継国之物語   作:西次

25 / 26
 時代考証が適当なことは、何度もお伝えしているとおりではありますが。
 ここから先は、史実の合戦も織り交ぜて物語を進めることになります。
 お気に召してくださるかどうかはわかりませんが、いましばらく、お付き合いくだされば幸いです。



第二十五話 両家の婚姻準備と周辺の事情について

 関東情勢は、時間とともに変わりつつあった。継国家がどうなろうと、あるいは富岡家が繁栄しようがするまいが、政治環境は急速に不穏な方向に流れていった。

 北条氏の伸長は止まることなく、その力は日増しに大きくなり、他の勢力を圧迫していった。

 そうした環境の中、関東管領を任せたはずの古河公方とて、危機感を覚えずには居られなかった――と。これをもって、足利という血筋の脆弱さが露呈したというのは、言い過ぎであろうか。

 あるいは、関東に置ける新しい血――伊勢新九郎が北条という懐かしい名を持ち出した、その叡智に感嘆すべきなのかもしれぬ。今、まさに北条が二代三代と紡いできた結果を、古河も両上杉も目の当たりにしている。

 

 この現状に対し、対抗策を求めるのは必然であった。そして当然、北条もこの流れを承知しているだろう。よって、古い権威と新しい勢力の決裂は、最初から約束されていたものと言ってよい。

 現に、山内上杉家と古河公方は政治的に結びつつある。その中に継国家や富岡家も含まれているのだが、もはや関東情勢はそれ以上に大きなうねりを起こしつつあった。 

 扇谷上杉家、そして遠くは今川家さえ巻き込んで、北条を打倒しようという試みが、天文13年(1544年)から始まっていたとしたら、驚きに成るのだろうか? 後世の目線からすれば、あれほどの大会戦の実現に際し、これくらいが正当な準備期間であったと評されるであろう。

 歴史上有名である、河越城の戦いに至るまでの道程は、決して平坦なものではなかった――というのが、後世から俯瞰した際の評価になる。

 

 しかし、当事者目線において、それはただの結果でしかない。見通しさえ立たない中から、実務に尽力している人々にとって、これは並々ならぬ労力が必要なことであったろう。

 そもそも複数の勢力間での合意を取り付けること自体、至難であったことを認めるべきである。交渉とは根気のいる作業であり、時には拒絶から始まることもある。

 戦国時代は難しい時代であり、混沌の中で和合と分裂を繰り返した時代である。絶対の敵もいないが、信頼できる味方も作るのは難しい。

 よって、一時的な同盟行動でさえ、背後には多大な試みと努力の積み重ねが存在するものだ。そうした事例を、継国家の武官筆頭である平助は今こそ実感せねばならなかった。

 

――まあ、書状でどうにかなる問題だと思っていたわけじゃないが。上流階級の考えることは、わからんね。拒絶を示すなら単純に「いやだね」と書けばいいだろうに。無駄に遠回しな表現をするもんだから、文言の解読に時間がかかって仕方がない。教養のない相手の身にも、なってもらいたいもんだ。

 

 平助は、自身が代筆した書状の返信が、拒絶の内容であったことを確認する。

 継国景勝の名は、それだけ相手にとって軽かったことの証明になるが、平助はこれを実感として受け取らねばならなかった。

 

 その書状とは、継国家の経済的な支援を扇谷上杉家にまで伸ばすことの提案。ひいては、山内上杉家から扇谷上杉家への同盟の打診である。

 それを当主である上杉朝定(うえすぎ ともさだ)に申し出たものであるが、けんもほろろに拒絶されてしまった。もちろん、直通の通路自体は存在しないため、上杉朝定の家臣に向けて上意を伺うことの申し出をした――というのが実情であった。

 この時点の拒絶は主家の方針そのものであるとも言い難いため、まだまだ対話の積み重ねが必要な時期であるとも言える。

 

 そもそも山内上杉家の家臣である継国家に、武家としての貫目が足りない、という切実な事情があった。継国家は上野の流通を差配する、経済的に影響力のある家ではあるが、武勲や名声はごく小さいものである。

