小説版Roselia妄想

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思い出したので再掲


無声慟哭

 

 幼馴染が「せかいいちのかしゅになる!」と言ったので、湊友希那は世界一のベーシストになることを決意した。もう10年以上も前になる、色褪せた記憶だ。

 二人の夢は、深夜の交差点を(つんざ)く金属の悲鳴に奪われた。

 

 

【ギフト】

 

 その日、友希那がライブハウスを訪れたのは偶然だった。動画サイトで演奏動画や新作の楽曲MVを掘り起こすのに飽きたとき、或いは楽曲制作が煮詰まったとき、しばしば友希那は刺激を求めて全く知らないバンドのライブに飛び込んでみる。

 大抵の場合、それは人生の残り時間と女子高生の貧相な小遣いを無駄に消耗させるだけの結果に終わるのだが、人生は寄り道の連続とも言う。まわり道をすることで、心に余裕を持たせようという意図もあった。

 

「ユキナちゃん、丁度良かった。ライブ聴いてってよ!」

 

 ライブハウスのチーフスタッフを務める、月島まりなが友希那に声をかける。懇願するような口調だったが、声色にはサプライズを仕掛ける直前のような、企みの色が滲んでいた。

 

「元からそのつもりで来たのだけど……何かあるの?」

「そうなんだよ! すごいの! 見つけちゃったよ、()()ギタリスト!」

 

 チケット代を払ってまりなの話を聞くに、すごいギタリストが現れたらしい。友希那の経験から言えば、こんな話は特に珍しくもないありきたりな出来事だった。長く経営しているライブハウスにはそれなりの数の常連がいるし、大抵そこには名物アーティストが居る。プロの世界に飛び込むでもなくライブハウスで弾き明かしているだけあって、そういう人種は得てして変人であって、そして巧妙な奏者である。

 

 では、ここはどうか。このライブハウスCiRCLEは、この一、二年程で大きく人気を上げたハコだ。若い女性をライブハウスに引き込むことを目的として隣接するカフェテリアを用意したり、ティーンエイジャーのガールズバンドを集めることで、比較的カジュアルで取っ付きやすいライブハウスだというイメージを獲得した。

 しかしそれ故に、ライブの質がそれほど高くないのも現状だった。まず、学生バンドが多いこともあって活動が安定しないバンドが多い。また、勢いを増したのが最近のことであったためか、ライブハウスの顔となるようなバンドが未だ存在しない。そして、そもそも学生バンドの演奏とは基本的に拙いものである。

 

 以上の理由から、友希那はまりなの言う『天才』を、あまり信用してはいなかった。ブッカーとしてライブハウスを切り盛りしてきた手腕は尊敬に値するが、それはそれ。学生の中では上手いというだけではないか、という懸念を払拭するには至らない。

 

「良いギタリストがいたら紹介する、って言っちゃったからさ。ブッカーとしては見つかりませんでしたじゃ済ませらんないでしょ? あちこちにアンテナ張るようにはしてたんだけど、やっと見つけたんだ」

「なんて名前?」

「サヨちゃん。聴けば絶対わかると思う。しかもなんと都合がいいことにね、今日で一旦フリーになるらしいよ」

 

 もうそのギタリストを友希那が気に入る前提で話している。バンドを立ち上げたいから、ギタリストとドラマーを探しているとまりなに言ったのは友希那自身だが、それにしたってその自信はどこから湧いてくるのだろう。

 

「あ、ごめんね、一人で盛り上がっちゃって。きっと二人の演奏はものすごく相性がいいだろうなって、それくらい凄かったからさ」

 

 それだけを言い残して、まりなは去っていった。最近新しいスタッフが入って、その指導が大変だと言っていたのを思い出す。それが無くともライブ前は忙しいのが当たり前なのだろうけれど。

 

 サヨ、ね。

 教えられた名前を反芻する。

 考えようによっては、良い機会かもしれない。サヨの演奏を聴けば、それと同時に友希那の演奏がまりなにどの程度のものだと思われているのかも自ずと分かるからだ。

 つり合わないレベルの奏者を紹介はしないだろうし、もし友希那がサヨに『こんなものか』と感じるのならば、友希那もまたまりなに『こんなものだ』と思われているのだ。

 

 ドリンクを引き換えてフロアに立つと、客の入りはかなり良かった。人の波に揉まれるのが嫌で、やや後方の人がまばらな場所に位置取る。

 

 1組目、2組目と、特に光るものは感じなかった。普通の学生バンド、といった感じで、楽しそうに演奏している人もいたし、実力に見合わない小手先の技術ばかりを磨いてきたんだろうなという人もいた。学生バンドの中ではかなり上手い、と思わせられる人もいたけれど、ギタリストではなかった。

 

「どうも、『サマータイム・オルカ』でーす! このハコでやらせてもらうのは初めてなんですけど、解散ライブなんです! 今まで応援してくれた人達、ありがとう! ここで初めて私たちを知って気に入ってくれた人、ごめんね! 物販にCDがあるから買ってください!」

 

 3組目は、おそらく大学生のバンドだった。解散ライブと言うからには、先程まりなが言っていたギタリストのバンドなのだろうかとステージを注視する。

 ギターを持った、浅葱色の髪の彼女は、ほかのメンバーよりも少し幼気に見えた。

 

「それじゃあメンバー紹介いきます! まずはメンバー最年少、リードギターの紗夜! 1人だけ高校生だけど、めちゃくちゃ上手いんだよ!」

 

 どういうわけか、目を惹かれた。身長は高い方。少しウェーブかかった髪を背中まで伸ばしている。ただ泰然自若に立っているだけなのに、目を離せなくなっていた。

 衆目に晒された彼女は、特に言葉を発することはなかった。それでも友希那には、彼女がそれなりに(ひねく)れていて、そして音楽人らしいということがよくわかった。バルトークのルーマニア民族舞曲を一小節だけ弾いて、フロアに軽く手を振るようなギタリストが、そうでないはずがない。

 

 そのたった一小節で、まりなの言葉が行き過ぎた誇張表現でないことを確信する。

 エレキギターであって、ピアノだった。たった数音で、彼女が内包する世界の大きさがよく分かった。彼女の音楽は、広く、大きい。

 

 思いがけない出会いに、友希那は心の昂りを抑えるよう努めることを強いられた。ハイになったテンションのまま彼女の演奏を正確に聴き取れなくなることを恐れて、必死に理性を回復させる。

 

「んじゃあ、いきますか。最後までついてきてね」

 

 そこから先、チューニング以外は約50分間ぶっ続けの演奏を、退屈したオーディエンスはきっといなかった。

 最初は、クラシックの文脈を取り入れたロック。そこからジャズのアップテンポが混じり始めて、シンセを使ったEDMにメタルを掛けた暴徒の音楽になる。かと思えばそれまでの勢いを切り捨てて、牧羊的で静かなクラシックからJPOPらしいバラードへと移り変わる。フォークソングから、今度はUKロック、かと思いきや邦楽の要素も多分に取り入れている。

 前半は洋楽らしい定型的なコード進行で進むのに対して、後半の曲は邦楽らしくとにかくコードにアレンジを加えている。

 

 まるで博覧会のようだ、という感想を抱いた。音楽が好きな人間が、自己満足で好きな曲を作って、好き勝手に弾いて、暴れ回るだけのライブ。芸術性だとかエンタメ性だとかそういうものを度外視して、趣味と自己満足に振り切っている。

 趣味がいいとは言えなかったが、演奏に説得力があったものだから、つい聴き入っていた。どれほども理解できたとは言えない。友希那の知らないパロディやオマージュも多く取り入れられていたに違いないし、間違いなくこれら一連の曲の作曲者は、音楽理論にのめり込んだ人間だ。

 

 友希那は思わず、横目に他の聴衆の反応を窺った。自分の聞き手としての能力の不足を感じたが故の行動に違いなかった。

 左斜め前に立っているチロリアンハットを被った女性は、当惑した様子ながらもステージから目が離せないでいた。前列に並んでいる、バンドのファンらしき人たちも、やはり少し戸惑ったような、置いてけぼりにされたような、それでいて『これでいい』と言うような雰囲気を纏っていた。

 

 驚いたことに、バンドの中で最も上手いと思わされたのは、最年少らしいサヨだった。ここまで多彩な演奏をしてのけるのだから、メンバーの技術レベルはかなり高い。

 ドラムの機転の利かせかたも、曲が変わる度にベースが表情を変えるのも、幅広い曲調の味付けの変化を一手に担うキーボードも。けれど、バンドの味を決めているのはリードギターだった。バッキングに移ったり、メタルロックの曲では歪みに歪んだトーンで弾けたりするのに、どうしてこのギターにバンドとしての一貫性を感じるのか、最初友希那は答えを出しかねた。

 メロディアスなトーンがそう思わせるのか、落ち着いた雰囲気がそう見せるのか。最後まで聞き届けて、やっとわかった。まるでブレがないからだ。

 

 他のパートは、良い意味でも悪い意味でもかなり波があった。得意な曲調とか、そのパートが表に出てくるか否かとか、あとは恐らく好みで、とか。

 その場のノリでのアドリブだろう表現だって見受けられたし──そう、彼女たちは真剣に勝負をしていた。音と音のぶつかり合い。意地と意地、感情と感情、ノリと勢いで、とにかくそれぞれが主張をし、時には勝り、時には敗れ、時には調和し、時には反発し合う。

 戯れで、死闘で、じゃれあいで、馴れ合いで。そこに唯一関与しないのがサヨだった。役割は、恐らく指揮者のそれに近い。バンドの指針こそがサヨのギターだった。勝負の中でどこかへ散ってしまわないように、一際目立つ指揮棒を振っている。ある意味ではドラムスよりも曲の土台としての役割を果たしているように、友希那には見えた。

 

 高波にさらわれるような心地で、演奏が終わってようやく、友希那は一息ついた。

 

「今までありがとう! みんな!」

 

 ボーカルの言葉に、歓声が上がる。こんなバンドを知らなかったなんて、と自分の無知さ加減に少し呆れた。

 

「びっくりしたでしょ? 初めての人も、そうじゃない人も。これで最後だからってはっちゃけちゃった。今演奏したのは全部()()です! やり残したこと全部詰め込んだから、これで悔いなく終われます。本当に、いままでありがとうございました。またいつかどこかでお会いしましょう」

 

 バンドメンバーが掃けて行く中、固定のファンらしき人たちの戸惑いの理由も分かったところで、友希那はまりなを探していた。裏にいるのだろうか。

 後で知ったが、まりなはこの日出演した他のバンドのケアに回っていたらしい。このバンドをトリに回した判断は正しかったが、それでも根底のレベルの違いが大き過ぎた。ある種、ジャンル違いでもある。

 

 物販コーナーで、二枚のCDを買った。思えば、このライブハウスの物販で物を買うのは初めてだった。すこし痛い出費ではあるが、後悔はない。

 一枚目のアルバムは、『セイタカアワダチソウ』。聴いてみるまで意味は分からないけれど、オルカといい生き物が好きなのだろうか、とは思った。遠目には菜の花のようにも見える帰化植物だ。つまりは外来種。

 二枚目のアルバムは、『My Dearest Baby』。今日のライブの曲が全部入っているらしい。多分意味は分かる。

 

「おっ、キミがユキナちゃんでしょ」

 

 そうして次はどうしたものかと考えていたら、声をかけられた。友希那がそちらを振り返ると、先程ステージで見た顔が立っていた。サマータイム・オルカのギターボーカル、先程はHonamiと名乗っていた。

 

「──ええ。初めまして、ホナミさん。さっきのライブは素晴らしかったです」

「ありがとう。まりなさんからキミの話は聞いてるよ。ライブ映像も観たけど、うん、正統派だ。紗夜に会いたいんでしょ?」

「はい」

 

 サヨと話してみたい。言語化されてようやく、自分の目的がそうだったことを思い出す。もう内心では、サヨをバンドに誘うつもりだった。まりなの言った通りになるのは少しだけ不本意だったが、この衝動を僅かにでも減衰させるほどではない。

 

「紹介するくらいは良いんだけどさ、一つだけクイズを出していい?」

「……?」

「さっきのライブの──つまり、キミが今持ってるそのアルバムのテーマはなんでしょう?」

 

 随分と気安い人だった。ライブの余韻が抜けないのか、ケラケラと楽しそうに笑って友希那に話しかける。

 クイズと言いながら、試されているのは分かっていた。

 ライブのテーマ。脳内で先程のライブを振り返って、最初に思いつくのはジャンルの多様性。それから、サヨのまるで驟雨のようなギター。

 

「アルバムのテーマは、『雨』だと感じました。──けど、ライブは、『餞別』……?」

 

 ショパンの『雨だれ』からの引用が印象的だったのも含めて、一貫したテーマの中に『雨』が入っているのはおそらく間違っていない。

 

「へぇ、『餞別』ね。誰に、だと思う?」

「最初はファンだと思って、次に音楽かと考えました。多分違いますよね」

「うん」

「サヨは、貴方たち程の奏者にとっても特別なんですか」

「キミも同じ側だろうに……いや、だから自覚がないのかな。あの子は特別だよ。……うん、私たちとは違う、『スター』だ」

 

 スター。オウム返しに呟いて、言葉の意味を飲み込もうとする。

 

「私たちが何を考えて彼女に触れてるのか、キミに伝える気はない。キミが私たちに、そして彼女に何を感じたのかも、伝える必要はない。元々キミから紗夜を隠すつもりはなかったんだ。キミたちは出会うべくして出会うんだから」

 

 彼女の言っていることは、ほとんど友希那には理解できなかった。彼女も、友希那に伝える気はなかったのだろう。己の感情と思考を整理するために口に出している節さえ見受けられた。

 

「ちなみに、正解だよ。『ギフト』なの。私たちから、まだ幼い才能へのプレゼント」

 

 ウルフカットの髪をかきあげて、Honamiは笑った。

 

「今から会うのと、打ち上げにまざるのと、どっちがいい?」

「彼女と永く話せる方で」

「それじゃあ、また後でかな。楽器を弾けるならそれも持ってきて。もちろん、その喉ひとつでもいいけど」

 

 問に答えてから、友希那は自分があまり良くないノリに巻き込まれたのだと気が付いた。しんみりとした空気は全く感じられなかったが、バンドの解散ライブ直後の打ち上げが穏やかに気分よく進行するものだろうか。

 日頃からために溜めた鬱憤をメンバーにぶちまけて散ったバンドのリーダーの話や、仲が良すぎるあまり居酒屋で別れを惜しんで号泣して出禁になったバンドの話など、父から聞いた面白エピソードは枚挙に(いとま)がない程だった。

 

 サヨと話すことへの期待と、同時に待ち受ける面倒ごとへの不安が両方顔に出ていたらしく、Honamiはにんまりとした表情を隠そうともせずに友希那の肩を叩いた。

 

 

【驟雨】

 

 トークアプリの連絡先を交換した後、一度別れた。送られてきた地図アプリの位置情報を頼りに、店に向かう。音大にほど近い繁華街の片隅にある、ミュージック・バーだった。ドアには本日貸切と書かれていて、扉を叩くのに少々躊躇する。

 逡巡した後、意を決して友希那はドアを開いた。一介の女子高生には夜の繁華街をひとり歩くのさえあまり慣れない経験だというのに、その上バーに一人乗り込むには、些かの勇気を必要とした。

 

 結局、何も持たずにそのまま──Honamiが言うには喉ひとつ持って──来てしまった。ピアノとギターは少し齧っているが、彼女らの前で披露できるようなものではなかったし、唯一それなりに聴けるだろうベースを持ち出す気にはならなかったのである。

 

 ドアを開けると、内装は友希那の想像したものとはまるで違っていた。映画に出てくるようなバーカウンターこそあれど、見た目にはライブハウスに近い。奥まった場所には小さめのステージがあって、片隅にグランドピアノが口を開けている。

 カウンターが5席に、卓が4つ。そのうち空いているのは一卓だけだった。

 

「やっと来た! ほら、紗夜、あの子!」

「はぁ」

 

 Honamiが大袈裟に手招きするのにつられて、そちらへ向かう。ラウンドテーブルにはHonamiと、サヨと、それから壮年の男性が座っている。

 

「あ、この人はウチの大学の教授。ユキナちゃんは気にしないでいいよ」

「ええ、ほんとうにお構いなく。──と言っても難しいですかね。カウンターの方に行きますか」

「私もすぐ抜けるから、そしたら一緒に弾きましょうよ」

「お金取りますよ」

「えー、教え子の頼みじゃないですかぁ」

 

 教授と呼ばれた男性は物腰が低く、グラスを持ってそのままカウンターの方へ行ってしまった。そちらにも知り合いがいるらしく、二十代に見える男性に声を掛けている。

 

「んじゃ、改めまして、こっちは紗夜。今日までウチのバンドのギターをやってくれてました。こっちはユキナちゃん。紗夜を誘いたいんだって。私は教授と遊んでくるから、二人は仲良くね」

 

 Honamiも席を立って、ラウンドテーブルには友希那とサヨの二人が残された。

 同性ながら、美人だ、という印象が真っ先に来る。何がそう思わせるのか、サヨが身に纏う雰囲気は既に完成しているように思われた。友希那を含め高校生が備えている落ち着きのなさや、ゆとりのなさ、ありとあらゆる物事への反骨心なんかを微塵も感じさせない。老成していると言うと少し意味が違ってくるかもしれないが、その整然とした姿は柳を思わせた。

 

「……初めまして、氷川紗夜です。明日からはフリーですから、話くらいは聞きますよ」

「ええ、ありがとう。私は湊友希那。今はソロのボーカルで活動しているわ。バンドメンバーを集めている途中なの」

 

 言いながら、サヨ──紗夜は興味なさげだった。辛口のジンジャーエールで唇を湿らせて、見透かすような瞳で友希那を()る。

 珍しい反応だ、と思ってしまってから、友希那は自分の思い上がりを恥じた。友希那には、自分の実力への自負がある。事実、友希那がバンドメンバーを探しているという情報が出た時点でそれなりの数のバンドマンが友希那に声を掛けてきたし、レーベルから声を掛けられたことも幾度となくある。

 実力に裏打ちされた自信はいい。ただ周りに影響された根拠の無い自信は持つべきではない。改めて心をフラットにしてから、友希那は紗夜になおも言葉を紡ぐ。

 

「ベースは既に決まっているわ。だからあとはギターとドラムね。ピアノか、キーボードも探す予定よ」

「なるほど。ですが、メンバーが集まっているかどうかは重要視しません。それよりも私があなたと音楽がしたいと思えるかです」

 

 歌で口説くしかあるまい、と腹に決めていた。言葉を尽くして加わってくれるのならそれでいいが、演奏を通してお互いを認め合った方がスムーズに関係を築ける。

 

「わざわざあなたがバンドを組む理由はなんですか?」

「夢のためよ。音楽の頂点を目指すため、父を超えるため」

 

 世界一のベーシストになると宣言したあの日の友希那にとって、それはすなわち父を超えるということだった。友希那の父は、一時期はメジャーレーベルで活動していたバンドのベースボーカルで、業界でも高い評価を受けた人物だった。

 友希那と幼馴染にとっては最初の先生でもあり、最初の憧憬でもある父を超えること。第一の目標はそれだった。

 

「まずは、『FUTURE WORLD FES』に出場して、私たちの演奏を認めさせることが当面の目標ね」

「……いいですね、野心があって」

 

 殊の他、紗夜は好意的な反応を示した。

 頂点を目指す。それが音楽を志したものにとっては如何に馬鹿げていて、滑稽な響きに聞こえるのか、友希那は知っている。例えば、クラシックのピアノ・コンクール。世界中の天才達が一同に集って頂点を決める祭典が、軽音楽にもあるのなら、或いは。この夢は残酷なまでの現実性をもって受け止められるのかもしれないが。

 そんな土台さえないのだから、この『頂点』という言葉は友希那の主観の中にしか存在しない、酷く浅い言葉に過ぎない。

 

「私、いくつか誘いを受けてるんです。うちのバンドに来ないかって。まだ返事は返していませんが、バンド活動を続けるつもりはありますから、どこかの誘いには乗るつもりです」

「そう」

「ですから、弾きましょう。口説いて見せてください」

 

 バーのマスターと何事か話して、紗夜がアコギを抱えて戻ってきた。ミュージック・バーといいながら、今楽器を動かしているのは紗夜だけなので、それなりに衆目を集める。

 

「いまこの店にいるのは、音大生と、音大の教授と、音楽関係の企業人だけです。普段のライブハウスよりも真摯に聴いてくれるでしょうが、それよりもずっと厳しく評価されるでしょう」

「その程度で怖気付くようなら、こんなアウェイに遥々乗り込んで来ないわ」

「……それもそうですね。曲は何がいいですか? 邦ロックかJPOPの有名どころならだいたい対応できますが」

「じゃあ、そうね。『◼️◼️』を」

 

 友希那の言葉に、紗夜は黙って頷いた。

 

「楽器はやらないんですか?」

「人前で弾いたことは無いわ」

 

 ステージに立った。音響設備も何も無い、生歌になる。マイクさえも無い。

 喧騒を気にする必要はなかった。もとよりそれほど喧しいわけではなかったし、二人がステージに立った瞬間、その僅かさえも消え去った。

 

 第一音。紗夜が爪弾いた瞬間、世界に色が着く。やはり雨だ、と友希那は改めてその音を評価した。ただし、先程聴いたような驟雨ではなかった。しとどに降る春雨。雨粒は細かく、されど勢いは強く。屋根を打つ音よりも、屋根から滴ってトタンや地面を打つ音の方が大きいような、そんな雨。

 

 聞き惚れている場合では無い。極短いイントロに併せて、友希那は息を吸った。

 選んだ曲は、あまり好きでは無い曲だった。むしろ、憎んでいると言ってもいい。暗くて、破滅的で、やけっぱちになって逃げ続けた先にあるような、そんな曲だ。友希那と幼馴染の関係にも1部被るところがあって、聴く度に焦りと苛立ちが募る。

 

 友希那は所謂、天才肌だった。そして、感覚派だった。少なくとも、歌唱においては。

 歌手を志してから、声楽の勉強も少なからずしてきたし、トレーニングも積み重ねてきた。それでも歌う段階になると、毎回その積み重ねをさっぱりと忘れてしまう。

 ──ちゃんと身に付いているよ。表現にも出ている。だから歌っているあいだは忘れていたっていい。

 友希那に指導してくれた父がそう言ったので、友希那はそういうものかと割り切ることにした。

 

 歌うと、友希那の心は感情の濁流に押し潰される。曲に込められた意図に、歌詞に紡がれた想いに塗り潰されて、それしか思考が及ばなくなる。

 出力機なのだ、と友希那はこの感覚を自嘲する。曲をそのまま現実に音として吐き出す装置のようだ、という意味である。積み重ねたトレーニングや身につけた技術はアップグレードパッチにあたるのだろうか。

 

 ──ああ、だから嫌いなのか。

 今更ながら、気が付いた。友希那にとって、歌うことはその曲を己の中に染み込ませることだった。自分が決して至るまい、と思うような曲を、自分の中に染み込ませてしまうから、この曲が嫌いなんだ。嘲りながら聴ければ良いのに、友希那にはそれができなかった。

 

 歌い終えて、溺れ掛けたように深く息継ぎをした。そこで初めて、オーディエンスの反応を目にする。

 感心している様子なのが半分。顔を顰めているのがその半分。仕方がないなと笑っているのが残りの4分の1。

 

「湊さん。音楽は好きですか」

 

 紗夜は、恐らく後者の感情を抱いて友希那に問いかけた。

 友希那はつかの間、答えに窮して、ついぞ返事を返さなかった。

 

 

【愚か者のうた】

 

 白金燐子は、何一つ不自由のない恵まれた家庭で生まれ育った。父は医者で、母はピアノ教室の講師をしている。燐子のあまり広くは無い交友関係の中で、最も在り来りな組み合わせだ。

 物心ついた頃から、或いはその遥か昔から、燐子はピアノに触れてきた。一戸建ての我が家には地下に防音室があり、そこには小さめのグランドピアノと、父の趣味のヴァイオリンやギター、それからサックスが置いてある。

 

 母が燐子にピアノを教え始めて直ぐに、母は燐子に才能を見出したらしかった。小学校、中学校と何度も何度もコンクールに出場しては、地方自治体レベルのコンクールでは入賞を逃したことはほとんどなかった。中国や韓国、ロシアといった近隣諸国とのジュニアクラシック国際交流には頻繁に駆り出されたし、小学生の頃には既に母の手を離れ始めて、有名な音大の教授に教わり始めていた。

 

 ある意味では母のエゴに振り回された半生とも言えるが、燐子は母に感謝していた。コンクール、つまりコンテスタント達の世界は未だに好きになれないが、ピアノを初めとした音楽の世界は好きだ。

 

 中学生になって、クラシックの世界に対する燐子の見方は大きく変わった。きっかけはやはり母だ。

 思春期、第二次性徴に差し掛かって、燐子には母が他人を見る目がどうにも気に障って仕方がなくなった。おそらくは無意識に、母は音楽を理解しない人間を見下していた。

 

 ──クラシック界の人間はそれほど偉いの? 

 思い返せば、ピアノ教室でも、コンテスタント達の集まりでも、そういう雰囲気はあった。コンクールで上位に来るほどにピアノにお金をかけられる人間はほとんどが富裕層の出身であること、ピアノが上手い子供は早熟で、得てして勉学に秀でていることから、自尊心が肥大化しやすいこと。いくつか要因は考えられるし、一因性の事象ではないことはまだ子供である燐子にだって分かる。

 もしかすると、他の業界でも大差は無いのかもしれない。だが、結論として。燐子はコンクールに出ることが億劫になった。

 

「辞めてしまってもいいんじゃないですか」

 

 とうとう先生に内心を打ち明けると、彼はこともなげにそう言った。

 

「このままコンテスタントとして過ごして、国際的なコンクールで賞を取って、プロのソリストになることはおそらく可能だと思います。少なくとも僕は、あなたにそれだけの才能を見出している」

 

 僕の見立てが正しいとも限りませんが──と置く。悩ましげな表情で話す先生の表情を、燐子は初めて見た。

 

「僕は30代までそうして活動してきましたが、あなたが感じたような感覚はずっとついてまわりました。そして自覚する限りでは、僕もその思想にかなり染まってしまっています。加えて西側のコンクールに出ると、アジア人に対する酷く差別的な空気も感じますし、あなたはかなり、人間に対して潔癖なところがあるようですから、辛いかもしれません」

 

 燐子がプロとして生きてゆくための道を丁寧に舗装してくれていた先生が、そんなことを言う。コンクールの勝ち方。プロのソリストの価値観。人脈の作り方。ほとんど概念的で感情的な表現をせず、あくまで理詰めで理論的にそれらを教えてくれた。燐子は今まで自分に合わせてそういう表現をしてくれていたのだ、と思っていたのだが、先生自身もこの世界に対して批判的な見方をしているのかもしれなかった。

 

「辞めてしまうには勿体ない才能ですけどね。もしくは、高校生活の3年間だけでも、コンクールに出る頻度を下げてみてもいいんじゃないですか。近頃のあなたはコンクールで入賞しても、それをテレビや雑誌に取り上げられても、あまり楽しそうじゃないですから」

 

 楽しそうじゃない。言われて、燐子は愕然としたような気持ちになった。そんなことはない、と言いたいが、そこに飽きと慣れが無いとは言いきれなかった。

 

「ああ、そう言えば、都合がいい。今夜教え子や関係者の集まりがあるんですが、あなたも来ませんか? コンテスタントの世界とは違う、音楽の世界が味わえると思います」

 

 息継ぎをしてみましょう。

 先生の眼鏡の奥から覗く優しげな瞳が、燐子は好きだった。

 気が付けば、行きますと答えていた。

 

 

 母に夜間の外出を強請ると、最初こそ嫌な顔をしたが、先生の関係者の集まりに顔を出してみたいのだと言うと諸手を挙げて許可を出した。

 

 母の後悔を背負わされている。近頃、そう感じるようになった。母はピアニストになりたかったのだという。音大に入って、25歳までコンクールに出続け、ついぞ光るものを見出されなかったのだと、いつか酒が入った口で聞かせてくれた。

 

 ピアノを辞めたい、とは口が裂けても言えなかった。

 

 母の車で、先生が教えてくれたバーに向かう。到着を告げると、店の前まで先生が迎えに来てくれた。

 

「娘さんをお預かりしますね。帰りはちゃんと送っていきますし、遅くなりすぎないようにしますから」

「ええ、ええ、よろしくお願いします」

「はい。それと近日中に、燐子さんの今後の活動についてお話があるので都合の良い日を連絡していただけますか? 僕はレッスンの日ならいつでも空けていますから」

 

 母は少し、虚を突かれたようだった。それから、燐子の方を見て、はい、と答えた。

 そのとき燐子の興味は「息継ぎ」の方に向いていて、母の反応について深く考えることをしなかった。バーという大人の世界。燐子は本を読むのが好きだったから、その中でしばしば登場する、アルコールと煙草の匂いに包まれたバーカウンターに憧れがあった。特に、お酒。

 不思議なもので、小説家達は皆一様にお酒の味ばかりを丁寧に描く。人生に苦悩する中年男性の主人公がオレンジジュースを口にしていたら格好がつかない、というのは重々承知しているが、あの魅力的な文章に描かれるバーのお酒はどんな味がするのだろうと、燐子の心を惹き付けてやまない。

 ワインとか、蜂蜜酒とか、梅酒とか、なんとなく味に想像がつきそうなものもあれば、ブランデーとかシードルとか、ウォッカとか日本酒とか、まるで想像がつかないものもある。

 

 そんな姿を微笑ましげに眺めて、先生は期待と手応えを胸に燐子をエスコートした。

 

「音大で担当してる子達のバンドの打ち上げなんです。彼女達はもう卒業してしまうから、バンドも一時解散ということで。思えば、あなたは他人と演奏した経験がほとんどないでしょう? オーケストラとの合奏はあったと思いますが、それとはまた雰囲気も違ってきますしね」

「……はい」

「これはあくまで提案なんですが、どこかのバンドに入ってみるのもいいと思うんです。吹奏楽部でもいいですし、ジャズでもいいですが、他人と弾く音楽の楽しさを、あなたにも知って欲しい」

 

 バーに入ると、一瞬、注目がこちらに向いて、それからステージに巻き戻っていった。ステージには燐子と同年代程度に見える少女が二人、立っている。

 一人はアコギを構えた浅葱の髪の少女。もう一人は、ただ一人佇んでいる銀髪の少女。まもなく始まるのだ、という期待の高まりの中、先生が続けた。

 

「僕は、人と演奏する喜びをほとんど知らないままにオジサンになりました。宗教的で理論的な音楽を突き詰め過ぎて、結果として回り道をしたような感触があります。うん、だから、これも後悔ですね。楽しいだけの音楽を、あなたには知って欲しい。ほら、見てください。あの二人はあなたと同い歳ですよ。きっと、面白いものが観られるはずです」

 

 言うか言わないかのうちに、浅葱の少女が爪弾いた。瞬間、もしかすると先生のアテは外れたんじゃないか、と燐子は思った。彼女のギターがそれほどクラシカルで、燐子の意識は刹那の間にコンサート・ホールへと連れ込まれてしまったからだ。

 ピアノの経験があるんだろう、と確信した。少女の雰囲気は、コンクールで数多の少年少女が醸し出す雰囲気とまるで同じだった。

 

 それも、須臾の出来事だった。

 銀髪の少女が音を発した瞬間に、風景がライブハウスへと切り替わった。

 苦しげだった、泣きたげだった。少女は嘲るように歌って、それでも世界の美しさを信じることを辞められない、と叫んだ。

 

 これも、クラシックの潮流と一致するように燐子には思われた。銀髪の少女の歌には、作曲者の、或いは曲の持つ意図を忠実に、そして最大限に表現しようとする意図が現れていたからである。奏者の自由な解釈による演奏が嫌われがちなクラシックでは、このような演奏がスタンダードだ。

 

 燐子がとりわけ心を惹かれたのは、銀髪の少女の方だった。ともすれば壊れてしまうのではないかというような、感情塗れの歌唱のインパクトが大きすぎたためである。まるで曲が憑依しているような、そんな印象さえ受けた。

 楽器でもここまでの領域に至るものはいるが、歌となるとまた印象が変わってくる。

 

「アテが外れましたかね。……いや──」

「打ち上げでそれをやってどうすんだよー!」

「そうだそうだ!」

 

 先生が言いかけるのに合わせて、赤ら顔の女性がステージに飛び込んで行った。彼女がトロンボーンを持って、ぞろぞろと連れ立ってステージに上がった二人がピアノとカホンに腰かけた。

 

「楽しいのを歌うんだよ、楽しいのをさ!」

 

 今度は燐子でも知っている曲だった。『明日があるさ』。

 

「あの子の十八番らしいです。実際、突発のセッションでも合わせやすい名曲ですけれどね」

 

 燐子の後ろでベース貸して! という声が聞こえた。なんで持ってこなかったんだ、コントラバスでやりなさいと返されている。

 合奏でもあり、もはや各々が歌うものだから合唱のようにもなっていた。

 ──こんな世界が本当にあるんだ。

 音楽の世界にどっぷりと浸かりながらも、燐子にとっては映画でしか観ないような未知の世界だった。

 

 コントラバスを抱えながらえっちらおっちらステージに上った女性が、こちらを見ていた。手招きされたものだから驚いてしまったが、直ぐに先生を呼んでいるのだと思い直す。

 

「……だから、楽器ケースを持ってきたんですね」

「そうです。あなたも弾けますよ、あっちに電子ピアノがあります」

「でも、いいんですか、こんなことをしちゃって……」

「貸切の日のここはいつもこんな感じですよ。僕の友人の店ですし、あなたは気にしなくても大丈夫です。それと、ステージの5人は違いますが、銀髪の子やら周囲の人たちはほとんど初対面の他人です。だからまあ、楽しくセッションしましょうといった具合でしょうか」

 

 気が付けばバーのマスターが譜面台を並べ始めている。バーカウンターに置いてあるファイルに綴られているのは楽譜だろうか。その様子から、先生の言葉が嘘ではないことは確かめられた。

 

 先生が持ち出したのはサックスだった。『明日があるさ』の合奏が終わって、いつの間にか『Sing・Sing・Sing』に変わっている。銀髪の少女は、先程浅葱の少女が使っていたアコギを爪弾いていた。じゃあそちらはどうなったのかと言えば、ブルーのエレキギターを弾きこなしている。譜面が配られたので、燐子は電子ピアノの電源をつけた。もとより知っている曲ではあったが、楽譜があった方が弾きやすい。カホンとアコギがリズムを、それにパート被りのピアノ二つがメロディを乗せて、コントラバスとサックスの重低音の上に各々が好きなフィルを乗せていく。

