【書籍化】残影の英雄 ~命懸けで人類滅亡を退けた凡人異能者は、天才少女たちを曇らせる~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
本作の書籍が発売しました。今回はその宣伝と感謝を兼ねて。
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残影の英雄 1 ~命懸けで人類滅亡を退けた凡人異能者は、天才少女たちを曇らせる~
▶本短編について
単体でも読める短編かつ、既読の方も楽しめるようなおまけエピソードのつもりです。
あくまで作者本人の認識においては、バッチリ書籍本編と関連性アリ、ということになります。時系列は書籍中盤、具体的には4章後~間章のどこか。
その関係上、今まで投稿していたものとは設定が異なる部分がチラホラあります。たとえば主人公のキャラとかですね……キャラデザが余りにもよかったためそっちに引っ張られたりとか、まあ色々あるわけです。諸行無常。どうかご容赦願いたい。
三万文字強の短編ですが、書籍を購入するかどうかの判断材料にして頂ければ幸いです。
俺の最も古い記憶は、色褪せたコーヒーの匂いから始まる。
床に広がった黒い液体。
その中心で砕け散った白い陶器。
湯気を立てる、いやに生温かい殺害現場。
黒い血だまりで死んでいたのは、父に贈られた綺麗なコーヒーカップだった。
どこからか悲鳴。
次いで、無駄なことをするな、という父の叱責。
その声が、手を滑らせた幼い犯人を何よりも強烈に打ち据える。
……まだ、憶えている。頭蓋の中で残響している。
俺はただ。
母を手伝いたくて。
父に喜んで欲しくて。
本当に、本当にそれだけだったのに。
1/
――思うに、人にとって過去は曖昧だ。
人間の記憶は完全ではない。理由は言うまでもなく。体験した全てを憶えていては、どう考えても脳の容量が足りないし、人生の半分は過去を思い返すのに使わなければならなくなる。
つまり記憶とは、星座における星のようなモノ。
「こういうことがあった」という要点だけを刻んでおき、思い出したいときはその要点から逆算して追体験することで、人は容量と時間を節約している。
だが、星座の
だから――少なくとも俺にとって、過去は曖昧な幻影に過ぎない。
さながら時間の彼方に揺らぐ蜃気楼。
脳裏に浮かぶ映像が本物だという保証はなく、むしろどこまでが本物なのかを論じるべきだろう……というのは、我ながら悲観的過ぎる気もするけれど。
……そうやって。
俺の長々とした語りが、ようやくひと段落ついたところで。
「――じゃあ、エイトくんにとって頭の中は夜空で、思い出は星明りなんだ。うん、それって凄く素敵だね」
そう花のように微笑まれて、ちょっと本気で頭を抱えた。
すっかり駄弁り場となった、いつもの踊り場でのことである。
俺の隣で相槌を返すのは
容姿は綺麗系ではなく可愛い系。話し上手というよりは聞き上手。性格を一言で表すなら『ほわほわしている』。誰からも好かれる嫌味のない良い人でありながら、善人を突き詰めたようなその性格は、ときたまキューピッドの矢の如く人の心に突き刺さる。
名を、
そんな、ここ
そう、浪費である。
なにせ俺、
そんな蛇野郎である俺は、今日も今日とて話の流れで誰得な根暗持論を披露し……そうして、それすらポジティブに捉える光属性の権化に頭を抱えたというわけである。
はぁ、と溜息ひとつ。
俺は謎に嬉しそうな彼女の勘違いを正すため、
「……そういう意味で言ったんじゃない。そもそも星とか夜とかって、暗い、ネガティブなイメージじゃないか? それのどこが素敵なんだよ」
「え、そうかなぁ? 星空はロマンティックだと思います。ほら、宝石箱みたいだし」
「地上から見た場合はな。だが実際は、冷たい宇宙にポツンと浮いた恒星だぞ。あれほど孤独を想起させるものもない」
「……うう。エイトくん、それはちょっとネガティブ過ぎではないでしょうか……」
……引かれてしまった。
まあそれはいい。孤独な俺と人気者の彼女では、一点を除いて価値観が噛み合うハズもない。
なので俺のほうは、ここで会話を切り上げてもよかったのだが。
「ところで。どうしてエイトくんは、そんな話を私にしてくれたのでしょう?」
そう小首を傾げた九瀬にそのつもりはないようだった。
まあ、俺としてもありがたい。話したことが無駄にならなくて済みそうなのはいいことだ。
そんなわけで、俺は九瀬の顔を見て一言。
「――決まってる。つまり、おまえの記憶が疑わしいからだ、九瀬」
「はえ!? そ、それはどういう意味だったり!? エイトくんから見た私ってそんなにおバカだったのかな……!?」
「いや違う、そういう意味じゃない……うん、俺の言い方が悪かった。要するにだな」
かちゃん、と箸を置いて
男ならまず選ばない、可愛らしいデザインの弁当箱。その中の料理はもちろん俺が作ったものではない。
彼女の
――要するに。
俺、ここまでしてもらえるようなことしたか? という話である。
純然たる事実として、俺と九瀬の関係に特別なものはない。とうぜん恋人などではないし、どころか友人であるかも曖昧だ。
そんな相手に何の見返りも求めず差し出すにしては、弁当というのは手間がかかり過ぎではなかろうか。
こうなると残った説としては、何かの間違いで彼女の記憶に混濁が起きている、というセンが濃厚だと疑っていたのだが……。
「そんな、まさか。私はエイトくんにしてもらったことはちゃんと憶えてるつもりですっ」
「……だから、それがおかしいって言ってるんだ。少なくとも俺には、毎日弁当を恵んでもらうほどのことをした記憶はない」
「え!? そっちこそおかしいよ。ほら、エイトくんは私の大恩人だし……」
「恩って、四月の話か? 言っとくがあれは任務、仕事だ。その報酬はおまえが用意するべきものじゃないだろう」
「あ、その、えっと。そっちじゃなくて、ですね……」
「?」
なんだか、追求すればするほど挙動不審になっていく九瀬。
「と、とにかく。私が勝手にやってることだから、あんまり気にしないでほしいのです。ほら、私ってエイトくんに迷惑かけてばかりで……だから少しでもお返しがしたいっていうか、出来ることはこれくらいしか思いつかなかったっていうか、実は得してるのは私のほうっていうか……!」
後半は殆どしどろもどろで、なんだかよく分からないことまで口走っていた。
言っている内容も、顔が赤い理由も、全部が俺には理解不能。
「……本当、意味不明なヤツ」
ただ。何となくその顔が面白くて、何も解決していないというのについ噴き出してしまう――ちょうどその瞬間だった。
椅子代わりにしていた階段の下から、冷や水をぶっかけられたのは。
「――あのさ。いっつもそんな辛気臭いハナシしてるワケ? アンタたちって」
二人して、慌てて声がしたほうを振り向く。
そこに居たのは、三流の恋愛映画を見せられています、と言わんばかりに憮然と腕組みをした、目が覚めるような金髪の女子生徒だった。
「げ、
「ア、アリサちゃん!? いつからそこにっ?」
現れたのは
アイドルよりモデルが似合いそうな足長美人。イヌ科かネコ科なら後者。トレードマークのツインテールは、少女趣味の表れというよりは高飛車お嬢様のイメージ。非の打ち所はないがそれゆえに近寄りがたく、他者を必要としない我の強さゆえに孤高の女。
そんな双咲は、九瀬からの質問より俺の言動が勘に障ったのか、宝石めいた
「『げ』? ナニソレ、どういう意味なワケ? 二人だけの世界にアタシはお邪魔だったってコトかしら?」
「いったい何を言ってる、いや言わせたいんだおまえは……それにそっちこそどういう意味だよ、その『辛気臭い』ってのは」
挑発的な物言いにこちらも負けじと言い返す。
だがその受け答えは読めていたのか、双咲は余裕たっぷりに肩を竦めた。
「あら、決まってるじゃない。好意も厚意も一方的に押し付けるモノ……ソレにいちいち正当性を求めるなんて、気が滅入るってものでしょう?」
「――む」
再び何かを言い返そうと思ったが、なんだか正論のような気がして、咄嗟に反論できない俺だった。
そんな様子を自分の勝利と受け取ったか、満足そうに鼻を鳴らす双咲アリサ。
……相変わらず攻撃的なやつである。いちいち刺々しいというか、切れ味鋭いというか。にしたって俺への返事の中に、
と、そうやって俺を言い負かしたハズの双咲は……まだ嗜虐心が収まらなかったのか、薄く笑って後ろに居た人物へと話を振った。まるで手下に追撃の命令を出すかのように。
「ねえ、アンタもそう思わない? ――ナナ」
「……そうざき、ゆるしてあげ、て。かげみや、は、りくつやさん、だから」
だが……かつん、と白杖を鳴らして現れた少女は、むしろ俺を庇ってくれた。うん、よけい貶められている気がしなくもないが、そういうことにしておこう。
九瀬、双咲に次ぐ三人目の女子。二人より頭ひとつ以上低い背丈は、その実彼女が年下であることを表している。
髪、肌、眼帯、瞳、上着、スカート、ソックス、靴、そして杖……頭から爪先まで全身真っ白の病弱女子(概念)。たぶん脳細胞まで骨の色。何を考えているか分からない無表情、つっかえがちのたどたどしい口調で、年齢以上に幼く見える中等部1年生。
「な、ナナ子まで……何の用だよ」
「かげみやに、あいに、きた」
「……だから、何の用事で会いに来たかを聞いてるんだ」
この天然め、と心の中でのみ悪態をつく。口に出さない理由は単純に怖いからだ。
と、そんな天然の代わりに双咲が質問に答えてくれた。
「あら。用も何も、どうせ今日はこのメンバーで任務じゃない。昼休みが終わってから集まるのも、昼休み中に合流するのも、大して変わりはないでしょう?」
「……いや、休憩に使える時間が変わると思うが」
「へえ、アンタがソレを言うワケ?」
じろり、と意味ありげに俺と九瀬を交互に見る双咲。
何が言いたいんだ、と思わず言い返そうとしたところで、
「――それだよ、アリサちゃんっ!」
なんて大声が、俺の横から飛び出した。
声の主は九瀬ヒカリ。
さっきまで黙って聞き役に徹していた彼女は、唐突に立ち上がり双咲のもとへと駆け寄っていく。
「え、ハァ? ナニ、どうしたのよヒカリ――」
「この数日間、何かが足りないなって思ってたの。
ずい、と双咲の手を取ってまくしたてる九瀬と、そんな九瀬の勢いに後退する双咲。
