好きな実況は「痛烈! 一閃!」です。

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Halation

 八回表、一点差ビハインド。二死一二塁。

 甲子園のマウンドは熱気に包まれ、上空では追い上げムードの浜風が吹き荒ぶ。

 相手先発の球数は120球を超え、肩で息をし始める頃合い。

 焼ける土の匂い。熱を帯びたアルプススタンドに広がるブラスバンド。それすらを覆い尽くす大歓声。

 

 

「チャンスだね」

 

 

 テレビ越しでも伝わる熱気が、26℃の設定温度と、氷とグラスの鳴る音で中和されていく。

 画面にくぎ付けになったままの綺麗な横顔を、いつまでも見つめていたい。なんて、少し気持ちが悪い。

 

 

「この回、点が入ったら、陵瑛が勝ちますよ」

「わっ、流石だね! そういうの、やっぱりわかるんだ~」

「八回ですから」

 

 

 本心で言っているのか、天然で言っているのか。まぁ、どちらにせよ。

 尊敬100%の眼差しで正面から見つめてくる。そんな松原さんの驚き顔に、思わず頬も緩む。

 

 笑みを隠すように飲み始めたアイスココアのグラスがひんやりと冷たい。窓の外では、営業中の社会人が首元に手持ちの扇風機を当てて、足早に去っていく。

 

 

「それだけでご飯、足りるの?」

「まぁ」

「もっと食べなくちゃ! 体は大きくならないよ?」

 

 

 もう大きくする必要も無いので、なんて言ってしまうと、多分しょんぼりしちゃうんだろうな。飲み込む。うん、ふわふわ。おいし。

 お昼には少し早い時間に、少しオシャレなカフェで、分厚い映えそうなパンケーキを食べる。なんか、不思議な感覚。こんなことをするなんて、想像もつかなかったな。こういう所でも甲子園中継が流れているのも、なんだか意外。

 

 

「そう言えば」

「んん?」

「応援、ありがとうございました。わざわざ現地まで」

「いやいやっ。お礼を言いたいのは私の方だよ~……ありがとうね。凄い、かっこよかった」

「勝てたら、多分、もっと恰好良かったんですけどね」

 

 

 一週間前、俺は野球部を引退した。

 三年生として、人生で最後のチャンス。西東京、夏の県大会準決勝。スコアは4-2。相手は今年の甲子園出場校だった。

 

 あの時、俺が打てれば。後悔こそ、後から悔やんでも悔やみきれないほど滲んでくるけれど、もう戻っては来れない。どれもこれも過去の話。目に焼き付いた最後の景色だって。鮮明に思い浮かんでも、直ぐに薄れていく。自分でも驚くくらいには、未練も消え去ってしまった。

 三年間が無駄だったとは、まったく思わない。ただ、あっさりとしていた。諦めなのか。それとも、わからないけれど。

 

 

「ううんっ、カッコよかったよ! 一番!」

「……どうも」

「だからね、今日は私の奢りっ! ……私ね、大学生になってからも、結構バイト頑張ってるんだ~? だからね、今日は遠慮なく食べて食べて!」

 

 

 俺なんかのことで、そんな寂しそうな顔をしないでほしい。でも、格好良かったと正面切って言われるのは、少しどもってしまうくらい気恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。我ながら、単純な男だと思う。

 アイスココアを飲むペースも早まる。早まっているのは、それだけでもない気がする。うん、気の所為。

 

 

「好き、なんですね」

「ふぇ!?」

「野球」

「ぇ……え、ぁあ……うんっ。もうルールだってわかるくらいなんだから!」

「あんなことがあったから、嫌いになってもおかしくなかったんですけどね……」

「わ、私は何とも無かったから……ね?」

 

 

 同じ学校の女性以外とは接点も無いような、強豪野球部の俺と、ふんわりとした雰囲気漂わせる松原さん。俺達に接点なんて、ある訳がない。そのきっかけを都合よく解釈してしまえば、所謂運命って奴なのかも。というより、そうであってほしいような、そうでもないような。

 

 一年秋の県大会予選。相手左投手の外側の変化球、自分から逃げていく軌道の球に右手を投げながらなんとかカット。打球は三塁側の観客席スタンドに飛び込んで行った。

 球場に響き渡る叫び声。騒然とする場内。スタンドを見たまま固まっている相手投手。叫び声で全てを察して、全身の血の気が引く感触。その叫び声の主が、松原さんだった。

 出会いのきっかけは割と最悪。こんなきっかけを望んでいたとしたら、俺の思考回路は結構危うい。

 

 

「北沢さんには、本当に感謝しかないです……」

「はぐみちゃんは喜んでたんだよ? 取ったー! って、手を振っててさ」

「俺はアレを見て、心底安心しましたよ」

 

