毎回、質の保証を出来ないことが、歯がゆくてなりません。それでもよろしければ、目を通していただければ幸いです。
縁壱が塩切村で穏やかに暮らしている間に、さらに時は流れ、再度季節は巡る。
継国巌勝の齢は、もう十五を数えるようになり――幼児から少年と呼ばれる時を経て、青年へと成熟する過程に至っていた。
剣を振る鍛錬も、ただの素振りから立木への打ち込みへと変わり、走り込みや水練の時間もかつてとは比べ物にならぬほどに増えた。
書物へと向かう時間より、剣を持つ時間が増えたことは、巌勝自身にとっても変革であったろう。文武両道こそが、武士の本質である。そして文の素質を、彼は生来備えていた。武のための時間こそが、少年期の彼には必要だったのだと言われれば、否定も難しい。
そうして鍛錬と休息を繰り返し、身体に無茶をさせることが、成長の一要素となる年代になる。今日もまた、走り、泳ぎ、剣に打ち込む日々を過ごしていた。
そして剣を立木に打ち込みながら、考えにふけることが出来るくらいには、余裕を持った鍛錬が出来ていた。これもまた、常人を遥かに凌駕する体力と精神が、養われた結果であろう。
――私は結局、継国の継子として、ふさわしい成長を遂げられたのか。智子殿の伴侶として、父上や平助の期待するような、立派な武家の次期当主として、正しい道を歩めているのか。……歩めているとして、それをずっと堅持していけるのか。私は、未だ……目に見えない目標に向かって、闇の中を歩んでいるばかりでは、ないのか――。
巌勝は、初めて富岡の姫と出会ってから、はや数年――という感覚を自覚し、過去に思いを馳せる年齢になった。
この間にさまざまな出来事があり、不戦の約定によって得られた三年という時間を、継国家は最大限に活かしてきたと言える。ほどなくその約定も切れるが、当主景勝は更新を考えていないらしい。それを弱気と取るか、強気と取るかは、解釈の余地があろう。
単純化が過ぎると言われても構わない、巌勝はこれを強気の態度と解釈していた。
――どちらかといえば……という話になるが、父上は強気の態度で自分の窮状をさとられないよう、振る舞っている節がある。この頃、めっきり老け込んだように床に伏せることが多くなったことを思えば……強気さは、必ずしも当人の強靭さを示すものではない。虚勢によって、他者をあざむくこと。その有用性を、私に教えようとしているふうにすら、感じられる。
実務のときであれ、鍛錬のときであれ、家族に対する詳察から巌勝は離れられない。母朱乃は墓の中だが、父が母に囚われていること。その愛情の深さを巌勝自身は認めているという事実は、確かにある。
――縁壱のことが、父の口から出てくることも、少なくなった。もはや諦めているのだろうが、さて……。もし、縁壱が生きていたとして、今の継国家を見て……どう思うだろうか。今なればこそ、そう思う。
弟縁壱の消息は不明だが、もはや関わりないこととして割り切るべき時期になっていた。巌勝にとっても、複雑な感情を処理できるだけの時間が過ぎ去った、とも言える。
ならば、こうした父の弱点も、別の視点から評価すべきではないかと、思わぬでもない。家族への愛情、特に妻と、妻が愛したであろう縁壱への偏愛も、多少は理解できるようになった。
――とはいえ、父景勝に対して危惧することは、いくつもある。縁壱への執着は別としても、嫡子たる巌勝への厳しい態度は変わらない。これは景勝の老醜を示すものか? 巌勝には、まだ結論は出せていなかった。
だが、彼とて齢を重ね、経験を重ねている。父の努力と実績を、実感できる年になったとも言える。
だからこそ、父の過去の言動について、もはや責める気には成れなかった。巌勝は弱った父に対して、自分の感情をぶつけられるほど、愚直にも礼儀知らずにもなれなかったのである。
――認めざるを得ない。父上は、傑物だ。あるいは、だった、というのが……正しいのかもしれんが。ともかく継国家は、この数年で一気に拡大し、上野の流通の一角を占めるようになった。いかなる商家も、武家も……継国の名を知らずに、上野で商売はできぬ。私も実務に関わる上で、我が家の影響の大きさ……それを実感することが、多かった。父上に虚心になることが難しい私も、その功績を認めずにいることは、できぬ。
巌勝の理解は漠然としてものであり、継国家の発展の実態について、正確な把握まで出来ていたかと言えば――答えはなかなか難しい。巌勝は流通の実務に関わってはいたが、文章でのやり取りは未だ平助の補助を必要とし、大口の取引や外部との折衝は、やはり景勝の名代たる平助の担当分野であった。
