月の景色も斯くや 玉の音は永遠に
東の海に 沈み続けて
世界が色を取り戻していく。満たされた空気は、初めて訪れると言うのに酷く懐かしく、私たち二人を取り囲んで。霧の掛かる山道、誰が整えたでもない、踏み固められたままに道となった山肌は、金や、銀や、朧な光を受けて輝く。
永遠にも思える船路を越えて。立ち塞がる波を、海を越えて。旅路の終点。それがこの、霧に煙る煌びやかな山脈。私たちは船から下りることも忘れ、その輝きに目を細めた。
「メリー……メリー! 此処が何処か分かる? 私には分かるわ!」
傍らの彼女の息遣い。白く染まる吐息。
「私には――私には、分からないわ。教えて、蓮子。あなたの目なら、此処が何処か分かるんでしょう?」
「目に頼らなくても分かるわ! 此処は蓬莱、東の楽土よ!」
蓬莱。それは。
「竹取物語?」
「それだけじゃ、ないけどね。けれど、銀の根、金の枝……かぐや姫の難題の、玉の枝そのままね! どう、一本持って帰る?」
金色の枝。手招くように伸びた枝へと彼女は、船の上から身を乗り出して手を伸ばす。船上の重みが僅かに傾き――高々女子大生二人。大したことのない重みでさえも傾く程に、この船は小さく、そして脆い――彼女は煌びやかな山脈へと向かい、頼りないほどに細く小さな手を伸ばす。
その手を。私は、思わず取った。
「メリー?」
「待って、蓮子。駄目……駄目だと、思う」
そう思うだけの根拠がある訳じゃ、無い。
けれど私には確信があった。今の私には、物語で語られた、彼の気持ちがよく分かる。
彼は、恐れたんだ。その枝に手を伸ばすのを。その枝を折るのを。この嶋の土を踏むのを。此処に居るのを。
今の私には。物語で語られた、彼の気持ちがよく分かる。だって――
「見て、蓮子。実が――蓬莱の枝の、実が、実る――」
彼女の手の先。指の先。まるで、植物の成長、命の老い。それを、早送りするかのように実りゆく、白い、白く、輝く、玉が――
そこで、目が覚めた。正面の席には誰も居らず、傍らに座った彼女、重ねた手、重みを預け合った肩。そうして互いに向かい合って、開いたばかりの瞼、その下に覗く目と目が合った。
焦げ茶色の瞳。この国の人々の持つ、瞳の色。私と夢で重なった彼も、きっと、そんな色の瞳であの山脈を見たのだろう――いや。彼女はその目であの輝きを見たというのに、眩むことも恐れることも無かったんだ。存外、蓬莱の山に赴いた彼も私と同じ、光に弱い薄い色素の瞳を持っていたのかもしれない。
「……こっち側、ね」
蓮子が呟く。それを合図にするかのように、繋ぎ合った手を離す。
地下新幹線のボックス席、手を握ったまま眠っていた私たちは、傍から見ればさぞ微笑ましく映っただろう。そも、この時間。夕暮れ時に京都へ向かうものなんて、一車両に一組、二組。私たちが眠る姿を、見た人なんていないだろうけど。
「もう。どうして止めたのよ、メリー。もう少しで億万長者だったのに……あっち側の物でも、メリーが居れば持ってこれるんだから」
彼女は身形を直しながら、対面へと移動する。進行方向に背を向けた席、人工の夕日が差し込む車内、その光から逃れるように。縁起の悪い白黒の装いは、薄暗いその場所によく似合った。
対する私は西向きの席。窓の外に描き出された、沈みかけの日の光に目を細める。浮世絵を元に描かれた世界であるのだから、もっと淡く描き出してくれればいいのに。胸中でそう、小さく毒づく。
「なんとなく。折るのに、気が引けて」
「小心者ね。慎重なのはいいけれど、損することのが多いわよ」
こういう時とかね、と。彼女は恨めし気に一言加える。今時、木の枝一本分の金や銀で億万長者なんてなれる訳が無い。言葉を返して、愛嬌の一つも感じられないじとりとした彼女の視線は、視界の隅へと追いやってしまう。
