RASとの対バンを経て、Roseliaはプロモーション活動の重要さを強く実感した。SNSの広報アカウントを意欲的に動かしていこうと意識を改め、試験的に投稿したショート動画で大きな反響を得る。
だが、それが逆に双子の妹の逆鱗に触れた!

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たったひとつのバズるやり方

「飼い主から自分の匂いがしないから改めて身体を擦りつけにくる猫、といったところかしら」

 

 つまりはマーキングね、と千聖は言った。

 

 はぁ、と紗夜は曖昧に相槌を打つ。

 

「そういった行為は犬もしている印象がありますが、実際のところはどうなんでしょう?」

 

 紗夜の興味はすぐに千聖が飼っている大型犬へ移った。ゴールデンレトリバーのレオン。写真を見たこともあるし、実物に会ったこともある。

 

 その時の記憶は強く印象に残っている。犬種が示す金色の毛並みは艶やかで美しく、白鷺家の家族の一員として大切にされていると一目でわかったから。

 

「ペットの話はしていないのだけれど……」

 

 千聖は困ったように独り言ちる。けれどすぐに、まあいいか、と千聖が気を緩めたのを紗夜は見て取った。

 

「ウチのレオンも足元をスリスリしてくることはあるけど、あれは単に遊んでほしいだけね。ゴールデンレトリバー自体がかなり人懐っこい犬種で、人を見ると誰彼構わずすぐに甘えるのよ。番犬に向いてない犬種ランキング上位というだけあってね。だから、行為としてはよくやるけど、マーキングが目的というわけではないわ」

 

「猫とは勝手が違いますか」

 

「違うんじゃないかしら。私も猫は飼っていないから人伝てに聞いただけだけど、エサがほしいときとドアを開けてほしいときくらいしか甘えてこないとはよく聞くし」

 

「犬が利他的なら、猫は利己的なイメージがついて回りますね」

 

 犬にとって人がパートナーなら、猫にとっては所有物。だから当たり前のように人相手にもマーキングを行うのだろう。

 

 自然と口角が緩んだ。

 

 聞いているだけで和やかな気持ちになる。犬か猫かの二択を迫られたら、紗夜は犬を選ぶ。だからと言って猫が嫌いなわけではない。猫好きのバンドリーダーを思えば、なおも愉快な気持ちになる。

 

「猫くらい可愛ければすべてを許されるんでしょうけど。紗夜ちゃん、遠回しに自分が所有物扱いされていることには気づいてる?」

 

「……ああ、マーキングの話でしたか。まあ、別に、としか。いつもことと言えばいつものことでしょう?」

 

 それはそうなんだけどね、と千聖は頭痛を堪えるように額に手を当てた。

 

 大きく、ため息をつかれる。

 

 呆れられているのだろう。

 

 いつもいつも申し訳ないと思う。

 

 妹が何かやらかす度、細かな調整を行うのはきっと目の前に座る彼女だろうから。

 

 今日もまた、()()()()日だった。

 

 人が疎らになった3年A組の教室に夕日が差し込む。

 

 想定外であろう予定を急に差し込まれたせいで、白鷺千聖は紗夜と放課後の教室で時間を潰す破目になっている。

 

 忙しいだろうに、と思ってしまう。

 

 千聖は高校生で女優業とアイドル業の三束草鞋を履いている。きっと紗夜では及びもつかない気苦労があるのだろう。

 

 その気苦労の中に、新しいタスクが積み上げられている。

 

 発起人は当然のように───氷川日菜。

 

 妹のせいで迷惑をかけているかと思うと、やはり少し、心苦しい。

 

 紗夜も巻き込まれたという意味では千聖と同じだ。けれど千聖と違って具体的な展望がまるで見えていない。

 

 主導が日菜なら、舵取りは千聖となるのだろう。

 

 そうなると、紗夜は千聖におんぶに抱っこだ。勝手がわからない状況も、心苦しさに拍車をかけている。

 

 そうしていると、スマホが震えた。画面ではSNSのアプリがメッセージの着信を伝えている。差出人は日菜だった。

 