あの双咲アリサが押されている、という光景を生み出せるのは、学園広しと言えど九瀬ヒカリだけだろう。ふだんからポヤポヤしている彼女だが、偶に物凄いパワーを発揮することがあるのは、既に俺たちの知るところだ。
と、そんなキラキラパワーを真っ向から受けた双咲は、まるで逃げ道を探すかのように視線を惑わせ……その視線が俺の上で止まった。
「……ですって、エイト」
「おい、なんでそこで俺に振るんだおまえは」
「ハ、決まってるわ。この手の提案に文句を言うとしたら、この中にはアンタだけでしょう?」
「かげみや。わたしは、もんく、なし」
……む。それは、確かにそうかもしれないが。
そんな認識は九瀬も同じだったのか。彼女は「ここが大一番」とばかりに気合いを入れて、ずいと俺のほうへ詰め寄って来た。
「ね、どうかなっ、エイトくん――」
ものすごく真剣にそう迫られる。
肩が触れるくらいの距離。間近に迫った綺麗な顔に、幻視してしまう犬の尻尾。
とはいえ……どれだけ断りにくかろうと、俺の無駄ギライな性格は変わらないわけで。
「……そんな目で見るな。同じ
九瀬の提案を、俺に引き留める義理はない、として突き放す。いや実際、俺に他人の行動を制限する権利などないし、それは彼女らも同じだろう。
いちおう、そんな理屈に則って発言したつもりだったのだが……。
「…………エイトくん」
「ホント、アンタってば見下げ果てたヤツ」
「ん。いまのは、かげみやが、わる、い……」
異口同音&三者三様に責めるような目を向けてくる女子ズ。
……どうやら、最初から俺に勝ち目など存在しなかったらしい。兵力三倍とは何という負け戦。全く、そんなに三人仲がいいのに、どうして俺までその輪に引き摺り込もうとするのか。徹頭徹尾意味不明だ。
溜息ひとつ。
こうなった以上もう俺に逆転の目などないが、黙ってやりこめられるというのも癪に障る、という女々しい理由だけでぼそり呟く。
「……それは悪かったな。
ただ、ひとつだけ覚えておいて欲しいんだが……女所帯に男が一人ってのは、結構居心地悪いんだぜ、お嬢さんがた」
なにせ、こういう女子の結束を前にすると男には打つ手がないんだし。
要するに……俺の最後の台詞は、世の紳士諸君を代表した、純度百パーセントの負け惜しみであった。
2/
そんなわけで任務である。
任務とはつまり、『
それが俺たち『
ヒーロー映画でいうところの、力には責任が云々、というやつである。
――十年前、世界は瘴気と言う災害を知った。
ある日とつぜん巨大な癌を発症した、と表現してもいい。
ただ病に罹ったのが
結果、世界のあらゆる国は巨大な病巣を抱えることになった。
そこから溢れてくる瘴気と魔塵は、国と言う人体を蝕むように、細胞にあたる人間たちを一方的に殺害していく。
対処法はひとつだけ。
瘴気に触れて異能者になった一握りの人間――つまり異能者に、そんな病巣と戦わせること。
ある意味では歪んでいる。
だって異能者に覚醒できるのは、成長期過程の少年少女……つまり、一般に学生と呼べる年齢の人間だけだったのだから。
結果、旧都という巨大な病巣を塞ぐように『国防三校』という壁が建てられ、その中への対処は俺たち異能者の学生に一任されることとなった。
要するに、旧都という巨大な病巣と向き合うのは少数の異能者だけになり、大多数の人間は今まで通りの生活を送れるようになった、というわけ。
一時はどうなることかと思われたが、結局ヒトは今まで通り、この自然現象を乗り越えたのだ。これにて万事解決、世はなべてこともなし……まあ、終わりの見えない戦いに放り込まれた俺たち異能者を除いて、の話ではあるが。
ここまで言えば分かる通り。
異能者とは、誰もが憧れるスーパーヒーローなどではない。
いや、公にはそういうことになっているが、実態は汚れ役のドブ攫い。名誉と矜持だけを報酬に危険なことをやる、という意味では、前時代の自衛隊が近いかもしれない。
そもそも異能で超人になろうと、それで人権まで奪われては本末転倒というか。
悲しいかな。
望む望まないにかかわらず、ヒトより強くなってしまった者は、ヒトの輪から弾き出されるものなのだ。
そんなわけで、俺たちは今日も旧都で魔塵退治などさせられていた。
ちなみに今日は俺個人ではなく、
俺たち『九瀬班』の編成は以下の通り。
……まあ、言わずとも分かるだろうが。
明らかに格落ちなのが一人居る。つまり俺である。
九瀬も俺と同じ星三異能者――五段階評価のちょうど真ん中――だが、彼女は超希少なサポート能力持ちで、しかも異能者になって数か月。
対する俺は異能者になって10年の大ベテランながら
そんな俺が学園に四人しか居ない星五(最高位)異能者・漆門寺ナナや、星四の中でも上位とされる双咲アリサとチームを組んでいるのは、我らがリーダーのえこひいきじみた人選があったりするのだが……まあとにかく、そんな豪華メンバーに囲まれて、俺は今日も気の乗らない任務に勤しむのだった。
以上、前説終わり。
――現在地、旧都・
商業地を抜けて、周囲には民家やマンションが増えてきた。
かつての庶民向けの住宅街、その残骸。
暮らしの熱を失った民家の群れはひたすらに静かで、不気味で、冷たい。建物の数は多いのに、墓場のように閑散としている。
あるいは、整列したこれらは背の高い墓石で、自分たちが小人になったのか、と錯覚するほどの疎外感。
そんな、旧都外周部にしては瘴気の濃い地区を、俺たちはひとかたまりになって進む。
「……この辺り、随分と荒れてるわね」
呟いたのは双咲だ。
彼女の言う通り、この巨大な墓地は荒れていた。住宅街の建物の中で原型を保っているのはおおよそ半数ほどで、残りは瓦礫の山である。
だが、別に驚くようなことではない。
「脊田谷区は爆心の
「ふぅん。相変わらずというか、ホント危険にだけは敏感ね、アンタ」
「まあな。天才サマと違って、そうでなきゃ生き残れなかったもんで」
「減らず口」
「そっちこそ」
移動の手持ち無沙汰を誤魔化すように双咲と軽口を叩き合う。
傍で見ている九瀬がハラハラしているが、俺と双咲にとってこの程度のやりとりは日常茶飯事、どころか呼吸みたいなものなので心配無用。何もかも正反対な俺たち二人だが、遠慮が要らない関係というのは悪くない。
だが。意外にも、そんな俺たちに肝を冷やしていたのは九瀬だけではなかったらしく。
「……そうざき。かげみや、を、いじめない、で」
そんな真っ白な声が、俺と双咲の口喧嘩に割り込んできた。
声の主はナナ子だ。
彼女は眼帯に覆われていないほうの瞳で、むっと責めるように双咲の顔を見上げている。
「バカ、イジメてないわよナナ。コレはその、なんていうか……」
「……ああ。俺も虐められてはいない。悪口のことを言っているのかもしれないが、お互い同じ強さで刺し合えるなら、それは健全な関係だろう」
一転して真面目に答える俺と双咲。
割り込んできたのが九瀬だったなら悪ノリした気配濃厚なのだが……何というか、ナナ子は冗談を介さないフシがあって、ここでからかった結果どうなるか分からないデンジャラスガールなのである。どうデンジャラスかというと、最悪俺も双咲も死ぬって方向性の
そんなわけで多少焦りつつ中学生のナナ子を宥める俺たちなのだが……白い瞳は中々納得しなかった。
「……でも、そうざきのほうが、つよい、から。ふびょうどう。かげみや、かわいそう」
……ぐぬ、言ってくれるなこの天然。しかも話の要点が分かってないし。
「いや、だから喧嘩してるわけじゃないんだって。なんて言うかな……そう、俺と双咲はイチャついてるだけだから、放っておいてくれて構わないんだ――」
……うん? と自分で言って首を傾げる。何だろうこの違和感は。
俺は今、致命的に言葉選びを間違えたような気が――。
結論から言えば、俺のミスは本当に致命的だった。
「――ハ、ハァ!? だだだ誰がいつアンタとイ、イチャついたってのよ! ナニ、アンタそんなコト思ってたワケ!?」
「えええエイトくん!? 『イチャついてるから放っておいて』って、そっそれはいったい、どどどどういう意味なのでしょうかっ……!」
どういうことだーっと真っ赤/真っ青になって声を荒げる双咲と九瀬。
非難囂々で詰め寄ってくる二人に押されながら、俺は慌てて両手を上げて無罪を主張。
「違う、抗議させてくれっ。これはミスだ、言い間違いだ! 俺は『じゃれ合っているだけだから』と言いたかったんだっ!」
セクハラの疑惑をかけられ、何とか無罪を勝ち取ろうと自己弁護する俺。
そんな俺の必死の訴えは、
「…………かげ、みや。にどといちゃつかない、で」
「……はい。気をつけます……」
ナナ子裁判長の一言で棄却され、あえなく敗訴したのだった。
悲しいかな、出発前のパワーバランスはここでも同じ。男1女3の男女比からして、この裁判に俺の勝ち目は無かったのである。
……とまあ、道中そんなこんながありながらも旧都を進む。
道すがらぽつぽつと出た雑魚魔塵を危なげなく倒し街の奥へ。
目指すは今回の標的たる
「瘴気が濃くなってきたな……」
「うん。暗さのせいかな、なんだかちょっと不気味だね……」
俺たち異能者には瘴気の毒は効かないが、瘴気の充満による視界の悪さは如何ともしがたい。時刻的にはまだ15時にもなっていないハズだが、濃霧によって太陽の光は弱まり、周囲はホラー映画の舞台を思わせる薄暗さだった。
昏く沈んだ廃墟の街。
赤黒く朧げな空を背に、建物は怪獣めいて視界を横切る。
まるで人類最後の一日に永遠に囚われた終末世界。
誰も居ない街に吹く閑散とした風は、捨てられた街の嘆きに似ていた……。
「そう? まあ多少は空気が淀んできたけど、しょせん外周区ってレベルでしょう。いちいちビビりのエイトに話を合わせなくてもいいのよ、ヒカリ」
「……かげみや、は、わたしがまもる、よ。くぜも、そうざき、も」
とはいえ、この程度ではまるでビビらない頼もしい仲間が今は二人も。
俺と九瀬は頼もしいやら情けないやらで苦笑して、段々と小さくなっていた歩幅を元の調子に戻すのだった。
そうやって、住宅街を奥へ、奥へ。
ジャングルに分け入るような気分で進んでいる途中、俺は視界の端に強烈な
空も地も、何から何まで瘴気に蹂躙された景色の中。
その建物は己の背の高さを恥じ入るように、どこか所在なげに立っていた。
角ばった、立体の棒グラフを思わせる高層建築。
