継国之物語   作:西次

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 指摘どころか感想が一つも来ないので、見落としがないものか、間違いがないものか、不安になっているところがあります。

 解釈違いだけならばともかく、明らかな失敗表現などがあれば問題ですから、何かしらの読者からの反応が欲しいとも思います。

 よろしければ、感想をお願いします。負担にならない範囲で結構ですので、足跡を残していただければ、筆者としてはうれしいです。



第三話 初期の巌勝と縁壱

 

 朱乃がもっとも心配しているのは縁壱の方だが、かといって巌勝を蔑ろにしているわけでは、無論ない。

 まだ朱乃の体調が安定していた頃。巌勝が縁壱との初顔合わせを終えた、すぐ後に、二人は会話を交わしている。その際、彼女は巌勝に対しても気遣いを見せていた。

 

「巌勝は、もう六つを数えるようになりましたか。時の流れは、早いものです」

「……はい。母上も、元気そうで、なによりです。縁壱とは、顔を合わせました。私なりに声を掛けましたが、どうにも。――弟と思えばこそ、案じてしまいます。縁壱は、大丈夫なのでしょうか?」

「……お前がそれだけ気にかけてくれるのなら、縁壱は幸せ者です。でも、巌勝。お前もつらい思いをしたことがあるでしょう? 父には話せないことでも、私には、吐き出しても良いのですよ」

 

 朱乃は、景勝の教育方針が正しいとは思っていない。縁壱の扱いに、巌勝とて虚心ではいられぬとすれば――きっと、景勝との日常生活においても、疑問を持つことも多いことだろうと思う。

 夫婦間の交流は、最近は生業の忙しさもあってか、ほぼ無くなっている。体調を崩すことも多い朱乃にとって、近頃の景勝は遠い存在になりかけている。だからこそ、巌勝との間に軋轢が出来ていないかが心配だったのだ。

 

「……縁壱に、挨拶をしたことは、まだよかったのです。しかし、遊びに誘ったことが逆鱗に触れたらしく――」

 

 殴られた、とまでは言わなかった。顔の腫れが引いてから母の前に来たので、朱乃もそこまでは察することが出来なかった。

 しかし、それでもわかることはある。景勝は、巌勝を支配しようとしているのだ。自らの偏見に巻き込み、これに従えと強要しているのだろう。それを思うと、朱乃は心が痛くなった。

 

「これから顔を合わせるのが、難しくなりそうですか?」

「いえ、父上は家を空けることも多いですから。……どうにか、誤魔化すことは、できるでしょう」

 

 巌勝の顔は、なおも暗い。その表情を晴らしてやるには、どうしてやればいいのだろうか。

 いまさら、母の教養など必要とする巌勝ではないと、わかっているからこそ朱乃は悩んだ。何を与えてやれれば、この子は愛情を理解してくれるのだろうかと。

 

「……私に出来ることは、多くはないのです。巌勝、貴方に対しても、私は何をしてやれたでしょう。力なき身が、うとましくて仕方ありません」

「そのような……ことは」

「では、話してくれますね。何が、お前を悩ませているのです?」

「私は……継国家の嫡男として、日々の責務があります。勉学と鍛錬に励むのはもちろんですが、父の仕事への理解にも……努めねばなりません。――それをつらくない、とは言えませんが、充実感もあります。しかし縁壱を顧みるならば、あいつには何があるのでしょう。きっと、何も……ない。私は、私よりも弱い立場にある弟を……哀れに思います」

 

 巌勝が縁壱を哀れむのは、生来の優しさからだとみることもできるが、そればかりではないはずだ。

 父への対抗心。早すぎる反抗の期が、この時の巌勝にはあったと考えるべき。――父に面と向かって殴りかかれない、その己の弱さから目を背けるように、弟を慈しもうとする。

 弟を気にかけることで、己を抑圧する父への意趣返しを行っているのだ。もちろん、巌勝本人にそこまでの自覚はなかろうが――内心の不満を、弟への情を言い訳にして発散する。この年の子供でも、それくらいの欺瞞はやってのけるものだと、朱乃は知っていた。だから、彼女は重ねて問う。

 

「景勝殿に殴られても、縁壱を哀れむことを、やめようとは思わないのですね?」

「そんなことで屈しては、かえって武士としての気骨がない、と思います。たとえ父が相手でも、己が意思を貫きたい。私は……父の所有物などでは、ないのですから」

 

 まだまだ幼い身の上で、ここまで言えたことを、朱乃は褒めたくなった。その知性、精神、どれほどの人間が、六つの年でここまで至れようか。

 少なくとも、悪心から来た言葉ではないと、その確信を得られただけでも十分と言わねばなるまい。

 己の意志を貫く、というからには、偽りを述べたわけではないのだ。本心から縁壱を案じていること――それが事実だとわかったならば、朱乃の中から不安は消える。

 

「兄にそこまで思われていると知れば、縁壱は喜ぶでしょうね」

「……耳が聞こえなくとも、文字で伝えることは、出来る。そういう……ことですか」

「巌勝。縁壱に何もない、というのであれば、貴方が与えればよろしい」

 

 朱乃は、巌勝の出した結論を、正しいとも間違っているとも言わなかった。言うまでもないことだと思ったから。

 そんなことより、彼が正しく思いやりの心を持っているうちに、決定的な実績を作っておくべきだと朱乃は考えている。

 彼女は縁壱の異様さにも、この時すでに気付いていた。ある意味では、似たもの兄弟と言えるのかもしれないと、そんな感想をまず抱いてしまう。

 よって、巌勝は縁壱への認識を誤解したまま、行動を起こしてもらいたかった。それが兄弟の楔となり、よりよい関係を構築してくれるものと信じたから――。

 

「私が、縁壱に、与える……? しかし、私物を与えては、父上に気取られます。そうして下手に怒りを買えば、どうなるか……わかりません」

「ええ、そうですね。――ならば、木工など、どうだろうかと思います。子供の遊びで作るだけの量であれば、私でも調達はできましょう。その気になれば上野の中からはもちろん、信濃から買い付けることもできますし……何かしら理由をつけて、私の方からお願いしてみますね」

 

 巌勝は子供であり、自分の意志で自由に使える金など、一文も存在しない。だから、そこは朱乃が動いてやろうと言うのだ。

 とにかく、巌勝の気が変わらないうちに、一気呵成にことを進めたかった。多少は強引に進めなくては、兄弟の関係を発展させることも出来まい。

 朱乃は、景勝とは違って、悲観的な見方をする人間だった。だからこそ、早いうちから縁壱と巌勝の仲を取り持ってやりたいと思う。

 

「拙い小物であろうと、お前の心尽くしを感じ取れるくらいには、縁壱も成長しています。……やってくれますか?」

「はい。ぜひにも、お願い……します。私も、それが自分に出来ることなら……やってみたい」

 

 自覚はなかったにせよ、やはり巌勝にとって、これは父への反抗心を形にする行為である。

 縁壱を案じる気持ちに嘘はないのだが、それを言い訳にして、父を批判したい気持ちは確かにあった。

 