未熟な巌勝は、現場に立たせるにもまだ不安があるらしい。よって、ゆるゆると学識と経験を積み重ねて活かせる方針であると聞いたが、それが返って巌勝にとっては歯がゆく、内心の不満を重ねる日々が続いていた。
鍛錬に励む理由の中に、身体を動かすことで気晴らしをしている、という部分は確実にある。だが、彼は聞き分けの良い男子であった。大事にされているという自覚がありながら、不満を口にするという甘えを、巌勝は自分に許さなかったのである。
代わりに、剣を握る手に、力が入った。立木を打つ間隔も、早くなる。
――平助や父上は、継国家が……重大で換えの効かぬ、上野有数の武家であるかのように、私に説く。婚姻関係の富岡はもちろん、主家たる山内上杉家に対しても、堂々と反論できる地位にあるという。……私が実家で安穏としていられるのも、父がこうした環境を整えた、結果であるという。
おそらく、それは事実なのであろう。巌勝は剣を振りながら思考を展開し、現状を分析する。
継国家の馬借の事業は拡大し、すでに上野の流通に食い込み、投資を呼び込んで街道の整備を行う段階を経ている。
口に出せば、言葉にしてみれば僅かな文字数で表現できることだが、これがどれだけ大きな出来事であったのか。きっと上野の地にとっては、前代未聞のことであったろう。
――私は、その継国の継子である。おそらくは、確定した事実として、その立場を占めているのだ。これを重荷として、私は背負わねばならぬというに。……満足な成果を、周囲に提示できていない。その事実が……なんとも、口惜しい。
巌勝はこの継国の継子でありながら、未だに一人の未熟な武士である。そうした立場を許されているのは、やはり父景勝の後見があるからだ。
わかりきったことを、巌勝は頭の中で整理する。学問に向かう時間や鍛錬に集中する余裕を確保できているのも、父の配慮があってのことだ。これが不器用な、父なりの愛情の発露であると思うくらいには、彼の精神も成熟してきていたのである。
――私は期待されている。成果をあげること、継国の継子として、あるべき姿を求められている。しかし、その全てが将来に持ち越されている。その現状の、悔しさよ。
以前は入部村にて、鉄火場の手前までは同席させられたことはあるが、以後はとんと危機感を覚えさせる場には出ていない。危険から遠ざけられ、重要な場面から外されているという疎外感を、巌勝は自覚せざるを得なかった。
縁壱の出奔があるため、万が一の保険すら掛けられないという事情が、それを後押ししていたという事情もあるが――やはり、巌勝自身の才覚の大きさが一番の理由であった。ここまで育ったのなら、使い潰すのは惜しい。巌勝に対しては、継国家の影響が及ぶどこに向かっても、大切に慎重に育てようという意識が、確実に存在していた。
早くは幼い時分より、なんとなくは理解していたことである。それが身体の成熟とともに、実務に関わりながら自覚することで、巌勝は自身の責任を理解していった。特に鍛錬の場において、それは顕著だった。
――剣を振る速度は、昔とは比べ物にならない。朝から昼まで振り続けても、身体が悲鳴を挙げなくなった。また、一日中机に向かい続けても、身体が固くならず、怠け心が出てくることもない。私のこうした性質は、どうやら貴重であるらしい。
そして、こうした苛烈な鍛錬についてこれる者も、周囲の村には誰もいなくなった。同世代の友人というものを、巌勝はついに得ることが出来なかった、とも表現できよう。
他にもわかりやすい長所として、背丈は大人に追いつき、なおも伸び続けていることが挙げられる。筋力や体力も当然のように秀でており、鎧に刀と槍を引っ提げて、長距離走り続けることが出来る。
ここまで出来るのだから、いくさ働きを期待されて当然であり、その流れを巌勝自身、受け入れてもいる。
――私は未だ、いくさに出たことがない。今しばらくは自重するようにと、父から言われてもいる。だが、それでいいのか。私は、武家の長子である。その義務を果たすためにも、戦いを忌避することは許されぬのではないか――。
感情のまま一振り。つい、力み過ぎて、打ち据えた立木が折れた。握っていた木刀は、知らずに消耗していたらしく、すり減ってもはや使い物になるまい。
腕から指にかけて、不要な力が入ってしまったことを、彼はやりきってから自覚したのである。
これはいけない、また新しい立木を用意せねばならぬと、巌勝は反省した。打ち甲斐のある立木を根付かせるのは、時間が必要になる。今しばらくは、走り込みの途中で適当な立木を見定めて、その場で剣を振る鍛錬を行うことになろう。面倒ではあるが、自ら招いたことだ。
鍛錬は長くやればいいというものでもないし、全力全開で続ければいいというものでもない。休息が必要なのは当然だが、継続するうえでは力加減も必要だ。