 扇谷上杉家としても、武家の面目というものがあるだろう。小身の家のものが、不遜なことを言っているが、何を企んでいるのか――? とはねつけられれば、言い訳も難しい。

 扇谷上杉家は、長年敵対していた山内上杉家との和睦が二年以上前に成立している。とはいえ、まだまだ信頼を寄せられるだけの実績もない。支援、援助を素直に受け取るには、形式を踏む必要がある。それが拒絶という形で表れたのだと、平助は理解した。

 

――武家の面目ってやつは、本当に面倒くさい! どいつもこいつも、素直に仲直りするってことが出来ない連中だ。最初の交渉をはねつけて、自家の矜持を示す。こんな条件で安売りはしない、と。強い態度を示さないと、配下の者共への威信に関わるんだろう。それでも必要性だけはわかっているから、拒絶の返事は家臣に任せて、妥協の姿勢だけは残しておくんだ。で、時間をおいて、それなりの対価をよこせと言ってきやがる。

 

 お前たちの都合に合わせてやるのだから、それくらいは当然だ――と上から目線で言ってくることが、平助には目に見えるようだった。

 その割りを食うのは、いつだって主家ではない。従属する国人衆が往々にして押し付けられるのであり、今回は継国家がそれに当たっている。

 これはつまり、我が家ならば無茶ぶりに答えてくれる。複雑な事情を処理しつつ、同盟への道筋をつけてくれる――という理解が、連中にはあるのだろう。その信頼と狡猾さが、平助には恨めしかった。

 両上杉家は、実際にはもう上の方で合意が取れているんじゃないか? だから、こうやって雑務を押し付けてくれるのではないか? そのような妄想さえ、思い浮かぶようであった。

 

――実務的な交渉を担当しながら、主家に伺いを立てつつ、出費も負担せねばならない。忌々しいが、それを押し付けられても、こちらとて権威を利用しているという事実もある。国人と守護の関係は、まことに複雑怪奇よな。

 

 拒絶の書状を握りつぶしながら、平助は思案する。今後の方策を考えねばならない。

 景勝の病は厚くなり、ここしばらくは床の上で過ごしていた。せめて、実務の悩みくらいは肩代わりせねば、主君の命を縮めさせてしまうと平助は考えている。

 

――さて、どうする? 一手目の拒絶は想定できたこと。だが、ここからの手立ては手探りに近い。楽ができたなら一番だったが、希望は潰えたわけだ。……すると、あちらの顔を立てる形で、こちらの意図を汲んでもらうよう、細やかな配慮を行っていく必要がある、と。

 

 武家は面子、名目を重視する。武家同士の付き合いはもとより、商業的かつ間接的な関わり合いにおいても、名目――要するに「お前の家と金銭をやり取りする必要性がどこにあるのか? 殴って奪ってはいかんのか?」という問題に行き着く。

 お互いに殴り合うよりは、銭と物品を交換し合うほうが有益である、とわからせるには、実務より前に『そうせねばならぬ、という納得』がまず必要である。

 

 これには、既存の権威を利用するのが一番早い。古河公方、および両上杉家の名義は武家の正統、幕府という紛れもない武士が寄って立つ根拠を示す名目になる。

 これを、継国家は上野の流通を支配する過程において、明確に利用している。そこを突かれれば、妥協は当然の流れである。

 さりとて、転ばされてもただでは起きぬのが、この時代の武家の狡猾さ。平助もまた、こうした資質を備えている。

 

――よし、わかった。俺には頼れる相手がいる。武家には武家の論理があるが、仏教僧にはまた別の扱いがある。月舟禅師の伝手をたどって、交渉の道をつなげていくか。

 

 無制限に頼っていい相手ではないが、月舟禅師の禅寺を長く庇護していたのは、継国家である。

 持ちつ持たれつ。武家の権威への対抗として、仏教僧の権威を用いる。これもまた、戦国の修辞法――要するに詭弁であるが、形式を踏むこと自体が、ここでは対話の手段となる。

 

 平助は、ただちに月舟禅師との連絡を取った。そして禅師は待ってましたとばかりに、老境にあるまじき健脚で継国家までやってきたのだった。

 

