリーが抹殺した」
君の中で僕は何に見えているんだ、とハリーは喉元から出かけた言葉を飲み込んだ。
「違う。僕は大して強くもない。大量のデス・イーターに囲まれて、僕とダフネは殺されていただろう」
ハリーは淡々とあり得た可能性を話した。実際、間違いでもなく事実であった。
「僕はスネイプを追い詰めることに必死で、でもスネイプは普通に僕よりも強かった」
ハリーの体感ではあるが、鈍っていたドロホフよりも、スネイプは魔法使いとしての地力で圧倒的な厚みがあった。
ハリーもそうだが、闇の魔術によって短絡的に攻撃できる魔法使いほどそれ以外は疎かになりやすい。当てれば敵を殺害し勝てるというアドバンテージと闇の魔術に必要な悪意が心を乱し、オクルメンシーの隙間から漏れ出る意識によって攻撃が先読みしやすくなるのだ。
しかし、ホグワーツの薬学教授に在籍しながら、呪いが存在するDADAの教授職を熱望し続けた狂人の研鑽は伊達ではなかった。ハリーはスネイプを相手にして、一度も優位に立つことはできなかったのである。
「何人ものデスイーター達が万全の状態だったら、どうしようもなかったと思う。ダンブルドアだけじゃなく、僕とダフネの遺体もあったはずだった」
だから、とハリーはコリンに言った。
「コリン。君は僕の生命の恩人で、僕やダフネにとってのヒーローなんだ。……本当に、ありがとう」
暫くの間、コリン・クリービーは何も言わなかった。ただ、コリンの瞳からは透明の液体が溢れ、暫くの間コリンは顔を伏せていた。
***
腫れた目で、しかし、憑き物が落ちたようにコリンは言った。
「ハリー先輩。僕は歩けるようになったらまた、戦いに戻るつもりです。……その時は、その時はきっと」
「ヴォルデモートに勝って。最悪の闇の魔法使いを倒してくれますよね」
この期に及んでも、コリンはハリーに対する憧憬を捨てることはなかった。それはコリン・クリービーにとって変えられない呪いのような、同時に、祝福のような希望であった。
ハリーはその約束を果たせないことを知っていた。
コリン・クリービーの信頼と主張が、ハリー・ポッターが正しいというコリンの言葉が証明されずに終わることを知っていた。知っていても、こう言わざるを得なかった。
「勿論だよ、コリン。約束する。僕がヴォルデモートを倒す」
ハリーの言葉に、コリンは少し肩の荷がおりたかのような気の抜けた顔をした。
(……ん……でも最後なのに、かっこつけたまま別れるのも良くないな……)
「その代わり、ちゃんと勉強して高卒資格は取るんだよ?ドイツ魔法界にも国際基準での高卒資格はあるだろう?」
ハリーは最後に特大の爆弾を落としておくことにした。
「……えっこの流れで僕は勉強しないといけないんですか!?」
案の定、コリンは血も涙もないハリーの発言にドン引きした。先ほどまでの流れは何だったのかと言わんばかりに恐れ慄いた顔をする。
(……デスイーターに立ち向かう時より怖いって顔をしている……)
「当たり前だろう。ドイツは英国と違って忖度とかしてくれないんだから……ほら、そんな顔するなよ。……ドイツのカリキュラムには該当してなくて役に立たないかもしれないけど、僕の取った六年生のノートとか貸すから……」
「あ……頂けるなら頂いておきますけど、いいんですか?先輩のノートなのに?」
「オリジナルは手元にある。双子の魔法で複製したものだから気にしなくていいよ」
ハリーは餞別に、コリンに5年生までのノートと六年生で受講した科目のノートを渡すことにした。
はっきり言えば、ハリーのノートなどよりはハリーの持っている何冊かの参考書の方がマシだ。しかしコリンにとっては、それなりの手向けにはなるという嫌な確信がハリーにはあった。
コリンは今までにないほどの満面の笑みであった。これほどの笑みを浮かべていたのは、始めて出会った時……何度辞めろと言っても聞かずにハリーの写真を撮影しまくっていた4年前のあの日以来かもしれなかった。
「では遠慮なくいただきます!本当に……本当にありがとうございます!家宝にします!」
「やめて。いや本当にやめろ」
左足首がなくなったことすら忘れて調子に乗りそうなコリンを見て、ハリーはノートを渡したことを少しだけ後悔した。喜色満面のコリンは、ふと、何かに思い至ったかのようにはっとして言う。
「……あ」
「うん?」
「……いや……なんか。ノートを他人に渡すって……トム・リドルみたいだなあって思っちゃって。ノートに先輩の魔法とか込めてないですよね?」
その発言はコリンの直感で思い至っただけの、何の意味もない的外れなものではあった。しかし、ほんの少しだけ……ハリーがまさにそのトム・リドルの力を持っていたことだけは、真実であった。
ハリーはこの時、初めて出会った時からその本質がまるで変わらない後輩を見て笑った。
ハリーの意味深な笑みを見て、コリンは不味いと思ったのだろう。すぐに訂正した。
「……ん……あっ」
「……ウソウソ嘘です!今の無かったことにできますよね!?ね!?!」
「アウト」
「あーっ!!」
ばつが悪そうに笑みを浮かべるコリンを見て、ハリーはふっと笑った。
「……でも……ありがとう」
「僕は自分がろくでもない奴だって見られてるのはわかってる。どれだけ英雄だ何だと言ったって結局、人を殺すことに変わりはないし、君達を殺し合いに巻き込んだろくでなしだ」
コリンの顔には少しだけ神妙さが宿っていた。
「それでも……だからこそ、コリンみたいにそういうことを気にせず言ってくれる奴が居てくれて僕は……少しだけ救われた気がする」
「……先輩達は言わないんですか?ハーマイオニー先輩とかは言ってそうな気がするんですけど」
「……少し前までは言ってくれた。でも……もうそんな段階じゃなくなった」
ハリーにとっては最早許してほしいと考えることすらハーマイオニーと、そして今はもう居ないダンブルドアに対する侮辱になることはわかっていた。
ハリーがついに態度を改める前に、ダンブルドアはこの世を去ってしまったのだ。今更どうして赦しを乞えるだろう。
「じゃあわかってもらうまでつきまとうのはどうですか!僕みたいに!!」
思いつく限り最低最悪の選択肢を挙げたコリンに対して。
「コリン、君には本当に何というか……負けたよ。」
ハリーはもう笑うしかなかった。
ホグワーツ魔法魔術において、スリザリン生とグリフィンドール生との間には、常に奇妙な緊張感が存在する。
しかし、何事にも例外というものはあった。
ハリー・ポッターとコリン・クリービーとの関係は、いわゆる対等な友情と言うには外れていた。
先輩と後輩という上下関係を軸としており、かたや崇拝かたや使役という歪なものであった。しかし、グリフィンドールとスリザリンという枠組みを超えたひとつの形ではあった。
***
(……このホグワーツでこれ以上……生徒達が傷つくようなことが起きて欲しくはない)
ポピー・ポンフリーは、クリービー一家を待つ間、目を閉じていた。不眠不休でコリンの治癒にあたっていた為に眠りについたわけではない。
彼女は祈りを捧げていた。彼女の胸元には、ヴォルデモートによって失った家族の肖像が入ったロケットがぶら下がっていた。
(……せめて……せめて、ダンブルドアがあの子達を生かす為の策を遺してくださっていれば……)
祈りは所詮祈りでしかなかった。ポピーにはダンブルドアの策など知りようもない。
ただ、熟練のヒーラーとしてダンブルドアの遺体を検分した彼女にだけ解ることがあった。
ダンブルドアの肉体は、呪いに侵されとうに人としての限界を超えていたという事実。
アバダケダブラに撃ち抜かれて死んだことには違いない。ハリーの証言に従えば、それ以前にドラコ達から呪いを受けたわけではない。つまり、それ以前の問題で……ダンブルドアが既に死の淵にあったという事実を、ポピーは認識した。
ポピーは、そこに何か意図的なものを感じずにはいられなかった。
アルバス・ダンブルドアという老獪な魔法使いを知るポピーは、せめてダンブルドアがその知恵でもって生徒達を導く策を遺してくれていることを祈った。
ポビー・ポンフリー校医は、ヒーラーとして厳しく、そしてあまりにも優しすぎる人であった。
先の内戦において身内をヴォルデモートに殺害され、ボガートがヴォルデモートへと姿を変じるようになっても、彼女はヒーラーとしての職務があった。勤務先のセントマンゴに運び込まれたデスイーターを前にしても、ヒーラーには治癒する義務がある。
治癒しないわけには、いかなかった。
だからこそ、ポピー・ポンフリーは職場を変えた。