立木を粉砕することなど、幼い縁壱でさえ出来たことである。力自慢を誇って、何になろうか。
――虚心でいられぬのは、子どもであれば当然などと、月舟禅師はいう。だが、余計な感情に振り回されている間は……未熟であるとも、また言えよう。私は、この程度の加減をも、いまだに満足にできぬとしたら……。私は、継国にとって、頼れる当主、その器ではないということにも、なろう。
巌勝は、口には出さぬ。ただ心のなかでだけ、反省を重ねた。そうしたことが、すでに彼の中で日常になっていた。
刀は三寸切り込めば、それでよい。首や胴体にそれだけ差し込めば、人は死ぬ。腕や足ならば、戦闘能力を喪失して無視することも出来る。
戦場では、必ずしも敵の息の根まで止める必要はない。己の身を守り、勝利を優先するならば、むしろ殺害より戦闘能力の喪失を求めるべきである。
敵に逃げ場を与えること。命を惜しませ、戦意を奪うだけで、勝つことが出来る――。それは、敵戦力の撃滅より、よほど簡単なことであると、巌勝は平助らの教えによって理解するようになっていた。だからこそ、余計な力みがある己に対し、厳しく戒めるのだった。
そうして一人、反省をしていたところに、歩み寄るものがいる。富岡智子であった。
「今日もまた、鍛錬ですか。努力家なのですね、巌勝様は」
「……智子殿。こればかりは、日課でありますゆえ……」
「皮肉で言っているのでは、ありませんよ? それもまた、武家の義務なのでしょう。――私もまた、武家の娘であります。共に参加はできずとも、切り上げ時を知らせることは出来ます。……平助様が、お呼びですよ?」
富岡智子は、ほどなく継国智子となる。婚約からの期間を考えれば、ようやくという想いもあった。
十五という齢は、元服する年としては早すぎるものではない。早ければ十三、十四で元服という例はあると聞いたことがあるし、そう思えば標準的なものであろうとすら思う。
つまり、智子との婚姻を受け入れるのに、不足ない年齢になったのである。こうして、共に過ごす時間が増えても、不自然のない時期であった。
「わかった。……行こう」
「巌勝様」
「……何だ?」
「巌勝様!」
笑顔で固まった表情のまま、智子は巌勝ににじり寄る。
圧迫感を感じて後ずさると、その分だけ智子は詰めてきた。何か、不適切な態度を取ったのかと省察すれば、自ずと言葉は口から出てきた。
「――ああ、智子。わざわざ、伝えに来てくれて……ありがとう。……助かる」
「はい、巌勝様。わたくしは、これから継国の嫁となるのです。夫婦であれば、思いやりの一言を付け加えるのが仁というもの。互いに支え合うためにも、役割への敬意は、お互いにあってしかるべきです」
智子は、無為に過ごしているわけではない。富岡から継国に嫁ぐにあたって、ほうぼうに挨拶回りをやっている最中であり、今日は貴重な休日であった。
心と体を休める時間、それを供回りの者たちではなく、巌勝に対して割く。その行為の重さを知っていながら、感謝を示さずに淡々と処理しては、彼女の誠意に対し非礼であろう。
納得はしているが、とにかく気の強い娘である。実家ではどう過ごしていたのか、ふと興味を持ったが、今聞くことではないだろう。ただ、率直な感想だけが口に出た。
「……富岡の娘は、気が強いのだな。悪い意味ではなく、頼もしいほどに……気骨がある、とも言える。我が身には、過ぎたる嫁かもしれぬな」
初めて会ったときから、印象的な相手であった。それからいくらか接して、態度や言葉遣いも多少は変わったが、本質はそのままなのだろう、と巌勝は思っている。
「まあ、そのような。――巌勝様は、まぎれもない継国家の跡継ぎですよ! わたくしが、保証します。この富岡の娘の言葉だけでは、足りませんか? 貴方は、わたくしの伴侶となるのです。それを疑ってほしくはないと、わたくしは思います」
巌勝が成長するならば、智子もまた当然成長する。女性としての容貌について、巌勝は批判する目を持たない。
母は美しかったが、失ってから長く、記憶もおぼろげだ。そして家の中で女衆を見ることはあるが、性の対象として意識したことはない。美醜を評価する以前に、郎党の中の存在として、ごく自然に受け入れるべき人々である。
だからこそ、巌勝にとって智子は唯一の存在だった。唯一である以上、比較のしようがない。そして、不満を感じたこともまた、ない。智子は巌勝を困らせることこそあるが、常に一時的なものである。
この点、主人となる人の勘所を押さえ、不快になるところまでは押し込まない。智子自身の狡猾さが現れているとも言える。
端的に言うならば、しっかり尻に敷かれていると言っても、誤解ではないのだった。その証拠に、巌勝はあまりにも容易く、詫びの言葉を発する。
