『久しいな。
クリスエスが学園を卒業してから丁度一年が経とうとした時、二人が同棲するマンションに一人のウマ娘が訪ねてきた。クリスエスにとって最大のライバルであり友人でもあったタニノギムレット。服装は馴染み深いパンクな出で立ちである。
玄関前で立たせるのも悪い、すぐさま部屋に通して茶菓子の用意をした。
『まずは"私から"お前達に祝福の言葉を贈ろう』
椅子に腰掛けて開口一番にタニノギムレットから婚姻祝い。
『もうちょっと先だけどね。今は二人共バタついているし、次のイベントが片付いたら籍を入れるつもりだよ』
当初の予定は婿養子だったが、後々考えるとそれではトレーナーがシンボリ家の相続権を得ることになると気付き、一度シンボリの当主にただ婿入りで済ませたいと願い出た。これならばシンボリ家の養子ではない為、将来的に起こりゆる可能性がある遺産争いや継承者争いに巻き込まれない。そう思っていたが、何故かシンボリ家の当主は頑なにそれを突っぱねたのであった。
メジロアサマからもトレーナーと同じように後の憂いを残すなと叱責を受けた当主だったが、『私が彼にしてあげられることはこれぐらいしかない』と言われ引き下がったようだ。
いくら親族になるとはいえ、その入れ込み具合にトレーナー自身少し疑問に思ったが大家の大黒柱となると普通の者とは考えが違うのだろうと大して追及はしなかった。
『でも本当に俺だけで良かった? クリスが戻ってくるのは夕方だけど…』
『あぁ。今日此処へ訪れたのは他でもない。お前に用があったからだ』
トレーナーとタニノギムレットは其処まで交流があるわけではない。どちらかと言うと彼女より彼女のトレーナー方が仕事柄関わりが多いだろう。しかし、今回に限って何故かタニノギムレットは友人であるクリスエスではなく、その相手である彼にわざわざ尋ねたのだ。
テーブルに向かい合ったままタニノギムレットがポケットから取り出したのは、掌に収まるくらいの皮袋。何やら硬い物が入っているのか置かれた時にコツンと小さな音を発てる。
『お前に俺からの
タニノギムレットから了承を得て皮袋を開けると、中から深い黒色の丸い石が出てきた。丁寧に磨かれており光沢のあるそれは火山岩の一種、天然のガラスでありながら宝石でもある黒曜石だった。
『こんな凄そうな物…受け取れないよ』
『宝石の一種とはいっても所詮はガラスだ。そう高価な物ではない』
黒曜石の相場は十グラム三百円らしい。この大きさならば五千円くらいだろう。
『でもなんでまた黒曜石を…』
『
幸せの絶頂期なのだ。そんな時に余計なモノが水を差すなどあってはならないと言う。
『成る程、御守りみたいな物ね。君らしいというか』
『それだけではない。黒曜石は未来を見通すチカラも宿す……らしい』
語尾が小さくなり、自信が無いらしい。思わず小さく笑ってしまった。
『ありがとう。大切にするよ』
『あぁ。肌身離さず持っていろ』
タニノギムレットはお手洗いを借りたいと申し出た。簡単に場所を口頭で伝え、彼女が用事を済ませる間、彼はタニノギムレットに紅茶のおかわりを入れる準備に入る。
『……』
ギムレットはリビングを出た後、彼には気づかれないよう静かに行動を移した。彼女が此処へやってきたのは贈り物もあったが、それ以上に重要な目的がある。
それは彼がご両親の形見として大事にしている古びた目覚まし時計だった。
時間は僅かしかない。手間取れば彼は怪しむだろう。クリスエスもいないこの日、この時間しかタイミングがなかった。
