彩ちゃんが世界に麻弥ちゃんの良さを理解らせようとする話です。

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03:麻弥ちゃん大大大フィーチャースペシャル!

 

 芸能事務所『Purely Promotion』は本社内にレコーディング用の設備も確保している。ポスプロ作業やナレーションの収録・編集が主なのでそう大きなものではないが、常駐しているエンジニアの努力もあって業界標準レベルまでは整えられていた。

 カラフルなツマミとフェーダーのずらりと並んだコンソールに置かれた白いスピーカーからは、打ち込みによるチープな音色をしたアコギと散らされたピアノの爽やかな曲が流れている。ガラス製のテーブルの上では『いゔ茶味』と書かれたチョコレートの袋と、歌詞を印刷された赤いメモ書きまみれのコピー用紙がどさりと領土争いの真っ只中。

 薄暗い照明が窓から覗き込む夏空に押し負ける午後のスタジオで、メッシュの椅子に腰掛けた中年のチーフエンジニアがいかめしい顔で──

 

「相変わらず仕事がスムーズだなぁ麻弥ちゃん。どうだ、卒業したらここじゃなくてウチのスタジオ来ねえか? Quad Eightのプリとか揃えてるぜ」

「えっ本当ですか!? ……い、いや! すみませんがまだどうともお返事できないです……!」

「だっはっは! すまんすまん」

 

 ではなく。

 愛娘でも見るようなでれでれのチーフ(愛妻家、二児のパパ)にからかわれながら、今話題のアイドルバンド『Pastel*Palettes』──通称パスパレの縁の下の力持ち、ドラマーの大和麻弥がパッチケーブルをパッチベイに迷いなく繋いでいた。

 備え付けのグースネックに「すみません、リバーブの結線チェックさせてください」と声をかけて、天井際のモニターに写ったボーカルブースのスタッフが丸を作ったのを確認すると、ツマミをイジりながらうっとりと呟いた。

 

「それにしても『イヤホンと蝉時雨』ですか、選曲が最高ですねぇ時期的にも。それに繋いでるのってAPIのT12ですよね? いい感じにハイミッドにパンチが出て素敵ですね……これはアシスタントさんの声質もあるんでしょうか」

「流石の耳だなぁ。つっても、そこはマイクとの併せ技なんだが。ほれ、彩ちゃんの声ちと甘めだろ、そこをなるたけ活かそうと思ったらこのへんかと思ってよ」

「私ってそんな声なんだ……」

 

 話題に上がっていたご本人、パスパレ不動のセンターである丸山彩は、テーブルから少し離れた古いソファの隅っこで所在なさげに座ったままでいる。これから歌を録るボーカルとはとても思えないなおざり具合が不思議と似合うのは親しみやすさのお陰というべきか所為というべきか。

 彼女は何度来ても見慣れない機械の数々や相席している小さなウクレレなど興味心身にあちこち伺いつつ、機敏に働く少女の背中に声をかけた。

 

「なんかごめんね麻弥ちゃん。私の『歌ってみた』なのに色々やらせちゃって」

「いえいえとんでもない! こういう作業は大好きですし、卓まで触らせてもらえてむしろ役得なくらいで……SSLの音好きなんですよねぇクリアなのにきゅっと密度があってそれでいてトータルコンプの利きは大胆で!」

 

 勢いよく振り返った麻弥の生き生きと明るい表情に、彩の小さな罪悪感はどこかへ吹き飛ばされていった。正直有名なマイクの中の更に有名どころの名前くらいしかわからない(バージョンの違いどころか見た目の差だってさっぱりだ)から相槌もまともに打ってあげられないが、これだけ喜んでくれるならなんでもいいか、と開き直っていゔ茶味のチョコレートをひとつ摘まむ。想定外の苦みに梅干しみたいな顔をする彩に小さく噴き出して、麻弥の蘊蓄も一旦は停止した。

 同時に、それまでずっと並行して進められていたいろいろな設定も終わったらしく、麻弥はズレていた眼鏡をやっと直して伸びをした。

 

「いやぁすみません、こんな良い思いさせてもらって」

「機材選んだ時点で俺の作りたい音はイメージできてっから困りゃしねえさ、謝るこたぁねえ」

 

 チーフはなめし革みたいな浅黒い顔をくしゃりと笑わせた。

 

「第一麻弥ちゃんよ、ドラマーとして入ってきた頃から似たようなもんだったじゃねえか。高校生がなんで一目でU87のiとAi見分けられんだよ」

「オタクですからね……」

 

 そこで得意げなような恐縮なような顔で頬をかく彼女が、傍から見ている彩にはちょっと謙遜しすぎに映った。パスパレとして活動する中で自分たちが機材の操作や深い知識を要求されることはないが、現場レベルでの微調整をできる人間がバンドにいるだけで助かることはたくさんある。全員で音を合わせたときに練習中の些細なやり取りまで考慮した細かい提案を、現場によって違う音響監督やスタッフに根拠と自信ある態度で通してくれるのがどれだけ頼もしいか。

 ウクレレにどいて頂いて「麻弥ちゃんも見てってよ! ちょっと心細いし……」と空いたスペースをぽすぽす叩くが、麻弥は困った様子を見せるばかりだった。

 

「すみません、このあとドラム録りがあって……今日中に3曲くらい通せたらって言われてるので、少し早めに行ってスコアの確認を」

「私と仕事どっちが大事なの!?」

「パスパレの新曲の作業なので強いて言えば彩さんのためのお仕事ですが……」

「ごめんなさい!」

 

 レコーディングでクリックを使うとライブで上手くノれないことが発覚し、基本麻弥のドラムで歌を録っている彼女は即座に頭を下げた。まず自分のパートを終えた麻弥がコントロールルームで音響スタッフと合流し、音作りに参加しながら他のパートを入れていくのがパスパレの音源制作の流れだった。そうでないと女優業との兼ね合いで一番忙しい千聖のベースに最大限の時間を割けない、気分屋のギタリストである日菜が好きに暴れすぎるなどの問題があって、高校生にしてスタジオドラマーとして採用されるほどの腕を持つ麻弥は少し前倒しで制作に参加している。

 なのに。

 

「それに、ジブンがいてもあまりお役に立てないでしょうし……」

 

 これが本音だ。彩はそう睨んで頬を膨らませたが、見せるだけだ。引き留めはしない。彼女の表情に「うっ」とたじろいだ麻弥は心底申し訳なさそうだったが、それでも結局そそくさと帰り支度を済ませて出て行ってしまった。

 確かディレクションに入る作家さんの都合でよそのスタジオだったか。遠いと言えば遠いが、別に歌をひとさらい聞くくらいはいても問題ないだろうに……と、ささくれ立つものを飲み込む。

 ふたりのやり取りを黙って見ていたチーフは、麻弥が出ていった扉に重い溜息を吐いた。

 

「……ああいうところも相変わらずだな。前よかずっと自信持ってくれた気がするが」

「チーフさんもなんか言ってくれてもよかったんじゃないですか」

「言えねえ言えねえ。女房と娘の喧嘩とかな、男が口挟んだってろくなことねえんだよ。勘弁してくれ」

 

 家庭を持つ男は少し情けなかった。彩が溜め息を吐く。ちょっと憂鬱さの乗った声はレコーディングに大いに生かされて、パスパレメンバーのソロ動画企画は今日も順調に進んでいった。

 

 

 

 

 

「──納得いかない!」

 

 精神的なところ以外は。

 

「麻弥ちゃん、絶対もっと自信持った方が良いと思うんだけど! というか私が自慢したい! 世間に!」

「世間に……?」

 

 女優としての白鷺千聖は培った能力を総動員して呆れ顔になるのを抑え込んだが、パスパレのベーシストであり彩の一友人でもある白鷺千聖が「いきなりなんなんだ」という態度を無理やり押し通した。美しく整えられたブロンドヘアの真ん中で、フェミニンな疑問顔の仮面に青いヒビが入る。

