継国之物語   作:西次

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 このつたない作品にも、定期的に目を通してくださる、読者様がいてくれるようなのです。

 個人的な欲求を満たすために書き出したものですから、他者の目からは見苦しく映る部分もあるでしょう。
 それでも見続けてくれる読者の方々に、感謝する気持ちは持ち続けたいと思います。今回も、ご期待に応えられていればよろしいのですが。

 繰り返すようですが、原作から見て、何かしらの矛盾点なり間違いなりがあれば、遠慮なくご指摘ください。

 あと、継国兄弟や家族構成について、これは解釈違いだ――なんて意見がありましたら、これもまた、お気軽に感想などで伝えてくださればと思います。



第六話 継国家の分断

 

 景勝が武家の当主として、あるいは地方の利益を差配する馬借として働いていることの重要さを、この家の者たちは誰もが理解していた。

 ただの馬借ではなく、武家の地位を持ち、主家からその権限を委譲されていると言う事実は、この地で並ぶものがない名誉を得ている証拠であり、代わりを探すことのできない存在であるともいえる。

 治安、経済、軍事的な影響力を総合すれば、継国家の役割の広さと大きさは上野でも屈指である。それは周知の事実であり、景勝がそれなりの敬意をもたれる人物であったことは疑いない。

 

 しかし、それは対外的な評価であって、家庭人としてはどうかと問われれば、いささか辛い反応が返ってくるだろう。

 それを承知したうえで、景勝は自分の働きが継国の家を支えているという自負があった。自身の素行に問題がある、などと考える暇があるならば、経済的軍事的な方策を練る時間にあてたいくらいであったろう。

 

――上野は元より、近隣にも不穏な空気こそ漂えど、上杉家の体制が揺らぐような大事は起こっていない。馬借としての事業も、最近は順調だ。こうなると、外よりも内側の方に関心が行ってしまうな。

 

 性格に難があるとしても、景勝が家中に対して冷淡であるとか、無関心であったことは一度もない。家人たちへの統制は強く、一人一人に目を配って誰それの身内に不幸があれば見舞い、不祥事があれば後始末を指示し、彼が当主となってから疎漏は一切なかったほどである。

 むしろ強く意識していればこそ、より近しい家族には過剰に反応もするのであった。巌勝への暴力を、愛情の裏返しと表現せねばならぬところに、彼の病理がある。

 

――巌勝にも困ったものだ。あれほど出来るのだから、もっと上を目指せるはずなのだ。今からでも世の理不尽というものを理解して、後々に備えさせねばならぬ。武家の社会とは暴力的なもので、息苦しい中を泳ぐ感覚を死ぬまで続ける覚悟がいる。今から備えておかねば、耐えられぬでは困るのだ。

 

 そんな景勝の病理を受け止めて、つぶれないほどの強靭さを巌勝が持ち合わせていたことも、悲劇の一員であった。もし彼が子供らしい脆弱性を早くに見せていれば、癇癪からの『不幸』によって、継国家は継嗣について悩む余地がなくなっていたはずである。

 巌勝は肉体も精神も、武家の次期棟梁に相応しいものを見せている。その事実が景勝の期待を呼び、厳しい上にもさらに厳しい躾が必要なのだと、景勝に思い込ませていた。

 

――殴った拳が痛んでも、己の間違いだとは思わない。継国家は、難しい立場にあるのだ。双子の存在が不吉を呼ぶならば、一方を遠ざけるのが無難な策であろう。生かしてやっているだけでもありがたいと、そう思ってもらわねばならぬ。

 

 巌勝は縁壱を気にかけていることは知っている。最近も、笛などを自作して渡していたらしい。

 製作中であると知った時点で、景勝は巌勝から力づくで笛を奪おうと思った。そして笛を壊して、そんなことをするなと言ってやりたかった。

 しかし一度殴っただけで、思いとどまってしまった。あれもまた、子供なりに命を懸けているのだとわかったから、景勝の方も無理強いできなかったのだ。

 なぜ、巌勝は笛一つに執着したのか。それが縁壱への贈り物だから、殴られても離さなかったのか。

 

――だとしたら、私は弱者から物を奪うだけの、暴君に等しい存在であるのか。

 

 奪い、犯し、傷つける。いずれも武家の一面であり、完全に否定しては戦国の世で生き延びることもかなわぬ。

 しかし、それを内に向けた己に、果たして非はなかったのか。非があったとして、己を変えるべきなのか。

 威厳を保とうと思えば、息子に詫びることもできない。ならば、言葉ではなく行動で応えるしかあるまい。

 朱乃にも、あれこれと言われたこともある。景勝は、自身に不都合な事実を無視する傾向のある人物であるから、耳に痛い部分は結構忘却していたものの、少しは気に留めていた。

 何かしらの才があるならば、利用してやってもいいだろう。巌勝の将来に差し支えない範囲で、つながりを残しておいてもいいかもしれないと、彼は思うようになった。

 

――巌勝と縁壱。才覚の差が表れる年頃は、もう少し先であると思っていたが……良くも悪くも、どちらも早熟であるらしい。認識を改めるにも、今はいい機会が巡ってきている。

 

 家の中で起こったことであれば、景勝はその全てを把握していたといって良い。

 平助が苦心したことであっても、景勝にとっては然したることではない、という事実はいくつもある。

 仕事上の権限の問題とか、付き合いと人脈の差、あるいは単純に経験の差とも言えようが――。

 とにかく、平助が何かしらの隠し事をしていることは、景勝にはすぐわかったのである。

 剣の鍛錬そのものは、上手くいったらしい。巌勝の評判も上々で、景勝は文句を付けようとは思わなかったが……。

 縁壱が何かやらかしたらしい、という事実には、彼も思うところがある。

 

