花音が三年生だったときの話です。
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クラゲの葬式

 

 眠りから目覚めた花音を待ち受けていたのは、圧倒的な倦怠感だった。

 

 先刻まで確かに見ていたはずの夢がさらさらと崩れさり、崩落と共に舞い上がった夢のかけらたちが、カーテンの裾から漏れる太陽の光を透かしてきらきらと輝いている。白い清冽な光は、相手コートとの境に真っすぐにひかれた白線のように夢と現実とを綺麗に両分して、身体は現実の目覚めへ、夢のかけらたちは空へ、それぞれがあるべきところへ還ってゆく。

 

 光を浴びた身体が現実と快活に挨拶を交わしている一方で、なおも意識は見苦しく現実に抗していた。あきらめの悪い意識は、夢のあの柔和な怠惰を絶対に手放したくないとばかりに、あたりに散らばった夢のかけらたちを必死になってかき集め、秘密の金庫にせっせとため込んでいたのである。

 意識のそんな愚行のために頭はどんよりと物憂く、花音は、砂と土の代わりに夢を満載した土嚢が、自身の首の上にどんと載っかっているような気がした。

 

 だが、幸か不幸か、夢を檻に入れてとどめておくことなど誰にもできはしない。夢のかけらたちは、倉庫の番人も気付かぬうちに袋の破れ目からするすると抜け出し、たとえその破れ目の一つをふさいだとしてもすぐにまた別の抜け穴を見出して、その逃亡が発覚した時には、すでに夢の倉庫はもぬけの殻になってしまっている。夢を捕まえることなどできない。その単純明快な事実を目覚めの度に人は知り、しぶしぶ夢を手放すのである。

 

 普段であれば、そうして出来た空洞をどこからかやって来た理知が埋めるはずなのだが、いつまでたっても脳内はがらんとしたままで、しばらくの間、花音は何も考えられずにぼうっと中空を眺めていた。こんな寝起きの姿態は人類みな共通であろうが、今回はそれが特別ひどい。理由は簡単で、今日は珍しく二度寝をしてしまったのだ。

 

 二度寝の罪の味を余すところなく感じ取った後、花音はいつもの習慣でベッドわきのカーテンを開いた。煌めく陽光がスポーツカーのように眼前を駆け抜けて、思わずぎゅっと目をつむる。瞳の中に滑り込んだ光が、まぶたの裏をキャンバスにして暗闇の中にまだら模様の絵画を描いた。時と共に滲むように闇へと溶けていく光の絵具を見届けてから、おずおずとまぶたを開く。

 

 2階の部屋から見る窓の外の景色は、雨上がりのアジサイじみたみずみずしさを湛えていた。水をたっぷり含んだ水彩画の丸い筆が街の隅々にまで行き届き、隣の家の屋根瓦や道路のマンホール、遠くにみえる駅前のビルまでもが、あの透き通るような色に塗り替えられている。絵筆をふるったのは、昨夜やってきた台風に違いなかった。彼は初めて絵具セットを使う小学生のように、これでもかとばかりに筆を水浸しにして、紙がふやけるのも構わず自分の心の赴くまま手を滑らせたのだった。

 

 予報では昼まで雨が続くとのことだったが、飽きっぽい台風はそんな予報をまったく無視して足早に去っていったらしい。台風一過の空には雲一つなく、見渡す限りの果てまで青色の絵具が穏やかに広がっていた。そのただ中で煌々と光る太陽は、ビーチチェアでくつろぎながらつらつらと海を眺めている海水浴客さながら、夏を満喫しているように見える。

 

 その時、花音の心に、何かの影が擦過した。鳥が地面に影を落としながら飛んでいくように、遠いところにある何かの影が心のうちを通り抜けたのだ。過ぎ去ったその影は、一体どういった種類の感情だったのだろう。心の裡を確かめても、花音にはその影を掴むことができなかった。認めることのできた唯一の感情は、窓の外の景色が自分の予想と異なっていた、ということだけである。

 

 本当ならば――花音の予想では――街はこんなにも健康でなかった。街は、暴風にその身を千々に引き裂かれ、豪雨にその肌を穿たれたはずであり、赤黒い包帯の下に生々しい傷跡を残していなければならなかった。しかし包帯を取り去った下から現れたのは、傷痕など微塵もない、むしろ清潔な白さによって怪我をした箇所だと判別できるようなあの青白い肌である。その肌を花音は幽霊の肌のようだと感じた。街の健康がひどく不気味に見えた。

 

 壮健な街の姿をなぜ喜ばしく感じられないのだろう。寄生バチに卵を産み付けられた芋虫のように、見慣れた街の内部で何かが人知れず変わってしまったのだろうか。あるいは、そうでないとしたら……。

 ――こんなとりとめもない思考を弄するくらいには、意識はもうすっかり覚醒していた。

 ふと、空腹感が頭をよぎる。自足した精神が、未だうだつのあがらぬ身体に対して不平を並べ立てているのである。思えば今日はまだ何も口にしていない。遅めの昼食をとるために、花音はリビングへと向かった。

 

 

 家族がそれぞれ用事のために、家中はしんとしている。

 誰もいない薄暗いリビングは、窓から差し込む西日によって紅葉していた。夕焼けにはまだ早い時間で、空は変わらず青々としているのだが、斜めに差し込む光の中から夕焼けの予感を抱いた部屋は、青空がいつかなりたいと夢見ているあの朱色の、狂喜の色をすでに身にまとっていた。窓のそばにあるソファーはまさに熟れた盛りの柿色に染まり、その上に並べられたクッションなども遍満する光を順番に分けあって、紅から萌黄のグラデーションをやわらかな布地に浮かべている。

 

 西日に温められた部屋の中は流石に暑く、リビングに降りて一分と経たないうちに肌はじっとりと汗ばんだ。部屋の奥にあるキッチンへと進み、冷蔵庫から麦茶を取り出す。取り出した後で、冷蔵庫の中段にラップをかけたピラフがおいてあるのに気がついた。