 

 先生、どうしよう、楽しいです。

 独りのコンクールなんかよりもずっと、ずっと。

 

 燐子には、これが音楽の本来あるべき姿であるような気がしていた。クラシック、つまり格式高く伝統的な気風が生まれるよりも、ずっと前の音楽。日本であれば、祭りの囃子に見られるようなそんなもの。

 

 いつの間にか楽器を弾いているのは、まるでスウィング・ジャズをやるときのようなビッグバンドの人数だった。バーのマスターもどこからかヴィオラを引っ張り出してきて、『Sing・Sing・Sing』のソロパートでカホンの人が弱音を吐いている間に次の曲が決まる。

 

 この5年間、人前で演奏した中では間違いなく一番下手な演奏だった。間違いも多いし、音も揃っていないし、とにかく酷い。

 メンバーの技術のレベルだってまちまちだった。先生は本職の楽器でもないのに堂々たる低音を奏でているが、銀髪の少女はアコギに慣れていないのか、楽器に弾かれているような有様だった。それでも聴けるくらいに音楽として成立しているのだが。

 音大生達はもちろん、バーのマスターもミュージック・バーなんかをやっているだけあって、燐子が時折協奏するオーケストラ顔負けの演奏をしていた。

 

「ジャズは知らないんだよぅ!」

「そんじゃあベートーヴェン!」

「クラシックはナシです」

「えーっと、じゃあアンパンマンでも歌っとけよ!」

「アンパンマン馬鹿にすんな!」

「クラシック禁止はキツいって先生! 私らの共通言語なのにさぁ!」

「小室でもQueenでもマイケルでもいいでしょう」

「それじゃあ日本のやつにしよ! もう酔ってるからわっかんない!」

 

 誰ともなく弾き出すのに合わせて昭和から平成の歌謡曲を歌い継いでゆく。思いつくレパートリーが尽きたら海を渡ったりして、こっちの方がコードが楽でいい、なんてピアノとギターで笑いあったりして。

 1曲、1曲と繋いでゆく度に、燐子はこの時間が終わってしまうことに怯えている自分に気がついた。

 

「先生、恨みます」

「はは、思ったより効いたみたいですね。大丈夫ですよ、あなたの糧になりますから」

 

 繊細なタッチ、とかそういうことさえも考えない。電子ピアノの軽い鍵盤に手加減せずに叩き付けて、燐子は久しぶりに心底から笑った。

 コンクールで会心の演奏をしたって、こんなに楽しくはなかったのに。

 

 不思議な調和だった。先生の言うようにこの中のほとんどが初対面なのだとしたら、これは個々の持つ音楽への理解が産んだごく自然なパート分けであり、有名な楽曲への理解であり、そしてスタンドプレーから繰り出されるチームワークなのだった。

 燐子がふと思い出したのはフラッシュモブだった。あれはあくまでサプライズであり、そして事前に組まれたものではあるけれど、それが自然に起こるとしたらこんな感じなのだろうか。

 

 バンド、いいなぁ。

 私も組みたい。

 

 恋に焦がれる少女のように、燐子は呟いた。

 

 

【魔王】

 

《へぇ、即興バンド。いいなぁ、俺もバンド組みたい》

《シューベルトは何か楽器やってるの?》

《ドラム。かっこいいでしょ?》

《ピアノじゃないんだ》

《この名前は『魔王』から取っただけで深い意味は無いんだって!》

 

 ミュージック・バーで夜更かしをした日の翌日。まだ興奮冷めやらぬといった心地で一日中ピアノを弾き倒して、昨日ほどの興奮がついぞ得られなかったことに失意を覚えた燐子は、デスクトップパソコンの画面に向かって文章を打ち込む。

 

 メッセージチャットの相手は、ネットゲームを通じて知り合った、所謂ネ友というやつだった。とは言っても、お互いに本名も学校も知っている。向こうのミスでつい本名を知ってしまって、それから仲良くなった後にオフ会をして、たまたま向こうが燐子の顔を知っていたものだからついでに本名までバレた。

 

 シューベルトと名乗る()()は、宇田川あこといった。ネナベをしているが、れっきとした女の子だ。それも、燐子の通う花咲川高校からほど近い、私立の中高一貫校である羽丘女子学園に通っているらしい。世間とは狭いもので、日本中のあらゆる場所と繋がれるツールを用いて仲良くなったのは、車で10分程度で会いに行ける場所に住んでいる二つ年下の少女だったのである。

 

《俺さ、憧れの人がいるんだよね。アマチュア歌手でユキナっていうんだけど》

 

 ディスプレイに浮かんだユキナの文字に、記憶をくすぐられるような心地がして、少しもしない内に昨日の銀髪の少女が脳裏に浮かぶ。確かに素晴らしい歌唱だった。

 

《その人、知ってるかも》

《ほんとに?》

《昨日のバンドにいた人、だと思う。一緒に演奏したよ》

《うわー、世界って狭いなぁ。めちゃくちゃ羨ましいけど、いいや。それでその人がバンドを結成するって言うから、ドラマーとして売り込みに行こうと思ってるんだ》

《私もそれ、やるかもしれない》

《じゃあもしかしたら同じバンドでやれるかもしれないのか。俺はなんのツテもないから門前払いを食らうかもしれないけど》

 

 すぐさま、先生にメールを送っていた。

 昨日の銀髪の子の連絡先を知りませんか。

 にわかに、世界が色付いていくのを実感していた。

 

 

【オクターヴ】

 

 ──友希那、おはよう! 

 

 そう言われた気がして、友希那は背後を振り返った。筆談用の電子ボードに大きく「HELLO!」と書かれている。「Good morning」ではなかったのでハズレ。

 ハイネックのコンプレッションインナーで喉元まで隠して、この春の日に、桜にも似た雰囲気を漂わせる幼馴染がそこに立っていた。

 

「おはよう、リサ。今日はあなたにもお知らせがあるの」

 ──? 

「バンドメンバーを見つけたわ。私たちと共に羽ばたいてくれるギタリストよ」

 ──へぇ、楽しみ! いつ紹介してくれるの? 

「向こうはいつでもいいと言っていたけれど……今日連絡したとしたら、明日以降にはなるでしょうね」

 

 幼馴染──今井リサは、声を発することができない。正確には、話せないことは無いのだが、酷く掠れた声になってしまうし、思うように話せないことでストレスが溜まってしまうらしく、声を発したがらない。

 

 家族旅行の帰路、今井家の父が運転する車は、信号を無視してきた居眠り運転のトラックに衝突する事故に巻き込まれた。その際にリサは声帯に重篤な外傷を負い、元の声は永遠に失われてしまったのである。それ以外にも骨折などの大怪我を負ったリサだが、もう話せなくなったと知った時の取り乱しようは今思い返してみても異常な程だった。

 

「せかいいちのかしゅになる!」。その言葉を、友希那は昨日の事のように思い出せる。

 小学生の夢なんて、大した具体性も思い入れもない、その場の思い付きのようなものが大半だ。警察官になりたい、とか、猟師になりたい、とか。総理大臣になりたい、とか。しかし、リサと友希那はそうではなかった。大真面目に世界一の歌手とベーシストになる方法を探していたし、その時点で第一の目標を定めてもいた。

 

 当初は、リサがボーカルだった。高音の伸びは友希那の方が映えたが、地声や低音で迫力を増すのはリサの声で、父は「どちらも向いているから、好きな方がやればいいんじゃないか」と呆れがちに言った。

 結局友希那もボーカルトレーニングには参加していたし、リサもベースを触っていたけれど、友希那が目指すのはベーシストで、歌手ではなかった、はずだった。

 

「私があなたの代わりに歌う」

 

 父のお下がりの紅いベースをリサに突きつけて、あの日、そう言った。

 その頃にはリサも、声を失ったことへの急激なショックからはある程度回復していて、黙ったままベースを受け取った。やるとも、やらないとも言わなかったが、その日、隣家の一室からベースの音が漏れ聞こえてきた。

 

 リサのベースが習熟するまで、友希那はソロでライブハウスを渡り歩いた。カラオケじゃないんだぞと言われて心底ムカついたり、インターネット上での評価に自信を取り戻したり、実力をつけようともがいているうちに、ソロのボーカリストとしてそれなりに有名になっていた。

 

 同じ頃、父が音楽を辞めた。心が折れてしまったのだ。

 実力主義のミュージック・フェスで、大衆に媚びた音楽になったと公然と侮辱されたのが一因だった。

 友希那は父がどれほど音楽を愛していたのか知っていたので、フェスの委員会をたいそう恨んだが、一個人の声など届きはしない。

 ──父の後悔も拾っていこう。

 リサにそう告げると、彼女は痛々しげに笑った。

 

 友希那に知名度が着いてきてしまったので、友希那の名義でバンドを募集することにしたのが中学3年生の冬。

 募集に思いのほか人が集まって、このスタイルが全く自分たちにあっていないと発覚したのがそのすぐあとのことだった。

 

 私が探すべきだ。私たちの夢を共有できる演奏家を。

 馴染みのライブハウスのスタッフやら音楽関係者に頼み込んで、条件に合いそうな人がいれば紹介して貰えるようにした。どうなることかと思ったが、昨日紗夜を紹介して貰えたことから一応は上手くいっているのだろう。

 

 少し立ち止まって、紗夜にメッセージを送った。

 ベース担当と会ってもらいたいから、都合の良い日を教えて欲しい。

 直ぐに既読が付いた。

 いつでも。なんなら今日でも構いません。

 

「今日会えるらしいわ。どうする?」

 ──今日! 

「じゃあ、そうしましょう。この調子でドラムも見つかるといいのだけど……」

 ──ベース取ってくる! 

「それは帰りでも──まあ、いいけど」

 

 リサが目を輝かせて今来た道を逆走していくものだから、友希那は制止することを諦めた。

 リサが楽しそうなら、それでいい。もっと早く二人で活動すればよかった、と後悔が滲む。

 

 友希那には、負い目があった。声が出なくなったリサに、ベースを渡したこと。「諦めないで」ではなく、「諦めて、こっちにしろ」と言ったも同然だった。友希那はリサの夢と声を盗み、そうして今のうのうと歌っている。

 友希那が歌うことがリサにとって苦痛なら、友希那はもう、音楽を辞めても良かった。夢のためと言いながら、本心では罪悪感から歌っていたのかもしれない。

 

 リサが置いていったカバンを見つめながら、路上に押し固められた桜の名残に思いを馳せた。4月にもなれば、桜はもうほとんど散ってしまった頃だ。夏の葉桜に移り変わる前の、グラデーションのような白と緑。

 茶色というよりは黒に近い色合いの幹を、毛虫が這っているのに気が付いた。嫌悪感から目を逸らす。

 

 復路を、リサは歩いてきた。ベースを背負ったまま走ればチューニングが乱れるし、そもそも楽器に良くないから、正しいと言えば正しいが、始業に間に合うかは怪しいところだった。これはもしかすると、二人揃って遅刻コースかもしれない。

 

 紗夜からの返事。

 CiRCLEのスタジオを借りました。放課後、待っています。

 

 少しだけ、不安なところもあった。リサと紗夜が仲良くできるかという心配。友希那自身は昨日のセッションで、なんとなく紗夜の人となりを知るに至った。ひねくれていて神経質な、ピアニストのような人物。ただその棘は自己に向けられていて、他人に当たり散らすような人間ではないことは窺えたが、リサとの相性は分からない。

 一方のリサは失声というハンデを抱えながらもダンス部に所属してみたり、休み時間には多くの友人に囲まれていたりと、バイタリティと社会性がある。

 

 ただ、学校と音楽の世界は違う。これまで、友希那は如何に自分が学校という社会で、大人の冷たい悪意から守られてきたかを散々に思い知った。

 侮辱、嫉妬、嘲り。被った汚い言葉を挙げればキリがないし、スっと心が冷えた日もある。

 

 紗夜が大丈夫でも、次に加えるメンバーは? 次に使うライブハウスは? リサに心無い言葉を向けやしないだろうか。そんな危惧もあった。

 

 ──ユキナ? 考えごと? 

「紗夜にあなたをなんと紹介しようかと思って」

 ──そりゃあもちろん、世界一のベーシスト候補でしょ。

「なるほど。それはきっと、わかりやすいわね」

 

 

【Surges】

 

 氷川紗夜は、SNSの鳴り止まぬ通知に辟易して、アプリの通知をシャットアウトした。先日の解散ライブと、その後の打ち上げセッションを、帆南(ほなみ)がSNSにメンション付きで投稿したために、通知が凄まじいことになっているのだった。

 今頃は紗夜と同じ状況に悩まされた他のバンドメンバーにこっぴどく叱られている頃だろう。

 

 ドラムの(しずく)が一番怒るだろうな。

 無断投稿とか倫理観が終わっている、と言ってのける姿が思い浮かんで、紗夜は苦笑した。

 

「あっ、燐子ちゃんだ、これ」

「そうよ。指導教授の縁らしいわ」

「へー、こんな楽しそうに弾くんだ。コンクールじゃすまし顔なのに」

「誰だってそうでしょう」

「あたしはにっこりしてるよー?」

 

 双子の妹の日菜が、紗夜と同じ動画を眺めていた。5センチ差の身長以外、全てが紗夜よりも優れた妹だ。

 高校生になった途端すっぱりと辞めてしまったが、日菜もピアノをやっていたから燐子のことは当然認知していた。コンクールで何度もぶつかった仲なのだという。紗夜は数える程しか日菜のコンクールを見に行ったことがないし、自分のコンクールではあまり他人の演奏を聴くのが好きではなかったから、燐子の演奏のことはあまり覚えていない。名前だけだ。

 

「天才」。燐子も日菜も、そういう人種だった。生まれつき音楽の神様に好かれている人間。音楽で人の心を動かせる人間。

 

 日菜にピアノを教えていた先生は、「ジュニアのコンクールには3人の天才がいた」としばしば語った。

 一人は白金燐子。コンクールの受賞歴で言えばダントツで、日本のクラシックの申し子と言っても良かった。実に正統派の天才だ、と彼は燐子を評価した。最もダイナミックで、最も繊細で、奇をてらわず、曲の解釈に忠実で、小手先の技術に傾倒していない。

 アメリカでもパリでも通用するだろう、と言った。天才特有の足元を掬われそうな脆弱さを感じさせない、地に足のついた演奏だ、と、日菜に対するものよりも余程高評価を付ける。

 二人目は、もちろん氷川日菜。とはいえ、実績でいえば燐子とはかなり差がある。日菜は歴史の浅いコンクールしか取ったことがないし、演奏についてもかなりムラがある。自分の感性や独創性を、未だ持て余している。曲の解釈に対する目新しさや、表現の豊かさなどには目を見張るものがあるが、クラシック世界においてはまだまだ完成していない、青い天才だと言うのである。本人のモチベーションも低く、あっさりと長年親しんだ世界を捨ててしまった。

 三人目を問うと、先生は「キミはもう戻ってこないのかな」と紗夜に問い返す。紗夜が首を振ると、「戻ってきたときに紹介してあげよう」と言うのだ。

 

「ねぇ、おねーちゃん。あたしもギターやっていい?」

「好きにすれば?」

 

 妹のことは嫌いだ。今でこそ無関心に近い感覚だが、数年前までは嫌悪さえしていた。

 日菜こそが「本物」なのだ。そういう感覚が、常に紗夜には付き纏っていた。同じ顔、同じ声、同じ遺伝子。やることなすこと全て紗夜の後を着いてきて、そして紗夜よりも優れた結果を残す。

 劣等感を生じない方が異常だった。日菜の何倍もの時間をかけて努力しても、日菜には及ばない。スポーツでも勉強でもそうだったが、最もコンプレックスを刺激したのはピアノだった。

 

 原体験は、幼い日に母に連れられて聴きに行った、地方自治体が主催のコンサート。ショパンのピアノ協奏曲一番だった、はずだ。海外から有名な演奏家を招いた、かなり人気のコンサートだったらしい。

 紗夜は、衝撃を受けた。

 足元が崩れ去るような心地だった。今まで、生まれてから小学校に入る前の、ほんの5年程度の人生が全て塗り変わったような衝撃が、心臓を叩いた。

 音楽を形容する語彙なんて持っていない時期だ。ただ波濤のように押し寄せる音の波に、世界の美しいところだけを抽出したような旋律に、打ちのめされた。

 己の人生が決定したのがいつかと聞かれれば、間違いなくあのコンサートの瞬間だと答える。

 

 ピアノがしたいと母に強請った。

 母が後に言うには、初めてのわがままだったらしい。一も二もなくピアノ教室に通わせてくれた母には感謝している。

 日菜はなんでも紗夜の真似をしたがったので、半ば自動的に日菜もピアノ教室に通うことになった。

 最初は歌を歌ったり、楽譜の読み方を学んだり、そんなレベルからのスタートだった。紗夜がショパンをやりたいとしきりに主張するので、比較的簡単な曲から触らせてもらえることになった。CMで流れているような曲も交えながら、次第にジュニアのコンクールにも出場するようになった。

 

 

 

 

負けた。負けた。負けた。負けた。負けた。

 

 

 

 

 紗夜は、ただの一度もコンクールで最優秀賞を取ったことがない。すべて、“準”なのだった。

 それは別に、どうだって良かった。常に一番を取るのが、日菜でさえなければ。

 

 全て揃っているはずなのだ。日菜が紗夜に常に勝っている理由が、努力や環境なんかに依らない、“才能”なんてもののせいでなければ。紗夜が勝利するのに足りていないものなど考えられない。

 

 現実は非情だった。日菜と同じことをすれば絶対に勝てない。なぜなら、日菜こそが本物だから。

 コンクールで日菜に負けることは、紗夜にとっては人生の否定に他ならなかった。お前の努力は無意味であると、お前の解釈は見当違いなのだと、そういう否定だった。

 

 ああ、だから、紗夜は。

 ──諦めた。

 

 あんなに輝いていたショパンはとっくの昔に色褪せていた。

 クラシックの世界から逃げ出して、それでも音楽には囚われたままで。ジャズギターを経由して、ロックの世界の門戸を叩いた。不思議なことに、そこは勝負事とは全くかけ離れた世界だった。もちろん、コンテストは存在するし演奏の巧拙もある。だが、全く同じ曲を過去の偉人たちと、そして今を生きるコンテスタント達と比べ合うということにはならない。

 紗夜にとってはそれが救いだった。

 

 後ろを振り返っても、日菜はついてこなかった。

 

 

【Shall we dance?】

 

 アコースティック・ギターを握ると、案外ピアノの経験が生きた。技術面でも、感性の面でも。ギターはピアノよりも多面的なアプローチが可能な楽器だ。だからギターがピアノよりも表現において優れていると言うわけではないが、究極的には鍵盤を叩く打楽器であるピアノとは違い、ギターは叩いても弾いてもいい。

 

 日中は自由に演奏してもいい公園が2駅ほど離れた所にあって、紗夜はそこにギターを背負って足繁く通った。とにかく自宅にいたくなかったのだ。

 自宅にも防音室はあったが、そこで弾いていると日菜の足音が聞こえる気がした。

 

 好き勝手にギターを弾いていただけでも、観客がつく日があった。お捻りをくれようとするのを拒否しなければならない日もあった。

 

「有名になってるよ、キミ」

「はぁ」

「音大生の溜まり場で、ずーっとギター弾いてる中学生がいるって」

「ダメでしたか?」

「いや、面白いからいいんじゃない? 知らんけど」

 

 帆南と出会ったのも、そこだった。当初は変な大人に絡まれた、と思った覚えがある。今思い返しても、嫌な絡み方をされたものだ。

 

「ね、バンドに興味無い?」

「あまり無いです」

「少しはあるんだ」

「皆無ではありません」

「じゃあ、セッションしたことある?」

「オーケストラの演奏なら」

「あー、違う違う。そんなんじゃなくて、もっとテキトーなやつ。かっこいいスケールを並べあって、すげーって笑い合うだけの」

 

 無いと答えたら、たちまち腕を取られて人が少ない公園の東部から西側に連れてこられた。

 

「おーい! 連れてきたぞー! 囲めー!」

「わぉ、まだ小学生じゃん」

「中学生です」

「違いがもうわからん」

 

 ゴミ箱でバスドラムを再現したと思しきドラムスと、ギターやベース、ヴァイオリンにフルート、トランペットなんかを持った大学生たちに囲まれて、よく怖気付かなかったものだと、思い返してみても思う。それほど感性が死んでいたのだろうか。今でも同じ状況に置かれたら緊張を覚えるに違いないのに。

 

「浅葱ちゃん、何なら弾ける?」

「……有名な曲なら、だいたい」

「うーん、あんまりわからん!」

 

 ヴァイオリンが『情熱大陸』を奏で始めて、それにさっさとドラムが乗ったから、雪崩込むように演奏が始まった。有名な曲だから知ってはいたけれど、普段メインで触れる曲でもなかったからコードをさらうだけだったような気がする。そこからジャズ調に第九をやったりして、西日がシンバルに跳ね返って目が痛くなった辺りでお開きになった。

 

 次の日も帆南に(かどわ)かされて、紗夜は謎のバンドの中心にいた。そこにいた1人が彼女に振られたとかで散々失恋ソングを擦った後に、『愛は勝つ』を斉唱して、からかっているのだか励ましているのだか分からないような有様。

 

「今日が最後だから」と3日目も連れ出された。大学が休みなのが今日までだから、だとか。噂を聞き付けた音大生が続々とやってきて、即興バンドの人数は20を超えていた。

 

「アンタ声楽科でしょうに」

「ピアノ科の帆南がギター弾いてんだから、あたしがヴァイオリン弾いたっていいでしょうよ」

「歌えって言ってんのよ」

 

 帆南が誕生日だったので、『Good Morning to All』から始まった。全員揃って(ひねく)れているのか。昼過ぎにグッドモーニングなんて言い合っているのが、おかしかった。

『In The Mood』が来て、『Sing Sing Sing』を弾き終えて、正統派のジャズで行くのかと思ったら、帆南が『It's My Life』とギターで叫ぶものだから、もうテーマがとっちらかった。

 

「インザムードのせいでビール飲みたいんだけど」

「インザムードはハイボールだぞ阿呆め」

「ああ、『茶色の小瓶』と混ざってるの? まあグレン・ミラーだし当たらずとも遠からずでしょ」

 

 帆南、と何度も呼ばれているから、紗夜は彼女の名前だけを覚えた。毎日毎日、定位置で弾いている紗夜を連れ出しに来る。

 夕方の時報を全員で演奏すると、解散の流れになる。

 

「浅葱ちゃん、楽しかった?」

「ええ、とても」

「そりゃよかった。いつもは大学内でこういうのやってるからなー。ねぇ、うちのバンドに入らない?」

 

 突然の帆南の提案に、紗夜は面食らった。

 バンドに興味があるかと初日に問われたのを思い出す。もしかして、勧誘のためにこんな大それたことをしたのだろうか。そう考えて、首を振った。どうせ楽しんでいただけだ。

 この3日で、紗夜は中学生ながら、大学生というのはろくでなしばっかりなのだと理解していた。

 

「バンド?」

「そう。あそこのドラムと、ベースと、あと何故かトロンボーン吹いてたアレがキーボードやってる。色々やってるけど、ジャンルは一応ロックバンドだね」

 

 全員本職はピアノだけど、と付け加えた。

 

「いえーい。やろうぜ浅葱ちゃん。キミめちゃくちゃ上手いし楽しかったよ」

「年の差考えたら結構事案っぽい勧誘じゃない、これ?」

「え、マジ? 雫がむっつりだからそう思うだけじゃなくて?」

「殺すぞ」

 

 紗夜が頷いたのは、楽しかったからだった。この数年、音楽をやっている時にずっと感じ続けてきた苦しみ、焦燥感。この3日間だけは、そんなものからも解放されていた。

 

「……やります」

「マジ?」

「マジです。入れてください」

「え、やったぁ。ギタリストゲット?」

「ちなみにバンド名は『夏のシャチホコ』ね」

「それやめない? ……ほんとに」

 

 ──逃げ切ったのか。

 ふと、紗夜の心にそんな言葉が浮かんだ。

 ──なにから? 

 日菜からに決まっている。

 

【泥濘】

 

「クラシック以外を触らせろと? いえ、それは別に構いません。ですが燐子に、自由にバンド活動をやらせろというのは……」

「寄り道が必要なのです。表現の幅を広げる時間。青春時代を体験する時間。他人の音楽に直で触れる時間。結局、後々必要になってくる時間です」

「ですが、それでもし燐子がピアニストになりたくないと言ったらどうするんです」

 

 ──夢を応援してやればいいじゃないか。

 神谷吉野(かみやよしの)は内心で毒づいた。畢竟、この年頃の幼いピアニストの卵達は皆、親のエゴに振り回されている。

 

「……あなたが燐子さんをピアニストにしたいというわけなんですね」

「そういう言い方は、意地が悪いんじゃありませんか?」

 

 気持ちは、分からないでもないのだ。物心つく前から子供をピアノ教室に放り込んで、その月謝だってバカにならない額がかかるし、コンクールの旅費や衣装代、楽譜代、神谷に払っている謝礼、それにこのグランドピアノ。生半可な覚悟で娘をピアニストにしようとしているわけではないことは、神谷にだって理解出来る。

 とにかくクラシックの世界は金がかかるのだ。コンクールの上位層と呼べるようなコンテスタント達が悉く富裕層の出身であるのも、偶然では無い。

 

 それを娘の意思一つでふいにされるというのは、避けたいだろう。

 

「ええ、すみませんね。ですが僕は師匠として、燐子さんにはピアニストとして大成して欲しいと思っていますし、本心から燐子さんのキャリアに繋がると思ってこの提案をしています。コンクール一辺倒の子達が、神童と呼ばれた子達が次第にモチベーションを維持できなくなって脱落していくのを知っているでしょう? あれは何も、ピアノが嫌いになったからというわけじゃないんです」

 

 燐子の母親はしばらく考え込んだ。彼女が嫌な人間だとは、神谷は思わない。狭い世界に生きている人だなとは思ってしまうが。

 

「燐子さんはウチの大学を受けてくれるつもりでいるようですし、クラシックが嫌いになったわけでもないでしょう。僕としては問題ないと思いますけどね」

「……先生がそうおっしゃるのでしたら許可はしようと思います。ですが、高校ではコンクールにも出ないということですか?」

「全く、というのも勿体ない気がしますからね。いくつか提案はさせていただく予定ですよ。前に言った通り、コンクールにも合う合わないがありますから」

 

 実績としては十分なのだ。主要なジュニアのコンクールをいくつも取って、中学生ながらオーケストラと全国ツアーまで行なったという実績は、そうそう得られるものでは無い。あとは大学生になってからでも、国際的なコンクールに出て入賞でもできれば、と言ったところだろうか。

 ここまで来ると、技術ではなく如何に観客を魅了できるか、というところにかかってくる。

 燐子の意思を尊重しながらも、神谷は内心でこの天才をどのように育てるか、算段をつけていた。

 

 燐子の人生は、極めて閉じたものだったはずだ。かつて神谷がそうであったように、同じような価値観を持ったピアニストの卵たち、数々の神童たちに囲まれて、似たような資産階級の家庭の集まりの中で生きてきた。それでは、通用しないことを神谷は身をもって知っている。量産型の音楽では、耳の肥えた各国の大御所たちを唸らせることなどできはしない。

 ピアニスト、ソリストは演出家なのだ。楽譜を音に変換するだけのスピーカーでは無い。脚本家が描いた譜面を、いくつもの企みを乗せて現実世界に送り出すのが使命だ。量産型の演出家など犬も食わない。

 

「はぁ……良かった。こればかりは親御さんの許可が必要ですからね。バンド活動に関しても問題はありませんよ。僕の知り合いの、しっかりした子がいますから」

「それが……その。すでに娘のお願いを、跳ね除けてしまいまして」

「ああ、もう既に。ではもう一度、燐子さんと話してあげてください。僕も立ち会いましょうか?」

「それには及びません。今一度話し合おうと思います」

 

 内心で舌打ちが漏れた。

 待ちきれなかったのか、という思いと、自分自身で母親に向き合おうとした勇気を褒めたいような気持ち。打ちのめされていなければいいのだが。

 

 こんなとき、あの子のライバルの方が余程ピアニスト向きの性格をしていると思う。

 図太く、奔放で、独創的なひらめきに満ちた青い天才。ピアノを辞めてしまったと聞いたが、続けていればこれまた大成する器だったろうと確信できるほどにはエネルギッシュだった。その子の姉と燐子がバンドを組もうとしているのだから、世の中というのは狭いものだ。

 

 あの日、ミュージック・バーに集められた2人の高校生が組むバンドに、実は既に燐子は歓迎されることになっていた。神谷が燐子に請われて友希那の連絡先を手に入れる際に少し話したところでは、向こうとしてもピアノができるメンバーを探していて、それが実績もあって歳も同じ燐子ならば大歓迎だと言うのだ。

 近日中に話が行くと思う、とだけ告げておいて話は保留になっているのだが、この調子だとどうなるだろうか。

 

 燐子に会うか会うまいか迷って、結局彼女の母親の圧に屈するように彼女の家を辞した。こういうとき、部外者は辛い。特に燐子の母親のような人種は、自分がピアノを生業として生きてきたという自負があるからか中々踏み込ませてくれない。

 言質を取っただけ良しとすることにして、それでも神谷は気重い足取りのまま運転席に腰掛けた。

 慰めるようなメッセージをいくつか燐子に送ると、思いのほか語気の強いメッセージが返って来た。

 

 ──意地でもやりますからね、バンド。先生のせいです。

 

 

【Go Away】

 

 烈火のごとく叱責されても、自分の中に燻るあのセッションへの熱がまるで冷めていないことに気がついて、燐子は暖かい気持ちになった。

 先生が聞いたら卒倒するような言われ方だった。母は、子供にはお金の話をするのが一番効果的だと知っているのだ。レッスンにいくらかかっているのか、ピアノにはどれだけのお金がかかるのか。

 お金を稼ぐ手段を持たない燐子には、有効な反論の手段が無いのだった。いくらかは賞金があるのかもしれないが、母にとってはそういう問題でも無いのだろう。

 

 燐子は一度引き下がることにした。先生も母を説得してくれるという話だったし、もう少し言葉を尽くせば分かり合えるのではないかと思ったからだ。

 

 母親も人間なのだ。この2年ほどで、ようやく身に付いてきた実感だった。間違いもするし、理不尽も言うし、正しくもある。燐子にとって絶対的な存在だったはずの母は、ただの1人の人間に過ぎなかった。

 

 自分の意思でピアノをやってきたわけじゃない、と主張するには、いささか後ろめたいものがあった。

 ピアノが好きだし音楽も好きだ。燐子の意思でピアノを続けてきたのも事実。

 ただ、正確に燐子の内心を言い表すのならば。ピアノを続ける労力よりも、ピアノを辞めることにかかる労力の方がはるかに大きかったというだけの話でもあった。

 

 母という要因がなければ既にやめていたかもしれないし、少なくともコンクールには出ていなかっただろう。

 音楽に触れるのが楽しいのであって、他者と競い合うのが楽しいわけではないのだ。ベートーヴェンの独創的な荘厳さに慄き、ショパンの旋律の美しさに触れ、モーツァルトの天才性に驚き、バルトークに異国の風景を覗き見る。それで良かった。

 

 自分でこれをやりたいと言ったのは、思い返せば初めての事だった。

 初めての我儘くらい受け入れて欲しいという思いと、今まで主張してこなかったのだから母にもそれを受け入れる用意がなかったのかもしれない、という思考。

 

 今となっては、そんなことも些事に過ぎない。

 燐子は「今」やりたいことを見つけ、なんとかそれを実現する方法を探している。先生とやる音楽は大好きだから、将来的には音大に進路を取るのだろう。でも、少しコンクールの世界からは離れたい。将来がどうであれ、しばらくの休みを貰いたい。

 

 先生からメッセージが来ていた。母に話した内容と、母の反応。それから、力になりますから、頑張ってくださいという言葉。防音室にいたから気が付かなかったが、こちらに顔を出さずに帰ってしまったのか。そうなると、もうすぐ母が来る。

 

「燐子、話があるの」

 

 防音室のドアが開け放たれて、無遠慮に母が入ってきた。無遠慮という表現は違うか。ここは燐子の私室ではないのだから。

 

「昨日の話よ。あなた、本当にバンドをやりたいの?」

「うん」

 

 燐子は、努めてこともなげに言った。

 

「コンクールはどうするの。ピアニストになるんでしょう」

 

 それは母の夢だ。あなたはピアニストになるのよね、と言うから、うんと言ってきただけ。

 なりたくないわけではないけど、こんな希薄な願望でなれるものでもない。そういう意味でも、何らかのきっかけを燐子は欲していた。

 

 最早、コンクールが日常になっている。それは多分良くないことだと直感していた。その点では、1年前のコンサートツアーは良かった。オーケストラと、複数のピアニストとのジョイントではあったが、全国を回って、これからの自分の生き方について思いを馳せることができた。

 

「しばらく出たくない。先生とね、話はしてるの。大学に入ったら、シドニーかニューヨークのコンクールに出ることにして、高校のうちは音コンだけにしようかなって」

「クラシックから離れたら腕が錆び付くわよ」

「……音楽から離れるわけじゃないよ。多角的に音楽に触れてみたいだけ」

 

 母はそれでも訝しげだった。

 

「お母さん、私ね、音楽が好き。コンクールが好きなんじゃなくて、音楽が好きなの」

 

 初めて本音を言ったような気がする。

 

「音楽を知るために、まだまだ経験しなくちゃいけないことが沢山あるの。バンドもそうだし、作曲だってやってみたい。ゆくゆくは、ピアノ以外の楽器にも触ってみたいと思ってる。いろいろな音楽にも触れたいし、それはきっと回り回ってクラシックにも帰ってくるはず」

 

 深呼吸する。

 敢えて、母の反応を意識しないように矢継ぎ早に話した。どれほど伝わっているのかさえ、燐子には測りかねた。

 

 爆弾を落とす。レモンのように色とりどりの色彩では無い。グツグツと煮える噴火口に、起爆剤を落とすかのような所業だ。

 ──本当に、言ってもいいのか。

 これは母を裏切る最低の行為ではないか。

 

 唇が乾いている。

 声が上擦りやしないかと、注意深く喉を通る空気を知覚した。

 

「ピアニストになりたいのか、私には分からない」

 

 母の感情が爆ぜたのが、燐子にはわかった。次の瞬間には襲ってくるだろう罵声を予期して、身構える。

 

「続けて」

 

 声が、少し震えていた。怒りか、悲しみか、驚きなのか。母は再び口を噤んだ。

 

「今の生活を続けたら、ピアニストにはならないと思う。コンクールは好きじゃないし、なんとなくが通用する世界じゃないから。ピアニストになるとしたら、私は自分の意思でピアニストになりたい」

「私が、無理やりやらせていると言うのね」

「ううん、違──」

違わない。あなたはそう言っているのよ」

 

 好きにしなさい。母はそう言って、防音室の扉を乱暴に閉めた。

 

 どっと汗をかいた。心拍数が上がって、まるで全力疾走をした後のように、数十分にも及ぶ演奏をした直後のように、疲労が押し寄せてきた。

 浅く息を吐く。

 

 甘い考えだったのかもしれない。

 燐子は、なんだかんだと言って母が味方してくれるものだと思い込んでいた。

 先生の援護射撃を受けて、燐子が音楽的に成長するための試みなのだと伝えれば、嫌な顔をしながらでも受け入れてくれると。

 

 結果が、これだった。

 

 ──じゃあお母さん。私がピアノを辞めたいと言ったら、受け入れてくれるの? 