リビングを見渡した時に目覚まし時計らしき物は見当たらなかった。ならば残された場所はたったひとつしかない。寝室だ。彼女は寝室のドアを音を発てずに開けると素早く中を確認する。
『……』
ベッドの枕元に一見するとただの目覚まし時計。しかし、ギムレットから見れば厄介なチカラを持った道具が其処にはあった。
『これが
そのまま掴み取り、ウマ娘の握力で握り潰そうとしたが…。
『これは―――まさか』
しかし、思い止まってしまう。その顔には珍しく驚愕の様子が現れていた。そもそもこの目覚まし時計はただ時を元に戻す能力を持っているだけに過ぎない。彼に不幸が訪れるのは、末路わぬ魂達が己の人生をやり直したいからそれを狙った故にだ。
だからこそ、この目覚まし時計さえ破壊してしまえば全て解決、或いは先延ばしに出来る。そう思っていたというのに。
『……』
奥歯が砕けそうな程噛み締めながら目覚まし時計をそのまま元に戻した。
わかっている。このまま放置していれば近いうちに最悪の未来が待っていることを。だが、それでもタニノギムレットにはどうしてもこの目覚まし時計を破壊することが出来なかった。
『愛とは…本当に厄介だな…』
―――――
『最近はどうだい。クリスエス』
『―――どう、とは?』
数日後。シンボリ家でスケジュール調整を行っていたルドルフとクリスエス。近々シンボリ家主催で行われる小さなレースを開催することになり、その為の顔合わせだった。
小さなレースと言ってもあの中山レース場を貸し切るうえ、参加ウマ娘は既にトレセン学園を卒業したルドルフやクリスエスを含め、シリウスやあのメジロラモーヌやメジロアルダンも参加する有名なOGが揃う大規模は物となり、パブリックリレーションが目的とはいえ、通常のG1レースに負けず劣らずの大イベントだった。
既に現役を引退したウマ娘達の走りを再び見れる。それはファンに取っては夢のようなレースだろう。
トレーナーとまたクリスエスと同じように別室で当主達とイベントに関する話し合いを行っていた。
『彼との同棲生活さ。式を上げるのはこのレースの後だとしても、お爺様から早く曾孫の顔が見たいと聞かされてね』
『―――このレースの話しが出てからはお互いに極力接触は避けている。暫くは期待に応えられないだろう』
何の臆面もなく答えるクリスエス。義理の親族とはいえ、此方の国での付き合いはトレーナーや師匠を除き、彼女が一番深い。デリケートな話題も本当の姉妹のように話していた。
アスリートは肉体を酷使する以上、母体にダメージを与える。子供を身籠るとなれば危険を伴うのは言うまでもない。
ルドルフも確かにと、頷いた。
『―――しかし、私はともかく。ルドルフは…』
クリスエスもそちらはどうなのだと尋ねた。学園を卒業して以降、浮いた話しが1つも無いと当主から愚痴られたと師匠が口にしていたのである。
ルドルフは困ったように笑うと何てこと無いと言わんばかりに答えた。
『今は失恋中でね』
目を丸くするクリスエス。堅物な彼女にそのような相手がいたことも驚きだが、それ以上に彼女程の者がフラれるようなことがあること事態驚きである。相手は一体どのような人物なのか。
『では、失礼します』
シンボリの当主やクリスエスの師匠、サトノ家の当主との打ち合わせを済ませたトレーナーはそのままクリスエスと合流し、屋敷を後にすると自宅マンションへと戻った。
『おや、彼はいないのですか』
入れ違いで屋敷を訪れたのはメジロ家の当主、メジロアサマ。トレーナーを探していたようで開口一番にシンボリの当主に訪ねるが、彼はニヤリと悪い顔をして茶化す。