 ラップの上にはちょこんとメモが載っていて、“ライブ中止になって残念だったね、今日はゆっくり休んでください”と書いてある。

 

 ――ライブ中止。花音はその文字列を、歴史の教科書に太字で書かれた大事件を見るかのように見た。それは、確かに自分が直面した出来事であるはずなのに、はるか昔にどこかの国で起こった、自分とは何ら関係のない出来事としか思われなかった。

 

 メモをよける。600Wで1分10秒温める。温めている間にスプーンと麦茶を注いだコップをテーブルの上に置く。電子レンジが作業の終了を告げる。ピラフを取って席に座る。

 手を合わせ、いただきますと小さく呟いてからスプーンを手に取った。スプーンを持ち上げた丁度その時、手元が狂ったのか不意にスプーンの先が食器の端に触れて、陶器と金属とがかち合う鈍い音がリビングに響いた。

 その大きく響いた音で、花音はこの空間の静けさが持つ、常ならぬ異様さに気が付いた。静寂は、投げこまれた石を黙って呑み込んで、そこからゆったりと波紋を広げるような張りつめた水面の静寂ではなく、段ボール箱に詰めこまれた緩衝材のような、空間を窮屈に圧迫する静寂だった。音はその静寂の壁の中で自由に飛びまわることもできず、静寂の反響板に跳ね返されてはまた元の場所に戻ってきてしまうのだった。

 呼吸音や、鼓動や、唾を呑み込む音が、その静寂に圧されていやに大きく聞こえる。自分の中にある精密な機構の駆動音を聞くたび、意識は自然と自分自身に向けられた。花音は、全ての行動の経過と結果が音の報告書にのって逐一報告されるそのシステムに、常に内省を強いられているような気がした。

 

 ともあれ、いつもならうるさいくらいの生活音でごった返すリビングにおいて、この静寂は不自然であった。花音は、ほとんど日常的な動作で近くにあるリモコンを手に取ってテレビをつけた。たいてい夕飯時などは、こうやってリモコンを手にすると、横から弟がやれサッカーが観たいだのと言い出し、母親は母親で、サッカーに変えてもいいがクイズ番組が見たいから7時からは8チャンネルにしてねと釘を刺すので、特に見たい番組もない花音がリモコン奉行として、見られない裏番組を録画したり、CMのわずかな間にチャンネルを切り替えて試合のスコアを確認させたりときりきり舞いに立ちまわっているのだが、当然今はそんな必要もなく、たまたま流れていた午後のニュースをピラフを食べながらのんきに眺めているだけでよかった。

 

 ニュースでは、大手製薬会社の脱税問題が報じられていた。アナウンサーのいるスタジオから不祥事のあった会社のビルへ、ビルから会見のシーンへと画面は目まぐるしく移り変わった。

 ちら、と右上の時刻を見ると、4:06と表示されている。あと一時間と少しだ――と花音は無意識に残り時間を計算した。計算した後で、もうそんなことをする必要はないのだと気づいた。午後五時半から始まるはずだった水族館でのライブは、無くなったのだ。

 

 水族館は今頃どうなっているのだろう……。

 ガラスに守られた生き物たちはきっと無事であるに違いない。サファイアの中に入り込んだかのような水族館の澄んだ青さは、寸分の狂いもなく今も保たれているに違いない。普段と違うのは、そこに活気がなくて、客が一人もいないということだけだ。

 

 記憶を頼りに水族館の展示を一つ一つ思い浮かべてみる。

 砂の中からひょこっと顔を出すチンアナゴ。風に弄ばれる銀色の旗みたいなイワシの群れ。水を切って独り悠々と泳ぐトラフザメ。空を飛ぶペンギン。大道芸を披露するアシカ……。

 心の奥底にある無人の水族館を巡るうちに、花音の足はひとつの水槽の前で我知らず止まっていた。さながら、初めてこの水族館に来た時と同じように――。花音が立ち止まったのは、視界いっぱいにクラゲの広がる巨大な水槽の前だった。

 

 誘導灯の仄かな光さえない暗い空間で、映画館のスクリーンのように白々と聳え立っている水槽。そして、観客を半円状にぐるりと囲い込むその光の海の中を、磨きたての歯のように煌めきながらクローバー模様の傘をタプタプと波立たせて浮遊する無数のクラゲたち。

 実のところ、彼らは流れに身を任せているだけで、自らの意思で泳いでいるわけではない。水族館でぐるぐると回っているのも、壁にぶつかってケガをしない程度の弱い水流を水槽内で作っているからで、クラゲはほどんど流されているだけだ。

 花音がその事実を知ったのはいつだったろう。小学生の頃、親にねだって買ってもらった『海の生き物大辞典』を読んだ時だろうか。それとも、クラゲの水槽の横にある展示にあたっての解説を見た時だろうか。記憶の砂漠は見渡す限り平板に広がっていて、その発端は定かでない。

 

 ただ、一つだけ確かなことがあった。それは、クラゲが泳げないという事実を知ってから、はっきりと彼らを好きになったということだ。

 

 確かに、クラゲは泳げない。だが、クラゲが海を漂う時、実際はただ流されているだけだったとしても、彼らにとってはそれが泳ぐということだった。道迷いで街を彷徨と歩くことがあてどない気楽な散歩に変わるように、行く先が分からず呆然と立ち尽くすことがリフレッシュのための一息になるように、クラゲは事実に“魔法”をかけることができた。現実の複雑な布地を、たちどころに自分好みの服に仕立てあげてしまう魔法――。水槽の前に来る人たちは誰もがこの魔法にかけられ、彼らが水の中を自由気ままに飛翔する様に見とれてしまうのだった。

 