 

 燐子にはもう、分からなくなった。

 母の押し付けだと、反骨心を匂わせたのが良くなかったのだろうとは思っている。それでも燐子にとっては自分のコンクールやピアノに対する思いを伝えるのにまたとないチャンスだったのだ。

 あくまで自分の主体性のなさを強調して話すつもりだったことも含めて、これは必然だったのだと思うしかなかった。

 

 燐子の思いはどうやったって、母の意図にはそぐわないものだったのだ。

 

 黒く光沢のあるグランドピアノに映った自分の顔を眺めてみる。酷い顔だ。けれどもどこか、安堵しているようにも見えた。

 

 先生にことの顛末を送ると、申し訳なさそうな返事が返ってくる。家庭の問題だ。先生に責任は無い。

 それに、この程度で折れるつもりは毛頭なかった。燐子はようやく、スタート地点に立ったのだ。

 

 先生から許しを得て、友希那に連絡を送った。

 先日バーでご一緒したピアニストです云々。バンド活動に惹かれた旨と、実績と、あと演奏動画を添えて、会って貰えませんかと頼み込む。

 

 返事を待ちきれなくて、鍵盤を叩いた。『明日があるさ』。燐子はいま、「明日」に立っている。

 母になんと話しかけよう。友希那はどんな反応を返してくれるだろう。本当にクラシックの世界から一歩引いても良いんだろうか。

 

 独奏。

 少し寂しい。

 

 

【DA・DA・DA!】

 

 ダ・ダ・ダ。

 とにかく音を一定に、一切のブレがないテンポで。宇田川あこは、執念深さどころか狂気さえ感じさせる程の長時間、電子ドラムのタムに向かっていた。

 最早、テンポがあっているのかズレているのかも自分では判断がつかない。叩いて、叩いて、叩いて。音源を聴いて確認して、また叩いて、叩いて、叩いて。リズムを変え、動きを変え、スケールを交え。手のひらのまめが潰れ、シャツに血がついたのに気がついてようやく、あこは手を止めた。

 

 途端に襲い来る脱力感。スポーツタオルで汗を拭って、脱脂綿でまめが潰れた部分を消毒する。その上から軟膏を塗ってガーゼを当て、テーピングで固定した。

 

 ドラムが好きだ。どんな楽器よりも音が大きくて、かっこいいから。

 あこは、そんな()()理由から、狂気とも言える量の練習に身を投じていた。

 姉と同時期にドラムを始めたのが一年前。元々和太鼓をやっていたひとつ年上の姉、巴の方が早く上達した。それが悔しくて練習の時間と質を上げることにとにかく注力し、ようやく背中が見えてきたのが半年前。今では、ソロの技術ならだいたい同じくらいの力量にまでなったのではないかと、あこは思っている。

 

「おーい、あこ、メシだぞ」

 

 音が止んだのを見計らってか、部屋のドアが開かれる。ストレートに伸ばした赤髪を揺らして、姉の巴が上半身だけを覗かせた。

 

「うん。すぐ行く」

「また昼からずっとやってたのか?」

「お姉には関係ないでしょ」

「関係ないってなんだよ。これでも心配してるんだぞ?」

「ペース配分は考えてるし、休憩もしてる。心配されるようなことじゃないよ」

「あー、はいはい。悪かったよ。メシ食おうぜ。先行ってるからな」

 

 ドアが閉じられたのを確認して、あこはため息をついた。姉に対する感情は様々だ。純粋な憧れもあれば、ドラムの実力差に対する劣等感、そして、バンド活動を思う存分楽しんでいる姉への、ほんの少しの嫉妬。

 

 あこは自分が俗に言う反抗期の真っ只中にいることに自覚的だった。

 自覚していても、感情が乱れる。些細なことで腹が立つし、家族に対してとにかく反発心が芽生えてくる。感情のコントロールができないことにストレスが溜まって、ますます苛立ちが募る。

 

 仲が悪いわけではない。第二次性徴に振り回されるあこのことを巴は理解していたし、自分も通った道だからと、ある程度放っておくことにしていた。それでもやたらと構いたがってしまうのは姉としての(さが)だろうか。

 

 スティックを片付けて、汗を吸ったシャツを着替えた。いつもはツインテールにしている紫髪は後ろで縛ったままにして、部屋を出た。

 

 ──どうしたらユキナさんのバンドに入れるだろう。

 暇になって考えるのはそんなこと。近頃のあこの悩みごとは、それに終始した。

 まともなオーディションをする環境もないのに応募が殺到したため、友希那は以降自薦を受け付けないことにすると宣言したのだった。ツテがないあこはその時点で随分困ってしまった。直接売り込みに行って反感を買うのも嫌だし、かと言って誰かに先を越されても困る。

 

 ──りんりんに頼むべきかな。

 僅かに見えた光明は、インターネットで知り合った二つ年上の友人だった。ネットゲームを介して知り合い、チャットで会話を重ねて仲を深めてきた相手がまさかテレビのドキュメンタリーで見たような存在だったことには大層驚かされたものだ。

 

 燐子が意図せず友希那と縁を結び、そして燐子自身も友希那のバンドに参加することに意欲的だったことはあこにとっては天恵だった。

 

 頼るのは最終手段にしたい。だが魚を逃すのも勿体ない。

 なんとか実力を見てもらいたい。ドラムが下手だと言われて拒否されるのは、もう仕方がない。やれるだけのことはやってきたつもりだし、そこは巡り合わせだと割り切ろう。だが、せめて舞台には立ちたい。

 

「そういや、湊先輩とリサ先輩、本格的にバンドを立ち上げたんだってな」

「え?」

 

 巴の口から予想だにしない言葉が発せられて、あこは素っ頓狂な声を上げた。リサ先輩。リサって、リサ姉のこと? 

 

「なんだ、知らなかったのか? リサ先輩がベースやるのは元々決まってて、ギターが見つかったから活動の準備を始めたらしいぞ。ドラムを探してるらしい」

「聞いてないよ! リサ姉がユキナさんと仲良かったなんて」

「アタシもよく知らないけど、幼馴染らしい」

「ベースやってるのも知らなかった……」

「ライブハウスで見かけたことないんだよな。湊先輩は時々かち合うんだけど」

 

 リサは、ダンス部の先輩だった。あこが通う羽丘女子学園は中高一貫校であるから、大きな部活は中高の区別無く合同で練習したりする。その中であこが最も仲が良い先輩がリサだ。

 

 失声が故にと言っても良いのかは分からないが、リサのダンスのセンスはずば抜けていた。特に、表現力に関しては高校1年生ながら部内でもぶっちぎりのトップだろうと誰もが認めている。

 

 ──楽器かぁ。なるほど。

 考えたこともなかったが、確かに楽器は向いていそうだ。ダンスにおける表現のセンスと、演奏における表現のセンスに全く相関がないということはないだろう。

 

 夕食は中華だった。回鍋肉と麻婆豆腐の大皿が並び、各々が小皿に取り合って食べる。

 行儀は悪かったが、あこはいてもたってもいられなくなってリサにメッセージを送った。

 

 ドラムやれます! 自信あります! 

 カメラロールの中から、一番良さげなドラムの練習動画も添付した。『Caravan』。ドラム始めてから真っ先に観た映画の影響で、一番練習している曲でもある。思い切りジャズだが、今までで一番魂が入った演奏はこれだった。

 

 ジャズに触れたのは、これまた反抗期が故だった。少なくともあこはそう自覚している。

 姉がロックバンドを組むと言ったから、ジャズにも手を出そうという気になったのだ。実際、それは正解だったと思っている。

 ロックとジャズでは表現も、メインに叩くドラムもまるで違う。バスドラムとスネアで8ビートを演出するロックと、ハイハットとシンバルで4ビートを強調するジャズ。テイストも、重視されるテクニックも、あこが初心者の頃に思い描いていたものとは大きく異なっていた。

 そしてこの違いはそのまま、あこが備える表現の幅となってあこの実力に繋がっている。

 

 ジャンルを跨いで正解だったと思うのには、やはり巴の影があった。今でこそほとんどロックドラム一辺倒の巴だが、彼女には和太鼓に触れていた経験がある。単純な楽器として見れば、和太鼓はドラムスよりも単純である。何せ、そもそも数が違う。しかしそれは、和太鼓がドラムに表現力で劣ることを意味しない。むしろ、和太鼓の経験が巴のドラムに深みを与えていることを、あこは常々感じとっていた。

 余白。そう呼ばれるものだ。あるいは、余韻。何がそこまで作用するのか、あこには皆目見当もつかないが、巴のエイトビートには奥深さがある。或いは、音としては何も違わないのかもしれなかった。巴が纏う雰囲気がそう感じさせるのか。

 

 うん、やっぱり負けたくない。

 あとでまた叩こう、と腹に決めて、麻婆豆腐をかき込んだ。

 

「SNSで流れてきてたぞ、新しいメンバーのギタリストっぽい人と湊先輩のセッション」

「え、うそっ」

「嘘じゃないよ。まあ湊先輩のアカウントからじゃないから気付かなくても仕方ないけど。ほら」

 

 同じく行儀悪く、巴があこに動画のリンクを送った。サムネイルですぐに、あこが知らない動画だと分かる。

 

「どこから……」

「対バンしたことがあるバンドだからたまたま繋がってたんだけどな。打ち上げでやったらしい。ギターの人、紗夜さんって言うんだけど、その人が湊先輩のバンドに参加するらしいぞ」

 

 いい加減に母が怒り出しそうな雰囲気だったので、あこは渋々スマホをポケットに仕舞った。

 ふと、思い出す。りんりんが言ってた即興バンドってこれのこと? 

 もう一度スマホを開きたくなるのを必死で堪えて、タレの絡んだキャベツを口に放り込む。

 

「その、紗夜さんってどんな人?」

「うーん、話したことは無いからな」

「なんだ」

「なんだって何だよ」

 

 つい軽口が口をついて出た。気になるのは人柄ではなくて演奏だったから、巴に面識があるかはそれほど重要ではなかった。

 

「めちゃくちゃ上手い人だよ。音大生のバンドに交じってた人だから。サマータイムオルカってバンド」

「名前くらいは知ってるけど……プロ入り蹴ったバンドだっけ?」

「そうそう。『これから就活があるんで』って。めちゃくちゃ怒られたらしいけど」

 

 実際はもっと丁重に断ったのだろうが、誇張した内容が面白がられて広まったために、すっかり語り草になっていた。

 

「演奏の印象は、そうだな……なんというか、うん。上手いけど、アタシ好みじゃないかもな。ガツンと来るタイプじゃなくて、上品なフランス料理みたいな。ニンニクは入ってない」

「フランス料理にもニンニクは入ってると思うよ」

 

 あれ、珍しい。

 巴が最初から否定的な意見を出すのは、あこの経験上あまりない事だった。自分たちの活動が否定されたとかならまだしも、赤の他人にそんなことを言うなんて。

 

「……嫌いなの?」

「いや、別に。あくまで感想だって」

「ふうん」

「演出だったのかもな。今思うと。な、あのバンド、ピアノ五重奏したことあるんだぜ。1台はエレクトーンだったっていうけど」

 

 巴も自分の感想に自信が無いようだった。それほど特異なバンドだったのだろうか、と想像してみる。

 燐子もそうだが、この世には生まれついた瞬間から音楽とともに生きてきた人間がそれなりにいる。音大生と言うからには多分そのバンドの人たちもそういう人種なのだろうし、そこに交じってピアノを弾けるくらいなら紗夜も恐らくそうなのだろう。

 あとから音楽を始めたあこには見えていないものが、彼女たちには見えているのだ。

 一音一音に込められたゾッとするほどに奥深い感情、意味。

 彼女達が当たり前のように共通認識としている音楽への理解。

 そういうものが、彼女たちの世界には存在している。

 

 彼女たちならば巴のドラムにある独特の色の正体も容易に見抜いてしまうのかもしれない。

 

 見えるだろうか、私にも。

 音楽の世界へ、足を踏み入れられるだろうか。

 

 スマホから通知音が鳴った。画面を覗けば、リサからの返事が来ている。

 ──友希那に推薦しといたよ。都合のいい日に一応テストするって。

 

 りんりんも一緒にやれたら、最高だろうなぁ。

 送られてきた楽譜のリストをスクロールしながら、笑みが堪えきれなくなっていた。『メーデー』。なるほど。

 

 主婦の雷が落ちるまで、あと3秒。

 

 

 

【発起】

 

 ──アルバムとライブ音源、聴き比べてみなよ。紗夜の悩みはそこに詰まってるから。

 

 帆南がしたり顔で言うので、朝からずっとイヤホンをつけていた。あの日のライブで好き勝手はっちゃけなかったのは紗夜だけ。普段は真面目なドラムの雫ですらも、自分が気分よく叩くためだけのドラムを披露していた。ボーカルだろうがギターだろうが食ってやるというくらいの気迫があったし、他のメンバーもそれに応じて殴り返していた。

 

 自己主張が足りない。

 自我を出せ。

 散々言われてきたことだ。

 

 何故ギターを選んだのか。これもかつて帆南にぶつけられた問いだ。

 父のギターが家にあったからだと答えると、帆南は「違う」とだけ言った。

 彼女に何がわかるのか、何が見えているのか、紗夜にはまるで分からないが、アレはなんだかんだ紗夜よりも日菜の側に近い人種であるから、そういうものだと思うしかない。

 

 ライブ音源で、紗夜は曲の軸になるように演奏していた。リズムギターをやっている時は特にその傾向が強くて、ほかの四人がぶつかり合って釣り合いをとる中で、釣り合いの中心を位置取っていた。

 それを言われているんだろうか。

 荒れ狂う波涛の音のぶつかり合いに、参加するべきだったと。

 

 分からない。

 紗夜は何一つ、自分のことさえも理解できていない。

 自我を出せと言われても、何が自我なのかつかみきれない。無理やりに個性を出すとか、そういうことではないはずだ。

 これみよがしに見せつけるような自意識ダダ漏れの演奏と、例えば白金燐子のメフィスト・ワルツはまるで違う。それはわかる。

 だが、自分のショパンと日菜のショパンにある差を、紗夜はまだ理解できていない。

 

 日菜がギターをやると言っても腹が立たなかったのは何故だろう。

 私は、何を悩んでいるのだろう。

 思考の袋小路だった。

 

 友希那と、もう一人。ベースのリサとの顔合わせの約束をした場所へ、紗夜は一人歩いていた。

 ライブハウスCiRCLEは、貸スタジオ営業も行なっている学生向けのハコだ。学割が利くから、多分今後はこちらをメインに使うことになるだろう。室数が少ないのが玉に瑕だが。

 

「紗夜」

 

 声を掛けられて、振り返る。昨日初めて聞いた声だが、その主はすぐにわかった。なんの役にも立たないと思っているが、紗夜は人の声を覚えるのが得意だ。一言二言話しただけの相手でも、顔よりも声の方を永く覚えていたりする。

 幼い頃から音楽に触れていたから聴覚ないし聴覚野が発達しているのかと思えば、日菜を含め周りの同類達はあまりそういう自覚がないようだったから、もしかすると紗夜個人が持って生まれた気質なのかもしれなかった。

 

「ああ、私の方が遅かったんですね。こんにちは、湊さん。それと、初めまして。氷川紗夜です」

 ──ベースの今井リサです。よろしく! 

 

 事前にリサについての説明は受けていた。事故が原因で失声の状態にあること。それ以外はなんら問題のない健康体であること。

 特に偏見や差別意識があるわけでもなかったし、紗夜としては意思の疎通さえできるのならなんでも良い。

 

 握手を求められたのに応じる。よく弾き込まれた指だった。手の平で努力が分かるとは思わないが、手から覗ける人間性もある。

 

 それにしても、少し意外だ。

 友希那から軽く伝え聞いていたイメージと、実際に会ったリサの容姿はかなり異なっていた。友希那が着飾るのに無頓着そうな容姿をしているのと、リサが声に問題を抱えていると聞いていたことから、もっとおとなしい印象の少女が来るものだと思い込んでいた。

 地毛だろうか。明るい茶髪に、ピアス。ネイルはしていなかったが、爪の保護は怠らずに指先まで綺麗に保とうとしているのがわかったし、制服にあわせて付けているだろうネックレスは、放課後になってからわざわざ着用したに違いない。

 妹の通う学校でもあるから、大まかな校則くらいは分かる。確かピアスもダメだった気がするが、ネックレスは完全にアウトだ。

 

「あとは、ドラムとピアノを探しているのでしたか」

「そうね。今のところ『FUTURE WORLD FES』への出場を目標にしているから、8月のコンテストに向けてのメンバー集めと知名度の向上が目下の課題かしら」

 

 ピアノ。日菜の顔が過ぎった。絶対にナシだ。

 実力としては申し分ないものの、紗夜には揉め事を起こさない自信がなかった。

 紗夜が避けても日菜から干渉してくることは家での態度を鑑みれば瞭然であったし、紗夜の気が狂わないとも言いきれない。

 

 恐ろしい想像を振り払って、少し真っ当な候補を考えてみる。昨日何故か居合わせた燐子の事だ。帆南達の指導教授である神谷教授が、燐子にも指導をしているというのは紗夜も知っていた。だからその縁だろうとは思うが、世間とはかくも狭い。

 

「白金さんは誘ったんですか? 昨日のピアノです。名実共に日本で1番ピアノが上手い高校生ですから、誘ってみる価値はあるかと思いますが」

 

 同じ経験をしてきたから、クラシックの世界で生きてきた子どもにとってジャムセッションが如何に新鮮で、自由で、楽しく感じられるのかも紗夜には理解できる。案外誘えば脈があるのではないか。

 キャリアを捨てるようなことはしないだろうが、帆南だってアメリカの音楽院への進学が決まっている。バンドを少しやるくらいは、特に問題が無いはずだ。

 

「……知らなかったわ。上手いとは思ったけれど、こちらから声をかけて実力を試すような失礼なことはできないし……どちらにせよあの場では誘えなかったわね」

「それもそうですね。あの時紹介すれば良かったのですが、私も直接面識があるというわけではなかったのでどうにも……」

「演奏、聴けるのかしら」

「確か動画サイトに上がってますよ。後でリンクを送ります」

 

 予約していたスタジオを借りて、楽器のセッティングを始める。

 ……なるほど、こういうながら作業の会話は筆談ではできないのか。

 ベースのチューニングをしながら、リサに思いを馳せた。

 

 この二人の関係は、案外友希那の方が危ういのではないか。極々浅い付き合いの中で、なんとなく紗夜はそう思い始めていた。

 音楽が好きかと友希那に尋ねたとき、彼女は苦しそうに笑っただけだった。友希那と組むことに決めた理由は、概ねそこにあると言ってもいい。

 

 音楽が好きなはずだ。それは友希那が歌に向き合う姿勢からも容易に窺える。ただそれを言葉にできないというのが、どういう意味を持つのか。

 悩みを取り払ってあげたいという大それた野望を抱いているわけではない。他人の蒙を啓くには、紗夜もまた悩み事に囚われすぎている。ただ、友希那が音楽に向き合うための一助くらいにはなれるかもしれない。かつて帆南達が紗夜にそうしたように。

 

 ──それじゃ、やりますか。

「はい。湊さんの曲も一通りはやれます。暗譜はまだですが……」

「それなら『BLACK SHOUT』をやりましょう。3(Three)4(Four)──」

 

 ああ、なるほど。そういうタイプか。紗夜は内心で独りごちた。

 友希那は曲に忠実な歌い方をする。さしずめ、作曲者が操る見えない糸に手繰られるマリオネットのように。言うなれば、役者のそれに近い。

 歌詞は台本、メロディは監督の指示。作者の感情をその身に宿して、湊友希那はその魂に曲の意志を降ろす。

 

 技術はあるが、感情で語りかけるタイプ。紗夜はそう思っていたのに。

 

 まるで見当違いの評価を下していたことに、ようやく気がついた。

 自分の曲を歌うとき、友希那は自分の足で立つのだ。

 何人も侵せぬ確固たる自己の世界を身に宿し、彼女は真に湊友希那を表現する。

 

 帆南が気に入るわけだ。

 そもそも、中学生が一人でライブハウスに入り浸り、メジャーレーベルに誘われる程の人気を博すということがどれほど異常なことなのか、紗夜はあまり想像がついていなかった。自分には無理だと思うが、日菜にはできるかもしれないし燐子にもできるかもしれない。それくらいの大雑把な尺度で、何も測れるはずがない。

 

 スター。そんな言葉が過ぎった。

 友希那の歌声が、紗夜を未知の景色へと誘う。

 大伽藍のように壮大で、されど何も無い。

 いや、奥底には固く鍵の掛けられたトランクがあった。紗夜には触れることさえ叶わないが、確かに。

 それはさしずめ、パンドラの箱を思わせる。

 

『これは私も受け売りなんだけどさ、スターって()()()()んだよ。見つけたときに、デジャヴュを感じるんだ。現れた瞬間には、歴史の中で語り継がれることが決まっている。存在そのものが、規格で模範なんだよね。先生曰く、──あれ、なんだっけ雫』

『……世界に欠けたものを埋めるように生まれてくるのがスター。私たち凡人は、足りない世界で生きている』

『そうそう。世界に愛されてるって言うのかなー』

『ちなみに、アンタもそっち側だよ。私にとってはね』

『またまた〜』

『腹立つ』

 

 友希那の歌が心臓を叩く。

 紗夜は、圧倒されていた。

 

 歌に感情を動かされるのが好きだ。歌詞に感情の動きを委ねて、いっときの衝動に流されるように身を任せる。寄せては返す波のように感情は揺らぎ、潮の流れは小舟をどこか知らぬ場所へ、けれど懐かしい場所へと連れ出してくれる。

 

 けれど、これは。

 ライブでさえない、ただの練習で。委ねるつもりさえない感情が荒れ狂う。

 とんだ扇動者だ。末恐ろしいような気持ちだった。

 

 苦しみがゆり起こされる。希望が手の平に載せられ、右足は勝手に1歩目を踏み出す。後ろを振り返ることは許されず、目の前には道が拓かれている。

 心の内の、純粋な部分に触れられたような不快感と、未知の感情が生み出されることへの期待が綯い交ぜになった。

 

 リサがこちらを見ているのに気がつく。彼女が意味深に笑ったので、紗夜は自分の感情が顔に出ていたのを悟った。

 

 深く息を吐く。乱れていた思考を律し、感情を引き締める。

 友希那の歌唱のインパクトは凄まじかったが、紗夜はバンドメンバーだ。観客と同じように流されるわけにはいかない。

 

 そして、リサもリサで面白い演奏をする。

 リサの奏でるベースはとにかく饒舌だった。

 

 ベースというパートの役割は、ジャズでもロックンロールでも根本的には変わらない。コードとリズムの両立、ドラムとメロディの間を繋ぐ立ち位置である。

 リズムに寄った弾き方をする。ドラムがいないからか、元々の性格なのかは分からないが、紗夜はリサにそういった印象を受けた。

 

 指弾きにしては固めで、粒立った音。

 ヒップホップか、バレエか、そういう経験があるのだろうか。演奏中に刻んでいるステップには滲み出すキレがあった。普段人間が意識しない、爪先まで意図を含んだような動きだ。フィギュアスケートを見ているときに感じるような、所作の美しさ、メリハリ。そういったものが、リサの演奏からは見て取れた。

 だとすれば、リズムにも敏感なはずだ。おおいに納得がいく。

 

 彼女がピアノでワルツを弾いたら、どうだろう。円舞曲という字を当てられている通り、コンクールなどでは多くのコンテスタントが(はず)むような演奏をする。

 リサが弾いても、そうなるのだろうか。それとも、それらは前提に過ぎず、また違った表現をするのだろうか。あるいは、全く異なるアプローチを齎すのだろうか。

 

 華やかな演奏になるのは間違いなかった。

 ベースでさえそうなのだから。

 

 演奏の節々にフィルやスケールが頻繁に混ざる。固めの音とは言ったが、曲のテイストが変わるのにあわせて音の質も頻繁に変わる。とにかく多彩で、なんというか、ああ、そうだ。

 

 ──歌っている。

 

 声の代わりに、と言うと失礼なのかもしれないが、声を出せないことが表現の手数の多さに繋がっているのだろう。

 

 一曲弾き終えて、余韻の中で紗夜は深く息をついた。不安定なのに、凄まじくレベルが高い。そんな演奏だ。

 友希那の表現は突き抜けているし、リサもそれに引けを取らない。ただし両者の表現は相対しないから、曲の世界は瞬く間にうねる濁流となってステージを飛び出していきそうになる。

 ドラムがまだ居ないから、演奏の軸がないというのもあるだろう。

 さて、どうしたものか。

 

「何となく、わかりました。やはり、ドラムだけでなくピアノも欲しいですね。デモ音源も聴きましたが、オルガンの主張があってこそ成立する曲だと思います。湊さんの中で既に完成しているバンドのイメージを元に作った曲でしょう?」

「ええ。キーボードを入れられないのなら全曲作り直しね。メタルを取り入れたオルタナティヴ・ロックを主軸にするか、いっそポップスに寄せるか……」

 ──まあ、そこは勧誘に失敗してからでもいいじゃん。ドラムさえまだなんだしさ。

「それもそうね」

 

 ここに来て、メンバーの質が高いのが裏目に出ていた。

 一般論では、ベースとドラムが上手ければギターが下手でも形にはなると言われている。逆説的に、ベースとドラムが下手であればバンド全体が引っ張られるということ。

 友希那は上手い。リサも垣間見た限りではかなりレベルが高い。紗夜自身も、学生にしてはかなり上手い方であることには自覚的だった。となれば、半端なドラムは入れられない。

 

 雫を誘ったら来ないだろうか。現実逃避でそんなことを考えた。

 副業OKって最高じゃん、なんて言いながら大手の楽器店に就職した雫は、昨日のセッションの会場にもなったミュージックバーのアルバイトもするらしい。忙しいだろうから、十中八九乗ってこない。

 

「私は二人の演奏を知っているから概ね予想通りだったけれど、二人の意見はどうかしら」

 ──めっっっちゃうまいね! 

「そちらこそ」

 ──まあ、紗夜のことは前から知ってたんだけどさ。ライブも見に行ったことあるよ。

「そうだったんですか? ……すみません、覚えていません」

 ──観客の顔を覚えてないのは普通じゃない? アタシも通ってたわけじゃないし。

「それはそうですが……ちなみに、どのライブですか?」

 ──ピアノ5台のインストのやつ。

「ああ……かなり評価が分かれたのですよね。うちのリーダーが凹んでました」

 

 あっという間に話題が逸れたので、友希那が呆れたように咳払いした。

 

「お互いに問題がないのなら、いいわ。スタジオも1時間しか借りていないのだし、時間分は弾きましょう」

 ──おー! 

「あと、紗夜、夜は空いてる?」

「ええまあ」

「なら、歓迎会をしましょう。あなたとゆっくり話してみたいわ」

 ──アタシもー。

 

【1,2,3,4,5,ALL】 

 

 リサから送られてきたスコアを、心臓がおかしくなりそうなくらいに叩き込んでオーディションの当日を迎えた。

 ピアノの候補者と同日でも良いかと聞かれて、あこは一も二もなく頷いた。その候補者というのは、燐子に違いない。

 

 学校でリサと話した時に、あこも問題なく受かるだろうとは言われていた。テストと言いながらも実質的には顔合わせみたいなもので、選別する意図は特にないのだと。

 他に候補者もいないし、あの動画のレベルで叩けるのなら十分だという認識らしい。

 

 だからといって気を抜いた演奏をする気は毛頭ないが、少し力が抜けたのは確かだった。

 

「りんりん! 久しぶりだね!」

 

 駅裏、アクセスの悪さ故に駅前よりも人通りが少ない、繁華街のハズレ。消費者金融や学生塾などが並ぶ通りにあるスタジオが、指定された会場だった。

 濡羽色の長髪。色白の肌。紫がかった少し物憂げな瞳に、スラリと長い指先。過去にたった2度だけ直接会って、けれどテレビや雑誌で何度も目にした友人が、スタジオの前で立っている。

 あこが自分で思っていたよりも弾んだ声が飛び出した。

 

「あこちゃん。話、通せたんだね。難しそうなら私からも言おうと思ったんだけど……」

「リサ姉──ベースの人が部活の先輩だったから。りんりんに頼もうかなぁとも思ったんだけども」

 

 やっぱりりんりんに頼まなくてよかった。

 改めて、あこはそう思った。何となく、バンドに入るまではフェアでいたかったのだ。

 もちろん演奏の実力という意味ではあこは燐子に大きく劣る。そこを履き違えるつもりは無い。

 

 同じバンドでやれたら面白いね、なんて言って、結局紹介してもらっているようじゃ格好がつかないだろう。そんな、ほんの少しのプライドだった。

 

 二人揃ってスタジオに足を踏み入れると、既に友希那がロビーのソファに腰掛けていた。

 

「二人とも揃ったのね。他の二人ももうスタジオにいるから、軽く自己紹介だけしてから弾きましょうか」

「はい!」

 

 あこにとっては、憧れの存在である。ライブではハコを埋め尽くすくらいのオーディエンスを熱狂させる孤高の歌姫と、こうして対面しているなんて。少し信じられないような気持ちで、あこは友希那の一歩後ろを歩いた。

 3、と書かれたスタジオのドアを開けて、友希那が中に入る。

 

 ──ようこそ! 

「こんにちは、そして初めまして」

 

 電子ボードの画面いっぱいに描かれた「ようこそ」という文字列が、あこと燐子を歓迎してくれていた。あこにとっては最も親しい先輩であるリサと、完全に初対面の紗夜。両者から同等の歓迎の意図が感じられたことに安堵する。

 

「では改めて、軽く自己紹介を。ボーカルの湊友希那よ。楽器はできないから、完全に専業ね。作詞と作曲も主に担当する予定でいるわ」

 ──今井リサです! ベースと、あとはライブの演出も主に担当する予定かな。よろしくね! 

「ギター担当の氷川紗夜です。ヒラの楽器隊ですので、仲良くしてくださいね」

「宇田川あこです! このバンドに参加したいので、頑張って叩きます。ドラムしかできません!」

「白金燐子です……同じくピアノしかできませんが、頑張ります」

 

 本当に、顔と名前を覚えるためだけの自己紹介だった。詳しいことは演奏で語れということだろうか。あこはスタジオの端っこにあるドラムセットに向き合って、ドラムの位置や椅子の高さの調整とチューニングを行う。

 譜面台に楽譜を表示したタブレットを載せると、概ねいつものあこと同じスタイルに落ち着く。

 

「それじゃあ、やりましょうか」

 

 燐子はキーボードの鍵盤を触っては首を傾げていたが、特に問題はなかったのか、友希那の言葉に間を置かず頷いた。

 テーピングを施したスティックを握る。適度な反発力のゴムに指を沈みこませた。

 

「一応言っておくけれど、二人とも実力的には問題ないわ。だからあくまで、これは形式上のものだと思って欲しい。気楽にやりましょう」

 ──実際選り好みするほどアテもないし。

「そもそもあなた達は好物件なのよね。本来は私たちが加入を乞う側なのよ」

 

 そう言いながら、友希那がマイクを握った。全員の顔を一通り眺めてから、楽しげに微笑む。つかの間、あこはその表情に惹き込まれて、直後のカウントで我に返った。

 

「『メーデー』から。……準備は良さそうね。3(Three)──、4(Four)──」

 

 ドラムが印象的な曲だ。あこの演奏をみるための選曲だということはわかっていた。イントロから分かりやすく耳を惹き付ける16ビート。バンドの特徴的なギターの重なりは、紗夜のギターと燐子のピアノのオクターブで擬似的に表現されている。

 

 これが、バンドか。

 一人で叩いているのとまるで違う。

 人の呼吸が分かった。リサの視線が、あこと紗夜の間で行ったり来たりする。その紗夜はと言うとリサと燐子を見ていて、初めて合わせたとは思えないほど音の粒が揃っていた。

 あこには他者にピタリと合わせるような技術はないから、これは他のメンバーが上手くやっているということなんだろう、と内心で舌を巻く。

 ドラムは曲の軸であり土台であるが、しかし癖というものはある。手癖や悪癖を排除できているとは言えないあこが『合っている』と感じるのなら、やはりそういうことなのだ。

 

 あこは演奏中しばしば、自分の思考が分裂したような錯覚に陥ることがある。

 機械のようにテンポを守り続ける自分と、演奏に耳を傾け楽曲に考えを巡らせる自分。今日は後者に向けられるリソースが大きいような気がしていた。

 

「ドラム歴一年、でしたっけ」

「はい!」

「しかも、独学で?」

「そうです」

「……並々ならぬ努力ですね。センスもあるのでしょうが、勉強量が違う」

 

 紗夜が呆れたように言った。モチベーションは何よりも上達に繋がるが、それにしても独りでここまで伸ばすのには想像を絶する労力が掛かったはずだ。

 

 ──文句なしだよ、あこ。めちゃくちゃアガったし。

「ほんと? リサ姉も凄かった! ダンスだけじゃなくてベースも上手いんだね!」

 ──褒めても何も出ないぞー? 