「お久しぶりですな、平助殿。……景勝殿のお加減は、いかがですかな?」

「こちらこそ、お久しぶりです、月舟禅師。景勝様は、最近は食も細く、外の業務にも出られない状況です。……厳しい、と言わねばなりません」

「左様ですか。それはまた、なんとも。――わしに、相談したいことがあるそうで。お話を聞きましょうか」

 

 そうして挨拶もそこそこに、本格的な調整の場を整える。饗応らしい饗応はできないが、茶と菓子を出すことくらいは出来る。

 一室を用いて、平助と月舟禅師は継国家の将来を決定させる、大きな謀略を動かしていくのだった。

 

「古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家。この三家の同盟が試みられている、という話は聞いておりますか?」

「遠くは駿河の今川家にも、話が通りつつある、という話もどこからか聞こえてまいります。仏僧の情報網は、これでなかなか、遠くまで伸びているものでして」

「それは頼もしい! いや、私が言い出すまでもなく、頼りたい内容まで把握しているようではありませんか。……まこと、月舟禅師には頭が上がりませんな」

「この老僧を、そこまで持ち上げてくださるなよ。わしが偉いのではなく、わしの弟子たち、曹洞宗のつながりが、それだけ強固であるというだけの話。――焦っておいでか? 平助殿」

 

 月舟禅師は眼の前の茶にすら手を付けず、眼光を鋭くさせて平助を見やった。

 にらまれ、焦りを指摘された平助はと言えば、伏して詫びる他に、なすすべがない。

 

「失礼いたしました。決して、非礼を働くつもりはないのです。……改めて、月舟禅師の力をお貸しください」

「頭を上げてくだされ。こちらとしても、責めたいわけではない。継国家の発展と維持は、上野の秩序のためにも必要なものであると、わし自身理解もしております。頼られれば、否とは言いますまい」

「助かります。――では早速本題に入りますが、扇谷上杉家への伝手をお持ちですか? できれば、そちらから働きかけて、古河も山内も同盟の用意があること。傘下の継国家が、上野に置ける行動の支援を行うことを、扇谷上杉家の上層にまで伝えてほしいのです。その約定の裏付けとして、平時にはこちらから物資の都合をつける。その用意があることも、同時に伝えていただきたい」

 

 ふむ、と月舟禅師は考え込んだ。平助の主張が多岐にわたるため、咀嚼する時間を必要としたのである。

 天井に目を向け、しばし沈黙。それから平助へ視線をやり、改めて老僧は口を開いた。

 

「まず、可能か不可能かで言うならば、やってやれないことはないでしょう。最悪、私が出向けば話くらいは聞いてもらえるでしょうな」

「それは結構なことです。期待しても、よろしいですか?」

「しかし、話を聞かせた後で、相手が思い通りに動いてくれるかどうかは、まったく別の話ですな。――それくらいは、おわかりでしょうに。あまりに重い期待は、老僧には不相応です」

「いえ、いえ。話が直接通るだけで、今は十分なのです。同盟交渉が、拒絶と聞き流しから始まったとしても、後の話し合いに通じればそれで結構。まずは、可能性を作り出すことが肝要であります。……話さえ伝えてくれれば、後は私の仕事、それ以上は望みません」

 

 これでも、重い期待と言えるのか? 口にしたことを実行してくれる。そう思って良いのだな――と、平助は言外に伝えるつもりで、禅師を視線によって射抜いた。

 迫力のある眼光に、しかし老僧は動じない。ただ苦笑して、受け入れるように言った。

 

「まあ、それくらいならば確約いたしましょう。あくまで、話を持っていくだけ。返答は、期待なさらぬように」

「十分です。……ありがとうございます」

「平助殿も、大変ですな。景勝殿の病は、よほど重いのでしょう。……巌勝の婚儀までには、持ちそうですか?」

「それは、なんとも。――いえ、景勝様は、それこそ心の支えとしております。見届けずに逝くことは、ないと信じたい。そう、思っております」

 

 問題は解決したとばかりに、話題が飛ぶ。巌勝の事柄こそが、月舟禅師には最大の関心事であった。

 だから、あえて話題に出したのであるが……平助とて、話が重いゆえに言葉も鈍くなる。

 

