ブタ野郎に親友を作っただけのお話   作:ノラン

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深まる謎

 

 

 ——颯が、桜島麻衣を、忘れた。

 

 

 その事実に、天の胸は鋭く貫かれた。

 

 かえでが忘れた事実、それ以上の衝撃。

 物理的な衝撃を受けたわけでもないのに、刃物で思い切り突き刺されたような痛みが、全身を駆け巡る。

 

 昨日まで話題に出していた桜島麻衣。

 数週間ずっと振り回されてきた桜島麻衣。

 なにかあれば口から名前が出た桜島麻衣。

 

 自分と同じく一日に十回は存在を意識していた颯が、嘘のように彼女を忘れた。

 

 

「国民的芸能人だぞ? 忘れるわけねぇだろ」

 

 

 そう豪語していた颯が、まるで初めから居なかったかのように彼女の存在に疑問を抱いて。

 

 ダメージがかえでのとき以上なのは、彼が共に思春期症候群と戦ってきた仲間であるからだ。

 同じ目線で、場所で、それの脅威を体験し、対策を練って試行錯誤してきたからこそ、失ったと知った瞬間の衝撃は大きく、負担が尋常じゃない。

 

 同時に、別の意味でも衝撃を感じていた。

 それは、自分と同じ目線で、場所で、戦ってきた颯が忘れたからこそ、悟ってしまった恐怖心。

 

 ——自分もいずれは、忘れてしまうのではないか。

 

 

「………颯」

 

「あ?」

 

「ちょっとごめん! 放送委員の仕事思い出したから先に行ってる!」

 

「おい、天ーー!?」

 

 

 考えるよりも先に、天はその場から駆け出していた。慌ててこちらを追いかけようとする足音、驚いて名前を呼ぶ声、背にかかる二つから逃げるように、駅へと真っ直ぐに。

 

 行動。とにかく行動だ。今の自分にできることはそれ以外にない。

 割り切れるはずがない。それでも、起こってしまったものは仕方ないと頑張って割り切り、事態の把握が最優先だと怯む心を怒鳴りつける。

 

 目的地は峰ヶ原高校。双葉の話が本当なら、解決の鍵を握っている可能性がある舞台。

 

 

 ーーもしかしたら、みんな忘れてるかもしれないな

 

 

 息を切らして走りながら、天はふと嫌な予感を感じ取った。

 

 これまで、峰ヶ原高校の生徒は誰一人として麻衣の存在を忘れてはいなかった。

 名前を出して「なぜその名前が?」と疑問に思われたことはあったが、名前の存在自体に疑問を抱かれたことはなかった。

 

 でも、颯は忘れた。あの颯がだ。

 なら、他の生徒が忘れていてもおかしくない。

 

 もしかすると、なにかの拍子で歯車が噛み合い、緩慢だった事態が急激に時を刻み出したから——そう判断するのは流石に早計すぎるか。

 

 いや、早計であってくれ。

 

 

「マジで勘弁しろよ。お願いだから」

 

 

 忘れているのは颯だけであってくれ、と。

 

 強く握りしめた拳の中に願いを込め、しかし心構えをする天は全速力で峰ヶ原高校へと向かっていった。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 天の想像を遥かに凌駕する勢いで、事態は深刻だった。

 

 峰ヶ原高校に到着するまでに、天は登校中の生徒に麻衣を知っているかと聞き回った。

 藤沢駅、江ノ電の中、七里ヶ浜駅、駅から高校までの道、全てで同じ制服に身を包む人にこれでもかと『桜島麻衣』の存在を確かめた。

 

 

「ーーーー」

 

 

 結果は、死んだような表情で上履きに履き替える天を見れば歴然。

 峰ヶ原高校の昇降口、友人たちと談笑する周囲の生徒とは違い、一人だけこの世の終わりを悟ったような様子で絶望している。

 実際、天からすれば終わったようなものだった。脳裏に過った嫌な予感が的中していたのだから。現状が最悪の中の最悪なのだから。

 

 ——誰も、桜島麻衣を、覚えていなかったのだから。

 

