よろしくおねがいします。
七月中旬、休日の午後の空には雲ひとつない青が広がっていた。蝉の声がどこからか聞こえて、あたしの頭上に響き渡っている。
住宅街を歩きながら手で日差しを遮って、空を見上げる。直視できないほど眩しい太陽に、あたしは目を細めた。
「あつすぎ……」
外の暑さに言葉は萎れる。
生ぬるい風が優しく吹いて、前髪が額を撫でる。
手首につけていたヘアゴムを取って、後ろ髪を束ねる。すると、風がうなじあたりに触れはじめて暑さはマシになる。
午前から始めた新曲の作詞に行き詰まった。今日のバンド練習はないから作詞の方に時間をかけようと思っていたけれど、こんな調子じゃ進まない気がした。
だから、こういうときは部屋から出て気分転換したほうが良いかなって思った。
住宅街を歩き始めて数十分ぐらい経った頃、少し遠くにコンビニが見えてきた。あたしは額ににじむ汗をハンカチで拭いた。
そろそろ、どこかで休もうかな。
午後のこの暑さだ。ずっと歩き続けるのは危ないだろうし、水をまだ飲んでいなかった。水分補給は大切だろう。あそこのコンビニに寄って飲み物を買うことにした。
少し歩いてコンビニに着く。店内に入ると、冷たい空気が私の身体を冷ましていく。その涼しさにほっと一息ついた。
手前の通路から店内の奥に行き、陳列棚に並べられていた冷たいペットボトルを取る。中央にある陳列棚の間の通路からレジに向かう。
向かおうとした足が止まった。
「あ、湊さん」
陳列棚の間の通路から、しゃがんでいる湊さんの姿が目に入った。そのとき彼女は陳列棚の方を見ていたので、声をかけれたのが分かるとあたしの方へと顔を向けた。
「あら、美竹さん。こんにちは、こんなところで会うなんて偶然ね」
「こんにちは。あたしも、ちょっと驚きました」
まさかこんなところで会うなんて思わなかった。あたしたちが会うのは学校かライブハウスだけかと思っていたからだ。それ以外の場所で湊さんと会うことはほとんどない。
だからだろう、湊さんも驚いていた。
「湊さんも買い物ですか?」
「ええ。作詞の最中で、甘いものが欲しくなったのよ」
あたしは通路の中へと入っていく。湊さんがいた場所はお菓子が陳列されているコーナーだった。
湊さんの目線は、あたしが持っていたペットボトルに注がれる。
「美竹さんは飲み物を買いに来たのかしら」
「はい。外が暑かったので、水でも飲もうかなって思って」
「そう。外に出たのは作詞のためかしら?」
「そうですけど、よく分かりましたね」
「私も作詞のために外に出ることはあるから」
でも、と湊さんは続けて立ち上がる。
「今日のような暑さのときは、涼しいところで気分転換したほうがいいと思うのだけれど」
「確かにそうですね」
あたしは顎に手を当てて考える。
湊さんの言う通りな気がした。気分転換をするならば、涼しいところでするほうがいいだろう。
じゃあ、どこで。
ふと、あたしはモカとの会話を思い出した。
「涼しいところ……猫カフェ、とか」
「猫、カフェ?」
あたしはつぶやくように言うと、湊さんは首を傾げた。
「最近知ったので詳しくは知らないんですけど、猫と触れ合える場所らしくて」
「そ、そんなところがあるのね。でも、急にどうしたのかしら」
「前にモカと話をしてて、そのときに猫カフェの話題が出たのを思い出したんです」
あたしはそのときのことを思い出しながら言う。
「そのときに、モカが猫カフェに行くなら湊さんを誘ったほうがいいよって言ってて」
「……リサがなにか言ったようね」
「リサさんが、なんですか?」
「なんでもないわ。こっちの話よ」
「は、はぁ」
リサさんと今の話がどうやって繋がっているのか、あたしにはよく分からなかった。湊さんはこれ以上何も言わなそう気がしたので深く詮索はしなかった。
「美竹さん、私もちょうど息抜きしたかったところなの。ついて行ってもいいかしら?」
「え、ええ。いいですけど」
戸惑いと驚きが口の中で混ざりあう。
湊さんが猫カフェに興味あるなんて、なんだか意外かも。
「言っておくけれど、猫カフェに興味があるわけではないわ。息抜きにちょうどいいと思っただけよ」
思ってたこと、顔に出てたかな。
湊さんはそう一言告げると背を向けて、カゴを持ってレジへ行こうとする。
「あっ、湊さん」
「なにかしら」
「飲み物、なにか飲みますか?」
「……ええ。いただくわ」
どこの猫カフェに行くかは案外早く決まった。