――縁壱には、武の才があるかもしれん。僧となる身には、不必要なほどに恵まれているとしたら……これを奇貨として、教育を進めるという手もある。待遇を変える口実として、これは実に都合が良いことではないか。

 

 立木を一撃で粉砕するなど、七つの子供に出来ていいことではない。しかし、これは武士としてみれば、頼もしいほどの力でもある。

 長ずれば、上野でも屈指の武辺者として、名を馳せるかもしれない。そうした欲を抱いたとしても、何が悪いだろうかと景勝は思う。

 

――しかし、何かの間違い、ということもありうる。確かな目で見ずに、過度の期待をかけるのも問題であろう。

 

 巌勝に不満があるわけではない。跡目争いを避けるため、縁壱を寺に送る決定も、まだ覆そうとまでは思わぬ。

 だが、待遇の改善が必要だとは考えた。何かきっかけがあれば、縁壱の武を生かすことを考慮してもいいのではないか。そのように虫のいいことを、この時の景勝は考えていた。

 僧侶にして武将、という道もなくはない。そこまで大きな才があるのなら、家としても完全に手放すのは惜しかった。

 そして将来的にも縁壱と我が家の間に、つながりを保ち続けられるなら、巌勝も安心するであろう――とまで打算的に考える。それが、景勝なりの寛容さの表れであった。

 逆に言うならば、そこまでしなければ、彼は寛容さを表すことが出来なかったともいえる。

 

――我が目で確かめるのは、これまでがこれまでゆえ、あまりに不自然。さりとて平助が巌勝を贔屓するであろうことは、あまりにも明白。あいつは、視野がそこまで広くもないし、器用な生き方が出来る手合いでもない。

 

 確実を期するならば、別の目を用意せずばなるまい――と景勝は結論を出す。だが、こんなところで策謀を巡らせても滑稽なだけだ。

 ふつうに、適当な家人に様子をうかがわせるくらいで良いだろう。数人ばかりに言いつけて、複数の目で確認させればそれで済む。

 

――平助と縁壱を真面目に打ち合わせることができれば、わかりやすいだろう。大人が手加減しても、体格の差は絶対だ。これで縁壱の剣才を測れよう。

 

 真面目に分析するつもりで、景勝はそのための準備を整えることにした。

 何も難しいことではない。巌勝が鍛錬するときに、縁壱を必ず参加させるよう、平助に指示しておけばよい。

 彼は喜ぶまいが、この時代、主従関係は重い意味を持つ。継国が小さい家とはいえ、武家としての秩序も維持されている。これを拒否する道理は、どこにもないであろう。

 

「平助にとっては、降ってわいたような災難であろう。……重ねて、苦労を掛けてしまうな」

 

 平助は、景勝にとっては子飼いの信頼できる部下だ。精神的な負担を押し付けている自覚を、彼は何度も感じていた。

 彼に対しては、労いも容易いのに、家族に対しては粗雑に接してしまう。そうした自身の悪癖についても、景勝はそろそろ矯正していかねばならぬと思うようになった。

 

――朱乃の病が重いらしい。覚悟を決めているつもりだが、あくまでつもりに過ぎぬ――。

 

 実際に妻に逝かれたら、取り乱すであろう確信がある。武家にあるまじき柔弱さだと、我ながら思う。それでも、こればかりは感情の問題であり、理屈でどうこうすることは出来まい。

 だから景勝はこれ以上、頭の痛い出来事は考えないことにした。その時その時の状況次第で、どうにかやっていくしかない。

 ただの逃避だと、頭の隅で理解しながらも、継国の棟梁は日々の仕事を継続する。

 次代のために、主家のために、何よりこれまで積み上げてきた、我が家の名声のために――。

 

 彼はそれを維持するための、一種の歯車となることで、自分を許してきたのである。そうした己のやり方が、これからも通じるものと思い込んでいた。

 景勝の最も大きな非が、それである。これを自覚する機会を持たなかったことが、おそらくは彼にとって、一番の過ちであったろう――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 景勝は、己の正しさを確信しているから、部下への命令もきっちりしたものだった。

 

――縁壱の力を試せ。剣を振るわせ、剣を打ち合わせよ、とおっしゃられますか。いやはや、これはまた、なんとも。

 

 誤解の余地のない命令を受けてしまった平助は、その通りに行動せざるを得ぬ。彼としては、縁壱はこのまま当たり障りのない対応をして時間を稼ぎ、寺に入るまで曖昧な立場を堅持させるべきだと考えていたのだが。

 

「あの人にも困ったもんだ」

「……何が、ですか?」

「自分の間違いを認めない主に仕えると、対応に苦労するって話さ。――うちにとっての主家の上杉さんだが、割と面倒な要求をしているんだよ。いくさに従軍しろとか、労役の人員を出せとか、馬をもっと供出しろとかな。で、拒否しようとすると『お前の地位を取り上げるぞ!』だ。ひどいと思わないか? ええ?」

 

 巌勝の前だと忘れて、不用意に一言漏らしてしまったため、平助は取り繕うのに苦労せねばならなかった。

 だが、これまで巌勝は主家と距離を置いていた。ここで話が出たため、かえって興味がわいたらしい。

 剣の鍛錬はひとまず置いて、そちらの話をしなくてはならないようだった。

 

