あなたに翳す雲を晴らす風が吹きますように

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「あぁ、なんということだ。その女の子は、悪い魔法使いの力を信じるのに、泥棒の力を信じようとはしなかった。その子が信じてくれたなら、泥棒は空を飛ぶことだって、湖の水を飲み干すことだってできるのに……」
(映画『ルパン三世 カリオストロの城』より)





HELP EVER HURT NEVER

 

 

 

 青空を食べている。

「わぁー……」

 学校の屋上、給水タンク前の猫の額に寝そべって真っ逆さま、涼しい風を口いっぱいに頬張って午前十時。背中のざらついたコンクリートの感触は日陰で穏やかに温まって、吹き付ける真っ白な南風は柔らかい。狭いスペースからはみ出たあたしの髪がさらさら靡く。クジラのっぽの入道雲が光も彩度も飲み込んで作る眼下の藍色は遠くて深くて、上昇気流で海を飛ぶウミネコみたいな気分だった。

 夏休み突入の喜びも連日のそうめん責めで落ち着いてきた八月、あたし……というか、あたしたちは学校へ足を運んでいた。

 やれ生徒会で使った議事録の回収だとか、やれ赤点による補習だとか、気分転換とかバイトまでの時間つぶしとか。色々と重なっちゃって、じゃあせっかくだしみんなで学校いこっかと約束したのはいいんだけど。特に用事もなければバンドのギタリストなのにギターも持ってきてない、ほんとにただついて来ただけのあたしは眠気の名残を風にのんびり溶かしてばかり。華のティーンエイジャー、贅沢極まりない退屈ですな。

 また風が吹く。嫌な粘りのないさらりとした風。蒸し暑さを冷ます風。

「台風が近いんだっけー……?」

 高気圧がばっくり道を空けるモーセの奇跡みたいな天気予報を思い出した。本州に当たらないで上手いこと逸れてくれたらいいんだけど。ひーちゃん、海水浴行きたーいって駄々捏ねてたし。

 補習食らってるひーちゃんが一番遊びたがってるんだよなぁ、そろそろ終わるかな、蘭は気分変えって言ってたけどどこ行っちゃったんだろ、なんてつらつら考えていると、階段を上がってくる足音と話し声が聞こえた。まだ四階歩いてるかな。夏休み中で部活の音もしない校舎は静寂でシンと満たされていて、些細な気配も紛れずに響いて届く。

 あぁ、それとも。あたしたちはみんな52ヘルツだから際立って聞こえるのかもね。青を瞼にしまって耳を澄ます。

「……思ったよりすぐだったね。夕方まで覚悟してたけど」

「蘭ひどーい! 英語だけだしちょっとポカミスしてただけだもん!」

「長文読解の大問、連動してるタイプだったもんね」

「アタシも危なかったなー。まあ単語の詰め込み間に合ったおかげでセーフだったけどさ」

「もー、せっかく夏休みなんだから勉強の話やめやめ! 海水浴の予定立てようよ!」

「か、海水浴は確定なんだ……」

 窓が空いてるのかな、みんなの声はすっと聞こえてくる。ぱたぱた賑やかに踏みしめて鳴るスキール音、ゆったりと長い歩容、生真面目そうな少し小さな反響、静かに擦れるような上品な足音。ひーちゃんあたりが前に出てきて後ろ向きにターン、トモちんが頭の後ろで手を組みながら笑ってて、つぐが例の忘れ物を抱えながらちょこちょこついてきて、蘭がその隣、ってとこ? 空の色が染みた陰色の廊下を歩く幼馴染たちのイメージが廊下の突き当たり、階段を登る。描いた瞬間に足音が追いついてきて笑っちゃった。モカちゃんの幼馴染エミュレーター、なかなかの出来。

「モカー、いるのー?」

「ここでーすよー」

「わ、あんなとこに」

 頭上……じゃないや。下で聞こえた声に手をふりふり。体を起こしてひょっこり覗くと、みんなは眩しそうに手を翳したり気にせず振り返したり。両手振りながらぴょんぴょん跳ねるひーちゃんが言う。

「暑くないのー?」

「あつぅーい」

「じゃあ降りてきなよ……」

 それはそう。「蘭も来るー? お裾分け〜」「いや、大丈夫だから」残念。独り占めしてた空がちょっと名残惜しいけど、つぐが「先生からアイスもらったから、みんなで食べようよ!」って袋を見せるからしょーがなく降りていった。