「医師の手配……は、今更わしが言うようなことでもないでしょうか」

「むしろ――あなたの手配こそが、近いうちに必要になるでしょう。巌勝にも、覚悟はさせています」

 

 継国家と富岡家の婚姻が終わり次第、当主の交代が行われる。巌勝が喪主となり、葬儀を持って継国家は次代へと継承されることになるのだと、月舟禅師は理解した。

 平助の表情は苦い。彼は、ぐい、と手元の茶を飲み干す。老僧もまた、それに倣うように、ようやく茶に口をつけた。

 

「良い茶葉を使っておりますな。そう、苦い顔をしなくとも宜しかろう」

「……不味いのは、茶ではなく、心の問題ですので」

 

 茶は高価な嗜好品であるが、駿河国――今川の支配下から取り寄せれば、調達そのものは難しくない。

 しかし、この茶の芳醇さはどうであろう。鮮度が良くなければ、この味は出せない。駿河国からの流通は、よほど整備されているのだろう。そうでなければ、茶葉の鮮度を保ったまま、この家まで持ってこれるはずがない。

 つまり継国家は、すでに今川とも関係を構築できているのだと、月舟禅師はここに来て悟る。

 

「これから、ですな。継国家が発展するも、潰えるも、巌勝の当主としての器にかかっている」

「景勝殿が直接薫陶を与えるだけの余裕は、もはやありません。しかし、景勝殿に長く仕えた、この私がいる。――巌勝を教え導く手伝いを、どうか、禅師にもお願いいたします」

「……わしにできることがあるならば、是非にも」

「ありがとうございます。……巌勝にも、会っていきますか?」

「いえ、遠慮しておきましょう。講義の時間よりは、今は自分と向き合う時間が、巌勝には必要でしょうから。――それより景勝殿に、ひとつ、言伝を」

 

 月舟禅師は、言伝一つを残して、継国家を去った。健脚であるばかりではなく、決断も早い人だ――と平助は率直に思う。

 足早に去ったということは、今日明日にでも行動する、という意思表示でもある。月舟禅師は、信頼していい人だ。これまでの付き合いと、今の会話を通じて、彼はそうした確信を持った

 それゆえに、言伝の内容が問題であるとも思う。平助は正直、これを素直に伝えるべきか悩まねばならなかった。

 

「『縁壱ではなく、お前こそが継国の跡継ぎにふさわしい』――そう明言して、褒めてやってほしい、か。健常であったなら、禅師自身が伝えてくれただろうし、俺の苦労も減ったんだろうが」

 

 部外者である老僧に、今の景勝の体調を慮るのは難しい。何より身内の者として、現当主の健康問題を、外部に漏らすこと自体に抵抗がある。

 そうした状況をかんがみて、禅師も身を引いて言伝だけを残したのだろうと思う。内容もまた、いまこそ必要なものであると平助も認めていた。

 一番の問題は、景勝がそのような態度を示すことが、不可能であるという事実そのものにある。

 

「死を自覚したら、悟って物わかりが良くなる――なんて幻想だ。むしろ、妄執にこもる。今のあの人は、とても人前に出せる状態じゃないんだ」

 

 それでも、妄執の景勝に、現実を知らせずにはいられない。それが家臣としての、平助の義務であった。

 巌勝にも、今は距離を置かせているが、婚儀を前にすれば流石に接触せずに済ませることはできない。

 どうにか、まともな思考だけでも取り戻せるよう、己が尽力せねばなるまい――と平助は決意していた。

 決して軽くはない業務の中、武家家庭の平穏も同時に守ろうとする。忠義とは、主と共に苦しみ、現実を背負う覚悟であると心得るがゆえに。

 これを行う平助を、いかに評するべきか。忠臣と言う概念があるならば、平助こそまさにそうであったろう――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自身の背景が密かに動いていることも知らず、巌勝は己と、己の将来と向かい合っている。