 誰も、誰もだ。

 『桜島麻衣』の名前を出しても疑問を抱かれ、彼女の存在を覚えている生徒は誰一人としていなかった。

 名前を出しても颯と同様の反応。それどころか、同じ場所で手当たり次第に「桜島麻衣を知っているか」と聞き回る天が、周囲の人間から頭のイカれた奴だと思われる始末。

 

 居ないのが当たり前。

 知らないのが当たり前。

 

 そんな空気感が白い目となって向けられたと察した瞬間、天は呆然とし、けれど諦めずに聞き、最後には絶望した。

 

 これが、天が死んだような顔になった経緯であり、事態が最悪の中の最悪であると理解した理由。

 

 

「ーーーー」

 

 

 手すりに寄りかかりながら、一歩ずつ、階段を登る天。その足取りは処刑台に登るように重く、踏み外せば簡単に転げ落ちかねないほど危うい。

 足元しか見ていない彼は、もう誰にも『桜島麻衣』のことを聞いてはいなかった。聞いても無駄だと、白い目で見られるだけだと、完全に諦めていた。

 

 誰か一人でも、と。思う心など無い。

 通学時間およそ三十分、江ノ電に乗る全ての生徒にずっと聞き続け、自然と向けられた白い目に、それは消された。

 全車両を移動しながら一人一人に同じ言葉を投げかけ続ける様は、客観的に見てかなり異質だったのだろう。

 最後の方は「来ないで」と目で語られ、あからさまに避けられてしまった。

 

 

「ーーーー」

 

 

 息苦しい。

 空気が重い。

 

 麻衣を知らないことが当然だと主張し、居ない存在として扱う空気が。

 吸うだけで、自分も取り込まれてしまうのではないかと不安になる空気感が。

 こんなものが、この高校に()ったとでも言いたいのか。

 

 どうすればいい?

 なにをすればいい?

 

 捨て場のない疑問が、天の頭を埋め尽くしている。その答えなど、余裕のない彼に出せるわけがなかった。

 

 

「ーーーー」

 

 

 心の拠り所とも言える存在、その一人である颯すら思春期症候群に飲まれ、感情の共有相手を失った天から生気(せいき)が薄れていく。

 この恐怖心を分け合える人が居ない。未だ颯が忘れたショックを受け止めきれておらず、傾れ込む事実に心の整備が追いついていなかった。

 咲太という最後の希望があるけれど、彼が高校に到着するまでの間、恐怖心(これ)とどう向き合えばいい。

 そもそも、咲太が忘れている可能性だって捨てきれない——恐ろしいから考えたくない。

 

 自分一人だけが、世界からズレているような感覚が心を侵食している。

 自分が間違っているのだと、空気が言葉を叩きつけている気がする。

 孤独。その言葉が思い浮かび———。

 

 

「——空野?」

 

 

 ——故に、彼女との遭遇は奇跡だった。

 

 

「ーーーー」

 

 

 聞こえた声に天が足を止めると、床しか映らなかった視界に誰かの上履きが飛び込んでくる。

 ゆっくり顔を上げた正面、一番に理央の姿が見えた。眼前に立つ彼女は、心配そうな目でこちらを見つめている。

 次に自クラスの室名札が見えた。どうやら、知らない間にクラスの前まで来ていたらしい。

 

 

「………双葉か。おはよ」

 

「ん、おはよ。どうしたの、顔色悪いけど」

 

「まぁ、ちょっとね」

 

「ーー?」

 

 

 目の焦点がまるで定まっていない天。心配に対して覇気のない返事をされた理央は、自分を見ているようで見ていない双眸を訝しむ。

 そんなことにも今の天は気づけない。目の前にいる理央も麻衣を忘れているのだろうと思い、勝手に沈んでいる。

 

 決めつけが良くないとは分かっている。けれど、決めつけたくなるくらい、誰も覚えてくれていないのが残酷な現状だ。

 ああ、でも、理央なら、もしかしたら。彼女なら、覚えてくれているかもしれない。

 

 

「なぁ、双葉」

 

「なに?」

 

 

 いつもと変わらない、気だるそうな様子の理央に、天は半ばダメ元で問いを作り始める。

 この疑問をぶつけたとき、かえでも颯も、普段通りな様子だったな。

 そんなことを思いながら、愚かにも淡い期待を持って、

 