 久々の全休に『パスパレのこんごにかかわる話をします!』と呼びつけられて十数分、行きつけの喫茶店の奥まったボックス席で、千聖は汗をかくアイスコーヒーをまだ飲めてもいない。珍しく個人トークでの呼び出しだったから駆け付けたが早計だったか、とグラスを呷る。かき氷頭痛のせいで眉間にシワを寄せ患部を押さえる彼女に彩が震え上がっているのには、幸い気付かなかった。

 バンドのリーダーである彩のことはまあうっかり屋だしときどき調子に乗るしあんまり手放しで信用できる子ではないが、人格に関しては全幅の信頼を置いている。気配り上手の善人で、刺々しさと泥沼の芸能界で摩耗した自分にはないものが彼女の中に輝いて見える。中高一貫の女子高で生きてるわりに(あるいはだからこそなのか)ヒエラルキー的な強かさに欠ける節はあるが、人をまるで疑わない甘ちゃんなところをある種のカリスマ性として認めてもいた。

 いたが、今回はあまりにも唐突すぎてついていけないというか端的に言って軽くイラついている。この呼び出しがなければ大親友を誘って一駅くらい冒険してみようかと思っていたのに。

 一方、同じく唐突に呼びつけられたはずの同僚──氷川日菜は何が面白いのか満面の笑みでブルーベリーモンブランを掬っていた。クリームが水色で彼女の髪と似ている。るんるんと嬉しそうにひと口頬張ってモミアゲの小さな三つ編みを猫の尻尾さながらに揺らしながら、日菜はにんまり笑った。

 

「世間だとまだちょっと狭くない? 世界いっちゃおーよ世界」

「は?」

「世界! ……どうやって?」

「ほらこれ、昨日見かけたんだけどさ、あたしの弾いてみたに海外の人がリアクションしてるんだよ」

 

 日菜が取り出したスマホの画面をふたりでのぞき込むと、そこには九分割された画面に多様な人種の配信者が映っていた。ビンゴのフリースペースのように中央は日菜の「『会心の一撃』弾いてみた!」が植わって、それを取り囲む八人の表情の濃いこと濃いこと。

 日菜は歌うパートも特になくただ弾いているだけなのだが、ときどき小さく「もーちょっと暴れてもいい?」「いいですね! せっかくですし、ボーカルと絡み合うくらいのバランスで行くのもありかと!」なんてはしゃいだ声が聞こえてくる。オケには乗らないものだと思って話していたのだろうが、すべてインターネットの海に筒抜けだ。その間にも滑らかに動く指先が彼女の技巧を物語っていた。

 電子の白南風が彼女のピアノめいた高速のタッピングスウィープを乗せ飛ばして、取り囲む八つの顔が異口同音に「YABAI!」と叫ぶ。よっぽど日本好きなのかしら、と千聖は遠い目になった。ここまで反響があるとは思ってもいなかった彼女としては来たる自分の当番が少し憂鬱になるが、彩は「わ、わ、すご!」と素直に喜んでいた。

 

「最近パスパレの動画に海外コメント増えたと思ったら、こんなになってたんだ!」

「そうそう! 日本のバンドの曲でここまで広まるならさ、海外のバンドとかやってもいい感じになるかなーって考えてたんだよね」

「……日菜ちゃん、そういうこと考えるのね」

「数字伸びるのが面白くてさー。意外と楽しいね、こういう戦略考えるの」

 

 じゃあ明日くらいには飽きてるでしょうね、と言わない程度の良好な関係を築いている自負のある千聖は微笑むだけで済ませた。別に嫌っているわけでも見下しているわけでもないが、彼女が結構な飽き性であることは事実として承知していた。それくらいはこの友人の個性であるとも。

 さて、麻弥の魅力をPRするのは別にいいが適当に動画を録ろうというだけでは嫌がるに違いない。どうしたものか。千聖の溢した小さな溜め息は「お待たせしましたー!」と愛らしい澄んだ声にかき消された。

 

「みなさん、なんのお話をしてたんですか?」

「あっイヴちゃん、バイトお疲れさま!」

「ありがとうございますアヤさん!」

 

 綺麗な銀髪に見目麗しい顔立ち、長い手足。モデルさんみたいな少女が席に近づいて来た。実際に元モデルで今はパスパレのキーボードを担当するアイドル、若宮イヴはトレーに小さなカップを四つ乗せて「こちら、バニラジェラートです!」と華やかに微笑んだ。

 

「……あれ? 私たちそんなに注文したっけ」

「これはマスターさんがサービスとしてくださいました! アチラーノ、オキャクサマカラデス!」

「どちら?」

 

 遠くでカウンター越しに店長がサムズアップしているのが見えた。クーラーの利いている店内で、しかも磨りガラス越しとはいえ日差しが照り付ければそれなりに暑い。客もちょうど入れ替わりのタイミングで今はいないらしいので、一斉に「ありがとうございまーす!」と挨拶すると、店長は照れくさそうにうなじに手を当てながら引っ込んでいく。喫茶店の店主らしく垢抜けた渋いおじさまなのだが、馴染みのある看板娘の子を思い起こさせる可愛いおじさまでもあった。

 荷物を足元に移した彩の隣に腰掛けて、イヴは机の真ん中に置きっぱなしになっていたスマホにきょとんと首を傾げる。

 

「これ、リアクション動画ですか? どうして?」

「あ、今ね……」

「イヴちゃん!」

「は、はいっ!?」

 

 ぐんっ、と身を乗り出して手を握り迫る彩にイヴは目を白黒させた。一応バイト終わりで少し汗ばんでいる自覚もあって、ちょっぴり恥ずかしくなった彼女が仰け反るのもお構いなしに、彩は爛々と目を輝かせて……というより、ぐるぐるマークでも浮いてそうなテンション任せの顔で言う。

 

「麻弥ちゃんを世界に見せつけよう! 私たちで!」

「……はい?」

 

 イヴは困惑しきりだったが、彩のあやふやながら情熱いっぱいな説明を聞くに連れて目尻がきりりと吊り上がっていった。事情を把握した彼女は神妙な面持ちになる。

 

「マヤさんは、影に日向に私たちを支えてくれています。……ドラマーとしてだけではありません、まだ音楽について詳しくなかったときに楽語やスコアリーディングの手ほどきをしてくれたのはマヤさんでした」

「そうだったわね……仕事の合間でも確認できるようにって、音符とか記号の読み方を纏めたノートを作ってくれたり」

「技術や知識だけじゃなくて、マヤさんの柔らかいお人柄に助けられたことも、たっくさんあります」

「麻弥ちゃん、すっごい周り見てるもんねー。彩ちゃんが歌録る前にガチガチになってるとき、一番最初に絡んでくの麻弥ちゃんだし」

「うっ……こないだの歌ってみたもお世話になった……」

 

 彩は胸元の妙なパンダプリントを押さえて呻いた。アイスを奪おうとする日菜の手をチョップで跳ね除けながら、千聖は「ああ、『イヤホンと蝉時雨』の?」と尋ねた。

 

「堂に入った歌いまわしだと思ったけれど」

「録る前はすっごい緊張したんだけど、麻弥ちゃんがいつもの調子で楽しそうに準備してるの見てたら自然にリラックスできて。……まあその後、ジブンなんかーって言いながら帰っちゃったからもうぷんぷんで変な力入りそうだったんだけど」

 

 彩はむすっと頬を膨らませて見せるがハムスターがいいところだった。気が抜けて可愛らしく噴き出したイヴと「あはは! フグ!」と痛烈に刺した日菜にムンクの絵画のような顔をした。

 

「もー!」

「まあまあ彩ちゃん。それで? こんなにいい歌だもの、それで終わりじゃないでしょう?」

「……うん」

 

『アテフリ嘘つきバンド』から『アイドルバンド』として再出発をしてしばらく経った頃。円盤を出すために本格的なレコーディングをすることになり、大掛かりな機材や高そうなマイクを前にガチガチに凍りついて『しゅわりん☆どり〜みん』の最初の一音が思い切りひっくり返ったという、ちょっと恥ずかしいエピソード。

 先にドラムの収録を終えてコントロールルームで待っていたはずの麻弥が、わざわざボーカルブースまでやってきてまっすぐに目を見ながら……ではなく、やっぱり恐縮そうではあったが。それでも勇気を振り絞って優しい声で伝えてくれた言葉があった。