 巌勝の礼儀作法は、決して洗練されたものではない。月舟禅師の薫陶は彼に一定の礼法を身に着けさせていたが、それは儀礼の場に限定されたものである。

 例えば、婚儀の場において、新郎にふさわしいふるまいは出来る。だが、実際の武家同士の付き合い方、他家の臣下に対する労いや、書面での対応などについては、いまだ十分な理解があるとは言えない。

 月舟禅師は僧侶であるから、そうした方面での知識は流石に乏しかった。よって、これを補佐するのが、『継国智子』の役割になる。

 

 智子は間近に迫った婚儀のため、すでに人員を連れて継国家に入っていた。吉日を前に当人がいち早く現地に来たのは、最後の調整という一面もあるが――富岡当主、秀光が自ら婚儀に参加するという意思を見せたことが原因である。

 もともと、出席そのものは想定されていたが、お互いの体調と激務を鑑みて、自重する方向で話は進んでいたのである。それが、この間際の段において秀光の婚儀出席が決定された。

 

 彼の真意はさておくとしても――唐突に言い出されたものであるから、まず秀光を外出させるための日程調整が急務となった。それでも予定していた日をずらすことはしたくないから、割りを食うのは富岡家とその周辺になる。

 結果として、秀光はまず智子を継国に向かわせるという判断をした。早めに現地での調整をさせて、自身が来たときには即婚儀を行わせる。そうした目論見が、彼にはあるのだろう。

 

 そして、継国はこれを拒否できない事情がある。富岡秀光は自ら作り出した課題を処理しつつ、外出できるほどの元気を残しているが、継国景勝はそうではない。

 共に健康不安を周囲に心配されながら、富岡秀光は復帰し、継国景勝は病に倒れ死の淵にある。その違いは、今後の明暗を分ける問題となりかねない。

 

 向こうからの提案の拒否、という負い目を、新しい当主に押し付けることはできない。そうした周囲からの気遣いを、巌勝自身も感じていた。

 彼は今、本当に継国家を継ごうとしている。そうした現状に、改めて重圧実感している真っ最中であった。

 婚儀の準備という、一般的には浮かれていても許される現状の中で、彼は真剣に自家の未来を考えていた。ここで智子が傍にいるという事実は、間違いなく彼を支えていたと言える。

 

「――はい、それで良いでしょう。我が家は難しい家ですが、私はこれを知悉しています。我が家を通じて、古河との交渉をすることもあるでしょう。そのためには、文法一つ、振る舞い方一つ、間違えてはなりません。それは間違いなく、継国家に付け入る隙を与えるものですから」

 

 今、巌勝は、その智子から教えを受けていた。富岡と結んだことによって、新規に関わり合いになる武家は増えるし、万が一にも古河公方の下に出向くことになれば、相応の礼儀作法は必須となる。

 これを補助し、身につける手伝いが出来るのは、富岡智子を置いて他にはなかった。

 

「そうか。……そうか、智子がそこまで保証してくれるなら、これほどの安心はない。どうか……これからも、私を支えてくれ」

「まあ。支えてくれ、などと! 巌勝様が、素直に感謝してくださる。わたくしは、その事実を確認できて、本当に嬉しく思いますわ」

 

 智子は父の富岡秀光から、武家の妻としての内助の功――面倒な人付き合いの調整や、公式の書式はもちろん、儀礼的文章の書き方など、より実践的な礼法を身につけていた。

 継国家は歴史の浅い家ではないが、武家の格としては低い。対して上野富岡氏は、永享の乱で幕府軍を迎え撃った結城氏朝の弟、久朝の子直光を祖としている。

 更に遡れば平将門を討った藤原秀郷にすら行き着く家であるから、相応の格式、儀礼の知識を実践している家に連なっているのだ。

 そうした蓄積を、智子は受け継いでいる。その事実は、巌勝にとって貴重な刺激として受け止められていた。

 

「しかし、秀光殿は……なんとも、剛毅であるといえば、良いのか。以前の健康不安が嘘のように、活動的に成ったらしい。――我が家とは、大違いだな」

「わたくしとの婚約以前は、確かにそうした傾向はありましたが……どこまで、本当だったのでしょうね。わたくしのお父上は、人を試すところが、結構ありますから」

「……意図的に、健康不安を演出した、と? そうして、試される方は……溜まったものではないな」

 