 

「ちょっと聞きたいんだけど」

 

「桜島先輩のこと?」

 

「そうそう、桜島先輩の……」

 

 

 こと、と。

 言いかけて、止まる。

 

 頭で思い描いたやりとり。

 この数十分の間に何十と繰り返してきたそれをなぞり、同じ結果を辿る——そう思っていた心が、今の一言で停止した。

 

 麻衣の存在を確かめれば、必ず「知らない」と返される。逆に誰かと問われて語れば、「そんな人は居ない」と現実を突きつけられる。

 何度も何度も、何度も何度も何度も、天の精神をぐさぐさと滅多刺し、ついには理央にトドメを刺される。

 

 刺される、はずだった。

 それが、天の思い描く結末。

 

 

「ーーーー」

 

 

 その結末がひっくり返る予感を感じ取り、天の表情にふっと光が灯る。

 悲しいことに己の耳を疑う彼は理央を凝視し、真剣な声色で、

 

 

「双葉、お前……桜島先輩のこと覚えてんの?」

 

「覚えてるよ。今のところは」

 

 

 瞬間、暗がりに閉ざされた天の視界が一気に晴れる。

 濁り切っていた周囲の空気が浄化されていき、胸を締め付ける孤独感が消失し、温かい光が差し込むような錯覚を得て、その中心に理央がいた。

 

 いつも通りの理央。朝のホームルーム前、暇な時間に話すときの空気感を纏った彼女だ。けれど、いつもと目の色が違う。

 こちらを心配している目。理央が気にかけてくれているのが分かる。——ここにきてようやく、天は自分が理央に心配されているのだと自覚して、

 

 

「俺、双葉と同じクラスで良かった」

 

「え?」

 

 

 文脈のない感謝に顔を顰め、小首を傾げる理央。彼女がその真意を聞くよりも先に、安堵の波に揉まれる天は膝から崩れ落ちた。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 理央が天を見つけたのは、教室から女子トイレに向かう最中のことだった。

 友人同士でトイレに行くことが多い女子高生だが、理央にそんな相手がいるはずもなく。一人で教室から出た矢先、彼の姿を捉えた。

 

 端的に言って、その瞬間の天は死にかけていたと思う。

 一歩一歩、おぼつかない足運びで、壁を支えに進む姿は今にも倒れそうで。

 俯いて斜め下を眺める瞳には一切の光が宿っておらず、ひどく青ざめた表情は理央も初めて見る。

 周囲の生徒が行き交う廊下の中で一人、簡単に人目を引けるほど異常な雰囲気を纏っていた。

 

 自分が麻衣を覚えていると言った後の反応も含め、明らかに天の様子がおかしいと察した理央。

 話を聞こうとする彼女は天を連れて自クラスの教室に戻る——と思ったところで、別の方向に舵を切った。

 

 

「この場所、この時間からでも使えるんだ」

 

「基本、鍵は私が持ってるからね。授業で使ってなかったら出入りは自由」

 

「鍵の管理が杜撰すぎる気が……」

 

 

 羽織る白衣のポケットから鍵を取り出し、理央は教室の扉を開けて中に入る。後に続く天が言いながら苦笑するのを背中にし、彼女は定位置である椅子に腰掛けた。

 天もまた教卓を挟んで椅子に座り、理央の真正面に自分の体を置いた。

 

 理央が天を連れて足を運んだのは、二人が偶に勉強会を開く物理実験室。

 雑音の多い教室(クラス)だとまともに話せないと考え、静かな環境を求めた結果だ。

 

 全学年の普通教室が集合する北棟と違い、職員室や保健室、図書館やこの場所などの特別教室が集合する南棟。

 生徒の教室が一つもないこの棟はただでさえ人気(ひとけ)がなく、この時間だと尚更。人の気配すらせず、別世界のように感じる。

 

 それに、この場所の方が天が精神的にも休めると思った。

 もはや、物理実験室が本来の用途で使われなくなってきた気がするが、それは置いとくとして。

 

 

「さっきの空野、かなり疲弊してるように見えてたよ」

 

「どんな風に?」

 

「今にも死にそうだった」

 

「死にそう、ねぇ……」

 

 

