感想がない間は、とにかく好き勝手に書けるものだと割り切ることにしました。
見守っていただける方が、現状は二人もいてくださっています。
気まぐれに見ていただいている読者の方々も、ありがたいことに幾人かいてくれるようです。
そうした皆様の、暇つぶしにでもなれれば、幸いであります。
月舟禅師と朱乃は、長い付き合いというわけではないし、共通の価値観を持っていたわけでもなかった。
しかし、朱乃が曹洞宗高僧の隠し子であり、月舟禅師はその高僧と縁があった。国部村に彼がいるのも、そうした縁が導いた結果であると言えなくもない。
さりとて深い付き合いをしていたかといえば、そうでもなく――。二人はなんとも、中途半端な距離を保ったまま、いままで過ごしていた。
だから実際に会って話す段になった時は、なんとも微妙な空気が漂ったものである。
「意外だとまでは、いいませんが。……月舟禅師が、今の私との面会を承諾するとは。何か思うところでも、おありですか?」
「それは、お互いさまというものでしょう。朱乃殿は、自らの短い命の使い方を、悩んでおられる。そう思えばこそ、今更ながらに関係を築こうと思ったのです。――懸念するところは、同じでしょうから」
朱乃は、己の死期を悟っていた。元より病弱な身の上だったが、ここ最近は心身の衰弱を自覚することが多くなった。
今はまだ、安静にすれば動けるようにはなるのだが――衰弱と回復を繰り返すうちに、いずれ起き上がれなくなる。朱乃自身、そうなるのだという確信があった。
月舟もまた、そうした彼女の覚悟を目で見て理解して、強い言葉を使ったのだ。果たして、老僧の予測したとおり、朱乃は肯定して返した。
「はい。……景勝殿には、このことは」
「話しておりません。――朱乃殿のお加減が悪いことは、一時のことに過ぎないと、あの方は今も考えておられる。まるで節穴のような目に思われるかもしれぬが……対外的には有能でも、家庭内には盲目になる男は珍しくないのですな」
「わかっております。……いえ景勝殿を、軽蔑しているわけでは、ないのです。ただ、二人のことを話すならば、あの人を割り込ませたくないと言うだけ」
「つまり、我々は協力できる。お互いに、あの兄弟の健やかな成長を願っている。そこは、疑う余地がないのですな」
月舟と朱乃。二人はこれまで、さしたる付き合いを求めていなかったとはいえ――今となっては変化を迫られている。
巌勝と縁壱の兄弟が、その原因であることは明らかだった。だから、朱乃もそこは素直に認めた。認めた上で、疑問もあった。
「どうして、そこまで禅師が入れ込んでくださるのか。そこはわかりませんが……私には、ありがたいことです。――ええ、私だって、縁壱と巌勝が、正しく良い人生を歩めるよう、毎日祈っているのですから」
「わしの理由については、些細なことです。ともあれ、話を進めましょう。……長くなるかもしれませんが、本日の体調は、いかがですかな?」
「悪くはありません。良いとも言えませんが、それこそ今更でしょう。――お気になさらず」
離れにある、静養のための一室で、二人は会談していた。
朱乃は咳き込んだり、あからさまに気分を害している雰囲気は見せなかったが、強気の姿勢を崩さないことが、かえって病状の深刻さを月舟に悟られてしまっている。
長くないと言っても、残されたときはどれほどか。一月か二月か。そこまで切迫しているなら、これは難しい話になるだろう。
――普段は温厚で、控えめな人であると聞いた。激しい気性を表すのは、かの兄弟関係に限られるというのだから、人柄についても予想が付く。どこか、焦りもあるな。さて、どこから話を進めたものか……。
月舟は、老僧らしい狡猾さで、彼女の心情を読み解いていた。老いるまでに、ろくでもない半生を過ごしたせいか、無意識でも相手を値踏みする癖がついている。
敵ではないのだし、むしろ味方につけるべき相手だと思えばこそ、態度にも表さないが。話題を引き出す方法として利用するくらいは、許されるだろう。
「本日お話ししたいのは、巌勝と縁壱の二人の今後についてです。……朱乃殿はご存じでしょうが、景勝殿の教育方針は、かの兄弟にとっては望ましくないことと、わしとて思うのですな」
「ああ、やはり。……月舟禅師は、巌勝の学問の師であると聞きました。私も縁壱を、なんとか教育してみようと努力しているのですが――やはり、不安になることもあります」
「兄と弟で、格差をつけるのは、まだわかるのです。しかし、各々の才能の差というものは、いつだって残酷なまでに周囲に見せつけられるもの。今から対策を講じておくべきなのに、景勝殿はわかってくださらぬ。……万が一の事態について、あの方は無頓着だ。わしには、それがどうにも歯がゆくて仕方がない」