 

 あこは、無意識に友希那の様子を窺っていた。どういう評価を下されるのか、一番気にしている相手だったからだ。

 友希那は、深く何事かを考え込んでいるようだった。その瞳はぼんやりと中空を見つめ、時折緩やかな瞬きをする。

 

「なんの問題もないわね。紗夜の言う通り、研鑽のあとも見える。合奏の経験が少ないのは紗夜以外の全員がそうだから、バンド全体の課題とも言えるし……」

 

 ──もう一曲やりましょう。今度は燐子がメインね。

 そう友希那が言ったので、そっと息を吐く。どうやら及第点には達していたらしい。目が合った燐子にピースサインをした。燐子ははにかむように笑って、それから譜面を捲る。

 

「『秒針を噛む』ね。燐子のタイミングで始めてくれて構わないわ」

「はい。では──」

 

 楽器は同じでも、原曲とサウンドがまるで変わってくるのが面白い。

 キーボードでも、燐子はさすがの安定感だった。やはり、情報量が違う。一音ごとに意図が込められ、一小節ごとに技巧を凝らした工夫が見て取れる。音の質もそうだが、日本一ピアノが上手い高校生というのは伊達では無い。

 

 この面子の中で自分が最も下手だということが、あこにはむしろ嬉しくなった。楽器は違えど、様々なタイプの模範がすぐそばにいる。音楽に愛された人達がどのような姿勢で音楽に向き合っているのか。それを直に体感できる環境に、ひどく恵まれていると感じる。

 

 友希那の歌唱から滲み出す彼女の世界は、恐ろしく強固だ。原曲に忠実に歌っていることは分かるのだが、そこには隠しきれない友希那の世界が内包されている。よく伸びる高音に合わせて、湊友希那が表出する。

 

 紗夜のギターにはとにかく濁りがない。純度が高く、透き通った音粒がメロディーラインを流れてゆく。雨粒だ。あこが紗夜の演奏に連想したものは、奇しくも友希那と同じ雨だった。

 

 リサのベースは、ほぼ完璧にあこのリズムに寄り添った。そういえば、ダンスのステップを揃えるときにもリサとあこは相性が良い。ほとんど練習を重ねずとも二人のステップやストンプが一致するので、二人は近いパートに割り振られることも多かった。

 身体に刻まれた波長が近いのだろうか。旋律とリズムの間を歌いながら跳ね回るベースに、あこはいつも通りのリサを見た。

 

 演奏が終わって、友希那はひとしきり講評を述べた。とはいえ友希那にはそんな意図はないだろうから、あこが勝手に友希那の感想を講評だと受け取っているだけだが。

 

 友希那は表現力に重きを置いた評価軸を持っているらしい、というのは話を聞いてすぐにわかった。友希那がボーカルだからだろうか。それとも、技術について今更一つ一つを取り上げる程度のレベルでは無いということだろうか。

 

 演奏のあと、燐子が恍惚としたようなため息を吐いた。あことしても、気持ちはよく分かる。あこがずっと羨んでいた巴のいる世界は、あこが思っていたよりもずっと素晴らしいものだった。

 

 ──この人たちとやりたい。

 心底、そう思う。今日を逃せば、二度とそう思える人達との出会いはないような気さえした。

 

 何故だろう。紗夜とは初対面で、友希那とも言葉を交わしたのは今日が初めてだ。気まずさだってあるし、会話にぎこちなさというか、窺うような空気だってある。それなのに、こんなにも感情が昂るのは。

 巴は仲の良い人達との演奏が楽しいと言っていたが、あこにとってはそうではなかったというだけなのだろうか。巴の幼なじみ達とはあこも親しくしていて、その中に交じってドラムを叩いたこともある。それでもそのときは、ここまで感情が揺さぶられたりはしなかった。ただ楽しかっただけ。

 

「改めて。──私のバンドに参加してくれないかしら。私は、あなた達とやりたい」

 

 差し出された手のひらを、あこは躊躇なく握った。

 燐子がさらに手を重ねて、リサが悪ノリをしたので円陣を組んだようになる。必然的に残りの一人に全員の視線が向いて、紗夜が少し恥ずかしそうに咳払いをした。

 

 

【青薔薇】

 

 バンド名って決まってるんですか? と、あこが言ったので、友希那はかぶりを振った。

 

「メンバーも揃わないうちから決めるのもどうかと思って」

 

 紗夜のときもそうしたように、スタジオを2時間きっちり使い切ってから、五人連れ立ってファミリーレストランに移動した。

 

「でも、そうね。そろそろ決めないといけないわね」

 ──コンペにする? 

「湊さんか今井さんが決めればいいんじゃないですか?」

「あこも紗夜さんに賛成でーす。もしコンペになっても頑張って考えますけど……」

「お二人が作ったバンドなのですから、お二人が名付けた方がいい、と思います」

 

 リサの提案に乗ろうとした友希那の機先を制して、紗夜が二人で決めるべきだと言った。友希那としてはあくまで五人が対等でいるつもりだったから、誰の案が通ろうとも文句は無かったのだが、三人にとってはそうではなかったらしい。

 

 ──じゃあアタシもパス。アタシは何にもしてないし、友希那が決めて欲しいかな。

「あまり、センスに自信が無いのだけど」

「『夏のシャチホコ(SummerTime・Orca)』よりもまともな案であれば文句は言いませんから」

 ──ええ、それもカワイイじゃん。

「リサ姉、本気で言ってる?」

 

 押し付けられたようだが、そういう意図からではないことはわかっていた。名は体を表す、という言葉は、人間においては必ずしも当てはまるものでは無いが、バンド名においてはかなり的を射た表現だろう。

 さあれかし、と親が子に名付けるのとは違って、さあらんと名付けるバンド名は、バンドの雰囲気に沿いやすく、今後のバンドの活動に相応しいものになりやすい。奇天烈な名前ならコミカルなバンドになったり、気取った名前ならそれが曲の雰囲気に滲み出ていたり。

 

 少なくとも友希那にとってのバンド名は『どう在りたいか』である。

 

 青薔薇。真っ先に思い浮かんだモチーフがそれだった。

『不可能』の象徴。そこから転じて『奇跡』。音楽の頂を見る、なんていう荒唐無稽な夢を本気で追いかけようとしている友希那にとっては印象的な花だ。

 

 青い薔薇。ブルーローズ。

 そのままバンド名にするのも芸がないし、被りも多いだろう。Roseから(もじ)って──

 

「──Roselia(ロゼリア)、なんてどうかしら」

「薔薇ですか?」

「そうね。青い薔薇から連想したのだけれど、そのままだと味気ないでしょう。花生によく付けられる『-lia』という名称を捩ってみたら案外語感がいい気がして……」

「かぁっこいいじゃないですか!!!! それにしましょうよ!!!!」

「あこちゃん、元気だね……?」

「迷惑になるので静かにしましょうね」

「あ、ごめんなさい……」

 

 Roselia。青い薔薇。胸に染み込ませるように呟く。やけに耳馴染みが良くて驚いた。

 

 ──バラってどんな漢字だっけ。

「あこは書けるよ。人土人回るに微妙な1って覚えてるの」

 ──へー。ああ、なるほど。流石あこだね。かっこいいに詳しい。

「えへへ」

「それ、褒められてるんですか……?」

 

 

【声】

 

「いいなぁ、歌えて」

 

 酷く掠れた声で、今井リサはあの日、そう言った。この世で一番、大っ嫌いな音で。

 もしも一つだけ過去を無くせるのならば、事故に遭ったことではなく、友希那へのこの言葉をこそ消し去りたい。

 

 慄いたような、悔いるような、友希那の表情が今も網膜に焼き付いている。

 

 灯りのついていない真っ暗な自室。廊下から漏れる光だけが2人を照らしていた。ベッドの上に座り込んだリサを慮るように膝をついて覗き込んだ友希那を、リサは拒絶した。

 

 彼女にベースを捨てさせたのはリサだ。

 置き去りにされた紅のESPを、涙でぐちゃぐちゃになりながら滲む視界で爪弾いた。

 

 指が痛くて、嗚咽で呼吸が苦しくて。ほとんど音楽にもなっていないうろ覚えの『LOUDER』。

 リサから友希那への、呪いだった。

 

 

【ただ君に晴れ】

 

「リサってさー、実は話せるらしいよ」

「えー、障害者のフリしてるってこと?」

「そう。声が嫌いだからって」

 

 トイレの個室を出ようとした瞬間に、そんな声が聞こえてきて立ち止まった。休み時間が終わるまであと2分。早く出ていってくれないだろうか。

 

「ウチだって自分の声嫌いだしー、甘えだよね」

「話せるなら話して欲しいとは思うけどね。ガラガラ声で話されると笑っちゃうかも」

 

 今更少しばかり揶揄されたところで、せいぜい心が少しささくれ立つくらいのものだ。今までにはもっと酷い暴言を吐かれたことも多いし、もっと幼い頃の、リサの心がもっと弱かった時期にも散々心無いことを言われてきた。

 

「ほんと、嫌いだなぁ。何考えてるか分かんないし」

 

 またか、とか、面倒臭いという感情の方が大きい。どんなに気を付けていたって、嫌われるときは嫌われる。特に人間は自分より劣っているものが成果を残すと鼻につくらしいから、ハンデを背負っているリサは槍玉に挙げられやすかった。

 如何に当たり障りのない会話を心がけていても綺麗事ばかり、という反感を持たれる。この場合の最適解はたぶん、気にしないことだ。

 

 手を洗う音が聞こえなくなって、声が遠ざかるのに合わせて個室を出る。

 誰の声かもわかっていた。同じクラスの、それなりに接触の多いグループの子だ。

 

 傷が目立つリノリウムの廊下。風が強く吹いていた。中庭の銀杏が、天に向かって伸ばした枝を揺らしている。

 無意識に、喉の傷跡に触れていた。友希那に見せないためにハイネックのインナーで隠した、醜い傷跡。少し引きつって伸びた皮膚の感触が指先に残る。

 

 少しくらいの痛みは、もう気にならない。身体も、心も。

 

 6限目の授業は退屈だった。ダンス部の次の課題曲が絶えず頭の中でリズムを刻んでいる。スマホのアプリで送られてきた通りのフォーメーションをシミュレートして、仮組みのパフォーマンスの改善案を考えていた。

 次の大会のセンターを貰えたが、それは辞退してしまった。部活も続けるかは分からない。

 

 要らぬやっかみに巻き込まれるようになりつつあったのも理由の一つではあるが、バンドに専念したいという気持ちが大きかった。

 もう、歌えないことをそれほど苦にしてはいない。夢を諦めた痛みや喪失感は残っているけれど、リサはベースを弾くのも好きだったし、音楽そのものが好きだった。

 歌えないことも、話せないことも。コンプレックスにはなれど、無いことに慣れてしまえば日常に溶け込んでゆく。

 歌の代替として、と言うと表現に優劣があるような誤解を招くかもしれないが、リサにできる表現の方法としてダンスや楽器に触れて、字を早く綺麗に書く訓練も重ねて。欠けた『声』を別のもので補っていくうちに得たものも多くなってきた。

 

 欠けた『声』があった場所に、代わりに後悔が横たわった。

 たった一人の親友から、リサが奪ってしまったもの。父のようなベーシストになるという夢も、音楽そのものを愛する気持ちも、全部リサが口にした呪いが奪い去った。

 

 友希那の父も波乱の後にステージを降りてしまい、友希那は一人になった。一人でステージに立ち、一人で観客を魅了して、ネットを通して人望を集め、レーベルからの勧誘を受けるまでにもなった。

 

 置いていかれることへの恐怖だけが、リサを突き動かしていた。友希那を一人で行かせてしまえば、今度こそ取り返しがつかなくなる。友希那の目標──「FUTURE WORLD FES」に出たところで、果たして本当に友希那が望むものは得られるのか。今度こそ、彼女の番が回ってきてしまいやしないか。

 

 せめて、一人にはしたくない。

 音楽が好きだと、もう一度笑って欲しい。

 ほんのささやかな、償いを。

 

「や、リサちー。今日はバンド?」

 

 SHRが終わって、カバンを担いだところでクラスメイトに話しかけられた。学年の有名人、変人の氷川日菜だった。──氷川? 

 紗夜と同じ苗字だ。髪の色も、瞳の色も同じ。髪質もよく似ているし、顔のパーツも血の繋がりを感じさせるものが多い。

 

 ──そうだけど、ヒナってもしかして、

「あ、気付いた? おねーちゃんの話、聞きたいなぁって」

 ──友希那が来るまでならいいよ。

 

 我が校一の奇才。天才ピアニスト。入学早々、受験生が受ける全国模試で一位を取った怪物。それが、紗夜の妹だったとは。

 

「前から思ってたけど、あたしに対しては文字書かなくてもいいよ。口パクで全部読めるし」

『これも何言ってるか分かるの?』

「分かるよ。相当支離滅裂なこと言われなければ」

『ニューヨークの地下下水道にはワニが住んでるらしいよ。飼えなくなった人がトイレに流して、地下でネズミを食べて育つんだって』

「都市伝説じゃん、それ。日光もないし気温も低いだろうから多分長期生存できないと思うよ。──まあそれくらいなら読み取れるから気にしないでって話」

 

 緩やかに人が減っていく教室の隅の席に座って、才能の塊と向き合った。なんというか、佇まいにエネルギーがある。

 彼女がダンスを始めても、容易くセンターを取ってのけるのだろうか。自分の尺度で才能を測ってみたいという思いつきを、かぶりを振って振り払った。

 

「で、おねーちゃんはどんな感じ?」

『どんな感じって言っても、まだ会ったばかりだし、普段を知らないからなー。楽しそうにしてるよ?』

「誰とよく話してる?」

『燐子かな。あと、今はバンドの曲の編曲作業してるから友希那ともよく議論してるかも』

「へー。どんな話をするの? あたしおねーちゃんのことなんにも知らないからさ」

 

 なんて、楽しそうな顔をするんだろう。

 ほんの、ほんの断片的な話をしているだけなのに、それほど姉のことが好きなのだろうか。それにしても紗夜のことを知らない、とは。

 

『好きな曲の話とか、アタシとはダンスの話もしたりするかな。個々の音楽性に興味があるみたい』

「音楽性かぁ。なるほど」

『日菜は紗夜と話さないの?』

「あたし嫌われてるんだよねぇ。だからあんまり話せないの」

 

 姉に嫌われている。なんでもないように言ったその言葉に、酷く自嘲的な感情が含まれているのに気がついてしまった。

 それと同時に、日菜の存在が紗夜の人格に多大なる影響を与えているだろうことも、察せてしまう。リサには弟妹がいないからあくまで想像でしかないが、双子の妹にこんな特大の天才がいたら、姉はどうなってしまうのだろう。

 

 きっと、日菜の性格の問題でもないのだろう。

 紗夜が自暴自棄になって腐っていないのも、もしかすると褒められるべきことなのかもしれない。

 

「これからときどき、おねーちゃんのこと話してくれる?」

『それはいいけど……』

「ああ、仲を取り持ってとかそういうことは頼まないから大丈夫だよ」

 

 根本的には家庭の問題だしね、と日菜は呟いた。

 すっかり諦めているような表情。

 

「あたし、物覚えがいいから、小さい頃からずっとおねーちゃんの真似してたの。おねーちゃんがピアノで努力したぶんも、全部あとから真似してさ。あたしがやってたのはただの真似事なのに、周りはみんなあたしを持ち上げておねーちゃんを否定するんだよね」

『それって、日菜は悪くないんじゃない?』

「でも多分、逆だったらあたしでも嫌だよ。なんでも真似して、否定してくるんだもん。みんな、一人で輝けるのが太陽で、その光を受けるだけなのが月だって言うの。ほんとうの紛い物は太陽の方なのにね」

 

 日菜の言っていることは、リサにはあまり理解できなかった。最初にリサが想像したとおり、日菜の才能が悪さをしたのだろうということと、周囲の──恐らく家庭内の──配慮に紗夜が恵まれなかったのだろうということ。それくらいをわかった気になって、リサはとりあえず日菜の言葉を飲み干した。

 

「あ、それと、あたしと関わってることはおねーちゃんには言わない方がいいよ」

『すすんでは言わないかもしれないけど、隠す気は無いよ』

「うーん、でも、たぶんリサちーが思ってるより根が深いからね」

 

 友希那ちゃんが来るね、と日菜が言った。廊下の方を見ても友希那の姿はなく、足音も聞こえない。

 

「それじゃあ、バイバイ。また話そうね」

『うん。内容考えとくよ』

 

 教室を出る時に、日菜が廊下に手を振った。立ち去っていく背中を目で追うと、入れ替わるように友希那が入ってくる。

 いかなる手段を用いてか、日菜は友希那が来るのがわかっていたらしい。

 

「リサ。ここにいたのね。1度玄関まで行ったわ」

 ──ごめん、ヒナと話してて。

「ああ、紗夜の」

 ──知ってたの? 

「帆南さん──紗夜の元バンドメンバーから少しだけ聞いているわ。……誰だって嫌な過去の一つや二つはあるでしょう。私たちだって人のことは言えないのだし」

 ──うん。

 

 練習に行きましょう、と言われて連れ立って歩く。フェスのコンテストに向けて、編曲と音源の作製が急務だった。

 リサにとって意外だったのは、燐子が苦戦している事だった。紗夜曰く「理想が高すぎるだけ」だそうだが、クラシックの色を抑えてロックの色彩を加える解釈に苦慮しているらしい。

 

 フェスに向かって、急速に事態が動いているのを実感する。

 ──変われるだろうか。

 リサの後悔も、紗夜の苦悩も、友希那の背負ったものも。

 一息に棄て去れるものではないにせよ、そのきっかけくらいには。

 

 ──晴れたね。

「さっきまで一面の曇り空だったのに。風が強いからかしら」

 

 

 

【Player Lost】

 

「新入生、すごい才能ばっかりですねぇ」

 

 しみじみと、懐かしむように帆南がそう言う。彼女の視線の先には、今しがた部屋を出ていったばかりの新入生の後ろ姿があった。

 

 神谷吉野は学内に割り当てられた自室で、帆南の留学先の知人に送るメールの文面を考えていた。ニューヨークの某音楽院への編入。前例がないわけではないが、神谷が直接受け持った学生の中では初めてだった。音大の教授として学生を指導するのはこれで五年目だから、ようやくという言い方も可能だ。

 下宿先とのやり取り。音楽院の知人への紹介と頼み事。それから諸々の手続き。目が回りそうなほどの量があるわけではないが、日々の仕事にのしかかってくるとかなりの負担になった。

 

「君がそう言うと、紗花(しゃはな)君が怒ると思うけれどね」

「雫は特別だからいいんです」

 

 神谷の受け持った4人──とりわけ、一ノ瀬帆南と紗花雫の関係を見ていると、「才能」という言葉の意味の広大さがよく分かる。

 コンクールの成績が良いのは帆南。世間的な評価が高かったのも帆南。けれど天才肌だったのは雫だし、手がかからなかったのも雫だった。

 神谷の聞いたところに拠ると、2人が出会った中学生の頃、雫は全く帆南に興味を示さなかったらしい。当時のコンクールは雫の一強状態で、帆南を含め他の中学生とはかなりの開きがあった。

 それを悔しがった帆南は、気が狂うような練習とコンクールへの対策の果てに、二年をかけて雫に初めて勝利した。そのとき初めて雫は帆南とまともに言葉を交わし、それからずっと、雫の関心を引くためだけに帆南は努力し続けてきた。

 

 ようは、天才の雫を帆南が努力で打ち負かしたという構図だったわけだ。

 中学生当時の雫の演奏を聴き返してみる度に、神谷は世界の残酷さを呪う。真に、雫は天才だった。もしかすると、燐子よりも遥かに大きなものを持った存在だったのかもしれない。少なくとも、神谷が今まで聞いた日本の中学生の演奏の中でぶっちぎりで一番上手いのは雫だった。何せ、大学生の今とほとんど変わらないのだから。

 帆南に負けてから、雫の成長はピタリと止まった。どういう意図があったのか、神谷は知っている。そこに凄まじい愛憎が篭っていることも。

 

 コンクールには出るし、練習もしているが、上手くなる気は無い。才能があるが故に、手に入れたものに頓着しない。勿体ないとは感じるが、神谷にはどうすることもできない。

 続けるのも才能。それだけの話だった。

 

「私なんかは、才能があるふりをしているだけで」

「狂人の振りとて大路を走らば、とも言います。才能がある振りができるなら、それは才能があるということに他ならない」

「必要に駆られて、ですよ。雫が、今後一ノ瀬帆南が紗花雫に負けたら、ピアノを辞めると言ったんです」

 

 雫は、帆南を自分に縛り付けるためにそう言ったらしい。2人とも、人生を壊しあった仲だ。

 帆南は雫のピアノを壊し、雫は帆南をピアノに縛り付けた。

 

 才能があり過ぎても、人間はそれを受け入れられるようにできていないらしい、というのがこの世界で生きてきて神谷が手にした答えのひとつだった。

 コンテスタント、という生き方がそもそも歪なのだ。技術に巧拙はあれど、音楽に正解などない。表現を比べあい、点数をつけ合う音楽コンクールという催しは、それ自体が一種の矛盾を孕んでいる。それに加えて、既存の表現を逸脱することはクラシックの世界では嫌われやすい傾向にあるのだから、なんとも片腹痛い話だった。

 

 もっと自由な音楽を是とする風土に雫が生まれ育ったのならば、或いは彼女の才能は消費され尽くさなかったのかもしれない。

 ドラムの練習なんか一切していないくせにあれだけ叩ける彼女なら、今からでも──と思うのだが。

 

「才能がないと言い張る君は音楽の道を志して、誰よりも才能に溢れていた彼女は就職か。数奇な話ですね」

「先生、雫にやる気を取り戻させる方法を探してたんでしょ?」

「あわよくば、と言ったところです。バンドをやっている君たちを見てすぐにやめましたよ」

「私は意地でも続けさせたかったんですけどね。あいつ、あっさり辞めやがって」

「あの本選で、私の尊敬するピアニストが一人増えてしまいましたからね」

 

 帆南と雫が最後に出場したコンクールで、最優秀賞を取ったのは雫だった。その結果に誰よりも悔しがって、誰よりも喜んでいた帆南のことは今でも鮮明に思い出せる。

 

「解放してやるって、笑ったんです。あいつ、私が一生忘れられないこと知ってるくせに。ああ、腹立つ」

 

 面倒くさい絆だ。

 手紙を書き終えて、推敲のために一度寝かせておく。水筒から妻の手製のミルクティーを飲めば、甘さが脳に染みた。

 

 かつて雫がこぼした本音を、神谷は帆南に伝えるか迷った。

 ──ピアノを弾くのが恐ろしかった。自分が自分ではない誰かに操られているようで、見えない何処かに連れていかれるようで。

 

 その見えざる手は、雫が帆南に土をつけられてから姿を現さなくなったらしい。神谷自身、そんな感覚を味わったことはない。燐子に尋ねても首を振られただけだった。

 音楽の神が実在して、雫に憑いていたのかもしれない、などと考えたこともある。

 

 雫が神に見捨てられたのか、雫が神から逃れたのか。

 

「君たち、似た者同士ですよね、本当に」

 

 縛り縛られ、執着しあい。

 本当に、仲が良い(悪い)

 

 こうしてみると、コンテスタントの世界とはなんと残酷なものなのだろうと思う。年端もいかない少年少女達が親の都合で生存競争の舞台に投げ込まれ、孤独に蠱毒めいたコンクールを繰り返して世界にソリストを輩出する。多くが病み、壊れ、へし折れる。

 蠱毒を生き延びてきた燐子でさえ、たかだかあれだけのセッションに劇的な反応を示したのだ。

 

 ピアノ教育の界隈においても、音楽を通した相互作用、相互理解の楽しさを子供に伝えるようなゆとりがあっていいのではないかと思う。

 音楽とは、演奏とは、表現であり非言語的言語である。

 神に捧げるものでもある、という考えがあるクラシックでは受け入れ難いところもあるのかもしれないが、神谷に言わせれば孤独な音楽など高尚なものでもなんでもない。

 

 そういう点では、今年の教え子達は神谷にとって大きな転機を齎してくれた。

 彼女達は、神谷にとっての理想に近かった。

 クラシックにどっぷりと浸かりながらも、バンドを組んだり、大学の音楽祭でふざけて回ったり、違うジャンルを跨いだり、とにかく音楽を愛していて、楽しんでいる。結局その経験はコンクールやコンサートでも活きてくるし、クラシック以外を認めないような頭の固い人間の演奏よりもずっと生きた演奏になる。神谷はそう信じているのだった。

 

「あー、腹立ってきた。せんせ、夜ご飯行きません?」

「送別会はしたでしょう」

「そうですけどー。……あっ、今日も雫と紗夜が弾いてるらしいですよ。ご飯がダメならそっち行きましょうよ」

 

 神谷にSNSの画面を見せて、帆南が勢いよく立ち上がった。公園で雫と紗夜が準備をしていることが呟かれている。今までの突発的なセッションはこういう情報網から成立していたのか、と少し感心した。

 

「そういえば、氷川君と随分仲良くなりましたね。私だけ全然懐かれない、と相談されたときは大いに笑ったものですが」

「まだ雫に一番懐いてるんですよ……一番構ってるのは私なのに……」

「……そういうところだと思いますよ。……あとはまあ、君が羨ましいというのもあるんじゃないでしょうか。君は理不尽な才能を打破した人間ですからね」

 

 紗夜の扱いに関してはかなり頼られた記憶があった。複雑な家庭事情の相談だとか、くたびれた中年である神谷からしても惨いと感じられる環境で生きている彼女に関して、経験の浅い大学生ができることは多くない。

 とは言え、部外者である神谷にも大したことはできず、時折言葉を交わして見守るくらいの交流ではあったのだが。

 

「なるほど! じゃあしょーがないかぁ!」

「やっぱりそういうところですよね」

「冗談ですって。それで、先生も行きましょうよ。アコーディオンやってください」

「まだ無理です。あれ本当に慣れないんですよ。持っていくならトランペットですかね。気を使わせたくないので連絡しておいて下さい」

 

 立ち上がって、腰を伸ばした。丁度週末だし、気分を切り替えるのには良いのかもしれなかった。

 今年受け持つ予定の学生たちは生憎、今日はもう帰ってしまったから、帆南と神谷の二人だけだ。

 

 トランペットのケースを抱えて、年甲斐もなく楽しんでいる自分に呆れながら構内を歩く。

 夕暮れの空を舞うカラスが歌っていた。

 

 

【Rolling Hearts】

 

 新生バンドRoseliaの結成から数日。学生で埋め尽くされた電車に揺られながら、氷川紗夜は緑が滲む川沿いの桜を眺めた。しばらく桜と共に街路を賑わせていた白木蓮もとうに散って、瞬く間に春は後半に差しかかる。

 

 平日は降りる人が少ない公園の駅で下車して、ギターケースを背負い直す。練習がない日は外で弾く。サマータイム・オルカに所属している頃からの習慣だった。

 

「おねーちゃん、今日も帰らないの?」

 

 いつもと違ったのは、駅のホームに見覚えのある影が立っていたこと。

 紗夜と同じ身長、同じ髪色、同じ瞳、同じ顔。違うのは髪の長さと、着ている制服くらい。

 

「……4日前に帰ったでしょう」

「もう3日も帰ってないってことだよ」

 

 駅で鉢合わせた双子の妹に帰宅を強請られる。外泊続きだろうと、紗夜が不在を責められることはない。通報されないように時折顔を見せてはいるが、中学時代から一年以上、紗夜はほとんど家に帰らない生活を続けていた。

 

「父さんは帰ってこない。母さんはあなたがいれば十分。私が帰る必要性は?」

「……あたしが会いたいから」

「そう。私は会いたくないわ。わざわざ待ち伏せなんて気持ちが悪いことをしないで」

 

 強く言えば、日菜は反論してこない。目を伏せて小声で謝る日菜の姿を見ようともせずに、紗夜は妹に背を向けた。

 改札口を抜ける。場所を選ばず、何度も繰り返されたやり取りだった。

 

 どうだっていい。家に帰れば話すし、無視するほどではない。ただ関わりたくなかった。

 離れれば別物になる、と信じているわけではない。血は何よりも濃いというが、残念ながら、紗夜と日菜に流れる血は全く同一である。

 

 西口から駅を出ると、雫が立っていた。ビジネススーツのジャケットだけを脱いでオフィスカジュアルに寄せたような服装で、仕事帰りであることは明らかだ。

 

「……何かあったの」

「妹と、少し」

「なるほど。……私は妹ちゃんの気持ちがわかるから、関わってあげて欲しいと思うけどな」

「そのために追い出す、なんて言わないよね」

「私が追い出しても帆南か柚月か光のところに行くでしょ」

「そう、だけど」

「追い出すくらいなら首根っこ掴んで家まで連れて行くよ。それで紗夜の母親に怒鳴りつけてやる。クズ親はさっさと死んでしまえ、って」

 

 二人は連れ立って歩いた。紗夜の元バンドメンバー、紗花(しゃはな)(しずく)は、面倒見が良い。針のむしろから逃げてきた紗夜を最初に部屋に泊めてくれたのは雫で、それ以来紗夜は頻繁に雫の部屋で外泊している。

 帆南も雫も、柚月も光も、皆口を揃えて紗夜の母のことをクズだと言い、紗夜の父のことを罵る。紗夜が自分の家庭環境について自覚を持ったのは、彼女達がきっかけだった。

 

 紗夜の父は、元来真面目な人だった。仕事熱心で家庭を顧みないところはあったが、休日は紗夜と日菜を遊びに連れて行ってくれることもあったし、穏やかな人だった。

 

 それが、ある日を境に狂った。紗夜は彼に何があったのか知らない。ただ、飲酒量が増えて、次第に家に帰ってこなくなった。何度か、知らない女と夜の街を歩いている父を見かけて、真実を知ったのが中学の頃。たまに帰ってきたと思えば香水の匂いを漂わせて、すぐに自室に引っ込んで仕事に備えて眠るだけ。深夜に帰ってきては、明け方に家を出ていく。次第に顔を合わせることも無くなった。穏やかな父の顔を、思い出せなくなった。

 

 父に何があったのか、尋ねる勇気を紗夜は持ち合わせていなかった。まだ中学生だった紗夜の世界は、ほとんどが両親と妹に占められていて、その世界が揺らいでしまうことを恐れたのだった。

 

 母は、父の不倫について何も言わなかった。とうに夫婦仲が冷めてしまっているのか、見て見ぬふりをするだけ。

 

 代わりに、母は日菜にのめり込んだ。

 打てば響く才能、浴びせられる賞賛。母親仲間からの羨望。孤独を生きる主婦に、それは毒だった。

 

 良い母を全うしようと足掻いていたことを知っているから、責める気にはならない。

 最初こそ母は、紗夜を慰めた。次第に、日菜に劣る紗夜を軽んじるようになって、そして無関心に変わった。日菜のことも最早、承認欲求を満たす道具にしか見えていないのだろう。

 

 紗夜が家に帰らなくても叱られたことは無い。学校の手続きはしてくれるから、それだけで紗夜には充分だった。

 

 日菜がどうやってピアノをやめたのか、今になって疑問が浮かんだ。日菜の才能を手放すことを、母が容易に許すとは思えない。

 

 どうだっていいか、と考え直す。日菜が如何なる理由でピアノをやめようと、ギターを始めようと、もう紗夜には関わりのない事だ。

 

「どうでもいいよ。それより、弾こう」

「どうでも良くはない」

「いいから」

 

 帆南達と出会った公園へ。

 折りたたみ椅子と数種類のバケツで作ったドラムセットに雫が座ると、すぐに人が集まってくる。この近隣では最早、雫達は有名人だった。それなりの頻度で演奏をしているし、ネット上でも動画が多く出回っている。

 他の音大生が気まぐれで交ざってくることもあるし、話題性やネタを求めた動画投稿者がセッションを求めてくることもある。

 

 公園の管理団体主催のイベントに参加したこともあって大義名分を手にした紗夜達は、スタ練やライブ前以外はここに来るのが習慣になっていた。

 

「げ、帆南と先生も来るって」

「嫌なの?」

「帆南は面倒臭い。研修帰りで疲れてるのにあのテンションは無理」

 

 神谷教授は紗夜にとって純粋に尊敬できる数少ない大人の一人だった。

 穏やかで、ユーモアがあり、博識で、紗夜のような子供にも正面から向き合ってくれる。飄々とふざけた態度を取りがちな帆南が、心底から尊敬していると真顔で言ってのけたときには、本当に驚いたものだったが。

 

 ギターのチューニングを済ませて、辺りを見渡す。既にミニライブを見ようと集まっている人達が十数人ほど。こちらを気にしている通行人が数人。時間帯にしては多い方か。

 

「何からやる?」

「雫が選んで」

「じゃあ、洋楽の有名なのから。『Shape Of You』」

 

 

【HOME】

 

 神谷が参加した影響か、今日の辻ライブは思いのほか規模が大きくなってしまった。メディアへの露出はそう多くないとはいえ、日本有数のピアニストで、今日本で最も評価を受けている指導者の一人でもある彼の知名度は馬鹿にならない。

 

「氷川くんに迷惑をかけないように」

 

 ライブが終わって、紗夜にすがりつく帆南を回収しながら、立ち去っていく神谷の背中に雫が頭を下げた。

 

「今日も泊まるの?」

「うん」

「じゃあ、帰ろう」

 

 雫が借りているアパートは大学からほど近い位置にある。彼女曰くアピールポイントは居酒屋が近いこと、らしい。エントランスにカメムシの死骸が転がっているのを見て、雫が嫌そうな顔をした。

 昨日、()()()が出たのを思い出したのだろうか。

 

「結局、引っ越さないことにしたの?」

「職場もここから通える範囲だし、面倒くさいからしばらくいいや。紗夜も音大に行くならここから通えばいいよ」

「3年後の話?」

「そう。それまで専属JK家政婦として雇おう」

「3年前は事案とか言って柚月にバカにされてたのに」

「うるさい。今だって通報されたらやばいんだぞ」

 

 雫の部屋は狭い。具体的には、ドラムセットと電子ピアノ、衣服にスペースが占拠されている。クッションに座ってローテーブルで食事をとるとき以外は、キッチンの椅子に座って足を伸ばしていた方が寛げるくらいだ。

 掃除はこまめにしているから汚れは少ないが、服が散らかりがちなのも閉塞感に拍車をかけている。

 

「シャワー浴びてくるね」

「うん」

 

 雫が脱ぎ散らかしたジャケットをハンガーにかけて、シャツを洗濯機に放り込む。学校の制服から部屋着代わりにしているワンピースに着替えて、紗夜はようやく一息ついた。

 昨日作ったカレーが残っているから、夕食はそれになる。

 

 鍋ごと冷蔵庫に入れていたのをコンロの上に乗せて、炊飯器を覗く。2人分には微妙な量。トーストも焼けばいいのかと思い立って、六枚切りを2枚、トースターに放り込む。

 

 20分ほどで雫が上がってくる。下着どころか全裸で出歩かれても向こうが家主である以上は気にしないが、事案とか通報だとか言う割には慎みがない。

 