 だから花音はこのクラゲの水槽が大好きだった。そして、そんなクラゲたちの一大パノラマが広がる水槽の最前列こそがハロハピのライブステージだった。

 メンバーみんなで水族館に行った時、花音がぽつりとつぶやいた一言があれよあれよという間に大ごとになって、気がつけば、水族館のクラゲたちと共演することになっていたのである。静謐な空間は、音と光と笑顔でサーカス小屋に改築され、銀幕のスターはスクリーンからステージに引っ張り出される。音楽も、ハロハピが全面に出るのではなくて、主演であるクラゲを引き立たせるような曲調になっていた。

 

 そんな、クラゲのための愉快なお祭りが開催されるはずだったのだ――。そう、台風が直撃するという予報が出るまでは。

 

 台風の進路が一日おきに首都圏を通るよう修正され、気象予報士がしきりに警戒を呼びかけるようになると、水族館はお客さんの安全のために臨時休業することを決めた。こころの元にかかってきた電話では(勿論黒服が応対したわけだが)、水族館のスタッフはこちらが申し訳なくなるくらいの平身低頭だったらしい。もしかすれば、それでもこころならば、なにかこの状況を打破するパワーがあっただろうか。しかしその話を聞いて、真っ先に中止の提案をしたのは他ならぬ花音だった。迷いが無かったと言えば嘘になる。ただ、ハロハピのライブのために台風の中水族館にくるかもしれないお客さんのことや、水族館を守るために奮闘しているスタッフのことを考えれば、答えは一つしかなかった。自分がきっかけとなったライブならば、その最期を決めなければならないのも自分だ。臨時休業の公式発表が昨日のお昼にあり、その後は努めて明るく振舞っていたものの、今朝は起きる気にもなれず二度寝してしまったのである。

 

 テレビに意識を戻すと、当然というべきか、ニュースは今朝やって来た台風の特集になっていた。先ほど窓から見た限りでは街は普段と変わりなかったが、ニュースでは特に被害のひどかった地域がクローズアップされ、道路に放り出された看板や横倒しになった街路樹の写真が入れ替わり立ち代わり現れた。

 

 中でも特集の目玉は、高潮の被害にあったホテルだった。「ガラス割れ 5人けが」というテロップと共に映し出されたホテルは、その白い巨大な体を胸をはるように堂々と海に突き出した姿が印象的なホテルで、海側の端の方などは太い柱を杖に海の上に乗り出しており、陸の建物というよりかは、今から出港せんとする豪華客船のようにも見えた。

 カメラはホテルの遠景をしばらく映した後、思いだしたかのようにぐいっと低層階をズームして、割れたガラスと、そこから覗く赤い絨毯の大食堂と、その上でせわしなく働いている白いヘルメットをかぶった作業員たちを映した。どうやらそこが、このホテルで一番被害の大きいところらしかった。

 

 続けて紹介された視聴者提供の動画は、壮麗な大食堂の窓ガラスに白波が体当たりする様が良く撮れていた。白波はガラスの向こう側で幾度も飛び上がり、その跳躍の度、白い波しぶきのカーテンが窓を覆った。花音は、イルカショーの終演間際にあるイルカたちからのお土産を思い出した。中空で一回転を見せたイルカが水面に飛び込んだ時に押し寄せる波が、最前列に座る勇敢な子供たちの顔めがけてアクリルガラスにぶつかるときの、あの一瞬の白い閃き。辺りに響き渡る悲鳴に似た歓声。そして、ついに波が壁を乗り越えていく様。記憶にあるそのどれもが、動画の光景と瓜二つだった。ただ一点、ガラスが突き破られるという結末を除いて……。

 

 被害の全容が粗方語られると、舞台はスタジオから現地のリポーターへと移った。リポーターは、ホテルのエントランスを背に「海との近さがこのホテルの売りでした」と神妙な顔で話し始める。話に合わせるようにカメラもぐるっと振り返り、エントランスの前を通る道路から一段下がったところにある砂浜を映した。

 

 台風の後の砂浜は、小学校の校庭で行われるフリーマーケットに似て、ベージュの砂地の上に、どこに行ったって売れそうもないガラクタたちを所狭しと陳列していた。ずたずたになった流木、赤いポリタンク、キャップの外れたペットボトル、丸いぶい、洗濯かご、シャンプーのボトル……。カメラが、売れ残った商品たちを右から左へと嘗め回すように映していく。それらはいずれも、一度海に与えられ、そして今度はその不必要から海が陸に無理やり売りつけたものたちだった。砂のほこりをかぶって、じっとうずくまっている商品たち。誰かがただで拾い上げるか、海が買い戻すまで、彼らはそこで待っていることしかできない。

 

 その時である。

 

 あ、と花音の口から声が漏れた。ふらふらと砂浜を彷徨っていた視線がある一点にくぎ付けになる。画面の右下、波打ち際の、あの波と陸とが交互に領していく境界線に打ち上げられた大きな一本の流木――その流木に寄りかかるようにして、透明なゼリー状の物体がべったりと張り付いていたのである。

 

 すぐに分かった。それは、クラゲの死体だった。

 

 ……すでにニュースは次の話題へと移り、あの錯雑とした砂浜は消え失せている。

 花音は、今しがた見てしまったものを振り払うように画面から目を背けた。しかし、部屋の白い壁を見ても、食べかけのピラフを見ても、あのクラゲの姿が強い光を見た後に残る影のように視界の端にしつこくまとわりついて、どこまでも追いかけてきた。それはまさに、本来見てはならぬはずの世界のグロテスクな正体だった。

 

 事実に魔法をかけ、現実の呪縛から自由だったはずのクラゲの結末。あんな最期は、クラゲには到底似合わなかった。マジシャンが舞台から退場する時のように、死すら欺いて、瞬きの間に音もなく姿を消してほしかった。