 椅子に座るなり、教卓にバッグを置いた天が、それを枕代わりにして教卓の上で突っ伏す。理央の言葉を呟き、深々とため息をついた。

 縦に伸ばした左腕に左頬を乗せ、顔を横に向ける天。彼はそうして理央と目を合わせると、

 

 

「今の俺、死にそう?」

 

「さっきよりはマシ。でも疲れた顔してる。徹夜でもした?」

 

「するわけ。ちゃんと寝たよ。俺が夜弱いの知ってるだろ」

 

「見たいアニメをリアタイしようとして……」

 

「やめてくれ双葉。その()は俺に効く」

 

 

 こちらを心配し、慮ってくれているのか、茶化してくる理央の声に自分の声を挟み、天は乗っかるつもりで軽口で返した。

 ネタが伝わらない理央が「術?」と不思議がるが、肉体が疲労を主張し始めた天は反応できない。

 

 理央に会って、張り詰めた糸が緩んだ。教卓に突っ伏して脱力した途端から、どっと吹き出した疲労感が全身にずしりとのしかかっている。

 体が重く、この体勢から動く気が起きない。動きたくないと、心が主張している。だって、今がすごく心地よい。

 

 

「確かに、今の俺は疲れてるっぽい。今になって体が疲労を主張してる。俺もう動きたくないよー、って」

 

「なにその言い方」

 

「ふざけてないとやってらんないの。気ぃ滅入ってんだから、気にすんじゃねーよ」

 

 

 独特の言い回しに呆れた目をし、こちらを見下ろしてくる理央。机に頬杖をつく彼女の目を避けるように、天は顔を下に向けてバッグに顔面を埋める。

 不意に出た天の荒っぽい口調、あまり聞けることないそれを気に留めつつ、理央は「ふーん」と鼻を鳴らし、

 

 

「朝からそこまで疲れることってなに? 察するに思春期症候群絡みだとは思うけど」

 

「ご明察。すげーことがあったんだよ」

 

「ふざけてないとやってられないくらい?」

 

「ふざけてないと気ぃ狂いそうになるくらい」

 

 

 的を射た理央の推察を肯定し、前言をより悪い方向に訂正した天が静かに頷く。

 冗談なのか、違うのか、表情が見えないから分からず、ただ声は深刻そのものだから、理央は眉間に小さく皺を寄せた。

 

 こうして理央と軽口を交わし、気を紛らわしていないと気がおかしくなりそうなのは本当だ。

 友人とたわいのないやり取りをしてメンタルを立て直さないと、現状と向き合えそうにないと天は思う。

 けれど、そんな悠長なことを言ってられる場合でもないとも思う。

 

 事態は最悪の中の最悪。

 桜島麻衣の存在が世界から消えつつあるのだから。

 

 

「……双葉。桜島先輩の思春期症候群絡みで聞いてほしいことがある」

 

 

 多少、冷静さを取り戻した心の中で気を張り、天は体を起き上がらせる。背筋を伸ばし、理央のことを一直線に見つめた。

 死んでる暇はない。咲太だって頑張っているはずだから自分も頑張るのだと、天は現状と向き合う心を作る。

 

 

「いいよ。話は聞く」

 

 

 双葉 理央は、思春期症候群については否定的な意見を持ち、都市伝説に近しいその話に付き合うのは極力避けようとする。

 その彼女は天の真摯な態度に触発されたように、すんなりと聞く姿勢を整えた。

 

 

「ーーーー」

 

「ーーーー」

 

 

 静まり返る物理実験室で、緊張感を漂わせ始めた二人が見つめ合う。

 理央が聞き手で、天が話し手。故に後者が口を開くまで、二人はその静寂に閉じ込められたまま、時を過ごすことになる。

 

 

「——颯が桜島先輩を忘れた。颯だけじゃない、峰ヶ原高校に通う他の生徒たちも忘れてる」

 

 

 その静寂を破り、覚悟を決めて前へ進むべく、天は口を開いた。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 意を決して投げかけた言葉。それに対して理央は強く瞠目したが、それも一瞬のことだった。

 瞠目に開いた目を細めると思案するように顎に手を当て、悩ましげに喉を高く鳴らし、

 

