大正時代ならこういう人もあり得ただろうと
牀前明月光
疑是地上霜
挙頭望明月
低頭思故郷
歌うような言葉だな、といつも思う。ベッドに半身を起こし月光に照らされる清艶な姿を、自分はあとどれだけ眺めて居られるのだろうか。
そう憂えた秋も今は昔。
家が近所だった。自分は教会の牧師の息子、彼女は役人の娘。信仰も民族も違う、けれど窓越しの密かな会話。叶う筈の無い淡い想いは、けれど数多の血と怨嗟悲苦を背景に機会を得た。打ち壊される家も襲われる親たちも捨て置き、走れない彼女を背負ってこの国へと渡る船に滑り込んだ。浅ましい我欲と妄執。それでも、自分にとっても彼女にとっても異国のこの地で、慎ましく生きていこうと思っていた。
震える手、諦めの微笑み。思い出す彼女に手を上げた彼女の父親の姿——遠からず変じて無くなる彼女の人格。死。
どうして、と自分は嘆いた。別れよう、と彼女は告げる。自分は彼女の言を拒む。死が二人を分つまで、例え彼女が病んでも自分は彼女の側にいると誓う。
ああ、でも。
地上の栄華は儚く、神の御国は永遠とうたわれる。けれど、譬え地獄に堕ちても、永遠の魂を失ってでも——地上の彼女を喪いたく無いと想い。思ってしまった。その報いだろうか。
——病んだのは自分の方。
家路を急ぐ夜。いつもと変わらず、ただ皆既月食の紅きを共に見ようと約束していた。この国の人間より頭一つ抜けた体格を恃みに歩く。誰もいない
目が覚めた。空が白んでいる。
日に当たるのが不味いと本能で理解し……罪深き身に自らを灼くことを考え……彼女の姿が瞼に浮かび……自分は海に飛び込んだ。
深く、深く。
未だ飢えはおさまらず、睡気まで襲ってくる。
眠ってはいけない、彼女に会う迄は。
帰らなくては、彼女の所に。
還らなくては、彼女の元に。
——かえってはいけない、彼女を食べてしまうから。
「鬼を襲う怪人?」
「そ、夜な夜な現れては鬼を食いちぎっていくってやつ」
「そいつと勝負したいぜ!」
終わらぬ夜、深淵の底。
ぐるる……と漏れる唸り声。言語能力自体を喪うことは無かったが、この国の言葉を発話するにはやや不安が残る。嗚呼、自分はどうすれば良いのだろう。