色の禿げた外観は暗夜の廃墟そのものだが、その形状は建築家の控えめな工夫を律儀に残し、何とか
――そうだ。俺はこの建物の無駄のない見た目が、子供心に好きだった。
有名な公園に近いのが売り文句だった、家族向けのコンクリートマンション。
非常階段の横にあった建物の名前は風雨で掠れて消えているが、その面影は瘴気の中でなお色濃く、俺の心に寂寥の念を掻き立てた。
「……あのマンション、まだ」
あったのか、と思わず呟きが漏れかけ、慌てて止める。
と。
「? あのマンションがどうかしたの、エイトくん?」
……迂闊だ。なにせ九瀬は、
それが今回ばかりはありがたくなかった。
話題が話題だし、どうにか誤魔化せればいいのだが……。
「……いや、何でもない」
「ハァ? 何でもないってコトはないでしょう……その、さっきの罰よ。言いなさい」
だが、逃げようとした先には双咲が待ち構えていた。こいつは遠慮というものを知らないので、九瀬より遥かにたちが悪い。
「……だから、何でもないって言ってるだろ。そもそも、自分で言って恥ずかしがるなら、さっきの話なんて持ち出すなよな」
「なっ、ソレは今関係ないでしょう!」
再び顔を赤くして突っかかってくる双咲。
このままなんとか話題を逸らして……というところで。
「……それで、かげみや。まんしょんが、どうした、の?」
トドメにナナ子が待っていた。こいつは単純に怖いので要望を断りにくい。
これで包囲網は儚く閉じ、チェスでいうところのチェックメイト。要するに、この三人を前に俺が隠し事をするのは難しい、というかほぼ無理なのだっだ。
溜息ひとつ。
なるべく何でもないふうを装い、マンションからも目を逸らして言う。
「……そんな大したことじゃない。ただ、昔住んでたってだけだ」
平たく言えば生家というやつ。
とは言ってもあの家で暮らしていたのは、
とうぜん記憶もほとんどなし。面影に気付いたのだって奇跡に近い。何というか、『俺の生家』というよりは『俺の両親の家』という印象なのだ、あそこは。
なので大して思い入れもないし、むしろ苦い記憶があるくらいなのだが……それを聞いた九瀬たちは、途端に深刻そうな様子になった。
「昔住んでた……そ、それ、って……」
「……バカ。何が大したコトじゃない、よ。冗談も程々にしなさいよね」
「…………」
まるでお通夜の有様だ。
……まあ、それも無理なからぬことなのかもしれない。
ここは旧都。滅びた都。人間が生きられぬ毒霧の街。
かの東凶大瘴災に巻き込まれた時点で、異能者になれない大人たちは否応なく――。
「……いや、本当に大したことじゃないぞ。
全く、こういう空気になるのが嫌だから言いたくなかったのに。
ともかく、そうやってこの話題を打ち切って……いや、打ち切ったつもりでいた俺に、
「……うそ」
「え?」
「そんなのってうそだよ。なんとも思ってない、なんて」
ゆるゆると首を横に振ったのは九瀬だ。
力のない声は『弱い否定』という意味ではなく、彼女の心痛の表れだろう。
……確かに、家族を喪ったことを「平気だ」と言う人間が居れば、それは強がりに違いないと誰だって思うかもしれない。
だが、俺の場合は違う。そうではない、という意味ではなく、そんなことは言っていられない、という意味で。
なにせ10年前の
なら、
だからこんな、異能者なら珍しくもないことでいちいち憐れまれても困る。
それに……そもそも俺は、あんな両親のことなんて……。
「九瀬、俺は……」
九瀬の表情を曇らせる憂いを晴らすため、何らかを言おうと口を開く。
だが……結論から言えば、俺は気の利いた言葉などなにひとつ口にはできなかった。
何故ならば。
――――殺気。
「……!」
背骨を直感めいたものに突き刺されて。
八年に渡る実戦経験が培った思考回路が、
果たして、そこに居たのは――。
ごおお、ごおおおおおおお――――……。
――こちらと20メートルほどの距離を空けて停止した。
道幅一杯を埋めるほどに巨大な、黒く蠢くカタマリだった。
『…………』
天を衝く直線の大角。
前腕は不確かな輪郭ながら、隆々とその剛力を誇っている。
一番近い既存の怪物は、ミノタウロス、だろうか。
だがそれは形の話で、佇まいから受ける印象はスペインの闘牛だ。
たとえ今は静止していても、身に宿った本質までは隠せない。
輪郭を不安定に揺らす、瘴気で構成された肉体。
その姿を俺は知っている。間違いない。
今回の討伐目標――危険度星四の魔塵、【猛追のライノ】がそこに居た。
ごおおおおお――――……。
時間が凍り付く。
この事態は予想の範疇。当然の結果。俺たちは彼を倒すため、自ら彼の縄張りに侵入したのだから。
だが……それらのことを加味しても、今回は前兆がなさすぎた。
ふつう強い魔塵ほど己の存在を誇示し、自分より下位の魔塵を集めて徒党を組むはずなのだ。なのにソイツはたった一体で、ただの岩塊であるかのように、道の真ん中で停止していて。
ごおおおおおおおおおお――――。
何か、空港のような、工場のような音が聞こえる。
そのことに意識が追い付いた瞬間。
『――――――』
無言のままに。予備動作もなく。
――ブレーキとアクセルを間違えたみたいに唐突に。
二階建ての建物に並ぶ漆黒の怪物は、真っ直ぐこちらに突っ込んできた。
――例えば、信号待ち中にトラックが突っ込んできたとして。
たいていの人間は躱せない。
人間に備わった防衛反応――即ち脊髄反射というのは万能ではない。そこには知識がなく、熱いから手を離す、飛んで来たから叩き落とす、といったプログラム的な動きしかできないからだ。トラックに轢かれたら死ぬ、と頭では分かっていても、脊髄反射は脳を経由しないのだから、それでトラックを避けることはできない。
つまりこのような場合、人間は自力で判断して肉体を動かさなければならない。
だが……いったいどれだけの人間が、迫るトラックの脅威と軌道を完全に理解し、自らの肉体を安全圏へ移動させる一連を、衝突までの一瞬のうちにこなせるのか。
普通は無理だ。だって回路が通っていない。「トラックが来た」という状況から「轢かれたら死ぬ」という答えは出せても、その先の具体的な行動へ移るには更にもう何段か思考を飛躍させる必要がある。これは非常に難しい。それが可能なのは、「トラックが来た」という状況に囚われるのではなく、「このままだと死ぬ」という問題のほうに最初から向き合っていた者――つまり、最初から回路が通っていた人間だけだ。
こればかりは経験。
何度も死ぬような目に遭って、初めて身に付く思考回路。
だから、いかに希少な異能を持った九瀬ヒカリでも、こんな突然の出来事には立ち尽くすしか出来ないわけで――。
「――――っ、九瀬!」
咄嗟に。
俺は九瀬の体を抱えて、全力で横に飛んでいた。
『――――』
間一髪、真横を抜ける死の列車。
ごおおおおおお―――!! と激しく猛る風圧が、轢き潰し損ねた俺の背中を未練がましく抉っていく。
「ぐ……!」
びしびしと背を斬り付ける黒い風。
それにも何とか耐え切って、俺は九瀬を抱えたまま着地した。
「あ、ありがとうエイトく――」
「――双咲、ナナ子を!」
叫ぶ声に余裕はない。
魔塵の走行ルート上には、俺と九瀬だけでなく双咲とナナ子も含まれている。
「ええ、言われなくても!」
だが、俺が叫ぶ前に既に双咲が動いていた。
その細腕が傍らのナナ子をひっつかみ、異能者の身体能力をフルにつかって跳躍する。
ナナ子は異能こそ最強クラスだが、身体面は貧弱そのもの。そのうえ弱視でもある彼女は基本的に回避ができない……ゆえに、近くに居た双咲がその弱点をカバーする。
位置関係の問題か、俺たちよりは余裕をもって突進を回避する双咲プラスナナ子。
死の暴走列車はそのまま通過し、横合いに逃れた二人の髪を余波で攫うに留まった。
「わ。そうざき、ありがと――」
「いいから、そのまま離れない!」
叫び、ナナ子を抱き寄せる双咲。それは追撃を警戒して――ではなく、反撃にナナ子を巻き込まないため。
そう、たとえ不意打ちとはいえ、やられっぱなしで終わる双咲アリサではない。
どんな加害にも即反撃が彼女のモットー。その山より高いプライドが、自身に泣き寝入りを許さない。
「“回れ回れ感情恒星、廻れ廻れ愛憎螺旋”――」
右と左。双咲の真横の空間に、二つ、火の玉めいた光が灯る。
色は紅蓮の赤と雷霆の黄。
彼女の放つ瘴気がエネルギー変換されたその光は、瞬く間にバランスボール大に膨張。恒星のように旧都を照らす。
双咲アリサの異能、〈
彼女自身の感情をエネルギーとして放つ砲撃は、魔塵の突進より遥かに速く虚空を飛翔し、その無防備な背を貫き穿つ――。
「――『
閃光、二条。
強烈な熱と雷撃をそれぞれ宿した光線は、流星の如き速さで虚空を駆け、脇を通り過ぎた魔塵の背に一瞬で追い付く。
正に砲弾。星四異能者の中でも有数の火力を誇る光線は、主を引き潰さんとした無礼者にその牙を突き立て――。
ばちんっ、と。
魔塵の体に届く瞬間、何か見えないものに弾かれた。
水切りの石めいてその軌道を逸らされた光線は、無念、無関係の民家を削り旧都の空へ消えていく。
「――ウソでしょ。アタシの星弾が弾かれた……!?」
その光景に最も驚愕したのは、当然技を放った双咲だ。
彼女は自分の能力、特に火力に強い自信を持っている。それは数多の勝利に裏打ちされた自負であり、プライドだ。
そんな双咲アリサのプライドの結晶とも言える異能が、一切の傷を与えることなく防がれた。普段は敵なしの彼女であるからこそ、その衝撃は深い。
『――――』
そして……その隙を利用するが如く立ち止まり、くるりとこちらを振り返る魔塵。
無機質な動作は転車台の列車を思わせる。
ごおおおおおおお――――。
そうして、またあの『風音』に気付いた瞬間。
奴がするだろうことが分かって、俺は反射的に叫んでいた。
「双咲、上だ!」
「……!」
名を呼ばれたことでショック状態から脱したか、双咲は辛うじて反応してくれた。
上、という言葉通り。俺は九瀬を、双咲はナナ子を抱えたまま、近くの民家の屋根上に逃れる。
足場の民家は障害物。
ここならそう簡単には突撃してこれない、という読みだったが……。
『――――』
問答無用、と言わんばかりにこちらに頭を向けてくる魔塵。
マジか、と俺が屋根を蹴るのと、魔塵が突っ込んでくるのは当時だった。
ごおおおお、おおおおおお――――!
