アマツマガツチに歯向かった一匹のヌシジンオウガ。それがかつて霊峰を追いやられた生き残りの成れの果てだったとしたら? というお話。

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舞うは嵐、抗うは月下の雷鳴

 その厄災は唐突に全てを奪い去った。

 晴天の霹靂――なんて小綺麗な物言いでは舌が怒りに震えかねないほどの、惨たらしい暴威をもって。

 

 

 

 心地の良い空の蒼。浮足立つような大地の緑。吹き抜ける強かで気高い風。全てが瑞々しく、美しい住まいだった。

 月夜なんていっそう格別だ。蓄えた雷を力いっぱい放ちながら遠く遠くへ吼え叫ぶと、夜闇にほぐされた木霊が染みわたるように帰ってきて、はしゃぐ雷光虫たちの絶景な踊りを堪能できる。

 それが瞬く星々の戯れのようで、まるで己が天の川を支配しているみたいで、なんとも気分がよくなったものだ。

 

 水は澄んでいてうまい。まん丸に太った鳥の肉は飽きなど教えぬ格別さだ。気の合う雌にだって会える。

 この地の暮らしは満足そのものだったし、ましてや離れようだなんて考えたことすら無かった。

 

 全てが狂ったのは、渦巻く雲が天蓋を隠してしまったあの日からだ。

 風が冷たく狂うようになった。雨は泣き喚くが如く降り続けた。ごろごろと地を嘲笑う稲妻は、己が纏う気高き蒼雷とは似ても似つかぬほどおどろおどろしいものだった。

 

 けれど、そんなもの、始まりにすら過ぎなかったのだ。

 

 風は木々を薙ぎ倒し、水の牙が土砂を噛(は)んで山を喰った。気紛れな雷は耳を破らんばかりの絶叫をつれて舞い暴れ、ことごとくの命を塵へと変えた。 

 日が没する間もなく、否、月が眠るひまも無く、愛する故郷は見るも無残な地獄の様相へと成り果てた。

 

 見る影もない空へと見やれば、災厄の嵐に悠々と座する神(・)がいた。

 いっそ神々しいとすら感じるまでの、圧倒的な力の渦を泳ぐそれを見た時、ここに居てはならぬと本能が訴えた。

 腕っぷしには自信があった。今まで強敵と呼べる竜と死合うたことは幾度もあったが、その全てを制してきた。

 己が無双を語らずしてなんとする。この霊峰の頂点に君する絶対的な誇りが胸にあった。決して揺るがない金剛の柱だと、これまでずっと息巻いていた。

 

 ああそうだ。そのはずだったのに。

 常々喰らう側にいたはずの己が、はじめて死という影の濃さを知った。

 

 

 そこから先はあまり覚えていない。

 無我夢中で土を蹴って、崖を転がって、神(・)の眼の届かぬ最果てを目指して走り続けた。

 故郷を追われる屈辱を想えば自然と爪が土に食い込んだが、魂が生きろと背を殴った。

 

 生まれて初めて、覆しようのない敗北の泥を頬張った。

 

 

 

 

 

 幾つの月が夜を駆けたかすら分からない。

 ただひとつ確かなことがあるとすれば、日々を懸命に生き抜いてこれたことくらいか。

 

 落ち延びた先に構えた新たな縄張りの山林は、ニンゲンの古き営巣跡が残された土地だった。

 

 どことなく空気が故郷と似通っていて気に入った。好物の丸い鳥もいたから狩場としても都合が良かった。

 ただし図体のでかい邪魔者どもは、故郷ではとんと見かけない輩ばかりで戸惑ったものだ。

 

 彼奴(きゃつ)らは此方(こち)を目にするや否や、余所者を排除せんと牙を剥いてきた。当然だ。彼奴らにすれば、己は命と縄張りを脅かす牙。焦燥と闘争心が身を焦がしているのはありありと窺(うかが)い知れた。

  

 痛いほどよく分かる。親しみなれた地を追いやられる苦しみは、身を八つ裂かれんばかりの苦渋と辛酸に満ちた味だから。

 なれど、生きるためには争わねばならぬ。

 それが我らに在る、ただひとつの摂理なれば。

 

 

 

 

 

 生傷の癒えぬ日々を過ごした。

 数多の強敵と牙を交えた。時にはニンゲンに刃を向けられ、撤退を強いられることもあった。

 それでも次こそはと爪を研ぎ、肉を喰らい、力を蓄え、死闘の末に泥臭い勝利を雄叫びの下へと重ねてきた。

 