 

「『レコーディングは最終的に100点に持っていく作業ですからね。初動が0点でもマイナス100点でも、諦めずに最後まで作り込む根気がある彩さんなら大丈夫ですよ』って言ってくれたことがあったのを思い出して。それで、ありのままとりあえず歌おう! って臨めたんだ」

 

 目を閉じて丁寧に思い出しながら話し終えると、彩のジェラートを一口簒奪せしめた日菜が「あー、あたしも似たようなこと言われた気がするや」と呟いた。

 

「最初は譜面通りにした方がいいかと思ったけどつまんなくて。でも弾くだけならともかく作家さんの作ったものにケチつけたらまずいかなーってバレない程度に崩すチキンレースしてたんだけど、そしたらちょっとくらい好き放題弾いても平気ですよ、って」

「……まあ、あなたはそれが持ち味だものね。結構思い付きでフレーズ変えたり、ライブの本番で変なフレーズを差し込んできたり」

「いーじゃん、そっちの方がるんってするし」

 

 この思い付きにどれだけ振り回されたかと記憶を遡ってみるが、千聖の覚えている限りスタジオ作業で作家やプロデューサーと衝突した覚えは全くなかった。その節々に麻弥の姿がちらついて、役者とはまた違う芸能界(ミュージシャン)の先輩として随分支えてくれていたのだと気づいた。

 千聖の表情がハッと変わったのを待っていたかのようにイヴは「やっぱり、このままじゃいけません!」と熱く席を立ちあがる。

 

「こんなにも影に日向に尽くしてくれているマヤさんは、もっと褒められるべきです! 仲間に報いず何がブシドー! 士道不覚悟! セップクでゴクモンです!」

「イヴちゃん? 誰に教わったの? たえちゃんあたり?」

「アヤさん、委細承知しました……パスパレ総出で! マヤさんの素晴らしさを! 広く天下に!」

「おぉー!」

 

 冷たい飲み物どうこうでなく湧いて来た頭痛をこらえる千聖を、ちゃっかりブルーベリーモンブランはおろか彩のジェラートまで食べつくした日菜が面白そうに笑っていた。

 

「とりあえず全部サプライズね!」

「ドキュメンタリーですね!」

「そう!」

「えぇ……」

 

 そういうことにもなった。

 

 

 

 

 

「麻弥ちゃん麻弥ちゃん、今日のレコーディング風景はカメラ回していい?」

 

(それは言うのね……)

 

 悪いことなんて到底できる子ではないのでわかりきっていたが、千聖はちょっと拍子抜けな気分で目の前のやり取りを見守っていた。

 一方、スタジオに来て早々そんなことを言われた麻弥は眼鏡の奥でぱちぱちと目を瞬かせた。

 

「ジブンは構いませんが……スタッフさんは大丈夫でしょうか」

 

 そこらで準備をしているスタッフたちは随分緩い対応で、小さなハンディカメラを構えたイヴを女性スタッフたちが猫っ可愛がりしていたり、思い思いに買って来たお菓子を机に広げていたり、立ち上がっているPCで勝手に好きな曲を流していたり、パスパレにやってもらうなら往年のアイドルソングか最新のポップスかでやたら白熱した論戦を繰り広げていたりする。

 イヴにモデルポーズで撮影されていたスタッフがこちらに気づくと連鎖するように他の全員も反応して、彩の構えるスマホに向かって一斉にサムズアップをしていた。圧が強い。軽く引いている千聖に対して麻弥は「あ、それなら大丈夫ですね」とあっさりしたものだった。

 それなりに長く籍を置いている事務所にこんな変人ばかりだと思うと少し悲しくなる千聖だったが、とりあえず仕事さえしてくれるならいいかと思い直して「みなさん、今日はよろしくお願いします!」と営業スマイルで挨拶する。サッカーの世界大会で自国代表が優勝したみたいなテンションで喝采が巻き起こってかなり後悔した。ほくほく顔で隣に戻ってきて「やる気いっぱいですね! これが職人の情熱なのでしょうか……ブシドー……!」と素直に感激できるイヴの感性と、たった今「おはよーございまーす!」と堂々遅刻してきた日菜の度胸が羨ましい。

 素直でかわいいイヴが耳打ちする。

 

「こんなにシキが高いなら、マヤさんの活躍もたくさん見られそうですね!」

「……そうね」

 

 普通ならスタッフの士気が高ければアイドルバンドのちょっと(どころではないが)機材に詳しい一メンバーなど出る幕はないが、そこには言及しない。もう疲れ始めたからではなく、彼らが既にこのサプライズ企画を共有された仕掛け人だからである。

 こういうとき、日菜は仕事が早い。たまたま気が向いていたのもあって翌日には企画書をまとめてマネージャーを通して上奏、動画サイトのパスパレチャンネルで簡単なドキュメンタリーをする程度なら好きにしていい、と言質を取った瞬間に社内スタジオのサウンドエンジニアチームを抱き込み始めていたのだ。簡単なドキュメンタリーって言われたじゃないの、という言葉は全力で飲み込んだ。

 見慣れたチーフエンジニアの男性は今回陣頭指揮をとらないらしい。代わりなのか若手のスタッフが出てきて「そろそろいい時間なんで始めましょうか。みなさんお揃いっすよね」と気の抜けた様子で始める。点呼でも取るみたいに手を挙げるスタッフチーム、つられて「パスパレ揃ってまーす」と続く日菜、イヴ、遅れて彩。

 

(……あら? 麻弥ちゃんは……)

 

 目の前の濃い集団に気を取られているうちにいなくなってしまったメンバーを探して視線を彷徨わせている間にも話が進む。

 

「じゃあ、大和さんのドラムだけ先に録ってあるんで他のパートいきましょっか。彩さんとかどっすか」

「エ゛ッ!?」

「ドラム聞きながらみなさん一斉にでもいいんですけど」

「じゃー……麻弥ちゃーん!」

「はーい?」

 

 大きなスピーカーから声がした。あれ、と見回してみるとミキシングコンソール向こうの嵌め殺しの窓ガラス、そのまた奥にあるボーカルのブースからひょっこりと麻弥が顔を出す。こちらに手を振って所在だけ示すとまた引っ込んで、スピーカーから「どうかしましたか?」と返事。パスパレに入ってからサボりサボりでもボイトレを積んでいる日菜は、コンソールのどこかにマイクがあるのだろうとあたりを付けて声を張った。

 

「こういうときってどんな感じでやるのがセオリーなわけ?」

「バンドの空気感やアレンジの進捗にもよるんですが……とりあえず全員一斉で弾いてからパートごとに詰めていく場合が多いですかね。もちろん他のやり方もありますが」

 

 ぱっ、とボーカルブースのモニターが付いて、何やら四種類のマイクをくっつけるようにセッティングしながら淀みなく答える麻弥が映された。メンバーが「おー」と歓声を揃えるが、日菜だけは「あー」と思案顔。

 

「そういえば、おねーちゃんはまずボーカル録ったって言ってたっけ。色々あるんだなー」

「あぁ、Roseliaはそうなんですね」

「友希那ちゃんの歌が軸だからーって。歌のノリに合わせて楽器入れて、出来上がったオケに合わせてコーラス含めて全員で歌う、って流れだったみたい」

 

 歌を全員で、というのに千聖はなんとなく納得した。日菜の姉が所属するRoseliaはフロントマンである友希那の世界観を妥協なく表す凄腕集団だが、その友希那は確かな技術を大前提にしつつもパッションを重んじているフシがある。冷静冷徹でありたい情熱の人、という印象だった。

 

 一方、見たまんまアイドルっぽいアイドルである彩は震えていた。そこまでカッコいいことは流石にできない。おずおず挙手して「あのぉ……一斉でお願いできませんか……」と縮こまる。全員が「わかってるわかってる」という顔をした。それを見えていたわけではないがなんとなく察して麻弥は提案した。

 

「じゃあ……気分上げがてらというのもなんですが、とりあえず全員で一回通しましょうか!」

「決起集会ですね!」

「音楽鳴らして決起集会ってアングラっぽくてヤバそー」

 