「たいしょー、やってるぅ〜?」

「やってるやってる! ほら!」

「なんでひまりが得意げなの」

「あはは……モカちゃん、好きに選んでいいよ」

 つぐの広げるビニール袋にはアイスが五種類。あたしたちのために買っといたってわけでもないだろうけど、なんか性格診断とかできそうな趣き。手で食べられるし楽だなぁとチョコモナカのアイスをチョイス。「蘭は〜?」「じゃあ……このいちごのやつ」「かわいい〜」ぺちんと怒られた。

 みんなそれぞれ選び終えて(ひーちゃんだけ余り物になった)、あたしたちは屋上前の踊り場に引っ込んだ。日陰にいるに越したことはないよね、やっぱり。

 五人仲良く横並び……ってわけでもなく、壁に寄りかかったり階段に腰かけたり、みんなてんでバラバラ思い思いに散らばった。一番上の段で蘭が敷いてあげたハンカチに頑張り屋さんのつぐを座らせて、ひーちゃんが隣に滑り込む。反対側にちょっぴり隙間を開けた蘭がお淑やかにストンと腰掛けたから、あたしは一段下に座って緩く投げ出された太腿にうつ伏せでもたれ掛かった。元気に立ちっぱなしのトモちんがケラケラ笑ってるから、たぶん蘭は仏頂面してる。困ってるだけで嫌がってはなさそうだから居座りまーす。居座るっていうか、居寝転がる?

 さて、これからどうしよっかな。とりあえず一番忙しそうなお方にあたしは尋ねる。

「トモちん、今日のバイト何時から〜?」

「十四時からだな。お昼食べ終わるくらいまではこっちにいられるけど」

「うわぁ、ピークの時間じゃん……」

「え、ファストフードのピークって十二時じゃないの?」

「夏休みになると、みんなそう思って正午は外してくるから……」

「あー」

 喫茶店の娘さんであるつぐの実感籠もったコメントにあたしは頷いた。コンビニでレジ打ってると「十二時だしコンビニで買う方が空いてていいね」って聞こえてきたりするんだよね。内心でうんうん頷きながらお客さんの買っていくアイスを眺めて羨むのが最近のバイト中のマイブーム。

 もしょりパリパリとアイスを齧りつつ、「……とりあえず、どうすんの」と蘭が口火を切るのを聞いていた。

「ひまり、海水浴行きたいんでしょ。早めに考えないとまずくない?」

「えっなんで!?」

「あー、台風来てるもんな。そろそろ九州だっけ」

「まだ遠いけどもうひとつ来てるみたいだね」

「うそぉ!? ……巴、今日のバイト休めない?」

「お前の補習が伸びたときのために代わりで入ったんだぞ……しかもさっきお前、うわぁって。時間忘れてたのか」

「ワガママだなぁひーちゃんはー。今すぐ行きた~いとか言わないでね~?」

「ぎくっ」

「ほんとにそれ言う人いるんだ……」

 珍獣ひーちゃんはちょっと良い感じに熟してきた小豆アイスを咥えてそっぽ向く。苦笑いを浮かべたつぐは濃い目のミルクアイスをちっちゃい木べらスプーンでちっちゃく掬ってちっちゃいお口で味わうと「でも、確か来週いっぱいはなんとか晴れてるんじゃなかったっけ」とフォローを始めた。

「今近づいてる台風がいい具合に本州から逸れてくれたら、って希望的観測ではあるんだけど……ほら、こことかどうかな?」

「来週……あたしは行けるよ」

「お?」

 蘭が乗り気だ。思わずみんなでまじまじ見つめると、メッシュの色が滲み出たみたいにみるみる赤くなっていく。

「……なに? 実際用事がないんだからさっさと答えた方が話が早いでしょ」

「蘭ならきっと、素肌なんて晒したくないも〜んって言うかとー」

 髪に赤メッシュなんて入れてるし口調はぶっきらぼうだけど性格的にはむしろ清楚で繊細な方だから、まんざら外れでもないはず。でも素直じゃないし、そんなんじゃなーいって怒りそうだと思ってたんだけど、蘭はもっと赤くなって顔を反らした。