――縁壱は、あえて押し込めるほどの……脅威ではあるまい。父上が恐怖するほどのものが、あれにあるとも……思えぬ。ならば、慈しんで、せめて寺に行くまでの間は、心を尽くしてやる。それが……家族というものではないか。正しくあるとは、そういうことではないのか。

 

 客観的な判断をするならば――これは、権威への挑戦そのものである。彼は、自分の力で絶対的な存在――父を否定しようとしているのだ。あまりにも早い反抗期は、それだけ彼の精神の成熟をも意味していた。

 家の中に限定されているとはいえ、幼子の身分でここに至る時点で、巌勝の非凡さが表れているだろう。

 しかし同時に、それが単純な武力ではなく、縁壱への哀れみという形で発露するあたり――巌勝の人格が表れているとも、朱乃は思うのだった。

 

「巌勝」

「はい、母上」

「お前は、本当に、優しい子ですね」

 

 巌勝は、目をパチクリさせて、朱乃を見やった。そうした反応をかわいらしく思って、思わず彼女は笑いがこぼれる。

 久しい笑いであった。これほど朗らかに、安心するほどの感情を抱いたのは、いつぶりか。朱乃は思わず考え直さねばならぬほど、稀な事象に遭遇していると思ったのだ。

 

「母上。……私は格別、縁壱に対して便宜を図っているとは、思いませんが」

「当たり前の思いやりを、当たり前にやる。簡単なようでいて、これは難しいことなのですよ! ――景勝殿は、本当にその辺りが下手でしてね。わかってあげる方も、苦労したのです。それはもう。……ええ、ええ」

 

 朱乃が、遠くを見る目るような視線をあらぬ方向にやって、勝手に納得している風を装う。

 こうなれば巌勝は言葉もなく、黙って見守るしかない。そうしていくらか、他愛のない無言の時間を過ごして、朱乃は改めていった。

 

「縁壱を、お願いします。……私はきっと、長生きは出来ませんから」

「そのような……ことは」

「わかるのです、自分の体のことです。――人は、己の悪い部分、認めたくない部分からは目を背けがちですが、私はそうではありません。だから、自信を持って言えますよ。……私は、貴方が成人するまで、とても生きてはいられない。それどころか、二年、三年と持つものか、どうか。怪しいものだと……考えています」

 

 今の巌勝だから、早熟な長兄が相手であればこそ、朱乃はそう言うのだ。

 母を失う孤独に耐えられる子だと思えばこそ、彼女はここまで応えた。対して巌勝は、困惑を覚えつつも、しかと受け止めて言う。

 

「……父上には、まだ伏せた方が、よろしいか」

「ええ。しかし巌勝、その狡猾さこそを、今は伏せなさい。――景勝殿は、お前に誠実さを期待している。従順で、周囲に誇れる才気を持つ継嗣として。お上に紹介するときに、自慢できる長兄として、お前を教育したつもりなのです」

「はい、母上。……それは、そうなのだと。私も同じように……思います」

 

 朱乃が巌勝に哀れみを抱いたのは、これが最初であったろう。しかし、その哀れみの感覚は、縁壱に対するものよりも、はるかに深かった。

 巌勝は武家として、正規の教育を受けている。身の丈に合わぬほどの、高度のものを曹洞宗の高僧から授かっているのだ。

 多少の付き合いはあるから、月舟禅師の気性は知っている。この子の才気に触れて、かの老僧は熱が入っているかもしれない。

 過剰な肩入れをして、それがかえって災いしないかと、母は案じるばかりであった。

 

「お前はきっと、多くを苦しむことになる。誰を恨むべきか、わからぬこともあるでしょう。その時は、この母を恨みなさい。……力及ばぬ、この私を恨みなさい」

 

 父を、景勝を恨めとは言わなかった。母を恨めと言えば、言葉の裏を察してくれる。そう期待して、少しでも巌勝の感情のはけ口となるよう、朱乃なりに工夫したつもりだった。

 

「母上のお言葉なれど、それは出来ませぬ。恨むならば、わが身を恨みます。力至らぬ、私自身をこそ、責めるべきです。……申し訳ありません」

 

 しかし、朱乃は後悔した。そのような言葉を引き出すつもりは、なかったというのに。

 巌勝は、侍として作り上げられようとしている。使いつぶされる側の人間として、疑いを抱くことなく、そのまま成長しようとしているのだと、彼女は察してしまった。

 武家の道徳に従って、その制度の奴隷となって、死ぬまで逃れられぬのが、この子の人生なのか。――ただの母親である朱乃には、それがどうしても納得できなかった。

 

「いけません」

「……?」

「そんな後ろ向きな感情は、やめなさい。貴方は子供なのです、自分を恨むだなんて言わないで。もっと甘えても。……親のせいにして、いいのですよ」

「親は、敬うべき対象です。恨みを向けるなど、あってはならぬことだとわきまえております」

 

 武家の論理でいえば、その主張は正しい。むしろ、朱乃の言い方の方が、よほど異端であったろう。

 だが自らの子が、甘えすら許されぬ世の中に生まれ、その教育に正しく適応してしまったという事実。母として、どう答えるのが最善であるのか。朱乃には、もうわからなかった。

 

「……加工用の木材は、お前に直接届けさせます。私に出来るのは、そこまで。後は景勝殿には悟られぬよう、気を付けるのですよ」

「はい。――今日はここまで付き合ってくださり、ありがとうございました。母上もどうか、体をいたわってください」

 

 巌勝を見送ってから、朱乃は手鏡を見る。自身の顔色の悪さに、そこでようやく気が付いた。

 

――私には、時間がない。どうして、私には、それだけのことが許される力を、持って生まれなかったのか……!

 

 継国の家を変えるだけの力も、支えることのできる時間も、己にはきっとないのだと。

 朱乃は、それを理解するだけの知性があった。それこそがまさに、継国家の本当の意味での不幸であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木工といっても、巌勝に心得はない。母に勧められるままに行動したものの、自分の技量ではどう工夫しても、失敗ばかりが続き――。

 空き時間を利用しつつ、どうにか形になったのは、不格好な小さな笛が一つ。

 吹いてみれば、外れた調子の、間抜けな音が響く。明らかな失敗作だった。

 

――こんなもの、作ったとて、自慢にもならぬ――。

 

 初心者なりに本気で作った一品ではあったが、世間に見せられるほどの出来ではない。

 身内への贈答品としてならば、ぎりぎり許されるかどうか。子供の拙い作りをどこまで相手が許せるかで、評価が決まるだろう。

 もっとも、巌勝はその辺り、心配はしていない。縁壱は世間知らずの人間であるし、贈り物を拒否するような精神は、まだ持ってはおるまい。

 ぐだぐだと悩むくらいなら、行動した方がマシであろう。いきなり手渡すのもどうかと思うから、段階を踏みたい。童遊びに連れ出した後、別れ際に渡すのが無難であろうかと思っていたのであるが――。

 

「巌勝」

「――あ、はい。父上……」

 

