トウカイテイオーは悪夢に苛まれていた。

 存在しない過去、あって欲しくない未来、届かなかった栄光、その全てを、『パラレルワールド』の出来事を認識出来るようになってしまったのだった。

 あの有馬記念を乗り越えても尚、世界に牙をむかれ四度目の骨折を迎えたトウカイテイオーにとって、その悪夢は劇薬となるものだった。

 一方、繋靭帯炎の呪いから脱しつつあったメジロマックイーンはトウカイテイオーを元気づける為に病院を訪れる──

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祈らないでよ

「時々ね、夢を見るんだ」

 

 テイオーがポツリと声を出す。彼女が口を開けたのは、マックイーンがハグをしてから二十分は経過した時だった。

 

「どこか近くて、どこか違う世界のボクたちがね。沢山、沢山、たっくさんのレースで争うんだ。本格化なんて忘れたように、日本全国で大暴れして、それでも足りなくて、世界に飛び出しちゃって」

 

 滲む声音が余りに悲痛だったからか、それとも近しい物を見た事があるからかは分からないが、マックイーンはただ瞼を伏せた。気の利いた返事なんて思いつかない。

 

「最後にはアメリカとフランスでも勝っちゃうんだ」

 

 思いつけるはずが無い。

 

「この“トウカイテイオー”とは大違いだね」

 

 “四度目の骨折”をしたテイオーに、慰めなんてかけられなかった。

 

「ごめんねマックイーン。久しぶりに会ったってのにさ」

 

「……いえ、いえ。わたくしが聴いていいなら、幾らでも聴かせてくださいませ」

 

 

 ◇

 

 

 いつから悪夢を見ているのか、と問われればテイオーはハッキリと答えることが出来なかった。きっと今年の皐月の冠の行方が決まった頃か、いや、その少し前のトレーニングの頃からだったか。

 

 左足首の根元に嫌な違和感があった。

 テイオーはこれを知っている。

 嫌と言っても避けられない事も含めて知っている。

 

「前回と同じ箇所です」

 

「……」

 

「私は主治医として言わざるを得ません。トウカイテイオーさん。貴女は、貴女は競走ウマ娘を、引退するべきです」

 

 後ろの丸椅子でトレーナーが涙を堪えているのが聞こえる。我慢しているつもりの鼻水を啜る音も、うっかり落とした涙が手の甲に落ちた音だって、ウマ娘の前では筒抜けだ。

 

 主治医の指先がカルテを挟んだバインダーを力いっぱいに握っている音も、ジーンズを千切らんばかりに掴むトレーナーの爪が割れる音も、全部筒抜けだ。

 

 ああ、ボクは走れなくなるのか。ターフを駈ける事は出来なくなるのか。誰かの願いを、夢を、友達の思いを、勝利の向こうへ連れていくことが出来ないんだ。夢であって欲しいと思い、思っているテイオーを笑うテイオー自身が居た。テイオーは泣く訳でもなく、「そっか」と言って看護婦の持ってきた車椅子に全身を預けた。

 

 丁寧に閉じていく引き戸の向こうでトレーナーが縋り付くように主治医に噛み付いているのが聞こえる。ああ、辞めてくれないかな。争わないでよ。もう終わったことなんだから、と。テイオーは乾いた思考を備え、感情の抜け落ちた面をした。久しぶりに全てを他人事のように削ぎ落としていく。初めて悪夢を見たのはこの夜だった気がする。テイオーはそう記憶していた。

 

 

  ◇

 

 

「一着はトウカイテイオー! トウカイテイオーです! そして二着がきわどいレオターバンかナイスネイチャか。ついに無敗三冠を達成トウカイテイオー! かのシンボリルドルフを彷彿とさせる貫禄のある走りでした!」

 

 めちゃくちゃになった、息を吸っては吐いて、吸っては吐いて、ネイチャにレオターバンと一緒に掴まれてウィナーズサークルに放り込まれた。2人は悔しそうで、でもしっかりとした握手をしてその場を去った。そしてボクは、観客席に三本指を立てて見せる。夢を駆け抜けたボクは夢を見せるボクになったんだ。

 

 

  ◇

 

 

「不死鳥の渾名に恥じないこの走り! 世界よ! これが日本のウマ娘だ! トウカイテイオーだ! 遂に日本のウマ娘が凱旋門をくぐり抜けました!」

 

 グシャグシャなんてなんて言葉じゃあ到底足りない不良バ場になったロンシャンを、テイオーが駆けていく。ゆっくりゆっくりと脚を緩めて、ウィナーズサークルに向かう。立てる指は遂に両手では足りなくなった。

 

「ボクはまだロンシャンでしか勝ってない」

 

 慣れないフランス語を使うのは宣誓のため。

 言葉にして裏切れなくするため。

 

「次は……チャーチルダウンズで会おうね。皆、ボクの走りを見に来て」

 

 轟音がレース場を揺らす。無敗の帝王が、遂に世界の帝王になる時が来たと、誰もが確信していく。賞賛の中でもテイオーは奢らない。帝王として、日本の最強を背負っているウマ娘として。ただひとつの油断があったならば、ホテルで国際電話をして、少しだけ涙ぐんだぐらいのものだろう。

 

  ◇

 

 

 テイオーがマックイーンに語った物はまだ明るいものだった。──これは明るすぎたからこそ、今のテイオーには毒となったのだが──沢山の世界のテイオーはありとあらゆる“有り得たかもしれない可能性”を、今のテイオーに見せつけていた。

 

 もしも、骨折をしない身体に生まれて、三冠ウマ娘になっていたら。

 もしも、凱旋門を駆け抜けて、BCターフを勝ち抜けたら。

 

 そんな栄光を幻視した。

 

 存在しない話だ。現実には起きなかった話だ。有り得ない話だ。しかし幻覚の質感は、現実の物と遜色なく、テイオーの心を蝕んでいた。

 

 今でもありありと思い出す、あの菊花賞の日。ロビーでも食堂でもなく、寮室のこじんまりとしたテレビに齧り付くように張り付いて、結果を見届けて、テイオーは三冠ウマ娘にはなれなかったことを理解するのに数分を要した。

 

「僕ならここでフェイントを入れる」「コーナー前でワザと大きく踏み込んで、土を揺らして、斜行を恐れる相手を更に外へ押し出して」「あとは開いた道を突っ走るだけ」「いつものようにテイオーステップで軽、やかに」「ボクだけの、先頭の、景色が、」「ボクは最後に、最後に、観客席に三本指を……」

 

 彼女の脳が全ての情報をシャットアウトしたようで、視界は機能せず、声が上手く出せなくて、喉がひっくり返ったように痛くて、それでもあらん限りの大声を出して、血の匂いと味が出るほどに肺を軋ませたことに気がついたのは同室のマヤノがすぐに寮長とトレーナーに連絡を付けてくれたお陰だった。