「そろそろ着くようですね」

 

 簡潔に内容を伝えると、千聖は席から立ち上がった。

 

「なら私たちも行きましょうか」

 

 千聖に連れ立って、紗夜も教室を出た。

 

 花咲川の校門前で待つことしばし。慌ただしい足音を聞いた途端、紗夜の周囲が騒がしくなる。

 

「おーねーえーちゃーーーんっっっ!!!!」

 

 たんっと日菜は軽やかに地面を蹴った。日菜の身体が宙を踊る。そしてすたっと紗夜の眼前で、一歩もふらつかない着地を決めた。

 

 正直。

 

 飛びかかられるかと思った。

 

 これが大型犬なら受け止めるのは危なかろうと望むところだが、相手が妹ともなれば面倒くささが勝つ。けれど実際には避ける必要すら無かったので、紗夜は日菜の分別を褒めてやる気になった。

 

「体当たりしてきてたらさすがに怒ってたわよ」

 

「だからしなかったでしょ?」

 

「はいはい、えらいえらい」

 

 おざなりに日菜の頭を撫でる。それだけで、日菜は満足そうに相好を崩した。

 

 ふと、千聖から視線を感じた。鼻白んでいるような。正気を疑っているような。面倒事を予感しているような。そんな目を日菜と一緒くたにして向けられている。紗夜は不本意極まりない扱いをされていると直感した。

 

「あれ? 千聖ちゃんも居たんだ」

 

 撫でる手を止めると、さも今気づいたとばかりに日菜が声を上げる。

 

「日菜ちゃんは何でもかんでも性急すぎるのよ。同席するのはあくまで念のためのつもりだったけど、顛末をちゃんと見届けないともう今から不安になってきたわ」

 

 千聖の懸念など知ったことではないとばかりに、日菜は楽しみが待ちきれない声音で言う。

 

「じゃあ今からウチのスタジオに行って、おねーちゃんとショート動画を撮ります!」

 

 その言葉を、どこか他人事のように紗夜は受け止めた。

 

 そういうことになっている。

 

 らしいのだ。

 

 

       ◇

 

 

 事の発端はひどく明確だった。

 

 つい先日、RoseliaはRASと対バンを行い───敗北した。

 

 聴衆にどちらの演奏が良かったか退場時にアンケートを取って、RASの票数が多かった。

 

 Roseliaの楽曲がRASよりも劣っているとは、メンバー全員が露程も思っていない。

 

 ではどこで差がついたのかと言えば───規模に対してプロモーションが足りていない。そうRASのDJ兼プロデューサーのチュチュにダメ出しをされた。

 

 理解も納得もできる話だった。

 

 ライブの告知くらいにしか使っていないSNSのアカウント。音雲のようなプラットフォームにアップロードするだけして、特に宣伝もせず半ば放置されている楽曲。

 

 演奏の質を上げる。

 

 バンド活動である以上、これが何よりも重要だと紗夜は思う。けれど命題を重視するあまり、その他をおざなりにし過ぎていたとも省みた。

 

「ネットでの露出を増やしてみようかしら」

 

 リーダーたる友希那の発言に否を告げるメンバーは居らず、紗夜たちはすぐに行動を起こした。

 

 一先ず人口の多い動画プラットフォームサイトのチャンネルを整備する。

 

 その過程で「折角ならMVも撮ってみたいです!」という意見があこから上がって。

 

「いずれはやってみたいですが、ちゃんと画作りできる方に依頼したいですね。いま場当たり的に素人の私たちが映像を撮ったところで、ファンを喜ばせる出来栄えになるとは思えません」と紗夜自身が却下するも。

 

「……ショート動画なら、どうですか? イントロか、サビの十数秒だけなら、一枚画のような構図でも、通用するかと思います」という燐子の提案が採用された。

 

 一度方針が決まると、とんとん拍子で細部が詰められた。

 

 服装は当然ライブ衣装で。

 

 Roseliaの世界観を壊さないよう背景にはこだわりたい。

 

 洋館のハウススタジオというものがあり、ゴシック調やヴィンテージ風で絞り込めば適した撮影場所は見繕える。

 