「ええ、ええ。……わかってくださるのですね。正直意外ですが、それだけ縁壱と巌勝に向かい合ってくれているのでしょう。ならば、私たちは協力し合うことが出来ます」
朱乃は、縁壱を先にして、巌勝を後にした。その意図を、月舟は理解しなかった。
ただ彼女にとって、大事なのは縁壱の方なのだと。近しい相手を優先しただけのことだと思ったのだ。それが間違いだと思い知るのは、直後の朱乃の発言を聞いてからのことだった。
「縁壱の才能は、巌勝をはるかに凌駕しています。それが継国家の災いにならぬよう、今から対策を講じておかねばなりませぬ。縁壱自身のために、今は自重を求めたいのですが……あの子が兄との交流を求めていると知ればこそ、強く戒めることもできないのです」
「……は。ははぁ、左様で」
「むろん、巌勝が巌勝なりに、才覚を表していることは、人づてに聞いています。私も、直に接して早熟で優しい人柄を持っていると思いました。――ですが、だからこそ不安なのです。きっと巌勝は、縁壱の才能が己を凌駕していることを悟ってしまう。そうしたら、巌勝は縁壱に嫉妬するのではないかと。取り返しのつかぬ確執を抱くのではないかと、私は今から不安を感じているのです。これを解消せぬ限りは……死んでも死に切れぬと、そう思うほどに」
月舟は初め、朱乃が極端な贔屓をしているのだと思った。巌勝の才能と伸び代を実感しているだけに、交流のない縁壱の実態について知らぬがゆえに、そう受け取らざるを得なかったのだ。
「縁壱が巌勝に嫉妬するのではなく、逆の結果になると? 兄が弟に嫉妬して、平地に乱を呼ぶのではないかと、そのように言われるのですかな?」
「……おかしいことではないでしょう。古来、兄弟の争いとは、そうして起こるものです。愚かな兄に賢い弟――そうした例の中に、縁壱と巌勝を入れたくはありません。ですから景勝殿の前に、まずはその問題を解消せねばなりませぬ。……禅師の見解は、違うのですか?」
「なんといいますか……わしは、逆を考えていたのですよ。縁壱が、巌勝に嫉妬せぬものかと。才覚と地位が伴っている兄に嫉妬して、縁壱の方が不穏な考えを持つのではないかと、そんな危惧を抱いていたのですが――」
月舟は、景勝の思考の問題こそを重視していた。しかし朱乃は、兄弟間の能力の格差こそを問題視していた。
老僧は、ここで互いの相違点を認識する。ここまで違っては、無視して話を進めることもできない。なので、月舟なりに思うところを述べたのだが、朱乃は老僧の感覚こそ間違っていると言う。
「まあ、なんてひどい勘違いをなさるのでしょう! ……いいえ、非難するのは間違いですね。禅師は、縁壱を知らぬのですから。あの子の才能の大きさを知れば、禅師とて私と同じ結論になりますよ」
「さて――母親ともなると、目が曇るのでしょうな。近しい関係であるがゆえに、正当に評価できなくなる。……出来の悪い子ほど可愛いと言いますが、巌勝の才覚は本物ですぞ。百年に一人の逸材といってよい。学問でも、おそらくは武の才に関しても、同世代を圧倒しておる。長生きした禅僧の言葉を、まさか無下にはしますまい?」
お互いに過大評価をしているのだと。そうでもなければ納得できぬという風に、二人は話した。
ただ認識をすり合わせるつもりだったのに、口調は激化していく。互いに想いが強くなればこそ、語気も強まった。
「月舟禅師の言葉が、根拠なきものだとは私も思いません。しかし縁壱は、私が説いた高度な和算を初見で理解してみました。一度教えた文章は、繰り返すことなく覚え、間違えることはただの一度もなかったのですよ? ――そのうえ学問のみならず、あの年で私への気遣いを示す優しさを示してくれる。優しさを示すことにも、強さが必要な時代なのです。ただ優れているだけの幼児に、同じことが出来ますか?」
「早熟さを競うならば、巌勝は現時点でも四書五経をそらんじ、覚えたことを忘れたことがない。朱乃殿には失礼ながら、その程度であれば縁壱も小才子という他ありませんな。そもそも和算であれば、巌勝も相当できますぞ。この上野で使う測量や算用状の作成など、すでに成人並みにやってのけます。実務に生かしてこそ、知識というものは意味があるものでしてな」
「ならば縁壱とて負けてはいません。同じようなことはやってのけるという確信が、私にもあるのですから。母として、あるいは一人の読書人として――縁壱の教育は、それなりに仕上げたつもりですよ」
「……親の贔屓目が、出来の悪い弟の方に向くことは、よくあることです。経験上、わしも何度聞いたかわからぬ話ですな。弟君が同情すべき相手であることは、わしも理解しておりますれば、朱乃殿は今少し巌勝をかえりみてやるべきでしょう」