新しい勤務先のホグワーツ魔法魔術学校はポピーにとって理想の職場と言えた。少なくともホグワーツの生徒は、親族がそうであったとしてもデスイーターではない。そう思っていたからだ。
……もちろん、現実は違った。
ポピーが何回か治癒したこともある……本音ではぶち殺したいほど憎いマルフォイ家の御子息はデスイーターとなり、闇陣営に対抗するハリーもまた闇に手を染め、無関係の生徒まで巻き込んで殺人という泥沼に足を踏み入れた。
そんな地獄の中においてポピーは結局、光陣営の勝利と闇陣営の敗北を願う一般人でしかなかった。
現実は残酷にも、本来傷つくべきではない子供達が傷付き、運ばれてくる。コリンやハリーは既に大人への準備期間を終えようとしているとはいえ、割り切れるものではなかった。
ハリーとダフネに見せた骸骨は、彼女の魔法で作り出した偽物である。本物の遺骨は既に魔法省を経由して、デスイーター達の遺族へと送られているだろう。
彼女はダフネとハリーに餞別として、彼女が愛用していた救急箱を一箱ずつ渡していた。十字が刻まれた救急箱の中には、何十種類もの症例に有効なポーションと包帯や血清剤などの治療器具があった。そして、救急箱の底には、症例に関するノートが詰め込まれていた。ダフネはそのノートを見ては、何度も何度も頭に刻み込んでいた。
***
ハリーとダフネが、ポピー・ポンフリー校医から講義を受けていた頃。
「……こんな馬鹿な話がありますか!ここは戦場じゃないんだ!学校なんですよ?なのにどうしてうちの子がこんな目に……!」
血走った目で、クリービー氏がミネルバ・マクゴナガルに叫んでいた。マクゴナガルの隣にはスーツ姿の端正な顔立ちの中年男性と、紳士服に着替えたマッドアイ・ムーディが座っていた。
眼帯をつけたマッドアイの容貌はクリービー夫妻をたいそう驚愕させた。日常生活ではまずお目にかかることはない代物だからだ。戦場の雰囲気を感じ取ってしまったクリービー夫人は、怯えながらマッドアイ、そしてシリウスから視線をそらしていた。
「よ……4年前……!あの時、もうこんなことは起きないと校長先生は仰られた!だから私はデニスを含めて、子供達を預けたのに……!」
クリービー夫人とデニスは、我を失っている父親の剣幕に押され何も言わない。いや、言えない。
コリンはホグワーツに起きた複雑怪奇な事象について、父親と母親にはその全てを打ち明けてはいなかった。しかしそれを責めるべきではない。ホグワーツが常にテロリストから狙われる可能性がある無法地帯だと聞いて、子供を通わせる親がどこにいるだろう。
ホグワーツ魔法魔術学校校長であるミネルバ・マクゴナガルは、辛抱強く説得を続けるしかなかった。
「ミスタ・クリービーの一件に関して、非は全面的にホグワーツにあります。……全ては、私の責任です」
気品ある佇まいのミネルバ・マクゴナガルから謝罪と説明を受けても、クリービー氏は現実を受け入れるのに時間を必要としていた。息子が一生残る傷を負ったというだけで、耳を疑う悪夢なのだ。
まず、テロリストが校長を殺害したというだけでも、クリービー氏にとっては大きな違和感を感じざるを得ないものだった。
コリンやデニスのための魔法用品の買い出しにダイヤゴンアレーに繰り出した時、クリービー氏もその閑散とした雰囲気に異様なものを感じ取ってはいた。少し歩けば、デスイーターだのテロリストだのという単語は耳に入った。
しかしだからといって、なぜ学校が狙われるのだろうか?なぜ息子がそれに巻き込まれなくてはならないのだろうか?クリービー氏はテロリストというものが活性化している魔法界でも、それがホグワーツ魔法魔術学校を襲うと結びつけることは出来なかったのである。
「本校の校医が先程も申し上げました通り、御子息の容態は芳しくはありません。大きな病院に連れて行く必要があるのですが、残念ながら現在の英国魔法界においては病院すらも安全な場所とは言えません」
「そ……そんなこと……こんな馬鹿な話があるか……こんな馬鹿な……」
クリービー氏は怒りのぶつけどころがなかった。わなわなと唇と拳を震わせ立ち上がったが、彼はそれを聞いてどうすることもできない。
何せ相手は魔法なのだ。
幼い息子たちに起きる奇妙な出来事に何が起きているのか、どう対処すれば良いのかさえ、クリービー氏にはわからなかった。
様々な病院の医者に尋ねても解決策などありはしなかった。唯一の解決策は、それを奇妙だとか気味が悪いとか思わずに受け入れることであった。
クリービー氏には具体的にこれから何をどうすれば良いかという案はなかった。怒りの中には、今後に対する焦りと不安も多分に含まれている。
デニスとコリンをホグワーツから去らせ、コリンを病院に入院させる。それ以外にコリンの身の安全を保障しつつ、失った左脚を取り戻す手立てはない。
義肢を用意する、というだけならば何も魔法界に拘る必要はないかもしれないが、マグルの世界の治療ではコリンの症状を悪化させるだけだという。
マグルの医療ではコリンに掛けられた呪いというものを緩和させることすら叶わない、らしいのだ。
魔法世界のテロリストが、コリンや自分達家族のことを放っておくのかどうかという不安もあった。別段自分達に興味などなくても、組織に歯向かった上で自衛手段を持たない非魔法使いは、デスイーターにとっては格好の餌だという。クリービー氏を蝕んでいるのは、この死の恐怖によるものも大きかった。
デスイーターというのは魔法界のギャングのようなものだ。弱い人間に対して非情であり、隙を見逃さず、徹底的に痛めつける。クリービー家は知らぬうちにそういう連中から狙われる立場になってしまったのだ。
クリービー氏には銃を扱った経験すらない(そもそも英国は銃刀法がある)。魔法使いに対して有効な自衛手段など、ありはしない。警察に相談したところで、頭の病気を疑われて終わりだ。
「ミスタ・クリービー。御子息に起きた事態は我々の責任だが……これ以上堂々巡りしていても意味がない。御子息達とご自身の身の安全のために、貴方がたには我々の護衛という名のプライバシーの侵害を受け入れてもらわねばならん」
マッドアイが魔法の瞳を向け、凄みをきかせてクリービー氏に言い聞かせる。ぐるぐると自在に動き回る目玉はもはやこの世のものとは思えない薄気味の悪さであった。
その効果はてきめんで、クリービー氏はごくり、と唾を飲み干してたじろいだ。
(私は見知らぬテロリストも怖いが、貴方達も怖い)
という本音を、クリービー氏は明かすことは出来なかった。
クリービー氏には知ったことではないが、シリウス達二人とも絶え間なく続く闘争の後に指導者を失った直後である。身に纏う雰囲気は一般社会のそれとは異なる。
十日間連続で三時間残業した後ですらこうはならないと言える、刺々しく殺伐としたものである。それを目の前にして平常心を保つのは難しかった。
(……最悪だな……)
シリウスはまともに説得することは不可能であると考えていた。
コリン・クリービーを英国内で治療することは最早不可能である。ダンブルドアのかけた庇護魔法がダンブルドアの死後も正しくその効力を発揮してくれる保証はなく、クリービー夫妻もデニスも英国国内に留まることはできない。
しかし、2人とデニスを説得できなかった場合は、魔法によって彼らに行動を強制することになる。
精神的圧迫による強制か、魔法による有無を言わさぬ強制か。何れにせよ、クリービー夫妻やデニス、そして当事者であるコリンにする選択の余地はない。
ないのだが、魔法で無理やり従わせるより、不承不承でも同意の上で避難するという体の方がシリウス達の精神的な罪悪感も幾分か和らぐのだ。
どう見ても堅気の人間とは思えないマッドアイ・ムーディと、スーツに身を包んだシリウス・ブラックの組み合わせは劇薬であった。ホグワーツ校長代理のマクゴナガルがいてなお、クリービー夫妻にとってはマフィアに脅されているとしか思えないほどの重圧であったであろ
「アラスター、抑えてください。我々に怒りをぶつけたい気持ちは重々承知しています。我々を信用できないという意見も至極当然のことです。しかし、現時点での現実を直視して、我々を使っていただきたいのです」
「つ、使うとおっしゃいますと……?」
交渉事における嫌な役がムーディなら、親切な役がシリウスであった。一見するとビジネスマンにも見える風体のシリウスの言葉に、縋るようにクリービー夫人は飛びついた。