 そこまで決まると、話の勢いで翌日の放課後にスタジオの予約まで済ませてしまって。

 

 試験的な試みなので、バンドの花形である友希那と他のメンバーがペアになる形で計四本の動画をスマートフォンで撮影した。

 

 撮影道具にもこだわるべきかと思ったが、今は個人制作の映画すらスマホのカメラが利用される時代だ。カメラよりライトがあった方がいいんじゃないかな~、とのリサの言葉を受けて、撮影スタジオへの道すがら、家電量販店で撮影用ライトとレフ板を購入した。

 

 動画編集にはそれなりにPCスペックがあった方が良いとの燐子の提言で、そのまま燐子に一任することに。動画に合わせて曲と歌詞を付けるだけだからと、彼女の中ではある程度の手順も見えているようだった。

 

 燐子の仕事は速く、その日の晩には編集済みの動画が送られてきた。

 

 紗夜たちからの指摘は無かった。

 

 ので。

 

 これまた燐子の発言によって、表示回数の初動が伸びやすい、俗にゴールデンタイムと呼ばれる時間帯にショート動画の投稿と宣伝を行うことにした。

 

 結論から言うと───。

 

 まあバズった。

 

 日頃行っているライブの告知とは比べ物にならない反応があった。事前に投稿しておいた楽曲動画にも誘導は成功しているようで、そちらの再生数も勢いよく伸びていた。

 

 メンバーの反応はまちまちだった。

 

 紗夜と友希那は音作りと観客の反応が直接見れるライブをメインの活動に据えて、ネット上での活動は副次的なものとして捉えている節がある。なので今回の件も、試みが上手くいったのなら良かった程度のものだ。

 

 あこは単純に、増えていく数字を見て「すごいすごい!」と喜んでいるようだった。

 

 そういう意味では、きちんと分析と反省を行っていたのはリサと燐子の二人だろう。

 

 リサは見覚えのある既存ファンの反応を巡回して、燐子は今回の件でRoseliaを知った新規層がどこに惹かれたのかを網羅的に調べているようだった。

 

 事前準備からして、燐子の負荷が異様に高い。

 

 ───あくまでターゲット層に据えるべきは実際にライブハウスまで足を運んでくれる人たちではないかしら。

 

 そこまで根を詰めなくてもと、紗夜は心配した友希那とともに燐子を窘めたが、逆に注力すべきと決めたのならやりきるべきだと、すべてのファンが気軽にライブへ来れるわけではないと、正論で丸め込まれてしまった。

 

 インターネットという大海が舞台になると、燐子が一番視野が広く、深い視点を持っている。だから基本的な立ち回りは燐子の指示に従うという意味で褒めたのだが、なぜだか本人はひどい侮辱を受けたような顔をしていたのが不思議だった。

 

 とりあえず今後の展望としては、一度配信限定の無観客ライブをしてみようという話になった。ライブハウス側で新しい機材の導入が必要だろうということで、開催場所を気心の知れたCiRCLEに絞り、まりなに相談した感触から細かい話は詰めていこうと。

 

 まりなに難色を示されたときの腹案として、配信を利用したファンミーティングの定期開催も視野に入れて。

 

 どっちもできるようになるのがベストですよね! と元気に応じるあこに、そうね、と相槌を打って笑い合った。

 

 実のあるミーティングだったと言えるだろう。

 

 先々のことで予定が埋まっていく心地良い感覚を覚えながら、紗夜は帰途に着いた。

 

 そして。

 

 家では。

 

 氷川日菜が。

 

 紗夜の帰りを待ち構えていた。

 

 通りかかったリビングのソファの上で、日菜はスマホを覗き込んでいる。日菜は聞こえよがしにRoseliaの曲を流していて。それは紗夜にとってちょうど覚えがあり過ぎる十数秒の繰り返し。

 

 見なくてもわかる。

 

 葉脈が張ったような罅割れた壁。フローリングの上にちりばめられた褪色した落ち葉。破れた天幕が室内に幾重にもヴェールを作っていて。壊れた本棚と無造作に散乱した古書のイミテーション、燭台に立った不揃いな長さの蝋燭たち。