『最近はよく此処に訪ねるな。そんなに彼に会いたいか』
ジト目で睨み返すアサマだが、否定はしない。クリスエスが学園を卒業してからというもの、彼とは殆ど交流が無くなってしまい少し残念な思いをしている。時折、偶然を装いシンボリ家を訪れお茶を共にすることがせめてもの顔合わせだった。
トレーナーはメジロアサマの現役時代にも詳しく、テーブルに付けば延々と彼女のことを誉めちぎる。やれあのレースは素晴らしかったと、やれあの走りはかっこよかったなど。本人は全く気づいてないが、実の愛孫にそのようなことを言われて嫌がるお婆ちゃんが何処にいるだろうか。
子供の頃に出来なかった分、ウンと構いたくなるのだ。
『しかしお二方。いつまでも隠し通すわけには…』
心配そうなサトノ家の当主とクリスエスの師匠。二人とも彼の両親とは友人関係だっただけに心苦しいものもある。
『無論、彼にはいずれ全てを話すつもりだ』
シンボリの当主はハッキリと答える。彼の正体、両親の正体。そして何故そうなってしまったのか、何が起こったのか。
内容が内容だけに少し複雑であり、全く面白くない話しだ。
『だが急ぐことはない。彼がクリスエスと婚姻の手続きを済ませた際、まずは息子とリスボンの遺骨を引き取る。その時に正体だけでも明かすつもりだ』
彼の両親は現在市営の共同墓地に納められている。タイミングとしては申し分ないが、一気に話してしまえば情報量に混乱を招いてしまうだろう。
特にこれはシンボリの当主が遺骨の在りかを知った時、ついでに得た情報だが、彼の両親その死因がショッキングであり、記憶喪失である彼自身に強いストレスを与えかねない。
『宜しいのですか』
アサマに厳しい目を向けられた。恐らく、彼に不信感を持たせることになる。何故両親が家から出ていったのか。
『それでも言わなければならない』
遠縁の者達を押さえ付けられなかった未熟さ。こうして再び巡り会わせてくれた縁に感謝して、彼を守るのは当然だった。
クリスエスの婚姻を知るあの日、妙な者が彷徨いていたとアサマからも聞いている。そういった者達を避ける為に己の立場を今一度知るのは間違いないだろう。
『恨まれても、ですね?』
メジロアサマは確認する。自分は既に覚悟は出来ていると言わんばかりに。
『そんな!ご当主は凱旋門のためフランスにいたのです、アサマ様に至っては…!』
それはあんまりだとサトノ家の当主が声を荒げる。
『彼にとってはどうでも良いことだ。実際に両親の交際を反対はしていた上に、家の不始末を対処出来なかった私の不甲斐なさもまた事実』
その反省を元に次の世代では同じことが起きないように融通が効くようにした当主ではあったが、所詮自己満足にすぎない。
『だが、折角こうしてまた会うことが出来たのだ。出来れば絶縁だけは勘弁願いたいな』
恨まれても良い。しかし、両親と同じ運命を辿るようなことは避けたいとシンボリの当主は悲しそうな表情で語った。
―――――
最近忙しいせいか共に食事をとる機会が少なかったトレーナーとクリスエス。タイミング良くシンボリ家で顔を合わせた二人だが、トレーナーは久しく外で食事をしようと誘った。
適当な店を探がしながら二人でブラブラと歩き回る。
『今日の接種カロリーなら肉でも魚でも大丈夫だよ。何かリクエストある?』
『―――ならBeefと人参がMainを。最近は淡白な物ばかりだった』
レースに向けて身体を仕上げる為に豆類や鶏肉が主食だった。クリスエスの我慢強さならばずっとこのままでも問題ないのだが、それを許さないのがこのトレーナー。最適なベストコンディションは気分で大きく変わる。