「いや、益体もないことを言った。……許してほしい」
「許せ、と言ってよいのです、そこは。巌勝様は、女性に対して真摯にすぎるのでしょうか。もっと横暴に接しても、わたくしのような女はついていくものですよ」
智子は、そう言って柔らかく笑う。そこに、偽りは感じなかった。この誠実さを美しい、と呼ぶのは、彼女の女性性の証明になるだろうか。
巌勝は、伴侶のなる女性の賢さ(狡猾さ)を、むしろ快くも思う。思わぬ刺激が、かえって面白いのである。
だが、いまだ婚姻の契は交わしておらぬ身でもあった。あまりに率直な言葉をぶつけることは、巌勝にとってもはばかられた。結局、無難な言葉に終止するのが、この頃の二人の常である。
「……富岡の娘に、横暴な真似はできぬ。両家の面子を考えれば、お互いに尊重し合うことが、もっとも……無難な形に、収まるだろう。そこは、慣れてくれ」
「うふふ、ようやく、本心を口に出されましたね。――ええ、慣れましょう。それが、わたくしのお役目なれば。……さ、平助様がお待ちです。どうぞ、お早く」
智子は、厳しさの後は決まって優しさを示す。妻として従うばかりでなく、自身への配慮を通じて家中の統制を図ろうとする――武家の女としての力を、早くも発揮しだしていた。
それでいて、巌勝と共に歩む姿勢を崩さない。こうした女性がどれほど世の中にいるのかはわからないが、おそらくは希少であることも、なんとなく彼は察していた。こうした人を妻に迎えられることの幸運を、改めて巌勝は自覚するのである。
「……ああ、そうしよう。平助を待たせてはいかんな」
「ええ、ええ。平助、と呼び捨てにする姿も、堂に入ってきましたね。――家臣には家臣らしく接することが、これからの貴方には必要とされています。尊重しつつも、媚びないように」
「わかっている。――では、またな」
「ええ、また。今日の夕餉も、共にしましょうね」
智子が富岡からの出向という形を取るのも、此度が最後になるだろう。次に実家に戻ったときは、嫁ぐための準備に入り、継国家にやってくるときは婚姻の儀式を行うことになる。
夕餉をともにする、という言葉にも、特別な感慨が込められているように、巌勝には感じられた。そして、それが特別なものではなく、日常のことになる日が、いずれはやってくるのだと――そんな風に考えている内にも彼の足は進み、気づいたときにはすでに平助の姿が見えていた。
時刻は昼過ぎから夕方の間、日中の熱気が冷め始めている時間帯である。午前中は外回りが多くなった分、これくらいの時間は家の中にいることが多いのが、最近の平助の動向である。以前は景勝が浸かっていた執務室に、彼はいた。
「今、富岡の書状への返答を書いているところだ。――少し待て」
「はい」
「景勝殿が書くべきなのだが、もう難しい。俺が代筆を始めてから、もう何度やりとりしたことか。……富岡では、俺の字の方が覚えられているかもしれんな」
「だとしても、悪いことではありますまい。――私の代でも、平助殿には……よく、働いてもらうつもりです」
父景勝の体調は、前々から良くはなかったのだが、この頃は特に悪い。平助が側に仕えていなければ、花押も押せないという有り様であった。
そろそろ覚悟する必要があるというのは、家中の誰もが理解していることだった。
「平助殿、ね。当人が目の前にいると、呼び捨てにするのも難しいか? おい。――俺は、お前が当主になるまでは、態度を変えるつもりはない。だが、今この一時だけは、対等に振る舞ってくれても良いんだぞ?」
「……対等、とは」
「タメ口でいいし呼び捨てでいいってことだよ。お前が景勝殿の後を継ぐまでの、短い間だ。今のうちに、それくらいは楽しんでも良い。――無理にとは、言わんがね」
そう言って、平助は筆を置いた。富岡への返答は、書き終えたらしい。それから、彼は巌勝をじっと見つめる。
先程の智子とのやり取りを、聞かれていたはずはない。家の中にこもっていた平助の耳には、届いていないはずである。
なのに、そうした提案を自ら持ってくる。人生の節目を前に、余計な緊張を抱えていることを、平助には悟られているのか。だから今くらいは、気楽に過ごせと言いたいのか。
――彼の意図を読むのは、億劫だった。何より、信頼できる相手の言葉である。素直に受け入れるつもりで、巌勝は会話を続けた。
「では、その書状について。……返答を、読ませてもらっても、良いか?」
「おお、いいぞ。――どうせ、見せるつもりではあったしな。大元の富岡からの書状は……あえて見せずとも、良いかね」
巌勝が目を通した限りでは、平助の書いた返答は、当たり障りのないものだった。
景勝の体調は思わしくないが、婚儀に出席するくらいは可能であること。婚儀の場は双方の立場を鑑みて、継国家の方で執り行うこと。