 

「桜島先輩が発症した思春期症候群は、彼女の姿や声が他者から見えなく、聞こえなくなる。いわば『透明人間状態』になるもの。——これが空野の解釈の仕方でいい?」

 

「今は違う。他者から存在を忘れられるもの、言い換えると認識されなくなるものだと思ってる」

 

「やっぱり……。空野もそう考えたか」

 

 

 前提条件から見直そうとした理央。天に今の解釈を述べると、彼女は真剣に目の色を変えて首肯する。まるで、天が分かっていることが分かっていたようなリアクション。

 天に向ける知能的な信頼の高さをチラリと見せた理央は「あのさ」と、前置き、

 

 

「桜島先輩を忘れてる人ってどこまで把握してる?」

 

「颯と、江ノ電で確認した人たちはみんな忘れてる。一人一人に聞き回ったおかげで、電車の中で頭のイカれた奴認定された」

 

「それは元からでしょ。良くも悪くも、空野は色々な意味でズレてるから」

 

「ひどいこと言うね、あなた」

 

 

 淡々と言葉の刃で切りつけてくる理央に失笑し、天はため息をつく。

 意図の読めない、いや、そもそも意図なんてない刃を常備する理央は彼の反応を気にせずに、

 

 

「空野、昨日は寝た?」

 

「聞く必要ある?」

 

「ない。けど、それだと私の仮説が否定されることになるから確かめたかった」

 

「仮説?」

 

 

 理央の口から出た単語に小首を傾げ、天が頭上に疑問符を生やす。

 そんな様子に理央は「うん」と頷き、

 

 

「昨日の夜中……正確には今日の深夜、梓川から電話があって現状を聞いたんだよ」

 

「うん。俺にもあった。アイツ今、桜島先輩と二人で小旅行してるらしいね」

 

「あの桜島麻衣と、ね。私としてはそっちの方が思春期症候群以上に信じられない話だけど」

 

「それは俺も思う。アイツが年上の異性と同じ部屋で寝るとか信じられねーよ」

 

「気にするところ、そこ?」

 

「そこ以外にないっしょ。……それで? 仮説って?」

 

 

 脱線しかけた話を戻し、天は先ほどの『仮説』を聞きたがる。なにか自分では考えられないことを考えついたのかと、瞳が期待に光った。

 前のめりになる彼の表情から疲労が抜け、活気に色づいてきたのが分かった理央。内心ほっとする彼女は頭の中を整理しながら、

 

 

「桜島先輩の思春期症候群の原因。私の予想が正しければ、それはこの学校そのものだと思う。正確には、学校にいる全校生徒の無意識」

 

「全校生徒の無意識?」

 

 

 立ち上がる理央が自分の考えを語り始め、声にして反芻する天が頭で理解しながら聞く姿勢をとる。

 話し手と聞き手が逆転したと双方が感じ取ると、会話の主導権が天から理央に移った。

 

 理央は「前提として」と前置いて、

 

 

「桜島先輩は、前々からこの学校で空気のように扱われてきた。そこに居ても居ない存在として扱い、誰も気にも留めることがない。私自身それが当然だと思って特に疑問も抱かず、その空気を読んでいた」

 

「麻衣さんも自分が空気であることを演じてる節がある。って咲太も前に話してたかな」

 

「なら、それも原因に付け加えられそう」

 

 

 理央や咲太が語った話。正直なところ、その辺の話、天はよく分かっていない。

 

 だってそうだろう。天にとっての桜島麻衣とは同じ学校に通う女子高生、ただの先輩であるから。そんな人を空気として扱うとか、普通に考えてあり得ない。

 国民的芸能人だか知らないが、麻衣だって自分と変わらない一人の人間。そんな人を空気として扱う理由がない。

 

 故に、自分は空気を読む読まない以前の問題が生じると思うが、言うと論点が別のものになりそうだから今は黙っておく。

 

 

「そしてその空気を読む意識は校内で蔓延していき、いつしか私たちを含めた全校生徒にとって無意識になった。結果、彼女は誰からも観測されず、認識されることがなくなった」

 

「それが原因?」

 

「恐らく。無意識のうちに起こしている桜島麻衣に対する無関心、それが思春期症候群を引き起こしてるんじゃないかな」

 

