轟々と雷を時々交えながら降りしきる雨の中、一つの人型の影が人通りの少ない通りを行く。
黒鳶色のフード付きローブを纏ったそれは、激しい雨音が辺り一面を包み込んでいるにも関わらず、このストリート中に靴と石畳が織り成す硬質な、静かな音を確かに響かせながら歩いていく。
時々、暗い雨雲が行き交う鈍色に染まった空に視線を移しながらも、歩むことは決してやめない。まるで、その先に何かがあるとでも言わんばかりに。
その証拠にといった風に、迷いの無い足取りで、度重なる十字路を右へ左へと曲がっていく。雨足が徐々に徐々にと、なお激しくなる中、まばらながらあった人通りもぱたりと止んでいき、終にはその影ひとつだけとなりながらも一本の路地裏に入っていく。
そして、一つの廃墟の目の前まで来たところで、ふと足を止めた。
それは教会だった。
決して大きい教会だった訳では無いだろう。小さな、もう朽ち果てた教会だ。外壁は塗装が剥がれているだけでなく、所々崩れており、正面を飾るステンドグラスには大きな罅が入り、割れて無くなってる所もある。ただ、神々の降臨と同時に役目を終えた教会が、嵐の中、耐えるようにそこに佇んでいた。
そんな廃教会の、暴風に震える扉の前に、影は導かれるようにして歩み寄る。そして、真一文字に閉じられていた口を開く。
「君は一体……」
嵐の中で聞こえなかったかもしれない、決して大きくは無い、静かに呟かれた言葉。
その言葉の先には、一人の少女が居た。
彼女は自らを叩く激しい雨を気にする素振りは一切見せず、扉の前に座り込んでいた。
影はすっと手を伸ばす。
それに反応してか、少女は俯いてた顔を上げる。
影はふと息を呑んだ。
思わず伸ばした手を僅かに進めた程で止めてしまう。不自然に突き出る形となった腕と手。しかしながら、それを忘れてしまう程の衝撃を感じたが故に。
少女の端整な顔立ちにか。
いや、違う。確かに類い希なる、どこか人造めいた美しさを持つ少女であったが、影はそこには反応しなかった。
どこかと言えば、その均等の取れた美麗な顔立ちに浮かぶ儚げな表情。何も考えてない、俗っぽく言えば、ぼーっとしたような顔。そこまで考えて影は内心で首を横に振った。
いや、そんな易しい表情じゃない、と。そうして影はその上で断言した。
これは、絶望だと。
まるで、世の中に裏切られ、未来に捨てられたかのように感じている憐れな者。誰にも救われることは無く、永劫に存在が無意味と化する。そんな表情だと思った。
その証拠に彼女の瞳は今を映していない。
少女は持っていた。銀色の、腰まで伸びた絹のように美しい髪と、同色の、本来なら美しい輝きを秘めたであろう瞳。
ただ、その瞳は髪とは異なり、人々を惑わす夜の帳の如く暗く、光の届かない深海のように深く濁っていた。
あぁ、遅かった。
〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉
気が付けば
なんてことない、寂れ朽ちた廃教会のようだった。当然人影なんてものは無く、見渡す限り自分以外誰も存在しない、物音一つしない静寂が司る空間。
まるでもっと遠くから聞こえるように、けれども激しく、たった壁一枚挟んだ外から雨が壁を、地面を、そして屋根を叩く音が無数に聞こえる。
静かなのに五月蝿い。五月蝿いのに静か。そんな
外からは時々雨音に混じって雷鳴が聞き取れた。教会を、大地を震わすかのように轟く重低音が、しばしば腹の奥底まで這い寄る。
気が付けば、今まで何故か目に入らなかった、壁や屋根が朽ちて無くなったのであろう、ぽかりと穴の開いた部分から入ってきた雨水が自分の身体を濡らしていく。水分を含み、顔にべたりと張り付く灰色の髪が視界に映った。気持ち悪いと思うよりも先に、はて、私の髪はこんなだっただろうかと思うも、なんてこと無いと思考が途切れる。
そんなことよりも、周りの様子。何故このような所に居るのだろうか、と気になるが故。しかし、私には到底理解出来ない何かが起こった、それだけが今分かることで、頭の大半を占める事象。
思考の放棄、それを避けるために、かは分からないけれども、自然と足が前へ前へと進む。こうすると、自分が今まで立っていた事に漸く気付く。どうもこんな簡単な事が理解出来ないほど私の脳は深刻な傷を負っていたらしい。
そんなことを自嘲気味に脳裏に浮かべながら自らの眼が捉えたその先には、一つの大きな観音開きの扉。
一歩一歩進むごとに私の視界に映し出されるのは緻密に刻まれた華麗な紋様の如き彫刻。汚れが付着して尚、見る人々を魅了する旧き天上の物語。
「凄い……」
ぽつりと漏れる、単純な言葉。
決して目の前に広がる芸術を適切に評価した言葉ではないけれど。これではとても足りておらず、表現しきれてない自分に呆れて尚。今の私は只それだけが身の裡を駆け巡っている。
自然と手を伸ばし、浮き彫りとなっているひとつの人型に触れる。剣を構えてるかのような、人型のなにか。そこから赤子を抱いてるかのような人型へと、先を自然となぞるように指先を滑らしては、昂揚からか徐々に力を込めた途端、指先から感覚が消失。思わずたたらを踏んでしまっては、前へと身体が持っていかれる。なんとか止まって顔を上げては呆然と。
「あっ」
急激に開けた視界と強まる豪雨の音に、扉が開いたという事を認識する間も無く、再び私の脳は思考の放棄を訴え始めた。一旦、落ち着こう。
降り頻る雨の向こう、石造りの建物が立ち並び、朽ちた神殿の様な建造物が混じっては、また遥か遠く霞んで見える天を貫く巨塔の影。
どこですか……ここ。
……どのくらい呆けていただろうか。後方からの大きな音をたてながら、風の力を借りて閉まった扉によって意識を取り戻す。