「いや、だって去年は、その……ひまりに、付き合ってあげられなかったし……ぅ、埋め合わせ、っていうか……」

 消え入りそうな声が階段を転がって廊下の奥へ消えた頃、目を真ん丸に見開いたひーちゃんが口をわなわな震わせた。

「……ら、蘭……かわいいー! そっかそっか気にしてたんだね! 良いコなんだからもー!」

「だぁー! 暑苦しい! ただでさえ暑いのにっ……このっ……無駄に力強い……!」

「ひーちゃん重いよぉ」

「重くないもん!」

 感極まってわざわざつぐの前を通って抱き着いて来たひーちゃんにあたしまで巻き込まれてしまった。重いっていうか、上から蘭で抑え込まれる形になって態勢的にしんどいし、無理に顔を上げるとひーちゃんのおっぱいで窒息する。隙間から見えるトモちんの顔にたすけてーと手を伸ばしても微笑ましげにされるばかりだった。おのれ。

 そのトモちんと来たら「モカ、そういえばなんだけどさ」と悪戯小僧みたいに口元を吊り上げた。

「ひまりのアイスっていくつかわかるか?」

「うぅー……小豆アイスおひとつで376キロカロリーになりま〜す……」

「やめてよ!? 最近頑張って絞ってるのに! それにさっき勉強して糖分使ったもん!」

「え? 昨日もうちでパフェ食べ……ごめんね、なんでもない……」

「つぐの優しさが一番つらい!」

「わぷっ」

「やめてやれよ……」

 蘭に押し退けられたひーちゃんはわっと泣いて、今度はつぐに抱き着いた。そのままアイスの残りを一気に食べ進めていくから、さしもの大天使つぐもちょっと困り顔。

 ほんとは、蘭の言う通りさっさと予定を決めちゃった方がいいんだろうけど……うぅん、止めたくないなぁ。

 瞼の青がみんなの顔に重なった。春は後ろ髪を流して彼方。大欠伸する入道雲の向こうでは駆け足の台風が次の季節をもう引き連れていて。こうして楽しく姦しくお喋りしてるだけでどこか、胸が切ない。

 モラトリアムの涼しさが開けっ放しの屋上扉から吹き込んであたしたちを冷やかす。もたもたしてると夏が終わっちゃうぞー、って急かすみたいに。アイスを入れてたビニール袋もそうだそうだとバサバサ鳴くから、あたしたちはつい押し黙った。

 小さく溜め息を吐いたトモちんが仕切り直す。

「この日ならアタシも空いてるよ。水着もまあ、どうせ行くだろうなと思って買ってあるし」

「モカちゃんも準備万端でーす」

 無言で蘭も頷く。たぶん海かプールは行くだろうなーって、聡明なモカちゃんはちゃーんと夏前に用意していたのです。ぶい。誰も渋ったりせず要望通り進みそうな展開に、やっとつぐを解放したひーちゃんは手の指を組んで感激した。

「み、みんなぁ……! よし、この日は海水浴! 絶対だよ!」

「トコナッツパークじゃダメなの?」

「母なる海って言うでしょ! お盆は実家のお母さんに顔見せなきゃ!」

「謎理論……」

 蘭が呆れたような声を柔らかく綻ぶ口元に乗せた。喜んでくれて嬉しいのかなぁ、うんうん。蘭が嬉しそうだとみんなも少し雰囲気が柔らかくなる。自然に話題も弾みだして、いつの間に水着を買いに行ったのだとかついでに映画を観ただとか、今じゃなくたって出来そうな他愛のない雑談に花が咲いた。

「そういえばつぐのとこで新作出るよね? 食べなきゃ……!」

「最近絞ってるって言ってなかった?」

「明日バイト頑張るから減るもん! これから忙しくなりそうだし、むしろちょっと多めに取るくらいがベスト……!」

「忙しく……って、なにかイベントでもあるの」

「バイトリーダーがお子さん生まれそうらしくてさぁ、奥さんの体調次第でひょっとしたら急に休むかもって言ってたんだよ」

「お~、めでたいですなぁ」

「そうそう、めでたいことだから他のバイトさんも張り切っててさー。お陰で人手足りてるから忙しくはならなさそうなんだよな」

「私の理論武装が!?」

 浅はかですなぁひーちゃん参謀、とモナカアイスを食べ切るあたしのお腹周りに注がれる熱視線。「ふふ〜ん、どうよ、悩殺ぼでー」「くっ……」ほんとに恨めしそうな顔はやめてほしいなぁ。