「月舟禅師こそ、縁壱と向かい合うべきです。直接の面識もないのに、そこまで断定なされるとは、私の方こそ、貴方を見誤っていたかと思うほどですよ!」
しばしお互いににらみ合って、それから破顔する。穏やかな空気が流れ、笑い声が響く。
「はっはっは! これはなんとも、いやはや、なんとも。……親バカもここに極まれり、と言うべきですな」
「ええ、ええ。……お恥ずかしいところをお見せしました」
「お気になさらず。ここは、お互い様というべきでしょう。――継国家は、才能ある子供に恵まれたのですな」
想いの強さが言葉に出て、それをお互いに応酬したものだから、二人はかえって理解を深めたと言える。
一歩も譲らぬ姿勢から、いがみ合うのではなく――共通の目的を持った仲間として、団結できる確信を二人はここで得たのだった。
「師が弟子を贔屓して、親が子を贔屓する。縁壱も巌勝も、恵まれた才を授かって生まれてきたのでしょう。……月舟禅師が本気で教授してくれているのなら、私などが心配する筋合いではありません。巌勝の教育については、心配しないことにします」
「わしも、縁壱の教育については、疑わぬことにしましょう。……ともあれ、巌勝は、わしが入れ込むくらいには見込みがある。そして縁壱とやらの才、この目で見定める日が楽しみになりましたぞ」
口調こそ淡々としているが、一時の冗談や諧謔で済ませよう、というのではない。お互いに目が笑っていないこと、完全な納得に至っていないことは、両者は嫌というほどに理解していた。
しかし同時に、相手がそこまで評価する態度を崩さぬのならば、これはむしろ喜ぶべきことなのだ、とも思い至る。
かの兄弟への愛情を確認する作業として、先ほどの口論染みた言葉にも、意味があったと言えよう。
「しかし、事実であるとするなら――縁壱はその才がゆえに、かえって景勝殿には危険視される。ここが一番難しい問題ですな」
「はい。……景勝殿は、巌勝を偏愛しています。縁壱を排除することを、考えないとも限りません。その時は、私が、命をもって諫言するつもりですが――。それで思いとどまったところで、まともな扱いをするとは限らないでしょう。あの人は、良くも悪くも感情的な方ですから」
「その偏愛が、巌勝にも悪い意味で影響することも、想定せねばなりますまい。……最悪、弟御は、早めに禅寺で保護すれば済むこと。あとは巌勝への景勝殿の干渉について、何かしらの対策が欲しいところですが」
「私が直接言っても、聞き分けてくださる方ではありません。……ですが、死の床に就いた後での遺言という形であれば、あの人も流石にわかってくださることでしょう」
寿命を縮めてでも諫言をする、という朱乃の態度は、月舟の襟を正させた。病床にありながら、彼女は命がけで家族を守る気概を持っている。
ならば老いたとはいえ、男としてこの気持ちを汲み取らねばなるまい。朱乃の遺言、その後ろ盾になることを、月舟はこの時に決めた。
「――朱乃殿は、まさに賢婦という他ない。名分さえあれば、わしが干渉しても自然な状況を作ることが出来る。感謝いたしますぞ」
「私の出自や、言動などで、利用できるものはいくらでもしてくださって結構です。それがあの子たちのためになるなら、躊躇うようなことではありません。こちらこそ――感謝を」
その言葉が聞きたかったとばかりに、月舟禅師は心からの敬意をこめて、朱乃に対して頭を下げた。
この態度を目にした彼女は、本気で老僧が巌勝に入れ込んでいることを理解した。
表面上のことではなく、心から巌勝に惚れこんでいるのだと、母の立場から実感したのである。感謝を返したのは、そうした老僧の本音を見たからでもあった。
「禅師には、期待しています。巌勝のみならず、縁壱もおろそかにはしない。兄ほどではないにしろ、弟の方にも味方してくれると思って、いいのですね?」
「確約いたしましょう。寺に入った後は、わしが直々に教育する。どこに出しても恥ずかしくない禅僧に育て上げましょう。――そして万一の時は、後ろ盾になって差し上げてもいい。これで、朱乃殿は安心できますかな?」
「十分すぎるほどです。……ああ、その言葉が聞きたかった。これで、縁壱も巌勝も、不幸にならずに済む――」
そこで、唐突に朱乃が咳き込んだ。口を押えて、懐紙を取り出して後始末をする。
月舟は目をそらして、朱乃の方を確認しなかった。感染症を恐れたのではない。家人に病がうつった例がないことは、知っていたのだから。
感染性のある咳き込みでなければ恐れる筋合いはないし、病を気にしている女人には、見ないふりをしてみせることも、礼儀の内である。月舟は朱乃を気遣ったつもりだった。朱乃もまた、そうした月舟の想いに応えられるくらいには、余裕を保てていた。