そのまま、窓を見た。季節の演出、紅葉の形のエフェクトが舞うスクリーン。天地の境も曖昧な円筒の内壁に映し出されたその世界は、広重の見た東海道の焼き増しで。継ぎ接いで散りばめられた五十三の情景は、その枠組みを取り払われて一繋ぎ、開けた世界に仕立てられて飾られた。
卯酉東海道。京都、東京間を一直線に繋ぐ地下新幹線。光の届かない地下の陸路は、今となっては在りもしない、在りし日の風景で彩られる。その彩さえ、フィクションだ。脚色された景色の脚色。現実から掛け離れた。
「それで、なんで蓬莱だったのかしら」
私は首をかしげて尋ねる。けれど、蓮子と言えば。
「冥界に行くつもりだったのにね」
短くそんな言葉を返し、頬杖をついて窓を見つめる。その目には楽し気な色が浮かぶ……発案者であると言うのに気にした素振りも見せやしない。
「メリー、富士山の地下の入り口から、冥界の景色を見に行かない?」そんな言葉を発端として定められた、今回の私たちの目的地。実際に辿り着いたのは、予想と反した楽土の景色であったと言うのに。
彼女がそんな調子であるから、私も窓の外を見遣る。私が彼女に倣っているのか、それとも彼女が私に倣い、窓の外を見つめているのか。何方でもよかった。夢から醒めたばかりの疲れ……椅子に深々と身を預け、息を吐く。
窓の外では、迫力ある富士の威容が――徐々に遠ざかる、私たちの目的の場所が――今尚映し出されている。広重というよりも、北斎の描いたそれに似た。
そんな富士山の地下には、冥界への入り口があるという。この国に住む人であれば、当たり前に共有している事実らしい。その辺りは彼女、宇佐見蓮子の言であるので、正しいかどうかは分からない。
けれど、そんな共通認識を宛てにして、冥界の入り口を目指したのが、今回の私たちの活動だった。富士の真下を通る地下新幹線を通じて、冥界の景色を盗み見る。そうしてあわよくば、同人誌のネタにでもなれば――文字通りの物見遊山。
「冥界、では、無かったわね。なんていうか、穢れを知らないって感じ」
「そうね。それどころか、生き物の気配も無かった。いや、それなら寧ろ冥界っぽいのかしら」
「うーん……私は、違うと思う」
あの世界に、死の気配はなかった。随分前に蓮台野で見た、桜の咲く冥界は――死者の世界であると言うのに、もっと賑やかだったように思う。
私たちの見た蓬莱は、生からも死からも隔離された世界に思えた。私の知る限りで一番似ている空気はそう、緑に満ちたサナトリウムのそれだった。人の気配なんてなかったと言うのに、何処か、人為を感じるような――
作り物めいた、楽土の姿。
「ところで、あの場所は何処にあったの?」
「だから、それについて……」
「そうじゃなくて。見なかったの? 空」
ああ、と。得心がいったと言う風に、彼女は零す。
彼女の目は星に時刻を、月に現在位置を見る。星々の在処を正しく示す。空があって、夜であって、そこに月が浮かぶ限り、彼女は決して迷わない。そんな得体の知れない瞳も、カレイド・スクリーン上の景色に対しては、なんの力も持ってはいないようだった。窓の外、遠く。忙しなく駆ける飛脚の姿も、牛も、馬も、生業も。やっぱり、全ては偽物の景色。
「見えなかったのよ、霧が深くて。真っ白、まるで幕でも張ったみたいだったじゃない。メリーだって見なかったでしょ? 月も、星も」
「そういえば、そうね。じゃあ、結局場所は分からないかー」
「せめて、あの場所の位置だけでも分かれば……いや、時刻だけでも分かればね。現在、過去、未来。それだけでも分かれば、考察のしようもあったけれど。あっ、すみませーん」
通りがかった車内販売、全自動の機械を、律儀に敬語で呼び止める彼女。木目調の外装、備え付けられたタッチパネルを幾度か叩き、再び私に目線を寄越した。
「お酒?」
「うん。メリーは?」