 同じくアイスを食べ終えたつぐがゴミを袋にまとめながら「いっそ、運動目的でどこか行くのもどうかな」なんてひーちゃんに言う。

「サイクリングとか、ハイキングとか」

「商店街で夏祭りやるし、その手伝いなんかもどうだ?」

「……丸一日スタジオ借りて演奏しまくるのもありじゃない? ひまりじゃなくてドラムの巴が一番痩せそうだけど」

「確かに〜。あ、お勉強もしようねー。頭を使って糖分消費〜」

「うっ」

 胸を押さえるひーちゃんが思うのは今の成績か、それとも将来……ううん、もうすぐにでも考えなきゃいけない、進路のことかな。

 あたしはスマホの天気予報を開いた。台風はゆっくりと、でも確かにまっすぐ、迫っている。

 顔を上げたらつぐと目が合った。

「やりたいこと、たくさん出てきたね」

「……そうだねぇ。スケジュール帳が埋まってゆく〜……!」

 あたしは風向きから目を逸らして、挙げられた予定をアプリのメモ帳とカレンダーを立ち上げる。「せめて海水浴だけは行けたらいいね〜」と声に出したままのことを書き込んでいると、ひーちゃんが「他にさ、せめてこれだけはやりたい〜! ってことない?」ときょろきょろする。リーダーの問いかけにとりあえずみんなで腕を組んで唸るけど、今のとこは、まあ。

 太腿に腕を投げ出してもたれたまま、あたしは蘭を見上げた。両手でそっと支えられたストロベリーのカップアイスから結露のしずくがふたつ落ちてきて、瞼の端を、小鼻を、頬をころころ転がっていく。冷たくてつい閉じたあたしの目元を指の背で優しく拭いながら、蘭はぽつりと溢した。

「……せめてこれだけは、って言うならさ。夏休みの間にもう一回くらい、なんの用事もなく集まれたらいいね」

「いつも通りに?」

「うん」

 面映ゆそうにしながら頷く蘭に今度はみんなが殺到した。

 苦しい鬱陶しいって呻くけど、あたしの耳に嫌とか離れてだなんて言葉が落ちてくることはついぞなくて、風のひとつじゃ冷めないくらい暑くなるまで入道雲みたいに固まっていた。

 

 

 

 お日様を真上に戴いた夏太郎の足元にとっぷり影が染みていて、蝉時雨を背に受けながら大股であたしたちを追い越していく。そのまま夕暮れを連れてきて、夜が日差しになって、また真っ白に身嗜みを整えて。ずっとずーっと同じかと思ったらどんより顔色は少しずつ暗く濃くなっていく。

 手を伸ばしたら届きそうな間近にヘヴィグレーが立ち込める朝、ひーちゃんから飛んできた電話が始まりだった。

『ごめん! まさかほんとに忙しくなるなんて……!』

「ありゃ〜……まあ、そんな日もありますなぁ」

 俯せにベッドに転がりながら、あたしは立ち込める雲へ当てつけるみたいにからりと返した。

『リーダーさんが休んじゃったのは想定通りなんだけど、他のバイトさんが体調崩しちゃったりお子さんがお熱出しちゃったりで……他の店舗から応援来てくれてるけど、それでも遊びに行けそうにないくらいで……』

「うん、うん。大丈夫だから。ね?」

 スマホでかけてなかったら両手を合わせて平謝りしてるんだろうなぁって目に浮かぶ。素直だしけっこー律儀だし、欲には弱いけど責任感ある方だし。まったく世話が焼けますなぁ。

「しょうがないことは謝んなくていいんだよひーちゃん。りぴ〜と、あふたみー。しょうがな〜い!」

『えっ、しょ、しょうがなーい……?』

 うむ、よろしい。ごろんと寝返りを打って指先を空中でふりふりしながら、あたしは小粋な文句をパケット変換した。

「バイト頑張ったらー、夏の終わり頃には、ひーちゃんのスタイルさいきょ~になってるんじゃな~い?」

『それって……』

「トモちんにも伝えてねー? 夏休み最終日には新しい水着のシフト、入れとくように〜って」

『……うわぁ~ん! ありがとぉモカー! 好きぃ゛〜!』

 おれも愛してるぜべいべー、と通話を切った。デキる美少女はつらいぜ。

 スマホを握った手がぽったり倒れる。湿度の小人が体中にしがみついて重いけど、このまま惰眠を貪るよりは傘とランデブーに赴きましょうかしらん。最近買ったんだよね。頬を染めた乙女みたいな、綺麗でかわいい赤い傘。