湊さんが「こことかどうかしら」とコンビニを出て数分も経たないうちに、あたしにスマホの画面を見せてきたからだ。そのときあたしも猫カフェを探していたけれど「そこに行きましょう」と言った。
正直な話、最初から湊さんが行きたい猫カフェに行くつもりだった。湊さん、猫カフェに興味ありそうだったし。ここは彼女の意見を優先したほうがいいかなと思った。
その猫カフェは隣町の駅から数分離れたところにある、雑居ビルの6階にあった。雑居ビルの入り口には猫カフェという看板があったので見つけやすかった。
エレベーターを使って6階へ上がる。店員さんの指示に従って、入り口でセルフチェックインの受付を済ませる。そのあと、スリッパに履き替え、靴をロッカールームに預けた。
猫の部屋へと続く廊下には猫の写真が飾られていた。下には名前や猫の種類が書いてある。在籍している店員のようなものだろうか。どの写真もカメラ目線で撮られていた。
「この写真の猫たちが部屋にいるってこと、なんですかね」
「そういうことだと思うわ。どの猫もとても可愛いわね」
あたしは、前を歩きながら猫の写真を見ている湊さんを見た。
可愛いって言葉、湊さんから聞いたの初めてだ。
そんなことを思っていると、前を歩いていた湊さんが急に止まったのでぶつかりそうになる。
「うわっ。湊さん、どうしたんですか」
湊さんは足を止めて、猫の写真をじっと見ていた。どの猫を見ているかわからないけれど、気になった猫とかいたのだろうか。
「あの、湊さん」湊さんはなかなか動かないので、猫の写真と湊さんを遮るように手を振ってみる。湊さんを置いて行くわけにいかないし。すると、湊さんはハッとした表情をする。
「なっ、なんでもないわ。早く行きましょう」
「あっ、ちょっと待ってください」
湊さんは自分の顔を隠すように前を向いて、猫のいる部屋へと向かう。
さっきより一歩が大きくなった湊さんに、あたしはついていった。
部屋に入ると広々とした空間が広がっていた。テーブルや椅子があるのはもちろんのこと、本棚には漫画が置いてあり、端っこにはゲームができる場所もある。柱には木の階段が取り付けてある。猫が遊びやすい空間になっているし、あたしたちが楽しめる空間にもなっているようだ。
部屋に入ってすぐ、本棚の上に乗っていた一匹の猫がこっちに寄ってきて鳴き声を発した。
「まるでお出迎えをしてくれているようね」
湊さんはゆっくりとしゃがみこんで、猫の鼻先に人差し指を伸ばした。
「何をしてるんですか?」あたしもしゃがみこんで聞いてみた。
湊さんはしっ、と唇にもう片方の人差し指を近づける。あたしはその仕草にドキッとした。
「猫は警戒心が高い動物なの。こうして自分の匂いを嗅がせることで警戒心を薄くさせているのよ」
湊さんは小さな声で優しく言った。その声の大きさも猫への配慮なのだろう、あたしはうなずく。
「もう大丈夫かしら」
そう言うと湊さんは猫の頭を優しく撫で始める。猫は怖がらずに湊さんを受け入れているようだ。目をつむって気持ちよさそうな表情をしている。
「いい子ね」
あたしは湊さんに気づかれないように横顔を見る。柔らかな笑みがそこにはあった。
湊さんってこんな表情もするんだ。
あたしは湊さんのことを知らない。Roseliaのボーカルであること、学校の先輩であること。知ってることと言えばそれぐらいだ。
だから、この猫カフェであたしの知らない、もう一人の湊さんを知れたような気がした。
「あっ」
でも、そんな表情はふと消えてしまう。
湊さんの手の中にいた猫は満足したのか、手を抜けてどこかへ行ってしまった。彼女の伸ばしかけた手が寂しさを訴えているようだった。
「行ってしまったわ」
「もう少し触りたかったですか?」
「……そうね」
湊さんは目をそらして、頬を赤に染めていた。
それからあたしたちは猫カフェを満喫した。猫におやつをあげたり、猫のアイスを舐めさせてあげたりした。湊さんは猫と触れ合うたびに表情を柔らかくさせていた。
時計を見ると、針が六の数字を指していた。閉店時間までここに居座るわけにも行かなかったので、十分に楽しんだあたしたちは猫カフェを出た。
「猫カフェ、よかったですね」
駅のプラットホームで電車を待ちながら、あたしは横にいる湊さんに言う。
夕方のせいか、あたしたちと同じように電車を待つ人は多い。空はすっかり黄昏色に染まっていて、昼頃にはなかった雲が広がりつつあった。
「また、来てみたいわね」
ポツリと呟かれた、その瞬き。
「じゃあまた、一緒に来ますか?」
「そうね。それもいいかもしれないわ」
いつになるかは分からないけれど、きっと、また来るだろう。