下車した後の帰路を思い、本の僅かに躊躇った。けど、どうせ。あの酒場で出される酒が齎すような、毒と言って差し障りない酩酊は、此処には有りはしないのだから。杞憂を拭い「貰おっかな」と言葉を投げた。彼女は返事もそこそこに、再びタッチパネルを叩いて。
トレイに並んだ二つのコップ、注がれたアルコールを受け取った。
「ま、答えは出ないにしても」
「そうね。乾杯」
漆塗りの器を模した、樹脂製のコップ。注がれた、悪酔い防止の新型酒。香る日本酒の香りも、舌に感じるその味も、窓の外のそれと同じく、過去の日本を擬いただけの偽物だ。なら、私たちが感じる酔いも、過去の景色の焼き増しでしかないのだろうか。
「今日もお酒が美味しいわね。一仕事したからかしら」
「蓮子は何かしたかしら……」
「メリーに邪魔されたから、上がりは無いわね」
最早盗掘者の台詞だ。玉の枝を持ち帰れなかったことを、未だに根に持ってるらしい。聞き流してコップを煽る。
煽るコップの淵の向こうに、愉快気に酒精を舐めながら、興味深げに景色を眺める蓮子が映った。
彼女は例え人工物、創作物に対してだろうと、その喜びを欠くことが無い。いや、欠くも何も、本来のそれ自体、私たちは知らないのだから。紛い物だと皮肉ったお酒も、そもそも本物を知らないままに評価をしてる有様で。旧型酒の味はついこの前に初めて知った。それも、この国伝統の米酒では無くて、林檎酒の始末。
現代しか知らない私たちにとって、これは、紛れもなく真実なのだ。客観的な視点は存在しない。私の行う学問と同じ。そう思うと、窓の外に映し出された世界さえ、今までよりずっと鮮明に見えた。空想に空想を重ねた、最早二次創作でしかない景色――
その景色をみて。瞳がちかりと、僅かに痛んだ。そんな気がした。
□□□□
徐々に廻り始める酔いで、金髪碧眼の彼女を見遣る。見遣るにかまけ、盃に口付けるを止めるや否や、覚めゆく酔い。思考を鈍らせることも無ければ、意識の箍を外すことも無い、管理された酣酔。体は温まる錯覚はあれど、空調の行き届いたこの車内。冬の気配を間近に感じる秋の空気も、此処にはない。
「蓮子。やっぱり、さっきの蓬莱は、過去の景色だと思うの」
彼女が口を開く。少しの酔いであっても、彼女を饒舌にするには充分であるらしかった。宴会の空気で酔うタイプなのかも知れない。
「へぇ。なんでそう思うの?」
「だって、そうよ。あの場所が冥界なら、其処に立っていたあの山だって、もう死んでいる訳でしょう? 冥界の入り口から離れた途端に、こっちに引き戻されたわけだし。ならあれは、きっと過去の景色」
「あれは冥界じゃない、って話じゃなかったっけ?」
そもそも私には、過去の景色が冥界に辿り着くと言う、そのプロセスも分からない。死んでいる山と言うのも――死火山のことを言っている? 地に足着けて噛み砕き、そう伝えれど、彼女は既に空想の世界に飛び立ってしまった後のようで。その理屈は机上を越えて、そろそろ天井を突き破る。こうなってしまった彼女はもう止まらない。いつだってそうなので、今回もそうだろうと諦めた。
話を聞き流しつつ、窓の外を見る。茜色の空に、ふわふわと浮かぶ彼女の姿を思い描いた。幾度となく楽土の景色に例えられてきた富士の景色。ならば、そこで宙に舞うメリーは差し詰め、空想を羽衣に浮遊する天女だ。姿形は異国情緒にあふれる彼女だ、蓬莱の住人に相応しく思える。
黙って紅茶でも啜っているなら、話しかけることさえ躊躇う容姿。だと言うのに、一度口を開いたならば、聞いてもいない夢の話を滔々と語り、勝手に結論へと至り去っていく。最早、悪癖とも言っていい。
輪をかけて迷惑なのは、夢の旅路であると言うのにお土産を置き去りにするところ。食べ頃を遥かに過ぎた筍なんて、貰ったところで喜ぶ者はいないのだ。