「ありがとう、ございます。……あとは、まかせても、構いませんね?」
「わしに出来ることなら、惜しまずに尽くしましょうとも。……朱乃殿、貴女の父には、わしも世話になった。借りを返すつもりで、尽力することを誓いまする」
月舟は、初めて朱乃と己の関係性について明かした。言われた方も、呑み込むまで時間はかかったが、戸惑うことなく受け入れる。
「――私はここにきて、自分の生まれに感謝したくなりましたわ。ろくに会わなかった父だけれど、禅師を縛る理由になれたのなら、この生まれにも意味があったのだと思いたくなります。……ええ、お願いします。あの子たちを、どうか」
「みなまで言わずとも、最後まで見守ると確約いたしましょう。わが師、そして宗祖に誓って、継国家の兄弟に寄り添うこと。老い先短い身でよろしければ、後ろ盾として最善を尽くしまする」
月舟も朱乃も、ここで認識を確認できたのならば、やるべきことは多くない。
朱乃は、そっと書状を取り出して、月舟に託す。
「……今渡すべきか、後で見つかるように細工をしておくべきか。悩んでいましたが、決めました。これを――」
文章として残しておくことが重要なのだと、彼女は思っていた。特に景勝に対しては、己の死後にこそ効力を発揮するだろう。
他にも、思うところを可能な限り書面にしてある。月舟は極論、これだけを受け取って帰っても良かったのだ。それでも長々と会話をしたのは、それだけ朱乃が慎重になっていたことの表れでもあったろう。
「私の想いが、そこには書かれています。あとは、思い付きのようなものですが、日記も毎日書き残しています。その時が来たら――そちらも参考にしてください」
そこまで話したところで、朱乃は疲れたように溜息を吐いた。咳き込むのを我慢するように、口を覆っては、顔を伏せる。
「……すいません、そろそろ」
「ああ、これは失礼しました。――では、また」
「また、お会いしましょう。……ええ」
簡単に挨拶を済ませて、月舟は朱乃と別れた。次に会うのは、葬儀の時になるだろうと、わかっていて月舟は『また』といった。
たとえ死後であろうと、二人は志を同じくする同志として、お互いを送り出すのだと。そうした気概を表そうとして、老僧は応えたのだ。
――朱乃殿は、すでに覚悟を決めている。まだまだ若い年の彼女に、そこまでのことをさせたのだ。老人としては、何が何でも期待に応えねばなるまいよ。
月舟は、自分に出来ることがどれほどか。どうやれば、望ましい結果を引き寄せることが出来るか。
何よりもあの兄弟の幸福のために、必要なもの全てをそろえることを――老僧なりに、考えることがあった。
いくらかは功を奏し、多くは無駄になるだろう。それでも最善を尽くすことを、朱乃の覚悟を理解した月舟は、この時に誓ったのである――。
大人どもが多くの思惑を抱えて、色々な問題に向かい合っているとき。子供たちは、そうと知らずに日々を生きている。
巌勝とて、そんな厳しい状況など把握することなく、毎日課題と向かい合っていた。その中でも――平助との鍛錬の時間が、彼にとっては一番大事なものであった。
月舟禅師の授業も、家族との時間も、彼には大切だった。しかしそれ以上に、自分の興味が剣術に傾いていたことも、また事実であったろう。
当人に聞いてみたとしたら、一番やりがいのある課題として、剣術を挙げたはずだ。今日も今日とて、彼は鍛錬のために剣を取る。
巌勝と平助は、お互いに正眼に構えていた。身長差もあり、打ち合えば平助が圧倒的に有利な戦いになる。
「――ッ!」
「もう一度だ。構えろ」
巌勝は加減されながらも、確実に顔をかすめる木刀に戦慄した。平助もまた、容赦なく顔面――それも目を狙うように打った。それを彼は防ぎながらも、顔をも含む上半身に傷と打撲を作って、うずくまることもあった。
鍛錬というには、年齢に似合わぬ激しさである。だがこれだけ厳しくされているのは、巌勝自身が望んだからでもあった。
当人に才能が伴っていたことが、理由の一つであることは確かであろう。だがそれ以上に、周囲への主張という意味合いが大きい。
「傷つくのを恐れていては、侍なんぞやってられんぞ。――他人の目が触れる場で、あえて強い鍛錬を行うことには、相応の理由があると思え。継国の嫡子なればこそ、厳しくされている。あんなに辛い目にあっているのに、あきらめずに続けている。そうした態度こそが、同年代からの尊敬を集めると理解しろ」
特に今回は、縁壱が見学している。鍛錬の邪魔になってはならないから、距離を離してはいたが、巌勝にとっては無視できるものではない。