 イヴの両手をぐっと握ってやる気いっぱいな天然発言を面白がる日菜はいつも通りとして、そういうことならと千聖は頭の中でスコアを捲る。

 今日のレコーディングはまずマストで『パスパレボリューションず☆』、余裕があれば他の曲もという段取りになっている。転調が多用される華やかな曲だ。リズムのみならず和音の文字通り基礎(ベース)を担うベースがもたつくと大きな魅力である曲展開のダイナミックさにも差し障る。余裕があればとは言うものの、たとえ後々スケジュールを圧迫する羽目になったとしても今日はこれひとつに専念したい気持ちだった。

 シンセのトラックが多すぎて実演奏はかなり簡略化されるイヴや一瞬で譜面を丸暗記して弾きこなす日菜はともかく、あくまで普通の技量でしかないと自覚する彼女としては軽い確認が欲しかった。口を開こうとした瞬間、マイクのセッティングに満足したらしい麻弥が戻ってくる。目が合うや否や穏やかにぱちんと手を合わせると、彼女はあっけらかんと言った。

 

「今日の一発目ですし、どうせ個別に録り直しますからね。準備運動だと思って気楽にいきましょう! ね、彩さん」

「名指し!?」

 

 急にイジられて目を白黒させる彩にどっと場が沸いた。日菜に「『しゅわどり』と違ってメッセージ性強い歌詞だし、噛んだりしたら重大だよ~?」と更なる追い打ちを掛けられる彼女に注目が集まる中、ちょっと恥ずかしがりながらおどけてウィンクをする麻弥に小さな安堵の笑みを返す千聖を、イヴがこっそり撮影していた。

 

 

 

 

 

「うわぁぁん! なんかしっくりこない! なんで!?」

「うーん沼ったねぇ彩ちゃん」

 

 スピーカーから悲鳴が響く。天井際のモニターには頭を抱えてうずくまる彩(ダサTシャツ)がもだもだ蠢いていた。それを適当にお菓子を摘まみながら眺める他一同。そもそもドラムの収録自体は先に終わっていてサポートに回っている麻弥、彼女の気遣いのおかげでセクションを区切りつつ上手くこなせた千聖、遅刻してきたくせに全体合わせのトラックも含めて全パート一発OKを叩きだした日菜は時間を持て余している状況だった。生演奏のパート自体が少ないイヴに至っては手持無沙汰になった途端に体育会系の後輩根性を発揮して、なんだかうきうきで全員分の水を買いに行った。きょろきょろとスタジオを見まわしていたあたり冒険でもしてみたかったのかもしれない。

 彩がドツボにハマって作業が滞るの自体はいつものことなので、待たされる方も特に苛立ちはしていない。仮にもリーダーが苦しんでいるのを「彩ちゃんは今日も彩ちゃんだねぇ」などと言いながら日菜が他人事みたいに眺めているくらいだった。

 

「まー、確かになんかるんと来ないけど。なんでだろ?」

 

 腕組みして首を傾げた。日菜の言う「るんっ♪」をいまだに掴めていないが、彼女の良いもの・楽しいものへの嗅覚はかなり鋭く信頼がおけるので、「歌い回しかしら」「ひょっとしたらオケとの馴染み方の問題でしょうか」と材料だけ投げ込みつつ天才の思考を見守る。しばらくうんうん唸って、彼女はぽんっと手を叩いた。

 

「麻弥ちゃん、あたし機材のことわかんないんだけど……こう、もうちょっとハイがジャリっていうかじゅわっていうか、そんな感じになるマイクってないの?」

「なるほど……さん、彩さん! 今からちょっとそっちに行きますね!」

「ふえぇ……」

 

 この場にいないクラスメイトの口癖を真似しながら、モニターの中で半泣きの彩が両手で丸を作った。そんな彼女の前には収録前に麻弥が準備していたマイクが四つ。

 

「……あの中から選ぶのかな。ねえねえスタッフさん、ボーカルのマイクって普通、ああやっていくつも用意しとくものなの?」

「なくはないっすね。基本的にはその日のエンジニアが『この曲であの人の声ならこういう音作りにしたい!』ってイメージ固めてるもんなんで一本だけ立ててることが多いんですけど、試行錯誤したいときとか……あと、でっかい声じゃ言えないですけど、プロデューサーとエンジニアの好みが食い違ってどっちも譲らないときとか、たまーに」

「あぁ……」

 

 音楽ではないが嫌というほど思い当たる節がある千聖だった。権力や縄張りの話だけでなく、クリエイティブ職で上にいる人間は頭の硬軟はどうあれ確たる美学を持っている場合が多い。まだ子役だった頃、ドラマの撮影の現場でも妙な待ち時間が発生しては大人たちに構われていた覚えがある。醜いものを見せまいとしてくれていたのだろうが、聡明だった千聖は大人でも喧嘩をするものなのだと察してしまったものだ。

 そんな思い出に照らし合わせると麻弥がエンジニアと喧嘩していることになってしまうのだが、麻弥も今日のメインエンジニアも、ついでに普段指揮を取っているチーフも楽しげだった。はて、と思っていたら「マイドオマチです!」とイヴが戻ってくる。頭にはさっきまでなかったはずの麦わら帽子が。

 

「イヴちゃんおかえりなさい。暑かったでしょう」

「心頭滅却すれば火もまた涼し、でした! それに、スタッフさんがこれを貸してくださいましたから」

 

 両手でツバを引っ張るように麦わら帽子を押さえてえへへ、とはにかむシルバーブロンドの美少女は画になっていた。行きがけに彼女が置いていったカメラで綺麗に撮ってあげると恥ずかしそうな悔しそうな顔であっと漏らす。元モデルなのにこういうところは初々しい。

 

「もうっ、チサトさん……!」

「ふふ、ごめんなさい。そうだイヴちゃん、今向こうで彩ちゃんがレコーディングしてるところなんだけど」

「はっ! 収めねば! カメラに!」

「んぶっ」

 

 妙に仰々しい倒置法に日菜が噴き出すのにも構わず、イヴは千聖からカメラを受け取ると元気に駆け出していった。

 イヴにとって、今回の企画は仲間の良いところを誰もに知ってもらえる千載一遇の好機だった。麻弥の魅力を知らしめるのが最大の目的だが、イジられキャラとしてちょっぴり軽んじられつつも「アイドルの歌」を磨くことに妥協を許さない彩や、自由奔放でありながら行き詰まった状況を持ち前の聡明さで打破する日菜、凛とした厳しさだけじゃない穏やかな優しさもいっぱいな千聖のことだって、イヴは自慢したいのである。

 コントロールルームから出て広いメインブース、備え付けのドラムの前を通り過ぎて重い扉を押し開けボーカルブースへ。普通のバンドでレコーディング中に突撃なんてすれば怒られるところだが、彩が行き詰っているときに限っては千聖の承認をもってすべてが許される。

 六畳ほどの比較的広いブースに躊躇なく押し入ると、麻弥がいくつか立ててあったマイクのひとつを残して他を移動させている間、キューボックスから伸びたヘッドホンを付けながら半泣きの彩が壁際でヨガに励んでいた。

 

「……はい?」

「あっイヴさん! 戻ってたんですね」

「マヤさん、これは……?」

「個性の違うマイクのどれを使うかで私と、エンジニアさんと、あと今日はいないですけど作家さんとで意見が割れてまして。より良いものを選ぶ嗅覚という意味では日菜さんが一番なので、日菜さんが気に入ったものを採用することにしたんです。これがそうですね……あってます?」

「合ってるよー!」

 

 天井の小さなスピーカーから明るい声が弾けた。

 

「こっちでも聞き比べてたんだけど、そのー……M149? ってやつが一番かも。良い感じにキラキラして、でも眩しすぎないでそのまま忠実に録れてほしいとこはそのまま綺麗に録れてるし」