「だからね、車持の皇子も、蓬莱に辿り着いていたと思うの。本当はね」
「何だって?」
目を離した隙に、彼女の空想は更に高度を増していて。飛躍が過ぎたその結論に、思わず聞き返してしまった。
「どうしてそこで、竹取物語の批評に……最早いちゃもんね。行き着いたわけ?」
「だって、そうだわ。かぐや姫は、彼に差し出された玉の枝を見て、本物だと思い込んだのでしょう? それはきっと、彼の作らせた枝が、本物と見分けがつかないくらいに精巧だったから。当たり前よ、彼は本物を見て、その通りに作らせたのだから」
「辿り着いたっていうのなら、持ち帰ればよかったじゃない」
「彼は躊躇ったのよ、美しい玉の枝を折ることを。私があの時感じたのは、その時の彼の感情だわ。だから私も、枝を折れなかった」
破綻した話を得意げに語る。それが真実であると確信している。何処までも主観に基づいた理論立ては、多分、彼女が身を投じる学問からの影響だ。他の研究領域に持ち出して欲しくはない。
傍迷惑な学問だと、心から思った。
「メリー。面白い話だとは思うけれど……そもそも、かぐや姫は、実物を見たことが無かったんじゃない? かぐや姫だって、蓬莱に行ったことなんて無かったんだから」
「いいえ、蓮子。玉の枝はね、実は蓬莱にだけ生えているわけじゃないの」
「新情報だ」
彼女は鼻を鳴らす。遠ざかりつつある、富士の山。脚色された景色をバックに、彼女は胸を張って言う。
「あの木はね、月にも生えてるのよ。かぐや姫が知らない筈はないの。私も、今さっき思い出したのだけど」
「月?」
また話が飛んだ。大気圏を越えて、刻一刻と離れつつある衛星にまで。重力の縛りさえも振り払ってしまった彼女の飛行を妨げるものは、もう存在しないのだろう。
「前に見たって、言ってたっけ。それで、私たちはずぶ濡れになった」
話を合わせる。メリーを主人公にした宇宙旅行記に思いを馳せるのは楽しかったが、放っておけば車両さえ越えて、見知らぬ他人に絡みかねない勢いだから。
けれど、実際一考の余地はある。確かに彼女は月の景色を、その目に見たことがあるのだから。丁度月面ツアーのニュースを読んで、その値段に歯噛みしていた頃。水面に移った月を見て、そこに彼女は楽土を見た。天女が舞い、兎が薬を撞く景色を。
「そうそう。結局、あれは失敗したけれどね」
私たちは、メリーの見たという月の景色へと向けて飛び込んだ。つまりは、水面に浮かぶ月へと向けて。そうして辿り着いたのは、兎や天女の居る楽土ではなく、塵一つない静かな水底。私たちが飛び込んだのは月ではなく、只、それを映しただけの水面でしかなかったのだ。寓話めいてる。ずぶ濡れで帰って、発熱したメリーは二日ほど寝込んだ。
「今なら成功するんじゃない? 前よりもずっと、力も強くなってるでしょう?」
「どうだろう。なんていうか、弾かれた感覚があったのよね。今行こうとしても弾かれる気がする」
「密入国は出来ないわけね。月面ツアーは夢のまた夢か……って、そうじゃなくて」
話を戻す。玉の枝の話だ。
「そうそう。あの時に見たのよ、月に同じ木が生えてるの。玉は実っていなかったけれど、全く同じ木だったわ」
「うーん……なら、蓬莱の植物は月由来? それとも逆かしら」
「地上の人間が、月に植物を持ち込んだってこと?」
まるで、テラフォーミングのよう。友人火星探査さえ一向に進展しない現代。他の星に植生を持ち込むなど、一体いつになることか。それが遥か昔、月に於いて行われていたとするならば――なんて。
私たちの扱う科学と、彼女が見る異界の理屈は、大きく異なる。地上から月に向かった話だって、神話というものを紐解けば、数多。その内の誰かが、地上の玉の枝――優曇華の苗木を持ち込んだのなら。
そこで、一つの可能性に気付く。そもそも、だ。