『わかった。調べてみるよ』
近場のベンチに腰掛けながら端末を操作する。比較的飲食店が多い繁華街だったが、やはり予約無しで良さそうな店を見つけるには暫く掛かりそうで、その間に二人は取り留めない会話を続ける。
『―――ルドルフから子供について聞かれた』
『き、君達…意外とそういう話しするんだ…』
センシティブな内容だが、それだけ仲が良い証拠だろう。
『―――やるべきこととやりたいことが多い』
クリスエスは己の夢を叶える為にトゥインクルシリーズを駆け抜けた。卒業すれば少しは落ち着くのかと思ったが、逆に忙しくなる一方である。
しかし、それは嫌な意味ではない。
目まぐるしくも充実しており、早く明日にならないか。次はこれをやりたい。そんな気持ちに日々押されている。
『俺もクリスと同じ想いを持ってるよ』
二年前の自分からしてみれば想像も出来なかった。これも一重に彼女のおかげだ。暫くは無理だが、何れクリスエスと新しい家族を迎えたいとも考えている。今よりも忙しい日々になりそうだが、より充実した生活となるだろう。
『あ、此処なんてどうかな?』
良い所を見つけたのか。トレーナーは嬉しそうな声でクリスエスに端末画面を見せると、其処には今年出来たばかりのレストランが載せられていた。開店から半年過ぎているおかげか客足も落ち着いているらしい。予約無しでも席は空いているようだった。
店に訪れると何故か店内は閑散としていた。内装は綺麗でお洒落だというのに、今年出来たばかりのレストランにしては妙な違和感を覚える。
『もしかしたら、ハズレ引いたかもしれない…』
トレーナーは苦笑いでクリスエスと共に席に着くと、小声で話しかけた。見栄えが良くとも味の方は酷い可能性がある。
『―――だが、Reviewでは悪くない評価ばかりだ』
クリスエスの言う通り、ネットでの評判も悪くない。寧ろ良い物ばかりだ。…不特定多数の評価を気にしているわけにもいくまい。実際に食べてみればすぐにわかること。味を確かめずに失礼だと、二人は気を取り直して注文を始めた。
―――――
『美味しかったね』
『―――あぁ。特にザブトンは凄い』
牛肉を選んだクリスエスだが、本来モモ肉を使用するローストビーフを希少部位であるザブトンを使用したローストビーフをとても気に入った様子だった。
ザブトンは肩ロースのあばら骨側の部位だが、赤身の旨味を持ちながらサシがあり、編み目状の模様となるそれは視覚でも楽しめる。特にクリスエスからはその名前が面白いようで日本が好きな彼女からしてみれば座布団と呼ばれる食材はユニークらしい。
最初は不安視していたが、料理は非常に美味しくまた、店内の雰囲気は悪くない。寧ろ良いくらいだ。店員さんの接客態度も丁寧であり評価が高いのも頷ける。
だからこそ、此処まで客足が少ないことに違和感を感じずにはいられなかった。
『―――どうした?』
『あ、いや…なんでもないよ』
少し黙り込んだ彼を見てクリスエスは不思議に感じたのか訪ねるが、無理矢理微笑みを作るとそろそろ帰宅の準備に取り掛かろうとした。
『ん?』
トレーナーのスーツのポケットに妙な感覚が。何事かとそれを取り出すと少し前にタニノギムレットから頂いた黒曜石の御守り。それが納めれられている巾着であり、中身を取り出した。
『―――ギムレットから貰ったObsidianか。だが…』
何故か粉々に砕け散っていたのである。
ヒビが入るや割れるなどの状態ではない。文字通り、ハンマーなど強いチカラを持って破壊されたバラバラの欠片と成り果てていた。