馬借業は順調であり、富岡家が紹介してくれた人材は優秀で、今後もお互いの発展のため、協力を続けていきたいということ。
そして最後に、我が家の当主同様、富岡秀光自身の健康も願っている、という文で締められてした。
「……平助、これは」
「富岡からの書状を見せなくても、俺の返答だけを見せれば、あちらが何を気にしているかはわかるな? まあ、景勝殿の代筆をやっている以上、文字も書けない状態なのかと、あちらが不安に思う気持ちもわかるがね。――まあ、ちょっとした問題を解くつもりで、富岡家が継国家に何を求めているのか? この返答から、予測できる限りのことを言ってみると良い」
余興の一つでもやってみろと、平助は言っているように見えた。巌勝への挑戦とも言えるが、次期当主と軽口を叩ける機会は、今後そうないだろう。
彼なりの親愛の表現だと思えば、巌勝も無碍には出来ない。何度も書状を読み直し、それから答えを口にしていく。
「父景勝の体調を、わざわざ平助は伝えている……。それだけ、あちらは継国家の将来を案じている、ということでは……? しかし、私との婚姻は、すでに目前。私と智子の関係が良好なことは、知っているはず……。万が一、体調が悪化して、父上が婚儀に顔を出せない……としても。それは、直前になって伝えれば、いいだけのこと」
「今から心配すべきことではない。つまり、社交辞令――と見ることも出来るな?」
「それでいて、婚儀は継国の家で主導する。――嫁入りする関係上、それは当然。しかし――そこから馬借業の話につなげる理由は……何か? 人材交流について、ここで持ち出すも、いささか不自然……に見える。富岡当主、秀光の健康状態に至っては、やはり……社交辞令としての、締めの言葉と見れば、ごく普通のこと。しかし――文脈を鑑みれば、別の評価もまた……可能か」
巌勝は思考を展開させながら、謎解きに向かい合う。悩んだ時間は、わずかだった。
迷わずに、彼なりの答えを出す。すぐに淀みなく、答えてみせた。
「結論――富岡家は、こちらの内情を未だに探り続けている。当主の健康状態を気にしているのは、余命を図ろうとしているふうにも、感じられる。……馬借の事業については、今後の成長の恩恵、これを享受し続けられるか? まず――気になっても、しかたのないことだろう。それゆえ、こちらからの配慮を求めるような、そんな文言が書状にあっても可笑しくは、ない。……富岡家の立場は、容易に単純化出来ない。その難しさを――富岡秀光は、今なお実感し続けているはず。継国家と、その主家たる山内上杉家の庇護……これを一番に考え、保証を求める。その探りとして……迂遠な表現を何度も用い、文面を整えた。智子の存在は、あくまで、それを補助するものでしかない。……富岡秀光の健康を案じる、締めの言葉は、平助なりの『お互い様だろう』――という意思表示。ある種の信頼の表現であろうか、と思う。……富岡の心理を、平助の返答から推察するなら、おおよそ……このようなものに、なるであろうか」
「……ちと抽象的だが、まあまあ、合格と言って良いな。――お前なりに、知恵を働かせてくれたと、俺なりに評価してやろう。他者の狡猾さを理解できる程度の、最低限の能力は持ち合わせている。――これでようやく、俺も景勝殿に安心を届けてやれるというものだ!」
「まだ、考察しきれていない部分も……ある。完全な解読には、やはり至らぬ。そう思えば……過度の楽観も、また害になると思う。違うのか?」
巌勝は未熟な身でありながら、それなり以上の知性を発揮して、平助の期待に答えてみせた。なのに満足できぬくらいには、真摯な懐疑主義者でもあるらしい。
成長の余地が未だにあることを確信できた。それだけでも、十分な収穫である。平助にとっては、答え合わせもまた、楽しい時間であった。
「悲観するほど、悪い回答でもないさ。合格、と言ったろう。補足として、富岡家は継国家に依存しながらも監視しているのは間違いないし、智子殿とそのお付きは情報収集を重要な役目としていて、今も我が家でせっせと立場を固めている。――並の武家の女なら、ああも精力的には動けまいよ。つくづく、類まれな家――いや、女を娶ることになったもんだ」
「……智子殿は、普通とは、違う。そして富岡秀光は、娘を手放さず、利用し尽くす心持ちでいる……と」