「わかって、おります。……今一度」
「縁壱だけを気にしているようでは、嫡子としてはまだまだ未熟だぞ。家人たちも、お前を見ている。周囲を気にする余裕があるのなら、その視線にも、せいぜい気を配っておくことだ」
中庭での鍛錬だから、他家の目がある環境ではなかった。しかし、家人の中には鍛錬後の清掃を担当している者もおり、家事の休憩がてら見物している者も少数存在する。
いまや巌勝と平助の鍛錬の時間は、この家の者にとっても娯楽の一つになり始めてもいたのだった。
「後日には、地元の童どもと共に鍛錬することになる。その時に青あざの一つも作っていれば、安い同情くらいは買えるだろう。だが、お前はそんなことで満足してもらっちゃ困る。――わかっているな?」
「はい。……私は、並みの子供であってはならない。上野の武家の子、継国の嫡子でなければならない――と。縁壱にも、私の姿を見せてやらねばなりません」
父の理不尽な暴力に比べれば、理由があるだけ、強くなれる実感があるだけ、まだしも意味がある行いだと信じられる。
強くなっている実感があればこそ、無茶な鍛錬も受け入れられた。……そこまで平助が追い込む理由まで察せなかったのは、巌勝もまだまだ未熟であったからだろう。
「因果なことだぜ、まったく。誰が悪いってわけでもないのにな」
「は……い?」
「気にするな、大人の事情だ。俺が勝手に、思い悩んでいるってだけだ」
平助としても、いささか不本意であった。今少し、時間をおいても良かったではないかと最初は考えていたのだ。
だが、急ぐ理由が出来てしまった。――縁壱の存在である。彼が少なくとも、健常者らしいことは知られてしまっていた。
だからといって、待遇がすぐに変わるわけでもないし、巌勝を差し置いて後継ぎになる――なんて話は、現時点ではまったくなかった。しかし、これで一応は『予備』として価値は現れてきたことになる。
縁壱の扱いが今後どうなるかは、現当主景勝の判断次第。だが、ここで巌勝が才覚の乏しい部分を見せたり、縁壱が一部であっても兄に勝るところを見せたりしたら、どうなるか。
平助は、それを想像して、勝手に嫌な気分になっている。これを避けるためにも、強い態度を維持せねばならぬと思った。
「それより、次はもっと強くいくぞ。顔を狙うが、うまく避けろ。失明なんぞしたら、末代までの恥だと思え」
「……はい。――どうぞ」
「クソ度胸は、親父殿に似ていないな。……よし」
巌勝の顔に覚悟が宿った瞬間、それを見計らって、平助は突き込んだ。
加減は、した。ただし最低限に抑えて、巌勝がぎりぎりに避けられるように――。
「ッ!」
頬が裂けたことを、当人は把握できたかどうか。きわどいところであったが、巌勝は確かに平助の期待に応えた。
大人と子供の差があるとはいえ、何度も打ち合って慣れてしまえば、剣による突きは見切ることは出来る。だが常人が顔に迫る木剣に慣れるには、相当な鍛錬を要する。
それをこの年で成してしまうのだから、やはり巌勝には並外れた剣才があるといって良いだろう。平助は、それを確認できただけでも満足する。
反撃する余裕もなく、前に出るのではなく、後ろに退いたことも、平助にとっても好ましかった。
下手に仕掛けてこられたら、手加減してやりかえすのも難しい。己の分をわきまえて、正しい判断をしたと言えるだろう。
「いいぞ、良く避けた。――あとは、軽く打ち合って切り上げるとしようか」
「私は、まだ……やれます」
「その年で気張りすぎても、良いことは何もないぞ」
「私には、才能が……あるのでしょう? なら、多少の無茶は、構わないはず……」
「おう――よく言った。やればやっただけ、身になる才能は、確かにある。お前の才と気性に敬意を表して、今少し真剣にやってやろう」
日が暮れて、巌勝が倒れるまで、その鍛錬は続いた。子供離れした体力と、剣才がもたらした結果であると言える。
青痣をそこかしこに作り、数日の休養を余儀なくされたが、平助も巌勝も後悔はしなかった。
特に平助の方は、無茶をさせた甲斐があったと思っている。家人の目に触れさせたのは、将来の巌勝を思ってのことでもあった。
厳しさに耐えられるだけの力が、彼にはある。それを証明した以上、将来への不安もなくなるだろう。継国家の嫡男は、まさに実力に見合った尊敬を受けることになるのだと、この時の平助は信じることが出来たから――。
縁壱は、巌勝の剣の鍛錬を最後まで見ていた。結果何を感じたかといえば、焦燥に近いものであった。
何度、駆け寄って労いたいと思ったことだろう。しかし、今回は遠目から見学するだけ。