 しかし、残酷にも現実は違うのだ。手品には種があり、マジシャンは本当の魔法使いではない。確かにクラゲは、事実のか細い綱の上を自由に渡り歩くことが出来たかもしれない。目を覆うような危険や引き裂かれるような不安をその巧みな技で笑顔へと変えられたかもしれない。ただ、それは事実そのものを捻じ曲げたのではなく、事実の見せ方を変えただけだ。危険な綱渡りを、愉快な曲芸に変えただけだ。やがて本当の危機がやって来る。突然、ピンと張られた綱の片方の端がちぎれて、力をなくした綱が、失神した人のようにもう片方の端の方へ倒れこもうとする。その時、綱の上の軽業師にいったい何ができるだろう。

 

 事実そのものが泰然と鎮座している以上、ごまかすにも限界があるのだ。自身の望むままに事実の海を泳ぎ観客を楽しませていたクラゲが、圧倒的な事実に押し流され、ずたずたの死体となって現れたように。魔法は失われていた。死はどこからどう見ても死のままだった。

 クラゲでさえ事実に呑み込まれてしまうというのならば、きっと誰しもが、逃れようのない事実に押しつぶされてしまう時が来るのだろう。そこまで考えて、花音はぞっとした。

 

 テーブルの上に置いてあるスマートフォンが震えた。思索から逃げるようにして画面を見る。一件のメッセージ。

 

(美咲ちゃんからだ……)

 

 メッセージはハロハピのグループからでなく個別に来ていた。トーク画面を開くと、ぽこんぽこんと追加で新しいメッセージが書き込まれていく。

 

「今からCiRCLEに来れませんか?」

「急な話なんですけど」

「花音さんに見せたいものがあって」

 

 美咲と二人きりでどこかへ出かけるというのは別段珍しいことでもないが、突然、夕方からCiRCLEに、という誘いは今までにないことだった。

 見せたいものとはいったい何だろう……頭の中でいくつかの候補が浮かんでは消えていく。タイミングを考えれば、中止になったライブと関係がありそうでもあるし、逆に次のライブの話かもしれない。あるいはもっと私的な、ハロハピと何ら関わりのないものかもしれない。好奇心が膨れ上がる一方で、誘いを断る理由はかけらもなかった。ペンギンが両手で丸印を作っているスタンプと、大体の到着時間を送信する。すぐに「待ってますね」と返信が来る。

 ピラフはまだ三分の一ほど残っていた。食欲はとうに尽きていた。花音はごめんなさいと心の中で小さく呟いて、皿を手に取り冷蔵庫へ向かった。

 

 

 CiRCLEに着くと、開けたところに出たせいか、台風の名残のような一陣の風が花音のわきをかすめるようにびゅうと吹き抜けた。いまだ気温は高く、うだるような暑さが世界を支配しているものの、それでもこうして時折吹く涼しい風に夏の施政の終わりが近づきつつあるのを感じる。もう八月も下旬だった。明後日には夏休みも終わってしまう。

 

 花音は、美咲の姿を探して屋外にあるカフェスペースを見渡した。普段から待ち合わせなどでよく使うことのあるカフェスペースは、台風対策のためか椅子が全て取り払われており、地面に固定されたテーブルだけがキノコみたいに林立している。……辺りに美咲の姿はない。たぶんCiRCLEの中にいるのだろうと思ったが、入り口の扉に貼ってある臨時休業のお知らせを見た後では、とても一人で入る気にはなれなかった。

 

 ちらりとスマホの時計を見る。予定よりも幾分か早い到着である。花音は、少しここで待っていようと思った。手すりに背を預けると、視線は自ずと空へ向けられた。

 もうすっかり夕方だった。空の低いあたりがオレンジ色にじわりと照らされて、ここから直接見えるわけではないが、太陽が今にも地平線の下へ滑り込もうとしているのが分かる。そして落ちていく太陽を追うようにして天頂から紺地のカーテンがするすると下ろされ、その端の方で昼と夜とがせめぎあっている。逃げる昼、追いかける夜。果たして昼は夜から逃げおおせたのだろうか、それとも、夜に追いつかれてしまったのだろうか。海と陸とが作りだす波打ち際にも似たその境目には、薄靄のような灰色の帯があやふやに蟠っていて、果たしてその灰色が、昼と夜とが溶け合った証拠なのか、昼と夜との絶望的な隔絶の証拠なのかは判然としなかった。

 

 花音は、昼と夜との追いかけっこを眺めながら、いつか聞いた『アキレスと亀』の話を思い出していた。亀は驚くべき秘法を駆使してアキレスから逃げ続ける。すなわち無限の魔法を使って――。観客を、世界を欺いて軽やかに走り続ける。だが、アキレスが亀に追いつくか否かなぞ誰もが知っている。その魔法がいつか破られるのだと知っている。容赦のない現実が、亀の尻尾を必ず掴むのだと知っている……。

 

 CiRCLEの扉が開いて、中から美咲が出てきた。まさか花音がもう到着しているとは思ってもないのだろう。こちらの姿に気づかぬまま、扉の傍で手元のスマートフォンを操作している。話しかけようと口を開いたちょうどその時、ぴこんという通知音と共に花音のスマホが震えた。反射的に手に取って、あ、と気づく。画面を見れば、当然それは美咲からのメッセージだった。「“CiRCLEの玄関前で待ってますね”」顔をあげると、音に気付いてこちらを向いた美咲とばったり目が合った。アリが触覚で互いをつつきあい仲間だと確認しあうように、一呼吸の間まじまじと見つめあってから、美咲が駆け寄って来る。

 

「すいません花音さん。結構待たせちゃいましたか?」

 

 申し訳なさそうな表情を浮かべる美咲に、花音はあわてて首を横に振った。

 

「ううん、今来たところだよ。中に入っていいのか分からなくて……」

「それなら大丈夫です。まりなさんにはきちんと許可をもらっているので」

 

 とりあえず中に入りましょうと美咲に誘導され、花音は扉の方へ向かった。取っ手に手をかけたとき、ふと、扉のガラスに映る夕焼けが目に入った。昼と夜とのあの競争はどうなっただろうか? 振り向いて空を仰ぎ見る。夕焼けの境界線は、寄せては返す波が陸にぶつかる際に吐き出すあの眩暈のようなあぶくの色に覆われて、先ほど見た姿のままどちらが勝ったとも言えない。