「ことさらに、非難するようなことでもないぞ。あれくらいの狡猾さは前提で、継国と富岡はお互いに利用し合っているのが現状だ。一応、智子殿自身に目を向けるなら――実家の権威を利用したり、時には実家のために動くというのも、富岡くらい気位の高い家の娘なら……仕方がないことなんだろう。俺達在地勢力、地方に根ざした武家にとって、血縁や地縁は切り離せるものじゃない。――場合によっては、嫁ぎ先を敵側に売って、実家に逃げることも選択肢として存在する。富岡家の複雑さを思えば、その手段は最後まで捨てないだろうよ。……それをわきまえて、俺達は連中と付き合う必要がある。どんなに親密に接しても、これは変わらないと心得ておけよ」
そこまで言うと、平助は立ち上がって、部屋を出ていくよう身振りで示した。何かしらの意図があるのだと悟って、巌勝は彼に従い、ともなって歩く。
「米倉に立ち入って、中を見に行くぞ。――これが案外、意味のある行為でな。どれだけ貯蔵しているか、定期的に確認する必要があるわけだ。密かにくすねる、不届き者が現れる可能性を心配しているわけじゃない。そんなバカは、そうそういない。それよりも大事なのは、徴税している村民たちに対して、誠実さを示すために必要なことなんだ。――貴方がたの努力の結晶は、確かにここにあります。もしものときは、還元いたします、と。俺と彼らの目で、交互に定期的に確認する作業を挟むことで、信頼を積み上げているわけだ。……そら、今日も小さな信頼を重ねてみようか」
しばらく歩けば、敷地内の米倉に行き着く。もしもの時の備蓄、戦時においては貴重な兵糧を保存する場所である。
まあ、あれこれ言葉にするよりも、実際の人材の働きぶりを見たほうが話は早いだろう。そのように平助は口にして、倉の中身と帳簿を突き合わせる作業に入った。
「そら、見てみろ。帳簿と倉の中身は、寸分たがわぬ精度で矛盾がないことがわかるはずだ。――ここは時間を掛けていいから、一つ一つ確認して回ると良い」
平助の言われるままに、巌勝は作業を開始した。米倉の中身をあらため、一つ一つ確認していく。
帳簿のとおりに米倉は埋まっているのか。不届き者が、密かに米を抜いていないか。本気で心配しているわけではないが、仕事に手を抜けないのが巌勝の性根というものである。
平助の示唆したとおり、流石にこの継国家の手の届くところで、不届きな真似はするまいとは思う。
それでも一応、丹念に時間を掛けて確認する。当然、予想通りに不備はない。平助はその間、帳簿に関わっていた富岡家の人員と、何やら話をしていたらしい。
巌勝が帰ってくると、その人員を屋外の業務に当たらせて、倉の扉を閉める。そうして、平助は改めて向かい合った。
「さて、どうだった?」
「どうも、何も……」
「不備も不正も、なにもない。自分がわざわざやる必要はなかった。無駄な時間を過ごした、とでも言いたげだな? ――まあ、聞け。お前は聡明だが、目に見えるものばかりを重視する癖がある。それを悪いとは言わぬが、とらわれすぎると思わぬところ見逃してしまうぞ。ま、人払いをしたところだ。多少は声を潜めつつ、思いの丈を話していくとしようか」
平助は軽口を叩くかのように、巌勝の不満を示してみせた。わかりきったことをあえてやらせたことには、意味がある。
それを示すかのように、彼は持論を展開した。
「米の帳簿を管理させていた、あいつ。見慣れない顔だったろ? 実は新顔でな。……継国家の敷地内にある米倉は、もう富岡家の人間に管理させている。これは今後富岡と継国が身内になり、共存共栄していくという意思表示でもあるわけだ」
「……こんな近くにおいて、不正も何も……やりようがないだろう。これを信用、と言って良いのか?」
「いいとも。実際に帳簿を任せてやれば、お互いに少ない労力で監視が出来る。そしてこの距離の近さは、継続していけば信用、信頼に繋がり、両家が助け合う理由付けになる。……智子殿を俺が評価しているのは、それを理解して、お前に対等に接していることだ。本当は、もっとおしとやかというか、控えめな態度を取ったほうが、武家の男には受けが良い。――それを放棄して、率直に正直に女としての自分を主張する。そうした方が、お前個人には受けが良いということを理解しているわけだ」
お互いの家ではなく、巌勝自身のために、己を調整する。その努力を、智子はしているという。
巌勝とて、なんとなく覚えのあることである。改めて言葉にされると、ちょっとした衝撃であるが、納得はある。なるほど、これが信用の根拠になるのか――とさえ思うのだった。
「納得した。――が、平助。それは、私が米倉の中を探らねばならなかった……その理由としては、まだ弱いな? 信頼を積み上げるための作業にしても、私でなければならない理由は、やはり、ないように思うが……」
「次期当主が、卑近な事柄にも興味を持って、直接調べることがある。その事実を、富岡という他家の人員を通じて示してみせた。――これによって、帳簿をつけるにも緊張感を持て、と知らしめる目的が、まずひとつ。そして作業させてお前の目から離している間、富岡の人員と俺自身が話し合いの場を持つこと。それがふたつ目の理由になるな」