 それが事実であるとしたら、富岡家の内部のみならず、月舟禅師から景勝、平助まで含めた全員が秀光の手の内にあったことになる。

 恐るべき策謀――という言い方は過剰であるが、一杯食わされたことを認めねばならない、と巌勝は思った。

 そうした彼の戦慄が、智子にも伝わったのであろう。彼女自身は、どこか自嘲気味に、苦い笑顔を作って答える。

 

「本当に体調を崩していた時期は、あったと思います。本人も、本気で自分の身を案じていたのかも知れません。でも、素直に弱音を吐くことも、あけすけに周囲に助けを求められる人でもありませんから。……いっそ、自分の窮状を利用して、不穏分子のあぶり出しでも狙っていたのかも知れませんね? ――そこまでの成果は、なかったようですけれども」

「しかし、結果として継国家との関係が生まれ、私と智子の婚姻が成った。……秀光殿の策略が、功を奏した。そう、言っても……過言ではない。私は、そう思う」

「お父上は、ご立派ですね! わたくしの旦那様に、そこまで評価されるだなんて。ええ、ええ。……わたくしは、あの人に対して、複雑なものを感じています。愛も、怒りも。どれが本物かなんて、わからないくらい。だから、いいます。富岡秀光は、健全な心をすでに失って久しい人なのです。例えば、このような事がありました――」

 

 そうして身内への暴力から始まり、感情的で均衡を欠いた日常の態度など、智子はあえて巌勝に語った。そうして決定的な意見を持って、締める。

 

「あるいは、父が病状から回復できたのは、継国との関係を持てたから。経済的な支援を持って、自家の繁栄を確信できたから、かもしれません。病は気から、と申します。――なんとも皮肉なことですが、それゆえに、父は元気になった。健康不安が策略のように機能したのは、偶然のようなものだったのではないか――? と、わたくしは、そのような感覚も持ち合わせています。完全な真実ではないにしても、どうでしょう? いかにも、ありえそうなことではないですか」

「そして、反対に、継国家では当主景勝が、病床から立ち上がれぬほどに……弱っている。私も、顔を合わせなくなって……しばらく経つ。――平助殿からは、覚悟しておけとも、言われている。そう思えば、対象的であるな」

 

 富岡秀光と、継国景勝。両者の差は、どこから生まれたのか? 今となっては、考察する意義も少ないであろう。

 何をどうしても、景勝の死期は明らかである。そして秀光は、婚儀の参加のために無理を押して来るという。

 ――暗い未来を思って、巌勝は不安が心を覆うのを感じていた。そこを、智子が叱咤するように言う。

 

「巌勝様は、どうしてそこまで弱気になるのでしょう? 貴方は、まぎれもない嫡子であり、当主となるお方です。婚儀を前にしながら、不景気な顔をしていれば、それこそ没落の原因になるでしょう! もっと不敵に、厳格に、どこの誰の父であろうが関係ない。恐れるものなどない――と、言ってのけるくらいの自信は、お持ちくださいな」

「貴方の父に、敵意を持っているわけではないが……? むしろ、縁そのものは……感謝している、と言っても――」

「その感謝もいけません。言われて嬉しい、という気持ちもわたくしにはありますが、人前で素直に率直に感謝を示すと、弱みだと思われて付け込まれることもあります! 父は、特にそういうところがあります。……富岡は、実際には経済的に継国に従属しているのが、現状でもあるのです。これからの話は別として、今、そうである以上、無条件の信頼など我が家に向けるべきではありません。感謝の意を示すとしても、威厳を持ってですね。ああ……形式については、わたくしが教えられます。我が家の面倒くささは、わたくしが一番良くわかっていますから」

 

 そうして、智子はまるで説教するかのように巌勝に説いた。

 こんこんと説く、その様は、まるで母に叱られているようにも、彼には感じられた。母からそのような態度を取られたことなど、一度もないと言うのに。

 だから、であろうか。巌勝は反感ではなく、やはり感謝の念を智子に抱いた。真剣に自分を案じてくれている。その心根に、温かいものを感ずればこそ、口に出して言いたくなった。