「食パン焼いてるの?」

「ご飯が少し少なかったから」

「なるほど」

 

 カレーを温め直す。付け合せの存在を忘れていたが、冷蔵庫の奥に福神漬けが残っていた。テーブルに料理を並べて、クッションに腰を下ろす。ベッドを背もたれ代わりにしないと体勢がしんどいので、一刻も早くドラムセットを片付けて欲しいというのが紗夜の本音だった。どうせ室内で叩けるわけが無いのだから、邪魔なだけだ。

 

「いただきます」

「……いただきます」

 

 カレーライスをスプーンで掬う。具が大きいのが好きではなくて、根菜類は特に細かく刻んである。

 

「結局、このままの生活を続けるつもり?」

「雫が許してくれるなら」

「私はいいけどね。家庭のことはとやかく言いたくないけど、妹には向き合ってあげなよ」

「……無理です」

「紗夜が大好きな帆南だって、天才を打ち負かしたよ。それに、妹ちゃん孤独なんじゃない? 紗夜には私達も……Roseliaだっけ、バンドメンバーもいるけど、あの子は独りでしょ」

「……あの子には母がいるもの」

 

 ──どうやって生きるのか。

 先のことなんて分からない。

 

 早く1人で生きられるようになりたい、とは思っていた。大学に行かずに就職することも視野に入れている。

 外泊しているとはいえ、結局今は親の収入に頼って生きている。居心地が悪いとは言っても帰れば食事くらいはとれるし、屋根もない場所で飢えて死ぬことはない。

 

「それで満たされてるなら、紗夜に会いになんて来ない」

 

 日菜に向き合うのはまだ不可能だと思う。日菜が何を考えていて、何がしたいのか。そんなことさえ知らない。

 目が合うと厭悪感情が滲み、声を聞けば責められているように感じる。

 

「和解しろとは言わないよ。ただ、見てあげて欲しいと思う。酷なことを言ってるけどね」

「……わかった」

「人生相談には乗るから。堅実な生き方には自信がある」

「まあ、帆南よりは」

「あれと比べるな」

 

 

【夢残】

 

 ある朝、湊が目を覚ますと、そこは自室のベッドの上ではなく革張りのソファだった。L字に配置された黒革のソファの角に腰を沈めた状態で寝落ちたらしい。

 

 飲みさしのビールがグラスに2センチほど残っている。

 起き上がろうとすると酷く腰が痛んだ。もう40も過ぎた。無理は利かない。

 リビングの時計を見れば6時半。寝坊は免れたらしい。

 テレビが消えていることから、夜中に誰か起き出してきたのだろうか。

 

 シャワーを浴びて、出勤の支度を始める。

 バンド時代の縁で入ったレコーディング会社の仕事にもすっかり慣れた。

 あまり好きな仕事ではないが、湊が手に入れられる仕事で最も待遇が良い企業がここしかなかったのである。30代の半ばまで音楽活動一本で生きてきたような人間を、誰が進んで雇おうとするだろうか。

 湊が大手である今の職場に入れたのも、企業側が贖罪として湊を雇い入れることを提案したからだ。

 

 バターを塗ったトーストを齧る。あまり美味いとも感じられない。

 スマホをイヤホンに繋いで、今日の業務に関わる音源を流す。レーベルのオーディションに応募してきたバンドの音源審査がここ数日の主な業務だった。

 

 自分を潰した会社で、今からデビューする新人を発掘する仕事に就いているというのも皮肉なものだ。自分の現状を認識する度に虚しくなる。

 

 湊が所属していたバンドは、メタルロックを売りにしたバンドだった。インディーズ時代からそれなりに評価を受け、少なくとも妻子を養うのに不自由ないくらいのチケットを売れるほどに人気を集めていた。

 敬遠し続けてきたメジャーレーベルの勧誘を受けることにしたのは、それでもバンドの成長が頭打ちになってきたと感じていたのが理由だった。

 それと、年齢。所帯を持ち、不安定なバンド生活に危機感を抱き始めた。

 

 結果として──バンドは崩壊の道を辿ることになった。

 条件は良かったが、人が良くなかったと言うべきだろうか。ともかく、湊達は商業的に消費され、磨耗速度は加速度的に上がっていった。

 レーベルの意向により、メタルロックよりもポップスに寄せた曲を多く作るようになった。往年のファンは離れ、新たに獲得したファンもそれほど多くは無い中で、バンド内の雰囲気は次第に荒れていく。

 

 流れを変えるために、国内でも有名なロックフェスに出ることになった。

 使おうと思っていたのは、インディーズ時代の流れを汲んだメタルロックの曲。レーベルの提案を跳ね除けて、今度は自分たちでやり直すつもりだった。

 それに待ったをかけたのも、やはりレーベルだった。スポンサーの意向だとかで、フェスの本番に至ってもポップロックを弾くことを強いられた。それでもメタルの曲調と上手く融合させ、抵抗は試みたつもりだったが、付け焼き刃で上手くいくような世界じゃないことは湊が一番よく知っている。

 

 ──大衆に媚びた音楽。唾棄すべき音楽性。金の為に堕落したのだ、と公衆の面前で散々こき下ろされて、そうして湊達は行き場を失った。

 

 やり直す程の体力が、湊達には残されていなかった。一人、一人とバンドを去り、ついぞ湊もマイクを手放した。

 

 スーツに着替え、再びイヤホンを耳に挿し込む。今のところ見込みがない、という評価を付けざるを得ない演奏。

 家を出る際に、娘の部屋の前を通る。

 

 彼女になんと声を掛ければいいのか、湊には分からない。

 

 友希那には才能がある。親の贔屓目だと言われても、これだけは断言ができる。友希那の精神も才能も、摩耗してしまうんじゃないか。そう、危惧している。

 

 彼女が湊の復讐を目指していることも、幼時の幼馴染との夢を大真面目に叶えようとしていることも、湊には察しがついていた。

 止めねばならないということは分かる。音を楽しむと書いて音楽。そんな初心さえ忘れてしまった湊がどうなったか、友希那は目の前で見届けたはずなのだ。

 

 玄関のドアを開ける。春の朝の冷たい空気が、ざわついた湊の心を冷やしてくれる。

 

 憎しみの歌なんか誰も楽しめやしない。リサが友希那を引き留めてくれればいいが、彼女も酷な境遇を生きている。歌い方を教えていた時代を思い出して、また心が沈む。

 あの頃は幸せだった。

 

 レーベルを恨んではいる。それと同時に、当然の報いを受けただけだという諦めもある。湊達は初心を貫けなかった。自分自身の音楽を裏切ってしまった。しっぺ返しを食らうのは当然のことだ。

 

 嗚呼、なんで深酒をしたのか思い出してしまった。

 友希那の部屋から通話越しに聞こえてきたベースの重低音。忘れもしない『LOUDER』の音。

 

 もう、湊が何かを言って容易に止められる段階にはないはずだ。いくらレーベルを恨んでいないと言い繕っても、ファンに失望したことなどないと言い張っても、一度零してしまった後悔がある。

 

 悔しいと言ってしまった。無念だと、漏らしてしまった。

 

 

 嗚呼、願わくば、あの子たちが明るい世界で歌えますように。

 無力な湊は、そう祈らずにはいられない。

 

 

【錦鯉】

 

「ねぇ、ユキナちゃん、お願い! 再来週のライブに出て欲しいの!」

 

 CiRCLEの貸スタジオに入る直前。月島まりなに懇願されて、友希那は思案した。

 Roseliaが結成して3週間ほど。編曲や、新生活へ順応するためのいざこざに追われて、未だにライブをする目処が立っていなかった。そんな折に降って湧いた話だ。都合が良い。

 

 手渡されたチラシに目を通す。

 

「ガールズバンドパーティ?」

「そう。このライブハウスのこれまでの集大成というか……これから毎年恒例の一大イベントにしようと思ってるんだ。今年はその立ち上げ、みたいな」

「そんなイベントに、結成してひと月も経っていないバンドを呼んでもいいの?」

()()ユキナが選んだメンバーのバンドだよ? 実力的には申し分ないでしょ。もちろん音源くらいは聞かせてもらおうと思ってるけど……」

 

 チケットノルマも控えめ。普段のCiRCLEのライブの規模を考えると、かなりの数の観客数が見込めるし、悪くない。

 暫定で出演が決まっているバンドを見ると、それでも知らないバンドがちらほら見られた。知っているバンドの中で印象的なのはAfterglow。友希那の一つ年下の後輩たちのバンドで、かなりの人気を博していたはずだ。

 

「まあ分かると思うけど、君たちに唾つけておきたいのもあるんだよね。伸びるのは分かりきってるし」

 

 ぶっちゃけた話、と言いながらまりなはそう続ける。

 確かに、選り好みした自覚はある。高い水準で集めたメンバーだし、技術だけならこのライブハウスで演奏している学生バンドの遥か上を行く、とも。

 

「考えておくわ。多分、参加すると思う」

「お願いね!」

「返事の期限は?」

「来週中なら最悪大丈夫だけど、早い方がいいかな」

「じゃあ、遅くとも明日中には」

「はーい。色良い返事をお待ちしております!」

 

 ついでに次回の予約も済ませて、借りた部屋に入る。先に向かった4人は既にセッティングを済ませていた。

 

「何の話だったんですか?」

「ライブの打診よ。再来週の日曜日、らしいわ」

「もうライブに出られるんですか!?」

「そのつもりよ。経験者が集まったにしてはむしろ遅いくらいじゃないかしら」

 

 意欲的な反応が返ってきたことに安堵する。夏に行なわれるFUTURE WORLD FES.に向けて少しでも経験値を稼いでおきたいところだ。フェスに出るだけが目的じゃない。フェスの場で観客さえも染めてしまうほどの演奏を。

 

 ──父から受け継いだ歌で、父のベースで、父以上の演奏で。

 

「時間がもったいないから、詳しい相談は後で。まずは練習をしましょう」

「……提案なのですが、今日は撮影しながらやってみませんか?」

「録音ではなくて?」

「ええ。前回の反省だった、俯きがちな姿勢を客観視できた方がいいかと」

 ──自分じゃあんまりわかんないもんね。まあアタシの課題なんだけど。

「いいんじゃないかしら。任せるわ」

 

 紗夜の提案には妥当性があったので、特に異論が出ることもなく賛成の流れになる。

 紗夜がスタンドにスマホを固定して、画角を合わせる。あまり広いスタジオでは無いからライブ本番のような配置にはできないが、そこはまあ仕方がないだろう。

 

「下を向きすぎないこと。前を向く癖は付けておきましょう」

 ──はーい! 

「はーい」

「はーい……?」

「……あの白金さんにこんな口をきいていると思うと恐ろしくなりますね」

「いえ、そんな……」

 

 バンド経験があるのは紗夜だけだ。友希那にもソロとしての経験しかないし、ほかの三人もずっと一人で弾いてきた者ばかり。

 そんな状態だから、紗夜の意見は有難かった。顔を上げて弾くことだって、後々改善はできただろうが、最初から意識して練習できるのは紗夜の提言があってこそだ。

 あこもリサも、ダンスの経験があるから視線の重要性はわかっている。ただ演奏中に余裕が無いからか、指摘されるまで自分が俯きがちなところには気づいていなかったらしい。

 

 視線や表情はライブにおいて極めて重要だ。

 ギターは顔で弾け、という言葉がある。一般の聴衆からすると、ミスがあっても自信満々に弾くギタリストの演奏は上手く聴こえるし、技術が巧みでも不安そうに弾いているギタリストの演奏は物足りなく聴こえたりする。

 

 そもそも人間の知覚特性として、最もよく情報を集めるのは耳ではなく目だ。

 ライブが音源ではなく体験型のパフォーマンスである以上、“音”が良ければそれでいい、というわけにはいかない。まして友希那が勝負をしたいと考えているのは「フェス」だ。俯いたまま棒立ちで演奏するようなバンドが通るはずもない。

 

 持ち曲を一通り弾いて、各々課題を出し合っていく。

 

「湊さんは、その場の感情で表現を決めているんですか? それとも、元からこの音はこう発音すると決めて歌っているんですか?」

「前者ね。曲を作るときにある程度頭に描いている、というのはあるけれど」

「……なるほど。ボーカルに関しては具体的な提言をしにくいのですが……もっと煮詰めてもいいんじゃないかと思います。技術的にかなり余裕がありますよね」

 

 紗夜の言葉に、少し考えた。まだ平坦に聞こえる部分があるという意味か、それとも余白がないくらいの表現で圧倒するべきだと言っているのか。

 いずれにせよ、曲を聴きながら再度煮詰め直す時間が必要だ。今日すぐに改善できるわけではない。

 

「逆に湊さんから私には何かないのですか? 貴方にはあまり意見を貰ったことがありません」

 

 友希那としては、特に指摘できるところがないというのが本音のところだった。曲ごとに、もっとラウドな表現をして欲しいだとか、ピアノを立てて欲しいとか、そういう調整の話をしたり音作りの相談をしたりはする。

 しかし、技術的な部分で友希那が紗夜に指摘できることはない。ギターに関して友希那は初心者も同然だし、ならば全体的な話をしようにも、紗夜と友希那以外の三人がセッションに慣れることが最優先事項だ。とりあえずはそこに注力したい。

 

 そういう意味で、紗夜への指摘が少なくなるのは当然の流れだった。

 代わりに思い出したのは、帆南と話したときのこと。紗夜に向けた『ギフト』の意味。

 

「そうね……帆南さんから言われなかったかしら、『My Dearest Baby』を聞いて考えてみろって」

「言われましたが、正直分かりませんでした」

「……細かいフィードバックは伝えられるけど、大きな課題となると私には思いつかないわね。だから今は、そちらに注力してもいいんじゃないかと思うの」

 

 技術面の話ではない、と友希那は確信していた。帆南が紗夜に伝えたいことは、そんな練習の一つや二つで改められるものでもないはずだ。

 もっと、そう。紗夜の今後の音楽人生を変え得るような、精神的なもの。

 

「…………そう、ですね」

 

 紗夜は考え込むように口元に手を当てて、俯いた。

 

「もう一度、考えます」

 

 言う割に、答えを知っているような表情。認め難いものだったのだろうか、と友希那は直感した。

 帆南から聞いた、紗夜にとっての虎の尾。それを踏むようなことを、帆南はしたのか。

 

「それがいいと思う」

 

 もしそれが、一人では解決することが難しい悩みであるのならば、できる限りの力にはなりたいと思う。他のバンドの勧誘を蹴ってまで着いてきてくれたのだから、それに多少なりとも報いたい。

 

 

【分水嶺】

 

 結局バンドメンバーの賛同を得られたので、ガールズバンドパーティには参加することにした。その旨をまりなに伝えて、スタジオ練習を解散する。

 帰り道は、友希那とリサの二人きりになった。歩いているときには、それほど会話は交わさない。二人の間に横たわる沈黙も、友希那にとっては不快ではなかった。

 

「すみません! ユキナさんですよね!? 湊ユキナさん!」

 

 後ろからそう言いながら駆け寄ってくる足音が聞こえて、振り返る。

 走ってきたのは、スーツ姿の女性だった。緑の縁の眼鏡をかけ、後ろに髪を結っている。香水の匂いがキツめで、外にいても鼻についた。

 

「……そうですが」

「わたくし、アサイレコードの西堀と申します。貴方のお父様の同僚にあたるのですが──」

「へぇ? それで、どういったご要件でしょうか」

 

 直感的に感じた、得体の知れない不快感の正体がそこでようやくわかった。アサイレコード。父を潰した会社の名前だ。

 途端に嫌悪感が湧き起こる。どの面を提げて私の前に立っているのかと罵声を投げかけてやりたいような。そんなことをしても無意味だと分かっているが、一瞬、どこまでなら許されるだろうかと思案してしまった自分を恥じる。

 

 一呼吸で精神を落ち着けて、努めて平坦に尋ねた。

 

「有り体に言えばスカウトです。聞けば、お父様も弊社からメジャーデビューしたんだとか。弊社としましては、ぜひユキナさんのご活躍のお手伝いをさせて頂きたく──」

「なるほど。ちなみに、父の引退した経緯はご存知ですか?」

「引退理由までは……。しかし素晴らしいバンドだったと聴いていますし、その流れを汲むユキナさんなら、お父様を超えるスターになれるはずです!」

 

 リサが飛び出そうとしたのを手で制して、友希那は一歩スカウトマンの方へ歩み寄った。

 

「父のことを引き合いに出すのであれば、父がどういう経緯で引退したのかくらいは調べておいて欲しかったですね。……すみませんが、名刺はお返しします」

「いえ、名刺は──」

「どうせ、二度と会うこともありません。お互いに忘れた方が穏便に済みますから──ね?」

 

 苛立ちを隠さず睨みつけるリサに何かを察したのか、スカウトマンは突き返された名刺を受け取って立ち去って行った。罵詈雑言を投げつけたい気持ちでいっぱいだったが、彼女が直接父に何かをしたわけではない。感情のままに動くのを、友希那はよしとしなかった。

 

「ケチがついたわね」

 ──ほんともう、サイアク! 

「……庇おうとしてくれてありがとう」

 ──ううん、ごめんね。余計なことして。

「貴方が怒ってくれたから冷静になれたのよ」

 

 友希那はリサのベースケースに目をやった。父が愛用していた紅のESPがそこには収まっている。

 あのベースを見る度、父に恥じない演奏をしようという気概が湧き起こってくる。それは同時に復讐心を駆り立てる諸刃の剣でもあるが、友希那にとっては大きな動力源だった。

 

 自宅の前の通りに差し掛かったところで、見覚えのある人影が見えた。リサの母だ。

 

「リサ、おかえり。……友希那ちゃんも」

 ──ただいま。

「こんにちは」

 

 少しだけ、曖昧な表情をされる。嫌われているわけではないと思うが、リサを未だに音楽の世界に引き留める友希那に思うところがあるのも、なんとなく理解ができた。

 後ろめたくて、頭を下げてリサと別れる。

 

「おやすみなさい。また明日」

 ──おやすみ〜! 

 

 ──どうして世界は美しくないんだろう。

 

 空に溶けてゆく問いに虚しさを覚えて息を吐く。鍵を開けて家に入れば、人の気配のない玄関の暗がりだけが出迎えてくれる。

 最早慣れきってしまって、僅かな寂しささえ覚えなくなった。薄暗い階段を登って自室に戻ると、歌詞を書き付けてあるノートを開いてみた。

 薄っぺらい歌詞を眺めていると、帰路の出来事が思い浮かんできて落ち着かなくなった。すぐにノートを閉じて、ベッドに伏せる。

 

 紗夜のことばかりは言えない。友希那にだって向き合うべきものがある。

 見上げた天井の暗闇が、今日はずっと近いような気がした。

 

 

【コントレイル】

 

 リサの両親は、リサの音楽活動にあまりいい顔をしていない。

 二人ともリサの夢は知っていて、歌手になる夢を応援してくれてはいた。しかし事故でリサは声を失い、代わりにベースを握るようになった。

 

 端的に言えば、友希那の隣にいることでリサが過去を思い出して辛い思いをするんじゃないかと、そういう心配をするようになったのだ。

 それは、自責の念からでもあるだろう。事故にあった日、車を運転していたのは父だし、隣に座っていたのは母だ。リサが音楽に触れる度に、両親もあの日を思い出すのかもしれない。

 

 当時、両親の仲が険悪になったのも、リサのためにと飲み込んで仲直りをしたのも覚えている。そんな両親だから、本心からリサのことを心配しているのがわかって、リサも過保護を跳ね除けられないのだった。

 

「ダンスも辞めちゃうの?」

 ──部活は続けるつもり。

「そう。友希那ちゃんに付き合うのもいいけど、自分を大切にしなさいね」

 ──アタシが友希那を付き合わせてるんだよ。

 

 夕食のメインは豚肉のいんげん巻き。ケチャップソースの酸味と胡椒がきいた肉を齧りながら、どうしたら両親の賛同を得られるのだろうかと考えてみる。

 

 ライブに来てもらうのがいちばん早いんじゃないかと思う。

 友希那のことも、リサのことも、それで両親には伝わる気がした。

 

 ──次のライブ、見にこない? 

「そうね、土日なら行こうかしら」

 ──日曜だから、来て欲しいな。ほんとに無理なんかしてないって、知って欲しい。

「……あなたのことは信じているつもりなのよ。それでも心配しすぎてしまうのは、これはもう病気みたいなものね」

 

 父は黙ってビールを呷った。父には避けようがない事故だったと誰もが分かっているのに、絶対にこういう話には入ってこない。自分には言葉をかける資格がない、と言うのだ。

 

 ──ごちそうさま。

 

 2枚分のチケットをテーブルに置いて、立ち上がる。食器を流しに持っていく。

 言葉で示すのが、どうにも苦手になった。

 電子ボードに文字を書くか、SNSを使った交流が主になる内に、如何に簡潔にメッセージを伝えるか、ということが肝要になっていくのを感じていた。少ない文字数で、簡便な表現で。

 

 今のリサは怒りのままに言葉をまくし立てることもできなければ、感動のままに感想をつらつらと語ることも、友達と愚痴をこぼし続けることも難しい。

 音と文字という発言媒体の違いによって、リサは相対的に無口な人間になった。

 

 入浴を済ませて髪を乾かし、スキンケアを終えて自室に戻る。カーテンが開きっぱなしだったから、窓から隣家の友希那の部屋が覗けた。机に向かって考え込む横顔をつかの間眺めて、カーテンを閉める。

 日課のストレッチをこなす傍ら、次のライブについて考えていた。

 

 Roseliaにとっても、リサにとっても初めてのライブになる。

 何事も最初は多少躓くのが常だとリサは思っているが、今回に限ってはそれほど心配してもいなかった。

 

 まず単純に、地力があること。あこはまだ1年ほどと短いが、それ以外の4人はもう5年以上も楽器に触れ続けてきている。あこにしたって練習の密度と上達幅は凄まじいものがあるし、曲を叩ききるのに精一杯というわけでもない。むしろ演奏にゆとりがあるし、そもそも応用が利くタイプだ。ステージ慣れもしているし、あまり心配していない。

 

 燐子に関しても紗夜の言に拠れば問題は無さそうだし、紗夜と友希那に至っては今更だ。やらかすとしたらリサ自身だが、リサとて自分の不得手は弁えている。

 緊張しがちな部分は慣れでカバーできるはずだ。ダンス部の発表でも付き合ってきた癖だ、どうすれば緊張を解せるかも自分でなんとなく分かっていた。

 

 爪の手入れを済ませて、ベッドに潜り込む。

 2日後までにライブの演出の草案くらいは出さなければならないが、これといって良い案も思い付かなかった。

 

 明日はライブハウス巡りでもしてみようか。

 別に、奇抜な演出をする必要は無い。セットリストも決めたし、MCも慣れた友希那がやるから、特に何もしなくてもライブは上手くいくだろう。ただRoseliaの色を出して行く上で良い案があれば、というだけの話だ。

 

 豆球のオレンジの光を眺めながら、思索に耽っている内に眠気が襲ってきた。

 

 

【メッセージ】

 

 学校に行くのが憂鬱というほどではないが、それでもリサにとって高校は楽しい場所ではなかった。

 

「リサー、カラオケ行こうよ。楽器持ってるっしょ」

 ──今日は用事あるからやめとく。ごめんね。

「えー、付き合いわる」

「あはは、ダルいってそれ〜」

 

 放課後に声を掛けられて、面倒臭い絡みに辟易する。こういう配慮のなさというか、黙認されるとわかっていて悪意を隠さない雰囲気がどうにも嫌いだ。閉鎖したコミュニティ特有のものなのだろうか。今は不登校になってしまった子に向けられていたときにも感じていたが、矛先を向けられる側になると尚更。

 

 人間が二人以上集まれば序列ができる。30人規模のクラスや、数百人からなる学年ではピラミッド型の社会権力構造が形成され、派閥も生まれる。

 そういう観点からいうと、リサのクラスはバランスが悪いらしかった。仲も悪ければ相性も悪い。女子の間で牽制するような空気がこの1ヶ月、ずっと張り詰めている。

 

「なになに? リサちーと遊びに行くの?」

 

 肩にかかる重み。クラスメイト2人の視線が上を向いたのを見て、その正体を察する。

 クラスカースト最上位様だ。助かったけれど、虎の威を借る狐みたいで少し複雑。

 

「いや、断られちゃって……」

「へぇ、そうなんだ。残念だったね」

『重いからどいてくれない?』

「何言ってるのか見えないや」

 ──重い! 

「あはは、ごめんごめん。……リサちーを先に誘ったのあたしだから、今日は我慢してね?」

「ああうん、ついでに誘っただけだったし……」

 

 平坦で冷たい声色。言葉尻に滲む無関心さ。こういう人間だった、とリサは改めて思い出した。

 隠す気もないようなバレバレの嘘を吐くのも、どうでもいいからなのだろう。歯牙にもかけないというか、視界にさえ入っていない。

 

 本来はリサも、日菜の瞳には映らないはずだった。

 日菜の姉である紗夜との交流がなければ気に留められることさえなかっただろう。

 

 また今度、とほんの少し上擦った声で立ち去っていく2人に、少しだけ失望した。結局、上には従うらしい。なんとなくリサのことが嫌いで、なんとなく本能に従って嫌がらせをして、本能に従って強いものに巻かれる。

 

『ヒナ?』

「ああうん、なんでもないよ。それより、用事があるんじゃないの?」

『あー、ライブハウスに行ってみるか、路上ライブ探しをしようと思ってて』

「ふーん。じゃあ、あそこ行ってみれば? 音大の近くの、月ノ森公園」

『何かあったっけ』

「や、おねーちゃんが多分いるから。それに、晴れの日はだいたい誰かが演奏してるから、取っ掛りとしてはいいと思うよ」

 

 あたしも用事あるから、と言って日菜も足早に教室を出ていった。旧校舎の方ではなくて昇降口の方へ歩いて行ったから、部活ではないのだろうか。

 

 日菜に教えられた公園に行ってみようか、と思い立って駅へ向かう。いつもと違う路線を使えば乗り換えなしで行けるはずだ。

 日菜がわざわざ紗夜のことを話題に出してそこに行くことを勧めたのなら、何らかの意図があるはずだとリサは感じていた。紗夜が普段見せない一面を見せるとか、或いは日菜から見えない紗夜のことを知れるかもしれない、だとか。

 

 制服のまま列車に乗り込む。

 初めて乗る路線だったから、降り口が反対で少し手間取った。

 一緒に降りる学生は少なかった。それよりも親子連れだとか、散歩がてらといった装いの老人なんかが多い。

 

「お嬢さん、公園に?」

 ──どうして? 

「あら。……そうね、楽器ケースを背負っていたものだから。ほら、あの公園と言えば演奏自由なのが有名でしょう?」

 

 花柄の服を着たお婆さんに話しかけられた。

 筆談で返されたことに驚いた様子だったが、流石に年の功か、大して動じてはいない。……高校生と比較するのはむしろ失礼だったか、と思い直して、リサは老貴婦人と向き合った。

 

 ──いちおう、公園に行くつもりでした。

「演奏をするのかしら」

 ──そういうつもりじゃないんですけど……機材も持ってきてないです。

「あら、残念。でもそれなら、公園までおばさんに付き合ってくれないかしら」

 ──いいですけど。

「ほんとう? ありがとうね」

 

 一人で新天地に行くよりは、道連れがいた方が多少心強いのは確かだった。たかが遠出をするだけだとしても、声を出せないリサにとっては喉がひとつあるだけで違う。防犯用のホイッスルがいざと言う時どれほど役に立つのか、リサはあまり信用していなかった。

 

 西口から出て、舗装された公園までの遊歩道を歩く。花壇にはチューリップが植えられていて、ミツバチやモンシロチョウが飛び回っていた。

 

「今日は暖かいわねぇ」

 

 学生カップルだとか、早上がりで清々しい顔をしたサラリーマンだとか、多種多様な人達がたむろしている。

 歓声が上がる。公園の西側で、アナログのエイトビートが響いた。

 

「こっちを右に行くと、いつも誰かが演奏している方よ」

 ──おば様はよく来られるんですか? 

「そうね。仕事も定年退職しちゃって暇だから、よく来ちゃうわ。家にいてもボケ老人になるだけだものね」

 

 老婦人は、70もいっていないように見えた。

 姿勢も良いし、歩き方も自然だ。よほど健康に気をつかっているのだろうか。

 

『今日はちっちゃい子が多いね〜。かわいい〜!』

 

 マイクで拡大された黄色い声。野外ライブのMCだろうか。

 

『りっぱなロックンローラーになるんだぞ〜!』

 

 笑い声が聞こえる。ツツジの植え込みを抜けると、すぐに半円状の人だかりが見えてきた。

 

『うんうん、じゃあ小さい子も楽しめる曲からやろうか。みんなも歌ってねー!』

 

 僕らはみんな生きている──じゃなくて、『手のひらを太陽に』。

 演奏が始まって直ぐに、そこに紗夜がいると分かった。

 

 遠くから見えるのはマイクを握ってお立ち台に立ったスーツ姿の女性だけで、他のバンドメンバーの姿は見えなかった。にもかかわらず、ギターの音色で、カッティングのキレで紗夜がそこにいると確信する。

 Roseliaの練習のときのようにラウドに歪めた音ではなく、もっと軽い、ポップスを弾く時のような弾むような音。

 

『はいはい、手拍子ー! ……あ、あたしが叩くとベースが──』

「楽しそうねぇ。左の方なら直接見られるかしら」

 

 アタシは何を焦っているんだろう。

 正体不明の感情に駆り立てられて、少し足早に前へ。

 

 紗夜と弾いている人のベースが上手いから? そんなの今更気にしていない。他人に合わせることに関して、今まで一人で弾いてきたリサが劣るのは当然のことで、それ以外の部分では負けているとさえ思わない。

 

 紗夜が他のバンドで弾いていることへの嫉妬? モヤつく部分がなくもないが、会って一ヶ月も経っていない紗夜に対してそこまで入れ込んでもいない。

 

 スーツ姿のベースボーカル──先程柚月と呼ばれていた気がする──と、同じくスーツのドラム。パーカーのフードを被って表情を隠したヴァイオリンに、涼しい顔でとんでもない音量を吐き出すフルート。

 そして、紗夜。花咲川の制服のまま、和らげな表情で観客に微笑みかける姿に、ほんの少しの苛立ちを覚えた。

 

 そうだ、ヒナのことを知ってしまったから。

 あんなに強くて孤高な氷川日菜という人間が、酷く弱々しく笑うのを見てしまったから、リサはこんなにも感情をかき乱されている。

 

 スネアを叩く女性と笑い合っている紗夜を見て、どうしてその笑顔を日菜に向けてあげないんだろうと思ってしまった。

 事情も知らないのになんて傲慢な思考だろう、と理屈では思うけれど、抱いた感情は塗り替えられない。

 

 

 目が合った。

 意外そうな顔をして、それから合点がいったように息を吐いて、曲が終わるなり近付いてくる。

 

「日菜の差し金ですか」

 ──ちが……うん、まあ、そうかも。

「……探られて気のいいものでもありませんので、程々にしてくださいね」

 

 怒られるかと思ったが、少し嫌そうな顔をされただけだった。それがむしろ悲しいことのように思えて、リサは肩を落とした。

 

「それより、ベース持ってますよね。参加してみませんか」

 ──へ? 

「場数を気にしていたじゃないですか。ちょうどそこにありますよ、ステージ」

 ──アンプとかないし……。

「機材はありますから」

 

 反射的に先程の老婦人に助けを求めたが、手を振られるだけだった。手を引かれて、バンドの輪の中へ。

 

「柚月、ベースはクビ」

『えー』

「えー、じゃない。わざわざキーボード運ばせたんだから使ってよ」

『あたしはベーシストでーす!』

「ピアニストでしょうが」

 

 そこまでしなくても、と言おうと思ったのに、ベースの人(柚月)があっさりとシールドを渡してくるものだから受け取ってしまった。

 衆人環視の中コミカルな動きで引っ込んでいく柚月の姿に笑い声が漏れる。

 

「どうせみんな飛び入りだから大丈夫です。暗黙の了解は、誰もが知っているようなメジャー曲を弾くことだけ。それでも知らなかったら休んでいていいし、スコアがあれば借りてもいい」

 

 柚月がキーボードを前の方に設置して、マイクを合わせている間に軽く音を確認する。弾くことになるとは思っていなくて、何の準備もしていなかったが、思っていたよりも緊張していなかった。

 

『リクエスト聞いちゃおっかなー。そこのボク、好きな曲はなに?』

「えっと、えっとね、ととろ!」

『トトロかぁ。今の子も好きなんだねぇ』

「あの、この子が言ってるのはさんぽの方で……」

『りょーかいですお母さん! でもミスったらごめんね!』

「音大OB! ちゃんとして!」

『雫だってミスっただろ!』

 

 考えることが多くて、思考がぐちゃぐちゃになる。

 紗夜のこと。日菜のこと。友希那の音楽のこと。ライブのこと。家族のこと。

 

 スカウトマンに会って、友希那の復讐心が衰えていないことを確信した。音楽が義務になって、上手く歌うことが責務になって、色んなものを背負っていく友希那に、リサだって呪いを背負わせた。そんな重しから友希那を解放したいし、紗夜と日菜のことだってできればより良い方向に進んで欲しいと思う。

 

 とはいえ、リサにできることはほとんどない。どこまで踏み込んでいいのかも分からないことだらけ。機を見て背中を押すことくらいしか、リサにはできないだろうという諦観もある。

 

 けれど、この景色は覚えておこうと思った。

 くだらないことばっかりで、上手くいかない日ばかりで、このままバンドを続けても友希那の音楽を変えられる気はしなくて──それでもいつかRoseliaでこんなふうに、ただ楽しいだけの演奏ができたら。

 友希那が笑っているのを見られたら。

 

 

【ティアドロップ】

 

 フルートの人の目的は動画の撮影だったらしい。ひとしきりリサ達に感謝をして、それから動画の公開にあたって映していい範囲の確認をした後、連絡先を渡して立ち去って行った。

 恐縮しきりの向こうとは対照的に紗夜なんかはどうでも良さそうで、顔のアップと実名の詮索だけ避けてくれればいいと言ったっきりだ。

 

 ヴァイオリンの人は、いつの間にか消えていた。リサが加わっても動じなかったりと、本当に一期一会と割り切っているらしい。

 

「紗夜〜、紹介してよ。バンドの子?」

「……そうね、こちらは今井さん。Roseliaのベース。こっちの2人は私の元バンドメンバーです。ベースが柚月で、ドラムが雫」

 ──よろしくお願いします。

 

 向かい合ってみると、柚月はリサよりも身長が低かった。アクティブな佇まいにボブが良く似合う。

 雫は反対に堅い印象だった。紗夜よりも少し高い身長に、柚月と対照的にきっちりと締められたネクタイがそういった印象を持たせる。

 

「よろしくねー。かわいい子だ。ベースも上手かったし」

 ──ありがとうございます! 

