資料の少ない人物は、経歴どころか生没年、幼名などもわからない。なので、ここは戦国ファンタジーだと割り切って、都合よく設定していく形になります。……改めて申し上げますが、この作品において、時代考証などは期待なさいませんよう、お願い申し上げます。
時間以上にモチベーションの維持も難しいのですが、どうにかこうにか、執筆を続けられているだけでも及第点だと思いたいところ。
読者の皆様方には、おまたせして申し訳ないと思いますが、これが作者の精一杯です。
とにかく、今回も形になりました。時間つぶしにでも、目を通してやってください。
馬借は流通を担う関係上、業務の中で情報を収集することができる。
継国家の流通網は上野内を覆っており、各地の産物やその生産量について、さらには治安の変化についても、詳しく把握できていた。
これは本来、破格のことと言ってよい。単なる武家はそこまで数字に詳しくないし、商業に長けてもいない。なにより下々の者たちは、馬鹿正直に自分の財産を教えたりしたいものだ。
継国家がそれを把握しているのは、馬借の業務を続けて得た信頼と、長年にわたる取引の記録があるからだった。この詳細については、景勝も主君たる上杉家に伝えていない。
継国家の武官筆頭たる平助も、景勝の意図を理解していた。武家が最後に信じるのは己の力のみであり、主君を頼るにせよ切り捨てるにせよ、まずは自分だけの強みを持つことが重要である。
そう思えば、情報の独占くらいは当たり前の約得として抱えておく。それくらいのずる賢さは、もっておくのが武略というものであろう。
「上野から信濃への流通が滞っているな、人の被害も大きい。どこの野盗か悪党か? 派手に食い散らかしてくれるものだ。詳しくはまだわからんが、治安の悪化が目に見えるぞ。……とはいえ、馬と武力を備えている我が家であれば、危険はほぼ避けられる。信濃の木材と生糸は良い商品だから、なるべく確保したいところだが、さてどこまで食い込むべきか? 輸送路の選定も含めると、どうにも悩ましいな」
口に出して確認するように、平助はいう。継国家の武官筆頭は、同時に文官筆頭でもあった。
実務のすべてを取り仕切る――というほどではないが、彼の権限は当主景勝の次に大きい。そのために、平助が担う役割は多く、悩み事も尽きない。
日々の仕事に忙殺されながらも、平助は継国家の将来について憂う毎日だった。例の縁談が進み、富岡家との調整が入る中で、巌勝と相手方の娘との見合いがついに決定する。その事実についても、不安があるばかりだった。
かつて危惧していた、周囲からのやっかみは、思っていたよりも激しくない。代わりに難しくなっているのが、継国家のお家事情だった。
――信濃からの、新たな販路の獲得を狙うとしても。交易品をどこに売りつけるかは、同様に重要だ。上野内のお得意先は、これ以上は見込めない。だが富岡家の縁を活用できれば、商圏の拡大を図れるかもしれん。そう思えば、家の結びつき、武家同士の婚姻というものがどれだけ重要か、わかろうというものだ。……当代の当主に不安を感じていれば、なおさらにそう思う。
最近は景勝の健康にも不安があり、平助が業務を肩代わりすることが多くなった。季節の変わり目などには、体調を崩すことがたまにあったから、今回もそれであろうと彼は思う。
だが、崩しているのが体調だけならば、まだ心配せずとも済んだであろう。問題は、景勝の不調が身体だけではなく、精神にまでも及んでいることだった。
不吉な予感が、平助の身体を走る。かぶりを振って、良からぬ思いを端によせ、直近の問題を直視することにした。
――巌勝は相応の才覚があり、外部との折衝を見学させているし、人当たりもそこまで悪くない。言葉遣いが慎重だから、その点で反応の鈍さを責められる可能性はあるが、相手も武家の娘。巧言令色を好む質ではあるまいから、さほどの悪印象にはなるまい……が、それでも武家同士の付き合いは難しい。子ども同士で手に余る問題には、大人の手で決着をつけるものだが、肝心の父親の方が感情的にこじらせている部分があるときたもんだ。こいつは、どう考えたって望ましくない事態だぞ。
最近のことだが――巌勝が景勝に、縁壱の捜索について、話をしにいったそうだ。