 

 こっちが現実なんだ。 嫌になるくらい見た悪夢だ。「無敗の三冠ウマ娘になる!」と言い続けた少女の末路だ。正しい歴史を思い出すだけで吐き気がするけれど、勝ったウマ娘の事を考えると失礼なんて言葉では済まされない。ボクは戦うことも無く負けたのだ。爛れた精神の中にポツンと残る冷静さが、奇妙なまでにテイオーの心を落ち着かせていた。

 

 まだ現実だと断言出来ることにテイオーは安心する。それしか残っていないから。それ以上を紡ぐ事はもう出来ないから。

 

 テイオーの語る幻覚の数々は途方もないスケールで、それでいて真に迫る感情がそこにある事にマックイーンは困惑した。鬼気迫るリアリティが、現実を食い破る。当然ながらマックイーンにそんな経験はない。

 

 いくらウマ娘が不可思議な存在だとしても、ターフの上で奇跡と領域を生み出す存在であったとしても、並行世界の自分とのミッシングリンクするなんて経験は、とてもじゃないが持ち合わせていなかった。

 

 かける言葉を考えるより、手でテイオーの冷えた掌を包み込む。これしか出来ないから。

 

「貴女はもう十分に……。生徒会長の務めも果たしました。もう、これ以上、これ以上なんて……」

 

 クラシックの栄光を駆け抜ける恐ろしさをテイオー程に知る訳でもない。海外の栄光へ突き抜けたことも無い。只、一帖の盾のために走り続けたマックイーンには遠い悲しみに思えた。しかしテイオーは違う。前期生徒会長が成し遂げた偉業を、そして届かなかった夢の残滓を知っている。

 マックイーンには理解が及ばない。いや、理解をする資格が無い。今の苦しむテイオーの隣に居るには彼女と同じ瞳が、違う世界を見る瞳が必要だった。孤独。恐ろしく簡易に片付けてしまう二文字がテイオーを追い詰めていく事だけが、ハッキリとマックイーンの脳裏を走った。

 

「ごめんなさい……。わたくしには分かってあげることが出来ません。きっと恐ろしいのでしょう。きっと苦しいのでしょう。しかし、わたくしは……」

 

「ううん。いいんだ。ただ、聴いて欲しくて」

 

 声を上げて返す事も出来ない。マックイーンは宣言通り、聴くことしか出来なかった。

 

 

 ◇

 

 

「そろそろ軽めの体力トレーニングを始めてもいいだろう」

 

「本当ですの!?」

 

 マックイーンの所属するチーム・アルレシャの専属医療サポーターにして、スポーツ医学の権威であるアグネスタキオン博士の言葉にマックイーンは尻尾を揺らす。メジロ家の主治医と共にを治療し続けて早半年、遂に許可が降りたのだ。

 

 テイオー共々、お互いに怪我が無ければ宝塚記念で雌雄を決して居ただろうに。マックイーンはそこで、テイオーの得意とする中距離戦のグランプリで彼女を打ち倒したかった。その願いは、最早叶う術もない。奥歯に力が入ることを自覚したマックイーンは、努めて表情筋を締め直し、タキオン博士に問いかける。

 

「やはり水泳から、ですの?」

 

「勿論水泳トレーニングもやるが、君はまずこの機械を使って欲しい」

 

 タキオン博士が指し示す先にあるのは中央トレセン学園名物、“VRウマレーター”の“医療改造版”だ。接続したウマ娘の記憶に残っている肉体を再現し、現在と記録の差異をハッキリと計測できる優れものである。もっとも、この機械を巡って二回は事件に巻き込まれているマックイーンとしては忌避したい存在であった。

 

「やはり君の歩き方は発病前と変わってしまっている。使う筋肉が違う。走るフォームにも影響が出てしまっているはずだ」

 

 タキオン博士の言う事はもっともで、アルレシャのトレーナーも頷いている。半年もまともに歩けず、庇うようにして杖を付いていた身である。矯正が必要なのは十二分に理解している。しかし全員、全二回に渡るVRウマレーター事件の経験者であるはずなのに、どうして利用を辞めないのかマックイーンには全く持って理解が出来なかった。

 

 第一回では、植物人間状態となり死線を彷徨う別チームのトレーナーの精神世界の中に、倒れたトレーナーの担当ウマ娘であるサイレンススズカ先輩の精神体が侵入し、最終的に概念宇宙より速くなったスズカ先輩が、宇宙の天蓋を蹴り抜いてトレーナーの魂を連れ戻すのをサポートした。

 

 第二回ではゴールドシップが主催のTRPGに参加したつもりが、VRウマレーターの力により再現された冒涜的な神話のゲームに放り込まれ、キーパーの言葉の中の存在では無い神話生物とタイマンを張り、ウマ娘の膂力の恐ろしさを理解させられ、更には、外宇宙の深淵由来の生き物相手のタイマンに関わる羽目になった。

 

 この経験を持って三回目を乗り気で出来るかと言われれば万人がノーを出すだろう。

 

「君が拒否反応を示すのも無理は無い……が、これ以上に適切な治療が無いのも事実なのだよ」

 

「マックイーン、貴女も一度はフルダイブしたのなら分かるでしょ。この改造VRウマレーターの中は最高の併走環境が整っている。レース直前に脚を消耗すること無く高度な実戦経験を積める、“領域”も、怪我をする前の身体も再現できる。フォーム矯正にこれ以上最適なものは無いんだ」

 

「前々回の精神世界干渉による記憶混濁問題も、アレは二人が同時に同じ機器に接続する際の現象だ。今回は過去の自分の肉体データを現在の君の精神体に重ねるだけであって、一切の危険は無い」

 

 駄目押しのようにトレーナーとタキオン博士が畳み掛けてくる。もちろんマックイーンは理解している。理解している上に、メジロ家としては研究を後押ししており、レース中の故障や交通事故で身体障害を負ったウマ娘の幻肢痛治療、果ては義手制作にまで手が届きそうになっていることも知っている。

 

 ならば、何故マックイーンがウマレーターを利用することに忌避感を覚えているか。答えは一つ、トウカイテイオーの存在であり、彼女の語った別の世界の彼女達の事であった。

 

 VRウマレーターはヘッドギアから記憶や精神を読み取り、フルダイブを成功させる。脳にかかる負担こそ増えるが、それこそ老ウマ娘が接続すれば、本格化真っ最中の若かりし頃に戻ることだって可能な代物だ。ただでさえオカルト染みた存在である亜人類のウマ娘に、そんな脳の深層領域を読み取る機械を使っていいのだろうか。

 

 ウマ娘は一人で走っていない。古代からヒトと共にあり、様々な形で願いや想いを背負って走ってきた存在として語られる。時にはその願いや絆の力を使い、物理法則すら凌駕する。幼い頃に魂に刻まれた名前と共に闘争心を思い出し、まだ見ぬ世界へ駆け抜けていく。そんな存在なのだから。