風音を纏って突進してきた魔塵は、当然の理屈として二階建ての民家に突っ込み……そしてものともせずに薙ぎ倒した。
しかもそれだけには留まらず、そのまま直線上にあった建物を三棟は砕いてようやく止まる始末。
――何という破壊力。本当にレールを外れた暴走機関車が住宅街に突っ込んだとしか思えない。
横ではなく後ろに逃れていたら危なかった、と被害を免れた家の屋上で肝を冷やしつつ、俺は目の当たりにした重機めいたパワーに戦慄する。
「くっ、ブルドーザーかよアイツは……!」
いいや、それより余程ひどい。
あの魔塵には建物を土砂のように押し流す馬力だけでなく、突っ込んだ建物をバラバラに粉砕するスピードと破壊力まで備わっているのだから。
ずずん、と崩落する民家の重量が地を揺らす。
もうもうと立ち込める土煙の中、刻まれた爪痕の先端で、まだ壊し足りないとばかりに黒い巨体が頭を上げる――。
「っ、みんな! 一旦引いて体勢を立て直そう!」
呆けていた俺たちの思考を鮮明に打つ鶴の一声。
「――了解」
「――分かったわ」
司令塔の指示のお陰で、乱れかけていたチームが統率を取り戻す。
何にせよ行動は素早く。
土煙が晴れる前に、俺たちは屋根伝いに撤退を開始した。
◆
ごおおおお――――と風を噴く微かな音がする。
俺たちは壁の崩れかけた廃墟の二階に逃げ込んで、ひとまずの小休止を取っていた。
星四魔塵【猛追のライノ】。
壁を使って隠れただけだが、どうも索敵能力は高くないらしく、奴に気付かれた様子はない。
「ごめんね。私の反応が遅れたから……」
そう小声で頭を下げるのは、さっき俺が庇った九瀬ヒカリだ――小声は敵に気付かれないようにというのもあるが、単に消沈しているようにも見えた。
そんな九瀬の弱弱しい謝罪に、俺は「それは違う」とかぶりを振る。
「いいや、あれは不意打ちみたいなモンだったし仕方ない。むしろここは、あの苦境を無事に切り抜け状況をリセットできたことを喜ぶべきだろう」
「ええ。今回の敵は少し厄介そうだし、どのみち作戦タイムは必要だったわ」
「……くぜ。けっか、おーらい」
それは俺も双咲も――ナナ子は分からないが――嘘偽りない本心だ。
あの異様な雰囲気とがむしゃらな突進。奴を前にして悠長に作戦を考えるなど不可能だろう。なので、この一時撤退はむしろありがたい。うん、正に結果オーライである。
とはいえ、これはあくまで一時的な撤退。
あの魔塵……【猛追のライノ】は今回の俺たちの
そもそも奴は人殺しの怪物で、生徒殺害数3の賞金首で、要するに正義の味方が頑張る相手としては充分なのだ……とはいえ、それらの事情のどれもこれも、臆病者の俺にとっては頭の痛い話でしかないけれど。
そんな俺の臆病風に気付いた様子もなく、頼もしい女子3人は速やかに作戦会議を始めていた。
「……それで。アタシの星弾が弾かれたワケだけど、アレどういう仕組みか分かる人居る?」
「しくみ……かたい、だけ?」
「ううん、それは違うと思うよナナちゃん。硬いだけなら、アリサちゃんの砲撃が『弾かれる』ってことにはならないと思う……うん、何か別の強い力に邪魔されたみたいな感じだった」
――つまり、魔塵【猛追のライノ】固有の異能。
異能は人間にばかり宿るとは限らない。魔塵も高位のものは固有の異能を持ち、それは得てして厄介だ。なにせ異能とは瘴気由来の力。物質的な肉体に異能が外付けされる俺たち異能者と違い、体全てが瘴気の魔塵は異能との親和性も高い。
そのうえ異能は一つとして同じモノはないのだ。ゆえに俺たちは、まず相手の能力を見抜くところから始めねばならない。
「……まさか、ナナの異能が通じない相手ってコトはないだろうけど」
「そもそもあの足の速さだと、ナナちゃんが門を開くのが間に合うかどうか……」
「……む。わたし、おにもつ、ぽい?」
「ソレを今考えてるのよ。エイト、アンタも何かないの? こういうのはアンタの芸風でしょう」
接敵時間の短さもあり、敵の異能特定に難航する3人。
だが、俺は
だから雑に話を振られても動揺することなく、むしろある程度の確信を以て――。
「――『風』、だ」
「風?」
「アイツの異能だよ。走行中に取り込んだ空気を自らの瘴気と混ぜて噴出し、『風の鎧』みたいなモノを纏う……ってのが正解だと思う」
「あ! 確かに、風の音みたいなのが聞こえてた……! それに、走り出してからその音が凄く大きくなったかも! そ、それだよエイトくん!」
九瀬の同意も貰え、俺の確信は強まった。
ごおおおお――という特徴的な音は、空気を吸い吐き出す風音だ。
仕組みとしてはジェットエンジンが近いだろうか。
高速移動による大量吸気と、それを加工して利用する大量排気。
あの魔塵はいわば突進の申し子。速く走れば走るほど大量の空気を吸入でき、全身から噴出される『風の鎧』も勢いを増す攻防一体。突進に対して不用意に反撃しようとすれば、瘴気交じりの超風圧でこっちがズタズタにされるだろう。
「ちょっと待ちなさい。風を取り込んだり吐き出したりって、どうやって? ヤツの体に吸気口みたいなモノはなかったけど」
と、そんな推論の信憑性に異を唱えたのは双咲だ。気の強さが前面に出た双眸は、「矛盾がある推論は認められない」と暗に語っている。
だが、こっちにも一応根拠はあるのだ。それに今挙げられた疑問にも問題なく応えられる。
「そこはホラ、魔塵だからな。気体にして固体、瘴気以外の攻撃を全てをすり抜ける怪物なら、わざわざ体に穴なんか開けなくとも空気を出し入れできるだろう」
「……なるほど。全身が吸気口であり排気口、か。それならエイト、アンタの言う『風の鎧』を全身に纏えるワケだ」
頭の回転が速い双咲は、それで納得してくれたようだった。
そしておそらくは“その先”も。
「続けるぞ。この推測が正しいなら、奴は“走っている間は無敵”、あるいはそれに近い厄介な敵だ。
だがそれは逆に、
さっき双咲が言った通り、奴は全身が吸気口であり排気口。つまり、穴を塞ぐという
「……動きを止めて、無防備になったトコを叩く。作戦の方針は分かったわ。でも、どうやってあの暴走バカを止めるワケ? どう見ても赤信号を守るタイプじゃないわよ、アレ」
「ああ。だから、奴を障害物に誘導・激突させて動きを止めるのが上策だと思う」
「しょうがい、ぶつ……つまり、かべ?」
「そうだ。幸い建物なら溢れてるしな。とはいえ、奴の突進を止めるにはそんじょそこらの民家じゃ駄目だ。だから――」
実は、『そんじょそこら』ではない建物には既に目星をつけている。
あの衝突力に耐えうる建物としての強度に、突進を止められるだけの桁違いの重量。そんな条件が揃った絶好の障害物が、幸いにも近くにあったのだ。
「――
俺が指で示したのは、ここら一帯で最も目立つ『壁』だった。
廃墟の街、瓦礫の街で未だに原型を保った建物。
魔塵の突進を止められるくらいには頑丈そうな。
「――そんなの駄目。駄目に決まってるよ」
「……どうしてだ、九瀬」
「だ、だって。あのマンションはエイトくんの……」
「……分かってる。その俺が良いって言ってるんだ。それに過去がどうだろうが、今はただの廃墟だ。どこにも問題はないだろう」
まるで自分のことのように苦しそうな顔をする九瀬へ、俺はあくまで意見を固持する。
そうだ、彼女は分かっていない。
駄目も何も、思い出なんて大事にする価値もない。
だって――。
「……エイトくんは、さ。過去は曖昧なものだって、そう言ってたよね」
その言葉は、俺ではなく彼女の口から。
……少し驚いたが結論は同じ。俺は頷いて言葉尻を引き取る。いいや、引き取ろうとする。
「ああ。だから――」
だから感傷に意味はない、と続けようとして。
「――――うん。
だって、思い出は物にも宿るんだから。人は、全部を完璧に憶えていられないからこそ……一緒に過ごした場所や持ち物を、大事にしてあげないと駄目なんだと思う」
それは。
思わず顔を上げる。彼女と目が合う。
大きく見開かれた琥珀の瞳。
涙に潤んだその輝きは、まるで俺の心の奥底を覗き込むような、影に隠した本心を照らし出すような彼女の光。
それがあまりに真っ直ぐで、眩しくて……弱い俺は、彼女から目を逸らすことしかできなかった。
「……それは、そうかもしれないが。そんなの、今を犠牲にしてまで重んじるほどのもんじゃない。それに、俺は別に、あの家に良い思い出なんて……」
反論の語気は弱い。理屈ではなく心で、俺は九瀬の言葉を否定したくないと思っている。
それでも頷けなかったのは、自分にとって最も古い記憶を思い出したから。
無駄なことをするな、という父の声。
それが今の俺には、無駄な感傷を持つな、と言っているようにしか聞こえなくて。
――そうだ。九瀬、そんな拘りは無駄なんだ。
そう言おうと思った。言うべきだった。
だが、九瀬の真っ直ぐな瞳を前にして、迷いがあった俺は一瞬だけ言葉に詰まり。
その隙を突くように、震えながらも決意を宿した声が響いた。
「……私、ちょっとだけ無茶をします。だから、駄目だったら助けてね、エイトくん」
言うや否や、ナナ子を連れて立ち上がる九瀬。
そのまま彼女は、崩れた民家の壁をくぐって外へと飛び出してしまった。
「な、おい!? 九瀬!?」
制止の声は間に合わない。
九瀬はナナ子を連れて、真っ直ぐに
ごおおおお――――と響く、空港のようなあの音のほうへ。
「――――」
あまりの馬鹿さ加減に二の句が継げない。
本当に、眩暈がする。
何が「駄目だったら助けて」だ。
そんなに震えて、強がりが見え見えの作り笑いで……一体何をしに行くって言うんだ、おまえは……!