結果が芳しくないことを察した彼は、せめて期限を切るべきではないか。支出が多くなれば、統治にも影響が出る。本業に支障が出るほどの多額を、捜索に割くのは控えるべきではないか――と。
ここまで直接的ではないにしろ、とにかく巌勝はそれとなく提言したという。この時、景勝は激昂し、巌勝を平手で強く打った。息子への、明確な拒絶の態度である。
それは同時に、景勝以外の継国家にまつわる、全ての者への裏切り行為に近しいものだった。
――こんな世の中だ。我が子であっても、ある程度の割り切りは必要だろう。農民とて、自分の子がどこかに消えたら、やはり探す。そこは景勝殿も同様だから、共感は得られようさ。だが、一年も経てば諦める。いつまでも願望を抱いて生きられるほど、この世は甘くないと、誰だって知っているから。……しかし、景勝殿は資産のある武家だから、ワガママが続けられている。そのように、周囲の者からは見られているということを、いい加減理解すべきなんだよ。
縁壱周りの出来事について、平助は終始呆れを覚えざるを得なかった。彼自身、情の薄い質だとは自覚していたが、それにしても景勝の有り様は国部村の人々から見ても、異常に写っていた。
乱世の厳しさは、誰にとっても平等に降り掛かっている。ちょっとしたことで子どもを亡くした家庭は、この上野においても珍しくはない。そして、平時と戦時では、倫理観も変わる。乱世は、常に戦時であることを強要されている時代なのである。
景勝は、自分の子供に執着しすぎている。誰はばかることなく、そうできていることが、どれだけの贅沢であることか。
当人だけがわかっていないという現状が、何よりもまずいのだと平助は理解していた。だからこそ、言葉にして景勝を諌めた巌勝は立派だった。しかし、本気であったなら頼ってほしかったとも思う。殴られる役割を代わってやることくらいは、できただろうから。
――あの人は変わってしまった。それを朱乃様の呪縛とは、呼びたくないが。……朱乃様のせいで縁壱が景勝殿にとって、特別な存在になってしまった。それを忌々しく思う権利くらい、俺にはあるでしょうよ。
巌勝は、この家の誰もが感じていることを、代表して口にしたに過ぎない。それくらい、景勝の縁壱への執着は大げさに見えている。
個人的にも不満はあるが、それはいい。当主の特権だ。捜索を続けたいなら、巌勝の声など無視すればよいだろう。
平助が我慢ならないのは、わざわざ殴りつけて、ことさらに親子の溝を深めたことだ。景勝が、自分で自分を貶めるような行動を取ることが、平助をどうしようもなく、やるせない思いを抱かせるのだった。
――景勝殿は、わかっているのかね? 縁談が現実的なものになっている、今こそ親子関係の修復が必要なのだと。いや、わかっていてどうにもできないから、返っていらだっているのかもしれん。いらだちを紛れさせるために暴力に走るあたり、度し難いと言うしかないが。
景勝は、殴ってまで巌勝を黙らせねばならなかった。そうせねばならないほどに、景勝も自身の行動の非合理さに気づいているのだろう。気づいていてなお、やめられぬほどに彼の心は病んでいる。
平助は、それを案じた。何よりも、恩ある彼のために。感情のままに汚名を残しかねない事態を、座視したくはないと思えばこそ――平助は、あえて行動したくなったのだ。
――次代のお家のためにも、仲違いなどしている場合ではないのだ。これから富岡家の者とも、接する機会は増えるだろう。そのときに親子の軋轢を弱みだと思われたら、縁談自体がどう転ぶかわからん。……いや、成立したとしても、政治的に乗っ取られる可能性こそ、まずは警戒すべきだ。富岡は、おそらくそういう家なのだ。
これからの継国家にとって、親子関係の悪さが、大きな影を落としかねない。それ理解していたのは、彼一人であった。この点、月舟禅師とて理解は浅い。
富岡家との縁談が勧めば、次代に期待が持てる。時間さえあれば、些細な事柄は押し流されて、なかったことになる――と高をくくっているのではないか。そうした楽観を、平助は月舟禅師から感じていた。
――といって、それを責めることはできん。僧と武士とでは、視点が違って当たり前だ。富岡家との関係についても、巌勝が上手くやれる保証もない。景勝殿は、父親としてあの子を補助すべきだが、当人にその気があるかどうか、あやしいものだ――。