「現時点の魔法界において、最も義肢・義足の技術が優れているのがドイツです。ドイツであれば、闇陣営……と我々が呼んでいるテロリスト達も、御子息を追うことはできません」
「で、では息子の足は治るのですか……?」
「校医の診断によれば、再生治療によって失った足を復活させることはできません」
クリービー夫妻の悲嘆は重かったが、それでも、ミネルバは言わなくてはならない立場にあった。
「が、ヒーラー……魔法界の医師の監督下でリハビリテーションを行えば、魔法の義足によって普段通りに歩くことは可能のようです。こちらにいるアラスター・ムーディがその証拠です。……お願いします」
マクゴナガルが促すと、ムーディはすっと立ち上がり校長室を歩き回った。
かつ、こつ、と音を立てながらもムーディの足取りは淀みがない。ムーディが歩く速さを変えても、シリウスが足元へと放り投げたティッシュを踏み越えようとしても何の問題もない。クリービー夫妻は互いの顔を見合わせた。
「ドイツという見知らぬ土地での生活になることと、御子息の入院費や治療費については、この私……シリウス・ブラックが全面的に支援させていただきます。御子息の入院に関する費用も、義足の購入やリハビリに関する費用も私が負担しますし、デニス君の海外留学に関する手続きも私が支援します」
そう断言したシリウスを見て、信じられないという風にクリービー氏は妻を見た。
「し……失礼ですが……な、何故息子の為にそこまでして下さるのですか?貴方はホグワーツの教師ではないようにお見受けしますが……」
クリービー氏は一瞬冷静になって、ムーディやシリウスの顔をそれぞれ注視した。すると動揺で見えていなかったことも見えてくる。
ムーディという義足眼帯の剣呑な雰囲気がある老人が明らかに言い淀んでいることに。
シリウスという、テレビや映画で目にする俳優のように整った顔立ちの男の目元には、過度の心労を思わせる隈が出来ていることに。
「……御子息を戦争に巻き込んだのは私の息子です」
「……い、今何と……?」
クリービー氏の脳が理解を拒んでいた。気丈な妻が微動だにしていなければ、取り乱していただろう。
「詳細の説明は出来かねますが……私の息子がやったことの結果として、ご子息は足を失った。私は道義的に、貴方方への贖罪を果たしたい。……それだけのことです」
「い……いやしかし……それはあまりにも……ご子息が戦争に巻き込んだ?私には貴方が何を言っているのかまるで分かりません。テロリズムとそれに対する対応は大人の責任の筈ですが……」
「ええ。私が息子の行動を確認し、承認して、許可を出しました。私の責任として、貴方がたに償いをさせていただきたいのです」
クリービー氏は開いた口が塞がらなかった。怒りよりも困惑が勝る。
(わ……訳がわからない……何が起きているんだ)
あまりにも荒唐無稽な話に理解が追い付かない。そんな氏の思いを代弁するように、クリービー夫人はシリウスへ非難の目を向けた。
「し、失礼を承知で申し上げるのですが……その、わ、私には……貴方の仰っておられる言葉が1ミリも理解できません。……何故そんな風に堂々としていられるのですか?」
「……貴方のことは息子の話で度々出てきたので記憶しております。ブラックさん。正直に申しますと、私達はこれ以上貴方がたに借りを作りたくはありません」
決然とそう言い放つクリービー夫人は、勇敢であったと言えるだろう。彼女はゴシップ好きであり、幼い頃は様々なニュースや英雄譚などをよく好んでコリンとデニスに語って聞かせたこともあった。2人のの勇敢さの元になったに違いなかった。
クリービー氏は機械のようにクリービー夫人が言う言葉に頷くしか出来ない。これは不味いとすかさずムーディが口を挟んだ。
「お待ちください。貴方がたには……現実を認識していただきたいのです」
すぐさまムーディが反論した。
「テロリスト達は、特に弱者に対して容赦を知りません」
弱者という物言いにクリービー氏のプライドが刺激されるが、2人の持っている雰囲気に圧され何も言えなくなる。それを誰が責められるだろうか?
魔法という超常の力に対して自分たちは無力である。コリンとデニスを育ててきた時間で、クリービー氏はそれを嫌というほど理解していた。
コリンとデニスは家族で、肝心なところではしっかりと聞き分けられる子達であったからどうにかなった。しかし、あの暴風雨のような災害を悪意を持って撒き散らす人間に、何も知らない自分がどう対抗すると言うのだろうか?
「自分達が確実に勝てるという確信があるからです。貴方がたのように自衛手段を持たない人間は真っ先に狙われるのだ」
ムーディが、明らかに堅気に見えない容姿であることは大いに効果があった。自分はテロリストに対抗する手段を持ち、その経験がある魔法使いであることを言外に仄めかしているように見えたからだ。
「……プライドが許さないとか、我々が信用できないと言う言葉はよく理解できます。ですが私達の庇護下に入ってもらわなければ、貴方がたの身の安全は保証できないのです」
一瞬の沈黙があった。ミネルバは無念そうに、ひたすらホグワーツにおいて自寮の生徒が傷付けられ、ホグワーツから去ることを余儀なくされたことに耐えていた。
コリン・クリービーが災難に見舞われたのはこれが始めてではない。2度目であり、1度目とは違い、コリンは生涯残る傷を負ってしまったのだ。
信頼というものは、問題が起きないことによって担保されている。現在のホグワーツにはそれが欠けていた。ミネルバはアルバス・ダンブルドアの次に苦しい時代にホグワーツの校長という職責を受けた者であった。
「英国で唯一安全と言える場所が、このホグワーツだったのです、マダム」
シリウスの言葉は簡潔で、しかし丁寧で、そして残酷な過去形だった。
「テロリスト達が恐れた大魔法使いがこの学校にいたからこそ、ご子息や私の息子はこの学校に通っていました。英国中全てが危険であるとしても、ここには同年代の友人や仲間がいて、大魔法使いアルバス・ダンブルドアの庇護を受けることができたからです」
(……友人……か……)
クリービー氏は友人、という単語に苦々しく顔をしかめた。
「デニスもコリンも、ホグワーツに通えたことを喜んでいました。……頭でっかちの友人や、動物好きの友人の話もよくしてくれていました。それに関しては……私共はホグワーツ魔法魔術学校に深く感謝しています」
そう言ってミネルバ・マクゴナガルに頭を下げた後、クリービー氏は顔を上げた。その顔に浮かんでいたのは深い後悔の念であった。
「しかしそれが……」
正しかったのだろうか、という言葉をクリービー氏は飲み込んだ。
(……コリンはホグワーツに通って良かったと思った。いや、思い込んでいたんだ)
クリービー氏にとって悲惨なのは、コリンがホグワーツで同年代の魔法族という同胞の中で幸せを享受できたとしても、それが現実問題としてコリンにとって是であるという確信が持てないことだ。
クリービー氏や夫人にしてみれば、魔法使いというのは魔法という手段を持っているだけの人間である。魔法使いになどさせず、最初からセカンダリーに通わせるべきだったのではないか、という思いが拭えないのだ。
「若い時期の友人というのは貴重です。……あくまでも私の個人的な意見ですが、その時期に過ごした仲間との思い出は、何物にも代えがたい財産になります」
「……そして一生残る傷に」
刺すように言うクリービー夫人に、シリウスは謝罪の意を込めて頭を下げた。
「……よそう……私が冷静さを欠いていたのが悪い。この人達は、我々を助けてくれると……マクゴナガル教頭が仰っているのだから」
少しの沈黙があった。クリービー夫人はデニスからのプレゼントである魔法のハンカチをきつく握りしめ、それを使って涙を拭った。魔法のハンカチは、ふわふわとした触感を持ち、夏場は自動で涼しく、冬場は自動で暖かくなる優れものだった。
シリウス・ブラックの言葉にクリービー氏は頷いたが、それでもという無念は拭えない。しかし、決断するより他になかった。
「……他の選択肢がないというなら……我々を……助けていただきたい。どうかお願いします。デニスにも負担をかけることになってしまいますが……」
「私が見る限り」
ミネルバ・マクゴナガルは、そこで優しく言葉をかけた。
「御子息のデニスは、ホグワーツでも稀に見るほど深く兄を敬愛しています。彼は自分の境遇を誇りこそすれ、負担に思うことはないでしょう。……とても勇敢で、大胆な生徒ですよ」
デニスはグリフィンドール生らしいグリフィンドール生であった。闇陣営に立ち向かった兄を誇りに思い、兄の言葉を盲信するわけではなかったが、自分に降りかかった災いに対しても恐れず乗り越える覚悟があった。