 

「きれいな夕焼けですね」

 

 花音の視線を追って夕焼けを眇めるようにして見た美咲が微笑んだ。とてもそうは思えなかった。花音の瞳に映るのは、迅速に退廃していく夕焼けだけだった。

 

 

 CiRCLEの中に入った花音の目に飛び込んできたのは、本来ならば外のカフェスペースにあるはずの大量の椅子たちだった。美咲は、台風から緊急避難してきたその椅子の群れをかき分けながら受付の方へ進んで、奥に向かって「まりなさーん」と呼びかける。

 

 「はーい、今行くねー」とすぐに返事があって、奥から珍しくラフな格好をしたまりなさんが顔を出した。「あ、花音ちゃん! こんにちは」と声をかけられて、花音も挨拶を返す。

 

「まりなさん、少しの間スタジオ借りますね」

「うん! 今日は本当に助かっちゃった。好きなだけ使ってよ」

「ありがとうございます。終わったら残りも……」

「いいよいいよ。お昼から手伝ってもらったんだもん。あとは私に任せて!」

 

 まりなさんがにこりと笑って、美咲にスタジオの鍵を渡す。美咲は、近所の人から大仰なお土産を貰ったかのように恐縮しながらその鍵を受け取り、「行きましょうか」と歩きだした。「行ってらっしゃーい」というまりなさんの声を背中越しに聞きながら、花音もついていく。

 

 スタジオに向かう道中で、花音は気になっていたことを聞いた。

 

「ねぇ美咲ちゃん、今日は臨時休業なんだよね? まりなさんが、お昼から手伝ってもらったって言ってたけど……」

「あーそれがですね」

 

 美咲は「大した事じゃないですよ」と前置きしてから続けた。

 

「スタジオを借りられないかなーと思って、お昼に電話したんです。そしたら、今日は臨時休業だけど、備品の整理とかを手伝ってくれたら特別に使っていいよという話になりまして……というか、あたしが結構強引にお願いしたんですけど」

「そうだったんだね……それなら、私もこの後手伝うよ」

「いやいや! 花音さんは、ほんとに、あたしが勝手に呼びだしただけなので」

 

 でも……と食い下がるうちに部屋の前に着いて、花音は話の接ぎ穂を見失ってしまった。鍵を開けた美咲に続いて、薄暗いスタジオの中に入る。電気をつけようとして照明のスイッチに手を伸ばした花音を、「待ってください」と美咲が制止した。

 花音は驚いて美咲を見る。美咲は「えー……っとですね」と言い淀んだ後、照れくさそうにはにかんで言葉を継いだ。

 

「実は花音さんに聴いてほしい曲があって、明るい室内だと雰囲気が出ないかなーと」

「……うん。それなら、暗いままでも大丈夫だよ。でも聴いてほしい曲って?」

「まぁ、百聞は一見にしかずというか、一聴にしかずというか……聴いてもらえればすぐ分かると思います」

 

 そう言って美咲は、「どうぞ座ってください」と入り口の横に置いてあるパイプ椅子に座るよう促した。もともとスタジオに椅子は置いていないので、たぶん美咲が事前に用意したものなのだろう。花音の着席を確認した美咲が扉を閉じると、隙間から差し込んでいた廊下からの光も途絶え、部屋が一気に暗くなった

 

 まるで上映前の映画館にいるみたいだと花音は思った。今の自分の胸にも、騒がしい広告が終わって部屋がぐっと暗くなった時の、あの息を呑む様な緊迫と期待感が渦沸いている。

 美咲が、スマホのライトを頼りに部屋の中央に置いてある台の前に立った。そのまま台の上の何かを操作したかと思うと、機械の駆動音がして、ネオンライトじみた色とりどりの光がそこら中に飛び散った。

 

 美咲がこちらへと目を向ける。その顔は手元の機材の光に照らされて、美術室に長年置いてあるバケツみたいに極彩色に汚れている。花音は小さく頷いた。美咲が静かに目を閉じたのに合わせて、花音も目を閉じる。

 

 暗闇の世界に没すると、視覚や触覚はすぐさま切り捨てられた。今欲しいのは音だけだった。全ての感覚を聴覚へと収斂させてゆく。目を凝らすように、ものに触れるように、花音はじっと耳を澄まして音を待った。

 

 ……初めに聞こえたのは優しい波の音だった。遠くからやってきた穏やかな波が、砂浜の上を、砂粒の一つ一つをしゃりしゃりと丁寧に咀嚼しながら滑っていく。健康な青年のようにこちらへと駆けてくる波は時間の経過とともに老いて、よろぼうて、ついに私たちの眼前で息絶えると、炭酸が弾けるような音を残して砂浜の中へ消えていく。一つの旅の終わり。しかし、すぐに次の波が、そしてその波を追ってまた次の波が現れ、旅の終わりはフーガのように何度も何度も繰り返される。

 どこかの浜辺のいつかの波。音楽に手を引かれながらその波打ち際をそっと歩く。だけどこれはintroだ。音楽がこのままじっとしているわけがなかった。

 

 瞬間、出航を告げる汽笛のようなギターの力強い響きが空気をガラリと塗り替えた。

 弦を一閃、華麗に振り下ろして弾き出したロングトーン。飛び込み選手みたいに水面へ一直線に躍りこむその音が、花音を海の世界へと引きずりこむ。

 

 紺碧の世界へドボンと入場した花音を、待ってましたとばかりに歓迎したのはベースとドラムスだ。早くおいでよと海の底から呼びかけるベース。その重厚なベースラインを追いかけてタムタムの鼓動を走らせるドラムス。もっと深い場所へ。もっと青いところへ。海流のようにうねる音楽に導かれ、花音も海底へのらせん階段を一歩一歩降りて行く。階段を踏み外す気はしなかった。だって、花音はもうこの道を知っていた。この曲は、水族館のライブで披露するはずだった新曲のイントロだった。