 

 峰ヶ原高校に通う人間の全員が、桜島麻衣は空気のような存在であると認識し、それが常識という名の空気に化けて無意識の中に根付いた。

 空気のような存在——難しい言い回しだが、簡単に言えば『存在が曖昧な人』だろうか。空気は目に見えないし、有っても無くても分からないから。それを人間に当てはめれば、イメージがつく。

 

 空気は、知らず知らずのうちに伝播していく。

 みんながそうしているから自分もそうする。そうやって周りに合わせようとする意識、それが伝播の方法。

 

 ——お前、空気読めよ。

 

 そんな言葉を聞いたこともある。読まなければ異端者として扱われ、人格を否定される魔法の言葉。

 実際、麻衣のことを聞き回ったときの天がそうであったように。

 

 その空気を全校生徒が無意識のうちに読むようになったことで、麻衣は誰からも見ようとされず、観測されず、存在がなかったことにされ、今現在、消えていく危機に瀕している。

 

 まとめると、こんなところだろうか。

 

 

「ならやっぱり、双葉が言ったシュレディンガーの猫、観測理論の話は正しかったんだ」

 

 

 自分なりの解釈から仮説を広げ、天に展開した理央。彼女が出した思春期症候群の原因に指を鳴らし、頭の整理を終えた天は軽快に声を出し、

 

 

「現状をシュレディンガーの猫で例えると、この学校が箱で、桜島先輩が猫ってことでしょ。だから、全校生徒が観測者になるのかな」

 

「そうなるね。正直、自分で考えておいて信じたくないけど」

 

 

 天の話を信じたことで、認めたくないけど認めざるを得ない状況に立たされた理央が、そう言って顔を顰めて腕を組む。

 その正面でも同じように天が腕を組み、目を瞑ってシュレディンガーの猫の光景を想像して、

 

 

「シュレディンガーの猫の話に当てはめると……。箱の中に桜島先輩がいるとして、観測者(誰か)が箱を開けて桜島先輩の存在を観測するまでが一連の流れだけど」

 

「この場合だと、その観測する『誰か』がいないから存在が確定せず、存在そのものが消えていく」

 

「しかもその『誰か』って『全校生徒』なんでしょ? つまり、全校生徒が桜島先輩を観測してやっと、桜島先輩の存在が確定するってことか」

 

「シュレディンガーの猫を元にして、量子力学的に論ずるのであればね」

 

「無理ゲーすぎる」

 

 

 二人一緒に真実に辿り着き、天が現状打破の道がどれほど険しいものであるか理解し、難易度の高さに頬を引き攣らせ、恐怖から歪な笑みを浮かべる。

 理央も理央で思うところがあるらしく、気だるさなど微塵もない至極真剣な顔持ちで吐息しながら背中の黒板に寄りかかり、

 

 

「こうして考えるとぞっとする」

 

「どれに?」

 

「こうなる前から桜島先輩が空気として扱われてきた事実と、私自身もその空気をなんの疑問も感じず読んできたことに」

 

「空気は読むものじゃなくて吸うものだけどね」

 

「そういう話をするなら帰るけど」

 

「冗談ですごめんなさい」

 

 

 深そうで深くない茶化しを受け、真面目に考えていた理央が軽く天のことを睨みつける。

 茶化した張本人は腰を折り曲げ、額を教卓につけて謝った。

 冗談を言えるくらいには落ち着きを取り戻せたか、と。密かに安心させられる理央は椅子に腰掛け、

 

 

「だからこそ、解決の糸口はこの学校の空気にあると思う。空野が言った通り、全校生徒に桜島先輩を認識、観測させることができれば、桜島先輩の思春期症候群は治るんじゃないかな。突飛な発想だけど」

 

「人間の無意識に抗い、峰ヶ原高校を支配する『桜島麻衣は存在が空気』であるという空気を破壊しろと」

 

「そう」

 

「簡単に言ってくれるよ」

 

 

 あまりにも抽象的な打開策だったのだが、「そう」の一言で肯定されて天は嘆息。

 