はて、と気付くと立っていた筈の私は、床に座り込んでいた。考えるに余程の衝撃だったのだろう。この私にとって、目の前に広がる光景が、自分が感知し得ない裡の深層にまで与えるほど。
勿論、意識を持ちつつ考えても、驚愕を通り越して、困惑が留まることを知らない。
おいおい、どうすんだ。
いやいや、知らないよ。
何も知らねぇのかい。
私こそ知りたいよ。
まったくだな。
うんだうんだ。
なんて、やり取りが私の中でぐるぐると回っている。今の私はきっと瞳が暗くなってるに違いない。なんせ目の前が真っ暗だって思うぐらいに、先の事が分かりやしない。
そうこうしてる間にも、私は雨風に打たれ、自身の体が濡れに濡れていることに気付く。じんわりと、されど突き刺すように石畳から伝わる、氷のような冷たさと、激しくも暖かい水滴に打たれてると思うや否や、急に身体が震えだしたかのように感じる。いや、実際震えているのだ。
――これは不味いぞ。
どうも気付かない内に長時間雨に打たれ続けたらしい。早くどうにかしないと、体調どころか、命に関わる具合かもしれない。そう思うも、いつの間にか身体が余り言う事を聞かなくなっていた。とうとう時間の問題かもしれん、なんてことを思った矢先。
「君は一体……」
私のイカれた脳が産み出した、都合の良い幻聴かもしれない、自分ではない声が聞こえた。生憎、中身は聞き取れなかったが。この際なんでもいい。誰でもいいのである。助けてくれるのなら。果たして現実かどうか。
しかし、そんな疑問も直ぐに解決した。
少しの陰りを感じて、顔をあげると、ひとり、佇んでいた。
なんてことだ、斯くの如しもあるものかと思う。
この世のものとは思えぬ程の美貌。フードから僅かに覗くその顔立ちだけで、これほどのように感じるのであれば、隠れている部分に興味が引き寄せられるのも無理はない。
如何のようにしてそのご尊顔を拝めるか、なんて言葉が浮かぶくらいに、人ならざる気配を感じるのは、気のせいだろうか。
差し出された手は、その疑問の種を摘み取ってくれるだろうか。
そうして、震える自身の手を、宙で所在なさげに佇む手を目掛けてなんとか伸ばし、掴む前に一言ふと口にだす。はたと思った然り気無いこと。
「あ、なたの名、前は」
ぶっきらぼうに言って、少し、礼に欠けたか。しまったと思うも、今の私にはこれが限界でもある。寒さに震え、ロクに回らない舌をなんとか必死に動かして、紡ぎだした言葉。
これで駄目ならここでお仕舞いと、素直に諦める他あるまい。いきなりよく分からんところに放り出され、よく分からん状況で、助かるものも助からずとか、どんなハードコアモード。
しかし、神は私を見捨てなかったらしい。
「っ、すまない。僕の名前はフレイ」
そして、彼は言った。
「神フレイ。君を助ける者だ」
……なんとまぁ、私は神様本人に拾われたらしい。とうとう頭がイッタか、とこの時は諦め境地にのほほんとそんなことしか考えてなかった。
しかし、この時のことは一生忘れられないであろう。
彼の者に拾われたというのは、とてつもない豪運であり、とんでもない凶運でもあったのだから。
加えて、特筆すべきはこの一点。
「失礼するよ」
と、言われた途端感じる浮遊感。そして、暖かく、柔らかい感触。
要は、なんだ。よい年して恥ずかしながらではあるが、抱えられたのである。それも、俗にお姫様抱っこと言われる奴で。
なんでなんで、と言うことを聞かない口の代わりに目線で訴えるとこう返ってきたのだが、今も鮮明に覚えている。
「僕は女性を虐げる趣味はないからね」
「えっ」
命の危機の瀬戸際で、思わず声にならない声が漏れてしまうほどの言葉。まぁ、気障ったらしいのは置いといてよいだろう。100%善意だろうとこの神なら考えられるが故に。
しかし、だ。なんと、この神物は言ったか。不可解なのではあるが、そう、女性と言ったのである。
……いや、なんとなく、最初から違和感はあったのであるが、見てみぬふりをしていたというか。もっと言及すると、なんか無いな、有るなと、なんとも、なにとも言えないのではあるが。
まとめると、こうである。
―――なんでも、私は頭がポンコツになっただけでなく、身体もすっかりと様変わりしてしまったらしい、まる。
……いや、誰得だね。
迷宮都市オラリオ。
私が今居る場所の名前だ。
唯一にして無二のダンジョンから溢れる魔物を抑える為に、蓋の役割を果たすだけでなく、そこから冒険者達が齎す魔石による産業を基に栄えるその姿は世界の中心とも語られる、この
古代に神が退屈しのぎに降臨して以降、数々のファミリアがひしめき合い、鎬を削ってきた魔窟……いや、英雄譚の舞台。
少なくとも私はそんな場所を知らなければ、聞いたこともない。そもそも、私の中に残る常識からして神が実在しているという時点で発狂ものだろう。私はそのようなもの本気で信じてもなければ、創りもしなかった。せいぜいが小銭を投げ、カランコロンと鈴を鳴らしては合掌し、今年も良い年でと祈るのみ。
しかし、まぁ私の目の前の御神はそう仰せるわけでありまして。
「聞きたいことはそれで満足かな?」
「えぇ、はい」
ありがとうございます、と続けるとどういたしましてと爽やかな笑みで返事をする神を名乗る人の形をした何か。
「それで……体調は大丈夫かい」
「はい、元気なりました」
ベットから起き上がりながら握り拳を見せてアピール。その裏では現状を整理するために頭を働かす。
拾われてから数時間は経た現在。ぐっすり眠った私の頭脳は明晰さを見せつけられるか……。
はじめに、全くもって信じられないことなのであるが、私は以前生きていた世界とは異なる……所謂、異世界というところで目覚めたのだろう。本当に信じられないが。
しかしながら、この方にこの身体の命を助けて頂いたのも事実。