「……どうやら御子息達は、魔法使いとして欠かせない立派な資質を備えているらしい」
シリウスもまた微笑んだ。笑うと、場の空気が少しだけ和らいだ。緊迫した空間にほんの少しだけ暖かいものが広がる。
「資質……ですか?あの子達に」
クリービー夫人はシリウスの言葉に、驚いたように言った。デニスとコリンの寮監は、クリービー夫人に対して優しく微笑んだ。
「ええ。それは勇気です。……魔法界において最も優れた人間が持つ資質ですが、残念なことにそれを持てる人間は、多くはありません」
(……ああ、やはり魔法の世界もろくでもなかった)
この時、クリービー夫妻は何を考えたであろうか。ホグワーツ、否、英国魔法界や魔法族そのものに対して深い軽蔑と恐怖を抱いたに違いなかった。
「しかし、ご子息はそれに屈したくはなかった。負けたくはなかったのです。自分の身は自分で守れるように……何よりも、貴方がたを守れるように。彼は戦ったのです」
クリービー夫妻は恥ずかしげに、しかし誇らしげに胸を張るデニスの姿を見て声が出なかった。
「クリービー兄弟は実にグリフィンドール生らしいグリフィンドール生でした。……どうか、彼らの決断と勇気を褒めてあげてください。年齢の問題ではなく、一人の人間として彼らは勇敢で高潔で、褒められるべきことをしたのです」
「……それは……言われるまでもありません」
クリービー氏は顔を真っ赤に染めるデニスの姿を見て、己の考えを少しだけ修正した。
ホグワーツ魔法魔術学校は、クリービー夫妻ら保護者にとっては息子たちの生命を危険に晒す最低最悪の教育機関だった。しかし、どうやら息子達にとってはそうではなかったらしい、と彼は思い直した。
それでも、クリービー氏が去り際に本音を漏らした。
「これは私のエゴなのかもしれませんが……たとえ、たとえコリンやデニスがここで会うはずだった友人と会えない一生だったとしても。……二人が生きて大きな怪我も負わず。健康でいてくれる未来があったのだとしたら。私は2人をホグワーツに通わせるべきではなかったのではないか。……そう、考えてしまうのです」
「……」
その言葉は、ミネルバ・マクゴナガルにとってどう響いたであろうか。そして、シリウス・ブラックにとってはどう感じたであろうか。少なくとも二人に、嘆く父親へとかける言葉は見当たらなかった。
オーダーは、賞賛すべきことに、発起人のアルバス・ダンブルドアが死んでなおその役目を放棄することはなかった。
オーダーは魔法によって強制的に彼らを従わせるという手段を用いることなくマグルの夫妻を説得し、彼らの逃亡先を確保した。
***
「……あまり気に病むな、ミネルバ、シリウス。私は家族を持ったこともない身だが、今の英国において家族が危険に巻き込まれることはお前達の責任ではない」
クリービー夫妻の説得に成功した後。
アラスター・ムーディは己が携帯している小瓶の水を飲み干し、ミネルバ・マクゴナガルとシリウスへとそう話しかけた。
ムーディとしては慰めの意図半分、自責半分である。先の内戦でヴォルデモートが疾走した後、ムーディはルシウスを筆頭としたデスイーター達をアズカバンに送ることは出来なかった。ルシウス達はより狡猾で、保身に長け、政治力と司法取引によって罪を逃れた。
文民統制の原則に従うなら、闇祓いは責めを負うべきではない。しかし、ムーディはその原則に反して独自の判断でオーダーに与していた身である。
何もかもが中途半端に終わってしまった。終わらせてしまったがゆえに、今の惨状があるのではないか。仲間の死は何だったのか。そういう無念はムーディの心の奥底にあった。
「誰もが想像するような真っ当な家族。生命が脅かされることのない学校、というマグルの一般家庭で話すような理想的な家庭が今の英国に存在しないことは最早割り切るより他にない。しかし、それはミネルバのせいでもアルバスのせいでもない。」
「お気遣いには及びませんよ、アラスター。私は全ての責任をスリザリンの輩出した恥晒しどもに押し付ける覚悟は出来ています」
ミネルバは気丈に、そして彼女らしく振る舞った。かつて家族を闇陣営の暴挙によって喪ったことを思えば、この言葉は優しすぎるほどであった。
「ホグワーツが創立以来の危機に直面していることは確かです。保護者の方々が我々教職員に対して厳しい視線を向けていることも、粛々と受け入れる必要があります。私は校長代理として、他の教職員達の盾になってそれを受ける覚悟があります」
「張り詰めすぎるのも良くはなかろう。……全て万全を尽くしてなお及ばぬことなどこの世には幾らでもある。だからこそ、自分を赦し気を落ち着かせなければやってられんぞ」
思わず忠告したアラスターに対して、ミネルバはええ、と頷いた。苦境にあって人間の本質が現れると言うならば、彼女の本質は教育者であり、優秀な指導者であると言えるだろう。
(……ミネルバはともかく……問題は……)
ムーディは眼帯越しに、魔法の義眼でシリウスに目を向けた。
シリウス・ブラックが豪快さの裏に繊細さを併せ持っていることは、人付き合いというものに億劫さを感じるムーディであっても察せられる。ハリー達にまともな青春、安全なホグワーツというものを与えられなかったことをシリウスが悔いているに違いないという確信がムーディにはあった。
「わかっているつもりです。俺は正直に言えば、ハリーの親としては失格そのものでした」
シリウスはもはやサングラスをかけてはいない。己の本心を、ムーディとミネルバ・マクゴナガルに打ち明けていた。
「いつも肝心な時にハリーの側にいてやることが出来なかった。……そして、ハリーの心から恐怖と怒りを取り除いてやることも出来なかった。ですから、クリービー夫妻が俺を奇異の目で見るのは当然のことです。マリーダはともかく、俺は親を演るにはあまりにも不適合でした」
ミネルバ・マクゴナガルは首を横に振った。
「ポッターの犯した行動について、責任を感じる気持ちはわかります。ですが、よいですか?ポッターはあのスネイプの影響下にあったのです。貴方と過ごすよりよほど多くの時間を、あの卑劣な男から悪しき影響を与えられたとしても過言では……」
(まずい)
と、ムーディは思った。
ムーディはダンブルドアから、リーマスとシリウスとジェームズがセブルスと敵対的な関係にあったことを聞いている。会議の場で絶対にシリウスと同席しないセブルスの姿から、ダンブルドアの話が疑いようのない真実であることは明らかであった。
シリウスがハリーに対する責任感と、スネイプに対する怒りから単独行動を取るのではないか。そんな予感がムーディにはあった。事実あの温厚なリーマスでさえ、ダンブルドアの死後はスネイプを公然と罵倒したのだ。
「俺は自分の過ちを誰かのせいにする気はありません。ハリーに対して、もっと……」
しかし、シリウスは続く言葉を言うことは出来なかった。シリウス自身に、何をどうすれば良かったのかという明確なイメージがないことは明らかであった。一杯一杯の中で必死に親を演じてきたシリウスにとって、あれ以上のことはできない。
シリウスを苛んでいるのはスネイプに対する怒りではなかった。無論リーマスと同じような怒りと憎しみは存在するだろうが、シリウスが家族のことを考えているのは明らかであった。
「……とにかく、ハリーと話をしたいと思います。今後のことも、家族のことも含めて……」
(昔とは違う……か。それがシリウスにとって良かったのか悪かったのか……)
かつての自信と傲慢さに満ち溢れたシリウスとは違う、疲れた男の背中に、ムーディは老いを感じ取っていた。
それは過労や年齢によるものではなく、かつてとはまた異なる種類の責任を背負ったことから来る老いであり、軽率な行動を取りたくても出来ないことによる哀しみが感じられた。
オーダーはダンブルドアの死後もその活動を止めることは許されない。ダンブルドアの庇護魔法によって保護していた面々を避難先に移送し、最低限のことが可能になるまで保護しなくてはならないのだ。
(老いたな、シリウスよ……)
ほんの数分前にも、シリウスはクリービー夫妻を守ると宣言しているのだ。オーダーとして果たすべき責任が、かつてのような行動をシリウスに取らせることを拒ませている。ムーディは気遣わしげに声をかけた。
「……シリウス、くれぐれも早まった行動は慎むことだ」
「承知しています、マッドアイ」