 

 忘れるはずがない。つんのめっては転び、つまずいては乗り遅れ、そのたびに立ち上がって覚えたメロディ。夏休み中、幾度となく皆と一緒に潜った海。

 水族館が、アクリルガラス越しにだけれど、人間をつかの間水の世界へ招待してくれるように、ライブに来てくれたみんなを音楽の船に乗せて深海の大冒険に連れて行きたい。そんな思いを込めた曲。

 

 けれど、何かが違う――と花音は思った。この海は、スタジオで練習した時のあの柔らかい音とは全然違う。夏休みの最後、気温も下がってきたころに曇り空の下で入る屋外プールみたいな、肌を鋭利に突き刺してくる水の冷たさがある。

 

 なぜだろう? 打ち込みの音源だからそう感じるのだろうか。薫さんやはぐみちゃんがここにいなくて、演奏中にしきりに交わす目くばせや、二人の息遣いが聞こえないからだろうか。

 そこまで考えて、ちょうどBメロに差し掛かるところでようやく気が付いた。この音楽にはボーカルのメロディが欠けていた。あの輝く太陽のようなボーカルが、ここにはなかった。

 

 音楽は、そんなことなどお構いなしに海の底めがけて一直線に突き進んでいく。だが、深く潜れば潜るほど、あれほど透明で美しかったコバルトブル―の海は徐々に濁っていき、学校の手洗い場で硯を洗う時のように、どこからかしみだしてきた闇が、たちまちすべてを漆黒の布で覆い隠してしまった。濃青の下地に色とりどりの珊瑚や魚が配されたあの鮮やかな海はもはや遥か彼方に消え、代わりに、何も見ることの叶わぬ暗闇の世界が立ち現れた。これこそがまさに深海の本当の姿だった。

 

 太陽の光の届かぬ、暗く寂しい深海……。ハロハピは、こんなところを目指していたわけではなかった。こころちゃんがいて、薫さんとはぐみちゃんがいて、華麗に変身した美咲ちゃんがいて、ステージがあって、お客さんがいて、クラゲがいて、そしてたくさんの笑顔があって――。それが私たちの目標だった。実現されるべき音楽だった。しかしそのすべてが、理不尽によって奪われたのだ。ボーカルのないこの深海のような音楽こそ、ライブが中止になったということの何よりの証左だった。

 

 美咲ちゃんはどうしてこの曲を私に聞かせたのだろう。どんな意図があったにせよ、できるならば悲しみのままに受け止めたくないな、と思う。

 

 花音は自らの心の形を確かめようとそっと手を差し伸べて、胸の内になみなみと湛えられた感情の、その冷たさに慄然とした。それは、海の底でどうしようもなく横たわる水のぞっとするような冷たさだった。これが自分の心だとは思いたくなかった。冷気にしびれる指先で丹念に隅々までをなぞってゆくと、突然、がくんと地平の途切れるところがあった。ひざ下ほどの高さかと思えば、一メートルも進まぬうちに大人をも飲みこむ水深になる急流の川底のような、断崖絶壁の深い谷に指は触れていた。胸に鋭い痛みが走る。何かに抉られてできたようなその谷は、かさぶたにさえなっていない痛々しい傷跡だった。

 

 花音は、このとき初めて胸の奥に刻まれたその傷跡に気がついたのである。

 

 ――いや、本当はずっと前から知っていたのだ。そこに傷があることを、心が痛みに喘いでいることを。分かっていて、それでもなお無視し続けてきたのだ。それも、自意識を巧妙に欺きながら……。

 だからこそ、今まで気づかなかった虫刺されを自分の目で見て意識した途端、急にかゆさを感じるのと同じように、隠されていた傷跡に直面した今になって、じくじくとした痛みが生まれたばかりの新鮮さで花音を襲っているのだった。

 

 ふいに、眉間のあたりにぎゅっと力が入る。目じりが強張って、鼻の奥がつーんと痛みだす。心の苦しみを知った身体が、同情して泣きだそうとする。

 それでも、泣くわけにはいかなかった。花音は顔を引き締めて、今にも決壊しそうな想いを必死に押しとどめる。泣いてしまえば認めざるを得なくなる。自分の心のうちにある感情が悲しみであると確かめられてしまう。

 

 悲しい出来事があって、悲しくなって、泣いて……。もしかすれば、それが普通の人間で、普通の世界で、普通の考え方なのかもしれない。だけど、そんな世界は、悲しみが悲しみのまま受けとめられる世界は、嫌だった。悲しい出来事に直面しても、泣いている人がいても、全てを笑顔にしてしまいたかった。

 

 そして、そんな奇跡みたいな魔法を持っている存在こそ、クラゲだった。

 彼らは一つの事実をこなごなにして、散らばった無数の断片から、また新たな事実を、それも彼らの望み通りの事実を作り上げることが出来た。漂流を遊泳に、道迷いを散歩にかえてしまう彼等ならば、どんな悲しみだって喜びにかえられるはずだった、たとえそれがライブの中止だろうと、そこから瞬く間に笑顔の種を見つけ出してくれるはずだった。彼らについていけば、世界に悲しみなど存在しなかった。

 

 ……でも、本当は違ったのだ。魔法は万能ではなくて、揺るがせにできぬ理不尽な事実がいつか襲い掛かって来る。そして、何にも縛られることも無く優雅に海を舞っていたクラゲでさえ、無惨なぼろぼろの姿で砂浜に打ち上げられる。死んでしまったクラゲの笑顔は、永遠に奪い去られる。

 

 残されたものは、それをどう受け止めればよいのだろう。

 

 花音にはそれを悲しみとしか受け取ることが出来ない。死を前に笑うことなど出来ない。葬式で笑う人なんて見たことがない。

 もし、天国を心から信じている敬虔な教徒がいれば死を前に笑うことが出来るかもしれない、これから自分は天国にいくのだから怖くはないと思うことが出来るかもしれない。だが、その信徒が、もし神の死体を見たとしたら? そうでなくても、もし神の死の可能性に気がついたとしたら? その瞬間、信仰は崩れ去り、ありのままの死が信徒の肩に手をかける。