月舟は、なんだかんだで景勝が嫡子をおろそかに扱うはずがない、と信じている。良識を持っており、それなりの付き合いがあるから、景勝のうわべしか見ていない。
だからこそ見誤るのだと、平助は思う。彼は巌勝を嫡子として一応見ているが、縁壱への後ろめたさと、朱乃への偏愛が、すべてを覆しかねない。
「次期当主との縁談だから、富岡家は乗ってきているんだ。景勝殿もそれはわかっている。縁壱が戻ってきたところで、巌勝を継子の立場から追いやろう、なんて考えないはずだ。――だが、縁壱を相応の地位につけようとは、するだろう。それがどんな誤解を招くか、わかっていてもやりかねない。そうした怖さが、今のあの人にはある」
縁壱とて、今更継国家の当主の座など求めはするまい。家族との軋轢を承知で、地位や資産などを求めたりもしない――と、今になって平助は理解を示していた。
現在も生きていたとして、の話ではあるが……自発的に継国家を出て、寺にさえ向かわなかったのだ。巌勝に遠慮して、継子としての役割を託したと考えていいだろう。
となると、景勝の縁壱への執着は、当人以外のすべての人々に不幸をもたらしかねない。ただの自己満足に過ぎない、ということになる。衆人が知れば、まがりなりにも武家の当主が、なんと女々しいことよと笑うであろう。
そんなことを許してはならぬ。継国家を支える武官筆頭としては、己が支えるしかあるまい、と彼は決意を新たにした。
「景勝殿には、景勝殿なりの論理があろう。後悔もあれば、やり場のない感情があることは理解いたしますとも。俺も俺なりに、在り来りな不幸は経験してきたが、お二人はそれ以上と言って良いんじゃないかね。……まったくもって、景勝殿も巌勝も、俺の主として、まことに相応しい方々だよ」
皮肉げな笑みを浮かべながら、平助は思う。縁壱は縁壱なりに不幸であった。双子の弟、差別的な待遇に、同情はする。
景勝についても、見えないところで苦労もあろう。先立たれた妻への想いも察しよう。だが、これからの継国家を支えていく、巌勝の感情にこそ、己は寄り添うべきだと思う。
平助は、それこそが景勝への忠義にも通ずると信じた。何よりも家の存続を優先するのが、武家の本能だと思えばこそ、そうするのが最善ではあるまいか。
――俺は、あの人を継国家没落の原因にはさせたくない。巌勝を、どこに出しても恥ずかしくない、立派な武家の棟梁として育て上げたい。
ひいては、それが景勝の評価につながるであろう。あの人は、巌勝の父親であった。それが誇らしい事象として、歴史に刻まれることになれば、なによりのことではないか。
平助は、言説より行動を優先する男だった。だから景勝当人に直訴するよりも、巌勝を重んじねばならぬ状況を、無理矢理にでも作り出すべきだと考えた。
そのためには、富岡家との縁談を、継国家そのもののためにというよりは、巌勝個人のためになるように、自身が調整していかねばなるまい。
「お恨みなさるなよ、景勝殿。主が間違った時、諌めるのもまた、忠臣の役割でありますゆえ――」
次代への切り替えを、平助は独断で行おうとしていた。それは下手をすれば反逆とも取れる行動であり、病んだ景勝が知れば『これこそ不忠!』と激怒するであろう所業でもあった――。
村内の争いは様々だが、中でも耕地の整理関係が一番厄介だった。
これが単なる水争いなら、水源と水路を抑えている者が強権を振るうこともできる。国部村なら、継国家の意向がもっとも強い。だから調停もやりやすいのだが、耕地そのものとなると話は別である。
家々が所有している耕地については、先祖から相続してきたものである。継国家といえど、名目なしに注文はつけられない。
ならばどんな問題が起きるのか、といえば――。
「耕地の、拡張? ……勝手にやっていいことですか? それは」
「良い訳はない。だから問題になるし、調停役として、武家が出張る必要があるわけだな」
平助は、巌勝を伴って、国部村の田畑を見回っていた。特別な用がないときも、平助は合間を見て村人たちとの交流をしている。
巌勝も、業務の中で村人と会うことは多い。それでも子供の目には、問題の芽も見えないこともあるだろう。
平助は今、それを教えてくれるのだなと、子どもながらに純粋な気持ちでいた。巌勝には、彼の心情の奥深いところなど、見えるはずもなかったのだ。