シリウス・ブラックの背中に対して、ミネルバ・マクゴナガルは労いの言葉をかけた。その言葉は、シリウスの心に響いたのかどうか。
「貴方がどう思っているかは別として、かつてホグワーツを去った頃からは見違えるほど貴方は立派になりました。私はかつての寮監として、貴方を誇らしく思います」
***
医務室から出たハリーとダフネを待ち構えていたのは、シュラークであった。シュラは深く一礼すると、包みを取り出してハリーに見せた。
「これをご確認ください、先輩。フリットウィック教授から先輩への贈り物です」
「ありがとう、シュラ……ん?」
ハリーは、シュラークから右手に取付ける金属製のガントレットを受け取った。
魔法によるものか、ガントレットには本来感じるべき重さがほとんどなく、そして、表面は銀色に輝いている。ハリーは右手にガントレットを嵌めてみたが、魔法によって制御されているのか、指先の動きを損なうことはなかった。
「これは銀……か?」
ハリーは一目で確信が持てなかった。ガントレットに、どこかで見覚えのある不吉な雰囲気を漂わせていたからだ。
「そのガントレットはゴブリン製の金属でできているそうですよ。装着者にフィットするように自動的に収縮し、大概の呪いやエクスペリアームスを防いでくれる優れものです」
「……その代わり、アクシオ(引き寄せ)によって取り寄せることはできません。ご留意ください」
「ゴブリン製か……そんな貴重なものを、なぜ僕に……?」
英国魔法界はゴブリン族とは長年緊張関係にあった。歴史を語れば長くなるので割愛するが、金稼ぎを卑しいものとして考えるヒトの魔法族と、一度所有した物品に対して強い所有権を持つとするゴブリン族との間では価値観に相違があり、ヒトはゴブリンに対して、ゴブリンもまたヒトに対して侮蔑的な感情を向け合っていた。
そのせいで、ヒト族はゴブリン族と比較し錬金術や精錬の分野において劣るところも多く、ゴブリン製の金属は非常に希少で、市場においては目が飛び出るほどの値段で取引されていた。箒における歴史的名機、ファイアボルトの定価が箒とは思えぬほどに高騰したのも、ゴブリン製の金属を使用していたことが一因にあったほどである。
シュラークは敢えてハリーに対して説明を省いたが、これはヴォルデモートが神秘部の戦いにおいてダンブルドアとの決闘の際に作り出した”銀の盾"を参考に、フリットウィック教授が開発した代物である。
ゴブリン製の特殊な伸縮性の金属を魔法によって自在に形状を変形させ、外側を魔法の干渉を阻む銀で表面をコーティングすることで、高い抗魔法力を保持するという優れものだ。
「今は貴方が、闇の帝王に対抗するための象徴だからです」
(恩師はそんなことを考えてはいないでしょうが)
シュラはフリットウィックの真意ではなく、自分の考えを述べた。
「ダンブルドアは亡くなられました。そう……この世で最も偉大な善の魔法使いダンブルドアが」
「光陣営の最大戦力が潰えた以上、英国魔法界を率いるのはスクリンジャーをおいて他にいません。ですが、教授は帝王の復活を認めなかった魔法省ごときに今更何ができると言っておられます」
(本当か……?あのフリットウィック教授がそんなことを……?)
ハリーから見たフリットウィック教授は、よりレイブンクローらしい考え方の教授であった。
シュラークの述べた意見は、社会的な見方を重視した俗なものだ。フリットウィック教授は、自らの研鑽した知と魔法の術が、生徒たちの生命が闇陣営との戦いで失われることを恐れるだろうが、社会からどう思われるかなどを重視するタイプの人種ではない。それはフリットウィック教授ではなく、スラグホーン教授らしい考え方であった。
「ああ……いや……何でもない。」
ハリーはフリットウィック教授の人柄から、シュラークの言葉に違和感を感じ取っていたが、敢えて余計な詮索はしまいと思った。ただ師への感謝があればそれでいい。
「ありがとう。教授に対してはろくな挨拶もできないままだったけど……これは僕らの助けになると思う。」
そうシュラークとハリーが話している間、ダフネは呆けたように口を空けていた。
「……ねぇちょっと待って頂戴。それを見せてもらえるかしら」
ハリーから手渡されたガントレットを撫で、ダフネは己の右手に嵌めてみる。ハリーの右手に合わせた大きさだったガントレットは、しゅるしゅると音を立ててダフネの右手に合わせた大きさに縮まった。
その様を見てダフネは呟く。
「このゴブリン製の銀……義足に転用するとか、治療に用いることって可能なの?」
「……どういう意味ですかミス・グリーングラス?」
シュラはきょとんとした表情でダフネとハリーを見比べる。ハリーは思わずはっとした。
「……そうか、ゴブリン製の希少金属は魔法を吸収する効果がある。もしそういった効果が期待できなかったとしても、このガントレットを義足に転用できれば……コリンのリハビリにかかる負担は減る……!」
「……?」「っ!!!」
ハリー、ダフネ、そしてシュラークはすぐに保健室へと舞い戻り、両親とともにホグワーツを去るところであったコリンと再会した。
コリンの目の前にあるノートを見て、シュラークとダフネはハリーに対して哀れみの視線を向けた。
***
結論から言えば、ポンフリー校医の見立てでは『義肢への転用が可能かどうかは分からないし、それが治療にとって効果的かは試してみなければわからない』ということであった。
理論上は、魔法の金属によってコリンの全体重を支えることは可能である。ただしガントレットとして定着した金属を義足へと変えるのは専門の職人による加工が必須で、今すぐ検証できるわけではない。
魔除けの銀によるコーティングを剥がさなければ、魔法を吸収する効果を検証することもできないのだ。
「ゴブリン製の金属は非常に希少で、市場に出回ることも滅多にありません。ミスタ・クリービーのいる今この時にこれが入手できたのは、不幸中の幸いだったかもしれませんね……」
ゴブリン製金属というのは厄介で、一般の魔法族がお目にかかることはまずない。
そもそも魔法族はゴブリン族とは友好的な関係にはない。ゴブリン族がかつてランロクの乱を起こしたためでもあるが、歴史的に魔法族のヒトはゴブリン族を金に執着する卑しい種族と見なし侮蔑の対象としてきたからだ。敵対関係にこそないが、ゴブリン族はヒト族に自らの秘宝を明かすことは滅多にない。
だからこそ、ゴブリン製の金属を用いた世界最速の箒ファイアボルトは、ニンバスなどとは比べものにならぬ高値をつけているのだ。
とはいえ、コリンの義肢の候補が増えたことは確かであった。ポンフリー校医は既に書いていた診断書に加えて、ガントレットの説明のために新しく手紙を書いた。
ハリーから手渡されたフリットウィック教授からの餞別のガントレットを、コリンは恭しく己のトランクにしまい込んだ。
コリンを見送りに来たルナは、コリンと親愛のハグをかわした。その後、コリンに対してこう言った。
「ドイツでスノーカックを見つけたら手紙書いてね?ちゃんと返すから」
スノーカックがルーナしか信じていない未発見の(おそらく実在しない)魔法生物だと知らないコリンの両親が何かを誤解しているのを見て、シュラークは居た堪れないようにそっと医務室を後にしていた。
コリン・クリービーと同じく、ルナ・ラブグッドもまた、ハリーと出会ったときからその芯は変わることはなかった。
***
「……ありがとうございました、グリーングラス先輩。コリンにとって、少しの慰めと激励になったと思います」
「いや……私は何も……でもどうして、使えるかもという発想がなかったの?身体に悪影響を与えず、親和性がある流体金属だなんて如何にも義肢向きなのに」
「……僕はわかるよ。男子っていうのは、全部を戦いに結び付けてしまうものだし……コリンのことで頭が一杯で、君は闇陣営に対する復讐のことばかり考えていたんだろう?」
シュラークはかなりショックを受けたように言った。
「……教授がガントレットを俺に渡したのは、そういうことだったのですね。俺は自分で思ったよりずっと愚かな人間だったようです」
「取り返しがつかなくなる前に自分で気付けるだけ成長だよ」
ハリーの慰めとも言えない慰めに、シュラークは苦々しく頷いた。
「本当に……ありがとうございました。コリンがあそこまで笑っていたのは、間違いなく先輩達のお陰です」
「そうね。ハリーの功績よね」
「何でだい?」
「そ、それは俺の口からは……」
シュラークが言いにくそうに言葉を選んでいるので、ダフネは頬を染めながら言った。