 突然、目の前に現れ出でた父に対して。どのような御用でしょうか――などと口にする前に、巌勝は殴り飛ばされた。

 顔面を殴打されたという事実を認識し、地べたに這いつくばる自分を自覚できたのは、数秒後のことであった。

 

「お前、何のつもりだ」

「……は?」

「縁壱に近づくなと伝えたはずだ。万が一にでも、あいつが勘違いしたらどうする。お前は継国家の嫡男なのだぞ」

 

 景勝は、表面上は怒気を感じさせないが、拳が震えている。痛みにこらえながら父の姿を見た巌勝は、確かにその暴力性を如実に感じたのだ。

 

「……父上」

「あいつは近いうちに寺に入るのだ。この家にはお前しか残らぬ。それだけは、心に銘じておくがいい」

 

 景勝は、それだけを吐き捨てるように言って、去っていった。唐突に姿を見せたかと思えば、単に暴力を振るいに来ただけなのか、と巌勝はかえって感情が冷めていく。

 その程度のことで、わざわざ殴りに来て――まがりなりにも家の嫡男を、地べたに這いつくばらせて、言うことがそれなのか。

 

「父上、どうして、貴方は――」

 

 そこまで弱いのか、とまでは巌勝も言えなかった。暴力で平伏させるのが下の下での手段であり、他に対話の方法を持たぬことが弱さの表れであることも、なんとなく彼は理解する年になっていた。

 しかし同時に、これを口にしないことが、分別というものだとわきまえていたのだった。

 

――私は、誰を憎めばいい。何を憎めば、正解なのか。いや自分が、我が家が、置かれている立場の弱さが全ての原因だ。きっと、そうなのだ。

 

 父は、自分の力で蹂躙できる相手にだけ、強気にふるまえる。そうした人種であると、彼自身、認めたくはなかった。

 だから父親への反抗心を育てている巌勝にとって、これは一種の口実たりえる。他愛のないことで殴られた意趣返しとして、縁壱に贈り物をするのだ。

 後でそれを知っても、母の意向と知れば、あえて父も取り上げたり、壊したりはするまいと思う。

 

――ためらっていたが、もういい。笛は、すぐに渡してしまおう。それが、一番確実だ。

 

 父の思いなど、巌勝にはわからなかった。行動だけで、言葉を伴わないならば、それが当然であろう。

 不器用な父であったと言えばそれまでだが、他に感情の表し方を知らなかったというのが、景勝という男の真実だった。

 まさに、そうした男が縁壱と巌勝のような、奇跡の双子を授かってしまったこと。巡り合わせの悪さの例として、これほどに的確なものはなかったであろう。

 

「……今だけだ。今だけ、我慢だ。強くなれば、この国で一番の侍になれれば、きっと――」

 

 巌勝は、そんな巡り合わせの悪さなど、意識している暇はなかった。最初から最後まで、彼の人生は試練と研鑽に塗れていたと言えよう。

 報われるかどうかなど、当時の彼は度外視していたはずだった。ただ努力を重ねていられた時代――それが彼にとって、もっとも幸福な時期であったとしたら。

 巌勝という男は、まさに不幸になるために生まれてきたのかもしれぬ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巌勝が剣の鍛錬を好んでいたのは、机での学問を嫌ったからではない。ただ、強くなることが楽しかったからだ。

 できないことが、出来るようになる瞬間――というものは、学問であれ剣術であれ、一定の肯定感を己に与えてくれる。その中でも剣術は、巌勝にとって一番の達成感を与えてくれるものでもあった。

 

『巌勝殿は、剣の才に恵まれているな。努力も苦ではないようだし、将来的には、上野の国でも

有数の侍になれるさ』

 

 指導役の平助は、そのように巌勝を評した。父の部下からの、直接的な誉め言葉が、彼には心地よかった。

 できれば、一番強い侍になれたらいい。継国家を維持し、国部村を守り、武家として恥じるところのない業績を作り上げたい――。

 そうしてようやく、父の期待に応えたと言えるだろう。巌勝は巌勝なりに、父の理不尽にも意味があるのだと思っている。不器用な人なのだと、なんとなく察してもいる。

 理解は難しいが、本人なりの理屈で、ああして強い態度をとっているのだ。暴力が伴う行動にしたところで、その根底には武士の矜持、誇りに関わるものがあると、巌勝は理解しているつもりだった。

 

「――ふッ」

 

 剣の素振りを行うのは、体を鍛えるだけではなく、迷いを振り切るためでもある。庭の中で出来る鍛錬として、これはもっとも簡単で効果も見込めると、巌勝は思っていた。

 一振り一振り。型を身に染み付かせるように、正しく振るう。やりすぎれば体を痛める、と心配する者もいたが、この身は常人の子供などより、ずっと丈夫であることを本人は自覚していた。

 

「――ッ」

 

 続けて、素振りを行う。巌勝は日に千回振っても、次の日に疲れが残らない。自分の年の子供なら、百回でも根をあげる者がいるという。それと比べれば、丈夫な体に生んでくださった、両親への感謝も生まれよう。

 だが、こうも思う。ならば縁壱にはどんな恩恵を授かって生まれたのか、と。

 

「ふッ」

 

 自分のことはいい。だが、耳が聞こえないであろう縁壱はどうなる。侍になることも出来ず、寺に送られて僧になるしかない。

 それが悪い道ではないとわかっている。月舟禅師は信頼のおける方だ、と教えを重ねるたびに思う。弟をゆだねるに、ふさわしい相手だとも。

 初対面での印象を思い出す。おとなしく、無感情に見えた縁壱の姿は、確かに庇護されるべき相手のように映る。

 

「……」

 

 一旦、剣を下ろして息を整える。体はまだ降り続けられるのだが、気持ちを整えるのに、時を置きたかった。

 一呼吸、二呼吸。息を吸い、吐く。その行為は体のみならず、精神も落ち着かせた。

 気がかりなのは、縁壱だけではない。母の様態についても、巌勝は悲観的だった。

 

――縁壱が母にしがみついているのは、母がいつ消えてしまうか、わからなくて。恐ろしいから、縋りついているのではないか――?