しかも、終わった後も声を掛けることは許されなかった。平助は、景勝を刺激するようなことをしている自覚があるだけに、これ以上の妥協を許さなかったと言える。
そのため、縁壱は感情の向ける先に困って、悶々と己の中に押し込めるしかなかったのだ。
鍛錬を見学したその日の夜、彼は寝床で回想する。兄の巌勝がいかに努力し、どれだけ周囲から期待されているかをこの目で見て、気持ちばかりが募っていった。
――兄上は、あんなに努力している。この家を継ぐために、あれだけのことをしている。でも俺は、何ができるのだろう。
母の愛は理解している。いずれ僧となった時のため、今から学識を身に着けるのは意味のあることだ。そして、武が僧に必要ないこともわかっている。だから、本来これは余分なことであるのだろう。
――しかし、俺も兄上と同じものを目指したいと思うのは、間違いなのだろうか。兄上に次ぐ侍になりたいと思い、夢を抱くことは、許されぬことなのか。
家の事情が、縁壱にそのような自由を許してはくれぬ。それがわからない縁壱ではないのだが、理屈と感情はやはり別のものなのだ。
剣を握ることを欲するのは、武士としての道に憧れるのは、自らの血が成せる業なのか。彼はまた、巌勝とは違った意味で己の感情に悩まされていたと言える。決して顔には出ないし、泣き言を言うわけでもないから、誰にも理解されることはなかったが……。
――握ってみようか。剣を持ってみれば、何かが変わるのだろうか。
縁壱は、己の才を自覚したことはなかった。狭い世界で生きている彼は、己の能力をどのように生かすべきか。その指針さえ持つことが出来なかった。
だから、身近であって尊敬の対象でもある兄を見習って、その後に続こうとしたのは、自然の成り行きではあったのだろう。
可能か不可能かではなく、縁壱は、ただ試したかったのだ。己の能力がどれだけ及ぶのか、自覚したかっただけなのだ。
結果として、どうなるのか。そこまで想像する感受性を持たなかったのは、果たして彼自身の責任といって良いものか。いずれにせよ、縁壱にとっての変革の日は、すぐ近くまで迫っていた――。
上野の国に、秋が来る。普通、夏の暑さは人々をうんざりさせるものだが、この年は冷夏であり、作物の出来具合が心配になるほどであった。
それでも、上野の国では生き残るのに十分な収量が見込めている。近隣の信濃や甲斐の国ではどうであったか?
正確なところは把握しきれるものではないが、今年の気温や降雨量、さらに土地の具合を鑑みて――上野以上の成果があったとは思われぬ。土地を乗り越えた略奪行為には、先年以上に警戒する必要があるだろう。
それはそれとしても、秋が来れば田畑からの収穫があり、取り込んだ収穫物からは税が徴収されるのが常である。上野の国の国部村においては、その業務を行うのが継国家の仕事の一つだった。
継国家は守護の上杉家の被官であるからこそ、国部村とその周辺地域を代表して徴税を行い、これを主家に収める義務があった。
毎年のことであるが、気の抜けない、重要な仕事であった。何しろ、全てにおいて既定の量を徴収することなど、まず不可能であるのだから。
「国部村は問題ないが、他の地方の集まりが悪いな。瀧川村と佐納村の辺りは米の収穫を終え、狩り働きで稼いだ話も聞いた覚えがある。……それでいて、今年は不作だから、銭がないからと言い訳をしよる。水に困ったとか、稲穂が枯れたという話があれば、私の耳に入らぬはずがないというのにな。お上も馬鹿ではない、減収分を考慮に入れる――と言っても、聞く耳を持たんことも多い」
もちろん、戦国の民たちは狡猾であり、正直に生産量を申告したり、嘘偽りなく収入のすべてを公開したりはしない。この辺りを見抜いて、どうにかお互いに納得できる形に収めるのが、在地領主の手腕というものであろう。
「連中に限らぬが、他所にも隠し田もあれば闇市での収入もあろうに、税を出し渋るのが常態化しているとは――まったくもって嘆かわしい。武家の守護を何だと思っているのか」
継国景勝は、自らの家の維持のため、武家の面目を保つため、自身の仕事には常に真摯に向かっていた。
まずは各地からの報告に目を通し、書状の内容を確認する。不備があれば、各所に連絡して改めさせ、それでも問題が解決しないならば、現場に出向くのが彼の役目でもあった。
今回は書状の段階で問題が見えたものだから、景勝は抑えきれずに愚痴を言ったのであろう。
他者の目からは馬鹿正直に映るほど、彼は主家に貢献していた。主に経済面での貢献であったから、武張った者たちからは評価されにくい部分でもある。だが、景勝は自身の才がそこにあることを自覚していたから、ここで踏ん張ることが一番大事なのだと思っていた。