「それが売りのハイエンドモデルですからね……ところで、ハイの煌びやかさならXLIIでも良かったと思いますが」

「黄色いやつ? なんかギラつきすぎかなーって。使うなら『Y.O.L.O!!!!!』じゃない? あとその黒いのと、さっきコーラス録るのに使ったやつもいい感じだったけどもう一声! って感じだったかなぁ」

「OM6はもっとトラック数少ない方が合ったかもしれないですねぇ……サンパチはまあ、コーラスとは変えたかったので採用じゃなくても良かったんですが」

「ちなみに麻弥ちゃんチョイスはどれだったの?」

「日菜さんの選んでくれたやつです」

「やっぱり!」

「イヴちゃん! 感心しながらカメラ回してるのはえらいんだけど私に触れてくれてもいいと思う!」

 

 半泣きから本格的に泣きへ移行しそうな彩は相変わらずヨガのポーズだった。流石に困惑を隠せずしばし言葉を選んで、イヴはなんとか頑張って絞り出した。

 

「…………そ、そのぉ……が、頑張ってますね!?」

「そうだけども!」

「彩さんにはいったん声をリセットしてもらってたんです。鳩のポーズ、脇腹伸ばして姿勢整えるのにちょうどよくて……あ、彩さん一回ちょっと立ってください、高さ微調整したいので」

「はい」

 

 塩対応になってきた麻弥に粛々と頷いて彩が立ち上がる。すっと並んだ頭が心なしかいつもより近くて彩とイヴは目をぱちくりさせた。視界が変わるくらい体幹がほぐれて、ストレッチの効果のあまりの大きさに妙な自信が湧いてきた。萎れていた顔を洗われた犬みたいにぷるぷる振る彩を手に持っていたカメラに収めながら、イヴは「それにしても、マヤさんは本当に博識です」と感心した。

 

「機材のこともストレッチのことも、マヤさんなんでもご存じです! まさに才色兼備、秀外恵中、大和撫子ですね!」

「いやぁ、演劇部で培われたものですから妥協なく舞台を作る薫さんがすご……え? イヴさん今なんて?」

 

 モニターの中で所在なさげに立ち尽くすボーカルそっちのけに繰り広げられるそんなやり取りを、コントロールルームはくすくす笑いを堪えて見ていた。

 

「イヴちゃんも大概、こういう四字熟語とかには詳しいよねぇ。辞書以外で見たことないや」

「シュウガイケイチュウ……一緒に出てきた言葉の意味から察するに、秀でた外見と恵まれた中身、って書くのかしら」

「そうそう。あ、ふたり戻ってくる」

 

 麻弥がサムズアップで、イヴが長めのハグで激励してモニターの外へ消えていった。ずっと様子を見守っていたチーフエンジニアの男性がぽつり。

 

「……スタジオだってエンドは決まってんのが大半だから長引くほど片付けもやんなきゃいけねえスタッフは帰りが遅くなるし、いつもならダラダラやってんじゃねえよって思うもんなんだけどよ。パスパレの現場は微笑ましくっていいな。おっさんなんか癒されるわ」

「そういうものなんだ……」

 

 ときどきやるスタジオライブの監修から各々の音源収録、そしてもちろんパスパレでの制作までお世話になっている仕事人なおじさんの悲しい背中から少女たちは懸命に目を逸らした。

 ちょうどそこに「ただいま戻りました!」と雲間に差す日のような笑顔のイヴが麻弥の手を引いて戻ってきたので、日菜は中年の家庭事情に突っ込むより有意義な話を聞き出そうとレコーダー(スマホ)を向ける。追ってイヴもカメラを構えたので、それに頷いてピースサインをサービスしてから取材を始める。BGMは現役アイドルの歌と「あ゛ー! もっかいお願いします!」。贅沢だった。

 

「さて、話題にも上がったしインタビュー! 麻弥ちゃんってさ、演劇部で裏方ちょー頑張ってるじゃん?」

「超、ってほどではないですが……ええ、やりがいはとっても!」

 

 屈託なく笑顔で答える麻弥にはいつになく自負心が見えた。

 他校の部活事情に千聖はあまり詳しくないが、彼女の知己が麻弥の演劇部には所属している。花形スターとして校内外に多大な人気を誇る彼女のことなら無説明で構わないだろうと踏んで「薫の求めにほぼ完璧に備えられるのってすごいことなのよね……」と話題に上げた。日菜も「そうそう薫くん! 羽女の花形スター!」とさりげなく補足する。

 

「薫くんの大好きなシェイクスピアからオスカーワイルド、あとチェーホフもだっけ。どれでも薫くんが主役なのには変わんないけど……」

「『サロメ』とか『桜の園』のような雰囲気のまるで違う作品でも、主役の個性を生かしながら劇そのものの魅力も完璧に引き立ててる現場総指揮が麻弥ちゃんなのよね」

「すごい……ラツワンですね!」

「きょ、恐縮です……フヘへ……」

 

 反応が素直だ、とは千聖だけでなく日菜もイヴも気付いた。パスパレではまだ少し薄い自信が演劇部の方にはあるらしい。意外な一面にイヴのカメラがずずいと前に出る。

 

「マヤさん、演劇部ではマネージャーさんなんですか?」

「聞いている限りだとむしろ、監督やプロデューサーじゃないかしら」

「カントク!」

 

 年下帰国子女の無垢な尊敬の眼差しが麻弥を焼く。「うっ」とたじろぐも買い被りだなんだと言い募ることをしないのは、培ってきた知識や支えさせてくれる薫への信頼による裏方としての誇りだろうと理解して……千聖は、少し、小指の甘皮ほどだけ、面白くなかった。

 

(彩ちゃんが言っていたのはこういうことね)

 

 スピーカーから飛んでくる「うわぁーん! 転調したときに前のキーに釣られちゃうーっ!」という泣き言を聞きながら鉄仮面の下で嘆息。

 別にパスパレに本気じゃないなんてこともない。どころか、彼女はまだパスパレが崖っぷちだった頃から「アイドル・丸山彩」を深く尊敬している節もあって、本気の度合いで言ったら他の仕事を優先することも多い自分以上かもしれないとすらときどき思う。

 ただ、根っこに「自分は裏方である」という意識がある。それが演者(アイドル)として、あるいは今日までの実績相応にあるべき自信の形成を妨げている。彼女の深い知識の裏付けでもあるオタク気質から来る、下手に出しゃばろうとしない謙虚さは裏方としては美徳、長所である。しかし、表立って自ら知識を活用するのではなく日陰に収まろうとするのは短所でもあった。

 イヴが目を輝かせて積極的に掘り下げに掛かる。麻弥がちょっと困った顔を向けてくるのを千聖は満面の笑みで黙殺した。

 

「どんなことをなさっているんですか!?」

「えー……一言でまとめると演出の設定と必要な仕事の割り振りと、あとスケジュール管理でしょうか」

「おぉ……!」

「演出ってどの段階から決めてるの? 脚本上がってから?」

「いえ、ウチだと原稿上がる前から考え始めますね。脚本は別の部員が担当しているんですが、大抵の場合もう薫さんが主役をやる前提で当て書きしてるので、この段階で演出込みで話し合いながら書いてもらってます。あくまでジブンからは演出面のネタ出しだけで、シナリオ自体は脚本担当の子の裁量で自由にお願いしてますが」

 

 口元に手をやって考えながら「まあネタ出しと言っても、チェーホフ自身の逸話で再構成するなら鴎は剥製じゃなくて飛び立っていく影とかにしようだとか、実際に作れるかどうかって観点で軌道修正するような感じですね」とするする出てくる。そういう口出しができるなら相当な信頼関係だと千聖だからこそ思うものの、当の麻弥はなんてことない顔をしていた。

 

「演出が大体決まったらあとは段取り構築と準備期間のスケジュール管理、本番中のセリフや転換のタイム管理くらいですかね」

「くらい、で片付くものだとは思えないけれど……」

「あれ、音響とかは?」

「学校のスピーカーに多くを求めても仕方ないですからね。バウンダリーマイクを無指向性ひとつだけじゃなくて単指向性のもふたつ用意してサラウンドっぽく演出するとか、自前のミキサーを持ち込んで効果音も含めてまとめて管理するとか、せいぜいそんなものでしょうか。このあたりは事前準備だけしたらそんなにやることもないので、本番は横で見守るだけで後輩に任せてます」