 

 このVRウマレーターは、その深層に迫りかねない。世界を、宇宙さえも超えたスズカ先輩の光景をマックイーンは恐怖として思い起こし、自然と思考が一人走りを始める。

 

 “もしも平行世界の自分と走ることになったら”。“もしもボタンをかけ違えたような自分を見てしまったら”。集合的無意識の精神世界に干渉できるこの機械ならば、可能にしてしまうかもしれない。

 

「……ごめんなさい。今日はちょっと」

 

「いい。分かっていた事だ。二回とも事件が、その、方向性が違えど衝撃的すぎる」

 

「ふぅン。てっきり君のことだから『メジロ家の使命として! 故障したウマ娘でも復帰出来ることを証明するのです!』と勇んで使うかと思ったが……。まあ現在、自由に利用できるのは我々のチームだけだ。ゆっくりと考えてくれたまえ」

 

 恐怖。凡庸な二文字が、マックイーン背中に強くのしかかる。もしかしたら、テイオーが見ていたのは、私が見るかもしれない光景なのでしょうか。マックイーンの脳裏にそんな言葉が掠めていく。

 

 自然と、マックイーンの脚は病院へと向かっていた。

 

 

  ◇

 

 

 夢であったならどれだけ楽だろうか。テイオーは見飽きたい幻覚を視界の隅に追いやりたかった。

 

 中央トレセンと直接提携していて、ウマ娘ばかり利用するからと全国から専門の医師が集う、この府中市随一のウマ娘御用達病院ではレースに関する情報がいつだって手に入る。

 

 言い方を変えれば、どこに居ても目に入る事になるという話だ。普段の彼女なら友人の奮戦するニュースを見ては応援していただろうし、事実、自分のダービー後の骨折の時はそれを励みにリハビリをしていた。

 しかし、今のテイオーにとっては“違う世界”を覗くトリガーでしかなかった。

 

「日本ダービー! 今年も盛り上がりましたねぇ! 何より皐月賞ウマ娘であったナリタブライアンが二冠を達成した事により、三冠ウマ娘の誕生か!?とファンが期待を掛けてい──」

 

 通りがかったロビーでは今年のクラシック戦線が連日報道されている。今年はあのビワハヤヒデの妹であるナリタブライアンが三冠ウマ娘になるのではと、ファンもマスコミも一体になって熱狂の渦を起こしていた。懐かしいなぁ、と少し昔を思い出すテイオーだったが、すぐにこめかみに鋭い電流のような痛みが走った。

 

 思わず目を一瞬瞑ると、青白い霞がかかったような、奇妙な視界がテイオーを支配した。

 

『昨年の有馬記念、先日の阪神大賞典を圧勝したナリタブライアン。天皇賞・春を前に怪我をしてから半年が経ちましたが陣営は天皇賞・秋への出走を決定したと発表が──』

 

 駅ビルの大型液晶から“更に未来の報道”が、

 

『飢えて、飢えて、渇望がより深まる……』

 

『マヤから目を離しちゃダメだよ☆ ユーコピー?』

 

 京都レース場の地下道が、

 

『きっちり満開サクラローレル! 二着はナリタブライアン!』

 

 “更に少し未来の春”が次々と映し出されていく。三冠を手にした“その後のナリタブライアンの世界”。この世界でどうなるかは分からない。未来はまだ決定していない。でも、でも、とてもじゃないが言葉にしてはいけない運命を辿る未来を見ることもあった。

 

 ナリタブライアンに限ったことでは無い。学園の誰かが見舞いに来る度に、すれ違うウマ娘の病人に挨拶をする時に、この幻覚は現れる。

 

 最初は夢の中で、違う世界の自分について、それだけのはずの幻覚が、“現実”に侵食してきていた。

 

 逃げ場がない。

 どこにいてもパラレルワールドが追いかけてくる。

 ここは府中随一の病院で、レースに対してストレスを覚えてしまったウマ娘に対する情報管理がされた病棟もある。あるには違いなく、テイオーが望めばすぐにでも病室を移してもらえるだろう。

 

 だが、誰がこんな話を信じるというのか。

 こんな狂気の妄言を話そうものなら、きっとテイオーは情報管理された病棟よりも、精神患者の居る病棟へ送られるだろう。別に差別意識がある訳では無いが、しかし、その病棟で投薬されるとしたら、URAにおけるドーピング対象になる物質も含まれている。

 

 “もう走れやしないのに”彼女はドーピング検査を恐れる。競走ウマ娘の性というものだ。

 

 今は辛くても走れるんだ。

 痛くても、我慢してリハビリすれば、ボクは、

 ボクは、

 諦めたくなんてないのに。

 

 独白はただの白紙にさえ残らない。

 

 

  ◇

 

 

 マックイーンが病院に辿り着いたのは昼過ぎだった。受付で見舞いをしに来たと伝えると、テイオーは病室から出て散歩をしているとの事だった。杖をついてでも外に出れるようになったと知ったマックイーンは嬉しく感じていた。私も復帰の兆しが見えました。貴女もきっとまた走れますわ。あの有馬記念のように、不死鳥のように。マックイーンはそう言って励ますつもりだった。

 

 ロビーではクラシック戦線のニュースが流れていて、子供のウマ娘も、学園で見かけた事のあるウマ娘も、一様に見入っていた。圧倒的な差を着けるレースをするナリタブライアンのファンは多い。きっと菊花賞を勝つかもしれない。皆がそう期待をしていた。

 

 前より少し遅くなった脚でロビーを通り、中庭に向かった。彼女を知るウマ娘が教えてくれたのだ。テイオーが少し気分が悪そうに中庭へ向かったと。

 丁寧に整備された中庭は広々としていて、棟からの防音もしているのか、風音と木々が揺れる音だけが流れていた。中央の一際大きな欅の根元のベンチに、テイオーは膝に頭を埋めるように座っていた。

 

「えっ、て、テイオーっ!」

 

「──マックイーン?」

 

 マックイーンの声を聞いたテイオーはゆっくりと面を上げた。

 

「はは、また見舞いに来てくれたね。ありがと」

 

 何か大切なものを無くした子供のような、泣き出しそうな瞳で、テイオーはマックイーンへ目を向ける。

 

 体調、と言うよりは精神的に追い詰められている様なやつれ方で、とてもじゃないが快方している様子はなかった。艶々としていた毛並みが荒れて、目の下の隈が下手くそなメイクで誤魔化されている。目尻が赤く擦れていて、マックイーンは堪らずテイオーの前に膝を着いてテイオーの事を抱き締めた。

 

「ま、マックイーン。どしたの。この間みたいな酷い状態なんかじゃないって。ほら、杖無いとダメだけど自由に歩けるし、そろそろ退院出来るかもなんだって。ほら大丈

 