 

「私は……そこまで、偏屈になりたいとも、思わないのだが。私が智子に感謝を示すのは、咎められるような、事柄なのだろうか……? 夫婦とは、武家とは、それが普通なのか……?」

「いいえ、いいえ。巌勝様は、わたくし個人を尊重してくださいます。わたくしは、それだけでも貴方を夫として迎えられて、幸福だと思います。――これは、お世辞では、ありませんよ。ただ、武家同士の付き合いというものは、感情だけで成り立つものではない。義理人情の他に、どうしようもない計算もまた、働いている。それが、事実であるのです」

 

 本心として、ほどなく継国智子になるであろう人は言ってくれた。夫婦となる人が、対等の立場で語ってくれた。これが、彼にはひどく新鮮であり、誠実に写ったのである。

 富岡智子として、まだ僅かな期間を残している彼女が、身内としての自覚をすでに持ってくれている。その言動のありがたみを、継国巌勝は見逃さなかった。これを評するのに、やはり感謝以外の言葉を、彼は持たなかった。

 

「ありがとう」

「……はい」

「再度、言わなくて良いことまで……言わせて、しまった。そこまで気を使ってもらいながら、私は、感謝の言葉しか、向けることができぬ」

「他の目がないのであれば、良いのです。二人だけの間ならば、無邪気な信頼も、よろしいでしょう。……他家や家臣の目があれば、また、別だと考えてほしくはありますが」

「だとしても、言うべきことを、言わねばならぬ……と思う。感謝は感謝として、確かに。……私は、不器用で、無作法で。おそらくは、礼儀知らず……でも、あるのだろう。無愛想で、良き夫と成ることも、難しいだろう。だが、貴女が、他ならぬ智子が、支えてくれる。……私は、幸運だ。縁談をもたらしてくれた、全ての縁に、感謝したい。……本心から、そう思う」

「はい。巌勝様の御心、こちらこそ、ありがたく思います」

 

 巌勝は、正面から智子を見据えて、そう言った。

 彼の視線と言葉を受け取った智子のほうが、恥ずかしくて、赤面するほどの率直な態度だった。

 

「しかし――いけませんよ、巌勝様。わたくしは、はしたない女なのです。父からも、未熟さ故に何度打たれたか知れない。わたくしのような女などに、敬意は不要です。ただ、従属させることすら、貴方には出来るのです。わたくしは、富岡の娘として、継国の強大さを認めるものです。だからどうか、相応に扱ってくださいな。それが、わたくしからの、正直な感想なのです――」

 

 ここに来て、巌勝の純朴さ、誠実さに触れて、智子は精神を崩してしまった。隙をさらした、とすら言って良い。

 それだけの積み重ねを、巌勝と智子の両者は経てきたのだとも言えるが、その弱みを慈しめるだけの暖かさを、巌勝は持ち合わせていた。それこそが、彼が生来持っている善性、その証明となるであろう。

 

「貴女は、未熟さ故に、父に打たれた……と言う。それを恥じているようだが、それがどうしたというのだろう? ――私とて、父に殴られたことはある。何度も、なじられたこともある。だから……というのではないが、智子の知識、努力して身につけたことは、貴重である……とも思う。貴女は、武家の女として、その義務を十全に果たしているのだ。自認ができないなら――私の方から、それを保証したいとさえ、思う」

 

 こうした言葉を聞いて、智子は涙を堪えねばならなかった。

 富岡智子であればこそ、彼の愛情に耐えねばならなかった。

 

「改めて、申し上げます。私は……富岡の女ですよ」

「貴女は、継国の妻となる……女性だろう」

「わたくしは、父に命じられて、婚姻を受け入れたのです。何を言っても、わたくしは、父の支配から、出たことのない子どもなのです」

「私は――父から殴られて、育った男だ。それでいて、未だに父を超えられぬ未熟者……なのだ。これは……似た者同士、と考えても、良いのではないか。私達は、結ばれるべくして……結ばれるのだ。そうでは、ないか?」

 