「……そうね。ギルデロイ・ロックハートを崇拝していた頃のグレンジャーが、彼から直接、冒険日誌を渡されたと言えばわかるかしら」
この時、ハリーはコリンにノートを渡したことを心の底から後悔した。取り返そうにも、コリンは既にムーディに連れられて姿を消し、この場にはいない。そのハリーの姿を見て、ダフネは面白そうにハリーにとどめを刺した。
「まぁ、後悔しても遅くってよ。貴方は重度のファンに進んで自分のサインを渡したのよ、ハリー。観念することね」
そんなハリーたちの姿を見て、シュラークは言った。
「そう……後悔するのではなく、貴方には常に前を見てもらわねば困ります。俺達には、後ろを振り返り悔やむ暇も余裕もありはしないのですから」
シュラークはハリーの翡翠色の目を見てくる。整った顔立ちに対して、ハリーはしっかりと視線を返した。ハリーのオクルメンシーの効果によるものか、シュラークの無言レジリメンスをはね返し、逆にシュラークの断片的な感情の欠片がハリーの中に流れ込んでくる感覚があった。
それは敬意であり、困惑であり、そして恐怖であった。
「……ご自身のすべきことを熟慮して行動していだきたい。俺はそう思います。敢えて言うまでもないことではありますが、言わせていただきます」
「んー?どうしたの、急に畏まって」
つんつんとシュラークの頬をつつくルナに対して、シュラークは生真面目に言った。
「今だけは口を閉じていてくれ、ルナ」
(君は立派だよ、シュラーク。その調子だ)
そんな感情をおくびにも出さず言うシュラークをハリーは内心で賞賛した。
「先ほども申し上げましたが、ダンブルドアが倒れた今、貴方の今後の振る舞いが、残されたスリザリン生である俺達への世間からの風当たりを決めると言っても過言ではありませんから」
「わかっているよ。……君も、僕を信じてくれるんだね。嬉しいよ」
そう返したハリーを見て、シュラークはひとつの確信を得ていた。
(……やはり……この人は)
ハリーもダフネも、そして、ルナやハーマイオニーやロンでさえも気付いてはいなかったが、この時、シュラーク・サーペンタリウスはひとつの確信を抱いていた。
ハリー・ポッターは死ぬ気である。
ハリーは、どういうわけか生き残る気が全くないということに、シュラークは気付いた。そしてハリーにそれを悟られることはなかった。
歪んだ英才教育によって身につけたレジリメンスを濫用しまくったシュラは、人々の見せる感情の色合いというものをつぶさに観察する機会があった。
レジリメンスは万能の力ではない。精神構造が複雑な人間であればあるほど、感じ取ることができる意識は何層にもわたる複雑なものになる。
例えば、勇敢な人間……シュラークの同期であるグリフィンドール生であるシノの場合。
闇陣営に対する怒りの裏には拭い去れないほどの死に対する不安が。
正義を信じる心の裏には、闇陣営に対する侮蔑と嘲笑が。
恐怖などないとばかりに破天荒な行動を繰り返す裏には、自分自身の判断と責任によって仲間を失うことに対する病的な恐怖心が見え隠れしていた。
シュラークはホグワーツの中でも、ホグズミードでも、様々な人の心に接する機会があった。その誰もが死を恐れていた。
あのロン・ウィーズリーやハーマイオニー・グレンジャーでさえ例外ではなかった。シュラ自身も含めて、誰もが迫りくる死を恐れていた。それは勇敢さとか善悪とは別に、生物としての本能的な恐怖に違いなかった。
特に常日頃から過激な言動を取っているアズラエルなどからは、死にたくないという本音が駄々っ子のように漏れ出ていた。それは美しいとは言えないが、シュラークから見て否定する意味はなかった。
愚かだと、臆病者と見下せるようなものではなかった。むしろ人としては正しい心の有り様に思えた。
今、シュラークがハリーの胸中から読み取れたのはヴォルデモートに対する禍々しいほどの殺意と使命感、仲間達の今後に対する不安。仲間達への感謝。そして、諦観だった。
(死ぬ覚悟を決めることと、生きることを諦めることは違う。貴方はどちらなのですか?)
喉元から出かけた言葉を飲み込み、シュラはガントレットをハリーへと渡すだけにとどめた。それは、親友に対して英雄を演じてくれた先輩に対する、シュラークなりの敬意と、ダフネ・グリーングラスに対する配慮であった。
(俺がすべきことは……沈黙……か)
ハリーが生き残る気がないというのは、ハリー個人を信じ、ついてきたコリンやダフネ。ハリーとの友情に感謝していたルナ達に対するこれ以上なく残酷な仕打ちに違いなかった。
***
「……ねえ。ハリーと、何かあったの?」
「あり過ぎたと言ってもいい。俺はどうやらセブルス・スネイプの言葉に従うなら、感情を制御できない愚か者であったらしい」
シュラークは己の手を見下ろした。
感情に任せて暴力を振るうなど始めての経験だった。その上、お門違いもいいところであった。シュラークはこれまで他人の心を覗いては、理性的ではない行動をする他人をどこか見下すことがあった。
しかしひとつ蓋を開けてみれば、何のことはない。自分もラベンダー・ブラウンらと何ら変わらない、いや、ある意味でそれ以上に愚かで短絡的な人間に過ぎなかった。
「ふーん。そう?……ならそういうことにしておくけど」
「……言いたくなったら言ってね?」
「わかっている。その時は聞いてくれ。そんな日は未来永劫来ないだろうがな」
シュラークはルナにも明かすつもりはなかった。
ルナがハリーの挙動や言動から何かを察してもおかしくはないが、確定する要素を増やして不安要素を増やすつもりは毛頭なかった。
そう、ルナもまた友人としてハリーに感謝していた。もしもホグワーツの1年目でハリーと会っていなければ、孤独という重い鎖が自分を蝕んだであろうことをルナは朧気に理解していたからだ。心を読まなくてもその程度のことはシュラにも察することはできた。
(……ポッター先輩。貴方は分かっているのですよね。自分が死ぬことで悲しむ人間が存在するということを)
どこの世界に望んで死を選ぶ人間がいるというのだろう。ハリーだって、自らの判断に疑問や迷いを抱かなかったわけではないだろう。
それでもハリーが自らの死を前提に動くのであれば、シュラークにできることは何もない。否、何もすべきではない。それが、シュラークの出した結論であった。レジリメンス使いであるシュラークにとって、秘密というのは閉じるもので、けして明かすものではない。ましてやそれが確定していない情報なら尚更だ。余計な不安を煽っても意味はないのだ。
(……俺がすべきことは……あの人の死後も迅速に動くことができるように場を整えること……か)
シュラークはこの時、ハリーの死後も内戦は終わらないことを確信した。
内戦の終結条件は四つあるとシュラークは思っていた。
一つ目は、ルーファス・スクリンジャーの死亡。魔法省という組織が闇陣営との闘争を本心では嫌がっていることは、ドロレス・アンブリッジを見れば明らかであった。
二つ目は、ヴォルデモートことトム・リドルの死亡。先の内戦で、闇の帝王の失踪を機に闇陣営の残党が分裂したことからヴォルデモート死後も混乱は続くだろうが、日和見主義のデスイーターは早々にヴォルデモートを見限って同胞を売るだろう。
三つ目は、アルバス・ダンブルドアの死亡。光陣営の最高戦力が倒れれば、光陣営に勝機はない。闇陣営の勝ちが決定し、魔法省は早々に膝を折るだろうとシュラークは読んでいた。
そして四つ目が、ハリー・ポッターの死亡だ。ハリーの存在は主に悪い意味ではあるが強烈過ぎた。シュラークは、ハリーの友人である先輩たちがハリーの死後もヴォルデモートに対して反抗する気概があるのか内心では疑っていた。
しかし、シュラークの読みは外れた。ハリーが死のうがダンブルドアが死のうが、内戦は終わらない。ヴォルデモートを殺すまではこの馬鹿げた殺し合いは終わらないのだ。最後まで戦い抜くという断固たる決意がなければ、この先己の身も友の身も守れはしないのだ。
シュラークは、ハリーを信じた者たちが、ハリーが死ぬつもりであることに気付かないよう、口を閉ざすことを己の義務に課した。レジリメンスを覚えたホムンクルスは、感情の機微や優しさや、己の弱さを知り、人間としての生き方を身につけていた。
***
ホグワーツ特急への乗車前にハリーは空き教室に裏の集会のメンバーを集めた。裏の集会のメンバーに対して激励の演説をした。ハリーは集まった面々を見比べた。