「勝手にやって良い訳はないが、それでもこっそりやらかすくらいには、農民たちも狡猾だ。――だからタチが悪い、とも言えるが、具体的に言おう。これは実際にあったことだ」
例えば、こっそり畑の柵を半歩分だけ動かす。半歩分だけでも、他人の土地を侵略し、己の耕地を増やそうとするバカが居た。
山側の土壁を少しずつ削り、耕地を増やそうとした者もいた。山地を下手に刺激すれば、災害時に被害を大きくしかねないこと。山の植生を守ることが、継続的な山資源の利用を可能にすること。それを理解しない愚か者がいたことを、平助は述べた。
最後に、馬のための牧草地に踏み込んで、これくらいならいいだろう、勝手に畑を作った恐れ知らずについても、呆れながらに語った。
「どいつもこいつも、全体を見ちゃいないのさ。個人の目線で、自分だけの利益を図りくさる。……人間の業と言えば、まあ仕方がないのかもしれんがね。武家としては、領地の統制を保つために、個人の勝手は許したくないわけだ」
「具体的には、どのような……処罰を?」
「言ってわかる奴には、穏便に済ませるのが作法だ。基本は、謝らせて賠償させる。柵は戻して、わびに労働力を提供させる。削った土を戻して塗り固めさせ、その分の緑肥の提供を停止させた。牧草地に踏み込んだクソは馬に踏み殺させた。結果的にそいつのせいで仔馬が死んだから、命には命で償わせるのが作法ってもんだろうよ」
平助は、厳しい表情で話を続けた。不思議な迫力が、そこにはあった。
武家の者として、半端な真似は許されない。毅然たる態度こそが、武家の本質であるというように、彼は強く語った。
「これくらいは当然の処置として、景勝殿も、国部村の村長も認めた。わかるか? 継国家は、これらの問題にも手を突っ込んで、全体の利益を図らねばならない。時には武力を持って集団の利益を守り、個人の勝手を抑止すること。その手腕を買われているからこそ、統治を許されている。その現実を、まずは見据えねばならないんだ」
武家とて絶対的な権力者ではないと、平助は語った。集団の利益になるから、共同体を守る義務を背負うからこそ、尊重され従ってくれるのだと、こんこんと説く。
重要な話を聞かされているのだと、巌勝も悟る。今、自分は教育を受けているのだと、彼は自覚するのだった。
「それで、今回も土地の問題があったのですか?」
「ああ。それで、お前に解決してもらおうかと、俺は思っている」
「……私は、若輩者です。平助殿が、主導するべきでは?」
「お前も当事者だぞ。お前が統治を受け継ぐ土地の話でもある。今からでも、関わっておくに越したことはない。俺の判断が、間違っていると思うか?」
「――まさか。継国家の武官筆頭の言葉を、根拠なく否定するほど、私は愚かではありません」
「じゃあ決まりだ、ついてこい。……ちょうど、馬鹿をやった奴を裁きにいくところだ。村長との話もついているから、お前はただ俺の言う通りにすればいい」
これこそが、平助のはかりごと。景勝から巌勝へと、世代交代のための第一歩だった。
大っぴらに平助を叩けない程度の、微妙な線から彼は攻めることにした。もちろん、景勝には正直に報告などしない。あくまで平助自身が行ったこととして伝えて、巌勝の同道は伏せる。
密かに、徐々に巌勝の力を示すことで、周囲に後継として実績を重ねていくのだ。そうして、気づいたときには押しも押されぬ次期当主として、その立場を確立できている。
それが理想であると、平助は己の正しさを確信していた。
「私に、それが……可能でしょうか。何分、初めてのことですし――」
「誰にも初めてはある。俺の補佐があっても、まだ不安か?」
「それは……それは、卑怯な言い方では、ありませんか。ここまで言われては、臆する方が、沽券に関わる。継国の継子として……引き下がるわけには、参りません」
「いいぞ、それらしくなってきた。――まあ、安心しろ。そこまで複雑な案件じゃない」
土地の調停に関わるのは、当主の特権と言ってよい。耕地の問題を巌勝が自分の名で解決したとなれば、後継の証明としてはもっともわかりやすい形になるだろう。
まさに平助は、そのために彼を連れ出し、無理やり問題に関わらせたのだった。本来ならそんな必要はなく、平助が景勝の名代として行えば済むことであった。