 明日の海水浴が延期になったこと、蘭とつぐにも伝えなきゃだ。つぐは今日お昼前までお手伝いの日だったはずだし、せっかくだから羽沢珈琲店に向かおうと決める。メッセージで終わりよりは顔を合わせる方が、きっと寂しくない。ついでにちょっと早いお昼とでも洒落こんで、そこにたまたま蘭がいたら万々歳かも。自分で向かうよりなんとなしにばったり会う方が嬉しいもんね。

 適当な部屋着の上に薄いシャツを一枚羽織る。傘を手に、濡れてもいいようにビーサンをつっかけて。あ、台風の日に外出ようとしたら心配されちゃうかな……よし。

「……いってきま~す」

 口元の空気にだけ囁いて、あたしは又三郎の踊る街へ繰り出した。

 頭上に咲いた赤い花を風がべろりと舐める。さりさりとチープな足音が跳んで転がる。首筋をぬるくすり抜けるものたちをぼんやり追いかけながら、崩れかけた天気におどおど暗い羽沢珈琲店のドアをくぐった。

「こんにちは~」

「あぁモカちゃん、いらっしゃい」

 出てきたのはマスターさん……つまり、つぐのパパで。お手伝いを断られても張り切ってそうなつぐがいない。

 ぽつぽつと外で滴る音がして、すぐさま子供が転んだみたいな大泣きになった。

「つぐみなんだけど、昨日から少し、夏風邪をこじらせていてね……」

「そう、ですか~……」

「ごめんよ、せっかく来てもらったのに」

 首元に手をやりながら申し訳なさそうに微笑んだ眉の下がり方は親子そっくりだった。「カフェモカでいいかい? 奢りだよ」「先にお部屋上がってもいいですか~?」「……すまないね」あたしはにっこりお上品にお辞儀した。手土産を忘れちゃったけど、体調悪いときにお土産までもらったらつぐは気にしそう。配達員くらいがちょうどいいバランスかな? つぐパパに断って冷蔵庫に置いてあるスポーツドリンクを持って行ってあげることにした。

 お店の方にも、上がらせてもらったおうちの方にも蘭はいない。アテがぜーんぶ外れてしまった。小さな溜め息を吐き切って、優しく元気な癒し系美少女のモカちゃんに変身する。余計な心配なんかさせないもんね。

 控えめなノックを三回。返事はない。

「つぐー……お加減いかがですか~……」

「……ぇ、あれ……? モカちゃん……?」

 ドアを開けると、可愛いお部屋のベッドにちょこんと顔だけ出した頑張り屋さんが、少し白い顔で起き上がろうとしていた。

「……ごめん、気づかなくって……いらっしゃい……」

「こ~ら、起きないでいいのー」

 あたしのお迎えなんかいらないいらない。スポーツドリンクを机に置いてほっぺを両手でむにっと挟むと、ほんのり熱いような。枕元にお薬が置いてあるけど咳とかには関係なさそうで、夏バテの延長で体が疲れてたのかなぁ、とあたりを付けた。顔を挟んだままベッドに押し倒して「よい子はおねんねだよ~」と頭を撫でる。つぐは何か言おうとして、観念したみたいにお布団へ顔を引っ込めていった。

「つぐりすぎだねぇ。疲れたときはダラダラするものじゃよ~、お休み仙人の心得じゃ。ふぉっふぉっふぉ」

「……でも、今体調崩しちゃったら、夏休みの予定が……」

「い~のい~の。実は、ひーちゃんとトモちんが予想より忙しくなっちゃってねー? とりあえず明日の海水浴は、夏休み最終日に延期でーす」

「あ……そ、そうだったんだ……」

「まったくも~。こらっ、わるいこ~っ」

「わぷっ……ふふ、くすぐったいよ……!」

 ほっぺをもちもちこねこね。さっきより目元は柔らかい。眉間の皺も緩んだ。よーしよし、いい子だいい子だー。

 ……ほんとにね。

 机には宿題と関係のない参考書とノートが置かれてる。スマホも見れないくらい疲れてたのに気づけなかったのは不覚だけど……勉強とか、将来のことに関してあたしは止める言葉を持ってない。デザイン系への興味と少しの挑戦がいくつか経験値としてあるくらいの、まだなにもかもあやふやなあたしには。