 ──柚月さんはピアノもベースもできるんですか? 

「あー、まあ、あたしら全員音大のピアノ科だからね。みんなピアノもやれるよ」

 

 紗夜の前のバンドについて詳しく聞いたことはなかった。

 友希那が持っていたCDを借りて曲を聴いたことはあったし、ネットでの評判も知っていたが、外部の情報と内部の認識なんてまるで違う。そんなものは、知らないのと同じだ。

 

「聞きたい? 紗夜の話」

 ──はい! 

「柚月、悪ふざけはやめてよ」

「会わせた時点でこうなるのはわかってたでしょ。紗夜が招いたことだよ」

「帆南といい柚月といい……」

「まあ、柚月も世話を焼きたいんでしょ。来週から大阪らしいし」

 

 紗夜について話してくれる上に夕食を奢ってくれるというので、相伴に預かることになった。リサの携帯から紗夜が両親に連絡して、門限超過の許可を取る。

 

「もんじゃ食べよ、もんじゃ。社会への恐怖を音楽と食欲で紛らわすのだ」

「社畜乙」

「お前ホワイトだからってお前!」

 

 社会人なんてこんなもんです。ガキですよ、と紗夜がシラケた顔で言った。元バンドメンバー達といるときの紗夜は自分の感情に素直な気がして、少し切ない。親近感が湧くし、いつかはこんな感じに仲良くなりたいと思うけれども、今はまだそうじゃないから。

 

 ここが美味いらしいよ、と案内されたのは学生通りから少し奥まったところにある店舗だった。小綺麗な装いの暖簾をくぐって、座敷に案内される。

 ビール飲みます、と柚月が宣言して、四人分の注文をした。

 

「紗夜はねぇ、あの公園で独りで弾いてたのをウチらのリーダーが捕まえてきたの」

「中学一年生だったかな。春休み期間だったかで、暇してる音大生が集まって紗夜を囲んでね。今思うと、相当怖かっただろうな。20人くらいでライブして、その後に紗夜を誘ってね」

 

 こんなにちっこかった、と表現された大きさはテーブルの高さと同じくらい。新生児だってもっと背が高い、とでも言いたげな表情で紗夜がため息を吐いたのが面白くて、続きを強請る。

 

「雫が『どっかで見たことある顔だ』って言うから紗夜に聴いたら、ピアノやってましたって言うから『ショパンコンクールで見た子かー!』ってなって、あたしは紗夜が大好きになりました」

「柚月はショパンフリークだから。私も昔ショパンをコンクールで弾いて勝ったら絡まれた」

 ──ピアノやってたけど下手だって言ってたのに……

「この4人や白金さんと比べたら下手です。小学生の頃に少しやっていたくらいですから……」

 

 それに、と含みがあったようにリサには聞こえていた。ヒナのことも知っているのだろうと、言外に圧をかけられたような。

 

「そういえば白金燐子ちゃんも同じバンドなんだっけ?」

 ──はい。

「先生もバンドやらせるの好きだよなー。……私たちは先生に勧められたわけじゃないけど。今井ちゃんは知ってる? 白金燐子ちゃんのピアノの先生、あたしら四人の担当教授なんだよ」

 ──そうなんですか? 

「あたしらは恩知らずだから帆南以外音楽やめたけど、白金ちゃんは続けるのかね」

 

 言いながら、柚月はビールをほぼ一息に飲み干した。雫がそれを咎めて水を飲ませている。

 

「ああそうそう、あの公園を盛り上げたのもあたし達なんだよ。元々日中は演奏可の公園だったし、時々弾いてる人はいたんだけど、辻ライブする文化を作ったのはあたし達」

 ──それって、今日みたいなライブを続けてってことですか? 

「そうだね。紗夜を無許可で大学に入れるわけにもいかんしなぁ、ってのもあったし、そもそも目的意識もなんにもないバンドだったからさ。誘われればどこでも駆け付けて盛り上げてやろう、って感じだったんだけど、そうそうお呼ばれもしないもんでね。暇な土日とかにああやってライブしまくってたらネットでちょっと有名になったっぽくて。……あれ雫、区役所だっけ」

「区役所だった気がする」

「まあ、公園の管理側から、イベントの打診を貰ったりもするようになってね。ほら、花咲川とかこの周辺ってめちゃくちゃ音楽に力入れてるでしょ? 音大の近くだし、あの公園にもそういうのが欲しかったらしくて」

 

 羨ましいと感じるのは、やはり音楽への向き合い方が真摯なもののように思えたからだ。

 リサにとって音楽への正しい姿勢というのは、学問でも労働でも責務でもなかった。

 

 シロツメクサが咲いた公園のブランコの周りで、友希那の父が爪弾くスローテンポのベースに合わせて、友希那と3人できらきら星を歌ったあの日のような。

 そんな、()()()。音楽という、言葉ならぬ言語を通した共鳴。同じ空間、同じ音楽を共有することで生まれる一体感。そんな音楽こそ、リサが最初に憧れたものだったはずだ。

 

「紗夜は今のバンド楽しーの? ……メンバーの前で聞くのもアレか」

「……楽しいよ。みんな上手いし、目標があるから練習熱心だし」

「目標って、なんかイベントでも出るの?」

 ──『FUTURE WORLD FES』目指してます。

「あー、なるほど。コンテストがあるんだっけ、あれ」

 

 柚月は饒舌だった。アルコールが入っているのもあるだろうが、元より話すのが好きな質に違いない。

 

「オルカは技術を高めるために何かやる、という感じじゃなかったから、新鮮で面白いわ」

「私たちはピアノの息抜きだったしね。最後の一年とか、私も帆南も頭おかしくなってたし」

「コンクールやりながら10曲作ったんでしょ? バカじゃん」

 

 10曲、というのは友希那が買った新しい方のアルバムの曲だった。紗夜に向けたギフトらしい、みたいな話は友希那と紗夜の会話から窺い知ることができたが、その正体についてはリサも知らない。

 

「あ、でも紗夜、コンクールとかコンテスト大っ嫌いじゃなかったっけ」

 

 柚月が唐突に爆弾を投げた。リサは予想外な方向から突き立てられた刃に、肩を跳ねさせる。

 

 コンテストが嫌い。

 それは今のRoseliaにとって致命傷と言っても良かった。

 何せリサ達が目指しているのは、日本で最もシビアだと言われているフェスへの出演。当然予選コンテストは厳格なものになるだろうと予想されている。やる気を欠いて受かるかどうかは、かなり怪しいところだ。

 

「嫌いでも、やる気はあるのよ」

 

 少し硬い表情で、紗夜がそう言った。

 

「ふーん、そっか。フェスは夏だよね。戻ってこれるかなぁ」

「柚月、心配しすぎでお節介の叔母さんみたいになってる自覚ある?」

「めちゃくちゃある。引っ込みつかなくなってどうしようかなーとも思ってる」

「……出るよ」

「はーい」

 

 しばらく話し込んでいる間に、もんじゃ焼きは食べ終えてしまっていた。ずっと放置していても焦げてしまう食べ物だから、必然的にそれなりのペースで食べることになる。

 店にいたのは結局1時間弱くらい。中途半端に酒を飲んだ柚月のテンションは高いままで、雫ともう一軒飲みに行くらしい。

 

「鍵、預けとく」

「そんなに長く飲むの?」

「金曜だし……いいでしょ」

「そう。潰れるようなら先に連絡しておいて」

「多分大丈夫」

 

 雫から鍵を受け取って、紗夜がリサの方へ歩み寄ってくる。

 相変わらず身長が高いしスタイルがいい。それに姿勢がいいから元の身長以上に背が高く見える。制服を着ていなかったら、多分大学生に見えていただろう。

 

「送ります」

 ──ひとりで帰れるよ? 

「……じゃあ、少し話しませんか」

 ──うん。あの鍵のことから訊いてもいい? 

 

 春になっても、夜は少し冷える。風は強くなかったが、それでもビルの隙間から吹き抜ける風は冷たかった。駅までの道。公園を逆走する。

 

「雫のところで暮らしているんです。……ああ勿論、定期的に帰ってはいますよ?」

 ──どのくらい? 

「……一年くらい」

 

 日菜の言う通り、リサの想像を遥かに超えて根深い問題なのかもしれない、とようやく気がついた。

 一年ということは、中学時代からだということ。中学生が一年以上も家出生活を続けていられることがどれほど異常なのか、それくらいはリサにだって察しがつく。

 日菜との不仲どころの話ではなくて、紗夜の家では最早家族関係がまともに成立していないのではないか、とリサに疑わせるには充分な材料だ。

 

「先に一応確認しておきますが、今井さんは私の妹……氷川日菜と交流がありますよね」

 ──うん。

「どこまで聞きましたか? 何となく、察しはつきますが」

 ──仲が悪いってことだけかな。

「正確には、仲が悪いわけではないんです。私の心が折れて、一方的に妹を嫌っているだけで」

 ──それは、さっき言ってたピアノの話? 

「……いえ、()()()()()()()()()

 

 ゾッとするほどの情念が篭っていた。

 横顔から覗いた瞳には、憎悪、悲哀、諦念。──後悔。

 

「私が公園で弾いているのを見たとき、少し苛立ったような顔をしましたよね。アレは、日菜のことを知っていたからですか?」

 ──……うん。

「やっぱり、知ってるんじゃないですか。……あの子にも友達なんているんですね」

 ──友達って言うほど仲良いかはわかんないけどね。

 

 保険のように綴った言葉に、紗夜は薄らと笑みを零した。

 あの子は興味がない相手に自分を教えたりしない、らしい。

 

「雫たちに、私は随分救われました。家族という軛から逃れて、好きな音楽をやって、お金に不自由もない生活を送ってきました」

 ──日菜は、1人に見えたよ。

「……そう、だから困るんです。私は日菜に関わりたくない。それでも、今の家の事情を知っているから、日菜がどんな環境に生きているのかも理解してしまっている」

 

 ホームで列車を待つ間、自販機で缶コーヒーを買った。微糖の甘ったるさが舌に残る。

 ホームには、スーツ姿のサラリーマンばかりが列車を待っている。

 

「今井さん、兄弟はいますか?」

 ──ううん、ひとりっ子。

「それだと、あまりそういう感覚は理解できないかもしれませんが……いくら嫌いでも、関わりたくなくても、姉妹というのは特別なんです。私はあの子の姉ですから、その責任は負わなければならない。あの子に、向き合わなければいけない」

 

 列車に乗り込む。香水や整髪剤と、車両の独特な匂いに包まれる。疲れ果てて眠っているサラリーマンの近くに立って、吊革を掴む。

 

 ──文通しない? 

「文通……手紙ですか」

 ──うん。ほらアタシ、あんまりたくさん言葉を紡げないからさ。

 ──手紙なら、アタシの思っていることとか感じたこととかも紗夜に伝えられるかなって。

 ──ヒナのこと、アタシにできることは少ないと思うけど、相談に乗ることくらいは出来ると思うし……

「なるほど。……それなら、今井さんの悩みも書いてください。それでお相子でしょう?」

 

 私もどうせなら湊さんに音楽を楽しんで欲しいですし、と紗夜は呟いた。

 リサの悩みくらいはあっさり見抜いていたらしい。

 相談に乗ると言ったのに、事も無げにそう返されて、リサは少し恥ずかしくなった。

 

「便箋を買いに行きましょうか。今井さんの最寄り駅に文房具屋はありましたっけ」

 ──あるけど、まだやってるかなぁ。

 

 

 

【内包性】

 

「説得……説得、かぁ……。僕には少し難しいかもしれません」

 

 そうですよね、と燐子はため息を吐いた。

 自宅の地下の防音室。先生のレッスンを受けるいつもの環境で、今日は燐子が相談を持ちかけた。内容は、母親との関係修復についてだ。

 

 Roseliaに入ると決意したあの日から、燐子と母の仲は冷え切ったままだった。燐子が口を開いても母は無視をするか言葉少なに返事をするだけで、日常会話というものが全くない。

 

「正直なところ、君のお母様が大人げないなと思います。これ以上は言いませんが」

 

 親という子どもにとって絶対的な存在を最大限に利用した威圧は、燐子の心に驚くほどの反骨精神をもたらした。今まで押さえつけられてきた分の反抗心なのか、それとも第二次性徴の名残なのか。

 

「ライブで見返す、というのは……」

「どちらかと言えば、コンクールで成果を示す方がいいんじゃないでしょうか。君のお母様には、ライブハウスなんかは受け入れ難い環境なのではないかと……」

「それも、そうですね……」

「今年末にでもひとつ、出てみますか?」

「はい、是非」

 

 選曲自由のコンクールで、邦ロックなんか弾いたら母はひっくり返るだろうな。

 そんな想像をしてしまって、燐子はくすりと笑みを零した。

 

「夏まではとりあえず、フェスに注力するのですよね?」

「そうしたいと思っています」

「それはそれで構わないと思います。ポップスやジャズなんかの独特なテンポの取り方にも慣れれば、他に応用できる部分は出てくるはずです」

 

 タブレットでコンクールのあたりをつけ始めた先生を後目に、ピアノに向き合う。Roseliaで燐子が弾いているキーボードとはまるで重さの違う、グランドピアノの鍵盤にそっと指を置いて、弾き始めたのは『メフィスト・ワルツ第1番』。紗夜から「印象的だった」と言われたのがやけに心に残っていた。

 メフィストフェレス──悪魔が奏でるヴァイオリンの乱暴な響きを表した冒頭から始まり、男女の荒々しい恋と、村の祭りの様子を奏でたワルツだ。

 冒頭の強烈な掴みの強さと、その後の繊細な旋律に悪魔の気まぐれさが現れているような気がして、特に面白いと思う曲のひとつだった。

 

「……しかしこの楽譜、僕が貰ってもいいんですかね」

「それで私の糧になるのなら構わないと湊さんが……」

 

 燐子が先生に渡していたのは、Roseliaのオリジナル曲の楽譜だ。

 しばらくコンクールには出ないと決めていたから、燐子の当面のレッスンは先生が持ち込んだ課題曲を弾きこなすこと。ただそれだけでは味気ないのと、どうせなら先生にもRoseliaでの活動のアドバイスを貰いたいということで、友希那に許可を得たのだった。

 

「まあ、意見を出すことくらいはできると思いますが」

 

 燐子が送ったRoseliaの演奏動画を眺めながら、先生は渋い顔をした。

 

「まだ合わせる意識が薄いですね。こればかりは意識して慣れるしかありません」

 

 ソリストは、舞台の全てを独りで演出する。制限時間さえ超過しなければどれほど早く弾いたって、遅く引いたって問題はないし、間のとり方も自分の思うがままだ。そもそも誰かに合わせるという経験が少ない。

 燐子にはオーケストラとの合奏経験もあったが、オーケストラには指揮者がいたし、そもそもピアノのコンサートの企画だったから、向こうが燐子に合わせる形を取ってくれていた。

 

 5人が対等に音を合わせるという体験は、今までの燐子にはなかったものだった。

 

 リズムはあこのドラムに委ねている。けれど、演奏の指揮を執るのはボーカルの友希那で、しばしばパートが被るのはギターの紗夜だ。

 細かいニュアンスや癖を理解し合うのにはまだ時間が足りていなくて、今のRoseliaはスタンドプレーによるチームワーク、といった感じの演奏になっている。

 1の実力を持った奏者が5人集まっても5になっていないどころか、4.5がいいところだろう。なまじ元の実力がそれなりに担保されているからいい演奏ができている部分もあるが、先生に言わせれば「君たちならもっとやれる」らしい。

 

「ドラムの子がいちばん経験が浅いのでしたっけ」

「歴は1年くらいだと言ってました。バンドを組むのも初めてだって」

「その割に、リズム感がいいですよね。……うん、正確だ」

「そうですよね……あこちゃんは自信が無いって言うんですけど、全然ブレませんし……音も揃ってると思うんです」

「……ほかのメンバーと比較してしまうとそうなるんでしょうね。結成したてのバンドなんてそんなものです。目標があって、互いへのリスペクトがあればそうそう問題は起こりません」

 

 いいですか、と先生がピアノを指さしたので、位置を代わる。

 軽くハンカチで鍵盤を撫でるのが、先生のルーティンだった。別に手汗を拭いているのではなく、間を取るためと、あとは純粋にピアノに敬意を払っているから、らしい。この癖は燐子にも受け継がれているし、帆南や雫なんかも倣って鍵盤を拭くようになっているのだった。

 

 大袈裟なクレッシェンドのメフィスト・ワルツ。それから三拍子でRoseliaの『BLACK SHOUT』へ。拍子の違いだけが生み出すのではない、世界観の重厚さがそこにはあった。

 

 表現力とは何か。そこには奏者の立ち居振る舞いのような視覚的なものも含まれるが、音楽的に言えば「楽曲への理解」と「テクニック」であると燐子は考えていた。

 

 例えば、歌。声の質というのは、ようは楽器の差に当たる。音程をきっちりと合わせる能力は、ピアニストが音符の通りに鍵盤を叩く能力。だが、それだけで歌が上手い、とはならない。音程を合わせるだけでは調教さえしていない機械音声以下だ。棒読みで歌詞を垂れ流すだけでは、聞くに堪えない。

 歌が上手いと言われる人達には、技術がある。ブレない音程もそうだが、抑揚、細かいビブラート、しゃっくりやこぶし、裏声と地声の使い分け、或いはミックスボイス。それらを使い分け、バラードならば静謐に切なく、ロックなら情熱的で衝動的に歌う。

 

 ピアノも同じだった。クレッシェンド、ピアノ、グリッサンド、アルペジオ、トリル、トレモロ。それらは譜面に記されている場合もあるし、自分の中にある音を表現するために自分で付け加えることもある。クラシック楽曲であれば、大抵の場合は楽譜の通りに弾きこなせるようになるだけでも一苦労で、ミスなく弾けるようになるだけでも重大な労力を要する。そこにはあまり「創作」の余地はなくて、「程度」の選択があるだけだ。偉大なる作曲家が作り上げ、偉大なる演奏家たちが綿々と受け継いできた解釈で、譜面は埋め尽くされている。

 

 だが、Roseliaの曲はそうではない。友希那が作り、編曲して、その上で燐子にも解釈を委ねられている。メタルにおいてピアノに求められる役割は? ゴシックロックの定義は? 『BLACK SHOUT』に込められた意味は? そしてそれらを表現するのに最も適したテクニックは? そういう部分から煮詰めていく必要がある。

 

「……真似しないように」

「今の解釈、ですか?」

「ええ。メフィストフェレスの扇動、盲目的に若者を戦場へ駆り立てる悪魔の演説をイメージしました。僕がこうはなりたくないと思う姿のひとつです」

「もう、そんな悲観的なことを言わなくても……」

「人を教える立場の人間というのは、何よりも自分を批判的に見なければならないのですよ。まあ、さっきの演奏はただの思いつきなのですが」

 

 今度は『仔犬のワルツ』。防音室を鮮やかな色彩で満たす。

 

「課題曲のときと同じように、相談には乗ります。それと、一人の大人としてできる限り君の助けにもなりたいと思っています。ですから、気軽に相談してくださいね」

「……奥さんも、そうやって口説いたんですか?」

「あはは、帆南くんに言われましたか?」

「いえ、紗夜さんに」

「……どのみち彼女が発端ですね。釘を刺しておきます」

 

 Roseliaらしさとは。曲に込められた想いの中身は。そんな抽象的なものに思いを馳せながら、燐子はくすりと笑った。

 それと、未だほとんど話したことがない先輩にも申し訳なく思う。(なす)り付けてごめんなさい。

 

 


 

【踏破!】

 

 ──下手くそだ。

 ──ほら、手首が上手く使えていないから音が均一じゃない。

 

 合計で6時間、通しで2時間も叩きっぱなしで、手が震えていた。あこはスティックを放り投げて、デスクチェアに座り込んだ。手をぶらりと垂らすと、親指がガクガクと痙攣する。

 天井を見上げて、深く息を吐く。衣服に染み込んだ汗の冷たさが、火照った身体を冷やしてくれる。すぐに不快になるに違いないが。

 

 明日のライブに向けて、最後の追い込みのつもりだった。あとはシャワーを浴びて、夕食をとって寝るだけ。本当なら徹夜で練習したいくらいの気持ちだったが、近所迷惑だし、非効率的なことはあこも弁えている。

 

「あこー! 風呂上がったぞー!」

「言われなくても聞こえてる!」

 

 Roseliaの初ライブだから気負っている、というのもある。Roseliaで最も下手なのはあこだ。経験が少ないのもそう。だからといってそれを恥だとは思わないし、むしろ嬉しく思う。

 焦りがないとは言わない。燐子はこの2週間で驚くほど多彩で奥行きのある表現をするようになったし、紗夜はもとより経験が豊富で、友希那に関しては言うまでもない。

 リズム隊として曲の土台を支えるリサも、あこよりずっと基礎技術に優れていて、いくらあこには伸び代があると言っても立ち止まればすぐさま置いていかれてしまうだろう。

 

 だから、気負っている。

 そしてあこは、それが健全なものであると自覚していた。

 

 健全じゃないのは、もうひとつの方。

 

「明日のライブ、おねーちゃんには、負けないから」

「おう、受けて立つよ。アタシも楽しみにしてたし」

 

 ライバル心と言えば聞こえがいいかもしれないが、一方的な反骨心だった。負けたくない。なぜ負けたくないのかも分からないまま、ただこれが音楽に真摯に向き合った結果の感情ではないことだけを理解していた。

 

 自分のものでは無いような感情に振り回されるのがとにかく気に入らなくて、不快感に囚われ続けていた。姉が気に入らないと思う感情も、あこの音楽を捻じ曲げているようにさえ感じる。

 

 リサに相談したときには、深く悩みすぎるべきではないと言われた。そしてそれは実際、あこも正しいと思う。

 心持ちひとつでどうにかなるものではなく、人間の設計段階で組み込まれた感情の揺らぎなのだから、大人しく受け入れて割り切るべきだ。

 

 シャワーを浴びて、汗を流す。浴槽に浸かる気にもならなくて、今日はシャワーだけで済ませた。今日はもう叩かないという意志の下パジャマに着替えると、夕食の準備ができている。

 

「あこがほんとに湊先輩のバンドに入るとは思わなかったな」

「ボーカルの差で勝ったなんて言わないよ」

「アタシは蘭が湊先輩に劣ると思ってない。そっちこそ、結成したばかりで連携不足とか言うなよ」

「まさか!」

「こら、二人とも喧嘩しないの」

 

 カレーライスをスプーンで掬って、熱さに襲われながら飲み込む。

 口でいくら言ったってあとから虚しくなるだけだ。語るならドラムスとスティックで語るべきだし、そもそも明確な勝敗基準などないのだから、ライブが終わってもなおなんの進展もないのかもしれない。

 ようは、ただの八つ当たりだった。

 

「これでも楽しみにしてるんだ、あこの演奏を聴けるの」

「その余裕も崩してやるから」

「いやぁ、アタシより上手くてもそれはそれで喜んじゃう気がするな」

「そしたら、『負け惜しみ』だって言ってやる」

「やけに言うなぁ。虎の威を借る狐にならなきゃいいけど」

 

 

 

【ガールズ・バンド・パーティ】

 

「紗夜さん的には、Afterglowってどうでした?」

「一体感があって良いバンドだと思います。技術面で優れているのもそうですが、全員が同じ方向を向いているのが良い。バンドとして、理想的な在り方の一つではないでしょうか」

「……でもRoseliaの方が凄いです。おねーちゃんにも負けません」

「はい。私たちの方がすごいです。妹は姉を超えていくものですから」

 

 楽屋で紗夜とあこがそんな会話をしているのを聴きながら、友希那は本番に向けて思考を整理していた。今更、ステージに立つこと自体に気負ったりはしない。ほんの僅かな緊張は身を引きしめる程度で、喉が開かないということもない。

 

 ライブCiRCLEで行われるライブ、ガールズバンドパーティの本番。Roseliaはトリを任された。ハコの看板の一つでもあるAfterglowでなくていいのかと尋ねたが、まりなは結局順番を変えなかった。

 友希那としては、別に順番はどうでもいいというのが本音のところだ。しかしトリが見せ場であることは事実だし、そこに人気のあるバンドを持ってくるべきだという理屈くらいは理解している。だと言うのに、まりなは初ライブのRoseliaを最後に持ってきた。

 

 友希那への期待だということは明白だ。まりなが引っ張ってきたからには紗夜のこともよく知っているはずだし、音楽関係者なら燐子のことを知っていてもおかしくない。あこやリサのことを知らずとも、友希那がまりなの立場だったら──いや、友希那であればAfterglowをトリに持ってくるような気がする。

 

「Roseliaさん、待機お願いします」

「はい」

 ──緊張するぅ! 

「リサなら大丈夫よ」

 

 舞台袖は暗い。リサは電子ボードを楽屋に置いてきたらしい。どうせ見えないし、演奏中には書けない。

 ステージから漏れてくる光と音が、どこか遠かった。

 

 そっと、手に触れるものがあった。肩が触れ合う、リサの温度。ベースを弾くために少しだけ固くなったリサの指先に触れて、友希那は何も言わなかった。

 心はフラットに。漣ひとつ立たず、凪いでいる。

 

 独りで歌うとき、常に感じていたのは冷たい義務感だった。

 自分の歌声に対する責任感。観客を沸かせなければならないという使命感。プレッシャー、と言い換えてもいい。

 今日感じているのは、温かさ。根拠のある演奏への自信と仲間への信頼だ。

 

 あこが刻むリズムが、Roseliaの演奏を魅せるのに最適なテンポであるという信頼。

 燐子のピアノが、友希那が曲に込めた想いを最大限に汲み取って、引き出してくれるという信頼。

 紗夜のギターが、他の誰よりも観客の心を掴んで引き寄せてくれるという信頼。

 リサが、友希那と同じ速度で隣を歩いてくれるという信頼。

 

 今まで、嘘をついてきたのだと気が付いていた。自分を誤魔化して、自分を隠して歌ってきた。友希那が観客に提供してきたのは、孤高の歌姫ユキナ。そんなものはまやかしに過ぎない。

 本当の友希那は、茨のように冷徹でも孤高でもない。

 なんと未熟を晒してきたのだろう。自分の心を騙して、真に観客を沸かせられるはずもないのに。

 

「10秒後、出てください! ──行ってらっしゃい」

「……ええ」

 

 背後に目をやった。4人、それぞれと目が合う。イベントで配られたシャツに、青薔薇のアクセサリだけを着けて、ひどくラフな格好。あまり格好がつかないなと思っていると、紗夜が肩を竦めた。それに燐子が苦笑いして、あこが気合いを顕に拳を握りしめる。リサの手を強く握り返すと、彼女の震えが止まった。

 

 光の方へ。

 暗転したステージでセッティングを済ませて、ステージの中央に立つ。スタンドマイクの高さを調節して、まだ暗いフロアを眺めた。あこに合図を送る。スティックを叩いてのカウント。

 

 ピアノとベースから始まる、『BLACK SHOUT』のイントロ。暗転したままの暗いステージで、細やかに紡ぐ言の葉を伴奏に乗せる。

 バックコーラスが多いのは、いつかリサと歌えたら、と思いながら書いた曲だったからだ。結局、リサの前にはマイクが立っていない。

 

 ──明転。照らし出された観客席の、観客一人一人の表情が見える。

 ギターとドラムが演奏に割り込んで、厳かな雰囲気が一転、観客にロックンロールを叩き付ける。

 紗夜が愉快そうに笑ったのが見えた。それから、演出が成功して楽しそうにしているリサも。

 

 スポットライトの熱が肩に降り注ぐ。この熱にこそあてられるのだ、と父が言っていたことを思い出した。今なら友希那にもその感覚がわかる。

 歌詞に合わせて足を踏み鳴らす。指先が心臓を撫で、手のひらに決意を込める。

 あまり、こういうパフォーマンスをしたことがなかった。リサに言われて取り入れたものだが、存外しっくりくる。

 

『……初めまして、Roseliaです。今お送りした曲は「BLACK SHOUT」といいます。結成したばかりのこのバンドの、正真正銘、初披露曲です』

 

『BLACK SHOUT』が終わって余韻が抜けた頃、友希那はマイクに語りかけた。今の一曲で、観客の心を掴んだという自負があった。だから、長々と語る必要は無い。言葉は簡潔に、あとは演奏で語れば良い。

 

『私は以前からこのハコで活動させて貰っていますから、初めましてでは無い顔もちらほら見えますね』

 

 バンドメンバーの紹介を進めながら、今まではこんなことさえ蔑ろにしてきたな、と気が付く。友希那一人だったのもあるが、名前を名乗るのと曲名を告げる程度で、あとはひたすらに歌うだけだった。

 友希那にとって最初の観客は、「敵」だったというのもある。批判的な目線。小娘だと見縊る視線。ボーカル1人だけでライブに参加する友希那への嘲り。そんなものに囲まれて歌い続けてきた友希那には、観客に対等に語り掛けるような余裕がなかった。

 

『紹介もこんなところで、二曲目に。聞いてください、「LOUDER」』

 

 強烈に歪んだギターリフに思考が弾ける。ブレのないトーンと鋭いカッティングが波涛となってフロアに襲いかかった。そしてそれに競りかけるように暴れ狂うドラム。ペダルを踏みながら、紗夜があこの方へ半身になって振り返った。挑発するような大袈裟なアップ・ピッキング。リズムを見出せないあこがもどかしげにスティックをしならせる。

 

『LOUDER』は、父が残したメロディーに友希那が肉付けした曲だ。父が完成させていたら、きっと全く違う歌詞になっていたのだろう。リサに綴ったこの感情は、10年近く経った今でも微塵も色褪せていない。ひたすらに挫折して、罵倒され、否定され、心を折られそうになっても、これだけは決して揺るがなかった。むしろ、鉄を叩いて鍛えるように友希那の芯の部分に刻まれ、より強固になったとさえいえる。

 

 オーディエンスにも熱がこもっていく。会場のボルテージが上がって、今にもはち切れそうになる。

 観客の一人一人と目が合ったように錯覚した。私たちに向けられる数十、数百対の瞳の全てと視線が交差したようにさえ思えた。

 

 感情の密度が増していく。心臓がはち切れそうだった。暴れ回る感情をなんとか歌詞に乗せて吐き出す。

 2番が終わって、ラスサビへ繋がるCメロからの一瞬の静寂。振り切れそうな熱を冷ます。観客に、盲目的なまま弾けることを許さない。この数瞬で、観客は我に返る。自分が何を聞いて、何を感じているのか、今一度考え直す。

 

 そして、アカペラのまま最後のサビへ。

 ──LOUDER(もっと声を!)! 