「特に……そうだな、あちらの村の馬借。時透だか、冨岡とか言ったか。ともかく地元の地侍どもに言い聞かせてやらねばならぬ。継国とその主家に逆らって、良いことは何もないのだと――な」
「時透はいいですが、冨岡ではなく富岡であることには留意してください。つい忘れそうになりますが、字を間違えただけでもヘソを曲げるのが、連中の面倒なところです」
「――おお、平助は、細かいところに気が付くな。お前を目をかけて育てたのが間違いでなかったと、今になって思うぞ」
平助は巌勝の鍛錬を担当するのみならず、景勝の決済を再度確認して見解を述べるなど、継国家の実務にも深くかかわっていた。そうでなければ嫡男の教育など任せていない、というのが景勝の正直な感想であったろう。
ともあれ、平助としては景勝に各所を刺激してほしくないと思う。ケチをつけるにしても、手順というものがいる。
相手の失敗を咎める必要があっても、無作法であってはならない。反感を持たれては今後に差し支えるのだから、平穏無事が一番なのだと、彼は本気で信じていた。
「相手を内心で見下すくらいは結構ですが、態度には出さないでくださいよ。……正規の役職を持たない地侍でも、地元を実質的に収めている奴らでもあるんです。メンツをつぶされたと思ったら、テコでも動きやしないんですからね」
「我が家の筆頭武官がいさめるのならば、その通りにしようとも。腹芸もまた、武家のたしなみよ。お前が傍についてくれるなら、巌勝の将来も期待が持てよう」
だから多少のことは大目に見てやる、と景勝は視線だけで平助に伝えた。縁壱に巌勝との鍛錬を見学させた話は、すでに耳に入っているのだろう。
一応の黙認は得たと思った平助は、自分の責務の重さを改めて自覚する。
景勝の評価の高さは、期待の高さも同じように表す。ふつうの働きだけでは、これに応えられないと彼は思った。
「……その我らが嫡男殿の教育がありますから、あんまり遠出したくはないんですがね。実際に徴収する際は、俺も出向いて見聞する必要があります。――いくさのような形になることも、なかば想定せねばなりません」
「毎度のことだが、苦労を掛けるな」
「俺の母親の面倒も見てもらいましたし、人を殺したときにかくまってもらった恩もありますんで、これくらいはいいですよ。むしろ、ぜひやらせてくださいと言いたいくらいですとも」
平助自身は継国家の直属であり、主家の上杉家から役職をもらっているわけではない。
彼は、個人的に景勝に仕えている。その忠義を認められて、国部村では馬借衆の取りまとめ役を任されてもいた。
命令するのは景勝の役目だが、有事の際に飛び出して、あちこちに走り回ったり走り回らせたりするのが、平助の主要な仕事である。
「俺は今年で三十路を越えるんで、まだまだ働ける年代ではありますが。何があるのか、わからないのが世の中ですよ。もしもの時は、嫡男殿の代わりに死ぬのが役目なんでね」
景勝自身、己の代わりに荒事を担当してくれる平助は、大きな存在だった。巌勝に受け継がせる部下としても、まず彼が筆頭であるといって良いだろう。
他に人がいないわけではないが、多くの仕事を回せる能力を持ち、実働戦力としても数えられる――武官と文官を高度な形で兼任する人材は、彼一人しかいない。
その貴重さを、景勝は見誤らなかった。だからこそ、多くの裁量と気やすい態度を許しているのだった。
「それを明言できるものが、どれだけ居てくれるか。わしにはきっと、お前が一人いるだけよ。巌勝をお前に任せたのは、他に人がいないからでもある。……実際、わしでは、あの子に剣を教えることさえできなかったろう」
景勝は自身の武才について、確かな感覚を持っていた。いくさで武功を立てられるだけの力があるかといえば、それは難しいだろうと思っている。
それでも息子に暴力を振るうだけの気概だけはあったものだから、逆に性質が悪いとも言えた。家族に対する自制心の緩さは、景勝の短所の一つであったろう。
「わしは、戦場で活躍できるだけの能力を持たなかった。それでも巌勝が恵まれた才をもって生まれてくれたことは、神仏の加護という他ない。――この上、お前のような良き先達にも恵まれたのだ。あの子は、大成する。そう信ずることが出来るのは、父として幸福なことだと思う」
平助は、黙って聞いていた。その正直な感想を、どうして嫡子に直接向けてやれないのかと、言いたかったが黙っていた。
感情を表すのが下手で、近しいもの、愛する者にこそ甘えて傷つけがちな気性について――彼は、指摘することができなかった。
平助は景勝に恩がある。些細なことでも、面目をつぶすような発言は、死んでも出来はしなかったのだ。