「上杉家が……継国の主家であることは、聞いています。しかし、直に接したことはありません。平助殿は、会ったことが、おありですか?」

「……上杉さん家の御当主様と顔を合わせたことは、流石にないがね。その下の下の――まあ、使いっ走りくらいの相手には、多少付き合ったことはあるさ。仕事上、どうしてもな」

 

 とはいえ、本当に少しだけなので、実際的な部分は景勝の方が詳しいと平助は付け足した。

 あまり語りたいことではないのだろう。そうと察して、巌勝もこれ以上は聞かなかった。

 これだけの気遣いを、七つの年で覚えている。早熟に過ぎると言ってもいいが、だからこそ期待も強いのだ。

 剣の才だけが、武士に必要なものではない。剣一本での成り上がりは、講談では受ける物語になるだろう。しかし現実として、武士に求められるのは、剣技以上に家を維持する手腕である。

 

 それを説いてやりたかったが、剣の鍛錬の時間にすることでもない。平助は中庭で、今日も今日とて巌勝に剣を振らせる。

 ただ一つ、常より違うことがあるとすれば、その場には縁壱がおり――今日ばかりは彼に鍛錬をさせずには済まされない、ということであった。

 

「縁壱……?」

 

 いつもは鍛錬を大人しく見学しているか、うろちょろしながら物真似のように剣を振るふりをしている彼が、今は平助に呼ばれて、巌勝の隣に並んでいる。

 それを異常と感じるだけの感性が、この時の巌勝にはすでに存在していた。

 これまでとは違うのだと、子供なりに理解したのだろう。平助もまた、苦くなりそうな表情を抑えつつ、本日の課題を口にするのだった。

 

「縁壱がいるからと言って、緊張することはないぞ。――巌勝はいつも通り始めろ。体が温まったら、俺と打ち合う。覚悟だけはしておくように」

「――はい」

 

 平助の苦肉の策である。前回の鍛錬の痕跡を見る限り、縁壱には才能があるらしい。

 だが経験はあるまい。巌勝と自分が激しくやり合えば、委縮して実力も引っ込むであろう。そうして縮こまった後、自分と打ち合わせればよい。

 肉体的に恵まれていても、技術はそうはいかぬ。ましてや初見で動揺せず、真っすぐに剣を振るおうと思えば、精神を鍛えなくてはどうにもならない。この点を、平助は遠慮なく突いていくつもりだった。

 

「平助殿。俺は、何を……」

「しばらく、見ていろ。お前は後だ」

 

 平助が縁壱を見る目は冷たい。多少は痛くしたところで、誰にも文句は言わせないと平助は決意を固めていた。

 立場上、お家の事情は察している。哀れに思う気持ちもなくはない。しかし巌勝の将来のために、縁壱には対抗馬になってもらっては困るのだ。

 

――あいつが、縁壱への劣等感をこじらせることになれば、将来の禍根になる。お前の才能は、発揮されないのが一番無難なんだよ。

 

 周囲から目を掛けられ、自らも手をかけて育てている優秀な少年が、後継ぎの地位を追われるようなことになるなど――そんなことがあってはならぬ、と。当人のこれまでの努力と成果も知る平助は、そう考えていた。

 皮肉にも当人以上に、彼は巌勝の事情を斟酌していたと言える。そうした彼の独断を咎めるために、運命が結果をもたらしたとでも言うのだろうか。平助の思惑を飛び越えて、縁壱の才は開花するのだ。

 

「そろそろいいだろう。――やるぞ、巌勝」

「はい、平助殿」

 

 巌勝が適度に剣を振り、体を温めたところで、平助は声を掛けた。そして、位置について二人は睨み合う。

 獲物はお互いに木刀であり、竹刀でやるような優しさは、ここにはない。そんなもの、お互いに必要としていなかった――と言えば聞こえはいいが、要するに二人して縁壱への示威行為を行っていたのである。

 そうとも知らず、縁壱はその様子をただ見守っていた。激しい打ち合いを見るのは初めてではないが、この時はこれ以上なく気迫がこもっているように感じられる。

 

「よし。次は首、胸、腹、足の順番で打ち込む。加減はするが、寸止めはせん。避けられないなら、痛みで学べ。――いくぞ」

「はい!」

 

 結果から逆算するなら、縁壱にとっての稽古の原風景が、この二人の打ち合いにあったことは間違いない。

 後に縁壱は表の世にまでは伝わらなかったにせよ――剣術という分野において、空前絶後といって良い概念を打ち立てることになる。その時の修練の参考として、巌勝と平助の存在があったとすれば、なんとも皮肉なことではないか。

 

「――ッ!」

「怯むな! 傷が痛いだの、身体が苦しいだの、敵がそんなものを考慮してくれると思うな!」

 

 平助の木刀が、巌勝の左肩を打ち据える。それほど強く打ったつもりはないが、子供には厳しい痛みが、彼を襲った。

 首への打ち込みをかわしきれなかった、巌勝の落ち度と言える。しかしこれは平助の計算通りとも言え、以後はぎりぎり打ち払うか、かわせる程度に加減して打ち続けた。

 

「まだ、まだ――」

「いいぞ、上手に捌けてるじゃないか。……そら、もう少し強くいくぞ」

 

 縁壱が希代の剣士として才能を開花させたのは、家を出てからのことになる。しかし継国家での生活こそが、後の縁壱に大きな影響を与えたはずだった。

 統治を義務とする武家の家に生まれ、武家の手本としての父や兄の存在があり、知識を与えてくれる母と、自身を保護してくれる環境がある。

 自分が恵まれていることを、縁壱は自覚していたであろう。そうした現実を理解すればこそ、彼は己の才能を役立てることを、より強く己に課したのではあるまいか。

 