 冷静になれたのも束の間、自覚的になった観客を、今度こそ熱狂の渦へと連れ去る。流されるままではなく、観客自ら流れに身を投じて。

 

 ボルテージは最高潮へ、ハコ全体が揺れるような熱狂の中、声を張り上げた。観客一人一人の心に光を灯してみせる。

 様々な思いが友希那の心を巡る。Roseliaのこと。リサのこと。父のこと。観客のこと。友希那自身のこと。紗夜のこと。コンテストのこと。曲のこと。全部連れてゆく。全てが友希那を構成するための必須の感情で、歌に込めるべき本物の感情だった。

 

 ああ、残響。

 早くまた歌いたい。

 

 ゆっくりと息を吐く。心臓がうるさい。

 早く次へ、心が急かすのを押さえつける。

 

 父が見ていた景色は、リサが望んだ未来は、この延長線上にあるのだろうか。まだ一歩目に過ぎなくても、確かに道を選んだ感覚が友希那には残っていた。

 

 

【FROM】

 

 ライブのあと、友希那達は互いに抱きしめあった。あことリサが周りを巻き込んだ形だ。

 ライブそのものは、大成功だったと言っていい。友希那自身も得られたものは多かったし、バンド全体の成長にも繋がった。観客にもRoseliaは好評だったらしく、アンケートや感想ノートでの言及はかなり多かったそうだ。印刷されたそれを見せてもらって、特にあことリサには大きなモチベーションになったようだった。

 

 その中で良くも悪くも、いつも通りに見えたのは紗夜だった。

 

「湊さんは、楽しめましたか?」

 

 ライブの後、徐ろに友希那にそう尋ねた紗夜は、友希那が是と答えると、安堵したように息を吐いた。紗夜と出会った日のことを思い出す。あの日、友希那は「音楽が好き」だと言えなかった。今も尚、誰にも憚らずそう言うことはできない、と思う。

 

「その、決して迷惑がっているわけじゃないのだけど……どうして貴方は私のことをそんなに気にしてくれるのかしら」

「……強いて言うなら、なんとなくです」

 

 友希那の問いに、紗夜はそう返した。何となく。それが気に入らなくて、友希那はなおも問いかける。

 

「Roseliaに入ったのも、なんとなく?」

「そうです。あなたがしょぼくれた顔で歌うから」

 

 本当ですよ、と念を押すように言ってから、紗夜はカフェテラスの外れのベンチに腰掛けた。少し冷たい夜風が頭上を吹き抜ける。

 

「──プロになれる道もあったと聞いたのだけど」

「まさか。メジャーバンドのサポートに入ったとて、プロとは言わないでしょう。スタジオミュージシャンを目指すのは、少し考えましたが」

 

 理由のない好意が恐ろしいのは、自分に自信がないから。

 歌にだけは、自負がある。けれど、それが絶対的に価値のあるものだとは思えない。歌で口説くなんて話もしたが、実の所、自信があったわけでもなかった。

 

「他人の善意って、信じられますか」

「あまり」

「ですよね。私も信じていませんでした。ですが、私は血の繋がりどころか所属を同じくするわけでもない他人に、何度も救われ続けてここまで生きてきました。それをまあ、今度は私が他人に還元すべきだという使命感に駆られるのも、変な話ではないと思います」

 

 私に誰かを救えるとも思いませんが、と自嘲げに笑って、紗夜は目を瞑った。否定も肯定もせずに、友希那はその顔を眺めて、紗夜の言葉を飲み干した。

 親切心のリレー、のような解釈で良いのだろうか。救われるべき対象として見られていることには困惑しているところもあるが、勝手に背負い込んで潰れそうになっている現状を鑑みれば妥当な評価だとも言える。

 

「それに、あなた達と弾くうちに帆南の『贈り物』の解釈にも答えが出せました。含みを持たせてきた割には浅い内容だったので腹が立ちましたが」

「……聞いてもいいかしら」

「『自我を持て』、だそうです。先日、アルバムの曲を全部弾き直しました。全部ギターのために作った曲だから、あのアルバムはギターの音量を2倍にするくらいでいい、らしいですよ。ギターの主張って、そういうことでもないと思うのですけれど」

 

 言いながら、紗夜は楽しげに笑う。

 

「ピアノをやっていたときは、楽譜通りに弾くことばかりに関心がありました。前のバンドのときは、私が殊更に大きく主張する意義を感じていませんでした。Roseliaで楽器隊のメインを張るようになってようやく、自分の解釈が演奏を左右する感覚が分かるようになったんです」

 

 ポジションの問題もあるが、今のRoseliaで楽器隊のリードをしているのは紗夜だった。単純に経験値が大きいのと、メタルロック要素を押し出したRoseliaの楽曲ではギターの演出が重要視されるからだ。

 もちろん、全員で最高のパフォーマンスを作り上げようとする意識は強く、各々が意見をぶつけ合ってはいるのだが、方向性を決めたり意見の調整をしたりする役割を紗夜が担っている。

 

「私がピアノで賞を取れなかった理由も分かります。私が弾いていたのは楽譜通りの演奏で、妹が弾いていたのは楽譜通りの演奏(私の演奏)の上に積み上げた解釈でした。ピアノからも妹からも逃げた私は、そんなことにも気づけていなかった。前提として、才能の差というものも確かにあるのですけれどね」

 

 あれ、と紗夜が指さした先には、1枚のフライヤーが貼り付けてあった。アイドルバンド『Pastel*Palettes』。目に止まったのは、紗夜に良く似た、ギターを持った少女。

 

「帆南か今井さんから聞いたかも知れませんが、私は妹が嫌いなんです。あの子を見ていると、常に自分の居場所を奪われるのではないかという恐怖に襲われる。それに自分が如何に矮小で取るに足らない人間かを思い知らされるようで、目を背けたくなる。妹に向ける感情としては、異常でしょう?」

 

 友希那には弟妹も、誰かに背中を追われる経験もないから、紗夜の言葉に共感することはできない。それでも、父の音楽が否定されて父がベースとマイクを手放したときに感じたような、自分が信じていたものを足場から崩されるような絶望だけは頷くことができる。

 

「でも、そんな感情も最近はなりを潜めていました。私はピアノをやめていたし、好き勝手にギターを弾いて満足していた。妹がギターを始めたいと言っても、特に気にもしなかったんです」

 

 空を見上げれば、薄曇りだった。星の光をうっすらと雲が遮る。風は強く感じられなかったが、上空では雲がそれなりの速度で動いていた。ちょうど、満月にかかっている。

 

「──今日、妹がフロアにいました」

 

 感情を排した言葉が、地面に染み込んでいった。

 

「私は恐怖を覚えました。Roseliaに入って、自分の技術を伸ばすことを再び意識し始めたからなのか、それとも、かつてと同じように『コンテスト』という環境に身を置くことになったからなのか。それと同時に、妹が酷く哀れに見えて堪りませんでした。妹は、孤独でした」

「……紗夜はそれが、才能のせいだと思うのかしら」

「ええ。行き過ぎた才能は、人間を歪めるのに充分な力を持つらしいのです。個人レッスンを受けてきたわけでもない、楽器メーカーのピアノ教室に通っていただけの少女が、大した練習もせずに国内有数のピアノコンクールで結果を出し続けるのは、傍から見れば異常なことです。高校に入学したばかりで受験生と同じ模試を受けて、満点を取るのも。ギターを始めて2週間でスタジオミュージシャンのオーディションに受かるのも。才能は本人も、周囲の人間も狂わせる。多くの人間は嵐に巻き込まれることを恐れて、遠巻きに眺めるだけになるでしょう」

 

 確かに、言葉に出してみれば尋常な成果ではない。手に入れた成績も、そこに至るまでの積み重ねの少なさも。友希那は氷川日菜という人間のことを大して知り得ないが、学校でどのように噂されているのかくらいは知っている。

 

「私がピアノを辞めたのも、コンクールを忌避しているのも、演奏に自信が無いのも……母に愛されないのも。私は日菜のせいだと思いたいらしいのです。才能があるあの子のことを恨んでいるし妬んでいる」

 

 幻滅しましたか? と笑って、紗夜も夜空を見上げた。

 

「コンテストに通ったら、日菜と話そう。そう思っていたのですが、今井さんには今日話すべきだと言われてしまいました」

「そうね。私もそう思うわ。早い方がいい」

「……何を話せばいいのか分かりません。やっぱり、あの子のことが嫌いなんです。何を言っても、傷付けてしまいそうで」

「そればかりは、私が迂闊にアドバイスしていいものではない気がするのだけど……一度に本音を打ち明ける必要は無いんじゃないかしら」

「そういうものですか」

 

 本気で分からない、というように曖昧な表情で思考を続けているだろう紗夜に、なおも言葉を続ける。助言と言えるほどまともで理論づけられた言葉ではないが、一助にでもなれば良い。

 

「日菜はギターを始めたんでしょう。まだ、貴方に近付きたいと思っているのよ。だから貴方が無理に歩み寄ろうとせずとも、拒絶しないで、立ち止まってあげれば関係は変わってくるんじゃないかしら」

 

 言い終えると、紗夜は何がおかしいのか、くつくつと堪えかねるように笑った。

 

「ごめんなさい。湊さんを笑ったわけじゃないんです。ただ、あなたを見かねてRoseliaに加入したのに、私が逆に相談に乗ってもらっていると思うと、少し滑稽で……」

「はぁ。折角真面目に考えていたのに」

「いえ、お陰で決心がつきました。ありがとうございます」

 

 他人に自分を打ち明けられるのは、精神に余裕があるからだと思う。友希那の経験上、精神が弱っているときは、己の弱みを他人に見せることなんかできない。

 紗夜が妹のことで思い悩んでいるのは事実だと思うが、それはそれとして紗夜はもう、強固に自立した精神的支柱を持っているのだろう。

 

 紗夜自身が「救われた」と形容するように。

 

「湊さんも、何かないんですか」

「相談事?」

「そう」

「……助言を求めるような悩みは無いわ。コンテストに出て、フェスで演奏さえできれば──」

 

 言いかけて、友希那は言葉に詰まった。

 本当に? 

 

「これはお相子だと思うから告白しますが、湊さんのことも少しだけ聞いているんです」

「……リサから?」

「ええ。最近、文通なんてものをしていまして」

「そう。……なら、分かるでしょう。本当に些細な、自己満足の復讐なのよ」

 

 フェスでRoseliaの音楽が通用すればそれで友希那の思う復讐が果たされるのか、といえばそんなことはない。だが、父が大切に歌い継いできた音楽が、フェスでも評価されるものだったと示すことは出来る。父の後悔の一つくらいは、あのとき自分を貫いていればどうなっていたのか、なんて思いくらいは拾ってあげたい。

 

 植え込みから薄灰色の蛾が飛び上がって、街灯にぶつかった。フラフラと灯りに釣られて飛び続ける姿が、どうにも哀れだった。あの蛾は本能を振り切って生き延びられるのだろうか。それとも朝までに力尽きてしまうのか。

 

「誰がどう言おうとも、私は湊さんに付き合うつもりでいますよ。だって、腹が立つじゃないですか。他人に上から目線で音楽性がどうのこうのと指図されるなんて、話に聞くだけでムカつきます」

 

 これみよがしに憤るでもなく、まるで友人の酷い別れ話を聞いたようなテンションでそんなことを言うものだから、力が抜けた。

 紗夜がわざわざ妹の話をした意図も、なんとなく分かる。悩んでいることも事実なのだろうが、そこに友希那の口を軽くさせる意図が含まれていることは間違いなかった。

 

 礼を言おうとして口を開いた瞬間、膝の上に置いていたスマホが震えた。

 

「スマホ、鳴ってますよ」

「燐子からね。出ていいかしら」

「勿論。むしろ、急用じゃないんですか」

 

 バイブレーションに設定していたスマホに表示される名前は、白金燐子。まだライブハウスの中にいるはずだが、と思って電話に出ると、焦ったような声が聞こえてくる。

 

『湊さん、その、あこちゃんが喧嘩しちゃって……』

「誰と?」

『Afterglowさんと……』

「お姉さんとではなくて?」

『そうなんですけど、ちょっと私では仲裁できそうにないんです』

 

 Afterglowの5人と、ついでにあこは幼馴染だと聞いている。喧嘩と言っても軽い口喧嘩なのだろうとわかってはいたが、騒ぎが大きくなってまりなに迷惑をかけるのも良くないだろう。すぐに戻るとだけ返事をして、ベンチから立ち上がった。

 

 ライブハウスに戻れば、すぐに喧騒が聞こえてきた。険悪な空気ではなく、友希那の予想通り、姉妹喧嘩が勃発しているだけらしい。

 

「……締まりませんね」

 

 姉に噛み付いているあこと、それを囃し立てるAfterglowの面々を見て、友希那も全く同じことを思ったのだった。

 

 

 

【柔風小凪】

 

 紗夜に割かしこっぴどく怒られて、燐子がオロオロする様子に割としっかり反省したあこは、それでもなお充足感に満ち満ちていた。

 大成功だった──紗夜曰く80点──のライブで乱れることなく叩き続けられたことは確かにあこの自信になった。

 

 コンテストの事前審査は問題なくクリアし、本番の前日を迎えた今日、基礎トレーニングとスタジオ練習以外の自主練習を禁止されたあこは、意味もなく街に繰り出していた。

 

「わ、紫に光るスティックだって。ライブで叩いたら目立つかな」

「怒られると思うけど……氷川さんに」

「光で演出するっていうのは悪くないと思うんだけどなー。リサ姉に聞いてみよ」

 

 ダメ元で燐子を誘ってはみたものの、燐子はあこの外出の提案に食いついた。燐子も手持ち無沙汰で退屈していたらしい。

 

「あ、でも脆そう。いいと思ったんだけどな。りんりんの鍵盤とかも光らせてさ」

「ちょっと嫌、かな。目がチカチカしそう」

 

 アウトレットで服を見て回ったものの、結局何も買えないままに退散して、昼食前にふらりと入り込んだのが楽器店だった。アウトレットと言えど、1000円や2000円では済まない額の衣服が立ち並ぶ店ばかりだ。衣服を見て回ること自体は楽しかったが、自分の小遣いが軽く吹き飛ぶ額の値札が並んでいるのを見て気後れしてしまった。

 

 以前ゲームのチャットで縫製や服飾デザインに興味があると言っていた燐子は、服の名前やデザインに関する知識を様々披露してくれたが、布切れ1枚にも奥深さがある、以上のことを理解することができなかった。

 生地の材質や織り方で着心地がまるで変わってくる、というのは分かるのだが、具体的な例を挙げられてもあまりピンとこないのはあこが今まで服の材質について深く考えたことがなかったからだろう。

 

 Roseliaの衣装についての話もした。

 燐子が型紙を作ったり原案のスケッチを書いたりできるから、一からオーダーメイドで作ってみたいだとか、本当は自作したいけれどピアノの都合上指を痛める可能性のあるミシンを触らせて貰えないだとか、Roselia全員コーディネートさせて欲しいだとか。

 

 あこの見立てでは、私服が一番お洒落なのはリサだった。本人もファッションが好きだと公言しているし、ダンス部でアンテナの高い知り合いに囲まれてよく議論しているから、流行りにも詳しい。

 燐子はセンスがいいのは間違いないが、自分が着飾ることにはあまり興味がないらしかった。上品で落ち着いた印象を持たせる装いをしていることが多い。友希那もそれに近いらしく、無頓着のあまりリサが服を選ぶことも多いと聞いた。

 一番分からないのは紗夜だ。聞けば、私服はほとんど借り物なのだという。物臭な大学生の手持ちの服装の中でも、多少身体のサイズが違っても困らないパーカーやオーバーサイズのシャツ、ワイドパンツを履き回している。ステージ衣装の話が出たときに、そんなことを言っていた紗夜に燐子が何か言いたげにしていたのが印象的だった。

 勿体ない、とかそんなところだろうか。あことしては似合っているからいいんじゃないかと思う。多分、元の顔とスタイルが良いから。

 

 そんな話をしながら流れ着いた楽器店で、最初に目に付いたのが紫色に発光するスティックだった。半透明のボディにLEDが埋め込まれているらしく、電池式だ。

 すぐに壊れそうだし、何より音が弱そうだった。暗転したステージでスティック回しを披露したら映えそうだなとは思ったが、残念。投げ売りのカゴに戻す。

 

「あこちゃんは、スティックにグリップテープとか巻かないんだね。あと、グリップを削ったりとか……」

「カスタマイズもかっこいいんだけどね。テープのあるなしでかなり感覚も変わるし、本番だと自分のじゃないスティックで叩くこともあるから、フラットな状態で一番ポテンシャルを発揮できるようにしたいんだ」

「そういうところ、凄く真面目だよね」

 

 ドラムのスティックがすっぽ抜けるという事故は、しばしばある。家での練習では叩きすぎて握力が無くなった手のひらからよく射出されているし、ライブでもいつかやらかさないかとヒヤヒヤしていた。

 スティック回しを失敗して落とすのはどうしようもないが、普通に叩いていてスティックが汗で滑らないようにするための工夫として、グリップテープを巻くというのがあった。ラケットスポーツなんかで使われているものに近いそれは、汗も吸ってくれるしよく手に馴染む。

 ただ、それに慣れ切ってしまうと良くないような気がして、あこは今のところ買ったままのスティックを使っていた。

 

 パーカッションのコーナーには特にめぼしいものはなくて、そのまま電子ピアノの方へと歩みを進める。電子ピアノくらいは家電量販店なんかでも見かけることがあるが、お高いものだと7桁を超えたりするから侮れない。

 

「りんりんの家にはグランドピアノがあるんだよね」

「うん。地下の防音室に楽器があるんだ。電子ピアノも1台あるよ」

「いいなー、防音室。あこも家で好き勝手ドラム叩きたい」

「ドラムは難しいよね……どうしても音がおっきいし」

 

 あこも巴も、家では電子ドラムを使ったりハードクッションを叩いたりしてリズムキープの練習をしている。電子ドラムでさえも好き勝手に叩いていると家族に騒音被害をもたらしかねない程だ。

 

「紗夜さん達の公園ライブ、あこも参加しようかな」

 

 外なら気兼ねなく叩ける。スネアとタムとシンバルだけ持っていって、バスドラムはスーツケースを代替に。各々が好き勝手に叩いて、知らない人もそれに参加して。どれだけ楽しいだろう。

 頻繁に動画サイトに上げられている紗夜達の動画を見る度に、あこは心底羨ましくなっているのだった。

 

 それに、ズルい、とか寂しい、とかいう感情もある。あこにとって今いちばん大切な音楽的な繋がりはRoseliaだ。ボーカルなら友希那、ギターなら紗夜、ベースならリサ、ピアノなら燐子。そしてそれぞれにとっても、ドラムならあこがいい、と思ってもらいたい。

 

 ライブの動画によく登場するドラム──雫は、紗夜に無条件で信頼されているように見えて羨ましい。

 残念ながらあこはまだ雫よりも下手だと感じているし、特にアドリブだとか即興性という部分においては大きな差があるように思える。だから大っぴらに主張はしないけれど──ムカつく。嫉妬みたいなものだ。

 

 紗夜が所属するバンドはRoseliaで、Roseliaのドラムはあこだ。

 

「キーボードは気軽に持ち歩けないから、私は難しいかも」

「えー、りんりんも行こうよ」

「……折角なら、みんなで弾きたいな」

「Roseliaゲリラライブ! ってこと?」

 

 それも楽しそうだ、と思った。Roseliaの本分ではないような気もするけれど。

 

 店の奥の壁面には、一面にギターやベースが立て掛けられている。リサが使っているベースは流石に置かれていなかったが、紗夜が使っているモデルの青いテレキャスターが飾られていた。あこにしてみれば到底手が出せないような値段だが、紗夜は自分で稼いで買ったというのだから理解不能だった。

 後暗いことはしていませんよ、とは紗夜の談。

 

「……フェスが終わってからだね」

「フェスが終わったら、どうするんだろうね。具体的な目標なんか無くてもいいのかもしれないけど」

 

()()()目標はフェスだ、と友希那は言った。コンテストに落ちたとしても来年また挑戦すると言うほどだから、友希那がFUTURE WORLD FES.に何らかの執着を抱いていることは明らかで、しかしそれをあこはあまり気にしてはいない。

 

 音楽をやる理由も、バンドを組む理由も、なんだっていいと思う。目標が同じで、考え方が近ければ、同じ道を歩くのに不便はしないからだ。

 

「あこちゃんは、なにかしたいこととか、あるの?」

「うーん。お姉に勝ってやる、とは思ってたけど、それくらいかなぁ。バンド組んでから、物凄く上達してるのを実感してるんだ。だから、自分が上手くなるのが今はとにかく楽しいかも。りんりんは?」

「……私は、みんなとバンドをやるのが目標だったから。そうだね、私も楽しければそれでいいかな……。その過程で湊さん達の目標を達成するためのお手伝いができればなおいいと思う、けど」

 

 友希那も、リサも、燐子も、あこも。独りで音楽を積み重ねてきた人間だ。合奏──セッションがもたらす全能感、一体感に酔っている自覚はあったし、自覚してなお衝動に身を任せてもいた。

 お互いの心の内に寄り添っているような感覚。自分を理解されているような感覚。

 

 自分の演奏が、より良く聴こえる魔法でもある。そのせいで姉に突っかかって散々に幼馴染達にからかわれたことを、あこは根に持っていた。今度は完膚なきまでに思い知らせてやる、と息巻いている。

 

「そうだよね、友希那さんの夢なんだもん。足は引っ張りたくない」

「うん、頑張ろうね」

 

 

【独白】

 

 氷川日菜は孤独である。

 どうやら自分はおかしいらしい、と気が付いたのは、物心がついてすぐの事だった。他人の顔の見え方が、日菜と他人ではまるで違っていたらしい。

 

 顔が覚えられない。目も、口も鼻も、髪も輪郭も、確かに知覚しているはずだ。だというのに、写真を並べられても自分の両親の顔がどれなのか分からない。鏡を見ても自分の顔を覚えられない。目の前の人間が笑っているのか、無表情なのか、泣いているのか、見ただけでは識別できない。

 

 服装や声や仕草でそれが誰なのかは識別できるものの、見ただけで人間の顔を識別できない。

 それが氷川日菜という人間が最初に自覚した『異常』だった。

 

 相貌失認と呼ばれる先天性障害の名前を知ったのが小学生の頃。

 その頃には声や話し方の癖、足音や体幹の癖で他人を見分けることが可能になっていて、集合写真を見せられて話をする、なんて状況でもなければあまり困らなくなっていた。

 

 全てが狂ったのは、姉のせいだと思っている。

 どういうわけか、姉の顔だけは見分けることができた。幼稚園の集合写真の中から、姉の顔だけは識別することができて、そこでようやく自分が姉の顔を覚えていることに気がついた。

 笑っていても、泣いていても、無表情でも、怒っていても理解できる。

 

 姉が見せる表情に惹かれるようになって、その情動にのめり込んだ。

 世界でたった1人、日菜の前で笑ってくれる人。

 

 双子の姉だから、という以上に、その眩しさに惹かれて日菜は姉のあとをついてまわった。

 

 ──なんであたしが評価されるんだろう? 

 姉がピアノをやると言ったので、日菜もピアノを習うことにした。正直なところピアノの面白さというものをあまり分かっていなかった。それでも姉と同じことができるならなんだって良くて、姉の真似をして鍵盤を叩いた。

 

 姉の音が好きだった。サアサアと降り注ぐ雨のような、静かで透き通った音。

 

『最優秀賞、氷川日菜』

 

 ピアノを辞めていれば良かったのだと思う。

 姉から初めて向けられた、正体不明の感情に執着なんてしなければ。

 

『金賞、氷川日菜』

 

 嫉妬、羨望、自己嫌悪、祝福、諦念。ぐちゃぐちゃに感情が入り交じった()()を向けられるのは、世界でたった1人、日菜だけだった。

 

 才能なんてものがなければ、仲が良い姉妹のままでいられたのだろうか。

 日菜は自分に与えられた能力に自覚的だった。それが故に自分が特別な人間だと思ったことはないが、そう思われていることは認知している。

 姉の心を折ってしまったのが、そんなくだらない()()と呼ばれるナニカと、姉に執着する自分自身の邪念によるものであることもわかっていた。

 

『第一位、氷川日菜。第二位、氷川紗夜』

 

 姉がピアノを辞めると言ったとき、日菜も辞めるつもりだった。

 妹に悪感情を向けることに耐えきれなくなってしまったのか、姉は日菜のことをあまり考えないようにしているらしかった。それに焦って、また姉と同じことをすれば自分だけを見てくれるんじゃないかと期待しそうになって、踏みとどまった。

 また姉の居場所を奪ってしまうようなことはしたくなかったのだ。

 

 日菜はクラシックの世界に残った。相も変わらずピアノは退屈で、自分が天才だなんだと持ち上げられることには辟易していたが、姉から奪ってしまった居場所をあっさりと投げ捨ててしまうのも憚られたから。

 

 姉は次にギターを始めた。中学校に入ってすぐ、大学生のバンドメンバーとつるむようになって、家にいる時間も著しく少なくなった。

 居心地の良い家庭とは口が裂けても言えない状況だから仕方がないとは思う。日菜は母から過保護にされていたが、姉のことには無関心で自分勝手な母のことがとにかく気に入らなかったし、父とは最早顔を合わせることさえほとんどないような有様だった。

 

 そして、日菜に感情を向けることもなくなった。

 

 家庭の外に居場所を見つけた姉の姿を見る度に、日菜は孤独を思い知る。幼き日には絶対的なものに思えていた血の繋がりも、蓋を開けてみれば遺伝情報の類似度を示すだけのものに過ぎない。

 かつては日菜に向けられていた親愛の情は、日菜の見知らぬ大学生のものになった。

 

 繋がりが切れるくらいなら、ピアノをやっていたときのように恨まれていた方がずっといい。

 ギターに触り始めたのは、そんな歪んだ欲求からだった。

 

 世界でただ一人、顔の見える姉へ。

 世界で一番醜いラブ・コール。

 

 そんな思惑とは裏腹に、ギターを始めたと言っても姉はほとんど感情を動かさなかった。どうでもよさげに、「そう」と呟いたきりだ。

 

 如何に姉の関心を引くか。そんなことばかり考えている自分に嫌気がさす。

 

 ライブハウス前のカフェテリア。カフェフラペチーノを如何に映える構図で撮るか、試行錯誤している同行者を眺めながらストローを咥えた。

 

「日菜ちゃんがライブに付き合ってくれるとは思わなかったよ」

「元々、彩ちゃんに誘われなくても見に来るつもりだったからね」

 

 同行者──丸山彩は、なんとなくオーディションを受けて入った事務所で、成り行きで組むことになったバンドのボーカルだ。今のところ、髪色と服装が特徴的だから覚えやすくていい、くらいの交流しかないが、向こうはグループのリーダーを任されているだけあって打ち解けようと歩み寄ってくれているらしかった。

 

「今日は紗夜ちゃんも出るんだもんね。私はあんまり話したことないけど……知り合いのライブが見れるのって、すごい楽しみかも」

 

 姉との確執のことは、少しだけ話した。とは言っても、嫌われているという程度。日菜がこのライブに来ていることからもなんとなく察するところがあるらしく、先程からチラチラと様子を窺われているのには気が付いていた。

 

「あっ、ツーショ撮れば良かった!」

「……先に言ってよ。あたしもう飲んじゃってる」

「うぅ……」

 

 もうすぐ開場だよ、と言えば慌てて飲みだす。

 こんな有様でうちのバンドのライブは大丈夫なのだろうか、と思いつつ、ライブハウスの前に並んでいる人の列を眺めた。人数はそう多くは無いが、最前列を確保するために陣取っている熱心な観客らしい。どうせライブに行くならなるべく演者の近くで見たいと思うのは当然の心理であって、日菜もそれを否定するつもりはなかった。ただ今日は、程々の位置で見られればいいと思っていただけ。

 彩は並んででも前に行きたい派だったらしいが、姉に認知されたくない日菜の思いを察したのか、並ぶのをやめて日菜と一緒にカフェテリアで時間を潰していたというわけだった。

 

 ガールズバンドパーティと銘打たれた今日のイベントは、観客の期待も随分と高いようだった。開場にあわせて中に入ると、フロアは満員といった有様。

 

 ライブそのものは、日菜にとっては普通だった。別に上手いとも思わないし、真面目にギターを触りだして2ヶ月程度の日菜よりもずっと下手な人ばかり。もちろん、音楽そのものは楽しいし、白けるわけでもなかったが、良い体験だったと思うほどでもなかった。

 学生バンドばかりだから、という言い訳地味た文句も、日菜にとっては意味をなさない。

 

 目下の関心事である姉の方に気を取られて上の空だった、ということもある。ラスト、トリを飾ったRoseliaの登場に最初、観客が曖昧な反応をする中、ずっと紗夜の方を見ていた。

 

 演奏面で聴きごたえがありそうなのもRoseliaくらいだ。少なくともキーボードの燐子は日菜よりも実績のあるピアニストだし、ボーカルの友希那も常に評価され続けてきた人間で、日菜の姉である紗夜もいる。クラスメイトとして一応の知己であるリサがどれだけ弾けるのかを日菜は知らなかったが、ドラムやベースが余程酷くなければかなりレベルの高い演奏が聴けるだろう、と踏んでいた。

 

 評論家を気取るつもりはなかったが、どうしても肌に合わない感覚があって、今日のイベントには退屈していたところでの()()だ。期待は増すばかり。

 

 なんて考えていたら、目が合った。フロアのはるか後方にいる日菜を、確かに姉は認識していた。

 あっさりと目を逸らされる。全くブレのないギター。日菜の存在は最早、姉にとって苛立ちの材料にさえならないらしい。

 

「日菜ちゃん?」

「ん、どうかした?」

「えっと、いや、なんでもない」

 

 心配そうに声を掛けられて、瞬時に表情を取り繕った。どんな顔をしていたのだろうか。自分では分からなくて、日菜は咄嗟に被った笑顔の仮面の上から頬を撫でた。

 約30分のライブ。熱狂のまま瞬く間に過ぎ去った時間を、日菜は何処か他人事のような心持ちで俯瞰した。

 

 妬んでいる。Roseliaのメンバーを、姉から感情を向けられる全ての人間を。

 日菜には、世界にたった1人しかいないというのに。

 顔のないのっぺらぼうの群れを一通り眺めて、日菜は目を瞑った。

 

 ──氷川日菜は孤独である。

 

 

【涙滴】

 

 約1ヶ月半ぶりに家に帰っても、特に温かい気持ちにもなりはしない。

 母親から「今日は帰ってきたのね」と言われて、「うん」と答えただけ。向こうから問い詰められることも無く、紗夜が言い訳や弁明をする必要も無い。

 

 思うところがないわけではなかったが、今更行動を起こして現状を打破しよう、なんてことは思いもよらない。

「日菜は」と尋ねると、もう寝たと返ってくる。それなら明日以降でいいか、と問題を先送りにして、紗夜も今日は休むことにした。肉体的にはともかく、ライブのあとは精神的に疲れている。

 

 風呂に入って、久しぶりに袖を通す部屋着の感触に違和感を覚える。いつももっとダボついたものを着ているから、紗夜にアジャストされたサイズの部屋着の感触を忘れかけていた。

 靴下やら下着やらを洗濯機に放り込んで、カバンを背負ったまま自室に戻る。

 

 自室の扉を開けて‎中に入ると、日菜の匂いがした気がした。電気をつける。

 ベッドの上で丸くなって眠る妹の姿を見とめて、紗夜は溜息を吐いた。

 

 今まで、こういった状況に陥ったことはなかった。もしかするとこれまでにも日菜は紗夜のベッドで眠っていたのかもしれないが、少なくともこんな場面に鉢合わせたのは初めてだ。

 

 紗夜に気が付いて起き出してくれれば楽だったのに、依然として眠りこけたまま。どうしたものか、と少し考えて、別に大したことでもないかと思い直す。シングルベッドは狭いが眠れないほどじゃないし、日菜に触れることに忌避感があるわけじゃない。

 日菜の部屋で眠るか、このまま自室で眠るかの2択で、あまり深く考えないままに紗夜は後者を選んだ。他人とベッドを共有することには慣れている。

 

「ぁ……おねーちゃん……?」

 

 ベッドに体重をかけて寝転がると、流石に日菜も目を覚ましたらしい。寝惚けた様子のまま、涙の痕を擦って、細かく瞬きをする。

 上体を起こそうとしたのを、軽く押さえ付ける。それだけですんなりと日菜は起き上がるのを諦めて、枕に頭を落とした。

 

「……どうして私なんかを追いかけるの。賢い貴方なら、解るはずよね。私が貴方を嫌う理由も、私なんかに構う時間が如何に無駄なものかも」

「おねーちゃんが好きだから、じゃ、駄目?」

「否定はしないわ。私は或いは、寂しさなのではないかと思っていたのだけど」

「……うん。それもあってる。寂しいんだ。おねーちゃんがいないと、独りだから」

 

 母がいるだろう、とは言えなかった。紗夜にとって最早母の愛情が実感できないものであるように、才能でしか娘を語らなくなった母は日菜にとっても耐え難いものなのかもしれない。

 

「ねぇ、あたしを見てよ」

 

 日菜は紗夜の手を握った。紗夜よりも幾分か高い体温が指先から伝わる。そっと手のひらの輪郭を指先がなぞって、手首を掴まれる。腕を誘導された先は、日菜の細首だった。

 

「恨んでも、嫌っててもいいから」

 

 指先が頸動脈に触れる。声帯が震える感触も、脈動の感触も、生々しく感じ取れる。想像したことがない、と言えば嘘になる。日菜がいなければ、と。

 軽く力を込めてみれば、日菜が嬉しそうに笑った。

 

「……もう怒らないわ。そんなに弱くなくなったのよ」

 

 強くなった、とは思っている。両親を絶対とする価値観からの脱却。信頼できる友人。自立した精神性。自分で日銭を稼ぐ能力。心のゆとり。

 5年前の紗夜とはもう違う。自己肯定感の全てを母親に委ねてもいないし、自己同一性をピアノに捧げてもいない。妹へのコンプレックスは未だに残っているが、それと付き合う方法もわかってきた。

 

 盲目的に日菜を嫌えるほど、紗夜はもう不幸じゃない。

 

 そう言うと、日菜は怯えたように袖に縋りついた。

 

「好きでも嫌いでも無くなるのが、いちばん怖いよ」

 

 ねえ、と日菜が笑う。泣き笑いのような表情で、吐き捨てるように言った。

 

「あたしがお母さんの顔も覚えてないって、知ってた?」

 

 告げられた事実は、少なくとも紗夜の内心を揺るがすのに十分な威力を持っていた。

 

 

 

【濯枝雨】

 

 ──紗夜さ、ここ最近凄い気合入ってるよね。

「……事情があるもので」

 

 ガールズバンドパーティで演奏した日の夜、日菜と話してから、紗夜は日菜への接し方を改めた。日菜に好意を抱くようになったかといえば、そうではない。ただ、憐れむようになった。日菜からの好意に説明がつくようになって、自分の中で折り合いがつけやすかったというのもある。

 

 気が付いてあげられなかった後悔、姉としての責任感、孤独感への憐憫。

 せめて、導となってみせよう。そんな想いが込められているのが、今の紗夜の演奏だった。

 

 ──今の演奏の方が好きだよ。

「自分でもそう思います」

 

 紗夜とリサがそんな言葉を交わし合うのは、「FUTURE WORLD FES」の予選コンテストに向かう電車の中だった。

 リサは朗らかに笑うものの緊張を隠せていない様子で、座席に座っているあこは傍から見ても分かるくらい身体が固い。

 あこはコンテストなんてものに出場するのも初めてだろうし、ライブもこれで2回目だ。急拵えのバンドで猶予がなかったとはいえ経験不足にも程がある状態。緊張するのも仕方がない。

 その隣で泰然自若としている燐子にケアを任せていれば問題ないだろうか、と吊革を握ったまま考える。五線譜が描かれたブックカバーを嵌め込んだ文庫本を捲る燐子には、少しの呆れさえ感じた。よくもまあ、ここまで自然体でいられるものだ。

 

 リサも状況としてはあことほぼ同じで、それに加えて友希那の事情も背負っている。このライブに友希那が掛けているものを知っているからこそ、それがプレッシャーになるのは理解できた。

 

「今井さん。……これ、昨晩書いた手紙です。湊さんへの想いのついでに、私の想いも背負っていいですよ」

 ──重いなぁ。

「ライブ前に読まずとも構いません。自分で言うのもなんですが、今井さんへのプレッシャーになるような気はしています」

 ──ううん、読むよ。背負わせて。

 

 リサのジャケットのポケットに便箋を差し込む。どこか嬉しそうに、リサはそれを受け取った。

 なんだかんだと言って、リサが本番でパフォーマンスを発揮出来るタイプなのはわかっている。紗夜が突発的に引き込んだ野外ライブも卒なくこなしていたし、度胸も即応性もある。心配するほどではない。

 

 むしろ自分は大丈夫なのか、と自問してみる。

 紗夜自身の心境の変化は、紗夜の音楽にも多大なる影響を齎した。

 

 紗夜がRoseliaのギターになってようやく感じるようになった、自分の演奏がバンド全体を左右する感覚。

 帆南や雫の願いの通りに、自己主張をする感覚。紗夜自身が内包する世界を、音に乗せて解き放つ感覚。

 

 そして、日菜の導となれるような、ギタリストとしての自分。

 

 いつか、光に言われたことを思い出した。

『あなた、ピアノよりギターの方が向いてるのね。自覚してるよりもずっとよ。ピアノは、正解を見つけたと思うのがダメなのかしら。研究者気質な部分が悪さをしている気がするわ』

 

 クラシックの世界でついぞ創意工夫というものを行えなかったことを鑑みるに、紗夜としても光の指摘は間違っていないように思える。鳥肌が立つほど綿密に組み上げられた芸術品である楽譜を読み取った上で、作曲者の意図を汲み、そこに自分の世界を高次元で調和させる必要があるクラシックピアノの世界で、前者に拘泥し過ぎる紗夜が通用しなかったのはそういうことだろう。自覚はなかったが、紗夜にとっては「お勉強」の一つでしかなかったのである。

 

 好き勝手に歌い、好き勝手に弾いている今の方が、余程まともに音楽をやっている感覚があった。

 