 霊峰で過ごした過去はもはや遥か雲の彼方にあった。

 かつての己は死んだ。川辺の水面に映る姿なんて似ても似つかない。昔は甘たれたヒヨっこだったのだなと、ずいぶん逞しくなった肢体を眺めて実感する。

 

 この山地に来たばかりの頃と比べたら、逆らい挑むんでくる輩はずいぶん減った。

 ごくごくたまーに鬼気を纏う竜と小競り合うが、それくらいだ。面倒なニンゲンの群れにさえ近づかなければ、平穏を乱すものはもういない。

 

 

 だが。

 不運とは、認め難くとも続くもので。

 

 

 

 

 晴れ空を薙ぐ颶風(ぐふう)の鐘は、またしても突然のうちに現れた。

 忘れかけた過去を抉りなおすように、おぞましき狂飆(きょうひょう)が己に降りかかったのだ。

 

 しかし何かがおかしい。死の臭気を振りまく威風は忌々しい懐古を抱くが、あの霊峰でみた神(・)とはどこか気色が違う。

 雲の坩堝の大穴にそれはいた。裂けた口から月の亡骸のような赤い球体を吐き落として、災いの嵐を根付かせ続ける暴虐の権化が。

 

 

 息吹く風巻(しま)きの歯牙がこの身を若木のように引き裂き、童(わらべ)のように転がした。

 汚泥をあおり、血を吐いた。幾重もの傷が痛みを植え、逃れられぬ苦痛が骨肉を蝕んだ。

 

 逆さに空を舞う蒼い神(・)は地を這う有象無象など目もくれぬ。

 手も足も出ぬ。抗うことすら許されぬ。

 ああ駄目だ。思い出すな。あの屈辱を。眩むような絶望の日を。

 身を貫く激しい辛苦。死の影の歩く音がする。

 

 逃れたと思っていたあの恐怖が、口をいっぱいに広げてやってきた。

 

 

 ふと。力尽きた己が前を通り抜ける、不揃いな足音の束が頭を殴った。

 皆一様に心を暗澹の底に絡め取られ、もの凄まじい形相で逃げ惑う百の竜たちの姿であった。

 

 山岳の谷間を雪崩れるように進みゆく大勢の命の蠢きが、叢雲を薙ぐ烈風に混ざって、ざぁざぁと泣き腫らしているではないか。

 

 

 ――叫びが聞こえる。数多の恐怖の叫びが。

 ざわざわと魂を搔き毟られるような、命をもてあそばれるものたちの声が。

 

 

 

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 苦しい。苦しい。

 助けてくれ。許してくれ。

 

 己が何をしたというのだ。いつ神(・)の逆鱗を削いだというのだ。

 もうやめてくれ。これ以上奪わないでくれ。

 どうか。どうか。誰でもいい。この百夜(ももよ)に続く恐怖から、あの恐ろしい天(あま)の神から、解放してくれ。

 

 

 

 

 

 憎い。

 嵐が、憎い。

 

 

 

 

 

 稲妻の如き怒りが止まぬ。

 逃げることしか許されなんだ神(・)への恐れが拭い去れぬ。

 

 目につくもの全てが疎ましい。かつては心安らいだ青々をこの手で引き裂いてやりたくなる。

 雷を纏えば傷が開く。その痛みが己に刻まれた憤怒と恐怖を呼び起こす。

 ああ、苦しい。狂おしい。惨めだ。恨めしい。

 けれど、この身を苛ませる呪いを払う術なんて、この世の何処にあるというのか。

 

 万雷を従えるほどの力を得た。尾は巌を砕き割る凶器となった。腕は巨木を容易く千切り捨てるほど屈強だ。

 それでも解(わか)る。冷酷な本能が告げる。

 神(・)には勝てぬと。一矢報いることすら不敬に能(あた)うと。

 

 

 己に残されたものは、永遠に等しい嘆きと怒りのしがらみであった。

 せめてもの安らぎに吼え叫ぶ。しかし遠吠えとすら呼べぬほど醜い、激情を孕んだ叫喚はどうしようもなく耳障りだ。

 

 それでも吼える。吼える。吼える。

 神(・)の威風から逃れ得ぬ身なれど、神(・)を再び我が元へ呼び戻さんとするように。

 