 

 そのことが、花音にはひどく恐ろしかった。悲しみが笑顔に転化されないかもしれない世界で、一度悲しみと共に沈んでいってしまえば、もう二度とそこから帰ってくることができないような気がして、笑顔の届かぬ深海の底に行ってしまう気がして……。だからこそ花音は、悲しみを認めたくなかったのだ。

 

 楽器たちの奏でる音色が波濤のように押し寄せ、波と波とが重なり合い、より大きなうねりとなってひとつの場所をめざし高まってゆく。楽曲における一つの頂点、すなわちサビへと。

 ベースの踊るようなシンコペーション。音符をつなぐタイは飛び石伝いに旋律の川を飛び越えるその跳躍の軌跡だ。ギターも負けじと、宙に舞うベースを追って翼をはためかせる。ドラムスが二人に振り落とされないよう音の叢林を足音高く駆け抜ける。

 

 そしてついに辿り着く。足を止めて、周りを見渡すその刹那。

 サビ前の一瞬の空白(ブレイク)――。

 

 静寂が打ち破られるまさにその瞬間、音楽の真空にいの一番に飛び込んできたのは、花音が予想だにしないような音だった。暗澹たる深海にそぐわぬ丸みを帯びた柔らかな音が、沈黙を切り裂き、花音の眼前で軽やかに弾けたのである。

 

 意気揚々とセッションに飛び入り参加してきたその音は、はじめの一音を皮切りに、ギターとベースとドラムスとが織りなす広大な海の只中に次々と現れた。水面に着地した飛び込み選手が一瞬にして白い気泡の衣装を身に纏うように、花音は、あふれ出してきたその音の群れにたちまち取り囲まれた。生まれては消え、消えては生まれる音の泡たちが、力を合わせてひとつの旋律を紡いでゆく。譜面に描かれた音符が五線譜のトランポリンで元気に飛び跳ねているかのようなその音色は、まるで、海底に安置されているマリンバが茶色の音板からぶくぶくと音の泡を吐き出しているかのようである。

 

 こんなサビのアレンジは、その構想さえ聞いたことがなく完全な不意打ちだった。美咲が聞いてほしいといったわけは、まさにこのアレンジにあるのだろう。ライブでみんなを驚かせようとこっそり用意していたものなのだろうか。それとも、ライブが中止になってから組み上げたものなのだろうか。

 ただ、突貫作業にしては、このアレンジには違和感がなさすぎた。壮大なパズルの最後の一か所に、突然現れた一枚のピースがぴたりと嵌まるような……。既に完成されている楽曲にもう一つパートを足すなど、一朝一夕で出来るものではない。

 

 四分音符分の驚きと一小節分の思考を経て旋律に耳を傾けた花音は、ようやくメロディを嚥下して、手品の種を知った。

 

 音の海の中を自由に泳ぎ回るその旋律は、失われたはずの、こころが歌うべき主旋律だったのである。ボーカルのいないこの場所で、音の泡たちがその代わりをしていたのだった。

 

 たった一つのパート。たった一つの旋律。たった一つの音。だけど、それでも、世界は見違えるようにきらきらと輝き出した。ギターとベースとドラムスが新たな旋律を笑顔で出迎え、手を組み踊りだす。曲が、息を吹き返したように明るくなる。

 

 ――ならばもうここは、暗く寂しいだけの深海ではなかった。

 

 水風船みたいな音の泡の一粒一粒が光り輝く星となって、サンゴの産卵のように海中いっぱいに広がっていく。幾千もの星が夜空に散りばめられてゆく。

ぼんやりとしたその光を、花音はじっと見つめていた。太陽の光が届かぬ世界で、その代わりをしたものとは一体なんだろう。光のありえぬ世界で煌めくものとはなんだろう。

 光の深奥、その中枢にあるもの――その光源となるもの――。

 

 きっとクラゲだ、と花音は思った。

 

 幾千の星は、幾千のクラゲ達に変貌した。

 

 クラゲたちは、その白い体の中に小さな光をこもらせながら、果てなく広がる闇の海をゆらゆらと揺らめいている。半透明の膜に覆われた光は、眼を焼く強烈な輝きが宥められ、優しい、もやのような曖昧な輝きになっており、白い和紙で作られた提灯のようにも見える。

 花音は、お盆に行われる灯篭祭りの、仄かな灯が黒い水面を滑っていく光景を想起した。地上に光の天の川を描く灯篭たち。しかし、川の上流から流された灯篭は、環境保護の観点から下流で回収されてしまうという。もしもその灯篭が回収などされなくて、海に飛び出して、ついには海中へ沈んでいって、それでもなお微かな灯火が白い繭の中で明々とかがやいていたとしたら、それはこんな光景なのだろうなと花音は思った。

 

 あてどなく彷徨っていたクラゲたちが、少しずつ合流していく。ひとりとひとりが出会って二人組となり、組どうしが繋がって四人グループになり、そしてまたグループが連結し……。そうして夥しい数の光たちが手を取り合いながら渦を巻くようにしてひと所に集まっていく。紐をぐるぐると巻き付けるように光の輪が幾重にも重ねられ、巨大な光の銀河ができあがる。

 

 その銀河の中心には一つの小ぶりな木箱があった。蓋の部分に小窓が付いていて、そこから見覚えのある顔が覗かれた。生々しい傷跡の残るぼろぼろの顔……。それは、台風に流され砂浜に打ち上げられたあのクラゲの顔だった。木箱は、つまり棺だった。

 

 クラゲたちは、まさにこの死者のために集ったのである。最期の別れを告げるために。

 