魔除けに使用される御守りのそんな姿にトレーナーは背中に寒い物が走る。
『……』
彼は急いでこの場から離れるべきだと考えたがそれ以上に早く、クリスエスは周りをキョロキョロと見渡すと眉を潜めた。
『―――何か妙な臭いがする』
『っ!?』
トレーナーは気づけなかった。人間と違い、ウマ娘は何倍もの嗅覚を持つが反応が遅れたのである。しかし、すぐそこまで迫っていた危機は音速を越えていた。例えクリスエスがガス漏れに気づいたとしても彼が同じように気づいたとしても、どのみち逃げることなど絶対に不可能であったのだ。
『クリス―――っ』
それでも彼の判断だけは速い。
クリスエスを守るように覆い被さり、何かを言おうとした瞬間。轟音。
痛みも熱も全て置き去りにするような衝撃が二人を襲ったのである。
―――――
某所にてガス爆発事故発生。繁華街で話題のレストランで起きた突然の厄難。原因不明のそれはキッチンにて作業をしていた従業員三名のうち一名が全身を強く打った状態で死亡。二人が病院に運ばれた後に亡くなり。店内にいた従業員、並びに食事をしていた客の六人が重軽傷を負い、一人が重体。更に通行人四人を巻き込む大事故となった。
そして。
シンボリルドルフは彼女にしては珍しく息も絶え絶えで駆けていた。病院内を走り、すれ違う看護婦達に注意を背中に受けながらも足は止まらない。受付に聞いた番号を目指し、共に病院へやってきた両家の当主達を置き去りに勢い良く扉を開けた。
『クリスエス!』
『―――その声はルドルフか』
ルドルフの焦りとは裏腹にクリスエスの声は落ち着いていた。普段から冷静な彼女だが、それも大事な婚約者が無事だったことも大きいだろう。
ウマ娘の頑丈さもあるがトレーナーが庇ってくれたおかげで彼女は奇跡的に軽い火傷と切り傷と骨折で済んでいた。しかし、飛び散った小さな破片までは守ることが出来ずに丁度現場を直視していたその目の網膜を傷付けてしまい、使い物にならなくなっていた。
『―――私もトレーナーと無事だ』
『…やぁ、ルドルフ』
声は弱々しいが優しく語りかけるトレーナー。だが、その姿を見た瞬間、ルドルフは一瞬呼吸が止まってしまう。
『…あの時、すぐに動けて良かった。タニノギムレットには感謝しないといけないな』
『―――あぁ』
互いの無事を喜んでいるトレーナーとクリスエスだが、そんなわけがあるまい。彼は現場のキッチン側にいたのだ。ウマ娘と違いひ弱な人間が受けた爆発の衝撃は、彼の両腕、左足を吹き飛ばし、身体の半分つまり背中側は火傷により爛れ皮膚を失い、まるで芋虫のような姿だった。
それは当然、視力を失ったクリスエスには全くわからない。
その理由の他にも彼が全く平気そうな声色をしているからだ。そもそもあの事故の直後にすぐさま意識を取り戻し、まともに会話しているその様子があまりにも異常だった。
本来であれば精神的ショックと全身を襲う痛みにより悶え苦しんでしまう筈だというのに。
『き、君は…』
ルドルフは辛うじて絞り出した声で何とかして話そうとしたが、彼は静かに首を振ると、何も言わないでくれと唯一無事だったその目で訴えかけてきた。
『…クリス。そろそろ看護婦さんに迷惑掛かるし部屋に戻らないと』
『―――そうか。本当はもっと傍にいたいのだが…』
目が見えないこともあり、やはり心配なのだろう。クリスエスはまだ此処にいたいと珍しく駄々を捏ねるが、そこはルドルフが背中を押した。
『クリスエス、そろそろお爺様も見舞いに来るだろう。此処は私に任せて君は部屋に戻った方が良い』
『―――あぁ』