 

 母、朱乃の様態がよろしくないのは、巌勝の耳にも入ってきている。もともと、体が丈夫ではなかったことは知っているが、このところは伏せることが多くなり、離れから出てくることもすっかりなくなってしまった。

 そうして、いずれは目の前からいなくなる。寂しいと思いつつも、仕方ないことだと彼は受け入れている。武家の嫡子として、肉親への愛情におぼれてはならぬと思い、忠実に生きることを巌勝は決断していた。覚悟が決まっているのだから、その時が来ても取り乱しはするまい。

 

――縁壱は、辛かろう。いや、辛さや悲しさなど、理解できないでいるのかもしれん。

 

 巌勝が見る間切り、縁壱の行動は母離れのできない弱者との印象を抱かせた。とはいえ彼の立場にしてみれば、唯一といって良い味方である母に縋りつくのは、仕方がないことでもあるだろう。

 逆に考えるならば、そうした弱さを持つからこそ、巌勝は彼を哀れむことができているのだった。弱者だと思えばこそ、庇護しようと思うし、守ってやらねばと奮起することもできる。

 

「――ッ」

 

 素振りを続ける。本格的な鍛錬、打ち合いの類は、平助からはまだ許可されていない。

 しかし、次からはさらに厳しくやる――と。それだけ伝えられていたから、期待が重なってしまい、はやる気持ちを持て余している。

 父景勝が口出しをしてきたらしいことも、人づてに聞いていたから、もしかしたら妨害されるかもしれない、という危惧もあった。

 景勝は巌勝の才能を評価する一方で、剣に対する情熱だけは理解せず、厳しい鍛錬には眉を顰めることも多かったのだ。

 平助がこれに屈して、なあなあに済まさせることも懸念していたため、毅然とした態度を貫いた彼には感謝している。その一方で、ようやく打ち合いができそうだと思えば、素振りをするだけで気が急いてしまうのだった。

 

「……ッ!」

 

 はっきりと口に出すつもりはないのだが、子供は子供なりの感情があり、親に反抗心を持つもの。

 鍛錬を重ね、剣術が上達していく実感を覚え始めていた頃合いである。そこを父に嫌がられている――という事実は、従順ではあっても小利口な嫡男にとって、面白いことではなかった。

 気にかけられている自覚があるだけに、なぜそこで不興を買ったのか。巌勝にはそれが不思議であったし、腑に落ちぬ。

 雑念を払うように、剣を振り続けるのは、それゆえであったろう。だから、すぐ近くにまで縁壱が近づいていることにも、巌勝は気付くことができなかった。

 

「縁壱……?」

 

 松の木の陰に、誰かがいる。素振りの最中に、ふと目に入って、そこを見やれば――。

 思いもよらぬ人物が、そこに立っていた。音もなく近づいてきたのか、なぜお前が、などと思考を回している間に、縁壱本人が『口を』開いた。

 

「兄上の夢は、この国で一番強い侍になることですか?」

 

 物言わぬはずの弟が、流ちょうに言葉を発している。縁壱自身には変わったところもなく、それが自然なのだという風にも見えた。

 その驚き故に呼吸も止まり、鍛錬の最中であることすら忘れて、木剣を取り落とす。

 縁壱の声を初めて聞いた。その事実への驚愕もあるが、彼の知性がすでに人並か、それ以上であることも巌勝の感情を揺さぶった。

 

「なに、を……言っているのだ、お前は」

「俺も、兄上のようになりたいです。俺は、この国で二番目に強い侍になります」

 

 縁壱の言葉の意味を把握するのに、巌勝は時間を掛けねばならなかった。

 聡明で理解の早い彼をしても、常識が破れた時の衝撃は大きく、そこから立ち直るには相応の時を要した。

 口を開いたこと。意味のある言葉がそこから出てきたこと。それ自体は、数瞬の内に呑み込めた。だが、内容がどうしようもなくわからなかった。

 

――何を言い出したかと思えば、侍になる? お前が?

 

 理解できぬ、ということが、こんなに奇妙な感覚を呼ぶものだとは知らなかった。

 お前は侍ではなく、僧になるのだと言ってやるべきなのか。いや、それすら知らぬのかもしれぬ。知らぬうえで、無邪気に夢を語っているのだとしたら、安易に否定するのは兄としてどうなのか――。

 思考が過ぎたゆえであろうか。考えがまとまる前に、体の方が耐え切れぬように口を開く。

 

「そう、だ。お前は、口が……利けたのか」

 

 耳が聞こえないのではなかったか。口を利けるはずもない身ではなかったのか。違ったとしたら、どうして今まで黙っていたのだ――。

 過日、笛を送った日のことを思い出す。その日、縁壱はニコリともせず受け取った。

 

 それを当たり前のことと流せたのは、耳が聞こえぬ身で、笛の使い方を理解せぬのは仕方ないと思ったから。使い方とその意味は、おいおい理解すればいいと、適当な説明で済ませたのは、後でいくらでも補いが付くと思ったからだった。

 

 事実、耳が聞こえて口も利けたなら、確かにあれでも十分だったろう。問題は、巌勝自身が、己の雑な対応を恥じねばならぬことだ。

 自分の対応は、本当に誠実なものだったのか。健常であった縁壱には、己の至らなさを見透かされたのではないかと、そんな感覚を彼は抱いたのだった。

 

「口が利けたのなら、なぜ、今まで黙っていた。そうと知っていたなら、いくらでもやりようがあったものを――」

 

 口にしてから、巌勝は後悔した。自分の非を隠し、相手を非難した。衝動のままに動いてしまったことを、改めて恥じた。

 しかし歯を食いしばって、せめて悔いを悟られぬよう、己を制御する。

 恥じはしても、兄と弟だ。弟に気遣われ、哀れまれることだけは、避けねばならぬと思うがゆえに。だが縁壱は、そんな兄の思考など知らず、朗らかに答えた。

 

「申し訳ありません、兄上。母上からの許可が下りるまで、話すことはできませんでした。……そして、ついに先日許可が下りたのです。これからは俺も、俺に出来ることをやらせてください」

 

 それがどうして、二番目に強い侍になる――という話になるのか。ついて出た疑問を言わなかったのは、さすがに巌勝とて自制心が働いた結果と言える。

 継国家に、縁壱の居場所はない。そう告げることは、やはりできない。だから巌勝の答えも、あいまいになった。

 

「……父上が反対なさらないなら、私が、どうこう言う筋合いではない。……励みたいなら、励めばいい」

「そうします。兄上がよろしければ、剣の稽古も、見学してよろしいですか?」

 

 巌勝は、縁壱を拒めなかった。もとより障がいがあると思って、気遣っていた弟である。

 長幼の序は、倫理の初歩だ。年上が年下を庇護するのが、道徳的に正しい形であろう。たとえ年の差などない双子であっても、兄であれば弟を思いやり、その希望に応えるのが兄弟のあるべき姿ではないか――と。たっぷりと長考した末に、巌勝はそうした結論を出したのである。

 

「――見るくらいなら、よかろう。平助殿は……鷹揚な人だ。あえて、見学者を排除するようなことは、なさるまい」

「ありがとうございます。では、その時はよろしくお願いします」

「……ああ」

 

 自分の発言が何を意味しているのか。それが相手にどう聞こえるのか。……わかっている上で、前向きな返答が来ることを、なんら疑っていない表情だった。

 

――気味が、悪い。

 

 幼い巌勝少年は、そうした感想をまず最初に抱いた。縁壱は、巌勝からの返答に喜んで、笑顔で礼を述べたのだ。

 この笑顔は兄にとっては初めて見るものであり、弟を異物として認識にするに足る、異様な姿として映ってしまった。

 

「縁壱、もう、下がれ。私はもう少し、剣を振る鍛錬を続ける」

「はい。では、また」

 