「何処がっ! 何処が大丈夫だと云うのです! わたくしの眼を見なさい!」

 

「っ!」

 

「下らない言葉など要りません。ただ貴女の言葉を紡いで下さいませ。さぁ、何があったのですか。わたくしは、約束しました。わたくしが聴いていいなら、聴き届けると」

 

 後ろにスペースなどないのにテイオーが腰を引く。

 

「あ、。……っ!」

 

「それでも、足りませんか?」

 

 抱き締めた手を離して、テイオーの手を取り、目線を揃えた。とてもじゃないがテイオーとは思えない濁り方をした瞳にマックイーンは、浅はかな真似をしたかもしれないと考え、事実、テイオーは抑えていた感情を吐き出す。

 

「分かりやしない。理解できるはずがない!! キミでさえ見えやしない幻覚が!! ボクを壊すんだ!!」

 

 爆発するような怒号がテイオーの口から放たれる。それなのに、悲壮感が抜けきらなくて、マックイーンは驚くよりも先にひび割れたテイオーの声に涙を流しそうになった。

 

 レースでもリハビリでも、今まで何度も心をぶつけ合った二人が、今、確実にすれ違った。

 テイオーがマックイーンの手を振り払う。嫌う意図ではなく、ただ、自分に触れる資格が無いとも言いだげに目を伏せる。

 

「ああ、ごめん。ごめん、なさい。ごめんなさい……」

 

 祈るように手を組んで、世界を拒絶するように閉じた目から涙を流す。組まれた手を額に当て、天へ言葉を投げる彼女は崩れ落ちる殉教者なのか、世界を救わぬ三女神への最後の祈りをしているようにすら見えた。

 

 彼女の実家は旧家とはいえ名門だ。ならば幼少の頃のフラッシュバックのような癖なのかもしれなかった。

 

 祈るのか。祈るのか。あのトウカイテイオーが。

 

 マックイーンの中に、形容しがたい激情が注ぎ込まれていく。それはヘドロのような粘性と悪臭を伴い、悪意とは違う塗りつぶすような意志を持つ、黒々とした物だ。徐々に心を染めていくこれを、持ってはいけない、満たされてはいけない。そう判断したマックイーンは、壊れたように泣くテイオーを看護婦に引き渡して、学園へ帰ることにした。

 

 本当なら彼女を奮い立たせるための見舞いだったのに。

 彼女ともう一度走るための見舞いだったのに。

 泣かせたい訳ではなかったのに。

 

「祈らないでくださいませ」

 

 口から零したのはそんな言葉。

 何処に届く訳でもなく、吐き捨てるまでもなく、ヘドロの中に落ちていった。

 

 

  ◇

 

 

 千羽鶴『お見舞い。チーム・キャロッツより』 要らない。

 手紙『ファン一同より』要らない。

 メッセージ『クラスメイト』未読無視。

 電話『生徒会の子』居留守。

 

 閉じこもっていると言えばそうなのかもしれない。テイオーはこの間の一件以来、医師から心理的なサポートを必要だと診断されていた。

 当然、幻覚の事は話していない。看護婦は泣き崩れながら祈る様子しか知らず、マックイーンは口を割らなかった。スポーツ傷害的なカテゴライズにおける心理的外傷を負っている、とされている。

 

 ふんわりとレースに関するものを遠ざけて欲しいと話すと、前に望んでいた情報管理がされた病室に、しかも個室に移して貰えた。実家の人に頼んでゲーム機とポータブルプレイヤーを持ってきてもらい、外界をシャットアウトした。

 

 ようやく、ようやくテイオーは幻覚を見ない生活を手にすることが出来た。

 

 そして、社会的な繋がりを失った。

 

 届いた全ての見舞いの品をダンボールに詰めてもらい、手紙も開けずにしまい、トレーナーに預けた。スマートフォンは電源を切った。触れたくなると困るから全て医者に預けてしまった。

 

 乳白色の壁紙、白いカーテン。耳には知ってる曲だけ流れてくるし、ゲームは楽しい。

 

 ただ、それだけの世界。

 

 ただ、それだけ。

 

 骨はもう殆どくっ付いていて、その気になれば退院が出来る。日常生活は遅れる程度の強度は残っている。走れないけれど、生きていくことが出来る。学業はキッチリ修めていて、レースに出走する資格のためだけに学園に在籍しているが、もう卒業してしまっていい。

 レースの賞金も余程豪遊するか騙されない限りは一生分稼いでいるし、およそ将来の不安というものはない。

 郊外にテキトーな家でも買って、そこでゲーマーとして生きていこうかな、なんて。

 名前も変えちゃおうかな。この名前は目立ちすぎるし。

 

 誰もが羨むだろう境遇だ。誰であっても満足するような環境だ。もう苦しむことは無い。もう余計なことをしなくていい。好きなように生きていける。

 

 好きなように。

 好きなように。

 好きなように。

 走れないけど。

 

 走れないのに。

 生きていける。

 

「うお゛ェっ、」

 

 唐突な嘔吐感が込み上げて、ベッド脇のゴミ箱に吐瀉物を流し込む。胃酸の臭いがツンと涙を誘う。人を部屋に入れたくないけど、不快感が部屋に居残る方が嫌だったので、素直にナースコールを押す。ティッシュで胃液だか唾液だか分かったもんじゃない汁を口元から拭き取って、ゴミ箱に投げ込む。気がつくと視界がぼやけていて、

 

「テイオーさん! 大丈夫で──

 

 看護婦さんが何かを言っている。よく分からないけど言われるままに背中をさすられて、点滴を打たれて、頭がぽわぽわしてきて、テイオーは素直に眠気に従うことにした。

 もう彼女には、これぐらいしか出来る事は無いのだから。

 

 

  ◇

 

 

「引退、って、あの、トレーナーさん?」

 

 テイオーの所属するチーム・キャロッツのトレーナーから呼び出された時、マックイーンはテイオーの復帰戦の話を聞かされると思っていた。前も、その前もそうだったから。

 

「オフレコで頼む。宝塚記念が終わったら会見をする。怪我治ってないのに投票一位になっちまったから、盛り下げる訳にもいかないしな」

 

 違う。違う。聞きたかった言葉ではない。そんな話のために来た訳では無い。

 

「トレー、ナーさん。違う。違うの。テイオーが、テイオーが、引退だなんて、」

 

「マックイーン。お前さんがテイオーのライバルで良かった。俺はテイオーの走りが大好きだった。自由にターフを駆け回るあの姿が最高だった。お前に勝つために一生懸命になる度に、テイオーは強くなった。深く、感謝している。」

 

 思い出に浸るようなトレーナーの目は遠い。三年間を超えて、まだ共にあったトレーナーなら感慨深いのか、なら、何度もライバルとして立ちはだかったわたくしは。

 

「どうして過去形で話すのです!! テイオーは!! まだ走りますわ!!」

 