それをあえて、巌勝の功績とする。景勝に詳細を伏せている以上、事後承諾という方問いになるだろう。そして結果と知ったとしても、曲がりなりにも継子がやり遂げた案件である。
これに後からケチを付けるほど、耄碌していないことは、平助とて確信している。重ねて、お恨みなさるなと、彼は心のなかで主君に詫びた。
詫びとしては不遜にすぎるが、それが平助なりの筋の通し方でもあった。景勝に後継を誤った、政道を間違えたという不名誉から守るための、苦肉の策であると、本人は思っていたから。
「あらかじめ、お前にはアレコレ吹き込んでおく。実際に現場に出たら、俺の言う通りに振る舞えよ。それだけで、おおよそは解決する。――俺を信じろ。継国家に、俺ほど貢献しているやつは居ないんだからな?」
「そこは、疑っておりませぬ。父の部下として、将来の腹心として、平助殿を信頼しないという……道はない。私も、そこはわきまえておりまする」
部下の立場が、継子を超える事態は、起こり得る。経験が及ばない部分について、巌勝は素直に認めた。
継国の次代は、正しく受け継がれる。平助はそれを確信したことで、己の行動から迷いを消すことができた。
「大変結構! お前さんが正しく判断できる内は、継国家は安泰だ。そう思えばこそ、尽くす甲斐もあるってもんだ」
「……こちらこそ、平助殿には、助けられております。父から受け継ぐもので、一番価値のあるものは……部下である貴方自身でしょう。将来においては、私の部下として、働いてくれることを――期待しております」
「もちろん、俺の主君はお前だ。……こんな生意気な口がきけるのも今の内だと思えば、なかなか趣深いな。まあ、お前は鷹揚に構えておけ。武家の当主なんてものは、それだけで威厳が出てくるもんだ」
平助と巌勝は、こうして国部村の中で実績を積み、多くの問題を解決することで、人々の支持を得ていく。
元服と結婚を経て、巌勝は継国の当主となるであろう。その日は、かつて思っていたよりも、随分と早くなるはずだと、平助は思うようになっていた――。
上野の武家の中で、富岡家は特別な家であったかと問われれば、返答は曖昧な形になる。当事者からすれば、自分だけが割を食らっているような実感はなく、環境的にも恵まれてるとは思わぬ。
誰も彼もが苦労をしている、くらいの感想が精々であった。富岡自身は、平均的な国人らしい生活をして、かろうじて武家としての体裁を守っているという感覚であったろう。
国人の身の振り方はそれぞれであり、事業の形も主家への態度も、ひとつひとつの事例を見ても原則的なものはなく、個々の事情によってどうにでも変わるものである。
ならば、個々で生き残りの策を練っていくのは、当たり前の成り行きではあるまいか。継国家との関係構築も、その一環として行われていたのであった。
「智子、わかっているな」
「はい。婚約において、継国と富岡――両家の名誉を汚さぬよう、振る舞い方は心得ておりまする」
「それだけではない。感情的にも嫌われぬよう、次代を残すために、上手くやれ。……婚約の上で、交流を重ねることから始めるのだ。継国家の現状を調べ上げ、こちらに伝えよ。側仕えの者たちにも言い含めておくゆえ、できる限りの情報を集めるのだ。見合いの日程は、近々決まる。あちらの都合次第だが、一月以内には整えられるだろう」
「その時までに、心構えをせよ、というわけですね。……情報については、何が有用で、何が無用か、わたくしにはわかりません。それで、よろしければ」
「構わん。婚約について、古河公方から諸々の了承は得ておる。今、山内の国人と繋がれるなら、それはそれでよいとのことだ。――下から得られる情報、噂話の類でも、あちらの空気は感じ取れよう。後のことは、こちらで判断する」
娘と対面して、やるべきことを明確に伝え、本心を口にする。それができる程度には、彼は父親として誠実であった。
富岡家の当主の名を、秀光と言った。その娘の智子は、継国巌勝との婚約を前に、自身の役割を確認していた。武家同士の婚約は、そのまま婚姻、家同士の繋がりに直結する。
同盟の証明としても、これ以上なくわかりやすい行動であった。生き残りをかけた乱世の中で、対立と合従を繰り返すのも武家の習い。