「ここまで! ……よく耐えたな、巌勝」

「――さしたることでは、ありません」

「息が上がっているぞ。随分、顔も歪ませた。痛みを我慢することにも慣れた頃合いだろうが、表情を制御することも意識しろ。――劣勢で動揺し、逆転を信じさせてくれない指揮官を、兵どもは信用しない。それは、どんな状況でも顔色一つ変えない度胸があって、初めてなし得ることだと思え」

 

 巌勝がそうであるように、縁壱もまた平助を見ていた。彼らのやり取りを通して、縁壱もまた剣術を学んだのである。

 そして学んだ以上は、実践をしてみたくなる。平助は、そうした縁壱の心意を読み取っていたが、物には順序というものがあろう。

 

「一度、休憩を入れる。……縁壱、お前もやってみるか」

「はい。俺も――」

「竹刀を持て。木刀での打ち合いと比べれば、戯れのようなものだが――初めてであれば、これくらいが相応だろうよ」

 

 巌勝との鍛錬が真剣であっただけに、平助の態度の違いは、なんとも露骨に見えた。

 戯れに、という形で袋竹刀を手渡された縁壱だが、どう振ればいいのか。見ているだけでは、わからぬこともあろうと、平助は持ち方と構え方を軽く教えた。

 それだけは礼儀としてわきまえていたのだろう。平助なりに、主君の息子への義理を果たしたつもりだったと言える。

 

「さあ、打ち込んでみろ。――手加減はいらんぞ」

 

 平助は合戦で経験もあり、剣術を学んだこともある。縁壱の体つきは、この年の子供としては悪くないが……初めて剣を持ったような相手に、不覚を取るつもりはなかった。

 だからこそ、手加減はいらぬと言ったのだ。これを傲慢というのは、あまりに酷であったろう。

 縁壱は、竹刀を持った。初めて感じる剣の感触は、思ったより軽い、というくらいのものだった。

 

――打てる。

 

 確信をもって、縁壱は平助と向かい合う。手加減はいらぬと言うなら、全力を持って立ち向かうのが礼儀であるはず。そうと信じて、彼は動いた。

 

 瞬きをするほどの、わずかな間であった。巌勝どころか、対峙していた平助自身、己が打ち据えられたという――その自覚すらできなかったと言えば、どれほどの異才を示したかわかるであろう。

 

 平助は首、胸、腹、足に竹刀を叩き込まれた。連続して四発もの剣を受けたのだ。得物が竹刀でなかったならば……。もし木刀であったならば、命の危険すらあったかもしれず、それだけに縁壱の異常さが際立ってしまう事件となった。

 当然、鍛錬はその場で中止。中庭でのいつもの稽古が、縁壱を加えた途端、とんだ騒ぎを呼び込んでしまったことになる。

 

 平助が縁壱の剣を受けて倒れたところは、家人たちも目撃していた。その中には当然、景勝から様子を観察するよう言いつけられていた者たちも存在する。

 幸いにと言って良いかはともかく、平助はその日のうちに意識を取り戻した。竹刀で打たれた傷は腫れあがっていたが、骨に異常はないらしく、翌日も休まず仕事を続けたと言う。

 

「縁壱は、そこまでの才能を、隠していたのか」

 

 一連の騒ぎが終わった後、巌勝はそう独り言ちた。それにしても、縁壱がそこまで強い理由は何であろう。

 弟に出来るなら、自分にもできるのではないか。鍛錬すら、彼はまともにしたことがないはずである。容易く強くなれる『秘訣』があるのなら、これを習いたく思うのは当然の心理。

 

 巌勝は平助の容態を慮るより先に、まず縁壱を問いただそうと思った。ちょっとした騒動になってしまったため、翌日まで待たねばならなかったが、夜眠れなくなるほどの衝撃を彼は受けたのであり、いかに早熟な巌勝とはいえ子供の時分である。

 思慮が幼いとか、浅はかであるとか、そうした非難は的外れであるだろう。この時の彼は、それが許される立場にいたのである。

 

「打ち込んでくる前に、肺が大きく動く。骨の向きや筋肉の収縮、血の流れをよく見ればいい」

 

 だが、現に当人から答えを聞いた後、巌勝は失望した。縁壱は表情の消えた顔で、そう答えたのだ。

 あまりに答えを渋るので、しつこく食い下がった後での返答である。それなりのものを巌勝は期待していたが、結果はと言えば参考になるものではない。

 

「なんだ、それは」

「肺とは、胸にある空気を取り込む臓器です。呼吸に関わるもので、運動においては極めて重要です。骨と筋肉は、身体の基礎と言って良い土台のこと。収縮とは伸び縮みすることで、血の流れは体内の気を整える際に、よく見える兆候のことです」

 

 縁壱がそうした答えが出来る時点で、母親からの薫陶が実に深かったかを思わせる。教養のない人物のできる返答では、決してない。

 巌勝は、その答えを腑に落とすまで、時間を掛けねばならなかった。しかし、これは彼の才覚を疑う理由にはなるまい。

 理解しようとすればするほど、縁壱の答えが異質であることを実感するからだ。

 

「お前は、それがわかるというのか」

「見えればわかります。見えたものを理解するのに、俺もいくらか時間がかかりましたが。でも、一度そうとわかってしまえば、応用は難しくありません。……平助殿は闊達に見えましたが、どこか調子が悪かったのでしょうか。防ぐかと思いましたが、打ち過ぎてしまいました」