皆が複雑そうな表情であった。復讐心を滾らせ憎悪に燃えていたはずのスーザン・ボーンの目にはハリーに対する恐怖心がありありと見て取れた。アーニー・マクミランは、思考を停止してハリーの言葉に耳を傾けていた。
取り返しのつかない敗北の後とは、そういうものである。普段は抑えている恐怖や不安、周囲に対する不満(その原因の何割かはハリーの不誠実な行動に原因があるのだが)。
それらが噴出し、集団を良くない方向に導いてしまう。それをハリーは5年生の時学んだ。
「この戦いで僕達は掛け替えのない人を喪った。けれど、ダンブルドアは、僕達が争いを辞めることを望んではいないと僕は思う」
ハリーはロンを見た。ハーマイオニーを見た。ダンブルドアを喪い、頼るべき大樹を喪って途方に暮れている……だけではない。二人の目にはそれでも戦意があった。
「……この戦いで喪われた生命のために。これ以上、闇陣営の手で、僕達の大切な人を、…誰かにとってのファルカスを喪わせないために。僕らは戦う。戦って勝つ!そうだろう、皆?」
「そうだ!僕達は戦わないといけないんだ……!」
ハリーの芝居がかった言葉に真っ先に反応したのはネビルだった。
「今ここで戦うのを辞めたら……何のために、皆がああなったのかわからない!……例のあの人を倒すまで、諦めちゃいけないんだ!」
ネビルの声は震えていたが、それでも、芯があった。
「いいことを言いますねぇ、当たり前です、ロングボトム。そうでなければ、生命を懸けて戦うことを決めたりはしません」
アズラエルに同意したのはザムザである。
「ダンブルドアはいない。……魔法省も、レジスタンスも人手が足りない。自分達の身は自分達で何とかできるようにならないと、生き残ることはできないんだ」
ハリーはザムザを皆の前で褒めた。褒めると同時に、改めて口外を禁じた。
「ザムザはこの1年本当によくやってくれた。……誰より僕を支えてくれた。そしてその献身のおかげで、今ここにこれだけのメンバーが残ったと僕は思う。何が起きたのかは皆も知っていると思うけど、口外しないことを約束してくれ」
「ザムザが狙われるかもしれないからな。まァ、仲間を売るヤツなんて居るわけないしなぁ〜?」
「そんな頭ピーターがいるわけねーだろ」
あえて軽い調子でザビニが言うと、それにロンも便乗する。裏の集会に苦笑いが広がった。
「皆に詳細を説明せず、戦いに向かわせたことは済まなかった。僕は新しい魔法が本当に効果があるのかどうか、確証が持てなかったんだ」
「……コリンは攻撃魔法が無いからってグダグタ言うような奴じゃないっすけど。ザムザ先輩が使ったという攻撃魔法って俺らも使えるんですか?それ……今後も使い物になるンすか?」
シノが挙手をして尋ねる。ハリーはいや、と首を横に振った。
「はっきり言うと、今回ほどの戦果は期待できない」
「ザムザの尽力によって開発に成功したサペレ・アウデは闇の魔法使い……デスイーターにしか効かない。つまり、インペリオによって操られた人には効かないんだ」
「デスイーターやヴォルデモートはクズだけど、対策を考えないほど馬鹿じゃない。今後はインペリオを使ってくるだろう」
「元々この魔法は……戦場で無実の人を殺さない為に開発した魔法なんだ。確実に、自分の意思でデスイーターになった人間だけを倒せるように……」
「つまり実戦の魔法技術は今後も必要……そういうことなんだね?」
アーニー・マクミランはハリーの話を聞いて、少しだけホッとしたような雰囲気を漂わせながら言った。
「ああ。けれど僕がヴォルデモートなら、この魔法の詳細がまだ分からない段階でも、魔法を見極めるために無実の人間にダークマークを刻んで肉壁にするくらいはするだろう」
「そ……そんな馬鹿な。そんな非道なことが許されるのか……?」
アーニーは即座に顔色を悪くした。ロンはそんなアーニーを少し小馬鹿にしたように言う。
「新しい魔法とか斬新な発明っていうのはそんなもんだよ。有効な魔法が生まれたら、対策するための魔法や作戦ってのが必ず出てくるし、後追いの魔法だって雑草みたいに生えてくる。……フレッドの請け売りだけど」
「だから、この先の戦闘はもっと悲惨になるだろう」
ハリーはこれに関して嘘はつかなかった。
結局ハリーもインペリオを解除する方法というのは思い付かなかった。インペリオによって前線に立たされた人間にダークマークが刻まれていた場合、サペレ・アウデによって彼らが焼死しないなどとは言えないのだ。思い付く限り最悪の事態を更に下回ってくることはあり得るのだから、ハリーが思い付く限りのリスクは事前に説明しなくてはならない。
「……それでも僕を信じて着いてきてくれるだろうか?」
ハリーは尋ねた。
一瞬、沈黙があった。ハーマイオニーは思わずハリーから視線を逸らした。
「……お」
ロンが口を開きかけたその時。
「……私は」
誰かが言った。決然たる声はロンのそれをかき消すほど大きかった。その声を聞いてロンは思わず何か言いかけたが、ザビニは気にするなというふうに、ぽんぽんとロンの肩を叩いた。
「ハリーを信じるわ。……本当に……酷い。ハリーは恐ろしい人よ。ハリー以上に残酷な人は、私は一人しか見たことがない」
「でも……それでも、恐ろしいことだけど、私が死なずに済んだのは間違いなくザムザやハリーが居たからだから」
「あ、私もハリーのことを信じるから」「俺もついて行きます!」
ジニー・ウィーズリーであった。ジニーに続くように、ルナやシノが賛同の意を示した。
ザビニは不貞腐れたようにそっぽを向くロンを見て、気にするなというふうに、ぽんぽんとロンの肩を叩いた。
「ありがとう。……ここに集まってくれた皆は、間違いなくホグワーツで最も勇敢で、賢明で、忠実で、そして野心家だ」
「狡猾だろそこは」
野次るロンにハリーは無言で微笑んだ。
「皆はホグワーツの求める全ての美点を備えていると僕は思う。絶対に、何があっても最期まで戦おう。そして、勝とう」
ハリーの演説の後、パチパチとアズラエルは手を叩いた。拍手は少しずつ大きくなり、さざ波のように広がって消えた。演説が終わった後、集会のメンバーは互いに顔を見合わせながら、夏期休暇の後もホグワーツで再会できることを約束し合っていた。
笑い声が広がった集会が解散する時、ハリーはオルガに声をかけた。オルガはミカエルと共に、ネビルへと挨拶をしていた。
「オルガ、ミカエル。僕は君達にとってあまりいい先輩としてのモデルではなかったと思う。だからこの先何かあった時、ロールのモデルにするならアズラエルかザビニにしてくれ」
オルガは安心したように微笑んだ。
「心配しないでください。俺達はもう自分の足で立っていけますから。……それに、真似ようとしたって先輩は真似られません」
「なら良かった」
ハリーは屈託なく笑った。ネビル・ロングボトムに敬意を払うオルガと、戦意に満ちた目をしたネビルの姿を見て、ハリーは来年も裏の集会はスリザリンのメンバーが残った状態で続くだろうと思った。
少なくとも、自分が居ない方が裏の集会は纏まってくれるだろう。そういう確信と、安心感がハリーを包みこんでいた。
***
「いい演説だったな、ハリー」
ぽんと肩に手を置いたロンに、ハリーは笑って返した。
「アズラエルの書いてくれた原稿の通りだよ」「嘘つけ」
集会のメンバーはそれぞれのコンパートメントに戻り、ハリー、ロン、ザビニ、アズラエルとハーマイオニー、ダフネが一緒のコンパートメントに残った。アズラエルはコンパートメントの外から伸び耳を伸ばしているジニーとネビルを見つけ、防護魔法をかけて伸び耳を取り払った。
「油断も隙もありませんね、本当に」
「全くだね。ジニーは双子の後継者として成長したらしい」
ハーマイオニーが複雑そうな目でハリーを見るが、彼女は最早何も言わなかった。
もはや言葉をかける価値も意味もない、ということだろう。ハリーはそう受け取った。
「……で。これからどうすんだ?」
ハリーに問うたのは、ザビニだった。声の調子とは裏腹に表情は硬い。
「……ダーズリー家との別れを済ませてから、ホークラックスを探すつもりだよ。僕は、ホグワーツには戻るつもりはない」
ハリーが言うと、ロンは驚いたような、しかしどこか納得したように言った。
「……それしかねぇか」
そう言ってから、ロンは声の調子を変えて尋ねた。
「でも……探すにしても宛は必要だろ?ハーマイオニー、ダンブルドアから何か……ホークラックスの候補とか場所の話とか聞いてないか?」
「……リドルの墓地や、リドルの育った村があるわ。けれど」
「一人で行くつもり?ハリー」
「……いや……」
(ああ、それは)