 縁壱は一礼して去った。声の調子は平常そのものだったが、表情からして浮かれているのがわかる。

 あれは、喜んでいるのだ。巌勝は、その事実に嫌悪を感じた。感じた瞬間、自らの感情の醜悪さに、吐き気さえ覚える。

 

――いかに異様だと思っても、それを憎んだり嫌ったりするのは、兄としてふさわしい態度ではない! 私は、なんという感想を抱いてしまったのだ。それは、間違っている。

 

 巌勝には、継国家の継嗣としての誇りがあった。子供でありながら、侍を名乗るだけの実力はすでに有していたといって良い。

 景勝からの薫陶、月舟禅師の教え、そして平助の鍛錬を受けた結果――巌勝は、小さな武士とでも言うべき存在になりつつあった。

 それはまさしく彼自身の努力と才能によるものであったが、縁壱はそれ以上の、恐るべき才覚を有しているかもしれぬ。秘匿するということは、他者をあざむき続けられるということは、それ自体が大変な才能であるからだ。

 気味が悪いと思ったのは、そのため。巌勝は、あれを恐れたのだと認めねばならなかった。

 

「いや、馬鹿な。そうだとして、どうして弟を。――守るべき家族を、恐れねばならぬ。道理に……合わぬ、ではないか」

 

 いまだ、縁壱は自分にとって守るべき弟である。巌勝は、自分の意志でそう決めた。父景勝は、縁壱をひたすら忌み続けるだろうが、そんなことはどうでもいい。

 弟は、寺に入るのだ。どうして脅威に思わねばならぬのか。従順にふるまう意思を見せているのだから、危険視する方が間違っているはずなのだと、巌勝は思う。

 武家の後継ぎであるという自負が、長男だという事実が、そして自身が学んできた学問の倫理が、縁壱を拒絶ではなく容認させる方向へと導いたのである。

 

 結果だけを見るならば、遅かれ早かれ、継国家は没落を避けられなかっただろう。戦国時代は、その時期の上野国は、激しい流れに巻き込まれていたのだから。

 景勝と巌勝、そして縁壱の所属する家と周辺の環境は、難しい状態に置かれることになる。そんな近しい未来のことまで、思い至らなかったのは、せめてもの僥倖であったのかもしれない――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月舟禅師の授業は、週に三日。それも午前中だけに限られていたが、密度の高い内容であり、決して楽な時間ではなかった。

 実務に関わる部分、文章の作成や算用の問題など、頭を酷使する内容まで踏み込んでいた。巌勝には勉強になる半面、昼前にもなれば精根を尽き果てたような気持になることも、多々ある。

 

「数の計算も文の覚えもよいが、御仏の教えについては、さほど興味を持てぬようじゃな」

「武門の生まれ……なれば、致し方なき事かと」

「ほう。大陸生まれの仏教が、なぜこの日の本の地で受け入れられたか? なぜ道徳的な紐帯を地方にまで広げられたのか? ……そこまで語らねば、理解してもらえぬのかな? 幕府もまた、仏教を利用してきたのだというのに」

「舶来の品は、今でも高値が付きます。そして仏僧の知識には、舶来品以上の値が付くこともあります。端的に言うなら……利用価値があるから、仏教は広く普及した。――それ以上の理解が必要とは……私には思いません」

「はっきりと言いくさる。――子供らしい浅い意見じゃが、一面の真実もついておる。この手の小賢しさは景勝殿とそっくりではないか」

 

 その中で、ときおり雑談のように禅師が設問を差しはさんでくることもあった。

 いい加減な答え方をするなど、巌勝には思いもよらぬことだ。だから毎回、真面目な顔で返答をしているのだが――。

 それはそれで、老僧にとっては必ずしも望ましい態度ではなかったらしい。毎度毎度、厳しい指摘が入るものだから、彼はいつも返答に困るのであった。

 

「まったく、賢しい言い訳は武士らしいといって良いものか。――いや、狡猾で暴力的な生き物を侍と呼ぶならば、お前の言い方は実にそれらしいな」

「侍とは、そんなものでは……。現に、父は信心深く、力のみを頼りにする方では……ありませぬ」

 

 巌勝の認識は正しい。しかし、ゆがんだ正しさというものが、この世にはあるのだと。そこまで悟るには、さすがに神童といえど不可能なことだ。

 この一家の問題については、時間をかけてやっていくと月舟は決めている。ここはさらりと流して、老僧は巌勝と向かい合った。

 

「景勝殿のことはもうよい。だが無理解でも仕方ない、などという割り切り方は、変なところで誤解を生みかねん。利益だけを見ていると、態度にもそうした軽薄さは現れてしまうもの。――教養の使い方の話はまたの機会にするが、今はとにかく知識を詰め込む段階なのだと心得よ」

 

 仏典の講釈や、その内容の学習などは、巌勝少年にとって意味のあるものと映らなかった。

 実用的な学問はよく理解するが、釈迦の言葉や先哲の思想については、そこまで意欲をもって学ぼうとしない。

 もちろん、月舟禅師に恥をかかせたいわけではないから、指導されれば十分な理解を見せる。

 しかし、指摘しない限り学ぼうとしない姿勢は、老僧にとっては小賢しく映るのだった。

 

「――申し訳、ございません。いまだ、未熟者なれば」

「小難しい仏典を嫌うのは仕方がない。そもそも禅は、書の内容そのものを絶対視するような宗派ではない。……子供であれば賢しさも可愛げの内だが、成人した後もそんな有様では困るという話よ。才気のあるお前の目には、馬鹿としか思えぬ連中がこの世には腐るほどおる。しかし、どんな愚か者にも一分の理はあるものだし、愚か者とてやり方次第で味方にもなる。――そして、多くを味方をつけて、大きな事業を成し遂げるのが在地領主というものじゃ」

 

 領主、と月舟禅師は言った。つまり、この上野の国において、継国家はそうした存在であると認識されているわけだ。

 在地勢力――いわゆる国人衆の中でも、継国家は頭一つ抜けた地位にあった。それは技術や実績、人脈における優越性がそうさせているのだが、ここまで昇ると味方も敵も多い難しい立場になる。

 

「巌勝。お前は多くを学ぶべきじゃが、その心の在り方もおろそかにしてはならぬ。くどいようであるが、正しく強くあるためには、他者を尊重し思いやる気持ちこそが重要なのだ。……仏の教えとは、そこに根幹があると心得よ。面倒なら、それだけ覚えておけばよい」

「……はい」

 

 巌勝は、月舟を気難しい老僧だと思っている。面倒とまでは思っていない、などと正直に返せば、嫌というほど小難しい理屈を返してくるだろう。だから一言、はい、とだけ答える。

 しかし、月舟はそうした子供の感情を察してか、やわらかい表情で諭すように話した。

 

「あまり難しく考えるな。わしのいうことが抹香臭いと思うようなら、儒教でいうところの仁とか、忠義とかでも構わぬ。……人には、そうした美しい言葉を必要とするときが、必ず来るものよ。未熟なうちはわからぬであろうが……そうよな」

 