 

 技は一度流れ始めれば、終わるまで止まらないのだと、縁壱は付け加えた。まるで、防げなかった平助の方に非があるかのように、上の空という態度で彼は言い切ったのである。

 大人と子供という差を鑑みれば、縁壱の感想は必ずしも不当とは言えない。平助の冷たい視線を思えば、むしろ隔意を抱いていないだけ、彼の方が寛大であるとすら評価せねばならぬ。

 だが、巌勝は動揺を隠せなかった。縁壱が生物の体が透けて見えており、これを活用する才を授かって生まれてきたことを理解したからである。

 

――なんだ、それは。不公平にもほどがあるではないか。

 

 縁壱だけが理解し、縁壱だけが利用できる概念であり、才能であった。同じ血を受け継ぎながら、巌勝にはそれだけの能力は授かっていない。真似できるとすら、思えなかった。

 

「そう……か」

 

 そうした不平を口にせず、内心で留めるだけの理性を巌勝は持っていた。うつろで言葉少ない返事は、そのまま彼の自制心の強固さをも表している。

 これこそ、父と師の薫陶の結果であると言えよう。縁壱への不快感を表に出せば、この弟は傷つく。

 身勝手な癇癪を起こして目下のものを困らせるなど、馬鹿殿さまのやることだ。武家の嗣子として、なにより兄として、そんな無様をさらせるものか、と。巌勝の矜持が、この場における彼の立場を守ったのである。

 

「兄上は凄いです。あんなに打ち据えられても、ひるまずに剣を振るいました。俺が同じ立場なら、痛みを感じながらも戦い続けるだけの気力を、振り絞れたかどうか――わかりません」

「……たいした、ことではない」

 

 縁壱は巌勝の敢闘を称賛した。褒められることで、痛みを感ずることもある。うれしくない敬愛の情もあるのだと、巌勝は初めて知った。

 弟には生まれつきの才があり、これを不足なく発揮する身体能力がある。それでいて、他者を思いやる立派な人格さえ備えているのだ。

 巌勝は、それを理解せねばならなかった。わからぬふりをして自分を誇れるほど、巌勝は融通の利く性格を持ち合わせていない。そうした公正さを、生来の気質として持っていたことが、彼の不幸であった。

 

「俺には経験がありません。それでも、剣の鍛錬が厳しいものであることは、わかります。兄上は、緩まずに辛い修行を続けておられる。誰にでもできることでは、ないでしょう」

「……お前なら、私よりもよほど、うまくやれるだろう。……違うか?」

「いいえ。兄上の向上心を思えば、俺などが及ぶものではありません。きっと兄上は、将来俺などには出来ぬことも出来るようになります。そう信じられます」

「縁壱。私は――そんな期待に応えられるか、どうか。父上が望むだけの成果を出せるのか、将来の継国家を背負うことが出来るのか、不安に思うことさえあるのだ」

「今から不安に思い、必死に鍛錬する。そんな兄上なればこそ、支えたいと思う人は多いでしょう。平助殿は、その筆頭と言って良いのではありませんか? ――どうか、自分を信じてください。俺の兄上は、貴方は、立派な人なのです」

 

 知らず、歯を食いしばっている己に気付く。巌勝は縁壱の境遇に同情していた。哀れんだことも、一度や二度ではない。

 武家の嗣子として、継国家の後継ぎとして、弟を守ってやりたい。弟に恥じない兄でありたい――。

 そうした気持ちを、この時まで巌勝は維持できていた。しかし、これからはそう出来ぬ。弟は己より遥かに優れているのだと、彼は嫌というほど実感してしまったからである。

 実務とか実力とか、そうした表面的なものではなく、心の底から縁壱に負けた。この問答の中で、彼はそれを実感し続けていた。

 

「まだ、立派になったなどとは、私は思えぬ。剣も、事業も、私には実績らしい実績がない。未熟な自分では、仕方のないことだが……今から評価されるようなことでは、あるまいに……」

「だからと言って、自信を失うのもまた、正しい態度とは言えないでしょう。――兄上が将来の継国家を背負うことを思うならば、自嘲よりも自惚れの方が、まだ必要だと考えてもいいはずです。己を大きく見せて、見栄を張る方が、子供の時分は都合がいい。……勘違いでも自信を持っていた方が、周囲は安心するものです」

「まさか、それは、違うだろう。……まだまだ至らぬところが多い、足りぬところを自覚する毎日なのだ。傲慢の愚を犯すことこそ、今は恐れるべきだ。――私は、強くない。力不足を自覚すればこそ、どうして自信を持てようか。つらい現実を前にして、己に何ができるのか、問い続ける毎日なのだぞ――」

「辛いならば、今は置くことも大事でしょう。俺としては、そんなことよりも。……剣の話をするよりも俺は、兄上と双六や凧揚げがしたいです。兄上に今必要なのは、苦行ではなく安息ではありませんか? 張り詰めた弓の弦は、切れやすいと聞きます。――緩めることもまた、時には必要。そう思って、俺の言葉を受け入れてはくれませんか?」

 

 兵は不祥の器なり、君子の器に非ず――と言う。漢籍の教養を持つ巌勝は、縁壱が人格的にも自分を上回っていることを知らねばならなかった。

 自らは武家としての義務に執着するあまり、武が不吉なものであること。兵を用いること、戦争が忌むべきものであることを忘れていたことを知った。打ち据えられた平助を案じず、縁壱に剣の秘訣などというものを期待した己の浅ましさも、巌勝はここで自覚した。