将来の備えとして、あえて外部とつながりを持つのも、この場合は許容される。極めて特殊な事例ではあるが、皆無というわけでもない。そこを、秀光は自身の利益のために利用するつもりだった。
「これ以上の失敗は許されん。富岡家が武家として存続するためには、ここで転ぶわけにはいかん。――情報を探れとは言うが、けっして機嫌を損ねさせるな。継国の怒りを買わない範囲で、お前にできることをやるのだ」
「はい。心得ております」
「末子の秀信は、未だに幼い。あれが元服し、わしが隠居するまで、どうにかやり過ごさねばならん。……継国との繋がりに、古河が利用価値を認めてくれるならば、しばらくは戦働きも免除してくださるだろう。伏せ札は、見える位置においては意味がない。そして伏せているからこそ、将来の布石になる故な」
関東情勢は安定とは程遠い。小競り合いに兵を出せとか、遠出して城攻めに出向けとか命じられる可能性も、ないではない。
だが策略の一環として、他家との婚姻外交を担うとなれば、下手に恨みを買う立場は避けるべきだろう。そして富岡家は古河公方の承認を得て、戦働きの免除に成功したのだった。
富岡家が継国との婚姻に飛びついたのは、代替わりまでの時間を稼ぎ、安定した環境を維持したい――という切実な理由があったからでもある。幼い息子を守るために、あるいは息子の将来の活躍のために、今は手元の兵を一兵たりとも失いたくないのだった。
「巌勝という小僧が、どこまで期待できる器か。あるいは、継国家の力が如何ほどか。わずかなりとも判断できる材料を、すぐに伝えよ。婚約を婚姻まで進めるべきかどうか、最終的な判断は、それから下すことにする」
「……はい」
今さら反故にするなど、武家としての信用に関わる話だが、相手にそれだけの非があれば別である。ここだけは事前に調べられなかったところであるし、内部に入ってようやく理解できる部分も多いだろう。
とはいえ、費やした労力を思えば、最終的な判断が覆ることはあるまい――と秀光も智子も理解している。だが、その上でもまだ一抹の不安があるからこそ、最後の判断は保留にしているのだ。
お互いの家の関係は、複雑で絡み合うことが多い。万が一、今回の件が新たな火種となり、両家を滅ぼすことになれば、それこそ大事であろう。婚約にとどめ、一足飛びに婚姻を行わなかったのは、そうした事情もある。
「私の報告が、すべてを決める。その基準と、なるのですね。……あまりに、重い話です」
「そうでもない。お前の話だけを真に受けて、間違った判断を下すのが一番まずい、と考えておる。ほうぼうの伝手を使って、多方面から情報を得るつもりだ。――女は自分個人の問題を、いつでも大げさな話にしたがる癖があるからな。子どものお前もそうだ、というわけではないが」
「……左様ですか」
「一度決めた話は、貫徹したい。そうした正直さを備えているのは、お前らしい美点だ。だが、お前の縁談をどう利用するかを決めるのは、わしだ。そこは、わきまえるようにせよ」
娘の声に、わずかな非難の色を感じたが、武家の当主として、ここは譲らなかった。
慎重の上にも、さらに慎重を重ねねばならぬ。継国家に問題があるとしても、飲み込める程度の小ささであればよいのだ。まだしも利用できる程度の弱みであれば、許容してやってもいい。
そうであることを、秀光は心から願っていた。ここで全てが覆り、今後の見通しが崩れることなど、彼自身も望んでいないのだから。
「不満か? だが、わしにもわしなりの不満はある。この身の健康に不安がなければ、ここまで無様な婚姻外交などやらなかったであろう。……まだまだ死ぬ気はないが、戦場に出れるほど、元気なつもりもない。あせって婚約の話に乗ったのは、後継にどうしてもない不安があったからだ。そこは、お前も理解しているはず」
「弟の幼さに、不安を覚える気持ちは、わかります。……お兄様が、ここにいてくれれば」
「それを言うな。あれは戻らぬ。戻る気があるのなら、何かしらの形で連絡をよこすだろうが、それもない。――期待はするな、よいな」
秀光は、この乱世で武家として生きながらえているだけでも、相応の能力の持ち主と言ってよい。彼は身内への態度も含めて、誤った判断をさほど犯さなかった。