 

 ビルの外観が小奇麗だっただけに、ドアを開けた瞬間の退廃とした雰囲気に驚いた記憶が蘇る。スタジオのサンプル写真で室内の様子は知っていたのにだ。

 

 画面の中央には紗夜と友希那が身を寄せ合うようにして映っているはずだ。

 

 アンティーク調のソファに腰を下ろした紗夜。そして紗夜に横抱きにされるように膝の上に乗せられた友希那。紗夜は友希那を抱きかかえるようにしてギターを爪弾く。

 

 ライティングの妙なのか、荒廃した世界に二人だけが浮き上がっているように見えて。

 

 どことなく儚げなのは、きっと最初に撮影したせい。このポージングで合っているのか不安そうな、ファンには決して見せない表情をした友希那が紗夜にしな垂れがかっているせいだ。

 

 そんな、一枚の絵画のような様相を。

 

 日菜はジッと、食い入るように見つめていた。

 

 ショート動画は、次から次へと新しい動画が流れて行く仕様だろうに。

 

 設定を変えているのか、紗夜が足を止めている間も、同じ曲の同じフレーズが繰り返されて。

 

 繰り返されて。

 

 繰り返されて。

 

 繰り返されて。

 

「楽しそうだね」

 

「違うのよ」

 

 咄嗟に。

 

 取り繕うためだけの、その場しのぎの声が出た。

 

「何が違うの? 言ってみて」

 

 世界観は守っているものの、はたしてこのショート動画は今までのRoseliaらしいのか。

 

 そう問われると、紗夜としても微妙なところではある。

 

 けれど今回の動画は試金石。普段ライブに来れないファンたちへのサービスと振り切ってしまっていいだろうと、話し合いの末結論を出した。

 

 そして紗夜にも覚えがあることに、ライブ中、たまにリサと背中合わせで演奏すると客の反応が露骨に良くなる。

 

 初めてリサが演奏中に近寄ってきたときは、小さくはないどよめきが客席に生まれた。こういうものが喜ばれるのかと強い印象を受けたものだ。

 

 だからこの映像はその経験の延長で盛り込んだもので他意は無いと言い募った。

 

 なのに決定プロセスの過程を丁寧に説明するほど、ドツボに嵌る感覚に陥る。

 

 日菜のジトっとした目が晴れない。明らかに機嫌を損ねている。

 

「ねえ日菜」

 

 紗夜はソファに座る日菜の正面で床に膝をつく。日菜の膝に両手を乗せて、さらにその上に顎を乗せる。上目遣いのまま、こてんと慣用句ではない文字通りの仕草として小首を傾げてやる。

 

「機嫌直して」

 

「ふへっ」

 

 と、妹のユニットメンバーが乗り移ったような、締まりのない笑みを日菜は漏らした。

 

 日菜の両頬が赤く染まって、紗夜から視線を逸らして彷徨わせるも、にやけてできた笑い皺が隠せていない。

 

 ───よし。

 

 これで機嫌は直るだろう。恥を忍んでやったかいはあったわね、と紗夜は思う。

 

「おねーちゃん、それすっごいるんってする。あたしうれしいよ」

 

 日菜の手が紗夜の頭に伸ばされる。まるで膝上で丸くなった猫を撫でるような手つき。もう少しだけ好きにさせてあげましょうか、と紗夜が泰然と構えたところで。

 

「撮影で学んだこと、早速あたしで活かしてくれるんだね」

 

 堪能する時間は終わりとばかりに、冷徹な双眸が氷川紗夜を見下ろしていた。

 

 ぴしり、と身体が強張る。

 

 次いで。

 

 不味い、と感じた。

 

 そして不味いと感じたことを日菜に悟られたと直感した。

 

 ───何が不味い?