 

――私は、何をしていたのだ。自分に剣の才があるからと、目下の者に誇って得意になった。平助殿と打ち合って、これ見よがしに己を持ち上げるばかりで、謙虚さの一つも見せなかったではないか。

 

 むしろ己のわずかな剣才を誇り、それを周囲に見せびらかしていたを自覚し、恥ずかしくなった。

 

「そう、か。そう、だな。……まさしく、その通りだろう。縁壱。お前は、私のそれが、苦行だと思っていたのだな。過剰な努力と、案じてくれていたのだな」

「はい。兄上は、充分に努力されています。俺は、それを立派だと思います。だから、休む時間も大事なのだと、理解してほしいと思うのです」

 

 衆人から見れば、巌勝程度の才でも抜きんでたものに見えるであろう。だが縁壱にとって剣の道は童遊び以下であり、さほどの価値を持たぬものだ。執着するほどのものではなく、むしろ兄弟の和こそを尊びたいのだと言っている。

 

 さらに付け加えるなら、無理をするくらいなら休んで余裕を持つのが正しいと言う。

 正論であると、巌勝は認めざるを得ない。それだけの理性を持ちえたことが、かえって劣等感を刺激した。

 現代的にいうなれば、心理的な自家中毒とでも言うべき症状を、彼は起こしかけていた。

 肉体的にも精神的にも、縁壱に到底及ばない自分を自覚して、嘔吐感を覚えた。しかし、兄という自身の立場を思えば、衝動的に吐き出すことも出来ぬ。

 体面を維持するためにも、死ぬ気で吐き気に耐えた。子供の時分で、今の今で、巌勝は心の責め苦に苛まれる。それが己の性質から生まれたモノだと思えば、誰に当たり散らすことも出来ずに、抱え込むことしかできなかった。

 

――嫉妬などという、醜い感情に支配されたくはないのに、抑えることも難しい。そんな自分の言動と比べて……縁壱の慎み深さはなんだろう。私が本当に表現するべきは、縁壱のような、謙譲の美徳ではなかったか。

 

 凶事はつまらないものである。そうあるべきで、極めることを望んだり、身に着けた力を誇ったりすることはむしろ災いとなり得るのではないか。平地に乱を起こすようでは、統治者として不適である。自分にその資質が欠けていたことを、巌勝は自覚した。自身の受けた教育の深さのため、彼はそこまで理解してしまった。

 

――私は、縁壱にはとても及ばぬ。剣が発端であったが、それは重要ではない。心の底から、在り方が違うのだ。縁壱は、生まれた時から高潔であったのだ。私とは、違う――。

 

 縁壱は自分より良質な教育を受けたはずがない。ならばその結論に至ったのは、生まれ持った才がそれだけ優れていたことを意味する。実力だけではなく、心の在り方もまた、才覚の内である。

 己は、巌勝は、早熟であると言われた覚えがあった。しかし縁壱は、早熟さにおいても兄を上回っていたのだ。これと比べれば、己のそれは亀の歩みである。環境に恵まれていたはずなのに、縁壱の影を踏むことしかできない。

 平助や父から、相応の期待を掛けられている。そうした事実を、巌勝は自覚している。これまでは、自分もその期待に応えられているつもりだった。努力を怠ったことはないし、それなりの成果を上げているものと思っていた。

 だが、縁壱はその自分の成果を一足飛びにしていった。たぐいまれなる神童を、弟に持った。その事実を前にして、巌勝は初めて嫉妬という感情の重さを知ったのである。

 

――これは、駄目だ。私は兄なのだ。兄として、弟を認めねばならぬ。その才を疎むのではなく、むしろ称揚して認めるのが筋なのだ。お前は凄いと弟の生来の恵みを喜び、将来の幸福を望むのが兄の役目であろう!

 

 自分が認められることを望むより、他者を認めて褒めなさい。

 己の才を誇るより、自分より優れた者に見習いなさい。

 

 儒教の創始者に近い孔子は、そう説いた。月舟禅師から高度な教育を受けた巌勝は、そうした概念を覚えている。自分がどのような態度を取るべきか、縁壱への思いやりを示さねばならないか、彼はきちんとわかっていた。

 

――三国志の英雄、司馬懿の兄である司馬朗は、弟が自分の才を越えていることを知っても、嫉妬することはなかった。結果として、司馬懿は人格において兄に及ばぬと認めることになった。私と縁壱の関係も、そうあらねばならぬ。そうあるべきだと思うのに、どうして我が心にはわだかまりが残るのか。醜いほどの、嫉妬を消すことが出来ないのか。

 

 わかっていてなお、取り繕うことが出来なかった。以後の縁壱のやり取りを、巌勝は思い出すことが出来ない。ぐるぐると思考ばかりが空転して、その日は上の空のまま過ごしていた。気づけば夜は更けており、布団の中にいる。

 

――考えつくしても、認めるしかない。縁壱は全てにおいて、私を上回っている。武家の嗣子として相応しいのは、縁壱の方ではないのか。

 

 巌勝は、そうした結論を出した。疑う余地がないように、彼には思えた。

 父のように、衝動的に暴力を振るうのではなく――虚無感を覚えたことに、巌勝の人としての善良さが発揮されたというべきである。

 本当に嫉妬したのであれば、まっさきに怒りを感じるはずだ。弟のくせに兄を立てることも知らぬのかと、激しい感情を間髪入れずに縁壱にぶつけたはずである。

 そうしなかった、できなかった事実をもってして、彼の性が悪に近しいものでなかったと断言して良いであろう。

 不幸であったのは、そうした人格の清涼さが、必ずしも本人に良い影響を与えなかったことにある。

 