 月舟禅師は、言葉を選んで巌勝に語り掛ける。この才能に満ちた子供には、どんな言い方が適切であろうか。

 古来、孔子が弟子の向き不向きを考慮して指導したように、その人の人格にあった諭し方というものがある。老僧は、それを探りつつ言葉をつづけた。

 

「今少し、わかりやすくいうならば。――お前、縁壱を哀れんでいるであろう。可哀そうな奴だ。守ってやらねばならぬ。そうではないか?」

「……はい」

「その気持ちを大事にせよ。まずは身内への愛。次に郷土、さらには国へと段階を上げてゆけ」

 

 巌勝の縁壱への感情については、そこまで単純なものではなくなっているのだが、月舟の意見は正論でもあった。

 教養ある巌勝は、老僧の言葉の出典を知るがゆえに、反論ではなく事実を確認するように、記憶した文章を口にする。

 

「修身、斉家、治国、平天下――ですか」

「そう。要は、朱子学で解釈するところの、儒教的な平和への道筋である。そちらのが理解しやすいなら、それでもよい」

 

 禅僧が儒を学ぶのは、一種の方便――自身の宗派を普及させるための手段に過ぎない。

 武家の教育を行うのも、宗派の影響力を強めるためであり、そこには世俗的な欲望がどうしても入り込む。儒教の教えは仏教に相反する部分もあるが、そこは教化の手段として割り切って利用するしたたかさが、月舟禅師に限らず、この時代の禅僧の中に存在した。

 

「前から、思っていたのですが。禅僧である月舟禅師が……儒教の名目を利用して、いいものなのでしょうか?」

「そう、わしは確かに禅僧である。――しかし、朱子学を学んだ一介の教養人でもあるのでな。いずれも、大陸から発祥し、日の本にやってきた思想であろう? ならば、併せて利用するのも良いではないか。人の助けになるならば、ある程度は混ぜ込んでも問題はあるまい。……お釈迦様も、きっと許してくださる」

 

 それの何が悪いのかと、老僧はうそぶく。月舟は清濁を併せ飲み、禅の思考から背を向けながら、なおも禅僧としてあり続けるのだ。

 

「お釈迦様の許しが、得られるかどうか。そんなことは、我々が想像することすら、不遜極まりないことでしょう。――しかし、今少し考えを発展させるなら、達磨大師は、きっと月舟禅師を……叱責される、はずです」

「ほう! わしを不遜と言い、叱責されるべきだと言うのか。お前も、禅の何たるかを多少は知るようになったと見える。わしに的確に言い返して見せるとは、よく勉強できているのう」

 

 皮肉ではなく、本気で月舟は巌勝を褒めたつもりだった。しかし彼の方は茶化されたと思ったようで、真剣な顔でさらに言葉を重ねた。

 

「真面目な。話です。月舟禅師、私は決して、貴方を侮っているわけでは……」

「わかっておる、わかっておる。お前は正直に思ったところを述べただけだろう。……それにしても、なるほど。確かに達磨大師が我が身を見れば、堕落した破戒僧じゃと批判されるであろうさ。――そうなれば、ひたすら恐縮するほかないが、わしは自分のやり方を変えようとは思わぬ」

 

 禅宗の開祖といって良い、達磨大師であれば、きっと唾棄すべき方針だと否定される。かの大師は厳しい人間であり、妥協した者を認めることは、おそらくない。

 ひるがえって、老僧が自身を顧みれば、己が俗世に毒されすぎていることはどうしようもなく自覚している。ただ、そうとわかっていても、月舟禅師は己の道が間違いだとは認めたくはなかったのだ。

 

「なぜです? ――間違っているなら、正せばよい。それだけの話では……ありませんか?」

「間違い? 間違いか、なるほど。……達磨大師の言行録について、思いを致すならば。かの人は、わしが俗世に迎合しすぎておる。現生利益に傾倒しすぎておると、厳しく叱りつけられるであろう。禅に見返りを求めるな、無情な世の中に救いだの期待だのを抱いてどうする――とか言って、もっともらしい説教をされるであろうよ。そうして、わが身を改めて顧みれば……いや、不徳を痛感するのみじゃ。しかし、だからこそ、わしは自分が間違っているとは思われぬのよ」

 

 禅の思想は、どれだけ学んでも極めたとは言い切れぬ部分がある。それは言葉より行動を重視するが故であるし、仏典より人間個人の感覚を優先する思想が、禅にはあった。

 この辺りの理解さえ、月舟は自分の認識が正しいかどうか、自信がなかった。だからせめて、己が信ずる道を歩むこと。それだけは、貫き通したいと思うのだ。

 

「わしが間違いを間違いだと思わぬように、お前の父も自分の誤りを誤りとして理解しておらぬ。――あるいは人間とは、そうした矛盾を抱えて、生きていくほかないのかもしれんな」

「……わかりません。月舟禅師は、本音を私に語ってくださるつもりは、ないのですね。だから、そんな言葉で濁そうとされる」

「本音は言ったぞ? 言葉を省略しただけじゃ。全てを語ったところで、確かな理解がされるはずもなし。言語というものは、相互理解に不可欠な代物ではあるが、何から何まで表現しきれるほど、便利なものでもない。――子供には難しい話であろうが、ともかく。今はそれで納得するがいい」

「できませぬ。月舟禅師であれば許されると思うからこそ、納得は致しません。……己の非を認めたなら、ただ正せば済むことでしょう。それが出来ぬのは、怠惰か、怯懦か、いずれにしろ己に言い訳をしているだけではありませんか」

 

 巌勝は、幼いなりに自分の中の正義を持ち合わせているらしい。月舟はそれを感じたので、せっかくだから言葉にさせてやろうと思った。だからこそ、あえて偽悪的に言葉をつむぐ。

 

「言い訳は嫌か。潔くなければ、武士ではないか。――だとしたら、お前の父上は武士らしくない男だと言わねばならぬな」

「話を……はぐらかさないでください。今は、禅師の態度について話しているのです」

「おう、間違いを間違いだと認めない、大人げない馬鹿の話をしているのだったな? わしは自分がただの愚か者だ、と認めればそれで済む。しかし、お前の父親はそんな単純な話では終わらぬぞ。何しろ、実害がある。現実に、巌勝と朱乃殿の家庭を壊しておるのだから」

 

 巌勝の目の色が、怒りを宿す。その瞬間を見極めて、月舟は決定的な一言を口にした。

 

「縁壱のこと、前に懸念があると話したであろう。この前、景勝殿とその辺りを語り合ったのじゃが――」

「……それで、如何でしたか?」

 

 縁壱、と口にした瞬間に、巌勝の怒りが霧散した。代わりに焦りというべきものを露わにする。

 彼の中では、それだけ縁壱の近況が気がかりだったのか。あるいは、景勝の様子が可笑しくなっているのか。それを確認するために、老僧は未熟な子供から情報を絞り取ろうと手管を尽くす。

 

「黙っていないで、続きを――」

「随分と急く。それに、顔色が変わったな? わしのことを追及するより、己が身の上を優先する。目の前の悪より、自分の不幸を第一に据えるというわけじゃ。――お前の正義は、それを許すのかね?」