まぁ、挙げ句の果てに自らに関するほとんどの記憶を失い、今の身体が自分の身体なのかは今でも信じられないが、五感その全てが夢でもなく現実だと訴えてくる現状。元々男性だった気がするんだが……。なんとまぁ、自分自身のこと以外に関してはなんとなく残っている記憶。それらを鑑みては異世界と考えた方が自然である。
加えて、恩人が神と名乗り、ここがオラリオだと主張するならばそれを信じるのが人というもの。少なくともそれが筋というものだろう。
そして、窓から覗く、小降りになったとはいえ、未だ地を濡らす雨が降る中、オラリオとやらの町を行き交う人々、そこに混じる様々な装備を携えた冒険者であろう者達。本来人の身では纏えないであろう武装の数々を見て、信憑性は高まる。
神々が与えるという恩恵。本人が経験をしたものを糧とし、人の器を昇華させるという得体の知れないなにか。それが成し得ている光景を見せつけられては、神の存在を疑うことは最早不可能だろう。
何よりも決定的なのが、嫌でも視界に入る、曇天を貫くかの如く空へと伸びる石造りの巨塔。文明を見るに、あれは人の手には余るであろうことは確かだ。神が関わらなければあれの建造は成し得ない。私の知らない技術があるのであれば別であるし、その可能性も十分考慮されるべきであるが……。
なればこそ、私はどうするべきか。
今の私には何も無い。
この世界の知識もなければ、帰り道も知らず、自らの名前すら覚えていない。このままほっぽり出されても、あてもなく、頼る人はどこにもいない。
そう、このままでは生きていけないだろう。
となると、残るは只ひとつ。
目の前の御神のみ。彼の神は、確かフレイと名乗った神なのである。都合良くも、この世界には神に恩恵を与えられ、子となり、仕え、神へと生を捧げる職があるのだという。
未だ降りしきる雨の向こうを、窓から捉えながら浮かんだ唯一の方法。
「……どうしたんだい」
いつの間にか、合わせていた視線。この夢が夢でなければ、ここが正念場だ。
「貴方は……神、様ですよね」
「あぁ、それがどうかしたかな」
「お願いがあります……どうか――」
ごくりと、唾を飲み込む音がした気がした。
「っ」
張る緊張の糸。
さぁ、告げよう。
「――私を貴方の
「勿論さ」
「…………へ?」
おっと、即決と来たものだ。
私の予想とは異なり重いことなのではないのだろうか。
「ふふ、意外かい?」
「えぇ、まぁ……
「あははは……そんな、思い詰めなくても、ね。まぁ、恩恵は与えなきゃだけど、元々君を迎えいれようと思っていたというのもあるかな。……どこか行くあてがあるなら別だけど」
なるほど、私を拾った時点でそこまで折り込み済みだったってわけなのかな。さすがは神様であられるか。ならば、私は
「いや、僕にとっても君と出逢えたのは時期が良かったというか」
「そうですか……お役に立てたようでなによりです」
「あははは……うん、ありがとう」
とにかく、今はひと安心かな。捨てられる心配はなさそうだ。ならばころころされるのも致し方なし。むしろ感謝せねばなるまい。
「よし、じゃあ恩恵を刻もうか。服を脱いで背中を見せてくれるかな……って、あぁ、恩恵は背中に刻むものなんだよ。そんな変な目で見ないでくれるかい……」
「いや、見てませんよ。えぇ」
「本当かい? ちょっと、怖かったんだけど」
決して、変質者だとは思ってませんとも。命の恩神に。元々私は男……だった筈であるし。服を脱いで背中を見せるくらい……うん、前の方は駄目かな。
「嘘だ、酷いなぁ……神に嘘はつけないよ?」
「なんですかそれ」
「あれ、本当に知らないのかい? ……やはり君は普通ではないんだね」
意外と肌触りの良いことに気付いた服を脱ぎながら知る衝撃の事実。まったく、本日は衝撃の事実の安売りである。無知なのはともかく、私が普通じゃないとはなんだ。まぁ、記憶喪失もどきが普通な訳ないか。
ベットの上にうつ伏せになりながら、思うことは神とこの世の異常さであり、理不尽さである。
「失礼するよ」
ふと、背に感じる重さ、人肌の温もり。そんなことを真っ先に思うのは、前世の性格か、環境か。
「女性の背中に乗るとは……こればっかりは上に乗って正面から描かないと、綺麗に施せないからね。ごめん」
「いえ、必要なことですから」
「……すぐに終わらせるよ」
自分の背に、液体状のものが滴り落ちるのを感じては、かの御神の、フレイ様の指が何かを描くように走った。
縦に一度、斜めに一度と様々な方向に何度も行き来しては、間にフレイ様が口を開く。
「ついさっきのだけど、人の子は僕たち神に嘘をつけない……というか、僕たち神は君たちが本心から言っているかどうかを見抜けるといった方が正しいかな。数々の
「アルカナム……ですか?」
「あぁ、
「なるほど……」
なかなか私達には分からない話だ。使える力を封印して尚、このような時代が古そうなところへやってくるのだから。刻まれたあの、輝かしき物語は嘘とでも言うのだろうか。
「天界というのは、まぁつまらない場所……なのかなぁ。知り合いの言葉を借りるとだけどね」
「心が読めるんですか……」
「勘だよっと、……っ! ……よし」
フレイ様はまるで努めて明るくしてるかのようにそう語り、そう言うや否や、背に走る感覚が止まるのが鈍くも理解できた。
「はい、こんな感じかな」
「……ありがとうございます」
離れる仄かな温もり。少しの名残惜しさを覚えつつ、起き上がりながら、フレイ様へと振り向く。
いつの間に書かれたのか、静かに突き出される一枚の小さな紙。
「はい、これが恩恵を与えるということさ」
そうして、目に入るのはシステムじみた数値と文字の羅列。
◤◁►◥◣・◼◢◣
Lv : 1
力: I 0
耐久:I 0
器用:I 0
敏捷:I 0
魔力:I 0
《魔法》
【】
《スキル》
【】
「これは……」
