赤兎馬の広く逞しい背中へ寝転び、ぐだ子は青空をぼんやりと眺めていた。
春風が頬を撫で、どこまでも平和な空気が流れている。
世界は救われた。
人理は修復され、異聞帯は消滅し、終章では異星の神すら打ち倒した。
全てが終わった世界。
それなのに――。
「お兄ちゃん、大丈夫かなぁ〜……」
ぽつりと漏らした言葉は、誰に届くこともなく風に溶けていく。
原因は、あの胡散臭い老人だった。
(なんかゼルレッチとかいう、よく分かんないおっさんが『君はお兄ちゃんが存在しない並行世界へ行ってもらう』とか意味不明なこと言ってたけど……)
キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。
魔法使いだか何だか知らないが、自称「カルデアの重役」。
兄とカルデアで合流するはずだった自分を勝手に連れ出し、「少し手伝ってくれ」と言われるまま歩いていたら――気付けば別世界だった。
それだけ。
本当に、それだけである。
「いや意味分かんないでしょ……」
思い返しても理不尽極まりない。
高額バイトに釣られてカルデアへ来たら、兄とは別行動。
そのまま並行世界送り。
説明もなし。
「次に会ったら、赤兎馬で轢き殺そう。」
「ヒヒィィィン!」
赤兎馬が元気よく鳴く。
どうやら全面的に賛成らしい。
「うんうん。やっぱ君は分かってる。」
ぽんぽんと首を撫でる。
この世界は、自分の知る世界ではない。
兄もいない。
自分がいたカルデアとは微妙に違う。
人理修復の記録も、異聞帯攻略の歴史も、この世界では既に終わった出来事になっていた。
そして何より奇妙なのは――。
「みんな覚えてないんだよねぇ……」
マシュも。
ダ・ヴィンチちゃんも。
職員たちも。
誰一人として、本来の記憶を持っていなかった。
まるで全てが最初から存在しなかったかのように。
世界は修正され、あるべき姿へ戻った。
記憶だけではない。
カルデアで育て上げた数百騎のサーヴァントたちも、契約も、戦いの歴史も。
全て消えた。
……ただ一騎を除いて。
「君だけだよ。」
ぐだ子は優しく赤兎馬の首へ抱きつく。
「私のところに残ってくれたの。」
赤兎馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。
「ヒヒン。」
「やっぱり愛かな?」
真面目な顔で頷く。
「私の赤兎馬愛が世界の修正力すら上回ったんだよ。」
もちろん根拠はゼロである。
しかし本人は大真面目だった。
「だって他に理由ないもん。」
カルデア最強クラスまで育成したサーヴァントたちは全員消えた。
それなのに赤兎馬だけ残るなんて、もう愛以外説明がつかない。
「……いや、それよりさ。」
ふと現実へ戻る。
「私さ。」
ゆっくりと起き上がった。
「世界、救ったよね?」
人類史を守った。
何度も死にかけた。
睡眠不足なんて日常茶飯事。
精神なんて何度砕けたか分からない。
それでも最後まで戦い抜いた。
「なのに。」
沈黙。
「給料。」
さらに沈黙。
「未払いなんだけど?」
拳が震える。
「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
青空へ向かって絶叫した。
「いいわけねぇだろぉぉぉ!!」
鳥たちが一斉に飛び立つ。
「世界救ったからチャラ? そんなわけあるかぁ!!」
ガンッと地面を叩く。
「労基どこ!? カルデアって労働基準法あるの!? 残業代!? 休日出勤!? 危険手当!? 全部ゼロじゃん!!」
赤兎馬が少し引いている。
「ヒヒ……」
「しかもだよ!」
ぐだ子は涙目になりながら叫ぶ。
「私、レベル百二十サーヴァント大量所持の歴戦最強マスターだったのに!」
元の世界なら英雄王も冠位も神霊も従えていた。
だが、この世界では違う。
サーヴァントはいない。
世界だけが救われている。
なのに、自分だけがその戦いを覚えている。
「これ完全に私だけ異物じゃん……」
世界から見れば、自分は異常存在。
いつ時計塔に見つかってもおかしくない。
「封印指定とか普通にありそうなんだけど……」
顔が青ざめる。
「嫌だよぉ……実験台とか絶対嫌だよぉ……」
そのまま赤兎馬へ抱きついた。
「うわぁぁぁん!」
赤兎馬は困ったように鼻を鳴らしながら、それでも優しくぐだ子を受け止める。
唯一、自分を知る相棒。
その温もりだけが、今のぐだ子の心を支えていた。
「早く終章終わらせてよぉ……」
涙声で空を見上げる。
「お兄ちゃん遅すぎるでしょ……」
拳を握り締め、最後に思い切り叫んだ。
「マジで早く迎えに来てぇぇぇぇぇぇ!!」
その悲痛な叫びは、どこまでも青い空へ吸い込まれていった。