「途方もない有能さね……」

 

 学生の部活動であるという点に目を瞑れば、演出監督とスケジュールマネージャーとタイムキーパーとPAエンジニアを全て兼任しています、と言っているのに等しかった。大変な下準備だけ片付けて後輩を育てられるのも素晴らしい。

 日菜もうんうん頷いて「演劇部につぐちゃん貸し出してみよっかなぁ」と頑張りすぎな後輩を思い浮かべた。生徒会の後輩はなんでも頑張る一生懸命な可愛い子だが、どうしてか仕事をたくさん抱えがちなのだ。見習わせたい。

 ユニット内きっての才女ふたりが感心しているのを見てますます尊敬を深めるイヴが呟く。

 

「流石は『ヤマト』を冠するお方……!」

「これから大和ナデシコ麻弥って名乗る?」

「回文じゃなくなってしまうじゃないですか……数少ないアイドルっぽい要素なのに」

 

 日菜の茶化しに卑屈な返事をする麻弥に、いい加減千聖もなにか言ってやりたくなって「麻弥ちゃん、あんまり──」と立ち上がりかけるが、そこにスピーカーから声が飛んできた。

 

「──……いけた! これピッチも歌い回しも完璧だったんじゃないのねえ日菜ちゃん!」

「あっ」

「ねえまさか聞いてなかったの!? 嘘でしょ!?」

 

 コンソールの向こうで彩がブースから飛び出してこちらへバタバタ走ってくるのが見えて、千聖は毒気が抜かれてしまった。

 

「……はぁ」

「すみません千聖さん、つい……」

「いいわよ……まあ、あなたの性分を矯正してやろうだとか、そんなこと言う気はないもの」

 

 そうだ。生まれ持った性格、育んできた価値観を人の都合で曲げようなどとは傲慢極まりない。千聖も重々承知している。

 だから彼女は思うだけだ。

 共に理不尽に立ち向かうところから始まって、今日までアイドルとして手を取り合ってきた友人の真価を理解されないのは歯痒いと。

 たとえ本人であろうと貶されたら腹が立つと。

 自分たちの愛する友人の魅力を自覚してくれないのは、こちらの愛情を無下にされているようで寂しいと。

 

「日菜ちゃん、ちょっと」

「んー? なになに?」

 

 イヴに泣きついて「みんな冷たいよぉー!」と慟哭する彩と宥めすかす麻弥がスピーカーで今の歌を確認する後ろで、千聖は思いつきを日菜に耳打ちする。まだ纏まりきっていない草案とも言えないアイデアだが日菜は静かに相槌を打って、聞き終えた瞬間に指をスナップさせた。

 

「いいじゃん! それ見たいなぁ、きっとるるるんってするよ。……にしても、千聖ちゃんがねー」

「……なにかしら。らしくないのはわかって──」

「変わんないねー千聖ちゃん」

 

 日菜がけろりと笑うので、千聖はズレた仮面からきょとんとした表情が覗くのを抑えられなかった。

 

「パスパレ干されてた頃もさぁ、呑気にしてたあたしたちを見捨てずにチャンスを作ってきて、なあなあで甘やかさずに叱ってくれたじゃん? すっごい露悪的にしてたけど」

「……日菜ちゃん? 何の話?」

「あたしも情緒はわかるようになったよって話。いやー、優しいね」

 

 皮肉かと思って睨んだがどこ吹く風で、慈しむような目で見る日菜。出会った頃の飄々とした態度とはまったく違う、しかし特に違和感のない……今日までの付き合いで少しずつ知っていった深い部分にある一面だった。

 

「千聖ちゃんずっと優しかったけど……わかりやすくなったね?」

「……そう見えるのだとしたら、彩ちゃんのせいね」

「おかげじゃなくて?」

「せい、よ」

 

 澄まし顔で立ち上がってスコアを手に取る千聖が彩の隣へ向かっていくのを、ニヤけ面の日菜が「あっ、逃げたな〜!」とからかい混じりになじった。

 

 

 

 

 パスパレのグループチャットは彩と日菜を中心に頻繁に動いていて、深夜に近づくに連れて彩より日菜からの話題が多くなる。遅い時間になるほどイヴの返信は減って、代わりに趣味関連の情報収集やパッドを使った基礎練に勤しんで夜ふかししがちな麻弥の散発的なレスポンスが増える。

 だから、その晩に枕元のスマホが揺れたのも日菜あたりのメッセージだと思った。ベッドに腰掛けたままスティックとパッドを軽く拭いて片付けたところで届いた着信に首を傾げながら手に取り、頼りない裸眼の視力が写した名前に面食らった。

 

「彩さん!?」

 

 それもメッセージではなく直接の通話だ。結構気遣い屋である彩が日を跨いでからかけてくるのは只事ではないと、彼女は思わず立ち上がって電話に出る。

 

「もしもし!? どうしたんですか彩さん!」

「ひっ……ひっく……」

「……泣いてるんですか? なにがあったんですか」

 

 力の入りかけた手が間違って通話を切らないように細心の注意を払って、麻弥は慎重に語りかける。

 

「……落ち着いて、少しずつでいいです。話してもらえませんか」

「ぐすっ……麻弥ちゃん、夜中にごめんね……あのね……」

 

 泣きじゃくる彩の辿々しい話を整理すると、要するにこうだ。

 日課のエゴサーチ中に麻弥への心無いコメントを見つけてしまった、というもの。

 

「……こないだのレコーディングのブイログ、上げたでしょ?」

「ええ……どうしてかジブンの特集になってましたけど」

 

 動画サイトにアップされたレコーディング模様はコメントの初動を見る限り好感触だった。機材の話で前に出過ぎたと密かに反省していた麻弥は胸を撫で下ろしてそれきりだったが、彩は数日たった今も反応をこまめにチェックしていたらしい。

 麻弥はショックというより「やっぱりか」と納得してしまいながら続ける。

 

「でもそれが原因なら、普通にジブンの未熟のせいなんじゃ」

「違うよ!」

 

 彩の声が強く轟いた。

 

「『アテフリバンドのメンバーが機材に触って大丈夫なのか』って言われてたんだよ!? あのとき……初めての、アテフリのライブのとき! 麻弥ちゃんだけは本当に演奏してたのに!」

 

 彩が涙するほどに、泣き言を抑えられないほどに悔しいのはそこだった。

 かつて、『Pastel*Palettes』はメンバーが実際に演奏するという触れ込みにも関わらずアテフリを強制されていた。招集を受けて初めての顔合わせから本番まではわずか二週間、それも当日は一万人規模の会場。挙げ句にドラムは誤魔化すのが難しいから実際に叩ける人間をと宣われ、正メンバーが見つかるまでの穴埋めとして連れてこられたのが麻弥だった。

 当然ライブは失敗し、彼女たちはしばらく苦境に立たされた。状況に流されるままだった彩とイヴ、当時は明らかに先がないものと見て切り捨てに掛かっていた千聖、弾けるだけの腕はあっても面白半分でアテフリに賛成した日菜は、このライブについてどうなじられても甘んじて受け入れるだけの覚悟は持っている。ライブPAの仕事も機材の知識も十分に持っていて、アテフリなんて到底成功するはずないと薄々わかっていながらも暴挙を見過ごした麻弥も同じだった。

 ただし、それは『Pastel*Palettes』としてやっていくと決めた自分自身への覚悟であって。

 他のメンバーから麻弥に対しての罪悪感は、また別の話。

 

「パスパレに来てもらったことを申し訳ないなんて絶対言わないし、絶対思わない。でも、あのときならまだ、麻弥ちゃんはどんなバンドでだってやっていけたはずだもん……! だから……最初のアテフリを拒否できなかった私たちには、あのライブで背負わせた汚名を全部吹き飛ばさなきゃいけない義務が、あるはずでしょ……!?」

「そんなこと……」

 

 あるはずがない。断言できる。自分が残ったのだって自己責任でしかない。しかし、麻弥はそれを口に出せなかった。

 自分なら……突っぱねられたはずの理不尽な要求を飲んだばかりに友人の未来を狭めてしまったのだとしたら。たとえその件がなくては出会えなかったとしても、心の何処かにしこりは残るだろう。

 共に過ごした日々でどれだけ希釈しようと、当然の理屈で正しさを証明しようと、この筋違いな罪悪感は消えない。

 理解は、できる。

 

「麻弥ちゃんは本当にすごいのに……私たちの最初のせいで誤解されるのだけは、あんまりだよ……」

 

 泣き疲れて青息吐息の彩の言葉に、麻弥は震えて立ち尽くしていた。

 案じてくれる友人への感銘ゆえに?