他ならぬ自分がそこをつけば、景勝は崩れ落ちるだろう。彼の弱さを知るがゆえに、生きる気力さえ失くしてしまうのではないかと危惧するがゆえに、口には出せなかった。代わりに出てくるのは、称賛の言葉だけ。
「巌勝殿も、父上を誇りに思うことでしょう。継国家の影響力と、その経済力を知れば、きっと尊敬の念も強まることと思います。……継国家が上野の多くの地域経済に食い込み、差配するようになったのは、まぎれもない今代の功績なのですから」
「そう、持ち上げてくれるな。武名をとどろかすことが出来なかったから、ほかの分野で活躍したまでのこと。……武家の本分は、戦うものであること。武力とその威厳をもって統率することが、武家の本性である。わしは、そこを徹底できなかった。自覚するほどに、先祖に申し訳ないと思うばかりよ」
そこで謙遜できる性を持ちながら、どうして――とは、平助は言えなかった。主従の不自由さを実感しながら、せめてもの諫言として、彼は思うところを述べた。
「死んだ先祖が、文句を言うために蘇ることなど、ありえないのです。外聞を気にするのは仕方のないことですが、もっと巌勝と向かい合うようにされてはいかがです?」
「わしは、あの子に憎まれている。仕方ないと言えば、これこそ仕方のないことだ。……わしは、自分の子供に対して、他にどうやって接すれば良いのかわからぬ」
男親として、与えてやれるものは全て与えてやりたい気持ちも、景勝にはあった。しかし時として暴力として表現してしまうほど、この男は不器用であった。
教育にしろ、財産にしろ、力で勝ち取るものだと教えてやりたいと思う。――すると、自然と厳しい態度になる。
巌勝には縁壱という競争相手がいるのだから、なおさらだった。月舟禅師に言われたとおり、縁壱の待遇について、彼は考え始めていた。考えていても結論が出ないから、余計に焦ると言う部分もある。
そうした景勝の心の複雑さは、当人にも処理しきれぬ部分があるのだろう。支離滅裂な態度として表れるのも、仕方がないと平助は割り切ることにした。
自分なりに、出来る範囲で助力する。それ以上に出来ることなどないのだ――と。
「……悩みは尽きぬところではありますが、目の前の仕事をこなしてこそ、後ろを振り返る余裕ができるというもの。税率と各地の生産量を突き合わせる仕事は、書類に向かい合ってるだけでは終わりません。一区切りしたら、俺も外回りに行ってきますよ」
「心配はしておらんが、二、三日で帰ってくるように。――巌勝を鍛える仕事もあれば、村の子供たちと巌勝を結びつける仕事も、お前にはあるのだからな」
現地を見回って、土地やら備蓄やらを確認することは、やらねばならないことである。不正を正して、正確に税を治めさせるための作業として、平助はそれに従事する義務があった。
その過程でいさかいが起きることもあれば、折り悪く盗賊どもと出くわすこともある。そうした危険も含めて、武家の務めというものであろう。
「もちろん。――帰ってきたら、地元の子供連中を集めて、巌勝と供に鍛錬に参加させましょう。その時が、楽しみです」
別れの挨拶をして、平助は国部村を発った。仕事を手早く片づけたい気持ちもあったが、それ以上に継国家の今後が気がかりでならない。
景勝は、縁壱をいまだに厄介者だと思っているのだろうが、平助自身がそれを正そうとは思わぬ。
しかし、縁壱は縁壱なりの考えがあるはずで、それが良くも悪くも継国家の将来に影響を残すのではないか。もしかしたら、致命的な事態を引き起こすのではないかと、景勝の性格を知るだけに懸念が収まらないのだった。
――巌勝坊ちゃんの、半分以下の才能であれば、黙殺できる。同等でも、先に認められている分、兄の方が有利だ。しかし……もし縁壱の才能が、明確に兄をしのいでいたとしたら、どうか。そこに朱乃様の後押し、らしい何某かのもの……があったとしたら、どうだ?
景勝は、極端なところがある。変なところで感情をこじらせて、悪い選択を取る可能性を、平助は案じていた。
だが、案じただけで具体的なことは何も思いつかず、取り越し苦労だと考えることにした。
今はまだ、そうした判断も許されよう。そう思ったから、目の前の仕事に注力する形で、平助は楽に流れた。
本当はもっと考えつくすべきだったと後悔するのは、そう遠い日のことではなかった。
いかがでしたでしょうか。あまり話は進展しなかったのですが、次の話のための準備と思ってください。
筆者が書きやすくするために、色々と都合の良い舞台設定にしています。
適当に書き散らかしている部分もありますので、あんまり真に受けないでくださると助かります。
次回の投稿は、一か月後を予定しております。
では、また。来月も時間つぶしに付き合ってくだされば、幸いに存じます。