ひとつ目の理由はわかりやすいが、ふたつ目の理由はよくわからない。
巌勝のそうした態度がわかりやすかったのか、平助はすぐに答えを口にした。
「ふたつ目の理由の何が大事なのかと言えば、俺は富岡の連中との付き合いが、家中では一番長い。もちろん、当主の股肱の臣という認識は持たれているから、打ち解けるほどじゃあないが。……世間話や愚痴をこぼしてくれるくらいには、親近感を持たれているわけだ。今回の件は、お前がわがままを起こして、自ら米倉の中に入ったことにしてる。そして、俺は『いきなり帳簿と米倉の中身を精査する』と言い出したお前を引率し、無駄で余計なことをやりやがって――という切り口で、富岡の連中と語り合えたわけだ。……結構重要だろ?」
「……平助のやることだ。何かしら――意味が、あったのだろう。それで、富岡の者と打ち解けて……何か、聞けたのか?」
「特別なものは、何も。故郷の家族は元気か、こちらとの生活との差異はないか。うちと同じように、富岡では上に振り回されることがあるのか。あったとしたら、それでどれくらい困ったのか――。まあ、そういうことを同情たっぷりにアレコレとたぶらかしながら、口を割らせたわけだ」
「なんの、意味が……」
「おいおい、ここまで語ったんだぜ? ちょっとは考えてほしいもんだな」
煽り口調で考えろ、と言われて、巌勝は改めて平助の発言を精査した。
語り合うことが重要。親近感を持たれるほどの関係が、まず存在する。世間話や愚痴――故郷の話など、これを『たぶらかしながら』口を割らせた、と平助は言った。
自分の都合で、情報を収集したのだ、と彼は主張したに等しい。それに気づけば、巌勝にも意図は読めた。
「富岡の者の近況から、当主秀光の意図を探ろうとした……?」
「正解! まあ、今さら改めてやるべきことかと問われれば、ちと反応に困るが……。こういうことは、小まめに確認することが大事だからな。俺のやっていることを、お前に理解してほしい、という気分でもあった。――どうだ? 多少は、自分で動いた甲斐があったと思うだろ?」
「やり方が、迂遠……しかも、正確さには、疑問があるかと。間接的な情報……しかも相手の証言に依存するのは、あまりに危険ではないか?」
「それはそうだ。しかし、富岡秀光は、こうした部分を意図して表してくる傾向がある。俺は、これまでの付き合いから、それを確信している。――明文化されている部分と比べて、いかにもわかりにくいから、絶対とは言わんがね」
「――ならば、よい。実務に関して、私は平助を信頼している」
平助がそこまで言うなら、信頼するべきだろうと巌勝は結論づける。しかし、できれば解説がほしいところだった。
そうした不安に目ざとく反応するのが、平助の非凡なところであったろう。少なくとも、この若い次期当主に対して、彼は細やかな配慮を欠かすことがなかった。
「具体的に言おうか。富岡からこちらに出向してきた連中、その身内がしっかり安全に暮らせているということは、富岡秀光が継国家からの調略を疑っていないこと。謀略の対象にしていない、ということを確信し、信頼してくれているという意思表示になる。もし、家族が監視を受けているような、それを示唆する言葉があれば、俺も改めて考えねばならんが、現状はそうではない」
「――見せかけ、偽りという可能性は?」
「俺が現地に出向けばわかることだ。俺は実際、富岡の土地に足を踏み入れたことがある。――俺が、検証を厭う怠け者だと思うか? もちろん、逐一現状と証言を突き合わせて、裏付けを取る努力は欠かしていないとも。そして、秀光殿は俺のこうした性質をすでにご存知だ。ただ漠然と業務をしているわけじゃないって、あえて主張させてもらおうか」
自慢げに、平助はいう。確かに彼は、富岡の地に出向いた記録があり、巌勝もそれを知っている。
馬借の一団を提供するうえで、直接富岡秀光と顔を突き合わせる機会を作り、言葉まで交わしたという。そうした事実を鑑みれば、信憑性はたしかにあった。
「で、富岡ではどんな風に当主や上司に振り回されていたのか。どんな風に困ったことがあったのか――。これを知れば、継国に出向してくる連中が、どんな立場だったのかを知れる。冷や飯を食らわされて、放逐の形で飛んできたのなら、さんざん苦労していただろう。富岡への忠誠心から、意図的に継国にやって来たのなら、わざわざ苦労を苦労として語ろうとはするまいよ。そして、肯定するにせよ否定するにせよ、実際に語ってしまえば感情は表に出る。俺は、そうした事柄を言葉と反応から分析すれば良い。――それだけで、富岡からの人員の質もまた、同時に探ることが出来るわけだ」