 

「……彩さん、侮辱ですよ」

 

 ──否、怒りのあまりに。

 

「ジブンが、彩さんたちのせいで損をしたとでも言うんですか。彩さんたちのせいで未来が閉ざされたとでも言うんですか。あるべき幸せが消えたと、今のジブンは可哀想だと……そう思ってるんですか」

「麻弥ちゃ──」

「ナメないでください」

 

 声が平坦になっていく。

 滲む怒気が鋭く炎を帯びる。

 その後ろめたさを理解はしよう。償いたいのなら尊重はしよう──でも、直接言われたら、それは()()()()()喧嘩を売っている。

 

「パスパレに入って、貴女達に出会って! 今以上の幸福なんかどんな世界にだってない!」

 

 生まれて初めて出すような叫びに喉が痛みを訴える。血が登って息が上がって頭も体も爆発した剥き出しの心の震えで視界が明滅した。

 

「証明してやりますよ。ジブンのドラマーとしての腕も、下らない罪悪感なんか杞憂だってことも……『Pastel*Palettes』のドラマーとして!」

 

 衝動のままに通話を打ち切って、彼女はPCを立ち上げた。

 頭の中の熱く沸騰した部分が訴える。こんな真似をしてどうするんだと。

 心の奥の冷たく冴えた部分が訴える。段取りを立てろ、利益を捏造しろ、企画としてねじ込め。場を整えるのは得意分野だろうと。

 

「パスパレの個人企画シリーズ、次はちょうどジブンですからね……かましてやりましょう」

 

 平時の気遣いも遠慮も優しさも完全にどこかへ置き忘れた彼女は、着信の連打で千聖を叩き起こそうと至って冷静に決めた。もしも彩のように寝ぼけたことを宣うのなら明日の寝不足でもって手打ちにしようと思いながら。

 

 

 

 

 

 大和麻弥を表す言葉は数多い。『Pastel*Palettes』ドラム担当、羽丘女子学園高等部三年生、演劇部の舞台監督、機材オタク、眼鏡美少女、エトセトラ。しかし、彼女の能力を説明するのにおそらく最も適しているのはこれだろう。

 

 ──高校生にして既にスタジオミュージシャンとして活動していたスーパードラマー。

 

 スタジオミュージシャンの肩書はトロフィーではなく職業名だ。一度や二度コンテストで優勝すればなれるものではない。編集である程度誤魔化せるとしても積み重なれば修正にかかる時間は膨大になってしまうため、仕事となれば一芸特化だろうと幅広く対応する汎用型だろうと()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことが最低条件になる。

 故に、『Pastel*Plettes』として招集を受けた高校二年の春の時点でいくつかの仕事を回されるほど信頼を得ていた彼女は世代屈指の傑物なのだ。

 その懐玉が露わになろうとしている。

 八月某日、麻弥はただひとりスローンに腰掛けていた。服装もシンプルな紺のポロシャツ、色気のないハーフパンツ。おおよそアイドルらしくないカジュアルな格好はすなわち、臨戦態勢。

 正面にはスティックを置いたスネアが一発。左右にハイハットとバスドラム──以上。限りなく最小単位に近い三点セットにいくつかのマイクを立てた状態こそが全能力を発揮するにあたっての最上と理解していた。

 深呼吸ですらない穏やかな息を、浅く、長く。友人へのほのかな怒り、暴走したことへの微かな気まずさ、ソロの動画を残すことへのささやかな恥じらい。女子高生大和麻弥の雑念をドラマー大和麻弥の冷徹さで凪いでいく。

 眼鏡を片手で外してそのまま畳み、胸ポケットに差し込んだ。視界がぼやける。スタジオも、大掛かりなカメラも、コントロールルームでチーフ以外に誰かいるのかも、これからの演奏をどんな人が見るのかも、一切合切曖昧になって……全てを瞼でシャットアウトした。

 

 ドラムはここにある。アドリブだから楽譜はない。

 ならば今、この両目に用はない。

 耳を澄ます。

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、スティックを前へ向ける。

 切っ先が落ちる。

 

 ──波を起こす。

 

 徐ろに開かれていくハイハットにチップを落としながら始まったのは大洋の素描だった。穏やかな沖を征く船をくすぐる海原、時折水面に嘴を突き落としに行くカモメ。繊細なダイナミクスコントロールが鮮やかな情景を映し始める。

 右手の柔い風がさざ波を笑わせながら、ペンを握るような左手がトクトクとパドルを回す。一定のリズムで進む船はときどき厚い波がぶつかって、バスドラムが鈍い音を響かせる。

 順風満帆で、穏やかで、孤独な船──それを想像()()()()()、コントロールルームでスピーカー越しに聞いていた日菜の額には冷や汗が浮かんでいた。

 

「……麻弥ちゃん、ここまでできるんだ」

「日菜ちゃんでもできないの?」

「できるよ。甘いものたーくさん食べてすーっごく集中して一日分のカロリーぜーーーんぶ消費するくらい頭フル回転させたら、()()()()()()()()まではね」

 

 どこか興奮した様子の彩に返したのは遠回しな敗北宣言だった。耳に届く光景の再現までは追いつけるだろう。練習に次ぐ練習によって染み込ませた顕微鏡レベルの感覚操作とそれを維持する心身のスタミナに目を瞑れば、天才である日菜はまったく同じ動きをなぞれる──ただし、決して追い越せない。

 珍しく戦いたような引き攣った口元の彼女の押し黙って聞き入る隣で、ベーシストとしてずっとドラムを聞いていたはずの千聖は愕然としていた。

 

「チサトさん?」

「……いえ、なんでもないわ、イヴちゃん」

 

 言葉ある舞台で、力強い歌で、仕草や視線で心臓を掴まれるほど魅せられたことはあった。千聖はそれを役者としていくつも受け止めて、僅かでも自分のものにしようと努力してきた。

 なぜなら、大前提であるストーリーが通じているからだ。意図がわかっているから分析できる。提示された文脈を能動的に読むことができる。

 彼女にとってあらゆる演技(パフォーマンス)は、どれだけ魅了されようとも解釈のイニシアチブを受け取り手が握っているものだった。

 

 なのに──

 

(──どうしてこんな鮮明に、大海原にポツンと浮かぶ帆船をイメージさせられるの……!? メロディも台詞もない、リズムキープも完璧で、純粋に緩急だけなのに!)