「ごめんねー、お土産はあたしの体しか~……!」

「ふふっ、ありがとうモカちゃん……心細かったから嬉しいな」

 愛いやつよのう。「もう少しだけ、お喋りしてていい……?」といういじらしいお誘いにお応えして、あたしは「もう少しだけ」居座らせてもらうことにした。

「……ひまりちゃんたち、そんな大変になっちゃったんだ」

「トモちんからは『バイト代にボーナス付くし、乗り越えたらパーティしようぜ! それくらいはやっときたい!』な~んてお言葉を頂いておりまーす」

「あははっ」

 ラインで届いてたメッセージを声真似と一緒に伝えると、つぐはおかしそうにくすくす笑った。思ったより元気そうで一安心。

「……うん、悪いことばっかりじゃ、ないもんね」

「つぐはなにしたい~?」

「うーん……そうだなぁ。とりあえず」

「うんうん」

「……みんながお店に来てくれたら嬉しいな。そこにね、私がいつも通りカップを持っていくの」

「それは~……素敵ですなぁ」

 あたしたちの『いつも通り』には欠かせない景色がいくつかあって、その内のひとつは間違いなくこの羽沢珈琲店で過ごす時間だった。歌詞を書きながら仏頂面してた蘭がコーヒーに口元をほころばせたり、ひーちゃんが新作のパフェに落ちそうなほっぺを押さえたり。そんな二人をランチメニューをがっつり食べながらトモちんがおかしそうに見ていて、飲み物のお代わりをつぐが持ってきて。何度も繰り返してきた休日の景色。

「パーティやるならここでかなぁ。海水浴の後に、みんなで夏休みお疲れ様~! って」

「夏『休み』なのに?」

「ありゃ。一本取られたね~」

「ふふふっ……モカちゃんは? やりたいこと、なにか思いつかない?」

「ん~……」

 腕を組んで目を閉じてわかりやすく唸ってみせる。脳裏に浮かぶのは今日の空模様とは正反対な、あの日口いっぱいに吸い込んだ青色ばっかりだった。晴れが恋しい。

「……みんなで並んでアイスが食べたいなぁ。この間みたいに、綺麗なお空を眺めながら」

「そういえばモカちゃん、先に屋上で空見てたね」

「居ても立っても居られないくらいの、千年に一度の青空でしたからなぁ。青空ソムリエとしては、味わわざるを得なかったものでして~」

 鮮やかなサイアノタイプがまだ焼き付いている。

 本当に、本当に綺麗な空だった。

 どこまでも見渡せそうな、どこまでも飛べそうな、どこまでも落ちて行ってしまいそうな空だった。胸いっぱいの奇跡で浮かんで、ぽつんとひとり、消えてしまいそうな空だった。

 遮るものなんて何もない空を、みんなと分かち合えたら……うねりを上げて、渦を巻いて、どっどど、どどうど、迫り来る未来への怖さ、寂しさが。少しでも薄れるのかなって。

「……さぁて、そろそろお暇しましょうかね」

「来てくれてありがとうね。今度来てくれたときは私の奢りだから!」

「つぐパパにもう奢ってもらってまーす。そんなことより、早く元気におなり〜」

「はぁい」

 最後につぐの優しい頭をぽんぽん撫でて、あたしは部屋を辞した。帰りがけにテイクアウト用の紙カップに注がれたカフェモカをつぐパパから貰っちゃって、傘と両手に花で家路につく。

 雨は弱まりつつまだ降り続く。お昼なのに暗い空、なんだか一日がもう終わっちゃったみたいな気分。カップにちょびちょび口を付けながら家に着いた頃にはカフェモカをすっかり飲み干していた。

 物足りない。

「……台風、直撃ではなかったー……はず」

 部屋に駆け込んで、適当に羽織っていたシャツを脱ぎ捨てた。空はまだ涙を溢しているけど、癇癪を起こして暴れるほど険しい顔じゃない。掛けておいた夏服に袖を通して、スカートのポケットにスマホを一応突っ込んで。