 麻衣の思春期症候群を解決するには、学校全体を支配する『空気』を破壊するしかない。

 その『空気』とは、全校生徒の麻衣に対する無自覚の無視、つまり無意識の領域に根付いているもので。

 他者の侵入が困難な領域にあるそれにどうにかして干渉し、根本から断つことが破壊方法。

 

 要は、全校生徒が桜島麻衣を無視できない状況を作り出せということだ。

 

 

「この学校の全校生徒って何人?」

 

「およそ1000人」

 

「相手は約1000人、対してこっちは俺と双葉と咲太と桜島先輩の4人」

 

「私を勝手に入れるな」

 

「そんな薄情なこと言わないでよ。ここまで付き合ってくれてんだから最後まで付き合——」

 

「私も忘れる可能性がある」

 

 

 話には付き合うが、全面的な協力はしないと断る理央に縋ろうとする天だったが、重ねられた一言にその願望は塗り潰された。

 ぴたりと動きを止め、表情が固まる天。真剣で、嘘を言っているように見えない理央の目を見つめる彼は五秒、沈黙の間を置き、

 

 

「なんで?」

 

「ここでようやく、仮説の話になる」

 

 

 動揺が態度として浮き出る天の疑問には答えず、会話の主導権は自分が握り続けているのだと理央は話を始めに戻らせた。

 それから理央は椅子に腰掛け、教卓に両肘をついて組んだ手に顎を乗せると、天に疑問の目を向けて、

 

 

「今日になって突然、全校生徒が桜島先輩を忘れた理由に心当たりがある」

 

「それは?」

 

「睡眠」

 

「睡眠……? だからさっき、俺が寝たかどうか聞いてきたの?」

 

「そう。おかげで仮説に矛盾が生じた」

 

 

 興味ありげにやや前傾姿勢になり、理央は疑問の色を深めた双眸で天を見据える。

 仮説の詳細を知らない天が、理解ができず困惑気味に「えぇ?」と肩をすくめるのを見ながら、

 

 

「認識と観測がキーになっているのであれば、人の意識が働かない睡眠が、記憶をなくすトリガーになっているという考え方は、私なりに納得できるんだよ」

 

「寝たら忘れるってこと? でも双葉は覚えてるし、俺も覚え…………」

 

 

 そこまで言い、違和感に気づいた天は中途半端な位置で言葉を止めた。

 自分と他の決定的な違いに思考が行き着きそうな予感に双葉は「気づいたか」と呟くが、思考の海に潜る天には届いていない。

 

 麻衣の存在を忘れるきっかけは、睡眠をとること。

 睡眠をとるということは、自分の中にある物事を意識する力を一時的に手放すということ。

 意識する力を手放すということは、麻衣を認識する力が弱まる——ということだと思う。

 そして、麻衣を認識する力が弱まったタイミングで、彼女の存在を認識不可になり、忘れてしまう。

 

 これが桜島麻衣を忘れる一連の流れ。と、順を追って整理したところで、天は思考の海から上がる。

 睡眠がトリガーとなっているのは分かった。でも、矛盾が一点だけある。

 

 それは、

 

 

「俺、昨日は寝たけど覚えてる。双葉は?」

 

「寝てない。だから私が覚えてることの辻褄は合うけど、空野は合わないんだよ」

 

 

 深く息をつき、理央は「どうしてだろ」と目を瞑る。彼女の熟考している様子を前に、天も「んー」と喉を低く鳴らして考えながら、

 

 

「認識と観測。その二つが桜島先輩の思春期症候群のキーポイントなんだよね」

 

「そうだと思う」

 

「なら論点は二つに絞るとして……。なんで颯は寝て忘れたのに、俺は覚えてんだろ。俺と颯の違いってなんなんだろ。男気?」

 

「桜島先輩に対する認識と観測において、全校生徒と空野の間に決定的な違いがあるから忘れてないのかもしれない」

 

 

 閉じた目を開き、理央はそれを探すように天のことを見る。

 天は頭の中がごちゃごちゃにならないようノートと筆箱をバッグから取り出し、考えを丁寧に書き出し始めた。

 

 ——これまでの情報を、思いつく限り整理しよう。

 