 

 見下ろしてくる瞳が問うている。

 

「るんとはするけどさ、動画で友希那ちゃんとリサちーがやってることをなぞられてもねー。オリジナリティが無いので減点かな」

 

 このふたりも何やってるんだろうって感じではあるけど、後ろで流れてるのが『陽だまりロードナイト』なら、まあ、様にはなってるのかな、となぜか頭を撫でられながらダメ出しと感想を浴びせられる。

 

「……あの」

 

「なに?」

 

「……いえ、どうぞ続けて」

 

「まさかと思うけどおねーちゃん。あたしを適当にメロつかせたら、機嫌は直るし話は有耶無耶にできるしラッキー、なんて、そんな不誠実なこと考えてるわけないよね?」

 

「…………」

 

 思ってました。

 

 などと言えるわけもなく。

 

「な、なにが望み……?」

 

 紗夜は無条件降伏を受け入れた。

 

 そして。

 

 

       ◇

 

 

「今更なんですが、私がパスパレの動画に登場していいものなんですか?」

 

 日菜とお揃いのトレーニングウェアに着替えて、事務所のレッスン室で質問している辺り、本当に今更という気が拭えない。

 

 紗夜の問いかけに、千聖は少し思案顔を作って口を開く。

 

 彩ちゃん曰く。

 

「兄弟姉妹系の身内ネタは一定の需要があるそうよ。今回の動画は持ち回りで何か企画を思いついたら投稿するような、半公式というか、やや遊び寄りの自由度の高いものだから、そこまで神経質にならなくても大丈夫だとは思う。日菜ちゃんの場合、身内の話をするのがメインコンテンツみたいなところもあるしね」

 

「へーきだって。箱推しでもない限り見るのなんてあたし単推しの人が中心なんだから。じゃあおねーちゃんが出るのはうれしいでしょ。幻の六人目だよ」

 

「ファン目線だとそうなると思うけどね。とは言え日菜ちゃん?」

 

「なーに、千聖ちゃん?」

 

「紗夜ちゃんたちの動画がバズったから流れに乗って旬の内に新しい動画を出すのはいいの。今なら普段アイドルを見ない人にも届く可能性が高いから。でもこれで前例を作った気になって、紗夜ちゃんとしか動画を撮らなくなるのは当然禁止よ」

 

「……はーい、わかってまーす!」

 

 その間が怖いのよ、とぼやく千聖を無視して、日菜はギターのセッティングを進めていく。

 

 日菜に倣うように、紗夜も自身のギターとエフェクター、アンプをシールドでつなぐ。それぞれの電源を順番にオンにして、軽く弦を弾いて音を出す。接続は問題なし。チューニングに移ろうとしたところで日菜に待ったをかけられた。

 

「おねーちゃん、ギター貸して」

 

 そう言いながら、日菜は自分のギターを差し出してくる。

 

「ああ。お互いのギターを交換して、ということ?」

 

 聞いていた内容は姉妹でセッションしよう程度のもので、詳細は日菜の頭の中にしかない。準備している姿を見て、いま思いついた可能性もあるだろう。

 

 でもまあ拒否するほどのものでもない。

 

 日菜のギターのナットの高さはどうだっただろうか、と思考が逸れる。手の大きさは同じくらいなのだから、弦高調整なんて大掛かりなことをする必要はないと思ってはいるのだけれど。

 

 しかしそれ以前に、交換の予想は日菜によって否定された。

 

「違う違う。おねーちゃんのギターを弾きたいわけじゃなくってさ」

 

 渡したギターを日菜は肩にかける。ただし、ギターのボディは背中側。正面から見れば、日菜の身体には袈裟懸けにストラップが走っている。

 

 同じように、紗夜の肩にも日菜のギターがかけられた。意図が掴めなかった。

 

「……背弾き、ではないのよね?」

 

「うん! こう弾きたいの!」

 

 そして、紗夜は日菜に柔らかく抱きしめられた。同じ遺伝子から作られた異なる体温が、じんわりと紗夜に移り始める。

 

 紗夜の身体越しに日菜がじゃかじゃかと弦を鳴らしているのに。

 

 その音が───ひどく遠い。

 

 そのくせ、正面から伝わる日菜の鼓動だけははっきりと感じ取れた。

 