 

 数秒、遅れる。意を決してスタンドを見上げると、視線の先には帽子をかぶった少女が、グローブ片手にこちらに向かってバンザイ状態で手を振る。グローブの中には、白い塊……恐らく、硬式球。察した。それ、俺が打った奴だと。満面の笑みでこちらに向かって手を振り続ける彼女の周りには、倒れている女性が二名と、横で謎のポーズらしきものを取っている女性が二名ほど。

 あの時ほど、野球をやっていて人生でほっとした瞬間は無い。全身の力が抜けて、思わず膝から崩れ落ちたからね。出来れば、二度と味わいたくはない。

 

 

「でも、わざわざ来てくれるとは思わなかったな~」

「そりゃあ、行きますよ。危ない目に合わせておいて、怪我無くて良かったねで終わりには出来ないでしょう……」

「そういう所だと思うけどね」

 

 

 試合が終わってからの、俺の目標はただ一つ。先輩の荷物を肩に抱えながら、我先に球場を飛び出し、さっきの五人組を探し出す。見つけるまでに、そう時間は取られなかった。何しろ、あの光景は目に焼き付いている。忘れもしないし、忘れられない。

 仲睦まじく球場外周を駅に向かって歩く五人組を追いかけ、帽子を取って謝罪しに行く。怒られでもするかと思えば、逆にこちらが謝られてしまった。『びっくりさせてごめんね……?』なんて言われてしまったら、もうどうすればいいかわからなくなってしまって。

 

 

『次の試合、明後日なんです。もし……もし、良かったら見に来てください。絶対、俺が後悔させませんから』

 

 

 なんて言ってしまった。人生で誰かに対して後悔させないだなんて。そんな出まかせを言ったのは、あれが初めて。

 今の自分が出来る最大限の償いは、結局野球でしかなかった。生まれてこの方、そればかりの人生。当たり前と言えば、当たり前ではある。自分のせいで硬式球を直撃させかけた人に対して、もう一度試合を見に球場に来てください、なんて普通提案する事でないというのは間違いない。今でも思う。何であんなことを言ったんだろうな。

 

 

「でも、約束は守ってくれたもんね。『絶対、俺が後悔させませんから』……びっくりしちゃったけど」

「打てて良かったです。本当に」

「思わず声が出ちゃったもんっ。ホームラン、凄かったよ」

 

 

 試合に入る前から、今日はホームランを打つと意気込んだのは、小学生以来だと思う。あの人が来てくれても、そうじゃなくても。自分の中で、ちゃんと切り替えるための、そういう試合にしたかった。

 結果は、四打数三安打三打点一本塁打。外に逃げていく、若干浮き気味のカット系。ギリギリまで体の開きを抑えて、バットのヘッドを反す。風は無風だったが、打球は上手く逆方向に伸びてくれた。

 

 

「あの時のボール、今でも部屋に飾ってあるんだよ?」

「取っておいたって、良い事なんか無いですよ」

「そうかな? 私は、そんなことは無いと思うけれど」

 

 

 サードベースを回る時、スタンドから嬉しそうに手を振り声を上げる松原さんの姿が目に入った時のあの感触が、体に焼き付いている。心の底から震え上がる。そして、安心した。本当に見に来てくれたんだって言うのも含めて。

 試合後、監督さんからの助言もあって、ホームランボールは松原さんに手渡すことに。

 自分なんかのホームランボールを受け取ったところで、記念球にもなりやしないし、意味なんかない、なんて思ってはいたけれど。『大事にするね』という言葉と、屈託のない笑顔を見せられて、そんな感情も吹き飛んでしまった。もし、あの場にいた人間が僕じゃなかったとしても、きっと誰もが同じ同じ感想を覚えるんだと思う。あぁ、良かったなって。

 

 松原さんは、それ以降も何度か試合を見に来てくれた。連絡先を交換してからは、松原さんから次の試合がいつあるのかを聞いてくれて。

 俺が試合で活躍しても、活躍できなくても、その日の夜には必ずメッセージが届く。楽しみも増えた。何試合も、何試合も、球場に足を運んでくれる。

 自分でも知らなかった。支えになっているなんて。

 想ってしまった。この人と、甲子園に行きたいって。

 

 

「……わっ、逆転してる」

 

 

 気が付けば、画面のスコアは4-2、二死ランナー二塁。今、四球を出してランナー一二塁。帽子のツバは汗で色濃く滲んでいた。まぁ、限界なんか超えている。

 あの暑さの中、甲子園のマウンドで球数も140球。指先の感覚なんかとっくに無くなっているだろうに、マウンドを降りたがらない。それだけのものを背負って、マウンドに立つ生き物なんだろうな。背番号1の投手って言うのは。

 

 