「……ごめんねー。とことん付き合ってもらうよ〜」

 まだ今日を終わらせない。傘を開いて踏み出したら街が叫んだ。びゅうびゅう歌う声を背中に受けて宙を舞うみたいな駆け足で、あたしは学校まで飛んでいく。

 蘭がいる気がして。

 約束も思い当たる理由もないけど、あたしの中の幼馴染エミュレーターが……十年以上育んできた『いつも通り』が言うんだ。

 果たして、屋上の踊り場にその姿はあった。

「らーん、調子どう~?」

「……え、モカ……?」

 最上段の真ん中にぽつんとひとり、蘭は膝を抱えて蹲っていた。きちんと整った制服姿としっとり濡れた髪。左のこめかみに一房の赤い勇気が映えている。手を振りながら階段を登ったあたしはちょっと迷って、右隣に腰を下ろした。

「今日はアイスはありませーん」

「それはまあ、いいけど……」

 ありゃ、戸惑ったよーな困ったよーなだ。そして「なんでいるの」とつっけんどん。あたしは手鏡の代わりにスマホを取り出した。

「笑顔をお届けに参りました〜」

「……なにそれ」

 よしよし、声から険が取れた。「モカが笑ってどうすんの」「素敵な笑顔が眩しくってー」「笑ってないし」蘭の笑顔検定一級保持者であるモカちゃんの目は誤魔化されない。あたしが笑顔と言ったら笑顔なのだ。

「……あれ、なんかメッセージ来てるよ」

「ほ〜?」

 なんじゃらほい。通知はトモちんからだった。一言『シフト了解!』。

「……どういう意味?」

「あたしたちがスカウトした水着たちの初出勤がー、夏休み最終日へ変更になりました〜、って意味」

「ああ、そういう……ひまりたち、結局バイト入っちゃったんだっけ」

 膝をきゅっと抱えながら忘れてたみたいな口振りで蘭は言った。

「連絡来てたのー?」

「ひまりからも巴からも、わざわざ個人宛てに」

「ふたりともマメですなぁ」

 考えることはおんなじみたい。蘭に寂しい思いさせるのはもうやだもんね。メッセージのないつぐは逆に、心配かけたくないばっかりに連絡自体できなくなっちゃってると見た。これもなんだからしい。「ちなみにー、つぐは夏風邪らしいよ〜?」「えっ」「明日、いーっぱいお土産持ってって困らせてあげようね〜」「……そうだね」余計な気を回す気もなくなるくらいらびゅーしてやろう。

 そして、つぐだけじゃなくて。

「蘭、もしも、よかったらなんだけど……今のあたしはそりゃ〜もう寂しい寂しい、ナイーブ系美少女でして。ちょっとだけ、一緒にいてくれない?」

「……しょうがないな」

 こつんと揃えた膝に顎を乗せる蘭の細めた眼差しは、強がりじゃないことにした。

「歌詞書いてたのー?」

「そのつもりだったけど……全然。たまにはこんな天気でもいいか、って出て来たんだけどさ」

 よく見ると、抱えた膝の上にいつものノートが草臥れていた。もう何代目かな、ギターに並ぶ蘭の相棒だ。書いては消してを繰り返した掠れ模様のページを開いて留めるシャーペン。受け取った拍子に外れちゃって、めくれたページの隙間からしょうがないさと転がっていく。落っことす前になんとか掴んだあたしを蘭はくすくす笑うと、膝を閉じていた手指を組んで「あーぁ……」と前へ伸ばした。

「……別にさ。今日、用事があったわけでもないし。海水浴は元々明日だし。ひとりでここに来たのはほんと、なんとなくでしかなかったんだけど」

 こてんと頭だけ後ろへ倒れるように、蘭は屋上への扉を振り返った。まだ少しご機嫌斜めの空が漏らす小言の雨に、窓風が貧乏揺すりと共に反駁している。

「ただ……今日じゃなかったな、って」

 ……しいて言うなら。

 寂しいでも悲しいでもなくて、燻りなんだと思う。不完全燃焼のフラストレーションが熾火になって、蘭の中でぷすぷす煙を上げている。

 もう一度燃え上がったとき、きっと蘭は傷付いちゃう。

 火を消す水が。熱を冷ます風が欲しい。

 外は、嵐が近い。

「……実はあたしは、ただの美少女モカちゃんではないのです」

「は……?」

「心優しく友達想いな少女のもとに、千年に一度だけ現れる奇跡のびしょーじょ……あなたの願いをお聞かせなさ〜い!」

「うさんくさ……」

 急に始まった寸劇に呆れ顔をする蘭。でも、傘でお祓い棒でも振るような真似をするあたしに引く気がないことを察したみたいで「……なんでもいいわけ?」と乗ってきてくれた。あたしはかしこまった顔を作る。