「私の周りで、一番不幸なのは、縁壱です。弟の理不尽を改めるためならば、小さな悪には目をつむる。それが……私の、正義というべきもの、なのです」

 

 幼い子供が、弟への理不尽に対して、その正義を発露させる。父の景勝は、それだけ罪深いことをしているのだという自覚はあるまい。

 月舟は内心で歯噛みしつつも、そんな言葉おくびにも出さず、狡猾にも微笑んで見せた。巌勝に対しては、頼りがいのある大人でありたいと思えばこそ、不敵な態度を崩さぬのだった。

 

「ふふ、若い。……そう嫌な顔をするな。わしは安心したのよ。少なくとも、巌勝。お前の性根は善良じゃ。その心根を確認できただけでも、話をはぐらかした甲斐があると思う」

「続きを。――どうか」

「うむ。では言うが、縁壱の待遇は変わることはない。お前やわしが何と言おうと、変える必要を景勝殿は感じていない、というべきじゃろうな」

「禅師の言葉であっても、ですか?」

「そうさな。あるいは、朱乃殿の言葉であれば……いや、それでも。生中なことでは変わるまい。それこそ朱乃殿が、死の間際の遺言として残さなければ、景勝殿は己を顧みようとはするまいよ」

 

 それは、巌勝にとっては残酷な事実でもあった。月舟禅師がそこまで言うからには、真実味があると感じられたし、己の努力で変えられる余地などないのだと、わかってしまうがゆえに。

 

「才覚があるがゆえに、聡いがために、苦しむこともあるものだ。――身に染みたであろう?」

「私が、今、感じているもの。……それが苦しみだとおっしゃるのであれば、まさに。まさに――実感している、ところです」

 

 巌勝は、心にとげが刺さっているような感覚を覚えていた。これが一時的な痛みであったとしても、長く感じていたくはない代物であった。

 そうした感情を、彼は意識せずとも表情には表れていた。なればこそ、月舟もまた言葉を重ねるのだ。今ここで言うことによって、巌勝の高潔な資質を自覚させられると信じるがゆえに。

 

「実際には、傷など出来てはおらぬはず。しかし、それでも胸が痛み、しこりが残ったようにうずく。その感覚を、大事にするがいい。――思いやりとは、想像力をともなう共感があって初めて、真価を発揮するもの。お前は今、弟の境遇を考え、その将来を案じ、哀れむことの辛さを思い知ったであろう。……そうとも。哀れみとは、優越感を生じるばかりではない。思いやるだけの価値を認めた相手なればこそ、その苦難を頭の中で連想し、やるせない想いを感じずにはおれぬものよ」

「……月舟禅師は、いつも難しいことをおっしゃられます。私には――何とも、理解しきれぬことばかりです」

「まだ、わからずともよい。だが覚えておけ。わしの言葉は、決して無駄ではない。成長して、思い返したときに『こういうことだったのか』と納得できる。――そうした効果を期待して、わしなりに努力して言い方を工夫しておるのじゃからな」

 

 月舟は、不敵な笑みを浮かべながら、巌勝に説いた。それが正しく伝わる相手だと思って、本気で言葉を尽くしたのだ。

 そして、この子はその手の期待に応えられるだけの才覚は、悲しくも備えていたのである――。

 

「ならば、可能な限り、覚えておきます」

「あるいは、余計なことであったかな? 巌勝、お前は物覚えが良いし、何事も学びじゃと思うて、真摯に人の話を聞こうとする。……その姿勢をこそ、忘れるなよ」

「心に、留め置いておきます。――決して、忘れはしませぬ」

 

 子供の発言に、どこまでの信が置けるかなど、月舟はもう考えなかった。

 どうにもならぬことはどうにもならぬ。ただ老僧は、自らの本分を果たそうと思っていた。

 それが結果として、彼ら兄弟のためになるのであれば、それでいい。人生最後の仕事としては、それで上等であろうと割り切る程度には、肩入れすることを決めていた。

 

 だが、月舟はまだ知らぬ。知らなかったからこそ、ここまで語れてしまったと言える。

 巌勝以上に、縁壱には問題があるのだと。才覚に恵まれていたのは、兄だけではなかったのだと知った時。

 禅師は不敵な表情を作ることさえできず、この世の無常というものを、痛感することになるのである――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もろもろの事情を考慮しても、巌勝と弟の縁壱の関係については、いささか特殊な環境であったと言わざるを得ない。

 双子として生まれたこともそうだが、そもそも親子関係、父母の立場や考え方の違いまで考慮に入れれば、なかなかに深刻なものがあったと言える。

 

「母上は、曹洞宗の高僧の娘であるらしい。……らしいというのは、認知されていないからだ。――娘が生まれたという事実を認めることが、醜聞になる。そうした立場の父親を持っていたということしか、私には……聞かされていない」

「兄上。曹洞宗というのは、どういう宗派なのでしょうか。醜聞とは、どういうことなのでしょうか」

 

 はじめて口をきいてからというもの、縁壱と巌勝の間柄は近くなったと言える。

 縁壱は七つを数えるようになってからは、色々な気持ちを言葉にしたくなったらしい。齢を重ねることの意味を、巌勝はこうやって実感していった。

 兄としては、そうした態度を不快に思わず、付き合うことにしている。自身の気持ちに正直になりたいという思いは、よく理解できるものだから。

 

「曹洞宗については、私も詳しいわけではない。知識は多少学んだが、仏典はそこまで大事というわけでも……ないらしい。月舟禅師の受け売りだが、禅宗の中でも、もっぱら座禅を重視する聞く。座禅については、寺に入ってから聞くといい。……月舟禅師も道半ばと聞くくらいだから、よほど厳しい宗派なのだろう、と。それくらいしか、わからぬ」

 

 縁壱は離れに隔離されて、接触を禁じられていたとはいえ、巌勝が訪ねることは不可能ではなかった。

 父には外回りの仕事もあり、一日二日、家を空けることも珍しくない。家についている奉公人も数は少なく、縁壱に同情的な者もいた。

 よって巌勝がその気になりさえすれば、内緒で語り合ったり、童遊びをする時間くらいはどうにか捻出できたのである。

 

「剣の鍛錬の時、うろちょろするのは勝手だが、そろそろ何か考えねばならぬと、平助殿も言っていた。……私はいいが、他の者を、そう刺激するものではないぞ」

「すみません。でも、興味深くて。……俺は、兄上と同じことをしてみたいのです。助けになれるかもしれないから、試すくらいは、してみたいと思います」

「そうか。……平助殿も、何かしらの試し、というものをするかもしれん。覚悟だけは、しておくことだ」

 

 双子である以上、二人は同い年。同じく七つを数える年になった今、お互いの立場もまた変わろうとしていた。

 それが決定的な亀裂になることなど、この時の本人たちは自覚すらなかった。それを喜劇と言えばよいのか、悲劇というべきなのか。神仏ですら、判断は躊躇われたことだろう。

 