最初の文字列は一体……記号? 図形? それに、下の文字はどこかで見たような……。
「ごめんね、名前のところはうまく変換できなかったから、そのまま書いてみたのだけど……君の知ってる文字かな?」
「これは名前ですか……只の図形では?」
「……ははは、やっぱりそのようだね」
そう苦笑いしながら、こちらを捉えるフレイ様。
こほんっと、咳払いしては、こちらに視線を投げ掛ける。
「すまないが、名前を教えてくれないかな」
「あっ」
そういえば名前をこの方に伝えてなかったか……。恩神になんてことを……途端に、自らの無礼さに顔が熱くなっていくのを感じられた。この感じだと耳も真っ赤かもしれない。
ええい、女? は度胸! バッと姿勢をベットの上で変える。脚は膝で畳み、お尻は踵の上辺り、手は膝の前で両手の親指と人差し指で三角形を作るようにして、そこに頭を下げる。
「大変申し訳ありませんでした、この身を救って頂いたにも関わらず、礼のひとつどころか名前すら申し上げずに……ゴホッ、うっ」
「わっ、無理しないでいいから。そんなに気にもしなくていいし」
「――いえ、言わせて下さい」
体が本調子でもないのに、急に喋った為か、咳込むものの、ここは礼を尽くさねば自分が自分を許せない。まぁ、名前は覚えてないのだが。
「この度はこの身を救って頂き誠にありがとうございました。このご恩は一生を掛けて返す所存です。どうか、好きに使って下さい」
「重いよ、うん、凄く重いよ。
はい、そうですよね。すみません。けれど、それには応えられないのが現実で、申し訳なさと恥ずかしさが混じったような、なんとも言えない感情が胸を駆け巡った。
「……誠に言いにくいのですが、この身は記憶喪失とやらに当てはまるかと。自らの事は愚か、名前すら覚えていないのです。どうかご勘弁を」
「いや、だから重いよ。それにそんな堅苦しい話し方はやめさやめ。……やっぱり名前を喪失してたんだね」
やっぱりとは、分かっていたということだろうか。さすがは神様であられる。フレイさまばんざい。
んん……駄目だ、段段と知能が低下していってる気がする。こういうときは落ち着いて……と。
「薄々とは思っていたのだけど……恩恵を刻んでいて確信したよ」
「なるほど……では、よろしければ私に名前を頂けないでしょうか」
きっとあの変換不可な記号から名前のことを理解したのだろう。
少し細めた目蓋、その間から綺麗な碧色の瞳を、此方を貫くかの如き眼差しを向けるフレイ様。まるで私の全てが見抜かれてるかのように感じる。それが事実であってもおかしくなさそうなのがこの世界であるが。
「それでいいのかい?」
「えぇ、構いません。私はこの世界の者ではないでしょうし、過去の記憶すらほとんど忘れた身。貴方から頂いた名前を持ってこの私は私となるのです」
「……わかったよ」
とうとう閉じた目蓋、幾ばくかの時がたった後だっただろうか。一分だったのだろうか、数秒だったのだろうか、将又一時間だったか。余りハッキリと覚えていないが、これだけは言える。
この時、フレイ様は私の想いに全力で、全身全霊を掛けて応えてくれた、と。
それを示すかのように、静かに姿を見せた瞳が、強い意志を持って私に注がれる。
「―――ヴァン神族が一柱、豊穣を司るフレイが、汝に名を与える。汝これよりヴィア――ヴィア・フロディと名乗るがよい」
「はっ」
ヴィア。
ヴィア・フロディ。
それが今の私の名前。私を救ってくれたフレイ様から頂いた大事な名前。私が大切にしなければならない方から頂いた命に等しいもの。
先は果て長く、終わりは見えずとも、始まりは只ひとつ。我が主神に誓って、この身を捧げ、この世界を生き抜く。
ここから私、ヴィアの
「よしっ、早速だけど一仕事してもらうよ
「……え?」
「ファミリア設立と冒険者登録だね、まずはギルドに行こうか」
「ちょっと待ってくださいフレイ様。もしかして、私が一番最初の
「あははは……頼んだよヴィア団長」
「雨降ってますから明日でいいですか?」
そう、始まったのである。
そんなこんなで、後回しにした矢先。
「そろそろいいかしら」
突然、ノックも無しにガチャリと開いた部屋唯一の扉。姿を見せたのは、この世の者とは思えないほど美しくて。
「まったく兄さんも困ったものだわ……」
ふぅ、と溢れた吐息が世界を包む。
「こんなに可愛い子を独り占めするなんて」
紡いだ言葉が快感とともに耳を這う。
「酷いことだと思わないかしら」
「……はぁ、まだ呼んでないのだけど」
思考が止まる。視界が固定される。
もう他には何も要らない。そう、貴女だけに。貴女に私の全てを捧げます。貴女だけをずっと想い続けます。最期のさいごまで。
だから、貴女を。
「ふふ、本当に可愛い子。そうね、いいわ。もっと――」
だから、どうか、此方にもっとその美麗な笑みを。
もっと、もっと、もっと――――。
どうか、私を。
「――フレイヤ」
途端、静かに、しかし、確かな鋭さを持った言葉が空間を貫く。得体の知れない力が満ちた部屋を打破する一石。
それを投じたフレイ様は眉をひそめ険しい表情を浮かべていた。
「……わかったわよ、ごめんなさい」
「ならいいんだ、悪いね」
少し棘のある言葉。意外だ。まるで、らしくない……。
――あぁ、戻る。現実が、思考が、意識が、感覚が、深い深い海の底から急に浮上するかのように、急速に自らの元へと帰ってくる。
「……――はっ!?」
―――なんだったんだ今のは!?
いったい私は何を考えていた? 貴女だけを想います? その美しい笑みを振り向けろと?
……たった今フレイ様に誓ったばかりだというのに。何たる有り様。私の身はフレイ様のもの。その、はずだ。
いや、違う。あの現象は明らかに外部からの干渉。ならば、原因は只ひとつ。先程までと違うことはただひとつ。この女は一体何者だ……?