こともなげに言う平助の言葉に、巌勝はむしろ戦慄した。さも当たり前のように言うが、彼の視点は非常に高度なものであり、この複雑さ、有用性の深さを、巌勝は理解できるだけの聡明さを備えていた。
「……平助が継国家に仕えていてくれて、本当に、良かった。もし富岡に平助がいたらと思うと、恐ろしくて……仕方がなかったろう」
「俺くらいの知恵袋は、そうめずらしくはないと思うがね。まあ、お前なりの称賛だと思えば、かえって微笑ましいくらいか。――とにかく、これくらい読み取れれば、まあまあ十分だ。富岡の人員に不満があるなら取り込めるし、忠義に燃えているなら率直な忠誠心を煽ってやれば、情報を抜くのは難しくない。……で、富岡の秀光殿は、そうした事態を見越して人員をやっていることが、これまでの対応から確定しているわけだ。だから、俺としても抜いた情報の正確性は担保できていると思うぞ」
「もはや、疑うことはせぬ。……これからも、その調子で、頼む」
「おう、言われるまでもない。俺は、継国の武官筆頭だぞ? 今更、他家に仕えるとかやりたくもないさ。――だから、頼むぞ、巌勝。長生きしろよ」
何気なく言った平助の言葉が、なんとなく、巌勝に違和感をもたらした。
長生きしろと、平助は言った。その意図は、何であろうか。
「やすやすと、死ぬつもりなど、ないが……?」
「それは当然だがね。武家の男子は、戦場という晴れの舞台で、つい格好をつけたがる。――あえて言うが、敗戦の処理においては、安易に死を選びたがる傾向が、武家の男子にはあるものだ」
それでも、と平助は言う。あえて、咎を受けてでも、生き続ける道を選んでほしい、と。
「それは、茨の道かもしれん。死ぬよりも苦しく、もしかしたら汚名ばかりを残す、過酷な人生に成るかもしれん。――それでも、と俺は思う。巌勝、お前は生きろ。生きて、お前なりの価値を人の世に残してほしい」
「……努力は、いたします」
「そうだ。努力するだけでいい。生き残るための手段を、最後まで模索し続けろ。――俺が面倒を見きれなくなったとしても、安易に死に逃げてくれるな。それを約束してくれ」
「――はい。それは、もとより、当たり前のこととして、理解しています。約束と言うなら、今、ここに」
巌勝の言葉には、自然と敬意が込められるようになっていた。
平助は、心から大事なことを言っている。その姿勢を認めればこそ、真摯に丁寧な言葉で返してやりたいと思う。
彼は、己にとって確かな先達であり、経験豊かな年長者であるのだから。今くらいは、平助を上位者として、認めても良いと思う。
「私は決して、安易に、容易く、死ぬことを選びませぬ。――これでよろしいか?」
「生きる意義、やるべきことが、一つでも残されているなら、自害しない。それを、約束してくれ」
「……はい、平助殿。ここに、約束いたします。それで、よろしいか」
「ああ。――安心した。それでこそ、俺が仕える甲斐のある主人だ」
そうして、平助は本当に安心したように、笑顔を見せる。
この時の巌勝には、わからなかった。この時の約束が、どれだけ重く、責任と苦しみを己に課すものであるか。
自覚せずに済んでいた、幸福な時代であったことを、巌勝は後に知ることに成る。
継国巌勝は、生まれたときから試練を強いられており、それは青年期に至って頂点に達するのである。
そうした運命の過酷さを、今は誰もが知らない。平助は、何も自覚せぬまま、ただ直感だけにしたがって、巌勝から合意を引き出した。
それが後年、何をもたらしたのか。そこまで見届けることが出来なかった――という事実も含めれば。平助こそが、巌勝の人生に最高の苦痛を与えた人物であったと言っても、間違いではなかったろう。
それでも、今の二人の間には、確かな信頼が存在していた。最終的な評価は別にして、それは今、確かに有用なものであり、継国家の血を後世に残すのに貢献したことも、また事実であったのである――。
これは何度でも強調したいことですが、今作は二次創作であって、厳密な室町時代を表現するものでありません。
別の歴史を辿った、並行世界のようなものであると、お考えください。時代考証については、おそらく最後まで、自信が持てない。その程度のものにとどまると、筆者は自己の限界としてわきまえております。
それでも、何かしらの想いが読者に残れば、それでいい。そう思って、今も執筆を続けています。
これも何度も言いますが、最後まで見守ってくだされば、幸いに存じます。もしお付き合いくださるなら、また来月。同じような時間帯で、会いましょう。
私の作品が、読者の皆様がたの時間を奪うに値する、何かしらの価値を提供できていたなら、これ以上のことはありません。