「俺は、母上からも手習いを受けております。寺に行った後、面倒をかけることがないようにと、最低限の学は身につけておかねばならぬ――と」

「それは……正しい。月舟禅師は、面倒見が悪いお方ではないが、僧となるのも楽なことではないだろう。――せめて、いくらかでも手間を省けるよう、準備しておくのは、良いことだ」

 

 ともあれ、今の巌勝は、縁壱を気にかけてやりたかった。だからこそ、不格好でも手作りの笛を渡したのだし、こうしてお互いの気持ちを確認しあうのだ。

 ある種の余裕というものが、かろうじて存在していたのである。巌勝にとって、それが最後の一線であった。そうとも知らず、縁壱は思うところを述べる。

 

「はい。しかし、母上のお加減がよくありません。それだけが、俺は心配です」

「父上も、それを案じておられる。良い医師がいないか……方々に聞きまわっているらしい。無理もない、ことだが」

 

 自分たちが七つの年を越えた辺りから、母の病状が悪くなったことを、巌勝は知っていた。

 父は縁壱を例外として、巌勝にも母との接触を禁ずるようになっていたから、その病の重さも知れようというものだった。

 

「――とは、いえ。縁壱と違って、私は母上と会うことも、そう無かったことではある。父上は、どうも。私が母上と顔を合わせるのも、どこか……厭うている節があった」

 

 言葉は、丁寧に使うべきだ。そうした意識が巌勝にはあったから、表現には慎重になるべきだと思った。特に肉親のことであれば、うかつなことは言いたくない。

 縁壱が相手なら、そこまで問題にはならぬであろうが――たとえ虐待を受けているにしても、兄として。この不肖の弟に、父に対して悪い感情は、もってほしくなかった。

 

「なぜでしょうか。兄上は、母上を嫌ってはいないはず。母上も、兄上のことをよく案じておられます。父上は、それを知らぬとでもいうのでしょうか?」

「父は……一家を背負う、主である。我らにはわからぬにせよ、どこか、思うところがあるのだろう。――縁壱。これはきっと、理由のあることなのだ」

「はい、きっと。ですから私も、兄上と、父上を信じております」

 

 物わかりのいい弟。優しく思いやりに満ちた、日の打ちどころのない人格の弟。

 巌勝は、縁壱が持つ一番の美点を、誰よりも早く理解することになった。疑うことを知らず、ただ一途に他者を労わり、慈しむ心をもった彼を、兄として如何に遇するのが正しいのか。

 巌勝は、いまだ幼い身でありながら、お互いへの感情について。まずは悩まねばならなかった。

 

「いいのです。兄上、悩むようなことではありません。母上も、そして私も。日々を感謝して生きています」

「誰を恨むこともない、と。……そうだな。きっと、そうなのだ」

 

 縁壱の善意、母親の愛情。そして、教育熱心な父の熱量さえ、巌勝は心根の奥底で理解している。

 その聡明さ、早熟な感受性の強さこそが、巌勝のそもそも不幸であった。彼はその能力ゆえに、他者を恨むことにも消極的で――。

 ただ己の至らなさのみを痛感し、縁壱の将来の暗さを思っては苦しむである。

 

「兄上。なにか――」

「案ずるな。お前の兄は、強い。強くあろうとして、誰にも恥ずるところのない侍になるのだ。……体をいとえよ、縁壱。私は最近、ようやく剣の道というものを、理解してきたつもりだ。お前も学ぶつもりがあるなら、まずは自分の体を把握することから始めることだ」

 

 巌勝は、己に剣の才があることを知るようになっていた。鍛えれば鍛えるほど、剣が冴えていく感覚を、この年にして覚えていたのだ。

 剣を振る行為の複雑さ、刃筋を通すことの難解さ、全身の筋肉をいかに使い、いかに動かすのが最適であるのか?

 天賦というものであろう。地方の国人の嫡子に過ぎない、この子供が。その全てを理解し始めているというその事実こそが、巌勝の才能を保証しているといってよい。

 後々の事柄と思うならば、それもまた残酷な事実であったというべきだが――。

 

「強い、侍?」

「武家とは、そういうものだと思っている。正しく、強くあること。そのために努力することが、今は重要なのだと。……さて、そろそろ父上が戻ってくるころ合いだ。直前には傍務めの『いと』が知らせてくれるだろうが、怪しまれない方がいい。私はもう行く。母上には、お前からよろしく言っておいてくれ」

 

 縁壱とは会って、母には会わない。己の行動に若干の後ろめたさを感じるが、巌勝とて母を案じないわけではないのだ。

 部屋の外から、ちょっとした会話をするくらいの余裕は、確かにある。しかし、父にとって母が聖域であり、少し言葉を交わした程度であっても、きっと感づかれてしまうだろう。

 そうした予感があるだけに、うかつに近寄れなかった。父に正面から反抗するだけの強さを、この時の巌勝は持っていなかったのだ。

 

「母上は、常に気に病んでおります。兄上が正しく成長しているか、幸福に生きられるだろうかと。そうした言葉を、最近は特にこぼしておられます」

 

 縁壱に隔意などない。ただ、正直に己が感ずるところを述べている。

 巌勝は、正確に内容を理解した。子供らしからぬ頭脳によって、これから取るべき行動は決まった。

 縁壱を庇護すること。かの存在を肯定することを、母は望んでいるのだと、彼はそのように受け取ったのである。わざわざ縁壱に伝えて、遠回しに伝えねばならぬほど深刻な状況なのだと、聡明な兄は悟らざるを得なかったのだ。

 

「わかった。……そうか、母上は不安なのだな」

「兄上?」

「縁壱……何度も言うが、体は大事にしろ。お前の方が気に病んで倒れたら、そちらの方が……問題だ」

「兄上は、剣の鍛錬を続けるのですか?」

「ああ、これから平助殿に教えを乞うことになっている。私は、それなりに筋がいいらしい。やればやるほど上達している実感もあるし、やりがいがある」

「兄上が楽しそうで、私もうれしいです。また機会があれば、俺も参加させてください」

「平助殿の、采配次第だな……それは。お前が望むなら、助け舟くらいは――出してもいいが」

「お願いします。俺なりに試してみたいことも、ありますから」

 

 縁壱の提案にうなずきながらも、巌勝は思っていた。さらに精進せねばならぬ、と。

 力をつけ、強くならねばならぬ。巌勝は、武家として正しい道を歩もうと、改めて決意を固めた。

 

 そうした兄の姿を見た縁壱が、どのように思い、動いてしまうのか。巌勝にはわからなかった。

 結果として、継国家に大きな影響を残し、両者の人生を決定づけることになるのだが――それもまた、現段階ではまだ少し先の未来の話であった。

 

 




 いかがでしたでしょうか。決定的な展開は次回に持ち越すことになりますが、読者と筆者の間で、解釈違いなどが生じていているのではないかと気をもんでおります。

 次回の投稿は、一か月後を予定しております。
 では、また。時間つぶしにでも付き合ってくだされば、幸いに存じます。

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