――いや、待て
「いきなり魅了って……それはよくないって僕は前に言ったと思うのだけど。……大丈夫だったかいヴィア」
「っ、なんとか……。今のは魅了と言うのですか……」
「あら、あなたはヴィアというのね。兄さんにしては珍しく素敵な名前……」
「っ!」
いつの間にか私の傍に、フレイ様との間にやって来ては、此方のペースを乱し、心を踏みにじる。生憎私の心は土足厳禁なので、ご遠慮下さいと、なんなんだと思わず睨みつけると。
「―――控えろ」
「――ひっ」
また新たな人影が私の目の前に立ちはだかる。
思わず情けない声が漏れる。どっから来たっていうんだ。まったく瞬間移動でもあるというのかこの世界は。いや、そんなこと思ってる場合じゃない、こいつは駄目だ、殺される。死ぬ。圧倒的なまでの格の違い。全身が悲鳴をあげているかのように感じる。
原因はなんだ。
目だ。その眼球から溢れる強い殺気。とてもじゃないが、耐えられない。死ぬ。もうほんとになんだっていうんだっ!
「あらあら駄目よオッタル。この子こんなに怯えちゃってるじゃない。……ねぇ、あなた。聞いて」
今度はこの女性……いや、女神か? に助けられた。彼女はとても楽しそうに微笑んで、両手で私の顔を包み、目を私のそれと合わせる。一瞬であり得ないほどの幸福感に包まれる私の心。
違う、私の心はフレイ様に預けたんだ。
ダメだ、耐えろ。
流されるな。
深呼吸でもして、いや、駄目だ。呼吸が未だ乱れたままだ。ゆっくり、そうゆっくり落ち着け私。
「ふふふ、ほんと。とても素敵な子だわ。ねぇ、私の名前はフレイヤっていうの。あなたの主神であるフレイ、兄さんの妹よ。仲良くしてね」
なんとか考えられるようになってきた。
フレイ様の妹。余り粗雑に扱っては問題があるか。悔しいが仕方がない。フレイ様もこれには諦めてる様子。
にしても、不味い。魅了とやらがなくてもこれか。
とても幸せな気持ちになる。麻薬とやらはこんな感じなのだろうか。
「あぁ、そうだわ。この子、オッタルっていうのだけど、こう見えてあなたと歳は近いわ。この子とも仲良くしてあげてね。この子、私の事と戦う事以外何も知らないから……、あなたが教えてあげて」
そう言われた大柄な人影。オッタルと呼ばれた者は自身の主神によるあまりの言いぐさに目を丸くするも、見間違えだったかと思う位すぐに戻す。敬愛する己の主神の
「……よろしく頼む」
「え、あぁ、よろしくお願いします……?」
「えぇ、これから頼むわ。――オッタル、行くわよ」
「はっ」
麗しき女神が、益荒男を従える、どこか遠い光景。
ばたん、と閉まるこの部屋唯一の扉。
あぁ、やっぱり異世界なんだなぁって。まるで嵐のように荒らすだけ荒らして去っていった二人をそんな風に思ってると。
それを見届けたフレイ様の口から、微かに漏れる空気を音。
「……今度からもっと穏やかに、ゆっくりと来てくれないかな」
「はは……、そうですね。少し疲れちゃいました」
「ふふ……あぁ、また少し眠ってもいいんだよ」
そういって、表情を緩め、暖かな笑みをこちらへと向けるフレイ様。
「いえ、大丈夫です。少し考えを整理したいので」
とても素敵な表情だ。周りの者全てを温かく包み込み、安らぎを無条件に与える。ずっとそうして居て欲しいくらいには……やはりフレイ様は素晴らしい。その笑みだけで私の心が穏やかになる。……さっきの人達は近くに居ない方が良いかもしれない。いや、そうだろう。そうに違いない。
そもそもあんなに殺気というやつを向けて来た人とよろしくやれとか意味がわからない。
「そうかい、なら僕も少し席を外そうかな。ゆっくりしといてよいから。あぁ、何かあったら直ぐに呼んで構わないからね」
「はい、ありがとうございます」
できる男はこうでなくては。フレイ様はそばに居ても構わないのに。先程のオッタルとかいう男は気遣いが足りない気遣いが。そんなことを思いながら我が愛しの神が退室するのを見送る。
「はぁ……」
にしてもなぁ、と思わずため息。別にフレイ様が居たから心休まらずなんてのはあり得ない。
そんなの関係無しに、相変わらず私に残る常識をいとも容易くぶち壊す、頭痛の種がある。そう思って落とす視線の先には一枚の紙。先程フレイ様から頂いた、残る記憶に頼るなら、ある種のゲームのようだと言えるそれ。
「名前はともかくとして、
それに器用や魔力等……本当にゲームのようだ。しかし、現実でこんな風に能力を表せるなんて、もはや疑ってはいないが、ますます異世界といった所。疑いはしないが、悩みはする。
「それに、全て0ってあり得るのだろうか?」
この数値、0とは何か、何も無いことを表す数字だというのは覚えているが、現に私はこの紙を持っている。つまり、力が0
確かフレイ様曰く、恩恵は経験を糧に人の成長とし、果てには器を昇華させる。そして、器を昇華、つまり
もしや、恩恵無しならばレベルは0で、恩恵を得てレベル1となる。その時、ステイタスは全て0からにはなるが、それまでの力は表示されない潜在的な力となるのだろうか。
……もう少しフレイ様に聞いておけばよかったか。後悔先立たずとはこのことか。……いやなに、これからはフレイ様の為に私は生きるのだ。直ぐにその機会は訪れる筈だ。
「それに魔力って……」
それに、注目すべきなのはこの魔力という項目。つまりは、魔法の力なのだろうか。この世界には魔法が溢れている?