◆
走る、走る、走る。
足取りは逃走のそれ。彼女は今逃げている。頼るべき仲間から、そして冷静になろうとする自分から。
――正気ではない。
だって知っている。自分は他者の助けがないと何もできない人間だ。それは異能のことだけじゃない。人間性の面だって同じ。
彼女は夢を知らない。何者かになりたい、と思ったこともない。他人に迷惑をかけることとか、危険なこととか、そういうのは人並みにキライだけれど……じゃあ何がスキで何をしたいのか、と訊かれると途端に困る。というより、そういうのが嫌だ、という感情を上回るだけのモノがないのだろう。
主体性が。目標が。一人で生きていくための『芯』がどうにも欠けている。
いい人、とよく褒められるのはそういうことだ。
芯がないから合わせられる。ただ目の前の人に笑顔で居て欲しいと、そういうその場限りの理由に身を預けられる。
いいや。たぶん、それしか道標がなかっただけだ。他人を悲しませたくないあまり、喧嘩はおろか勝負事さえ避けてきたほどなのだから。
そんな自分が――他人が居なければ何もできない人間が、よりにもよって仲間のもとから離れている。それも自分から。
なんて愚か、なんて気の迷いだろう。
それでも……分かってなお彼女は、九瀬ヒカリは止まらなかった。
「――守る。守るんだ。守ら、なきゃ」
声は震えている。息は上がっている。
当然だ。人生において、こんな無茶をした経験はない。
17年間守ってきた生き方のようなものを踏み外している、とさえ思う。
今、自分は間違いなく仲間に迷惑をかけている。しかも自分の意志で。そう考えると冷や汗が出る。ぎゅっと目を粒って蹲りたくなる。そのうえこれは物凄く危険な行為で、命の保障なんてどこにもなくて、一歩ごとに喉から心臓が零れそう。結論として、やっぱり、どう考えても正気ではない。
けれど。それ、でも。
「――これだけは譲れない、譲っちゃいけないと思ったから。
だから……
それでも自分を押し通すために。
彼女はようやく立ち止まって、
「……」
九瀬ヒカリは知っている。自分一人では何もできないと。
だから、そんな彼女が己の願いを叶えたいなら……他人に迷惑をかけるしかない。
それは当然の方程式。
余りにも利己的で独善的な。彼女の認識では罪深くすらある願い。
だというのに……純粋無垢な死神は、そんな彼女の欲望を許容した。
「……いい、よ。くぜのおねがい、なら」
「え……ほ、本当に?」
「う、ん。だって、かげみやのため、でしょう」
ナナの頷きは、本当にあっさりとしたものだった。
そうだ。確かに九瀬ヒカリの優しさは、彼女の芯のなさの裏返しだ。少なくとも本人はそう思っている。だからそれを誇ったことなど一度もなかった。
だが……どれだけ本人が腐そうとも。外野からすれば、今までの彼女の優しさは紛れもない本物で。それを漆門寺ナナが心地よく感じたこともまた事実であり。
そして、ヒカリ自身は『罪深い』と思ってしまったことでさえ――。
「つみは、さばかれる、べき。でも、
――――人は、『特別』を作っていいのだと。
そう真っ白な声で断言して、ヒカリより四つ年下の中学生は、右目を封じていた眼帯を外した。
途端、露わになる奈落の眼孔。
少女の矮躯に見合わぬ膨大な瘴気を放ちながら、星五異能者・漆門寺ナナは微笑む。
「だから……ちから、かして、あげる。あれ、とめればいいんだ、ね」
「――うん、ありがとうナナちゃん。
私たちで、エイトくんの思い出を守る『壁』になろう」
そうやって彼女らが睨む先。
距離にして50メートルの直線上に……かの魔塵、【猛追のライノ】の威容があった。
ごおおおお、おおおお――――……。
――対する魔塵、【猛追のライノ】。
彼もまた少女らの姿を確認する。
『……』
このとき。もし彼に表情があれば、間違いなく眉を吊り上げていただろう。
彼は薙ぎ倒すモノ。轢き潰すモノ。排気の鎧により小細工の全てを打ち砕き、正面にある全てを蹂躙するモノ。
そんな自分の真正面に、奴らはのこのこ戻ってきた。
いいや、それだけでは留まらず、これみよがしに道路の真ん中で立ち塞がってみせた。
おまえなんか怖くない、と言わんばかりの直立不動。
つまり、彼はたった今、地を逃げ惑う鼠から挑戦状を叩きつけられたのだ。
――いいだろう、と魔塵は静かに挑戦を受けた。
その内部でいかなる思考・感情が奔ったかは当の魔塵にしか分からない。
ただひとつ確かなことは……立ち塞がる人間を目撃した彼が、一秒だって我慢できなかったということだけ。
『――――』
やはり無言で。前兆なく。
巨躯の魔塵は、50メートル先の挑戦者を目掛けて、速やかに突進を開始した。
ごおお、おおお――――。
地を駆ける巨躯。エイトの推測は正しかった。かの魔塵にとって空気抵抗はむしろ味方。その体は正面から風を吸い込み、そして体内で加工して吐き出す。
音の仕組みは笛と同じ。風が穴を通る擦過音は、必然、穴に入ってくる風が強くなるほどにその勢いを増していく。
ごおおお、ごおおおお――――!
加速、加速、加速。
魔塵の速度は一歩ごとに上昇し、排気音もそのボルテージを上げる。
誰が呼んだか『風の鎧』。あらゆる妨害を弾く体表の乱気流は既に完成しており、それはつまり、もう誰も彼の突進に横槍を入れられないことを示していた。
ごおおおおおおおおおおお――――!!!!
かくて辿り着いたトップスピード。排気の音は最高潮に。
ジェットエンジンを思わせる轟音が、
突進は線路を外れた暴走列車そのもの。
黒煙を唸らせる怪物は、もはや轢殺の目的も忘れ、ただ眼前の全てを薙ぎ倒さんと全霊を以て猛進する。
「――、っ」
その正面に留まることがどれほどの恐怖であるかは語るまでもない。
特に、ほんの数か月前まで
今や時速100キロを超える死の姿は、それ自体が理性を砕く凶器そのもの。直面した彼女の意志には深い亀裂が入り、その下から「逃げろ」という本能が顔を出す。
脅威に無知だった先程とは違う。質量に押し潰されミンチになる自分も、風圧で手足をバラバラにされる自分も、彼女はもう鮮明にイメージできてしまう。
そんな、
彼女は思う。
勢い任せで飛び出したものの、戦いが怖いのは変わらない。死ぬのが嫌なのは変えられない。それは自分にとって当たり前のことで、人格の基盤に染み付いた性格で、絶対に捨てられない常識だ。
そんな自分がなぜここに居るのか。そもそも運命は残酷だ。異能者になんてならなければ、こんな旧都で命懸けの戦いに身を投じることもなかったろうに。
でも……それでも、自分は恵まれている。力にも、そして人の縁にも恵まれた。
だから、せめて自分に出来ることくらい。
震える喉に手を添えて、崩れそうな膝に力を入れて。
彼女――九瀬ヒカリは傍らの仲間に叫ぶ。
「お願い、ナナちゃん――――『
「まか、せて――――〈
かくて、とある少年の生家に代わる障害物は現れた。
伸ばした手の数メートル先。
魔塵の突進を防ぐためのバリケードが、白と黒の瘴気で以て構築される。
九瀬ヒカリの異能、〈
そんな『光の盾』が、衝突に耐える第一層。
そして、現れた壁は二重構造。一層の裏には、衝撃を受け止める第二層がある。
漆門寺ナナの異能、〈
そうして組み上がった二重の壁。
神聖な印象を放つ光の大盾と、地獄の重みを刻まれた闇の門扉が重なった様は、屹立というより君臨という言葉が相応しい。
正に鉄壁。
だが、突如として現れた障害物を前にしても、魔塵は速度を緩めなかった。
否、緩める必要などない。むしろいっそう速度を上げる。
魔塵の頭頂より伸びた直線の大角。それは突進開始時から既に、軍艦の衝角めいて正面方向に向いているのだから。
ごおおおおおおおおおお――――!!!!
蹴散らす、と叫ぶ破滅の風音。
止める、と君臨する白黒の盾。
スローモーションになる世界は、けれど結果を求めているのか、時の流れを止めてはくれない。
果たして――。
――――激突。
衝撃は比喩でなく街を揺るがす。
暴走列車と二重の壁。
あるいは覚悟が足りなければ、その衝突音だけで気を失っていたかもしれない。
それは、当人たちにとっては永遠にも思える一刹那。
地獄の門に支えられた光の盾と、障害を砕く衝角が、真っ向勝負で鍔競り合う。
まるで故事成語における矛盾だ。
防げると豪語した盾兵と、貫けると確信した槍兵は、お互い一歩も引かず命運を試す。
それでも、現実に起こる現象である以上、勝敗は決まってしまうもので。
恐らく――より強い確信は、魔塵のほうにこそあったのだ。
『――――――』
全体重と速度を乗せた衝撃に耐えきれず……びきり、と。
光の盾に亀裂が走り、衝角がその奥へと沈んでいく。
ずぶり、ずぶり。
鋭利な黒が白い光をゆっくりと引き裂き、ついに先端が盾奥に覗く。
そうして、現実と照応するように。
その黒い切っ先は彼女の心にまで
「――ぁ、ゃ――」
声にならない悲鳴が漏れる。
いくら拒んでも止まらないモノに彼女の強がりが乱される。
それを好機と見たか、盾を貫いた漆黒は更に奥へ。
――がちん。
盾を砕いていた黒い衝角は、その奥の純黒に受け止められる。
漆門寺ナナの地獄門。
もし
だが、それもいつまでもつか。地獄の門とて無敵ではない。
みしり、みしりと鈍い音を立てて、衝角を突き立てられた純黒の門扉が歪んでいく。
「く、ぜ……っ」
ナナの白く無垢な声が、似合わない焦りを帯びて彼女を呼ぶ。
光の盾はまだ破られたわけではない。
罅割れこそ入っているものの、侵入を許したのは角だけで、魔塵の体を止める壁としての役割はまだ何とか果たせるだろう。
とはいえ……それも術者が万全ならの話。その場合はナナも焦りなどしない。
現実として。
光の盾は彼女の心を反映して、今にも消えそうに明滅していた。
心はまるで洗濯機。
固めた決意も、なけなしの覚悟も、全て恐怖の渦に呑み込まれてぐちゃぐちゃだ。
いいや、きっと最初からハリボテだった。
ただテレビで見ただけのマジックを、あれなら自分にも真似できると意気込んだみたいな、本当にそのレベルの心の準備。
自分は死に立ち向かっていたのではなく、失敗の先にあるものから目を逸らしていただけなのだと、彼女はようやく思い知った。
「――――」
思考が空白になっていく。
白い恐怖に指先から心臓まで呑まれていく。
皮肉にも。
彼女にとっての恐怖のイメージは、自分の異能が生み出す光と同じ白色だった。
だが……それこそがこの窮地における、彼女の最後の悪運だったのかもしれない。
強い光が、より影の色を際立たせるように。
その白く眩い恐怖が、逆に、彼女に大切なものを黒々と意識させたのだから。
現実が逃げ出したいほど恐ろしいからこそ際立つ疑問。
――なぜここに立っているのか。
――なぜ立ち向かおうと思ったのか。
――自分は、何を守ろうとしていたのか。
「――――エイト、くん」
心臓の黒点が爆発する。
崩れかけた膝に力が戻る。
バラバラに砕けていた心が、ひとつの破片を中心として元の形を取り戻す。
自分の覚悟は猿真似で。決意は薄っぺらな紙に同じ。
そんなことは分かっている。痛いくらいに思い知った。
それでも――そんなカラッポの自分にも、譲れないモノがひとつだけあるとするならば。
それは何よりも単純な。
好きなひとに笑って欲しいという、世界一純粋で馬鹿げた祈り――――!!