――慎まねばならぬ、慎まねばならぬ。恨んではならぬ、嫉妬してはならぬ。それは、長男が行うべき道徳からは外れている――。

 

 自身よりも遥かに優れていたとしても、弟は弟である。兄としては、これを認めて称揚し、守るのが人の道である――と巌勝は繰り返すように己に言い聞かせた。高度な教育が、彼をそうした道に縛り続けている。

 心の痛みをこらえながら、自分の苦しみから目をそらして、彼は弟を、縁壱を憎むことをやめようと思ったのだ。

 

「道徳にもとる。長幼の序に従うのが、世の習いであり、教育を受けた嗣子の成すべきことである。私は、武家の長男として、それにふさわしい授業を、直接受けているのだ。……道を外れまいぞ、恥ずべきことは成すまいぞ。未熟であればこそ、孝悌の教えに従わねばなるまいぞ――」

 

 性格の清さが、かえって自身の言動をゆがませる。人間の性質の複雑さが、善悪のどちらに触れるかは殆ど運に左右されるものだ。周囲の環境や、当時の心理が、生来の性格に変質をもたらすことはある。

 戦国時代の武家という立場は、巌勝の人格を狭隘な器に押し込ませ、伸び伸びとした余裕を奪ったのだろう。ある意味、彼は時代の被害者であったと言えるかもしれない。

 とはいえ、それを言うならば巌勝だけに限定された話ではないし、縁壱には縁壱の苦悩があるはずである。悩みに悩んでいながらも、彼にもそれくらいのことは考えられた。

 

――そうだ。縁壱に、悪意があろうはずもない。その弟が、冷や飯を食らわされているのだ。それだけで、思いやる対象としては十分であろう。私が縁壱に悪意など、嫉妬など抱くのは公平さにもとる行為ですらある。それを許しては、私は兄としての矜持さえ失うことになるではないか。慎むべし、慎む上にも、なお慎むべし。この感情を弟に悟られること以上の恥辱など、この兄には存在しないのだ――。

 

 巌勝の教養の深さと、長兄としてのなけなしの誇りが、そう言い聞かせていた。くどくどと己に言い聞かせねばならぬほど、彼の苦しみは深かった。

 しかしこの家において、苦しんでいるのは彼ら兄弟だけではない。時を同じくして、彼の母――朱乃もまた、死病の床にあった。

 そして巌勝が母の死を知るのは、数日後のことになる。そのわずかな間に様々なことがあったのだが、子供に過ぎない彼の身には、特に生涯初めての挫折に苦しんでいた巌勝にとっては、とうてい実感がなかったことであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 縁壱の活躍について、家人から話を聞いていたのは、朱乃もまた同じである。景勝同様、彼女もまた今回の鍛錬において、縁壱と巌勝の力関係がどのように変化するか。

 死病に侵されている分だけ、他の誰よりも注目していたと言えるかもしれない。

 

「縁壱が、平助殿を?」

「はい。それはもう、目にも止まらぬ速さでして――」

「いと。もう、結構です。下がりなさい」

 

 側務めの『いと』という家人に、朱乃は一部始終を見守るよう指示していたのだが――結果的に、不安は現実のものになったと言える。

 

「景勝殿、どうか、早まらないでくださいな。縁壱は、決して、貴方が考えるような人間には……なれない、のです」

 

 縁壱と深く接している。朱乃には、それがわかる。彼は一個人の武人としてなら、名声を得られるくらいの力はあろう。精神的な早熟さを思えば、高僧にさえ匹敵しかねないものだと、母として理解していた。

 だが武家という組織を維持、拡大する才覚には欠ける。この点、巌勝の方が適していると言う確信も、彼女の中にはあった。

 なるほど、単純な才覚であれば、文であれ武であれ、縁壱の方が兄より優れているであろう。

 だが同時に、あまりに感覚が浮世離れしており、優れすぎているがゆえに他者への理解が薄くなっているのではと、朱乃には思えてならぬ。

 

 優しく、人を思いやる愛情も深いが、そうした正の感情が大きすぎるために、嫉妬や怒りといった負の感情を実感することが出来ていない。

 朱乃は、どのような状況においても、縁壱が怒ったり焦ったりするところを見たことがなかった。多少は出ないものかと、わざと怒らせてみようと試したこともあったが、縁壱は困惑するばかりで苛立つところさえ見せなかったのである。

 

――あの子は、人がどれだけくだらないことで怒ったり、憎んだりするものか。心から理解することは、きっとできない。知ることはできても、納得することは、おそらく生涯ないのではないか――。

 

 生まれながらの才覚に恵まれているがゆえに、力を持つがゆえに、持たざる者の心情をわかってやれないのではないか。強いからこそ、弱者の心を無自覚に踏みにじるのではないか。

 朱乃は縁壱の能力に疑問を抱いてはいないが、彼が無神経に他者の痛みに触れて、憎まれはしないかと心配していた。

 子供の内から、そんな懸念を抱くなど、取り越し苦労もいいところだと、部外者は思うかもしれない。

 

――長く接していて、わかった。以前はただの長所に見えたことも、今ではそれが短所となりかねぬとも思う。

 