 

 感受性豊かそうな彩とイヴが平然としているのが信じられなかった。千聖たちの尋常じゃない様子のせいで入り込めていないのか──それとも。

 これくらいは当然だと、心の底から信じているからか。

 

「やっぱりすごいなぁ、すごいよ、麻弥ちゃん……!」

 

 彩は積乱雲を超えて飛んでいけそうな気持ちでスピーカーの向こうに思いを馳せる。

 実のところ、麻弥への罪悪感は全くないわけではないというだけで、彼女の感じている敬愛と親愛に比べればちっぽけなものだった。

 申し訳なさだとか後ろめたさだとか、そんな気持ちだけで一緒に居続けるなんて出来っこないと言い切れるくらい、彩は麻弥の人柄が大好きなのだから。

 

「あ……」

 

 イヴが気づいた。スネアの音色が一層深く、バスドラムはどとん、どとん、どっどど、どっどど、荒々しさを増していく。

 

「……大嵐、ですか?」

 

 瞬間。

 張り裂けるような稲妻が開いて閉じた。

 

「ひっ……!?」

 

 海が時化りだす。強まる雨足のロール、うねるを上げる波を間隔の広いキックが打ち鳴らす。ハーフオープンのハイハットが風に煽られるようにびゅうびゅう鳴って、船は嵐に踏み込んだ。

 ずぶ濡れになって張り付く服の気持ち悪さ。爽やかさの欠片もない、巨人の腕にむんずと掴まれるような風。アタックは強くも鋭さはない押し付けるようなバスドラムは波の揺さぶりと、雨風でも厚い雲でも隠せない暑さが滲んでいる。

 彩は先日歌った『イヤホンと蝉時雨』を、イヴは鍵盤の勉強として聴いたヴィヴァルディの『夏』を思い出していた。

 J-POPもアイドルソングも夏の曲は爽やかさを歌う。恋であれ友情であれ、歌詞には必ずと言っていいほど優しい風の涼しさが宿っている。しかし本来、夏とは酷暑と台風の季節なのだ。

 麻弥のドラムはより重くなっていく。今に沈みやしないかと恐れながらも、嵐を食んで帆船は進む。雨は風に吹き散らされてハイハットの連打が迸っていた。パチパチとマストを焼くセントエルモの火、波を踏み鳴らす風の足音、単調に埋もれ始めた先の見えない絶望。甲板を満たす不安にじっと耐えながら、それでも航海は続く。

 音色も音量も一本調子の長い雨を踏み越えんと、いつのまにか誰もが息を潜めていた。

 一分か、一時間か。絶え間なく流れて行く手を遮る悪天候はやがてひそやかに、残響が薄れていくように霞んで消えていく。渦巻く空に撹拌されていた雨粒はようやく姿を取り戻して、舞い上がった大きな粒のリムショットがぱらぱら落ちて──

 

 光の差す音がした。

 

 ペダルをふっと離して開いたハイハットのシンと揺れる音。それを指で摘まんで止めた麻弥はまだ目を閉じていたが、彩にはどうしてか、彼女がこちらに微笑んだような気がした。

 彩が立ち上がる。ブレイクの余韻がふわりと彼女の手を取って、指揮者のように両手を浮かせた。

 何かが繋がった気がした。日菜も、イヴも、千聖まで堪えきれないとばかりに立ち上がる。心の奥で麻弥とアイコンタクトを交わして──指揮棒の指先を思いっきり振り下ろした。

 

「いけーっ!」

「それっ、ゴーゴーゴー!」

「ほらっ行きましょうチサトさん!」

 

 全力のブレイクビーツ、スネアもハットも鮮やかに弾けさせる麻弥をひとりぼっちにはさせまいと、メンバー揃って自分の楽器だけ掴んで駆け出した。ワイヤレスシステムは裏で接続済み、収録を担当していたチーフは渋い職人の笑みでサムズアップを返してくる。

 

「ごめんなさいっ、変なことばっかお願いして!」

「いいってもんよ! いやぁ、初ライブのPAやらされたときは貧乏くじだと思ったが……パスパレの現場は面白くっていいなぁ! さ、行った行った! マイクはそこの、そうそれだ!」

「ありがとうございます!」

 

 彩は頭を下げてみんなを追った。先に向かったメンバーたちはチューニングだけクリップチューナーで合わせてボリュームを上げる。モニター用のスピーカーから流れ出す音色はマルチエフェクターをミキサーに繋いだ音……裏でこっそり用意していたものだった。

 ドラムのあるメインブースに雪崩れ込んだメンバーたちに驚きながらも手を止めないのは流石のスタジオドラマー。とりあえずキックだけ維持しながら「ど、どうしたんですか!?」と叫んだが、帰ってきたのはイヴが抱えたショルダーシンセのリフ。困惑は収まらない。

 千聖は事前に襟に付けていたピンマイクの接触を確認すると「麻弥ちゃん……ちょっと、あなたを理解(わか)らせてあげないといけないみたいなのよね」と語りかける。無論、微笑を湛えて。

 

「初ライブのアテフリに、普通に演奏できるあなたを巻き込んでしまったことに罪悪感がある……ええ、一応本当だけれど」

「千聖さん、それは」

「でもね。そんなの()()()()()()()()()()()()()()()のよ。いえ、今回どころか今日までの全てに、一切」

 

 言い切る千聖の堂々とした表情に、麻弥は今度こそフリーズした。

 

「……………………はぁ?」

「昔のことの罪悪感や責任感を理由に上っ面だけ仲良くしていられるほど、麻弥ちゃんは魅力のない人間じゃないのよ。もしかしたら彩ちゃんとの電話で、自分のことを気にかけているのはそのせいだとか思ったかもしれないけれど……そんなわけないじゃない」

「電話って……いや、あれ? 彩さんとの電話のこと、話しましたっけ……?」

「いいえ? ドラムソロをやりたいから企画書を見てくれって言われただけよ」

「あの晩、麻弥ちゃんに彩ちゃんをけしかけたのは千聖ちゃんでーす」

「企画の発端と主導は彩ちゃんとイヴちゃん、計画と途中の思い付きは私と日菜ちゃんね」

 

 ドラムが止まったまま竿隊と鍵盤だけで繰り返されるイントロに乗せて次々暴露される裏回り。そこにやっと彩が飛び込んできて、そして叫んだ。

 

「大好きな友達の魅力を全世界に発信しようサプラーイズッ! 大詰めにみんなで一曲やりたいんだけど……麻弥ちゃん、支えてくれるかな?」

 

 手招きするように手を差し出すアイドルポーズでマイクを構えた彩が誘う。

 要するに、あの晩の怒りは少し質の悪いドッキリで。彩は……パスパレの面々はただ自分のことを紹介したかったのだと気づいて。

 

「はぁ~……流石にこれっきりにしてくださいね」

 

 苦笑いとともにスティックを握り直した麻弥は、高らかにスネアを打ち鳴らした。

 インパクトの短い跳ねるような叩き方。さっきまでのゾッとするほどの情景描写はどこへやら、完璧にポップソングへとアジャストした軽やかなサウンドが、千聖のサチュレーション掛かったベース、歯切れのよいカッティングで刻む日菜のアンサンブルに溶け合って、イヴのシンセリフをぎゅっと抱き締める。

 

 カメラを探して準備万端、彩は「まん丸お山に彩りを! 『Pastel*Palettes』ボーカルの丸山彩です!」とMCに入った。

 

「ここ最近の麻弥ちゃんスペシャル、どうだった? すごいでしょ、なんにでも詳しくてしっかり者でね、自慢の友達なんだ」

 

 あけすけに言う彩の顔は少し赤くて、麻弥は気恥ずかしくなって目を逸らした。それに噴き出す日菜、にこにこと嬉しそうに見るイヴ、呆れ笑いの千聖。五人揃っての陣形をぐるりと確かめ、麻弥のソロを撮影していたカメラに改めて向き直る。

 

「最後は本領、バンドとしての姿で──聞いてください、『天下トーイツA to Z☆』!」

 

 ──麻弥には夢があった。

 

 ドラムを始めるきっかけになった憧れのドラマーがスタジオプレイヤーではなくバンドに属していたから、彼女もいつかバンドで叩いてみたかったのだ。

 仲間と一緒に、同じ名前を背負って。

 

(彩さんと電話したときは、仲間だと思ってたのはジブンだけだったのかって思っちゃったけど……むしろ、信じきれてなかったのはこっちの方だ)

 

 突然のセッションでも完璧に合わせに行く手足のオートマチックに任せながら、内心でそうこぼした。

 ジブンなんか。アイドルというキラキラした存在に自分もなったという実感がいまだに薄くて、事あるごとに卑下してしまうのは悪い癖だとわかっていたものの……いい加減にしなくては。

 

(ジブンは、『Pastel*Palettesのドラマー』なんだから)

 

 マイクが足らないから彩とイヴのデュエット。楽器に専念する日菜と千聖がアドリブを散りばめて遊びながら、混ざってこいと言うようにこちらを見やる。

 

「……フヘヘ」

 

 気の抜けた炭酸みたいな笑みを浮かべながら、麻弥は調和をほのかに崩す手癖のフレーズを放り込んだ。

 


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