 いつもよりずっと近い距離。日菜の背に手を回そうとして逡巡する。紗夜と同じはずのシャンプー。同じはずのボディソープ。嗅ぎ慣れているはずの残滓を感じ取って。なぜだか───肋骨の内側が熱を帯びた。

 

「おねーちゃん」

 

 日菜の吐息が耳元をくすぐる。

 

「はやく弾いてみて」

 

 困り果てて、紗夜は千聖へ視線をやった。いいんですか、と紗夜の目は雄弁に問うている。視線の先で、千聖の顔は無を表していた。

 

 無表情ではない。目を細め、微笑とも言えないほどうっすらと口元が弧を描いている。なんとなく、チベットスナギツネを思い出した。

 

 初めて見る千聖の表情だが、たぶん向こうも、何を見せられているんだろうと考えているに違いない。

 

「紗夜ちゃん」

 

「は、はい」

 

「ヘアクリップならあるけれど、髪留める?」

 

「あ、はい。お借りします」

 

 千聖にヘアクリップを手渡されながら、このまま演奏するのはいいのかと内心で驚く。

 

 日菜がしがみついたまま、紗夜は左手で髪をひとつにまとめ、指に絡めるようにねじりながら巻き上げる。髪が縦にひと塊になったところで、ぱちんとクリップで留めてしまう。

 

「……おねーちゃんが無防備にうなじ晒してるのをこの距離で見るの、なんだかどきどきするね」

 

「……ばか」

 

 互いに、さっとチューニングを済ませてしまう。

 

「これも今更なんだけど、初めから演奏するつもりだったのなら、大和さんは呼んでおいて良かったんじゃないの?」

 

「それはあたしも一瞬悩んだよ。けど、ヒカワーズの純度が下がるかなって」

 

「存在しないバンドを勝手に結成しないでほしいのだけれど」

 

「うん、じゃあまあそういうわけだから『しゅわりん☆どり~みん』ならおねーちゃんも弾けるよね?」

 

「ええ」

 

「千聖ちゃんも、準備はいーい?」

 

 ふと千聖の方を見ると、いつの間にか千聖が持つスマホにはゴテゴテしたアクセサリーが装備されていた。スタビライザーや外付けマイク。カメラは高価な物だし、スマホで撮影を続けるならRoseliaでも用意しておいた方がいいのかもしれない。頭の片隅にメモしておく。

 

 千聖が「いいわよ」と頷いた。

 

「じゃ、いくよー! はい、せーのっ!」

 

 不思議な感覚だった。原曲のポップさなんて欠片も無い、ロックアレンジとも言うべき荒々しさ。特に相談したわけでもないのに、一音目から曲の方向性がパズルのピースのように嵌まっている。

 

 Roseliaで演奏しているときのような、ハーモニーに包まれている感覚とはまるで違う。なのに甲乙つけがたいほどに心地良い。心音すらもピタリと重なって、ギター二本を一人で同時に操っているかのような錯覚すら生まれている。

 

 ───たしかに気持ちいいけどさ。

 

 一人遊びっぽくてつまんなくない? 日菜がそう言いたげなのが伝わってきて、原曲の要素すらも残っていないアドリブが始まった。

 

 ロックというより、最早ジャズのようだった。

 

 勝手にアドリブソロをやり始めて、次はおねーちゃんの番とばかりにバトンパス。淀みなく指を動かし続ける最中にも、蓄積された知識の中から使えるメロディとコード、スケールを参照し続け、どうにか自然体でこなしている日菜に食らいつく。

 

 脳が茹だるようだった。

 

 そんなやり取りを繰り返して、もういいでしょう、と『しゅわりん☆どり~みん』のメロディに戻ろうとする。けれど日菜は頷かない。単調なリズムをメトロノームのように刻み続ける。

 

 もっと、と聞こえた。

 

 もっと。

 

 もっともっと。

 

 もっともっともっと。

 

 ───おねーちゃんの、ソロが聞きたい!