なんともまぁ、とことん違う世界に来てしまったものだ。少なくとも私の元々居た世界は魔法なんて無かった筈。所詮ファンタジーなモノで、フィクションな世界の存在。
勿論、私が知らなかっただけとも、忘れてしまっただけとも考えられるが。いや、それならば……おかしい、か。
……あぁ、駄目だ。なんかもう考えられなくなってきた。
「よし、寝よう」
これ以上は不要だろう。今考えなくてもいずれ分かるのだ。今日は雨だから、動く事は無いだろうし、先程命の危機に晒された手前、心身共に休めること以上に大切な事は無いはず。正直、激動の一日……半日かもしれないが、そのせいでろくに頭が回らない。
それに。
「怖かった……」
オッタルとかいうやつは本当に駄目だ。更に願わくば、やはりこれは夢だったということで。次、目覚めたら街はコンクリートジャングルでお願いしますということで。
夢ではなかった、まる。
「にしても、本当に良かったのですか?」
そんなこんなで翌日。オラリオを襲っていた雷雲はすっかり姿を消し、街並みを満遍なく照らす太陽の日差しが少し暑いくらいに感じられる爽やかな朝。
少しの悶着はあれど、なんとかギルドでファミリアの創設を成し遂げた後のことである。
「あぁ、フレイヤが協力してくれるらしくてね」
「そう、ですか」
なんのことかと言えば、ダンジョンについての話である。ギルドにて、登録が終わった直後の話である。
ギルドでは攻略アドバイザーを新人冒険者にあてがうらしく、私の担当となったアドバイザーが早速ダンジョンについてのいろはを教えてあげると主張したのだが、あろうことか私が答える前にフレイ様はそれを断ったのである。なんともらしくないと思ったのであるが、フレイ様のしたことだ。何か意味があるのだろうとしかその時は思わなかった。
しかしながら、あの女神様の名前が出てきたのなら別である。どう考えても厄介事でしかない。あぁ、とても嫌な予感がする。
「先に言っとくね。ごめんね」
「……え?」
「いや、えっとね。なんて言えばよいのかな……」
なんだろう、この、あぁだったら不味いなぁと思った事が現実になりそうな感じ。今すぐにでもあの寝てた部屋に帰りたい感じ。いや、つい数分前でも構わないから。フレイ様がおっしゃる前なら。
そうこう考えてる隙に、ぬっと視界に現れる猪耳を生やした男。
「お待ちしておりました、フレイ様」
「あぁ、オッタル。待たせたね。ヴィアのことよろしく頼むよ」
「はい、お任せください。……よし、行くぞ」
「……え?」
そうか、もう手遅れって奴だこれ。いや、後の祭りか?
何にせよギルドから大して歩かなかった理由が分かった。これからまだ寄る所があるのですね。この近辺で。
迷宮都市オラリオの誇る、ダンジョン。太古の昔、人々の手によって蓋をされたそれの始まりは定かではないものの、魅了される者が後を絶たないのはご存じの通りである。そう考えてると、別名愚かもn……冒険者ホイホイと、電波を受信した気がするが、気のせいだろう。
ともかく、それには大いに疑問を抱かざる得ないのは私だけだろうか。
『グギャ!?』
「……見ろ、これが魔石だ」
「……」
緑色をした小柄のモンスター、なんでも『ゴブリン』というらしいそのモンスターの身体に、文字通り手を突っ込んでは小さな物を此方に見せてきた無愛想な青年。
そう、女神フレイヤの眷族にして、殺意満々野ろu ……げふんげふん……
今、彼の逞しい腕の、その先の、モンスターのよく分からない体液まみれとなった、ゴツゴツとした手の指先にはちんまりと摘ままれている小石のような、紫紺の結晶。この世界では『魔石』と呼ばれてるものだ。
その背後ではたった今その魔石を引き抜かれたゴブリンが急速に色を無くしては、灰となり崩れる直後だった。
なんかもう、意味が分からない。誰か助けて。意味不明なこの空間から私を助けてください。普通生き物の身体から一発で物を引きずり出すだろうか。そして、そんなことをしでかす野郎と二人っきりとか、それどんなクソゲー。
「大丈夫か?」
「ダイジョウブデス」
そんな訳あるか、と声を大に叫びたいがなんの慰めにもならないであろうことは確かだ。ならば、ここは我慢の一択。ええい、これも全ては私のいのt……フレイ様のため、フレイ様のご意向。……いや、それは怪しいか? あの女神かもしれない。フレイ様ならきっと私が危機に晒されるような状況には置かせないはず。
あの時フレイ様から離されて、なんでこいつと、と思っては、入り口から入って通路を歩く傍らダンジョンは常に明るいだの、上層や中層、下層に分かれてるだの、下に行くほどモンスターの強さが上がって、かつ迷宮の一層ごとの規模は広がるだの、ダンジョンのいろはを教えて貰い、やっと慣れてきた矢先のことである。
初めてモンスターとの遭遇かと思えば、フレイ様に別れ際に渡された腰の剣に震えながらも自身を激励し手を添えたかと思えば、既に隣に居らず、モンスターを瞬殺しているオッタル。まったくもって私の目でその動きを捉える事はできなかった。
今ならばハッキリと断定できる。正真正銘、彼とは生き物としての格が違うのだ。
「……見ての通り、モンスターは身体に魔石を宿しているが、これがこいつらの活動の源だ。このように魔石を取ってしまえば、モンスターは耐えられず自壊する。言わば急所だ」
「……なるほど」
取ってしまえば、と簡単に言うが、私がそんな同じことをできる筈がないのである。この差はやはり格の違い、私はどうしようもなくひよっこなLv.1で、彼はなんとまぁLv.5。