「私たちが行ったのが、月だったっていう線は?」
「海を越えて、月に?」
「月にだって海はあるもの」
海に関しては半ば冗談だったと言うのに、彼女は真剣そのものな顔で唸り始める。けど、月にもその木が生えているというならば、その可能性だってある筈だった。何故メリーはその線を捨てて、冥界に固執したのだろう。
竹取物語、月の使者の言い分を鵜呑みにするなら、そこは穢れの無い場所であるらしく。生の気配から隔離された仙境。そのイメージは、あの物語に於ける月の姿にぴったりなのに。
「じゃあ、月ももう死んでいるの?」
思わず、笑った。固執した、のではなく固執し続けて居る――何よりもその、随分と詩的な言い回しに。それが茜色に染まったブロンド、異郷の色も相まって、やけに似合っていたものだから。
「メリー。一旦、冥界からは離れましょう? 月は死んでいないし、蓬莱だって死とは無縁よ。ただ、境界の向こうに隠されていただけ。いつもと同じよ」
「じゃあ……なんで私たちは、あの山に辿り着いたの?」
そこでやっと、彼女が冥界に拘る理由に思い至った。遠い異国で生まれ育った彼女。故に、知らなかったのだ。だからこそ、私の語った冥界の所在、富士の下に有ると言う門を、彼女は鵜呑みにし続けた。
窓の外、離れ行く富士に目線をやる。夕日を受けて金に、銀に輝く山の形。その背後に覗いた星空、浮かび上がりつつある月。降りてきた夜の天幕は、フィクションでしかないと言うのに。
目が、うずいた。そんな、気がした。
「メリーは古典って、どれくらい読んでる? ああ、平安とか、そのくらいの」
「触れる程度よ。概要だけ知ってる、って、作品の方がずっと多いかな」
やっぱり。得心が言って、小さく頷く。彼女は未だに小首を傾げ、続く私の言葉を待つ。
ならば、彼女に教えてあげよう。この国の人々が幻視し、共有された富士の姿を。
「なら、知らないかもね。いい? メリー。富士山はね、蓬莱山でもあるのよ」
□□□□
二人の少女が語り合っている。向かい合った長椅子に座り、遥か昔のこの国の景色、そのパノラマに照らされながら。差し込む夕日は徐々にその光度を落とし、二人の姿は車内灯、仄かな光に照らされて。
宇佐見蓮子が語る通り、富士の山は幾度となく蓬莱山に例えられてきた。最早、それら二つの山を、同一視する言さえあった。故に彼女は初めから、夢に見たその蓬莱が、富士を通じて映し出された世界であると気付いていて。
彼女の座る席から見える、窓の外の富士の山は、燃えるように輝いていた。日が沈むにしたがって、銀から金へ、金から赤へ。光を受けて輝く山の姿、蓬莱の姿を、彼女はずっと、見つめ続けていたのだから。
「じゃあ、初めから分かっていたの? なんで教えてくれなかったのよ」
「メリーも気付いてるって思ってたの。その上で、冥界の入り口って言うのはなんだったのかって、そういう話をしてるつもりだったのに」
「分かんないわよ、こっちからじゃ見えないもの」
マエリベリー・ハーンは立腹していた。拗ねたように不満を零し、手元の酒に口を付ける。
「結局、冥界とは関係なかったってわけね。あれは、富士山そのものが隠していた、蓬莱の景色。そこに、私たちは迷い込んだ」
「そうね――ああ、それなら。霧が晴れてたなら、蓮子の目にはどう見えたのかしら。座標は富士山?」
宇佐見蓮子は再び、富士の山へと目を向けて。秋の日はつるべ落とし。蓮子は空を眺め時刻を割り出し、カレイド・スクリーンに映し出された夕焼けの描写が凡そ正確であるという事を確かめた。彼女たち二人が眺めていた、赤く染まった山は今まさに燃え尽きんとし。人工の夜が、世界を満たしていく。
「かもね。まあ、私たちは結局、麓までしか――」
そうして、彼女は息を呑んだ。一つの違和に気が付いて。そんな彼女を訝しみ、マエリベリーは問う。