 歪な音色。禍々しい憎悪の調べ。山の果てまで轟くそれに、いつしか塵芥どもが集うようになった。

 なんてことはない。彼奴等にとっての神(・)が己だったに過ぎぬ。恐れ、怒り、野性が示す命への道に縋るだけの哀れな群衆よ。

 

 我が前を走る滑稽な姿を見るとほんの少しだけ痛みを忘れることが出来たのは、果たして救いと呼べるのだろうか。

 

 

 

 

 

 いつの日か、あれほど騒がしかった嵐が止んでいた。

 

 ニンゲンどもが神(・)を討ったらしい。己より遥か脆弱でか弱いはずの彼奴らが、猛き炎の如き不屈をもって百竜の淵源を断ち切りおった。

 やはり侮れぬ。かつて逃げおおせた判断は間違いではなかったのやも知れぬ。

 今となってはニンゲンに背を向けた事実に辱めを抱く情など無い。そんな誇りはとうの昔に消え失せた。

 

 あるのは強き者に対する僅かばかりの敬意と、怨敵を討ち取られたことに対する行き場のないやるせなさか。

 

 百竜の淵源は絶たれ、己に集っていた芥どもも何処かへと消えた。

 だが己には寄る辺など無い。縄張りを得ども、強敵を下せども、我が胸中は決して満たされぬ。

 遠い昔とは比べ物にならぬほどの力を得ても、餓えに似た激しい衝動だけが己を支配し続けた。

 

 呪いは消えぬ。古傷は疼く。

 あの時、神(・)が巣篭ったあの瞬間。恐怖を捻じ伏せ、あの地へと向かっていれば。

 ほんのひと傷でも神(・)に与えられていたら。この魂は救われていただろうか。

 

 

 只々(ただただ)、ふらふらと放浪を繰り返すだけの空虚な日々。

 死に場所を失くした古狼には糞にも等しい後悔しか残らなんだ。

 そうして辿り着いた先も、血の泉わく地獄のような郷だった。

 

 ああ、もうよい。もう疲れた。

 ここを最期の住処と決めて、泉の近くに縄張りを張ろう。

 安らぎの片鱗もない醜く寂れたこの土地で、骨になるのもまた一興よ。

 

 

 

 

 

 

 

 時が流れて。

 運命は、再び己と嵐を巡り合わせた。

 

 

 

 

 

 おお、おお、知っているぞ。この風を。

 愛する故郷から追いやった、始まりの風を知っているぞ。

 

 

 空を向く。濁り澱む暗雲に覆われた空を。

 荒れ狂う雷雨の玉座に君する、忘れ難き厄災の神(・)の姿を。

 

 

 

 震える。

 血潮が。骨肉が。魂が。

 震えて、震えて、もはや意志の力ではどうしようもない。

 

 

 しかしこれは、決して恐れに囚われたものではなく。

 やっとこの牙を宿敵に突き立てられるのかと、天運を喝采する歓喜の大渦――武者震いの嵐であった。

 

 この時をどれほど待ちわびたか。幾つの夜を夢見たことか。

 ついに。ついに。神(・)に抗う機が訪れたのだ。

 

 

 ニンゲンどもも神(・)を求めてこの地にやって来ていた。かつて風巻(しま)く神(・)を討った炎の如き狩人だ。

 同胞の武具を纏う連れ合いは此方(こち)に気付いたか、誘惑の煙で誘おうとしている。

 

 よい。その手にのってやろう。

 彼奴の首もくれてやる。憎き神(・)を堕とせるならばどうでもよい。

 

 だが肝に命じよ、人の子よ。

 あの神(・)に死してなお癒えぬ恐怖を刻むのは、決して貴様らではないことを。

 例え命尽きようとも、譲れぬ矜持がここにあるのだ。

 

 

 地に爪を噛ませる。

 金雷を纏う。

 裂ける古傷より喝を賜り、いざ滾々(こんこん)と怨嗟の咆哮を天に捧げん。

 ありったけの全てを、我が憎悪の一端を、あの嵐へと轟かせるために。

 

  

 

 さあ覚悟しろ、天(あま)つ神よ。

 貴様にとって路傍の石に等しいこの命。ただ一時、ただ一太刀のための供物とせん。

 そして知るがいい。故郷を奪われ、誇りを失くした狼の、電光雷轟の輝きを。

 

 

 

 我は鳴神。雷狼が主(ぬし)。

 月に吼え、神に仇なす狩人なり。


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