唯一絶対の真実を得て。弱まっていた盾の輝きが力強さを取り戻す。
彼女の目にもう恐れはない。
それは簡単な話でありながら、魔塵には決して理解できぬ理屈。
光と影が決して交わらぬように。
純粋な愛の色の中に、恐怖は決して存在できない――。
「止ま、れぇ――――!!」
轟く風音に負けぬよう、振り絞られた少女の絶叫。
声より発されるその異能が、何らかの力を発揮したか――。
ごおおおおお、おおお、おお――――……。
――罅の入った光輝の盾はついぞ破れず。
予想外の結果に凍り付くように、魔塵の突進は停止していた。
◆
ごおおおお、おお――――……。
魔塵の動きが止まった。
地獄の門と光の盾に阻まれ、全てを薙ぎ倒すかに思われたその突進は停止した。
吸気が途絶え急速に弱まっていく風音は、どこか釣鐘の残響に似て……その音色に宿った寂寥の念は、そのまま怪物の悲嘆を表しているようにも思われた。
あの魔塵が――【猛追のライノ】が何を考えているかなんて分からない。
それでも、傍から見ても明らかに……あの魔塵は、全ての能力が『突進』という行為に特化していた。
障害物を貫く角と、人間を轢殺する巨大な体躯。
速く走ることが前提かつ、走行を止められないための異能。
それは空気抵抗まで計算し尽くされたF1カーのような……たったひとつを目的とした、ひどく純粋な怪物のカタチ。
それが作為か偶然かは知らない。彼自身が望んだ力なのかも分からない。
だが……どうあれ、“誇り”ではあったハズなのだ。
その突進が止められた。
能力の全てを傾けた奥義を受け止められ、魔塵は誇りだった無敵のカタチを奪われた。
その、物理的にも精神的にも、あまりに致命的な一瞬の隙を。
「『
赤と緑、鮮烈極まる“双撃”が貫く。
旧都には眩しすぎる二色の閃光は、『風の鎧』の失われた魔塵の体を捉え、黒い巨体に詰まっていた生命を根こそぎ焼き尽くしていく。
『――――』
そんな砲撃に貫かれてなお、その魔塵は無言だった。
あるいは、もはや悲鳴を上げる気力すら残ってはいなかったのかもしれない。
「――全く、事前に相談くらいしなさいってのよ! アタシだから咄嗟に合わせられたんだからね!」
そんな魔塵とは正反対に。横合いから現れた双咲が、無茶をした九瀬たちに悪態を吐く。
とはいえ結果論で言うなら、この展開は彼女らのお手柄だ。
九瀬とナナ子が魔塵の突進を止めたからこそ、奴は『風の鎧』を失い、そのお陰で双咲の攻撃が致命傷、に――。
ごおおおお、おおおお――――……。
「ウソ……!?」
再びの風音が生存を謳う。
魔塵は、全身から出血めいて瘴気を立ち昇らせながらも、未だ輪郭を保っていた。
人間には死相の分からない怪物の特権。
その巨躯が上体を持ち上げるのを、一秒前まで勝利を確信していた双咲アリサはただ呆然と見上げている。
「そんな……もしかして、片方が『風』だったから……!?」
よく回る頭でことの真相を察する双咲。
【猛追のライノ】の肉体は、吸い込んだ風を加工して噴出し『風の鎧』とする……彼はその体質で双咲の風属性のエネルギー弾を吸収し、同時に放たれた炎のエネルギー弾から自らを守る盾に利用したのだ。
本来走行中にしか発動しないハズだった『風の鎧』の変則応用。
偶然が齎した魔塵にとっての奇跡。
が、それでもダメージの深刻さは変わらない。それも当然、いくら風を吸い込める体とはいえ、
焼き尽くされていたのではなく、風に切り刻まれていた瘴気の命。
だが。
『――――』
それでも倒れず、のそり、と体を横に向ける風吸いの魔塵。
そちらの方向には地獄の門も光の盾も存在しない。障害物も何もない先には、今しがた自分を攻撃した下手人たる双咲アリサが立っている。
傷は深い。体は崩れかけている。だが、最期に一矢報いるには充分。
いいや。
賭けてもいいが、彼はそんな
ごおお、ごおおおおおおお――――。
風を吸い吐くその体は、ただ「走りたい」とだけ叫んでいた。
突進に特化した肉体と異能。
このカタチで生まれた者として、最期までそれに殉じたいのだと。
滑稽で醜悪で、そして憐れなほどに純粋な怪物の誇り。
その矜持が、本能が、心中の相手として双咲アリサに狙いを定め。
「――――悪いけど。この国じゃ危険運転は免停なんだよ、轢き逃げ野郎」
――マンションを使う、という俺の提案は通らなかったが、それはそれ。動きが止まったのなら作戦通り仕留めにかかる。俺はこのチームで一番平凡な駒だが、ここまで条件が揃った以上、王手をかけるには必要充分。
恐らく、それは彼女も同じ判断だったのだろう。
「エイトくん――『
〈
その上昇幅は約二倍。俺のような凡人さえ双咲以上の火力を出せてしまう、正に『必殺技』のプレゼント。
九瀬ヒカリ。
自覚こそしていないフシがあるが、彼女は間違いなく天才だ。
その真価は希少な異能にではなく、その見切りの速さと正確さにある。
九瀬は一目見ただけで直感で分かってしまうのだ。相手の戦力。能力の特性と強度。今回のことだって、相手の持つ破壊力を――恐らくは無意識で――見極め、「あれなら耐えられる」と分かったからこそ、一見暴挙めいた行動に出たのだろう。
だが……そんな卓越した判断力も、本人の精神力とは一切の関係がない。
要するに展望台のガラスの床だ。大丈夫だと分かっていたって、行動に移せるかどうかは別の話。それも安全マージン皆無の強度ギリギリとくれば、俺だってそんな無茶はできないだろう。
なのに、九瀬はやってのけた。少し前まで一般人だった癖に。怖いと泣いたその顔を、俺は確かに知っているのに――。
要するに。俺は少し憤っていたのだ。
具体的な相手、眼前の魔塵にではなく。
ただ、彼女に似合わない勇気を求めた、世界というものの厳しさに。
ああ、今はその怒りがありがたい。お陰で勇気のなさを補って、双咲を守るため飛び出せた。その上で彼女の声援とくれば、これはもう鬼に金棒というか。
――殺す。
それはたぶん、何の因縁もない八つ当たり。
吐き捨てるような殺意で以て、俺は
「〈
選んだ武器は異形の大槍。
俺の身長より遥かに長い柄の先で……十字を曲々しく歪め伸ばした、断罪の穂先が獲物を睨む。
この世ならざる影の槍。
それ即ち、異邦の怪物を貫き屠る凶器なれば。
俺の異能〈
『――――』
魔塵が瞠目の気配を放つ。
その腕が咄嗟に頭上の俺へと伸びてくる。
死を前にした反射行動。
虫を掃うような動作は、彼にとっての“最強の行動”とは比べるべくもなく緩慢で。
――――ゆえに、俺の槍がその頸を貫くほうが早かった。
刺突一閃。
外殻を裂き、中身を抉り抜き、貫通して道路に深く沈む断罪の
致命の手応えは厳かに。
十字を逆さにした槍が、敵の首を串刺し縫い留める……それは百舌鳥の早贄か、ある種の磔刑のようだった。
ごお、おおおお、おおお――――……。
喉を貫いた槍によって地面に串刺しにされたまま。
木枯らしめいた断末魔と共に、急速に風化していく轢殺の魔塵。瘴気で出来ていた肉体が、ボロボロと脆く崩れていく。
あわれ虚空を藻掻く腕は、最期まで在り方を全うできなかった無念に満ちて。
その無様に、つい堪えきれず口を突いた。
「――俺はオマエの気持ちなんて分からないし、一つのモノに拘ることが悪いとも言わないけどさ。当然の話、譲れないモノなんか誰にだってあるんだ。そんなモノどうしがぶつかったら、そりゃあ痛いに決まってる。
そんなことすら分からずに、自分の都合しか見てないなら……
きっと意味のない、絶対に理解できないだろう介錯の言葉を合図に、限界を迎えた大槍が消える。
それで、一歩。
弱弱しくも諦めず、最期に魔塵は踏み出して。
おおお、おお、お――――……。
そのままどこにも届くことなく、風に砕かれて消えていった。
――――星四魔塵【猛追のライノ】、討滅完了。
「……」
勝利に喝采はない。
景気よく勝鬨を上げるには、その過程に問題がありすぎた。
そのことを理解しているのだろう、無言を貫く双咲の脇をすり抜けて、俺は九瀬のもとまで歩を進める。
彼女は疲労からか道路にへたり込んでいた。いいや、庇うようにナナ子を抱きしめているところを見ると、疲労ではなく恐怖のせいか。
そんな九瀬へ、俺はどうしようもなく固い声で問う。
「……九瀬。おまえは、何を考えてるんだ」
「え、エイト、くん?」
「怖くなかったとは言わせない。やってよかったとも思えない。おまえは馬鹿だ、九瀬。どう考えたって、俺の過去なんかのために、おまえがそこまでする必要はなかった」
だって、あれはどう見でも無茶だった。
魔塵の突進を正面から受け止めるという蛮行。
アレはない。賭けたものと得ようとしたものがまるで釣り合っていない。俺なんかの過去を得ようとして自分の未来を賭けるなんて、そんなのは正気の沙汰ではない。
「……うん、確かに無茶だった、よね」
本人にも自覚はあったのだろう。
九瀬は申し訳なさそうに目を伏せて……その首を弱弱しく横に振った。
「でも、ごめんね。私、今回のことは謝りません」
「――は?」
「今だから言うけれど。私ね、今までこんな無茶なんてしたことなかったの。人に迷惑をかけちゃうから。それに耐えられるだけの理由が、私の中になかったから」
何を、と困惑する俺の目を唐突に見て。
思い出を守るべきだと説いたときと同じに、どこまでも真っ直ぐに彼女は言う。
「――今日。私は生まれて初めて、
それは慈しむような、自分を誇るような声。
だが、その奥底に残る震えは声色では隠しきれないもので。
「それに……無茶はしたけど、死ぬことはなかったと思ってたよ。何があってもエイトくんが守ってくれるって信じてたからね」
その通りになったでしょ、と困り眉のまま笑う九瀬。
……その手も足も、どう見たって震えが収まっていない。つまり、この後に及んでまた強がり。そして理由の分からない妄信。
冷静に考えれば、たぶん。礼を言って、その勇気に報いるべきだったのだろうけれど。
俺には、それがどうしても――。
「……好きにしろ。その代わり、俺も許さない。次は殴ってでも止めるからな」
言えない。笑えもしない。
だって……凡人の俺には、おまえの期待するような力はないんだから。
俺の答えに、九瀬は笑顔こそ崩さなかったものの、悲しそうに眉尻を下げて。
それで会話は終わった。
勝利というには余りにも後味の悪い結末。
それはたぶん、『この後』が控えているからだろう。