 とはいえ、日菜への忌避感をある程度取り払えた今、コンテストへのモチベーションも上がっていた。

 音楽を他人と比較することには最早価値を感じられなかったが、自分たちのパフォーマンスをとことん突き詰めることには充足感を覚える。

 関係は良好ながらもひりついた空気の中、ひとつの壮大な作品を作り上げていく過程には胸が高鳴った。

 

 

 ひとつ、気がかりなのは、友希那だった。

 

 長椅子の端で、手すりに映る歪曲した自分の顔をぼんやりと眺めていた友希那は、思い詰めているように見えた。

 こればかりは自分で乗り切ってもらう他ない、というのが紗夜の結論。

 友希那に口を挟めるのはリサくらいで、そのリサも、友希那と友希那の父の関係に踏み込む気はあまりないのだと言っていた。

 

 ぼんやりとした危惧を胸に、コンテスト会場へと踏み込む。

 フェスの予選で、有名なメジャーバンドなんかは一切出ないというのに、会場はかなりのキャパシティを備えたアリーナだった。リハーサルをして、審査員の挨拶を聞いて、あっという間にコンテストが始まる。

 

 順番を待っている間、客席で他のバンドの演奏を聴いていても良いことになっていた。あこと燐子とリサが乗り気だったので、5人とも前の方の席を確保する。友希那もいざコンテストが始まってしまえば少し調子を取り戻したようで、いつも通りの雰囲気に戻っていた。

 

 ──そう、勘違いしたのがまずかったのだろうと、後になってから思う。

 

 自分の根幹にある音楽を否定された恨みは、果たしてどれほどのものなのだろう。

 音楽において憧れの存在でもある肉親が糾弾され、嗤われ、屈辱に塗れる姿を、友希那はどんな感情で見ていたのだろう。

 

 あれほど彼女の人生に染み込んだ「音楽」を、愛していると言えなくなるほどの憎悪は、嫌悪は、嚇怒は。

 

 友希那は頻繁に、「自己満足に過ぎない復讐だ」と言っていた。Roseliaのメンバーを巻き込むのも申し訳ないような、そんなささやかな願いと過去の精算なのだと。

 

 そんなものじゃない。

 呪いだった。呪詛だった。

 

 コンテストでRoseliaの番が来て、ステージに立つところまでは至って普通の流れだった。良い意味で全員が緊張感を持っているようにも感じられたし、コンディションは上々だった、はずだ。

 

 それがねじ曲がったのは、友希那が歌い出した瞬間。

 

 紗夜にとって、『BLACK SHOUT』は上を向くための曲だった。周囲の抑圧や批判を跳ね除けて、自分の足で立ち上がれることを誇るような、そんな歌詞が好きだったし、友希那もそのような認識で歌っていたと思う。観客がすっと前を向くような感覚が、紗夜はどうにも好きだった。

 

 マイクを握った友希那は、無表情だった。

 紗夜にとっては肯定の歌だった『BLACK SHOUT』は、この会場に存在する何もかもを否定した。

 

 怒りにもこれ程の色相があるのか、という驚き。

 友希那が突然正反対の方向へと走り出してしまったことには驚いたが、その歌声に追従してしまえるだけの表現の幅が紗夜にはあった。

 友希那の歌声が、会場の色を塗り潰して塗り替えた。悲憤であり激墳であり、怨嗟でもある。憤懣やる方ないと仕舞われていた憤りが、行き場を見つけて急速に吹き上がった。

 

 友希那の歌は、観客を歓喜に染め上げる。歓声が上がって、オーディションは興奮のまま喜びを露わにする。そうあるべきだった。

 

()()()

 軒先から滴る黒い雨粒に、怒りを滲ませて。

 

 友希那は観客を()()()()

 

 感情が伝播する。会場を怒りに染め上げる。友希那が抱いている憎悪が、復讐心が、観客の興奮を経由して攻撃的な感情を刺激する。

 審査員が驚いたような表情をしているのが、紗夜にも見て取れた。

 ライブを楽しむ気持ちと、音楽に感化されている自分に驚くような感覚。

 

 紗夜自身も、染まっている自分を自覚した。

 或いはこれは、紗夜の中に堆積した『音楽を批評する人間』への鬱屈とした悪感情を呼び起こされただけなのかもしれない、と思った。

 

 友希那への危惧は置いておいて、最高に愉快だった。流されてはいけない衝動だとわかっているから自制できてこそいるものの、コーラスだってがなり声を混ぜた友希那の歌い方につられてしまっている。

 

 あこが、心配そうな表情で友希那を見ていた。やや前ノリのリズム。それも友希那に釣られている。必死でそれを押しとどめようとしているリサに、どうしたものかと考えた。

 もう簡単には止まらないだろう。初見の客を相手に、歌声ひとつでここまで感情を揺さぶってのける天才が、全身全霊で叫んでいるのだから。

 

 友希那について行くべきか、引き止めるべきか。他のメンバーは、多分紗夜に従うだろうという確信があった。友希那を選ぶか、リサを選ぶか、ふたつにひとつだ。

 

 逡巡する。

 感情的な話で言えば、止めたくない。友希那の想いを知っているだけに、好き勝手に叫ばせてあげたい。──が、友希那を想うのなら止めるべきでもある。なにせ、ここは本番じゃない。友希那が憎む審査員はいるが、友希那が立ちたいと思っていた舞台はこんなチンケな場所じゃない。

 観客に当たり散らすような、それでいて唆すような演奏だって本来は聞き苦しいことこの上ないものだ。

 

 リサからの手紙を思い出す。リサが友希那に言葉を伝えられない場面では、紗夜が友希那を止めて欲しい。そんな文面に、是と返してしまった。

 

 リサが寄り添うべきだ。そう言いたかったが、何よりもそれが出来なくて苦しんでいるのがリサ自身だと知っている。

 声が出せなくなっていちばん苦しいことが「他人に辛い思いをさせること」だと言うような人間に叩く陰口の持ち合わせは、紗夜の語彙には存在しなかった。

 

 ついぞ有効な打開策を見つけられないまま、『BLACK SHOUT』が終わる。観客に広がる困惑と、メンバーの動揺。何も聞こえていないといった様相の友希那に近づいて、肩を掴んだ。

 

「ここで暴走してどうするんですか」

「……もう、落選は確実ね。なら、最後まで走りきるわ」

「駄目です。あなたの音楽を損なう。……あなたの怒りは尤もです。ですが、敵は観客じゃないでしょう。ライブの観客を楽しませる、なんて()()さえクリアできないのなら、あなたが審査員にとやかく言うのも説得力に欠ける」

 

 友希那はリサの方へと振り返って、それから長く息を吐いた。

 

「……棄権しますか」

「いいえ、歌うわ。ごめんなさい」

「いいんです。頼まれ事を果たしただけですから」

 

 改めてステージからフロアを見る。少しだけ会話を挟む間に、会場の温度が下がる。先程までの熱狂に囚われている人はもはやおらず、未知の体験への困惑交じりの軽度な興奮といった感じ。

 審査員の反応は様々だった。面白がる者。顰め面の者。露骨に嫌悪感を露わにする者。

 

 燐子は少し、思うところがあるようだった。友希那を見つめて、思索に耽っているのが分かる。

 

「2曲目……『LOUDER』」

 

 セットリストとは違う。元々は『熱色スターマイン』を入れようと言っていた2曲目での『LOUDER』に、あこは束の間の動揺も見せずにスティックを叩いた。

 

「こんなときも父に頼るなんて、呆れられるかしら」

 

 リサが友希那の背中を叩いた。

 完璧なイントロの入りに、リサのベースから今までにない力強さを感じる。

 友希那の歌声も、我を取り戻したように元に戻った。

 本音の部分は覆い隠して、それでも技術力で圧倒するような歌唱。今日一番の熱狂へ、観客が引き摺られていくのを幻視した。

 

 せめて、彼女達の物語がより良い結末を迎えられますよう。

 

 

 

【無声】

 

 失敗した。ネガティブな感情で歌ったのも初めてだったし、自分の歌声がここまで他人に作用するものだとも知らなかった。

 

 ステージに立った瞬間、怒りが湧き上がった。感情を殺しながら歌うすべを知らなかったのが問題だったのだろう。審査員への不満だとか、イベントそのものへの反抗心だとか、そういうものをさらけ出したまま歌いきった頃には、観客は染まりきっていた。

 

 紗夜に小突かれて我に返った頃にはもう手遅れで、2曲目に『LOUDER』を入れたのも半ば現実逃避だったように思う。父の曲をこの場でやることの意味。意趣返しを諦めきれない弱さと、Roseliaの皆の信頼をこれ以上裏切れないことへの恐ろしさ。

 

 楽屋に戻って、一人一人に頭を下げて、父のことを話し終えたときにはもう限界だった。

 

「……辞退するわ」

「いいんですか? まだ選考を通っている可能性もありますよ」

「通ったところで今日のようになるなら無駄でしょう」

「辞退なんてした暁には出禁になる可能性だって──」

「それならそれで、執着を断ち切れていいわね。……あなた達と音楽をやるのに、元々余計なものだったのよ。私が勝手に拾い上げた先人の後悔なんて」

 

 酷く惨めだった。友希那が積み上げてきた経験も、努力も、未だ一時の動揺に押し流されてしまうようなものでしかない。父の雪辱を果たし、目標であった父の背中を超えてゆくという夢も、その前段階のコンテストで躓いて道を閉ざされようとしている。

 

 自分に失望した。

 振り返ってみれば、友希那は他人から借りた動機だけで走ってきた。

 

 リサが歌手になりたいと言うから、友希那はその隣に立つベーシストになることにした。

 リサの夢が閉ざされたから、友希那はその夢を借り受けて、代わりに父から引継いだベースを手渡した。

 父が音楽の道を降りてしまったから、友希那はその先を歩くことを決意した。

 

 扉を叩くノックの音がした。

 

「結果発表を行います。フロアの方へどうぞ」

 

 誰からともなく席を立つ。

 辞退するという決断を翻す気はなかった。

 

「湊さん。残ってください。……3人はお先にどうぞ」

「……何か?」

「ええ、お話をしましょう」

 ──あたしも残るよ。

「駄目です」

 

 いつになく冷たい声色で、紗夜が3人を部屋から追い出した。結果発表はどうするのかという問いには、辞退するなら聞く必要は無いとにべなく返す。

 リサが心配そうにこちらを見るのを、友希那は努めて無視した。燐子が2人の手を引いて廊下へ出て、紗夜が扉を背に友希那へ振り返る。

 

「──冷たいことを言います」

「ええ」

「音楽から逃げないでください。勝手に拾った後悔? あなたはずっとそうやって走ってきたはずでしょう。他人のために歌って来たんでしょう。自分の感情に嘘をついて、音楽に厳しく向き合って、技術を磨いて。そうやって1人で走ってきたんでしょう」

 

 一歩、距離が近づく。

 

「1人で暴走したから挫けてるんですか? 私たちの信頼を裏切ったと思ったから?」

「そうよ」

「そのくらい、背負います。少なくとも私はそう言ったはずですし、あなたが白金さんと宇田川さんに話した時も同じような反応だったでしょう。自分を否定しないでください。今日だって、心から歌ったんでしょう。それならそれでいいじゃないですか。観客まで巻き込んだのはともかく、あなたの歌を私は否定しません」

 

 友希那にとっては都合が良い解釈だった。

 紗夜もわかっていてこういう言い回しをするのだろう、と思うくらいには友希那に配慮した言葉。

 

「……疲れたのよ。借り物の動機で走れなくなったの」

「あの怒りは湊さんのものじゃないんですか。……今井さんの分も歌うと決めたのも、あなたでしょう」

「そうなのかしら。分からない」

「……もう一度聞きます。辞退していいんですか。断言しますが、私たちは通っていますよ。辞退してしまえば、あなたはフェスへの挑戦権を永劫失うかもしれない」

 

 このままフェスの舞台に立てたとして、歌えるだろうか。父の想いを背負って、自分の音楽を全うできるだろうか。

 

 到底そんな気はしない。

 

 思えば、あの日以来父とまともに音楽の話をしたことは無かった。

 父の罪悪感に塗れた視線も、リサの心配そうな瞳も、全部無視して歩いてきた。

 

「今の私の歌に価値なんかないもの。でも、そうね。もし私がまたやり直したいと言ったら、付き合ってくれる?」

「それは、勿論。ですが、一生の後悔になってしまいませんか」

「いいのよ。自分の音楽さえない私には早すぎたステージだっただけ。父と、リサとも話すわ」

 

 少しでも前向きな感情があるならいいです、と紗夜は息を吐いた。いじけてうじうじしているようなら引っ叩いていたかもしれない、との事。

 

「肩の力が抜けたのなら、それが一番良いと思います。今井さんには謝って、よく話をしてください」

「ええ」

「それじゃあ、フロアに行きましょうか。……これで落ちていたら、私が恥ずかしいだけですね」

「そんなことないわ。……ありがとう」

 

 

【春暁】

 

 友希那とリサにとって大きな目標のひとつだった『FUTURE WORLD FES』は、その舞台に辿り着くことなくあっさりと終わってしまった。

 コンテストの結果として、Roseliaは2位通過というものだったが、結局友希那は辞退の意志を崩さなかったのだ。

 

 観客を最大限に楽しませるという前提を崩してしまった以上、フェスの舞台に立つ資格はない。友希那はそう言って、審査員もまた難しい顔で頷いた。

 

『貴方達を通過させるかは酷く悩みました。実力も、観客の反応も抜きん出ていましたが、感情に振り回されるようでは、と』

『はい』

『湊友希那さん。貴方のお父様を覚えています。2つめのあの曲は、お父様の曲でしょうか』

『……』

『私たちはかつて、彼を批判しました。彼は真に実力のあるアーティストだったのに、自分を見失ってしまった。……それだけに、私たちは貴方にも危惧を抱いています。この場で辞退を選ぶ事ができた貴方はきっと道を誤らないでしょうが、どうか肝に銘じてください。仲間を大切に。自分の音楽を大切に』

 

 友希那は反論する言葉を探そうとしたようだった。それでも言い返すことは躊躇われたのか、ついぞ言葉を発さないまま頭を下げて。そうしてリサ達は会場を出た。

 再挑戦も歓迎します、と投げかけられた言葉は、友希那に届いていたかどうか。

 

「リサ、ここで待っていてくれる?」

 

 二人での帰路。かつてよく遊んだ公園で立ち止まった友希那が、口火を切った。

 

 ──いいけど、どうして? 

「お父さんを呼んでくるわ。過去に一度、区切りをつけましょう」

 ──無理してない? 

「していないわ。本当はもっと早くにこうするべきだったのよ」

 

 そうして100メートルほど先の家の方へと歩いていく背中を見送って、リサはベンチに腰掛けた。日も落ちた初夏の公園は、撤去された遊具の名残りと、年季を感じさせる傷んだベンチも相まって酷く寂しい印象をもたらした。

 

 ふと思い出して、紗夜から預かった手紙を開く。街灯の僅かな明かりで、几帳面で丁寧な細い文字を読む。ライブ前にも一度読んだ、紗夜のRoseliaへの想いが綴られた文章だった。

 

 妹へのコンプレックス。音楽を通した自己表現への葛藤。コンテストに出ることへの恐怖。それから、友希那が抱える音楽への悩みを解きたいという想い。

 

 ついぞ、リサ自身が友希那に声をかけることはできなかった。もう辞めていいんだ、なんて言葉がどれほど無責任に響くか、リサには想像がついてしまったから。

 最初に友希那を呪ったのは、リサなのだから。

 

 友希那の歌を羨んで、ベースを取り上げて。

 誰よりも友希那を苦しめてきたのに、のうのうと隣に立ち続けていた。

 二人きりで完結した夢だったのなら、ふとした拍子に諦められたのかもしれない。

 友希那の父が音楽を捨ててしまってから、友希那は今度こそ止まる術を無くしてしまった。

 

 紗夜に出会えたのは、友希那にとって幸運だったのだろう。

 音楽について悩んだ過去があって、そのうえでそれを乗り越えて音楽を心底から楽しめている紗夜は、リサが友希那に「そうなって欲しい」と思える未来の姿の一例でもあった。

 

 一方で、紗夜が妬ましく思えた。

 リサには到底掛けることができない言葉を、何ら気負った様子もなく友希那に投げかけるのが、羨ましくて仕方がなかった。

 醜い独占欲だ。リサは友希那に何も与えられないのに、誰よりも友希那を欲していた。

 

 リサに声が残っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。何百回と自問したIFだ。

 

「リサちゃんもいたのか。待たせてしまったね」

 ──いいんです。

 

 友希那が父を連れてくるのにそう時間は掛からなかった。

 

「……懐かしいな。俺がベースを弾いて、リサちゃんが歌って、友希那が俺の真似をしていたっけ。友希那はもうベースを弾いていないようだけど、まだ弾けるのかい?」

「もう荒れてしまったわ」

「そうか。……リサちゃんは上手くなったね。もう楽器に見劣りしない。俺には過ぎた代物だったが、キミに引き継げたのなら意味はあったのかもしれないな」

 

 友希那の父は、いつになく饒舌だった。リサの記憶の中の彼はあまり話す方ではなくて、穏やかに上手く歌うコツやベースの弾き方を教えてくれる人だったが、彼にも思うところがあるのだろうと納得する。

 

「……キミたちの演奏、聴いていたよ。LOUDERもね。もっと早くに言うべきだった。キミ達に俺の後悔を背負わせたかったわけじゃない。……確かに一度心は折れてしまったけどね、俺たちが音楽を辞めたのは、自業自得なんだ。自分たちの音楽を裏切ってしまった。だから俺達も音楽にそっぽを向かれた。ただ、それだけの話だ」

 

 ──だから、すまない。そう言って彼はリサと友希那に頭を下げた。

 

「2人の気持ちは嬉しかった。俺たちのLOUDERが、あの審査員たちの心を動かすに足るものだったのだと、確信できた。だから、ありがとう。そして、すまない。俺が不甲斐ないばかりに、キミたちに背負わせてしまった」

「私が勝手に背負っただけよ。父さんを超える、父さんの無念を晴らすと息巻いて、リサにベースを押し付けて、一人先走った」

 ──アタシだって、友希那に酷いことも言ったし、友希那のベースを奪った。誰よりも友希那の近くにいたのに、友希那を引き留められなかった。

「リサは悪くないわ。父さんも。私が勝手に始めて、勝手に潰れただけだもの」

 

 文字を綴るのがもどかしかった。声があれば、もっと言葉を重ねられるのに。

 

「友希那。自分の歌を大事にしてくれ。お前は、良い仲間に囲まれているんだろう? 仲間を大事にして、今度は友希那自身の音楽にゆっくりと向き合って欲しい。──今まですまなかった。ありがとう」

 

 親友の目に浮かぶ涙に見ない振りをして、抱擁する2人を滲んだ視界に納めた。

 それから友希那の父はリサの手を握って、絞り出すように言った。

 

「リサちゃん。友希那についていてくれてありがとう。俺のベースを、曲を、大切にしてくれてありがとう。キミが夢や現実にどうやって折り合いを付けていくのか、俺には分からないが、困ったら仲間を頼れ。不甲斐ないけれど、俺だってキミの味方だ」

 

 手を握り返す。もうベースは握っていないのだろう。ベーシストの指ではなくなっていた。それが悲しくて、それでもこうやって言葉をかけてくれたのが嬉しくて、嗚咽を堪えるのに苦労した。鼻の奥がツンとするのに耐えて、滲む視界でリサは彼を見つめた。

 

「音を楽しむと書いて音楽。小学一年生の頃だったかな、そう教えたのを覚えているかい?」

 

 ひとつ、頷く。

 

「とうに道を外れてしまった大人が言うことでは無いけれど、まだまだキミたちの道は長いんだ。キミたちの音楽をどうか、楽しんでくれ」

 

 先に戻っているよ、とそれだけを言い残して、それからもう一度リサの手を握って、友希那の父は戻っていってしまった。その背中を見送った友希那が、リサの方を見る。

 

 名前も知らない虫の声が、暗がりから響く。池の方から聞こえてくるのは蛙の声だろうか。

 

 リサの隣に友希那が座って、深く息を吸った。

 

「あなたが世界一の歌手になると言ったから、私はその隣に立てるベーシストになることにした。リサ。あなたは私がベースを手放したことを気にしているようだけれど、私はあなたの隣に立てるならなんだって良かったのよ。……それよりも、私が勝手にあなたの夢を引き継いでしまったことを、謝りたい」

 ──謝らないで。

 

 電子ボードに文字を書くことすらもどかしい。

 

 ──アタシも、友希那に酷いことを言った。

 ──歌えて良いなって、言ったの、ずっと謝りたかった。

 ──本当に、ごめん。

 ──友希那がベースを預けてくれたとき、ようやく一歩前を向けたんだ。

 ──アタシが今こうやって普通に笑えてるのも、友希那のおかげなんだよ。だから、謝らないで。

 

 背中に手を回されて、きつく抱き締められる。腕の震えと、心臓の音。呼吸が感じられるほどに体が触れ合って、体温が分かる。

 

「これからも、私のベーシストでいてくれる?」

 ひとつ、頷く。

「これからも、あなたの代わりに歌ってもいいのかしら」

 首肯を返す。

「皆に謝らなくてはね」

 ──きっと怒らないよ。

「知ってるわ。私には本当に、過ぎた仲間ね」

 

 繋いだ指先を、今度は離さない。

 久しぶりに友希那が心底から微笑むのを見た気がして、その瞳に見惚れた。

 

 

【ソラニン】

 

「りんりんにも悩みってあったりするの?」

 

 そんな呟きをあこが零したのに、燐子はどう答えたものかと束の間、迷った。友希那とリサは用事があると言って来てくれなかったので、あこと紗夜と燐子の3人でスタジオに篭っている。

 3時間ほど好き勝手弾いたあとの休憩時間に、おずおずとあこがそんな話を切り出したので、その問いにどこまでの真剣さが込められているのかを判断するのに時間を要したのだ。あこは単なる思いつきで言ったわけではないようだった。

 

「友希那さんも、リサ姉も、紗夜さんも。解決はしたみたいだけど悩んでいたんでしょ? もしりんりんにも悩みがあるなら、あこは力になりたいよ」

「……うーん、あると言えば、ある、けど」

「……あるんですか。差し支えなければ、相談に乗りますが」

 

 親の話を、先生以外の誰かにしたことがなかった。

 Roseliaに入って以来、冷戦状態の親子仲の話をしてしまえば、この心優しいバンドメンバー達は心配して、そして責任を感じてしまうだろうと思っていたから、余計に話しにくい。

 

「母にバンド活動を反対されていて……」

「ああ、なるほど……」

「冬にはピアノのコンクールに出て、それを説得材料にするつもりなんですけど……それが悩みと言えば悩みです」

 

 それでも言ってしまうことにしたのには、友希那の影響があった。

 友希那がコンテストで見せた、他人の感情を揺さぶる歌声に圧倒されて、あんな演奏ができれば母と和解できるのではないかという淡い期待を抱いたのがひとつ。

 全く会話のない家庭に少し参っていたのがひとつ。

 

「ライブにりんりんのお母さんを招待してみるのは?」

「理詰めで説得できないのなら、意外と有効な手段かもしれませんね」

「それも考えたんですけど、ライブハウスに来るような人じゃない、ので……」

「演奏を聞かせてみるのはアリだと思うんですか?」

「ええと、はい……」

「じゃあ野外ライブしようよ! 紗夜さんがやってるやつ!」

「私もそう言おうと思っていました。丁度7月に音大と合同で開かれる自治会のイベントがあるはずなので、それに参加して招待すればいいんじゃないですか」

 

 いえーい、とあこがハイタッチをせがむのにノリを合わせている紗夜にくすりと笑みを零しながら、その裏で打算的な思考を回す。たとえ燐子達の演奏を聴いたところで、あの母が態度を改めるとは思えない。正直なところ、有効な手段ではないだろうと思っていた。しかし、このまま冬まで何もせずに冷えた関係のままで日々を過ごしているのも良くないだろうと思う。

 燐子に何かアクションが起こせるとしたら、それこそRoseliaの演奏を聴いてもらうことくらいだ。バンドを辞めるつもりは更々ないから燐子としては徹底抗戦の構えになる。

 

「招待しても、来てくれるとは思えないんです」

「神谷教授はその、母親のことは知っているんですか」

「はい。相談に乗ってもらっています」

「じゃあ教授に頼ってもいいんじゃないですか。それくらいはやってくれるでしょう」

「先生にそこまで頼っていいんでしょうか……」

「帆南はもっと我儘を言っていましたし、それくらいは協力してくれるような気がしますが」

「そう、ですね。話してみます」

 

 他人の心を動かすような演奏が、果たして燐子にできるのだろうか。自問して、無理だろうという答えが浮かんでくる。

 燐子には友希那のような頭抜けた表現力と訴求力はない。紗夜も言っていたが、友希那は大概神に愛されているとしか言いようがないほどの天才だ。少なくとも燐子には、自分があのレベルの表現力を身につける未来が到底想像できない。

 

 ──独りでは。

 

 Roseliaというバンドのなかで会心の演奏さえできれば、もしかするとあの母にも少しくらいは感じさせる演奏ができるかもしれない、という期待があった。

 それはどちらかと言うと親子仲の修復と言うより、自分のピアノが新たな領域へとたどり着くかもしれない可能性への期待だったが、どちらにせよ結果としてついてくるものは同じだ。

 

「オープニングアクトの役割くらいは貰えると思います。イベントの本番は文化祭みたいに各グループが発表したり、フラッシュモブや即興演奏やったりととにかく好き勝手にする感じなので、落ち着いて聴かせられるのはオープニングライブくらいになるかと」

 

 それでも良ければ試してみませんか、とだけ紗夜は言った。少しだけ考えさせてください、と言えば、大事なことですからそうしてくださいと言わんばかりに頷く。

 

「紗夜さん! この際だからあこも言っていいですか!」

「どうぞ」

「紗夜さんが辻ライブやってるの、ちょっとモヤモヤします」

「……そうなんですか?」

「あこの紗夜さんだぞ〜! って」

「……まあ、言わんとすることはなんとなく分かりますが。宇田川さんも来ればいいじゃないですか」

「いつか行こうとは思ってましたけど、タイミングがなくて」

 

 こうやって、不満を口にできるあたりにあこの「陽」加減が現れているような気がして、燐子は羨ましくなる。生来の気質の問題なのか、そう育てられたのか、燐子は他人に歯向かった経験というものがとんとなかった。それこそ、母親に反抗したあの一回きりだろうか。嫌なことがあっても黙って受け入れるというのは、争いや面倒事を避けているようで、ただ逃げているだけに過ぎないと気が付いたのはごく最近のことだ。明るい調子で紗夜にはっきりと気持ちを伝えられる辺り、あこは逃げずに生きてきたに違いない。そういうところを、燐子は尊敬していた。

 

「時々一緒にやっているメンバーとも会えなくなりますし、もうあの場所でライブをやることはほとんど無くなると思います。それに、私は多分、宇田川さんが思っているよりもずっとRoseliaのことが好きですよ」

 

 紗夜は恥ずかしげもなく言った。

 あこが顔を赤くしているのが面白くて、思わず笑みが零れる。それに不思議そうに首を傾げて、紗夜はなおも言葉を紡いだ。

 

「じゃあ、今度はあこと公園ライブやりましょうよ」

「もちろん」

 

 白金さんも、と話に巻き込まれる。

 イベントに母親を招待するかはさておいて、ライブをやることに否やはない。ジャムセッションの楽しさにすっかり染められていた燐子は、あっさりと頷いた。

 

「リサ姉と友希那さんも誘いませんか」

「良いですけど、それじゃあただのRoseliaのライブじゃないですか」

 

 

【Drops】

 

「荷物、取りに来た」

 

 トークアプリで予告した時間ぴったりに、紗夜は雫の部屋を訪れた。

 

 開口一番、少し後ろめたそうにそう言った妹分の姿を見とめて、雫は寂しいやら嬉しいやらよく分からなくなった。

 紗夜の家庭の事情に関しては、恐らく雫が最も詳しく知っている。

 たかだか12,3歳に過ぎない少女が、両親から無価値に扱われるという体験がどれほど心身に悪影響を及ぼすのか、雫は想像さえもできないが、紗夜が自暴自棄に腐った人間に育たなかったことは奇跡に近いのではないかと思う。

 

 もう1年以上同居してきた身としては、紗夜が部屋を出ていってしまうことは寂しい。とはいえ、紗夜が家に戻る決意をしたのは成長の証でもあり、喜ぶべきことだ。

 

 雫はしばしば紗夜の姉妹仲を心配していた。紗夜の両親に関しては、もう紗夜がどうこうする必要は無い、とまで言った。娘の扱いに差をつけるような親も、家庭を顧みない親も言語道断だし、そんなものに紗夜が労力を割く必要はないとも。

 だが、姉妹のことは別だ。紗夜は自分の妹への態度を自己嫌悪していたようだったし、親があの調子なら、姉妹はお互いにとって唯一のまともに接することが出来る血縁になる。だから、妹には向き合うべきだとしばしば口にした。

 紗夜のことを妹のように思っていて、一緒に暮らしているとはいえ、雫は所詮他人に過ぎないし、何より紗夜の人生に拭い難い後悔を残して欲しくなかった。

 

「なんでも持って行っていいよ」

「ドラムも?」

「欲しいの?」

「……いらない」

 

 ここ1ヶ月ほどで紗夜は妹に向き合うようになったらしい、という話を聞いていた。心配からの言葉とはいえ、家族から酷い扱いを受けている少女に「妹とは向き合え」だなんて無責任な言葉だと思っていたから、その話を聞いてどれだけ安堵しただろうか。

 

「帆南がまたライブしたいって。8月にアメリカに行くからそれまでに」

「無理でしょ。ライブが出来ないから解散したのに」

「今の紗夜と何がなんでも演奏したいみたい」

「月ノ森公園の音楽祭に来てって言っといて」

「私は行けないから嫌だ」

 

 服を畳んでは鞄に詰め込んでいくのを尻目に、部屋をぐるりと見渡した。この状況で目に付くのは紗夜の私物ばかり。

 

「……いつでも逃げてきていいから」

「うん。ありがとう」

 

 結局、荷物にしてしまえば鞄2つに収まってしまう。部屋にある紗夜の私物といえば、音楽関係の機器と下着、それから生理用品くらい。

 泊まりには来るから、と一部の私物を残していくのに、ほんの少しの嬉しさを感じてしまう。雫は一人っ子だったから、音大へ進学してそうそう、一人暮らしには結構参っていた。居候だからと紗夜に料理を作ってもらうことも多かったから、紗夜が出ていって困るのは雫の方かもしれない、とほんの少しの危機感。いささか自分本位の寂しさもあった。

 

「ちゃんと自炊してね」

「甘やかされてきたから無理」

 

 紗夜はひとしきり部屋を眺めて、それから心配そうに言った。

 自炊なんか続く気がしないと言えば、ため息を吐かれる。実際、生活水準はかなり下がるだろう。家事に関して年上の威厳などは無い。

 

「Roseliaは、楽しい?」

「うん」

「私たちより上手いもんね」

「ピアノで較べなよ」

「バンドで弾くのはギターとベースとドラムだし」

「それはそうだけど」

 

 あっさりと荷造りが終わってしまう。

 思っていたよりも他人の色が抜けない自室に、こんなものだったかというよくわからない感想を抱いた。

 

「そういえば、光が紗夜と話したいって。ライン持ってなかったの?」

「機種変したあとは繋がってなかったかも。……何の用事だろう」

「楽曲提供でもしてくれるんじゃない? Roseliaはメジャーデビューを目指すんでしょ。光の活動もぼちぼち上手くいっているみたいだし」

 

 雫の同期である東野光は、大学を卒業して以来作曲で生計を立てているらしい。元々在学中からも活動していたから、特に同期は誰も心配していなかった。

 

「後で連絡先送ってくれる?」

「うん。荷造り終わったなら、ご飯でも食べに行こうか」

「社会人様にご馳走になります」

「メジャーデビューしてお金持ちになったら返してね」

「無茶なこと言わないで」

 

 洋服を詰め込んだカバンを一度置いて、二人連れ立って玄関を出る。初夏の夕暮れの生温かい風が心地良かった。

 

「……ねえ。感謝してるって言ったら、怒る?」

「怒らない。けど、お互い様だったから、恩には感じないで欲しい」

「そう。じゃあ、改めて言わせて。──ありがとう」

 

 足を止める。向かい合った紗夜の表情は、4年前とは見違えるくらいに穏やかなもので。

 この生活にも意味はあったんだな、と腑に落ちた。

 

 才能さえも枯れ果てた空っぽにも、誰かを導くことくらいはできるらしい。

 

 

【Rose】

 

 公園に植えられた楠に蝉の声が響く。薄曇りの空を貫いて、太陽は水面を煌めかせていた。

 

 一ノ瀬帆南はギターケースを背負ったまま、月ノ森公園の噴水のベンチに腰掛けていた。

 彼女の視線の先には、5人の少女たち。音大と共催で自治体が開いた野外音楽イベントの、オープニングライブを務めるのが彼女達だった。女子高校生だけで結成されたガールズバンド、『Roselia』。

 渡米する前の最後の自由日に、帆南は最愛の後輩の晴れ舞台を見に来ていた。彼女と出会った公園で開かれるライブだと思えば感慨深いものがある。

 

 同じく元バンドメンバーの雫は仕事を休めなかったらしく、煽り散らす帆南に何も言い返せないでいた。関西にいる柚月もここにはいないだろうし、いるとしたらフリーで生活しているらしい光くらいだろうか、と探してみるも見当たらない。

 

 代わりに、サングラスをかけた元バンドマンと言った風情の男性が、対面のベンチに腰掛けているのが目に付いた。スカウトマンなんかだろうか、と思っているうちに、今度は知り合いが目に入る。

 

 先生、と声をかけようかと思ったが、恩師の神谷は何やら不機嫌そうな中年女性と共に居た。何となく、燐子に雰囲気が似ている。後で声を掛けることにして、チューニングを始めた紗夜に目を向ける。

 

『FUTURE WORLD FES』の予選を辞退したRoseliaは、少しだけ音楽性を変えたように見えた。友希那の歌声はより感情豊かに、色彩を持って聞こえるようになり、楽器隊の練度も上がって今ではプロレベルと言っていい程だ。

 

 成長したな、と上から目線で思う。もう演奏の技術は確実に帆南達のバンドよりも上で、それに加えて音楽への向き合い方だとか、個人のスタンスを確立してきている彼女たちは、しっかりと魂まで音楽に染まっていた。

 

『聞いてください、『Song I am』』

 

 

 


 

「音楽は好きですか?」

「ええ、もちろん」

 


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