「マックイーン。最近、見舞い行ったか?」

 

「話を逸らさないで──

 

「逸らしているのは、マックイーン。君だ」

 

 恐ろしい眼光がマックイーンを射抜く。数年前までトレーナーバッジも持っていなかった男が出していい剣呑な目つきでは無い。穏やかな声音が、只々恐ろしかった。

 

「……見舞いには、行けてません。この間の一件以来」

 

「なら、見てくるといい。俺がテイオーからの引退を受けたのも分かるさ。君のトレーナーには許可を貰っている。二十分後に校門にタクシーが来る。それに乗ってくれ」

 

 有無を言わさずとはまさにこれか。マックイーンは荷物をまとめ、小走りに校門へ向かい、タクシーに乗り込んだ。

 タクシーは、病院へ向かっていた。

 

 

  ◇

 

 

 恐怖はヒトもウマ娘も等しく支配する。テイオーの病室のドアは、患者でも開けられるほどに軽く作られていて、ヒトの子供の小指でも十分な程にスライドするそうだが、マックイーンには地獄門もかくやと、重く受け止めていた。

 

 案内した看護婦は「あまり刺激なさらないよう、お願い致します」と伝えて、離れていった。

 

 自分は何をしてしまったのだろうか。

 

 考えるほど怖くなったマックイーンは、帰ってしまいたい気持ちに襲われたが、それと同時に、ここで帰ると、二度とトウカイテイオーに会えない気がした。

 淀の坂を駆け下りる程の怖さでは無い──マックイーンは扉を開けた。

 

「ああ、マックイーン。久しぶり、だね」

 

「……テイオー?」

 

 マックイーンが疑ったのも無理は無い。テイオーは痩せ細っていた。天を衝くような流星が垂れていて、ポニーテールが解かれていて、顔つきには覇気が無く、目は濁り、声は薄く、血色は青白い。

 全ての記憶と食い違っていた。

 

「どう、して 」

 

「どうしてって、何が?」

 

「こんなになっているのに、わたくしを呼んで下さらなかったのですか……」

 

「だって“何ともないし”」

 

「え──

 

「本格化も終わっちゃった。レース成績も賞金も十分。レースに打ち込んでた分貯めてた本とかゲームとか沢山あるし、ほんとは退院できるだけど、どうせなら家買ってからにしようかな〜って思って、暫く居座ることにしたんだ。いやぁ〜実績があると無茶言えて良いよね〜」

 

「……は、ぇ?」

 

「マックイーンはまだ走るんだっけ。頑張ってねー。ボクはもう次の春には学園も卒業することにしたからさっ」

 

 絶句した。マックイーンはトウカイテイオーに二度と会えない気がしたと先程感じた。違った。ここにはもう“トウカイテイオーは居ない”。

 

 いや、“このウマ娘をトウカイテイオーと認める訳にはいかなかった”。

 

「貴女」

 

「ん?」

 

「名前は?」

 

「何さ急に。トウカイテイオーだよ?」

 

「貴女がッ!! トウカイテイオーだと言うのですかッ!!」

 

「そうだって。でも有名すぎて面倒臭いから、父さんに倣ってヒト式に改名しようかな〜って考えてるんだ。家買う前にさー」

 

 閃光。激情が火山のように炸裂した。

 マックイーンは“ウマ娘の本気のビンタ”をテイオーに叩き込んだ。当然、テイオーはベッドから吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。

 轟音。乳白色だった壁紙が裂け、板材を通り抜けて下地のコンクリートがパラパラと崩れて出て来る。倒れたテイオーを無造作に担いだマックイーンは扉を蹴り飛ばした。再びの轟音。有象無象も警備員も飛んできたが、全てを突き飛ばし、走り抜けて置いていく。マックイーンの怒りは、この程度では収まりそうになかった。

 

 ウマ娘は幼き頃に名前と共に闘争心を思い出す。ウマ娘が名前を捨てるときは、走れなくなった時だけだ。

 選手生命が絶たれたかもしれない。今の走りで繫靭帯炎が再発するかもしれない。犯罪行為で逮捕されるかもしれない。

 

 全てが些事だった。

 

 全てを捨て置いてでも、マックイーンはテイオーと走りたかった。

 

 辿り着くのは、チーム・アルレシャ部室兼タキオン博士の研究所。

 

「やぁ、こうなると思ってたよ」

 

「準備がいやに良いですわね、タキオン先輩」

 

「キャロッツのトレーナーに君の連絡先を渡したのは私だ。その後何が起こるか予測するなんて容易い──走るんだろう?手早く準備したまえ」

 

「えぇ」

 

 あれほど忌避したVRウマレーターも、今だけは感謝せざるを得ない。繫靭帯炎が完治してないマックイーンと、本格化の終わったテイオーの対決なんて望まない。“あの天皇賞・春のような”激戦でないと、この熱は冷めないのだから。

 

「この部室にある物は一台。同時接続することになる。つまりは……」

 

「精神感応、及び記憶の混濁が発生しますわね」

 

「理解してるなら何より。覚悟は?」

 

「今更ですわね」

 

 そんなもの、張り手をした時から承知の上だった。

 

「テイオーくんのだよ」

 

「あとから貰いましょう」

 

 言いながらテキパキとフルダイブの準備を進める。タキオン博士が高笑いしながらテイオーにギアを装着させていく。

 

「ふっ、クク、ハハハハハハハァ! 良い顔をしているじゃないか! 特等席で楽しませてもらう──存分に走ってくれ! ウマ娘の可能性を、見せてくれよ!」

 

「感謝致します。タキオン博士」

 

 光が脳を駆け回る。スっと息を吸うと、不意に視界が暗転するのを感じた。

 

 

  ◇

 

 

 明滅する視界。鈍い痛み。朦朧とする肉体を揺らされて、二度と感じられないと思っていたような風速が身体を包んで、次は沈むような感覚とともに意識を奪われた。

 意識を取り戻したテイオーを囲むのは途方もない光の筋の海だ。筋は幾ばくかの点において枝分かれし、分岐し、時には大きな点を目指して収束していく。

 

 テイオーがここに来るのは三度目──クラシック級とシニア級に入った年の春、三女神像の前で感じた場所と同じだと感じた。

 

「集合的無意識の海……いや、これは……」

 

 誰に言われるまでもなく、テイオーはこれを時間であり、空間であり、可能性であり、これを世界線と呼ぶものだと理解した。きっと、テイオーが見ていた幻覚は、自分が辿らなかった世界線の光景であり、誰かの世界線の前後だったのだろう。

 

「……?」

 

 しかし不思議だったのは、テイオーが観測できる光の筋達の“上層”にもうひとつの層がある事だった。

 光の筋は途方も無い数が、ウマ娘の視力を持ってしても届かないほど遠くまで広がっている。光の色や輝きはそれぞれ違っていて、まるで宇宙の様だった。

 