 富岡智子は、巌勝に悟られぬよう、手を後ろに回した。そうして、指を手のひらに食い込むほどに強く握りしめた。

 自傷の痛みがなければ、到底耐えられぬほどの誠実さと思いやりを、彼が示したゆえに。

 

――ああ、どうして、あなた。あなたはどうして、そこまでわたくしが欲している感情を、言葉にしてくれるのですか。寄り添おうとしてくれるのですか。わたくしは、とても口にできないような目的を、笑顔の裏に隠しているというのに――。

 

 当主秀光から、『仲を深める口実として、我をどれだけ罵倒しても構わぬ。そうして口先で信頼を勝ち取り、いざというときは、継国を差し置いて我が家を優先せよ。判断と手段は任せる』――という密命を受けていることを、富岡智子は開示できない。

 嫁入りした後も、密命を口にする勇気を、彼女は持てないのだと自覚していた。そうした意味で、確かに富岡智子は未だに父秀光の支配下にある。

 なればこそ、事情を知らぬひたむきな彼の言葉が、彼女の心をえぐり出すのだった。

 

「――はい。ええ、そう、ですね。そうであれば、良いですね」

「良いのだ、と私は思う。……もっと、気の利いたことが言えれば、良いのだが。やはり、智子は智子として、そのままで……良いのだとしか、言えぬ。不器用な男と、笑われても……致し方あるまいとも思う」

「貴方を嘲笑う人がいたら、刺してやろうと思います。小刀の扱いくらいは、嗜みに学ばされております故、護身もできるのですよ? わたくしは」

 

 智子の台詞は、あまりに不穏だった。流石にこれは聞き流せぬとばかりに、巌勝は即座に口を挟む。

 智子へ向ける視線にも、厳しさが混じった。男の沽券に関わることであると、巌勝はそのように理解してしまうからである。

 

「そのような護身は……必要のない環境を、用意しよう。それくらいは、夫の甲斐性というものであろう。だから、短絡的な護身は、控えてほしい」

「ええ、ええ。わかっておりますとも。わたくしが小刀を用いるときは、それが必要だと認めるときだけ。確実に仕留められるという確信を持ったときだけであると、約束しましょう。――そうした時が来ないことを、わたくしも願っております」

 

 握りしめる両手の力が緩む。巌勝の言葉は、智子の精神を和らげた。

 この、童子のような純朴さはどうであろう。比較して、己に汚れさえ覚えるほどの仁愛の発露である。

 こんな、きれいな人のもとに嫁げるのだ。これは幸福であることに、違いないと――智子は確信できたのである。

 そして、全てのお膳立てが整ってから、二人は婚儀を行うことになる。それは継国家が次代へと移り変わる契機であり、同時に崩壊の始まりであるとも言えた。

 

 扇谷上杉家、山内上杉家、そして古河公方の同盟が成るのは、今暫く先のことになる。しかし、後世の人々は知っている。

 彼らが結んで対立する北条という家は、戦国の申し子であり、その三代目は紛れもない傑物であったこと。いまや北条家は、まぎれもない戦国大名としての地力を持ち、それが古い権威を凌駕するものであったことを、いずれ誰もが知るであろう。

 

 この時代の対立するもの全てを打ち破り、やがて北条は関東に新たな秩序を形成することになる。

 河越夜戦によって、主家とそれにまつわる全てが崩壊していくことを、巌勝と智子の二人は、いまだ知らなかった――。

 

 




 翌々考えてみれば、継国巌勝という男に、幸福な時期などどれだけ存在したのだろうか?
 彼の人生の意味は生まれたことそのものにあり、縁壱という鬼才を鬼舞辻無惨にぶつけるための舞台装置に過ぎなかったのではないか?
 彼自身がどう生きるかは関係なく、彼自身の意志は世界にまったく影響を与えなかったのではないか――?
 
 という、さまざま疑問にも行き着きました。色々と不憫なお方だと思いますが、結局は同情以上の感情は向けられない、というのが原作の読者の正直な感想でありましょうか。
 彼の罪と向き合ったうえで、背景を描く。そうした段階に入っていると、自覚しております。
 よろしければ、拙作の読者の皆様方にも、巌勝という男の人生を想像していただけたら、と思います。
 では、また。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。