唯一の問題はと言えば、待望の長男に出奔されたことであり、その時点で秀光は己の教育の甘さを知ったのである。
――お家の事情を解さず、自身の勝手で飛び出した男など、もはや息子とは思わぬ――。
秀光は息子への期待はあっても、愛情を持ったことはない。過剰な感情は、武家にとって毒となると思っているからだ。
情によって判断を鈍らせれば、家が潰れるかもしれぬ。それは恥である。先祖にも、領地の民にも申し訳が立たぬではないかと、彼は考える。
この際、息子を正しく共同できなかった恥については、都合よく目をそらすのが秀光という男だった。
――あれは、武家に生まれるべき男ではなかった。情が深すぎ、利他的に過ぎた。どうして、あのような男が我が家に生まれてしまったのか。
秀光が実子に向ける想いは冷たい。商家なり公家なりに生まれれば、上手くやったのだろうと思う。
身分の別なく人々と交わり、共に生きることに喜びを見出し、その敵を打倒することに生き甲斐を求める。武家であったならむしろ本懐であろうと、富岡家の事情を知らぬものは言うであろう。
しかし、この家にとって、長子智信の資質は毒でしかなかったと、秀光は思う。
富岡家の直接の主君は赤井家になるが、それとは別に古河公方足利家にも仕える形を取っており、いずれに対しても配慮が必要になる家でもあった。
それだけ複雑な立場が許されている、厚遇されているという見方もできるが、これを維持するには相応の努力がいる。――具体的には政治的な振る舞い、時候の挨拶や祭事の作法等、上役を立て続ける態度が必要なのであった。
富岡家は狡猾な振る舞い――要するに、上役が好むような言動を心がける必要があり、その中には下層に対する侮蔑や揶揄を行って、へつらう。そうした事を自らやってのける図太さが求められる場合もある。
下の立場に、負債を押し付けることも、時には必要であった。秀光は名目さえあれば、非道を躊躇わずに行える、乱世らしい武家の男である。
だが智信は、それがどうしてもできなかった。高潔さの表れと言えなくもないが、秀光には鼻につく態度である。お前はそうした家の糧を食み、育ってきたのだぞ、と父としては言いたかった。
いや、実際に言ったことはあった。だが、智信は耳を貸さなかった。その結果が全てであり、だからこそ妹である智子の教育には、失敗が許されなかったのだ。
「重ねていう。――お前は富岡家の代表として、継国の家に向かうのだ。それを自覚して、我が家の名誉を汚さぬよう、ふさわしい言動を心がけるように。わしから言えるのは、それだけだ」
「心得て、おります」
「そう願う。兄のような、不始末をしでかさぬように――とは。……余計なことであったな」
富岡家は裕福な家ではない。上野の武家の中で、まがりなりにも経済的な余裕を持てているのは、継国家以外はないと言ってよい。
政治的な事情が許すなら、富岡家こそが継国を利用したいとも思っている。智子は子どもなりに、自分の家の窮状を知っており、その打開のために他家に嫁ぐことを求められている――と自覚していた。
そして、彼女は己の運命に歯向かおうとも思わなかった。そうあるべきと育てられ、そうあるしかないと理解していたからであり、それはまさに乱世の教育の成果であったとも言える。
――継国。どのような、家なのでしょう。我が家ほど、家中の関係が難しくない。わかりやすい家ならば、良いのですが。……少なくとも、頼るに足る家であると、確信させてもらえるなら、他は些事と想いましょう。それが、父の、富岡の、望みなのですから。
婚約相手を想うより、まず家同士の都合を考える。実家のために、嫁ぎ先で情報工作さえ行える。そうした女子に育った智子は、まさに秀光の薫陶の行き届いた、立派な娘であった。
そしてこの立派な娘に、純朴な巌勝少年は、これから付き合っていかねばならないのだった――。
鬼の存在と戦国時代を、どうやって合致させるか。頭を悩ませるところですが、今のところは不自然でない程度に匂わせていきたいと思います。
鬼が本格的に現れてくるのは、兄上が襲われて以降になりますので、それまでは鬼滅らしい描写は抑え気味になります。
鬼滅の二次創作としては物足りないかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。