誰ともなく、全員が同じ方向へ視線を向ける。
旧都じゅうの風を吸い込むような存在感。
その背の高いマンションは、薄闇の中、ひどく鮮明に輪郭を浮かびあがらせていた。
3/
「エイトくん、私ね。お節介かもしれないけど……後悔、してほしくないんだ。何も見つからなくても、探さないよりはずっといいと思うから」
「行ってきなさいエイト。ご両親もこの家も、アンタを育ててくれたんでしょう。なら、どんな事情があれ、看取るって最低限の義理くらいは果たすべきでしょう」
「……がんば、れ、かげ、みや」
そんな、三者三様の言葉に背を押され。
――がちゃり。
そうして、俺は808号室の扉を開けた。
実に十年ぶりの帰宅。
とはいえ……そんな俺を迎えてくれたのは、覚えのない静寂だけだったけれど。
「――――」
キイ、とか細い悲鳴を上げながら扉が開く。
遠い記憶と重なる玄関は酷く暗くて、シンと痛いくらい静かだった。
「……」
ただいま、とは言えない。
ここは既に俺の家ではない。
別に、自分の家と呼べる空間なんてひとつも持っていない俺だけれど……失われたモノに安寧を見出しても、寂しいだけだとは知っていた。
「……お邪魔します」
代わりにそんなことを言って、室内に足を踏み入れる。
空気は埃っぽく、静寂は耳に痛く。薄い瘴気で満たされた、とっくのとうに人間に愛想をつかした部屋を、床板を軋ませながら一歩一歩進む。
何の変哲もない玄関。壁にかけられたレプリカの絵画は母の趣味だが、埃まみれでよく見えない。父のものだった黒い革靴が、十年の放置に孤独死している。
上がり
父の書斎。十年の間に地震があったか、本は床で山を作っていた。
トイレ。水の腐った匂い。カレンダーの日付は十年前で止まっている。
寝室。うちは家族全員で寝ていた。いっとう暗い室内は、今は霊安室を思わせる。
洗面所。床に散らばった鏡の破片に、改めてここを廃墟だと知る。
そして、突き当りの扉。
流れ作業だった今までと違い、少し緊張しながらリビングへ。
「……うわ」
一目で「見たことあるな」と分かった。そのための「うわ」だった。
家族三人で過ごすには少し広い、目算三十帖ほどのリビングダイニングキッチン。
母の城だったモノクロの台所。
父がよく寛いでいた三人掛けのカウチソファ。
壁際の液晶テレビに、食卓に、照明に……どこに何があるか分かる、懐かしい配置。
俺はこの部屋を知っている。
どれもこれも例外なく闇に沈み、時間の流れに呑まれ壊れていたとしても、その面影は残っているから。
「……というより、だいぶ状態がいいよな、これ……窓が開いてないからか?」
今までも思ったが……やはり、家の中はかなり原型を保っている。
瘴気は生物には有毒だが、建物を蝕む力はない。むしろ菌や植物まで殺すので、旧都の建物は意外と保存状態がよかったりするのだ。
特にうちの場合、風雨の侵入口がないのが幸いしたらしい……もしあのベランダに繋がる窓が全部開いていた、もしくは割れていた場合、家の荒れ方は今の比ではなかっただろう。
とはいえ……それは死体が腐っているか腐っていないか程度の話。
生死で言うならこの家は間違いなく死んでいた。
だってこんなにも居心地が悪い。中に居るだけで不安になる。
それはつまり、もうこの建物は家なんかじゃなくて。俺もまた住民などではなく、ただ死者を冒涜する墓荒らしだということだろう。
なのに。
「……いいじゃないか、死に顔くらい拝ませてくれても。知らない仲じゃないだろ」
俺の口から出てきたのは、そんな感傷的な言葉だった。
……リビングに入った瞬間に全身を打ち据えた
――無駄なこと、か。
けれど……いいや、だからこそ、だろう。
今回だけはその文言が逆効果になって、俺は更に一歩を踏み出した。
蟠る闇を押しのけるようにしてリビングに入る。
当然電気はつかなかったが、幸い異能者は夜目が効く。視力を強化すれば、闇に包まれた部屋の中でも家具にぶつかることなく進むことができた。
そうして見知った――記憶の中よりは随分と小さいが――部屋を歩くうち、嫌でも例の記憶が浮かび上がってくる。
俺の最も古い記憶。
無惨に砕けたコーヒーカップと、「無駄なことをするな」という怒鳴り声。
ああ、今でも妙に憶えている。
あの日、俺は母の代わりに父へ朝のコーヒーを届けようとして……そして失敗した。その結果が父の叱責だ。
当時の俺はたぶん3歳とか4歳とか。そんな幼い日の出来事を未だに憶えているのは……もしかするとアレが、俺という人間性を決定づけた一幕だったからかもしれない。
――無駄はキライ。余分は要らない。穴倉で安眠できればそれでいい。
そんな俺の原点がここにある。そう思うと不思議な感慨に襲われる。
「……妙な気分だな。何かが違えば、俺ももう少し明るい奴だったりしたんだろうか」
たとえば、九瀬のように他人に優しく。双咲のように勇敢で。ナナ子のように純粋な、そんな人間になれた可能性があったのか……。
「……いや、ないな」
我ながらあり得なさすぎて苦笑する。
そもそも、仮定の話なんてそれこそ無駄だ。そんなのは俺の趣味じゃない。もしもの話にうつつを抜かせるほど、俺に余裕なんてないのだから。
「……そろそろ出るか。九瀬たちも待たせてるし」
今の仮定で冷静になった。今度こそ、これ以上居ても時間の無駄だな、と思って踵を返す。どうせ二度とは戻らない部屋だ。記憶に焼き付けようとも思ったが、憶えてたって何になるのか、と気付いてやめた。
……九瀬には悪いが。やっぱり、思い出に浸るなんて無駄だった。
そうやって、部屋を出ようと決意したところで。
瘴気で強化された俺の視力は、視界の端に
背の高い食卓のテーブル。その下に敷かれたグレーのカーペット。
そんなカーペットの片隅に、一部分だけ色が濃くなった箇所がある。
模様ではない。模様というにはデザイン性がなくて色味も悪く、単なる汚れだろうと誰でも分かる。いや、正確に言うなら“シミ”というべきか。
そのシミの。
妙に既視感のある黒色が、部屋を出ようとした俺の足を止めていた。
「――あれ、は」
思わず体の向きを変え、ふらふらとダイニングに歩み寄る。近付くほどに疑惑は深い確信に代わり、気付けば俺はそのシミの前にしゃがみ込んでいた。
「……ちょっと待て。これ、まさかあのときの……?」
カーペットのシミは、強烈に俺の脳細胞を揺さぶった。
そうだ、確かに
だが……おかしい。何がおかしいって、そんなものが残っているのがおかしい。
確かにコーヒーのシミは洗っても取れないかもしれない。だが、それなら新しいカーペットを買えばいいだけだ。うちにはそのくらいの余裕も、衛生観念もあったはずだ。
「そうだ。換えるはずなんだ。だってこれは父さんにとって、見るのも嫌な痕跡だろう。それなのに、どうして……」
……どうしてなのか、思い出せない。いや、たぶん幼い俺はカーペットのことなんか気にしなかった。だからカーペットに関する記憶はない。
そうだ。俺は最初から、この家の記憶なんて朧気にしか持ってない。
なら、きっと何かが違うんだ。俺が真実だと思っていた記憶と、本当にあった出来事は。
でも、いったい何が違うって言うんだろう。
分からない。
人の記憶が時間の流れで歪んでいく以上、本物の過去に辿り着くなんて、そんなのは殆ど不可能だから――。
『だって、思い出は物にも宿るんだから。人は、全部を完璧に憶えていられないからこそ……一緒に過ごした場所や持ち物を、大事にしてあげないと駄目なんだと思う』
――ふと、そんな言葉を思い出した。
ハッとしてカーペットを見る。
それは人間の記憶のように曖昧ではない、とても確実な過去の証拠。人と同じ空間で過ごし、その思い出を宿した――正確に言えば、扱われかたを反映した家具。
恐る恐る、指を伸ばし布地のカーペットに触れる。サイコメトリーよろしく感触で何かを思い出したりはしない。これはただの推理、現物に基づいた推測だ。
俺の記憶が正しいなら、父はカーペットを処分するハズ。なのに現実はそうではなかった。
ということは可能性はただ一つ。
つまり、
「――――あ」
それで。
俺は完全に、あの日の出来事を思い出した。
蘇る、セピアに色褪せた当時の記憶。
――床に広がった黒い液体。
――その中心で砕け散った白い陶器。
――湯気を立てる生温かい殺害現場。
――黒い血だまりで無惨に死んだ、父の綺麗なコーヒーカップ。
そして……その死があまりに悲しくて。
『――やめろエイト! 無駄なことをするなっ』
そんな子供の手を、慌てて掴む人が居た。
子供にとっては大きな手。贈り物のコーヒーカップをとても大切にしていた彼は、白い破片には一瞥もくれず、ただ真剣な顔で幼子に道理を言い聞かせる。
『いくら拾い集めても、そのカップはもう直らない。だからやめなさい。
そんな父の声が余りにも深刻だったから。
それで、割れたカップはもう元に戻らないのだと分かってしまった。
そうだ。だからあの日の俺は泣いたのだ。
悔しくて、悲しくて。
ただ役に立ちたかっただけなのに、父のカップを壊してしまったのが悔しくて。
あるいは。
自分も父も誰も彼も、いつかこんな風に壊れてしまうのが悲しくて――。
「――どうして、俺は」
こんなことも忘れていたのだろう、と口元をわななかせる。
自分で言っていたではないか。
記憶とは曖昧な幻影で、どこまでが本物なのかを論じるべきモノなのだと――。
「エイトくん……」
――名を呼ばれ、ハッとして振り向く。
それは柔らかい母の声……ではなく。
見れば、リビングの入り口にはいつの間にか九瀬が立っていた。彼女はもじもじと所在なさげに両手を組み、何の配慮か視線は床のあたりを彷徨っている。
「その、勝手に入ってごめんね。少し出てくるのが遅かったから気になって……声をかけたんだけど返事がなかったから、だから……」
旧都内ということもあり、心配して確認しに来てくれたのだろう。それでも申し訳なさそうなのは彼女の人柄……というよりは
だってそうだろう。
今回はおまえの勝ちなんだから、勝者は笑ってくれないと。
「……その。ありがとな、九瀬」
「え? エイトくん?」
感謝の言葉はするりと自然に。
“物にも思い出は宿る”。彼女が教えてくれた、本当に大切なことだ。