 その一。

 桜島麻衣の思春期症候群の症状は、彼女自身の存在が他者から認識されなくなり、存在が忘れられてしまうもの。

 原因は峰ヶ原高校に蔓延する『空気』。桜島麻衣を空気のように扱う『空気』が無意識のうちに全校生徒に定着し、このような事態を引き起こした。

 

 その二。

 桜島麻衣を忘れるトリガーは睡眠。眠っている間は意識が働かない時間であるため、桜島麻衣を認識する力が一時的に弱まり、峰ヶ原高校の『空気』に飲まれてしまう。

 

 その三。

 桜島麻衣類自身も空気であることを演じ、受け入れようとしていた節がある。

 空気を演じる理由はおそらく、桜島麻衣の境遇にある。桜島麻衣は国民的芸能人であるが故に、今まで周囲から注目され続けてきた。

 幼い頃から人目を気にして生きてきたことで、その目を疎ましく思い、自分のことを知らない世界に行きたいと願った。

 桜島麻衣にとってこの学校は、その願いを実現するにはちょうどいい世界だったのかもしれない。自分を空気として扱ってくれるなら、それに便乗すれば実質、誰も自分を知らない世界の完成だから。

 

 

「空野って、意外と綺麗な字してる」

 

「どーして意外なのかは聞かない」

 

 

 書き出すことで混乱を防いでいた天に、感心したような理央の声が突き刺さる。

 深く聞かない天はそれを受け流し、「ふぅ」と一息ついて書き殴る手を止める。

 

 ——と、そのときだった。

 

 

「……もうそんな時間?」

 

「ホームルーム開始のチャイムだ」

 

 

 ポケットから取り出したスマホで時間を確認する理央と、物理実験室の黒板の上付近にかけられた時計に視線をやる天。

 二人には教室のスピーカーから鳴り響くチャイムの音が、急かすように降り注いでいる。

 

 夢中になって話しているうちに、かなり時間が進んでいたらしい。気づけば朝のホームルームが始まる時刻だ。

 「どうするの?」と、目で問いかけてくる理央。スマホの表面を下にして手近な所に置く彼女に天は「あー」と半ば投げやりに、

 

 

「もういいや、めんどくさい。ついでに一時間目もサボる。休みたいし、もう少し考えてたい」

 

「優等生君らしくない発言」

 

「知らない知らない」

 

 

 からかってくる声を前から後ろへ聞き流し、天はホームルームどころか一時間目すらサボる宣言。

 学年的に高成績を保ち続ける人間とは思えない発言だが、本人にその意識は無い。

 

 今はこの場所でリラックスしていたい。物理実験室の静けさは好きな方だし、人が寄り付かないという意味合いでも好ましい。

 言った通り、自分だけが麻衣を覚えている理由を考えたい。昼休みには咲太と麻衣も到着するはずだから、せめてそれまでには。

 

 というわけで、本来なら焦って自クラスに帰るのが正解だが、天は不動を貫くことにした。

 

 

「それなら私も残る」

 

「なんで?」

 

「空野が忘れない理由、私も気になるから」

 

 

 「ノート見せて」と、理央は思考の材料にしようとノートを覗き込んでくる。

 さも当然のように自分もサボる宣言をした彼女だが、そこに特別感は一切無かった。表情も、態度も、声色も、普段と変わりない。

 

 

「ーー。ふっ」

 

 

 驚き、天は息を詰まらせる。けれど、間近にいる彼女の真剣な様子を見て、綻ぶようにその息と、微笑をこぼした。

 ホームルームも一時間目もサボることを理解した上で一緒に残ると、彼女は今の一言で伝えていたのだ。

 だからその理由を聞くのは無粋だと思って、

 

 

「まさか、双葉と一緒に授業をサボることになるとは思わなかった」

 

「中間テスト前日にこの所業。さて、これがどう響くか楽しみだね」

 

「物理の点数、今回はマジで勝つから」

 

「お好きに」

 

「たまには張り合ってきて。ねぇ、お願いだから。俺が勝手に対抗心燃やしてるバカみたいになるから」

 

「自覚あったんだ」

 

「おいこら」

 

 

 などのような談笑を挟みながら考え続けたせいで、結局は一時間目を大きく超過して昼休みまで二人して物理実験室で過ごしたのだった。

 

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