「交代、なのかな」

「監督さんも、よく我慢したと思いますよ」

「……凄いね。エースって」

「投手って、そう言う生き物なんだと思います。甲子園って言うのも、そういう場所ですから」

 

 

 汗でぐっしょり濡れているアンダーシャツで額を拭い、先発投手がマウンドを降りていく。表情は、歪んだまま。

 甲子園って言うのは、そういう場所なんだ。試合に出ている選手だけじゃない。各々の思いを抱えて、一人の高校球児達がもう一つ大きくなる。俺だって、その一人だったのかもしれない。

 

 泥だらけになり、擦り傷だらけになりながらノックを受ける。手の皮が剥けようと、テーピングが赤く染まっても、バットを振り続ける。潰したマメの数なんて、誰も覚えていない。

 何度も自分を追い込んだ。誰よりもバットを振り込んだ。街灯と月の明かりを頼りに。昇る朝日を思いをはせて。

 それでも、不思議と活力は湧いた。

 

 

「決めていたんですけどね。甲子園に行ったら、想いを伝えるって」

 

 

 そうやって決めたのが何時だったかすら、もう覚えていないけれど。

 この高校に入った時には、全く頭になかった。どれもこれも、貴方に出会ってから。色々、昔の自分に見せてやりたいくらいに変わったね。

 

 もう、一生叶わなくなっちゃいましたけど、とは続けれなかった。

 ずるいよな。自分の気持ちに、勝手に条件付けて。

 我ながら、なんで賭けちまったんだろうなって今でも思う。

 それでも、決めてしまったから。自分じゃなくて。見せてあげたいと、思ってしまったから。

 テレビ越しじゃない、あの景色を。テレビ越しにしか見たことのない、あの景色を。

 戻れないんだ。あの時の数センチのズレも、何度願ったって。

 

 

「それはもう、言えないのかな」

 

 

 松原さんは、少し寂しそうに笑って見せる。

 俺は少し笑って、首を縦に振ることしかできなかった。

 

 そっか~、と笑ったままでいてくれる。そんな彼女の顔を曇らせているのは自分だ。その自覚が、胸を刺して抜けない。厚くなった手の皮だって、もう何の役にも立ちやしない。

 

 

「やっぱり、男の子なんだね~」

「変なところで、頑固なんですかね」

 

 

 何処までも優しい。そんな貴方に報いたかった。たったそれだけの一心。

 野球をやっているからには、なんて理由で目指していた甲子園。そんな淡い景色をハッキリと映してくれた。

 そんな貴方に、同じ景色を見て貰いたかった。見てほしかった。俺が、そこで魅せたかった。

 

 

「じゃあ、待ってるね」

 

 

 ただ、それだけだったんだ。

 

 

「私も、キミの真似をして頑固になっちゃうから」

 

 

 白く細い手が、身を乗り出してこちらに向かって伸びてきて。

 何の躊躇もなく、手のひらで伸びかけの坊主頭を撫でられる。

 

 

「わわっ、こんな感じなんだ……結構、気持ちいいかも」

「……少し、恥ずかしいんですけど」

「頑張って偉いぞ~……えへへっ」

 

 

 松原さんは、自分より一つ上。一つ上ではあるんだけど、流石に恥ずかしいものがある。

 とは言っても、流石に頭の上で撫で続けている手をのける度胸は無い。あと、少し目のやり場にも困る。どうすればいいのか、よくわからない。行き場の無い手足と視線が、硬直しているだけ。

 

 けど、なんだかすごいポカポカとする。どういう感情と言語化すればいいのかわからない。ただ、悪いものではない。

 

 

「そうだ。今からさ、バッティングセンター行こうよ」

「この時間だと、暑いですよ」

「大丈夫! だって、慣れてるでしょ?」

 

 

 俺は別に構わないけど、松原さんは違うじゃないですか。八月の暑さは、一般女性には少し刺激が強すぎる。

 食べかけのパンケーキを目いっぱい開けた口に詰め込む彼女に、自然と笑みが零れる。食べちゃわないとな、自分の分も。

 

 少し冷えた肌に、都会の夏はじっとりと纏わりつく。

 透き通るような青空と、大きな入道雲。

 今日も一日、所謂快晴、炎天下。

 隣を歩く彼女の麦わら帽子の奥で、陽炎が揺れる。

 目的地までは、8分と少しの辛抱。

 

 

「そう言えば」

 

 

 喉元まで出掛けた言葉が、自主的に止まる。嗚呼、まだそれは聞いちゃダメなんだな。

 麦わら帽子の下からのぞき込むまん丸とした瞳から、思わず視線を逸らしてしまう。余計なことを考えてしまう気がして。

 

 額から流れる汗を腕で拭う。

 バッテ、持ってきておけばよかったな。


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