 

 こっちはもう引き出しをすべてひっくり返しているというのにだ。

 

 ギャリ、とわざとノイズが乗るようにすべての弦を押さえて沈黙する。

 

 胸に去来したのは、懐旧の情だった。

 

 息が聞こえる。

 

 昔は一事が万事こんな感じだったと思い返す。けれど今は重要ではない。二度と雑念が浮かび上がらないように、深く息を潜めた。

 

 息が聞こえる。

 

 知識は品切れ。聞き齧りだけでは太刀打ちできない。そんな中で輝いて見えたのは、培ってきた経験だった。

 

 湊友希那に。今井リサに。白金燐子に。宇田川あこに。影響し合い、感化し合い、磨き合った、センスと直感。

 

 不安そうに揺れる日菜の息が───聞こえている。

 

 日菜の息が止まる。

 

 日菜が声を発しようとするその瞬間。

 

 間隙を突くように、紗夜は力強くピックを振り下ろした。

 

 知識を最小単位でバラバラにしてしまう。そして己の経験に従って組み換える。

 

 すでに描かれた星と星をつなぐ線を消し去って、ただ自分が思うままに新しい星座を描き出すようだった。

 

 ただの氷川紗夜には出せなかった、Roseliaの紗夜としての音。

 

 ギターを弾く手に力が入る。さながら、日菜の腰をぐいと抱き寄せるよう。

 

 今ならば。

 

 ───あなただって、めちゃくちゃにしてしまえるんだから。

 

 日菜を振り回すつもりでアタックを強くする。そうすればすぐに、日菜の迷いが消え去った。

 

 紗夜の音を受けて、るんっと、日菜のボルテージが上がる。

 

 吼えるように。叫ぶように。自己を証明するように。奏でる音は荒々しく。されど、激しさとは裏腹に柔らかな部位を日菜に擽られているようで。

 

 逆に他人では決して触れられない日菜の奥深くを、紗夜は無遠慮に撫で回している。

 

 確信があった。拒まれない。拒みやしない。信頼に裏打ちされた上で、互いの音を通じてまさぐり合う。

 

 理性も倫理も言い訳も道徳も───もう、いらない。

 

 纏ってきた常識を、一枚一枚脱ぎ捨てて。

 

 さらけ出した心臓が、日菜とのつながりを求めている。

 

 音だけで、つながっている。魂までもが、震えている。

 

 旋律が重なる。拍動が重なる。心までもが重なった果てに。

 

 紗夜と日菜は、思い出したかのように『しゅわりん☆どり~みん』のアウトロを弾いた。

 

 チョーキングとビブラートを経て、姉妹のセッションが終わりを迎えた。

 

 互いに汗だくで、息も絶え絶えだった。

 

 熱を孕んだ吐息が混ざり合う。震える指先からはピックが滑り落ちて。弦を押さえていた指は、日菜の背筋をなぞっていた。

 

 対等になれたと思った。

 

 熱が、逃げ場を失っている。

 

 情動が、今にも暴走しそうだった。

 

 名残惜しさを感じつつ、日菜と身体を離す。面と向かえば、潤んだ瞳と視線がかち合う。日菜の瞳だけでなく、視界のすべてがキラキラと輝いて見えた。

 

 その光景が、とてもきれいで───。

 

 涙が零れてしまいそう。

 

「おねーちゃん───」

 

 こつん、と日菜が額を合わせてくる。言葉にする前の考えすら通じ合ってしまいそうな中、すり、と鼻の頭が触れ合った。

 

「───気持ち良かったね」

 

 唇すら重なってしまいそうな距離で、日菜は笑った。

 

 すべてを出しきった。尊いものを分かち合った。掛け値無くそう思える。

 

 夢心地の余韻は、千聖の鋭い咳払いによって拭い取られた。ひやりとした現実に水を差される。

 

 けれど日菜はまるで気にしていない。宝物を自慢するかのように、千聖へ笑顔を向ける。

 

「どう? 千聖ちゃん。ちゃんと撮れてる?」

 

 そして動き方を思い出した時計のように、紗夜も千聖へと目を向けた。撮影されていたことすら忘れ果てて、ただ無我夢中のまま演奏に───日菜に、没頭してしまっていた。

 