 棺の周りを廻る白い提灯の群れ。故人を悼みながらゆるゆると旋回するその葬列は、しかし、喪失の悲嘆に満ちた悲しげな行進ではなかった。それはまるで、夜の遊園地で盛大に行われるパレードのような、喜悦に満ちた賑やかな行進だったのである。

 

 音楽に合わせ、華麗なタップダンスを披露しているクラゲがいた。仲間と肩を組んで大声でがなり立てるように歌っているクラゲがいた。顔を赤らめながら、全力でトランペットを吹いているクラゲがいた。そこには音楽があり、歌があり、踊りがあった。なみなみと湛えられた陽気な音楽が空間に満ち、クラゲたちの身体の隅々にまで行きわたって、彼らの動きや、呼吸や、拍動までもが楽しげにリズムを刻んでいた。そして何よりも、彼らはみな笑顔だった。

 

 ただ見ているだけの沿道の人をも巻き込んで笑顔にしてしまうような、そんな葬列……。

 

 こんな別れの告げ方は、今まで見たことも聞いたことも無かった。

 

 花音の知っている別れは、暗い部屋でみなが暗鬱な表情をして、物音ひとつ立てるのもはばかられる粛然とした空間にすすり泣きが響くような別れだった。悲しみに満ちた別れだった。間違ってもそこに音楽や、歌や、踊りや、笑顔があるべきではなかった。

 

 こんな別れがあっていいのだろうか。許されるのだろうか。

 

 けれど、きっとこれが彼らなりの別れ方なのだ。楽しく、愉快で、笑顔に溢れた別離。悲しみが、笑顔の形で表現される別離。それこそが、クラゲの葬式なのだ。

 

 思わず笑みがこぼれそうになる。慌てて抑えようとして、でも、この場にその笑顔を咎めるものは誰一人としていないのだと気づく。泣きそうになりながら花音は笑った。涙が、口角の山脈にぶつかって揮発し、夜空へと消えてゆくのが分かった。

 

 悲しい葬式があったっていい、楽しい葬式があったっていい。たとえどんな悲しみだろうと、どんな事実だろうと、そうあるべき受け止め方なんてない。正解なんてどこにもない。笑顔の届かない場所なんて、笑顔が許されない場所なんて、どこにもなかった。

 どんな悲しみの中にだって、笑顔は咲き誇る。悲しみながら笑うことだってできる。そしてそれは、特別なことではないのだ。こんなにも大勢のクラゲたちがそうしている。悲しみを笑顔に変える力は誰にでもある。

 

 だから、今は、精一杯泣いていい。精一杯笑っていい。悲しみのそばには笑顔が、笑顔のそばには悲しみが、いつもそばに立っている。

 

 群集の中を、音楽の波が駆け抜ける。拍手のウェーブが通り雨のようにそこかしこを歓喜の水滴で濡らす。音楽はとうとうフィナーレを迎える。

 

 出棺の時間だ。棺が海底を離れ、海面へ、空へ、あの世へ向かって、吸い込まれるように浮上していく。大勢の参列者たちに見送られながら、棺はどんどん遠く、小さくなっていく。

 

 その時、花音は信じられないものを見た。

 

 棺の中からクラゲがむくりと起き上がって、こちらへと顔を向けたのである。無惨に引き裂かれた姿のまま、にこりと笑って、参列者たちに手を振って応えている。

 

 クラゲは死んだはずだ。ではあれは幽霊なのだろうか。死から蘇ったのだろうか。

 

 ……多分、違う。クラゲが死んでいるという事実は変わらない。これから永遠の別れが訪れることは変わらない。

 だけど、彼らにとって、死は悲しみだけのものではないのだ。死という事実を彼らは飛び越えたのだ。彼らは死を、悲しみとして受け取らなかった。彼らにとっては、死は、新しい旅立ちに過ぎなかった。だから、旅行に行く朝のように、笑顔で手を振ることができているのだ。

 

 花音は、クラゲの死体を見て、彼らの笑顔は永遠に失われてしまったのだと思った。笑顔の届かない場所に行ってしまったのだと。でもそれは、花音がそう見ていただけだ。彼らにとっては違ったのだ。死さえ、彼らの笑顔を奪い去ることはできなかった。

 クラゲは、自分の死を旅立ちだと受け取った。花音はクラゲの死を死だと受け取った。だから花音が見るクラゲの死体は、動くこともなく朽ちて果てていくだけだった。それぞれが同じ事実を見て、違う受け取りかたをしただけだった。花音と美咲が違う夕焼けを見たように。

 

 他人の感情を誰も咎めることができない以上、他人が事実をどう受け止めるかを誰にも制御できない。同じものを見ても、受け取り方はそれぞれ違う。

 

 ……ならば、悲しみを笑顔に変える魔法は、事実を思いのままに変えてしまう魔法は、独りよがりの孤独な自己欺瞞なのだろうか。

 

 きっと、そうじゃない。だって今自分は、手を振りかえしている。かつて悲しみとしか受け取れなかった事実が、今は笑顔で受け取れている。そして、ここにいる無数のクラゲたちだってそうだ。みんな笑顔で棺を見送っている。その瞳には同じものが映っている。私たちは繋がっている。たった一つの魔法で――。

 

 

 ――ふわりと舞い上がった最後の一音が、空の向こうへ吸い込まれ消えていった。

 

 音の乱舞が断ち切られ、役目を終えた機械の駆動音だけが、残響のようにゆるやかに弱まっていく。ゴールテープを切った後のジョギングじみたその駆動音が収まると、部屋にはまた静寂が訪れた。

 

 閉じていた目をゆっくりと開く。眼前は依然として漆黒に包まれている。

 

 この曲を美咲はどう聴いたのだろう。どう受け止めたのだろう。いくら目を凝らしても、その先には美咲の影のようなものがぼんやりと浮かび上がっているだけで、表情は見えない。心も見えない。二人の間にある深い闇が全てを阻んでいる。

 

 それでも花音は、目の前に横たわる暗闇に、二人の断絶に、そっと祈りを添えた――。

 

 


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