そもそも恩恵を与えられたばかりのLv.1と恩恵無しのLv.0でも大人と子どものような差があるというらしいのに、彼我の差は四つもある。逆立ちしようが、天地がひっくり返ようがこの差は覆し難い。というか、つまり、覆る等あり得ないってことなのだ。
「しかし、魔石を砕いてしまえばギルドで換金が出来なくなる。よって、普通は魔石を壊さないように獲物を狩るのが当たり前だ」
「はぁ」
このように、と手のひらで魔石を砕いては、開いて粉々になった結晶を見せてくる。そんなご丁寧に砕いた見本を見せなくても……。
『グギィ!?』
例えば、と続けて彼は、ちょうど今やってきたもう一匹のゴブリンを片方の手で捕まえては、私の目の前に掲げる。
最初は暴れていたが、段々と動きが小さくなっていき、遂には大人しく私と目を合わせるまでになった。その澄んだ瞳はまるで今から起こることを悟っているようにも感じた。
ふむ、さようなら、ってとこだろうか。私がその綺麗な瞳から読み取った意思を言葉に直しては。
瞬間、かのゴブリンの首は吹き飛び、開けたその先にはもう片方の手で手刀を振り下ろした形でオッタルが佇んでいた。切断面から勢いよく吹き出る血らしきものは、私とオッタルに均等に降りかかっていく。あー、帰ったらシャワー浴びなきゃ。
「こうして首を跳ねれば、コイツらはまず死ぬ。そして、魔石は傷つかない。初心者はこうして魔石を傷つけないようにモンスターを倒して、安全を確保してから魔石をとるのが一般的だ」
手刀で倒すところまで一般的という言葉がかかってないことを祈りたい。そんな思いをよそに、彼は先程同様に腕を突っ込んでは、魔石をその死体から回収し、私に見せてくる。
続いて、魔石を押し付けてきたかと思えば、一言。
「少し待ってろ」
そう言って、彼は私を置いて先に進んでは、幾分かして、先程と同じように手に、いや、両手にゴブリンを捕まえて戻ってきた。
『ゴブッ!?』
『ギィ!?』
驚愕と困惑に満ちた表情を浮かべるゴブリン二匹。手には絶対に離さないとでも言うように棍棒を握っているそれらを此方に放り投げてはこう告げる。
「やってみろ」
と。
……いやいや、せめて剣の振り方くらいは教えてくれませんか。てか、なんで二匹なの。そんなことを思わず口走りたくなるも、そうもしていられない。
ゴブリン達は投げ飛ばした本人の方を見るまでもなく、こちらに視線を向けては、迷う間も無く必死の形相で駆け出して来たのだ。
まぁ、そりゃ私の方が圧倒的に弱いものね。私だって向こうには行かない。
ええい、ぶっつけ本番! っと腰につけた鞘からぎこちなくも剣を引き抜く。右手で引き抜いたそれに左手も合わせ、我流に構える。自分の腕程の長さのそれは、初心者向きだよ、とフレイ様に頂いた、片刃のこれといった特徴もない剣。精々持ち手に山吹色の布が巻かれてる程度だ。
両手で降るには軽すぎるような、そんな印象が、私が最初にこの剣を受け取ったときに思ったこと。けれども、こうして命のやり取りの場に引きずりだされて持ってみれば、随分と重たく感じる。これが今の私の命を守る唯一の物ならば、と納得の重さである。オッタルは私を守ってくれるか怪しいしなぁ。
そうしてる間にゴブリン達との間は、手を届けば触れるくらいの距離になっていた。つまりは、この剣が力を振るう範囲内だ。
『ゴブッ!』
『グギィ!』
同様に、彼らの得物のキルゾーンでもある。その手に持った棍棒を振り下ろしてくるのに合わせ、私は一歩下がってその凶器を回避。二匹が再び棍棒を持ち上げては下ろしてくるのを前に、剣を両手、両腕の筋肉を振り絞り、片方のゴブリンの首の側面目掛けて一息に突き出す。
「やぁ!」
私自身は力が足りず斬りきれないと判断した為に選んだ、かするかのようにゴブリンの首に迫る突き。
反撃されるとは思ってもみなかったのか、ゴブリンが避ける間も無く、私の剣は狙い通り首を浅く切り裂き、その緑の首筋に一直線の傷をつける。
――驚いた。全く抵抗が感じられない。これでももっと力が必要かと思ったが、そんなことはなかった。もしかしたら、浅くなんて狙う必要は、いやかすり狙いの突きですら必要は無かったかもしれないが、剣がもつかも分からない。案外胴体をスパッと斬れたかもしれないが、ここは慎重に。
『ゴブリュッ!?』
切られたゴブリンは思わずといった風に棍棒を落とし、それを見た片方のゴブリンはまさかこいつに反撃されるのかよっと言った風に呆然と佇んでいる。本当ならなんか腹立つ奴らだ。
今だ、ともう一匹目掛けて走り抜けるように剣を構えては同様に首を狙って切り裂く。
『グギィ!』
「あぁ!」
――駄目だ、直前で避けられた。二度目は通用しないってか。
「がはっ!?」
走り抜けたと思ったのも束の間、背中に激痛が走る。痛みを堪えつつも慌てて身体ごと振り向けば、カランと音をたてて地面を転がる棍棒。
――武器を投げた!
そんな馬鹿な。いや、武器を手放す等あり得ないと思って予想外の攻撃をくらった私が馬鹿か。相棒の武器を活用しただけの話だ。予想できた筈だ。
『グギャギャ』
そして暗くなる視界。ヤバイと思って顔を前へと上げればこちらに棍棒を両手で振り下ろすゴブリンの片割れの姿。
「くっ」
間一髪、身体を横へと投げ出し、回避するも、剣は手元に残っておらず。あぁ! なんで反対側に投げてしまったか!
そりゃ、咄嗟に持ったままじゃ危ないと思って離したけど、なんでそっちに行っちゃったかなぁ!
拾ってちゃ間に合わないなら、こうするのみ!