「もちろん、どんな願いでも叶えましょ~う」

「……じゃあ、空を晴らしてよ」

 できっこないでしょを組み替えて蘭はそう言う。

 でもね。

 蘭が願うなら、できるよ。

「お任せあれー」

 雨の降りしきる屋上へと飛び出した。

 ぎょっとした蘭の顔。もー、お願いしたのはそっちなのにぃ。

 髪が濡れる。ブラウスが張り付く。しっかりやれよと雨が肩を叩く。なんとかなるさと風が背を押す。

 ――あたしはギタリストだ。

 立ち込めた孤独を焼き払う夕暮れを歌う光のバンドで、なんとななんと、あたしはギタリストをやっている。

 今日は魔法のギターも携えている。少女の勇気を帯びた傘。閉じたまんまでなんですけども。 

 又三郎がバックコーラス。できっこないとは言わせない。

 雲を晴らすのは、あたしたちこそが専門家だ。

「――……っ! ――っ……!」

 うわーお、声が全然通らない。わかってましたけども。

 それでも歌う。歌う。歌う。蘭が紡いできた歌を。みんなで歩んできた軌跡を。結んできた約束を。大袈裟なロックンロールでかき鳴らして。

 立ち尽くしてた蘭の顔を、ずっと見てた。ぽかんと驚き、困惑から心配の滲んだ怒り顔……そして、エアギターで踊るあたしにおかしくなって、笑顔を抑えきれなくなるまで。

 風邪とかひかせちゃうかな。でも、心を病むよりずっといいや。

「蘭、おいで〜!」

「……まったく、バカじゃないの!?」

 蘭も陰の外へ飛び出してきた。弾ける足音がばしゃばしゃと笑ってあたしのステップと絡みだす。

 なんの映画だっけ。雨の中、傘も差さずに踊る人がいたっていい。自由とはそういうものだー、ってやつ。それはそうだと思うけど……どうせなら、あたしは誰かの手を取りたい。一緒に踊って、一緒に笑って、一緒に転びたい。独りぼっちの空を抱くより狭い雨雲を分け合って、これこそ晴れだと歌いたい。繋いで広げた手のままならなさを、自由だって言い張りたい。

 明日の予定も見通せない、それがなんだ。

 あたしたちはそれでも、いつも通りあたしたちでいたい。

「……あっはは、なんであたしたち、こんなことやってんだっけ……!?」

「楽しいからー、でいいんじゃな〜い?」

 いつの間にか、話し声の通じるくらい落ち着いてきた空模様。重い灰色は燃え尽きたような白に薄まっている。あたしは蘭の手を離してくるくる回りながら、魔法のギターを構え直した。

 方便。もののたとえ。言い訳はいくらでもあるけど、あたしは確信のままに振る舞った。

「さぁさぁ、ごしょうら〜ん……」

 ピックスクラッチでもするみたいに、持ち手の方へ右手を滑らせながら高く掲げて――曲を締めるように振り上げた、瞬間。

「――晴れろ〜!」

 しなと風、ちはやぶり。

「……あ」

 ずばりと雲が割れて。

 あたしたちに光が差した。

 きざはしが落ちてきて、雨も風も天使の姿に押し黙る。静寂が滴る午後の傾きに、にっこり微笑んで。

「蘭が望んでくれるなら……あたしたち、なんだってできちゃうよ」

「……ほんとかもね」

 差し込む日に照らされて、蘭の濡れた頬がきらりと光った。

 ――ひとつだけ、せめてこれだけはと願うなら。

 たとえ明日、明後日、これから先に何があっても……清々しく晴れた横顔が無邪気で、無垢で、綺麗だったことを、おばあちゃんになっても覚えていたい。

 覚えていたいと、思えていたい。

 

 

 


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