看護婦に手伝ってもらい彼の病室から出ていくクリスエス。彼女が出た瞬間、柔らかな雰囲気だったルドルフは膝から崩れ落ちた。
『そんな…どうして君達が…』
幸せの絶頂期から地獄へ突き落とされ、顔を手で覆う。怒りと苦しみで胸が張り裂けそうだ。
『…クリスには、言わないで...くれ』
クリスエスがいなくなり、演技をする必要が無くなった彼は今にも死にかけそうな声に変わる。痛み止めを打っているがそれにも限界はある。まるで牛のような呻き声は止まること無く、その目は限界まで開かれ血走っていた。
『何故だ…!何故その必要がある!』
『…彼女に俺の目を与えるからだ』
ハンマーで殴られたような衝撃がルドルフに走る。この人は一体何を言っているのだろうと。
『な、何を…』
トレーナーとクリスエスは既に医者から説明を受けたが、クリスエスの眼球は損傷が酷く治療は不可能だった。唯一治す方法は移植のみ。
『…眼球提供者はすぐに見つからない。だが、彼女には時間がない。今しかないんだ』
新しいウマ娘の時代を作る。その為に現役を走り抜いたクリスエスだが、その夢は未だ途中である。強さを証明したが、そのネームバリューはいつまでも残るわけではない。クリスエスの名が売れている今のうちに手腕を振るわなければならないのだ。
いつ現れるかもわからないドナー提供者を待って一年、いや…もっと掛かるだろう。運が悪ければ見つからずに一生走ることは出来ず夢は其処で途絶えてしまうのだ。
『…そんなのは駄目だ。医者にも既に伝えている』
『君は正気か!そんなことをすれば君は…!』
手足を失い果てには両目でさえ。そんな状態で一体どう生きていくつもりだろうか。
『クリスエスにはどう説明するつもりだい。彼女は君が無事だと信じている。…そのうえ目の提供者となれば…』
当然ながらクリスエスは断固として拒否をするだろう。
『…彼女には最後まで黙っているつもりだ。クリスは優しいから』
優しいとは的外れである。それ以前に彼女は彼の婚姻相手であり、恋人同士だ。そんな相手が愚行を許す筈もあるまい。
『…君も俺の演技に付き合ってほしい』
『私にクリスエスを騙せと言うのか…!』
温厚なルドルフが声を荒げる。冗談ではない、誰も幸せにならない阿呆な嘘になんの意味があるのか。彼の自己満足にしかすぎない。
『…俺は自分の夢を忘れた。何の為にトレーナーになったのか』
だがクリスエスが、ならば同じ夢を見ようと手を差し伸べくれた。
『…嬉しかったんだ。自分に意味を与えられて。だから彼女の為に何でもしてあげたかった』
『ならばどうしてあの時、私の手を取ってくれなかったんだ!』
ルドルフは涙を流しながら激昂する。それはクリスエスが彼と契約する前の話し、彼がトレセン学園に赴任したばかりの頃、ルドルフが自身の担当トレーナーを探している時だった。
彼は一回目の時と全く同じく、ルドルフの夢に感動してその想いを尊重したのである。
彼女も同じようにまさか自分の同士がいるとは思わず、孤独ではないことに喜んで彼にトレーナーになってほしいと逆スカウトした。
しかし、彼はそれを頑なに断る。それが一回目と違う展開だった。
シンボリルドルフは傲慢な女の子だ。諦めきれずに何とかして接点を持とうと彼に手助けを求めては交流を続けていた。何でもそつなくこなし、その若さで技量も知識も別格であった彼をますます欲しいと感じていたが、それ以上に共に過ごすうちに彼自身を異性として心惹かれていた。
そんな中、先に痺れを切らしたのは意外なことにシンボリ家の当主だった。
何故担当トレーナーをすぐに決めない?