「どうしたの?」
「……十七時十七分。場所は――」
言葉は、影に断たれた。窓の外、竹林。消えゆく夕日と竹の影。映し出される瑞々しい緑は、けれどやはり、版画のそれ。パノラマを彩る世界と同じ。けれど。
二人は、初めてこの竹林を見た。東へと向かう車内でも、西へと向かうそれに於いても、竹藪の中を抜けると言う演出は、一度たりとも見たことが無い。そも広重の描いた東海道に、そのような構図は存在しない。
「メリー、見えてる?」
「……ええ、しっかりと」
只。二人の視線は、竹林の先。竹藪ではなく、離れ行く富士の姿を見ていた。柔らかにしなる、なよ竹の先の――
「「蓬莱――」」
声が重なる。そこにあったのは紛れもなく、彼女たちが見た蓬莱の山であった。金の枝、銀の根。そして、一斉に実り始めたらしい、白い玉――遠く離れても、色とりどりのその輝きは、彼女たちの瞳に差して。
紛い物である筈の景色が、現だけが隠し得る筈の幻想を晒す。彼女たちの目は、ある筈のないその秘め事を暴き立てていた。
「メリー。メリーは、この景色を偽物だって、残念がっていたけれど」
「そうね、蓮子。その考えは、捨てるべきだわ。だって、もう。ここは――」
卯東京駅、酉京都駅。二点を繋ぐ地下の円筒、その内壁に映し出されたパノラマは。遥か昔に切り取られ、継ぎ剥いで仕立て上げられた三次元的空間は。大地に隔たれ、地上に広がる現の世界も知らぬまま、自身を一つの世界であると、勘違ってしまったらしい。
蓮子の目には、時刻を伝える星々の光と、座標を伝える月の影が。マエリベリーの目には、その世界に散りばめられた人々や、草木や、命の鼓動が見えていた。空想上の姿であるのに、描かれた人々は意思を持つように空を仰ぎ、一日の疲れを癒さんと、宿を目指して引き上げていく。ふと、行商の一人と、二人の視線が重なった。小さく会釈し、町へと急ぐ――それらは、天女が舞い、兎が薬を撞くような、月の景色とは全くに異なる。命あるものに彩られた――月の使者に言わせるならば、穢れに満ちた世界であった。
だからこそ、蓬莱に植わる優曇華の実はなったのだ。穢れを養分に美しい白玉を実らせる樹木。優曇華と穢れの関係を、二人は知る由もないのであるが。
「これはきっと、私たちのせいよ、蓮子。私たちは蓬莱に向かって、そして、遠ざかった。この新幹線に乗ったことでね」
「夢の話ではあるけれど、ううん。向こうからしてみたら、同じね。私たちが訪れて、そして、帰っていったから。カレイド・スクリーンは実際の景色として機能し始めた」
自分たちのせいであると認めながらも、二人の言葉に、罪の意識など微塵もない。そこにあるのは、好奇心と、憧憬でしかなかった。今現代に生きている人は、誰一人として見たことが無い、この景色。落ち切る間際の、燃えるような日の光に照らされた、竹林越しの蓬莱の姿――過去の人々が視た、色鮮やかなこの国の姿。
「蓮子、駅までの時間は?」
「ざっと……三十分いかないくらいかな」
「そう。なら、それまでは」
それまでは、ずっと。遠く富士が、蓬莱が、夕日が、地平の先に沈んだとしても。二人はきっと、窓の外に広がり続ける景色から、目を逸らすことなどしないだろう。二人はこのまま在りし日の東海道を見つめ。そうして、思い出したように言葉を交わし、彼女たちの活動は続いていく。
昔の人が見た景色。ありのままに脚色された、遥か昔の東海道は。円筒形のこの空間で、少女たちの瞳の中で。静かに、息を吹き返す――
円筒の
絢爛なる仙境は 幾多の穢れに彩られ
月の影遠く 白玉の音に満たされたまま
東の海に 息衝き続ける
なんとなくハーメルンが懐かしくなって、Skebのリクエストで書いたものを。
今は黄泉堂の石竹として活動してます。
東方からは離れてしまったけれど、気になったなら検索してみてね。