拳を構えて、顔面にストレート。
「それっ!」
『ブヘッ』
思った以上に、体をくの字に曲げては吹き飛ぶゴブリン。やはり自身の身体の、恩恵の力は強いのか? それを証明するかのように、ゴブリンは壁にそのまま激突し、だらりと力が抜けたように床に落ちては動かなくなった。
「はぁはぁはぁ……」
乱れる呼吸を落ち着かせながら、様子を見ては、大丈夫そうだと判断し、剣を拾って最初に首を切り裂いた方のゴブリンへと歩み寄る。倒れているはものの、まだ意識はありそうだ。
「――っ」
思い切り蹴っては、仰向けにさせて、その首へと、勢いよく剣を突き下ろす。
『―――』
ゴブリンが声にならない絶叫をあげるも、手を緩めない。ぐっと、剣を奥へ奥へと押し込んでいく。剣を通じて伝わる肉の硬いような、柔らかいような感触。吹き出るどす黒い体液。
顔が、身体が汚れるが今更だ。そもそも、戦う前から汚れている上に、地面に身を投げ出したりで所々汚れているし、身体中汗と血液まみれだ。
ゴブリンの動きが止まったところで、剣を一気に抜いては、採取用にと、今使った剣と同様フレイ様から渡された短剣を懐から取り出し、魔石がありそうな所に突き刺して、その肉を抉る。一度、二度、と繰り返し四度目で魔石が取り出せた。
もう一匹の方にも向かい、同様に魔石を取り出す。今度は二度目で取れた。
「はぁ―――」
ふぅ、と思わずその場で座り込む。プツンと緊張の糸が途切れたようだ。なんとか勝った初戦。圧勝とはとても言えない、辛勝といったところ。
手のひらに乗る二つの小さな紫色の破片。初めて自ら手に入れた魔石。命を賭けた対価がこれとは、どうしたものか思う。
「……よくやった」
そこに響き渡る彼の声。
散々に思っていたこの声も、今では不思議と安心感が得られる。なんだろう、平穏な日常に戻ってきたような感覚。
「……ありがとうございます」
「あぁ、初戦にしては驚くほど動けていた。……しかし、なんであろうと戦いの最中、自らの得物を手放すのだけは感心しない」
「それは……はい」
持ったまま身体を投げ出していたら、もしかすると、自分が怪我をしたかもしれないから、と言いたい所だが、正しく身を使えばそんなことはあり得ないのだろう。そもそも、あんなことしなくていいように、追い込まれないようにもっと上手に立ち回るべきなのだろう。
「それに言おうと思えば、まだまだ言える」
今考えるだけで、自分で先程の自分に文句を言ってやりたいことが沢山あった。
つまり、彼に反論なんてあり得ないのだ。ここは先達である彼の言うことに耳を傾け、自らの糧とするしかない。それが私自身の為であり、フレイ様の為。
「フレイヤ様の命令だ」
「……?」
思わず私は彼に首を傾けた。あの女神の命令? たった今あの女神が関わったであろうことで苦労したばっかなのだが。
「お前を鍛える」
「!?」
今なんておっしゃったんですかねこの猪。頭まで猪になってしまったんですかね。
「避けてみろ」
「――!?」
迫り来る異常な風圧を感じて。
なんとか避けては灰色の髪がパラパラと数本、先っぽが切れた。まてまてこれは死ぬ。冗談ではないっ!
「――ちょっ、ちょっと待って下さい。どういうことですか! 鍛えるのではないので――」
「――問答無用。実戦に勝る鍛練などない」
「ひっ」
それからというもの。
「受けてみろ」
「――っ!!」
あり得ないほどの衝撃を感じては、全身が何度も悲鳴をあげたり。
「動かしてみろ」
「――だぁっ!」
いっくら攻撃しても、押しても、引いても、虫をはたき落とすかの如くあしらわれたり。
「当ててみろ」
「――はぁはぁはぁっ!」
どんなに剣を振っても、投げても、殴っても、避けられたり。
「まだまだ行くぞ」
「ああぁぁぁぁあーーーー!」
モンスターをけしかけられたりの繰り返し。
「回復薬だ」
「……」
大きな怪我をしても、終える筈もなく、みるみる怪我は治っていく。見かけた冒険者は顔を向ける素振りも見せず一目散に去っていく。
果たしていつになったら帰れるのだろうか。
フレイ様たすけて。
なんとか、やり遂げて。
「お疲れヴィア」
「ありがとうございます……」
「まさかそんなにね……よく頑張ったよ」
日中のあれを地獄と表せば、正しく反対の天国と称すべき心地よい、夜の時間。心身共に休まる至高の空間。疲れきった身を癒すのは、余すことなくだらけた身を受け止めてくれる柔らかなベッド。愚痴の貯まった、廃れた心を慰めるのは、我が愛しの神。
本当に、怪我しても回復させられ、気絶させられても文字通り叩き起こされて、延々とやらされる鍛練と称したおぞましいナニか。あぁ、まったく、未来を知らなかった朝の自分が恨めしい。あのときの嫌な予感、最悪の想定を軽く上回ってる。……いや、死ぬよりは良いのだが。
しかし、ゆっくりと休憩し、フレイ様に地獄の訓練の様子を語って整理されたのか、よく回るようになった私の脳が、あることを訴えかけてくる。まさかそんなにね、とは先程フレイ様は言っていたが、それは真から来る言葉だっただろうか。
「フレイ様……」
「ん、どうしたんだいヴィア」
フレイ様は今、私の背中に腰を降ろし、自身の血液を垂らした指を世話しなく動かしていた。
なんの変哲もない、ステイタスの更新と呼ばれる作業である。経験を引き出し、それを元に背中に書かれた神聖文字を書き換えては、新たな力とする。ファミリアではよく見られる光景だ。
しかし、我が神は少々、控えめに言って、ウキウキとしたような瞳でこのステイタス更新を促してきたのである。
繰り返すが、ステイタス更新は経験を元に行うのである。普通、初めてのダンジョンというのは大して経験は得られないはずである。しかし、この期待の様。
それに加えて、朝の言葉。
つまり、言いたいことは、我が神は、本日のことこと細かくを事前に知っていたのではないかと思う。
どうせなら教えてくれてもよかったのではないかと思わずにはいられない。そもそも阻止してくれないだろうか。まぁ、試してみるのが早いか。
「……恨みますからね」
「えっ、な、なんのことだい?」
ぴくっと、少しだけ、それこそ意識を向けてなければ気付かないほどの振動。それを背中で感じとる。なにも思い当たる事がなければ、恨みますなんて言葉に反応しないはずである。疑問の答えは明らかであった。
「……やっぱり」
「……いやー、なんのことか分からないな僕」
「フレイ様?」
「冗談かい? ……はい、すみません」
まったく、神様は嘘が分かると、言ったのはどの口だろうか。加えて読心術の真似事までしていた人物は誰であろう。
せめて最初に教えて頂ければ、覚悟のしようはあったものを。覚悟したところで、かも知れないが。
しかし、こうなってしまえば、真に信用できるのは、我が身を余すことなく優しく受け止めてくれるふかふかベットのみになってしまったのである。なんて事だ、フレイ様め。
「本日のMVPはお前だよぉ……ベットぉお。すき、あいしてるぅぅ」
あぁ、眠い。今日はなんだか気持ち良く眠れそうである。明日は幸せに満ちた良き日でありますように……。
「ふふ、おやすみヴィア」
暖かい声を最後に、私の意識は深く落ちていった。
お読みいただきありがとうございました。