呼び出されたルドルフに言われたのは疑問の声。ルドルフ程のウマ娘ならば自分の目で選んだ相手が一番だろうと放任していた当主だが、いつまで経っても連れてこないことに流石に違和感を覚え、目利きに叶う者がいなければ此方が用意しようと提案した程だ。
ルドルフは当然、彼のことを伝えた。自分の横に立てる者は彼以外いないと断言して。
しかし、彼のことを聞いた当主は顔を歪ませる。彼のことを語るルドルフのその様子がただのトレーナー相手に向ける物ではないと察したのだ。おまけにその相手が彼女自身の血縁者で悪い意味での因縁となればお互いに不幸な結果になると考えた当主は、口重たくルドルフに真実を伝えたのだった。
当主から彼の両親に関する全てを聞いたルドルフは呆然とし、魂が抜けた姿で部屋に戻ると一人でさめざめと夜通し泣き続けた。
その日以来、ルドルフは彼へトレーナーになってほしいと頼んだことは一度もない。
『…本当に、何でだろうね』
彼自身、何故其処までルドルフの願いを聞き入れなかったのか理解出来なかった。彼女の夢に共感した、心の底から叶ってほしいと…その手伝いが出来ればどれだけ良かったか。
少し疲れたのだろう。その言葉を最後に彼は気絶するかのよう、眠りに入った。
寝顔を見つめながらルドルフは思う。もしもあの時、お爺様から真実を知る前に担当とトレーナーになれていれば、そんなのは関係無いとはね除けていたのかもしれない。己は彼から逃げてしまったのだ。いつか彼がご両親のことを知った時、自分が恨まれるかもしれないと。
恐怖とそれでも離れたくなかったという想い。心は矛盾していたのだ。
『……』
そんな二人の関係に転機が訪れたのは、クリスエスの存在。お爺様、或いはクリスエスの師匠だろうか。学園の秋川理事長へ良い相談相手を探してほしいと頼まれたのを周り回ってルドルフのもとへとやってきたのである。
シンボリ家にとっても大切な存在であるクリスエス。そんな彼女を安心して任せられる人物はルドルフにとって一人しかいなかった。
きっと断られるだろうと予想はしていたが、やはりアッサリと断られてしまい、あの時は困り果てたところだ。彼から理事長絡みと察せられ、何もかもお見通し。
しかし、その後で意外なことが起こった。なんと二人は既に顔見知りだったようで互いに相手の素性も知らぬまま交流があったというのだ。どのような経緯か気にはなったが、信頼出来る彼に任せられるようになったあの時は安堵。
だが。
『彼がクリスエスと契約を?』
『あら、まだ聞いていなかったのですね』
お爺様から用意されたシンボリ家お抱えのトレーナーと共にミーティングを行っていた時、不意にそのような話しを聞いた。
『流石はルドルフ。と言ったところでしょうか。見事あのトレーナーをやる気にさせてくれましたね』
横で彼女が称賛してくれるが、あまりルドルフには話しの内容が入っていなかった。自分でも驚く程ショックを受けていたのだから。
『…そうか、彼はクリスエスを選んだのか。それは―――実に喜ばしい限りだ』
無理矢理笑顔を張り付けて声を上げる。少し上擦っていないか心配だった。
『もう彼とクリスエスへ気に掛ける必要も無くなりました。これでクラシック三冠へ集中出来ますね』
『あぁ、そうだな…』
無論、この方にもルドルフは夢を語ったことはある。彼と同じように嘘偽りなく、真剣に。しかし、相手から返ってきたのは。
『アハハ!ルドルフも冗談を言うのですね、この間も良くわからない駄洒落を言ってましたし、貴女は無理に私達へ合わせる必要は無いのですよ?』
『……』
『貴女は絶対強者。あらゆるウマ娘を捩じ伏せることが出来る皇帝なのです。何れはシンボリ家を引き継ぐ為にも己を高め続けなければなりません』
彼女の言うことは正しい。勝つことも家を大きくするのも大切なことだ。だがルドルフにとってそれは自分の為ではない、愛しているウマ娘達への行動だ。ジョークも同じ目線に立とうとするのも全て愛する者達への為に。
埋まった彼女は重くなった身体を引きずるように彼へにじり寄る。
『君だけ…君だけだったんだ…!』
幼なじみにも家族にも、知り合い全てから冗談、絵空事だと夢を笑われた。
苦しげな寝息を発てる彼の頬へ手を添える。火傷により綺麗な顔立ちは見るも無惨に変色し、醜い姿へと変貌していたがそれでも愛おしいという想いは何一つ変わらない。
『どうして私では駄目だったんだ。どうしてクリスエスを選んだ。こんなに君のことを必要としていたのに…!』
クリスエスとの仲睦まじい姿を見かける度に胸の奥で黒い物が沸き上がっていた。どうして私はあの横にいないのだろうと、そんなこと絶対に思ってはいけないのに。
自己嫌悪と愛憎に心搔き乱され、せめてもの仕返しとルドルフは誰も見ていない中、彼のボロボロに剥がれ落ちた唇へと口付けをした。