ハリーは言い淀んでから、皆に対して頭を下げた。
「……いや。……ここにいる皆に、5人に頼みがあるんだ。……僕と同行してほしい。この後ホグワーツには戻らず、ホークラックスの探索を助けてほしい。僕は一人じゃ、何もできないんだ」
これは、皆に言わないハリーの我儘であった。
ハリーは知っていた。
不自然にならない範囲で一人で闇陣営に立ち向かい、拷問に掛けられる前に死ぬこと。己が死ぬことが、ヴォルデモートにホークラックスの知識が光陣営にあることを知られずにヴォルデモートのホークラックスを破壊する方法だと知っていた。
知っていた上で、ハリーはついに耐えられなかった。ヴォルデモートの他のホークラックス全てを壊し、宿敵が不死身でなくなることを確信して死にたい。まだ、仲間と共に戦っていたい。そういう欲が、ハリーの中で押さえつけられない程に膨れ上がっていた。
「ハリー、水臭いぜ……」
ロンはハリーを気遣っていた。
「ロン、ハーマイオニー。僕はあの事を話すよ」
「……ハリーがそうしたいなら、止めはしないわ」
ハーマイオニーは瞑目して腕を組んだ。
「あの事?あの事というのは何のことなの?」
「昨年、ヴォルデモートが僕を使って得ようとした預言のことだよ。預言の前半を奴は知って僕を赤子の頃に殺そうとしたいたけれど、後半のことは知らなかった。……預言はこうだ……」
ハリーはダフネ、ザビニ、そしてアズラエルに、トレローニがかつて零した予言について話した。
闇の帝王が知らない力を持った子供が7月の終わりに生まれること。
ここまでしか、ヴォルデモートは知らなかったということ。
闇の帝王は、自ら子供に印を刻むこと。
両者は、必ずどちらかを殺す運命にある。という預言をハリーは話した。話している間、ロンもハーマイオニーも一言も口を挟まなかった。
そしてロンやハーマイオニーにも、ハリーは旅の先で死ぬつもりであることは明かさなかった。
ハリーは旅人として己の最終目的地を死と定めた。終わりへ向かうための旅の中で、しかし、終わり方を選びたいという欲に抗うことは出来なかった。
ハリーの声は掠れた。頭を下げたハリーに手を差し伸べたのは、ハーマイオニーだった。
「……それで……世界のためにお前は戦うのか?」
ザビニはハリーに尋ねた。
「こんな……世界で最低のクソみたいな予言があったから、この英国のために戦うってことか」
ハリーは少し考えてから言った。
「……よく分からない。僕はホグワーツや魔法界が、まぁ色々なことがあったけど好きだ。だからそのために戦うっていう、後輩たちやアーニー達に語った言葉も嘘じゃない」
(……)
その時ザビニとダフネ、そしてアズラエルがハリーに向けた視線はをハリーは生涯忘れることはないだろう。彼らの視線には、あまりにも多くのものが含まれていた。
「……でも本質的には……」
君たちのことが好きだとは言えなかった。それを言うには、自分はあまりにも手を汚しすぎているとハリーは思った。
「自分のためだ。僕はあいつを殺さない限り『生きてはいけない』。だから戦う」
ハリーの言葉に嘘偽りはなかった。
かつてハリーとザビニは、ヴォルデモートの復活直後に語ったことがある。
生きるということは、己を燃やし尽くしてでも自分のすべきことに突き進むことだと。
ヴォルデモートを倒すという願いを果たすこともせず、ただ逃げて生きる。或いは何もせずに死ぬ。それは、ハリーのしたいことではなかった。己のエゴのために皆を巻き込み、目的に向けて突き進むそれがどれだけ罪深く、悪よりも悪しき大罪であるのか、ハリーは今自覚しながらも言った。
そしてハリーにとっては、自戒でもあった。
「……わかったわ、ハリー。私は貴方に着いていく」
ハリーの言葉を聞いて返事をしたのはダフネだった。
「ダフネ……!」
ロンは嬉しそうに、よかったな、とハリーの肩を叩き、ハーマイオニーに向けて笑った。そんな姿を眺めつつ、ザビニは安心したように呟いた。
「……ま、旅をする上でパトロナスを使える奴は多い方がいいだろ?俺も行くぜ。ハリーをディメンターから護ってやるよ。それくらいは出来るからな」
「……!」
ハリーは予想外の言葉に驚いた。
「……僕も同行するべきでしょうねぇ。スリザリンの仲間たちは僕らの背中を刺したくてうずうずしているでしょう。秘密を護るためにも、単独行動は慎むべきです」
そこまでするの?という目でロンはハリーを見た。ハリーは何も言わずに頷いた。はっきり言って、ハリーは恨みを買いすぎていた。
「その前に、ハーマイオニーには謝っておきます。今まで散々ハーマイオニーに反対の意見を述べてきたことに。意見の中には、過激すぎることも多くありました」
「「マーリンの髭(なんてこった、明日は雪か?)」」
ロンとザビニがそれぞれ唱和する。それ以上に困惑していたのはハーマイオニーである。
「いきなりどういう風の吹き回しなの?アズラエル?」
「正直に言いますと、僕はぬるい意見を言っている人を心のどこかで信用できなかったんです。……魔法省のように、『例のあの人』の恐ろしさを知ったら、あっさりと掌を返せるように手を抜いているんじゃあないかって」
嫌な沈黙が流れた。
「……いやそれは……考えすぎだろ?」
「……そうですね。ファッジと皆を同一視していたのは皆への侮辱でした。……でもことここに至っては、そんな差異はありません。僕らに違いがあるとすればそれは手段の差であるだけで、目的は同じだってことを……今僕は確信しています」
ハーマイオニーは優しくアズラエルに手を差し伸べ、アズラエルとの握手が成立した。
「闇陣営はこの先どんな手を使ってくるか分からない。そしてもう、もうホグワーツには戻ることはできない。……ホグワーツには心残りがあるけれど……これで、後戻りは出来ないわね」
ダフネは蒼白な顔で決意を新たにしながら言った。
「平和になった後、フリットウィック教授の誼でレイブンクローに編入措置を取っていただくことはできませんかねぇ……」
「それならマクゴナガル校長に校則を変えてもらわないといけないね」
割と深刻な顔でアズラエルが言うので、ハリーは苦笑いしながら言った。ロンはうげ、と呻いて言った。
「え、平和になった後まで勉強する気かよ?マジで?」
「アズラエルは親の会社に就職できるだろ?」
「世の中そんなに甘くはありませんよぉ。起業するにしても就職するにしても、まだ足りないこと、やらないといけないことは山のようにあるんです。最も……十年二十年単位の長旅になったらホグワーツへと戻るのは難しくなるでしょうけどね」
「よーし、それなら十年二十年後も生き延びてやろーじゃねぇか。勉強から逃げられてモチベも上がるぜ」
ザビニはそう言って笑った。
「寮に戻るなら皆グリフィンドールに来いよ。レイブンクローとかよりは合う気がするぜ?」
ロンはそう茶化す。アズラエルは冷や汗をかきながら言った。
「いや……それはグリフィンドールのライバル寮としてのプライドがですねえ。あと、遠回しに僕にはレイブンクローに相応しい知性が足りないって言ってませんか?」
「ガリ勉って言われるよりいいしゃないか、アズラエル」
ハリーはそう言ってアズラエルに笑った。
何はともあれ、方針は決まった。最後の終わりに向かうべき旅は、今この瞬間から幕を上げたのである。
***
そして。
このコンパートメントの中でも、ハリーとハーマイオニーとの間に和解が成立することはなかった。
ハリー・ポッターとハーマイオニー・グレンジャーの間には、お互いの口には出さないものの冷たく、確かな断絶があった。それは道を違えた友に対する負い目であり、どう接すればよいかわからないという困惑であった。
ハリーがハーマイオニーに対して己の過ちを認め謝罪するということは、己の判断で巻き込んだザムザに対する侮辱である。ザムザの功績の否定である。だからハリーは積極的に自分から非を認めることは出来なかった。
ハーマイオニーがハリーを非難することは、闇の魔術に対抗する武器も防具も持たず後輩や同窓生を前線に立たさせるという愚行であり、仲間を集めたことそのものに対する否定である。ハーマイオニーもまた、直接ハリーを非難する資格はないとその聡明な頭で理解していた。彼女が受け入れられなかったのは、友が再三の忠告も聞かず闇に手を染めた衝撃と、それを止めることも出来なかったことに対する己への憤りである。
かつてサラザール・スリザリンとゴドリック・グリフィンドールがしたような、決別のときが刻一刻と近付いているのかもしれなかった。
というわけで、死の秘宝編スタートです。