 時折、光の筋が途切れている箇所がある。テイオーはそれを見つける度に胸が締め付けられるようなイメージを抱いた。ハッキリ見えている光の筋は一定の位置で光量が落ちていて、その先は見えなくなるほどに細分化されている。

 

「ああ、“あっちの時間か”。未来は未確定なんだね」

 

 その時、上層から不意にいくつかの強い光が、テイオーの居る層へ流れていった。尾を引くような強烈な閃光。残り香とも焼き付きとも言えるような、放射状のエネルギーがテイオーを突き抜けていく。

 

 それはヒトの感情。喜び、悲しみ、愛し、慈しむ。

 

 そして──弔い。

 

 一人や二人なんて生半可な数ではなく、どうしようもなく、数え切れない程の人間の感情が流れていく。

 

 きっと流れる光の中心は、ボク達だ。

 

 ボク達への思いが、光になって、世界へ変化を与えていく。

 自分勝手で、エゴまみれで、押し付けがましくて、どうしようもなく好きなんだろうなぁって感情と、大きな愛情と、沢山の欲望をごった煮返しにした、“願いの結晶”。

 

 願いの結晶が、ボク達の層へ当たっては光の筋へと変わる。

 

 ──ウマ娘は、願いを背負って走る。だからウマ娘は一人で走っていない。

 

 トレーナーがよく言っていた言葉が、今はよく分かる。

 上層を恐らく過去だと思われる方向へ辿って眺めていく内に、不意に懐かしい光景が見えてきた。

 

 なんだか奇妙な顔の長さをした生き物だ。四足歩行をしていて、ボク達のようにレース場を走っている。とても親近感を覚える足さばきで縦横無尽に駆け抜けて、ターフを、ダートを力強く蹴り飛ばしていく。

 一際毛並みの流星が綺麗な生き物がいる。とってもボクの流星によく似ている。その生き物の光を辿ると、不思議と覚えのある言葉が頭を過ぎっていく。

 

「四月十四日、左前橈骨を再び、骨折し……、宝塚記念を、断念……」

 

 橈骨というのはよく分からないが、テイオーが骨折したのは左足首の一部で、ここを二回骨折している。それも、四月十四日にだ。

 

 その事を理解した時、そこから光が飛んできた。あの強烈な感情だ。先程のような流れ星の尾を掠めたような程度ではなく、中心に直撃だ。

 

「あ──」

 

 声にならない悲鳴が全身の細胞から上がる。光の奔流がテイオーを包み込んで、焼き尽くすような熱が全身を駆け巡る。火傷でもしてしまうんじゃないかと思うくらいの混乱をしたが、テイオーはパニックにはならなかった。

 

 光の本質と、ウマ娘の事をより深く理解したからだ。

 

「そっか」

 

 ウマ娘は名前と共に闘争心を思い出す。遠い昔から言われる民話は正しかった。名前を捨てることなんて出来ない。この名前が無いと、見つけてもらえない。祈る人が困ってしまうから。

 

「祈らないでって、こういうことなんだね。ボクは、走らなきゃなんだ」

 

 いつの間にか光の海の中でも動けるようになったのか、テイオーは泳ぐようにして、大きく光る点へ向かっていく。

 

 マックイーンの待つ、あの仮想世界へ。

 

 

  ◇

 

 

「……!」

 

 マックイーンはいくつもの世界を眺めていた。海の中の泡のような、光のような球の中にある、いくつもの無い過去を、あるかも分からない未来を。

 

 テイオーの見ていた世界はこれだ。中には見知った顔のウマ娘が大怪我をしたり、そんな言葉では済まされない事になる世界もあった。マックイーンが世界の長距離路線を制覇する世界もあった。まだ見たこともないウマ娘も居れば、もっともっと昔の、伝説に語られるようなウマ娘だって、絵画にしか残らなかったようなウマ娘だって居る。

 

 こんな光景が日常のふとした瞬間に五感を奪いに来るとしたら、マックイーンはとてもじゃないが正気で居られるとは思わなかった。テイオーが壊れて行ったのも間違いなくこれで消耗したからだろう。

 

 だとしたら、無理に競技へ引き戻そうとしたわたくしは悪魔そのものですわね。と独りごちる。

 反省、なんて言葉で済ませていい話ではない。そもそもこんな訳が分からない物を相互理解に必要とした時点で仲違いするのは必然であった。

 

 いくらかの時間を海の中で過ごしていると、不意に周囲の光景が引き伸ばされ、輝く泡と認識していたものが、光点となり、線となっている事を知った。

 

「見つけたよ、マックイーン」

 

「……テイオー」

 

 マックイーンはテイオーをまた別人のように見ていた。わたくしより一つ先を知っている。レース場に居た頃のテイオーのような顔つきだった。

 

「これがボクの見ていた世界。ちょっとは分かった?」

 

「申し訳ありません……。貴女の苦しみなんてこれっぽっちも……」

 

「いいよ。分かりっこないってこんなの。ボクだってマックイーンに向かって『改名しようかな〜』なんて言っちゃったし。お互い様ってことにしよ。……ごめんなさい」

 

「……ごめんなさい」

 

「絶っ対納得してないでしょ」

 

 マックイーンは膨れっ面だった。もう目に見えて頬を膨らませ、涙ぐんだ瞳をテイオーから逸らしている。奮起させようと駆けずり回り、禁忌の実験を再び行う真似をしたのに、当の本人が勝手に全てを理解して先駆者面をしているのだ。ムカつく要素しか無かった。

 

 

「当然でしょう! わたくし、ブチ切れて貴女を引っぱたいて病室を破壊して警備員もぶっ飛ばしてウマレーターに同時接続しているんですのよ! ここまで来て和解だなんて! 走って貴女を分からせて差し上げるつもりでしたのに!!」

 

「待ってマックイーン何してるの!?!?」

 

「もうテイオーなんて知りませんわ! 競技人生の最期は貴女に捧げようと思いましたのに!!」

 

「何もかもが大きいし重いよ!! メジロ家だからって何していいわけじゃないからね!?」

 

「知ったことじゃありませんでしてよ!」

 

「ああもう! 分かった! 前に言ってた宝塚記念の舞台でレースしよう!」

 

「あら、わたくしが勝ったらやらかしの全てをテイオーとの共犯に致しますわよ」

 

「じゃあボクが勝ったらボクと一緒に郊外で隠居してもらうからね! 一人は寂しいから!」

 

「はぁ!? 貴女生活能力ダメダメじゃないですの! 令嬢にメイドをさせるおつもりで!?」

 

「なら君は前期生徒会長を犯罪者にしようとしてるヤバいウマ娘だよ! ついでに言えばボクだって一応お嬢様だからね!」

 