「冷静に考えればさ。おまえの作戦だって悪いものじゃなかったし、おまえがリーダーなんだから俺も従うべきだった。なのに俺がこのマンションに拘ったのは……たぶん、怖かったんだ。自分の過去と向き合うことが」
だから、壊れても仕方がないと言い訳して。本当は壊して欲しかった。まるで0点のテスト用紙を捨てるように……本当に、我ながらなんて愚か。それで過去が変わるわけでもないのに。
でも、そんな俺の間違いを、彼女が正してくれたんだ。
「おまえの無茶を許したわけじゃない。でもそんな無茶のお陰で、俺は自分の過去と向き合えて、それが大事なモンだって分かった。おまえのお陰で……それは、事実だ。
――だから、ありがとう、九瀬。俺の思い出を守ってくれて」
自然と口元が綻んだのは、たぶん嘘のない感謝の表れ。
そんな俺の心からの想いが、いったいどこまで伝わったのか。
「――うんっ。どういたしまして、エイトくんっ!」
九瀬は彼女らしい大袈裟な、全部の苦労が報われたみたいな笑顔で、俺の感謝を丸ごと受け止めてくれたのだった――。
もう少しだけ居させてくれ、と九瀬に伝言を頼み。
俺は独り、この部屋との最後の別れを惜しんでいた。
取り戻した思い出が、廃墟に過去の色彩を与える。
ここが父と母の過ごした場所。
ここが“俺”の始まった場所。
そうだ。
何にも劇的ではないけれど、あの日から“俺”は始まったのだ。
――無駄はキライ。余分は要らない。穴倉で安眠できればそれでいい。
無駄なことで傷付くのは嫌だ。それは無駄なことだから。
挑戦なんかしたくない。高く飛ぶほど、墜落したときは痛いから。
何も、愛したくなんかない。だって、あのとき父は泣いていたから……。
それが起源。
今の悲観的な俺の
けれど原点を自覚した今ならば、もう少し別の自分も探せる気がする。
だって……あのカーペットを残したということは。
たとえ失敗に終わったとしても。父さんは俺の挑戦を、息子の初めての母の手伝いを、いつまでも憶えていたかったのだろうから――。
「……なんて、少し都合が良すぎるかな」
人間にとっての過去はしょせん、時間に押し流される蜃気楼。
この曖昧な幻影が本物かどうかは分からない。もう父も母も居ないのだから、確かめる術はどこにもない。
だが、きっとそれでいいんだ。
誰もが子供で止まってしまえば、世界はどこにも進めない。
過去には決して戻れないからこそ、人は今を全力で生きていけるのだから――。
だから、俺ももう行かなくては。
今の俺が守るべき人たちが、この家の外で待っている。
そうして、俺は冷え切ったリビングの扉に手をかけて。
「……行ってきます」
最後に、室内を振り向いてそう言った。
もう二度と戻ることはない生家。
過ぎ去った幸福の名残、その姿を目に焼き付けるために。
たとえ何十年が経とうとも、この胸に星座が輝くのを願って――。
――ありがとう、さようなら影宮家。
思い出と沈むその眠りが、どうか安らかなものでありますよう。
4/
部屋を出たところで、双咲アリサに呼び止められた。
「エイト。ちょっと来なさい」
「……何だよ」
有無を言わさぬ口調で呼ばれ、九瀬とナナ子を置いてエレベーターホールへ。
二人がついて来ていないことを確認して、双咲アリサは言った。
「じゃ、脱ぎなさい」
何の誤魔化しもない、真っ直ぐな赤青の瞳。
そうかー、わざわざ何の用だと思ったけど、俺の服を脱がせたかったのかー……って、
「……はぁ!?」
全力で後じさる。
驚愕のあまり数分前の感動も全部吹っ飛んだ。
マジで何を言ってるんだおまえ!? という俺の狼狽も全く無視して、壁に追い詰められた俺に遠慮ナシで手を伸ばしてくる双咲。
「いいから早くしなさいよッ」
「な、ちょ、待、服に手をかけるなっ。やめろマジ叫ぶぞ!?」
「うるさい、アンタだって一度アタシの裸を……ああもう、とにかく言う通りにする!」
ぐいぐいとシャツを引っ張る双咲と、その手首を何とか押し留める俺。廃墟のエレベーターホールに取っ組み合いの息遣いが響く。中々に酷い絵面は、異能者どうし膂力が拮抗しているため決め手に欠け、これまた中々終わらなかった。俺も必死だ。だって本当に意味が分からないし、旧都で服脱ぐとか自殺行為だし、恥ずいし怖いし俺たちそんな関係じゃないんだし……!
そんな俺の抵抗に業を煮やしたのか、怒りに燃える瞳で双咲が叫ぶ。
「この、脱げって言ってるでしょうっ。
ぴたり、その一言で時が止まった。
知らず抵抗の力が失われ、それを見て双咲も手を引いた。ただし、その目つきはとても見逃してくれるものではなかったが。
「……分かったよ」
観念して自分から服を脱ぐ。ただし上半身だけ。
双咲の言ったことの意味は俺が誰よりも分かっている。
だから、そのまま大人しく背中を向けた。
背後で双咲が息を吞む気配。
そりゃあ人生でもかなり上位にくるだろう痛みだけど……
「……防刃制服の上から、滅茶苦茶に斬り付けられたみたいな傷……最初の、ヒカリを庇ったときね」
「……ああ。正直に言えば、これを喰らったお陰で奴の能力が分かったし、最後の攻撃の威力も上げられたんだ。結果オーライってやつだよ――痛っ!?」
背中から脳を駆け上がって来た電流に思わず叫ぶ。双咲の指が、怪我の深刻さを教えるように背中の傷をつついたのだ。
「何が結果オーライよ。アンタには見えてないんでしょうけど、内出血で肌がドス黒く変色してるわよ。ホント、よく隠し通せたモンだわ……ねえ。コレ、どうするつもり」
「……学園の『保健室』で治す。九瀬に頼んだらバレるからな」
背を向けたまま、それまでは我慢するさ、と笑い飛ばす。確かに痛いは痛いが、別に死ぬような怪我じゃないし。
そもそもの話。
俺の異能の真価――『受けた
当然だろう。優しすぎるどこかの誰かさんに、自分を守るために傷付いた、なんて勘違いをされては困る。俺の非才は俺の問題で俺の責任。だが……世の中にはそう思えないやつも居る、という話。
「このこと、ヒカリには」
「――言うな。頼む」
背を向けたまま頼み込む。
隠し事をする、と言うと後ろめたい響きを払拭するための、精一杯の誠実さを籠めて。
「あいつは……九瀬は優しいから、人の痛みに共感し過ぎる。でも、一人の傷で二人が痛いってのはさ……そんなのは無駄、無意味だろう。傷が痛いのは本人だけでいい。前に言ったよな、俺は無駄なことは嫌いだって」
そうだ。これは別に優しさとか遠慮じゃない。
これは単に、俺自身が無駄なことはキライってだけの話で……少なくとも、今はそういうことにして欲しいのだ。
そんな訴えがどこまで双咲の心に届いたのかは分からない。
彼女は、ただ……肯定するでも否定するでもなく、ただ俺の身を案じるように尋ねてきた。
「……ねえエイト、アンタはソレでいいワケ? だってアンタは、あのとき――」
「忘れたよそんなの。それに、おまえが知ってるだろ。俺はそれで充分だ」
一方的に言い切って、俺は脱いでいた制服をいそいそと着直す。
それが傷を隠すためか、双咲の顔を見ないようにするためかは、自分でもよく分からなかった。
そんな俺の耳に届く、彼女らしくない弱弱しい声。
「…………ソレ、ズルよ。そんなコト言われたら何も言えないじゃない、バカ」
ホールに消えていく骨のない罵倒。
殊勝な態度、拗ねたような声音が、本当に彼女に似合っていない。
が、今はその可愛らしい優しさが素直にありがたかった。
「悪いな。正攻法じゃ生き残れなかった凡人なもんでさ」
あえて普段の調子で冗談めかして、キッチリと制服のボタンを留める。
この時間の終わりを一方的に告げるように。
「じゃ、話は終わりってことでいいよな」
「……ええ。先に、行ってて」
「? いや、一緒に――」
「いいから」
……どうも怒らせてしまったらしい。「先に行け」というのは、しばらく一人で頭を冷やす、ということだろう。
覇気のない様子に少しだけ後ろ髪を引かれたが。
結局、双咲の有無を言わさぬ口調に押されるように、俺はエレベーターホールを後にした。
影宮エイトが去ったエレベーターホールで。
独り立ち尽くした双咲アリサは、間近で見た彼の傷を思い返していた。
『言うな。頼む』
あんなにも真剣に頼まれたなら、彼女であろうと無碍にすることはできない。いいや、遠慮のない関係だからこそ、その言葉がどれだけ重いかも分かってしまうのだ。
ぎり、と歯を食い縛る。
彼女は分かっている。傷を治す異能者の前で傷を隠すなんて、どう考えても健全ではない。九瀬ヒカリの感性は彼女自身の問題だ。アリサから見たエイトの配慮は、仲間に対するものにしては行き過ぎている。
それでも、言えない。
間違っていることには異を唱えるのが双咲アリサなのに、こと彼を前にすると、彼女は普段通りの自分では居られなくなる。
『それに、おまえが知ってるだろ。俺はそれで――』
……あのとき。アリサに背を向けたままそう言った彼は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
それが見えていたら……もしかしたら、気持ちに諦めがついたかも、なんて。
……いいや、やっぱり見えなくてよかった。嘘や強がりならまだいい。だが、あれが彼の本心だとしたら、自分は今以上に貶められる。だから、答えは知らないままでいい。
とはいえ……実際、既に手遅れではあるのだろうけれど。
「――ねえエイト、アンタさ。
アタシが黙ってる理由が、ちっぽけな独占欲だって言ったら……」
笑うわよね、と。
独り呟いた声は、双咲アリサにまるで似合わない、本当にボロボロの恋だった。
分かっている。九瀬ヒカリの気持ちくらい。
分かっている。影宮エイトの気持ちだって。
そこに余人が入り込める隙間はない。そもそも双咲アリサにとって九瀬ヒカリは本当に大切な友人。あの子には笑顔で居て欲しい。だから裏切れないし、奪えない。
でも……なら、せめて秘密のひとつくらいは、なんて。
そんな自分が余りにも浅ましくて、愚かしくて、だから彼女は
光があれば影がある。
誰にだって隠し事のひとつやふたつ存在するもの。それはタイマーの隠された時限爆弾の如く、いつ爆発しどのくらいの損失を齎すのかは、そのときまで誰にも分からない。
とはいえ……少なくとも。そんな秘密が明らかになるのは、この朽ち果てたマンションではなかった。
運命は未だその影を見せず。
双咲アリサは秘めたる想いを隠したまま、立ち去った影宮エイトの後を追った。