 紗夜と日菜の目の前で、千聖はにっこりと微笑む。

 

「ありがとう紗夜ちゃん。今朝紗夜ちゃんが私に今日のパスパレの活動予定を確認してくれていなかったら、日菜ちゃん一人でこの映像をネットに放流していたかもしれないわ。そうならなくて、本当に良かった」

 

「千聖ちゃん、まるで今撮ったのが使えないみたいな言い方するね」

 

「まるで、じゃないのよ! ボツ!」

 

「えー! なんでー!?」

 

「こんな絵面、世に出せるわけないでしょう!?」

 

「私も後半は暴れ過ぎた自覚があります。その部分をカットすれば、前半は使えるのではありませんか?」

 

 紗夜の言葉に、千聖はため息をついた。一度見せた方が早いとばかりに、スマホの画面を差し出してくる。

 

 映っていたのは案の定と言うべきか、演奏を始めた瞬間からカメラの存在を忘却した己の姿だった。カメラ写りなんてまるで気にしていない。瞼を下ろして、音にだけ集中しきっている。

 

 ただ、映像に残った自身の顔を見て、紗夜は気恥ずかしくなってしまった。眦を下げたその表情は、日菜に対する信頼と情愛が溢れきってしまっている。

 

 抱擁し合って演奏する変則的な体勢のせいか、千聖は紗夜たちの周りをぐるぐる回りながら撮影していたらしい。そのことにも、紗夜はちっとも気付かなかった。

 

 対照的に、日菜はカメラの画角に自分の顔が入るや否や、ウインクを飛ばすなどのリアクションを見せている。さすがにアイドルとして場数を踏んでいるだけはあるのだなと紗夜は感心した。

 

 けれど妹の吊り上がった口端が、挑発的な目の色が、抱きすくめた姉をあたしのだぞと独占欲を丸出しにして叫んでいる。

 

 悪くない気分だった。それが一番悪いと言えた。主に頭が。脳の回路が焼き切れているとしか思えない。

 

「元々一回目は日菜ちゃんのガス抜きのつもりだったしね。データはちゃんとあげるから、プライベートで楽しみなさい。あと、次は普通にギターを構えて弾きなさい」

 

 日菜と顔を見合わせる。反論は無かった。こんな顔をした日菜を。私だけを想って浮かべられた表情を。他の誰にも見せたくない。秘さなければならない。倫理の光に照らされないよう。独り占めしたい感情が、自然と日菜と通じ合った。

 

「……日菜、少し、休憩しましょうか」

 

「そう、だね……」

 

 ぎこちなく距離をとって、スタンドにギターを立てかける。気まずさは無い。ただ一気に近づき過ぎた距離感を元に戻さなければ、今後の人生に影を落とす過ちを犯してしまいそう。

 

 自分のスマホを持って、ふらりと、日菜はレッスン室から出て行った。

 

 耳まで赤くした日菜の大人しさを見る限り、日菜も降って湧いた感情の処理に戸惑ってしまったのだろう。

 

「紗夜ちゃんにも送ってあるから、ちゃんと再生できるか確認してもらっていい?」

 

 正直、自分のスマホに保存しておきたくないし、早く消させてくれないかしら? と千聖は言う。

 

 自分たちが公序良俗に反しているかのような物言いに紗夜は口をヘの字に曲げる。けれどそのまま口を噤む賢明さは残っていた。どう言い繕おうと、分が悪い。

 

 千聖に促されるまま自分のスマホをチェックして、動画が再生できることを確認した。

 

 無事に危険物を処理できたように、千聖が安堵の息を吐く。

 

「それにしても、思っていたよりも遥かに似た者同士だったのね、あなたたち」

 

 マーキングしたいのは、日菜ちゃんだけだと思ってたのに、と千聖は苦笑を浮かべた。

 

 少し性急過ぎたのだろう。保存した動画の操作を千聖に見られてしまったらしい。

 

「……日菜には、内緒ですよ」

 

 紗夜の頬は、動画のサムネイルについたハートマークと同じ色に染まっていた。

 

 

 了


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