 二人が醜い応酬を繰り広げる中、同じVRウマレーターに同時に接続した者同士が近づくと起こる現象、感応現象が始まった。お互いの精神と記憶が同じコンピュータ内で処理された結果、混濁を起こし、何が起こるか分からない状態へ近づく。

 幸いなことに、今回は二人が宝塚記念を望んだためか、周囲が阪神レース場に変化するだけに留まったが、五感も生命も何もかもが曖昧だった所に見知った空間が現れると、急に地に足が付くような感覚を覚え、少しだけ酔うのである。

 

「芝コースで二千二百メートル、右回りですわよ」

 

「だいじょーぶ。そのくらい分かってるって」

 

 気がつけば現界していたテイオーの肉体と勝負服は、あの有馬記念の時と同じくらい、同じくらいボロボロだ。対するマックイーンはあの天皇賞・春のような身体を手にしてるに違いない。

 

 お互いにボロボロで、お互いに絶好調で、お互いに、最盛期である。

 

 光の粒子がゲートを象る。それと同時に、十四人のウマ娘らしき粒子の影がゲートへ入っていく。これは宝塚記念を制覇してきたウマ娘の影なのか、二人も合わせるようにゲートへ収まっていく。

 十六人立てのレースらしいことだけはなんとなく分かっているが、ウマ娘の影は明確な形を持たず、知っているウマ娘かどうかも分からない。だが、問題は無い。全てを置き去りにして、勝てばいい。走って、最初にゴールしたらそのウマ娘が勝者であり、祝福される対象になる。

 ただそれだけが不文律なのである。

 

「テイオー。一つだけ」

 

「ん、」

 

「祈らないでください。ただ、走りなさい」

 

「……ん。」

 

 ファンファーレが鳴り響く。研ぎ澄まされる感覚が酷く懐かしい。狭苦しいゲートの中で今か今かとスタートに恋焦がれて、あっと思えば力強く地面を蹴り抜いた。

 そして、ガコンという音と共にゲートが開いた。不思議な感覚だった。逃げウマ娘ではないテイオーがマックイーンよりも先行する形でハナを取る。

 

(あの世界のボクはこうした)

 

 “逃げの直感を極めた”世界線のテイオーは、スタートを極限まで極め、荒れた内ラチの僅かに残る芝を器用に蹴り抜いて逃げ切っていた。テイオーは今、別の世界線の自分をトレースしているのだ。

 

 しかし、今走るテイオーは王道の先行戦法を得意とするように鍛えたウマ娘である。このまま逃げ続ける事が出来ない。“だから素直に譲り渡した”。

 

(ほら、大好きな先頭だよ?)

 

 何処かで見かけたような、先頭が大好きな先輩に似ている影が困惑しながら先陣を駆け抜けていく。スタートダッシュのテンポを乱されたからか、ペースメーカーになるはずの先頭のウマ娘は、実に走りにくそうにしていた。スタート直後は下り坂で、逃げウマ娘ならば利用しない手は無いのに、テイオーがすぐに垂れたことでペースアップするタイミングを失った。

 

 第一コーナーに差し掛かる時に、これまた寮の部屋で見慣れた影がテイオーの後ろに張り付くように走っていると気がついた。テイオーの真後ろは小さいからスリップストリームには向かないが、その影はテイオーよりも小さい。このまま第二コーナーで左右を固められると動けなくなってしまうだろう。事実、やけに黒い、漆黒の粒子の影がテイオーをマークしているようだった。

 

 コーナーにそって後ろを把握すると、普段より中団に構えたマックイーンがやや外側を覆うように走り、先行と差しウマ娘の間を行ったり来たりしていた。ペースを乱しながら焦らせている。影たちは動きにくそうだが、マックイーンはこんな小細工を覚えていただろうか。いや、テイオーと同じように“小細工に特化した世界線”のマックイーンをトレースしたのだろう。

 

 テイオーの知るマックイーンは逃げ寄りの先行策を用いて、無尽蔵のスタミナですり潰す強者の勝ち方を得意とする。しかしこの二千二百メートルではマックイーンのスタミナは有り余ってしまう。故に周りを潰しにかかる余裕があるのだろう。先頭を突き抜けて大逃げしても勝てるかもしれないが、先頭の影がやけに先頭民族の先輩に似ているから警戒しているのもあるだろう。

 

(こうなると先行集団に勝ち目は無い。スズカ先輩みたいな影が逃げ切るのを防ぐにはハイペースにせざるを得なくして、スタミナ勝負に持ち込まないとだから)

 

 後方集団はかなり入れ替わりが激しく、大外からロングスパートで差し切りたい影や、荒れた内ラチをガン無視して突っ込むパワー溢れる影、果てはマックイーンに便乗して周囲を煽る影まで様々で、全く油断ができない。

 テイオーは大外や横を付けられる前にわざと左へ出る。それも大きく踏み鳴らすようにして。

 

(今のボクならアクション俳優だって夢じゃないかも)

 

 “ダンスパフォーマー”として成功した世界線の自分から学んだ技だ。動きとしては武道の震脚に近いが、キメのポーズを取る時にカッチリハマる動きだ。これをレースに取り入れると、最小限の負担で周囲への威圧が可能になる。やはり動きを見せると左右に付けようとしていたウマ娘の影たちは僅かに距離を置いた。

 

 第二コーナーを抜けた直線はやはりスローペースになっていた。先頭から最後方まで十八バ身はある縦長な展開にも関わらず、全体が二人に乱されペースを見失っている。

 冷静な追込ウマ娘達は恐らく第四コーナーから差し切れるスタミナのためにわざと付き合っているのだろう。東京ほど直線がある訳でもない阪神では、ペースの崩れた先行を坂でのスパートで抜き去る事が重要になる。そうなるとペースを作るのは自然とテイオーとマックイーンになる。

 

 第三コーナーの手前、ここで中団で溜めていたマックイーンが外からスパートを仕掛けた。他の箇所に比べると緩やかなカーブを描く第三コーナーであるが、仕掛けるには早すぎる。しかし、マックイーンは比類する者が少ない程のステイヤーだ。ここから外側でスパートを掛けてもまだ切り抜けるだろう。

 

 (焦らない。ボクはまだだ。ここじゃない)

 

 第三コーナーを抜けた時、先頭だった影が“加速した”。逃げて、差す。この上なく理不尽な脚。しかし、マックイーンのロングスパートが遂に並ぶ。最高速で劣るマックイーンではあるものの、ロングスパートで自分のペースを守り続けて加速しきった彼女と、スローペースから先頭の景色を守ろうと再加速する先輩らしき影では、マックイーンに軍配が上がる。

 

 早いマックイーンのスパートに触発されて続くように追込ウマ娘の影が三名ほど後を追う。力強い長い脚が阪神の坂を蹴り抜いていく。

 

 “全員が大外を通って”。

 

(ここ!)

 

 先頭を通るから走りやすい中央を選んだ先頭民族の先輩らしき影、外から回るスタミナ自慢のマックイーンや長身のパワー溢れる追込組。急な加速に耐えられずに垂れた先行ウマ娘に蓋をされた差しウマ娘達。荒れた内ラチはガラ空き。第四コーナーの急な角度を曲がり切れるなら、一気に先頭に出られる。

 

(ボクを信じろ。ボクは、トウカイテイオー。ボクには絶対が、帝王の玉座がある!)

 

 ハロン棒が肩を掠めかねない中、足首を全力で振り抜くテイオーステップを、僅かに生き残った無事な芝に蹴り入れ、最内を駆け抜ける。当たれば、即時に大事故になる。

 

「……っ!」

 

 恐怖を噛み殺す。この程度、引退宣告をされた診察室に比べれば、こんな程度でしかない。

 

 ──最終直線。やはり宝塚記念に関わったウマ娘が影として出てきているだけあってか、崩れたはずのペースを取り戻して息を入れたウマ娘達が次々と坂を蹴り飛ばしてくる。マックイーンが先頭に、優駿が果敢に差そうとラストスパートを掛けてくる。

 

 それでも、

 

 それでも、

 

 絶対は──

 

 何度も砕けたこの脚が、

 

 何度も打ち倒されたこの心が、

 

 何度も立ち上がってきたこの願いが、

 

 奇跡なんて思うがままにしてしまう。

 

【奇跡に抱く玉座を、ここに】

 

「祈らない! ただ走って! ボクは勝つ!」

 

 “世界を駆け巡ったボク”をトレースしたテイオーステップを、最後の五十メートルに叩き込む。世界を駆け巡ったテイオーは頑丈な身体だったらしく、今の全盛期のはずのテイオーの肉体ですら砕けかねない力を必要としている。

 

 それでも、何処かの世界で、別の世界線で、テイオーの名の元に勝利を祈る声がある。

 

 じゃあ、走らなきゃね。

 

 それだけだ。

 

 夢のようなグランプリは、泡末のような終わりを迎える。

 

 歪む視界と世界の縁で、掲示板の一着ににテイオーの番号が灯ったのを最後に、世界は暗転した。

 

 

  ◇

 

 

 七月。

 夏合宿は相変わらず地獄のような炎天下のビーチの元で行われている。宝塚記念後の会見で、テイオーは天皇賞・秋での復帰を宣言した。マックイーンもそれに続く形で宣言し、世間は三冠ウマ娘の誕生以外に再びの因縁の対決という話題を手にした。

 

 なお、病院のあれこれや禁忌実験は例によってメジロ家の力とタキオン博士の名声によってもみ消された。チーム・アルレシャだけは敵に回したくは無いと、テイオーは心の底から思った。

 

 しかしテイオーの次走は天皇賞・秋であり、マックイーンとの念願の再戦であるのだ。しかも今回はテイオーの得意とする中距離での。真っ向からの挑戦状ということだ。

 

 世間ではテイオー優勢ではという声もある。だが、本人たちからすれば、怪我をしていない他の重賞ウマ娘の方がよっぽど恐ろしいのだから、世間というものはいつも当てにならない物なのである。真っ当に努力を続けてこれる者は一つの才能であり、それを怪我なく行えるのも才能の一つなのだ。

 

 正直、テイオーとしては練習期間が全く足りていない。骨がくっついていても筋力は全く戻っていないし、骨の強度は全体的に落ちてしまっている。おまけにドクターストップがかかって、夏合宿だからって昔みたいなスパルタが出来ない以上、海辺の合宿所に居る意味は半分くらい無い。暑いだけだ。しかし、悪夢や幻覚と格闘し続けた結果、テイオーは唯一無二の特技を手に入れていた。

 

「しっかしウマ娘の走りの可能性を見て真似をできるようになるとはな」

 

 トレーナーが困ったように頭をかくが、出来るんだから仕方ない。決して妄想でなく、ウマ娘達が到達しうる限界の能力を観察できるようになるまで、テイオーの世界を観測する力はコントロールされていた。

 あとはそれに勝てるだけのギリギリまで追い込むだけ。自分が壊れない未来へ自分を導く。それだけの事だ。

 

「そこまでして走りたいか? ……ってウマ娘に聞くのも野暮か」

 

「んー……ボクは正直マックイーンともう一回戦ったら引退でも良いんだよ。事実、もう本格化は終わったし。でも、“この眼を手に入れたトウカイテイオー”がどこまで戦えるか、は知りたいんだよ」

 

「どうして?」

 

「それを願うヒトが、沢山の“場所”に居るから。ボクは皆のテイオー様だからね!」

 

 嬉しそうに腰に手を当て、片手にブイサインを作るテイオーに安心したのか、トレーナーの顔も少し緩む。夏の日差しは厳しいが、初めての担当ウマ娘の元気な顔が戻れば、少しはトレーニングメニュー制作に打ち込めるというものだ。

 

「……そうだな。ここにも一人いるし、ほら。そっちからも来るぞ」

 

 遂に繫靭帯炎が治りそうなマックイーンが砂煙を上げながら駆け込んでくる。

 

「テイオー! ここに居たのですね! 砂浜で筋トレするスペースが取れましたわ! 行きますわよ!」

 

 マックイーンもまた、夏合宿へ戻ってきていたウマ娘の一人だった。今年の夏合宿はドリームトロフィーに行った先輩も多く参加している。なんでも夢の中で謎のウマ娘と激戦を繰り広げたウマ娘が続出したらしく、本格化を過ぎたウマ娘ですら闘争心を取り戻している有様だ。そんなドリームトロフィーに登録してないとはいえ、実績からすれば登録が近いマックイーンが居るのは中々不思議な話であった。

 

「チーム違うし次走被ってるのに来るのもどうかと思うんだよマックイーン……」

 

「わたくし達はリハビリ中のおじゃま虫ですのよ! 現役真っ只中のウマ娘たちの中に場所があるだけでもありがたいと思いなさい!」

 

「それはそうだけどさ」

 

「普通に走れるようになったら別々に走れば良いだけですわ! さぁ! 上がり三ハロン三十秒を目指しますわよ!!」

 

「うえぇ! 高速化が過ぎるでしょ!そんなスピード出したいならアイビスサマーダッシュでも狙って行けばいいじゃん!」

 

「あら、わたくし達は走りすぎて日本から追い出されるのでしょう? そのぐらいやって見せますわよ! さあ! テイオー!」

 

「もぅ、分かったって! その為なら、早く身体を戻さなきゃね!」

 

 テイオーとマックイーンが海辺へ駆けていく。トレーナーはそれを見届けてからキャロッツの後輩たちの元へ歩いていく。

 

 少女達の青春は、もう少しだけ続いてくれる。

 

 願うものの為に。

 

 夢見た世界さえを越えたい執念のために。

 

 夢を駆けるために。

 

 


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