 母である朱乃には、今頃になって、ようやく縁壱の異質さを理解するようになっていた。

 縁壱は天下の鬼才であり、高尚な人格者たりうる。この時代第一の人物となることも、おそらく不可能ではあるまい。

 しかし、それは縁壱自身の、一個人としての完成に過ぎない。組織に所属する個人として、自分一人だけが完成されていても虚しいだけだ。いかに優れていようと、人間の能力には限界があるのだから、集団というものがもっとも強い存在になる。

 集団の、組織の強みとは団結力に外ならぬ。縁壱は、その団結を乱しかねないほどの力を持つ。それは劇薬であり、必ずしも良い方向に作用するとは限らない。朱乃は、その不安を解消できるほど、縁壱に関われないことを悔やむのである。

 

――景勝殿は、縁壱の才を見誤るかもしれない。あの人は、自分の弱さを認められない人だから。巌勝を自分と同じように育てたがゆえに、まったく異質なところから出てきた縁壱の強さを、過大に評価してしまうだろう。

 

 いずれは、縁壱も精神が成熟し、自分や他者の愚かさを本当の意味で覚えることになるだろう。しかし、子供の時分は微妙である。今、環境を変化させるのは、兄弟のためにならないと朱乃は思っていた。

 

――今から話に行くような体力は、もうない。せめて、書き残しておかねば――。

 

 朱乃は、筆をとった。文字を書くことすら、今の彼女にとっては難しい。

 それでも気力を振り絞って、手元にあった日記の冊子に遺言を残す。足りない部分は、以前に月舟禅師に託した文で補えるはずだと思いながら、最後の文章を書き終えた。

 

 朱乃という女性の人生は、最初から終わりまで自身の家族のために翻弄されていたと言うしかない。

 当人にとって、それが幸福であったか不幸であったのか。もはや、確かめようにないことだった。それがために、彼女に愛されながらも残された人々は、各々が受け取ったものを独自に解釈して、生きていくのだ。

 

 景勝にとって、遺言は絶対の指針となり、縁壱にとっては、受け取った愛情が己の基礎となった。

 巌勝にとって、母の存在はどこまでも遠いものであり、良くも悪くも影響は最小限であったと言える。恋しく思ったことはあっても、執着することはなく、むしろ残した遺言に縛られた父親にこそ、彼は苦しめられることになった。

 運命の皮肉という他ないが、愛情は人を育むのみならず、時として傷つけることもあるだろう。もはや彼らは、朱乃という光が消えた継国の家で、生きていくしかないのであった――。

 

 

 

 

 

 

 縁壱が、兄の巌勝をどれだけ心の支えとしていたか。それを正しく自覚していたかどうかは、当人にとっても判断が難しい。なぜか。

 縁壱の情緒が、そうした感情の機微を把握するほどには育っていなかったからである。

 自覚したのはむしろ後年のことで、この点では巌勝の方が精神的にはよほど早熟であったろう。そのために苦しんでいるのだが、縁壱にはそうした事実も理解することが出来なかった。

 兄は自分よりも大きな人であるのだから、辛いことがあっても立ち直る。何が大事なのかわかる人なのであるから、間違いは侵さない。

 その程度の理解であった。完全な間違いではない辺りに、縁壱の鋭さと鈍さがある。

 

――寺に、私物を持ってはいけない。けれど、懐に収まるくらいの笛であれば、とやかくは言われまい。

 

 兄が自作してくれた笛を、縁壱は大事に保管していた。いずれ家を出るならば、これを持っていこう、と。

 しかし、家を出るのはまだ先になるはずだった。それこそ、母の病が思いのほか篤く、早くに逝ってしまうことがなければ、縁壱の運命もまた変化していたであろうに。

 

 母の死を悟ったのは、本当に直前のことであった。剣の鍛錬も、初めて平助と立ち会ってからは避けることにしていて、木刀すら持つことをやめていた時期である。

 不穏な雰囲気を感じてはいても、具体的にどう危ないか、理解していたとは言い難い。実感できたのは、側務めを通じて、母当人が知らせてくれたからだと言わねばならなかった。

 死に目に会えたことが、縁壱にとっては幸運なことであったとするならば。巌勝や景勝が立ち会えなかったことは、不幸であったという他ない。

 

――母上は、最後まで兄上と俺を案じてくれていた。きっと、この家よりも、俺たちの方が母上にとっては大事だったのだろう。

 

 母が書き残した日記も縁壱は目を通していたが、書かれていることが全てではないことくらい、この聡明な子供は理解していた。それでも、疑いようもない真実として、家族への愛情があったことくらいは確信できる。

 まともに言葉を紡げないほど、最後の日の母は弱っていた。それでも、これまでに長い時間を共にしていたからこそ、縁壱には母の気持ちを察したのだ。

 

「――あとは、貴方の、思うように」

 

 本当に大事なことは、もうお互いにやりつくしていたと思えばこそ、言葉は少ない。意味のあるやり取りは、それだけだった。

 

「はい、母上」

 

 息を引き取るのを見届けて、縁壱はその日の内に行くことにした。夜間であったが、関係はなかった。

 彼にはそれだけの力があり、その力をこの家にいる間につけさせてもらっていたのだ。そう思えば、充分に受け取れるだけのものは全て受け取れていたのだと思う。

 後は、兄にことの仔細を軽く伝えれば、収まるべきところに収まるだろうと縁壱は考えた。

 

――これで、良し。

 

 父には顔を合わせず、兄の巌勝の部屋に赴き、思うところを述べる。母は事前に側務めにも話を通していたから、面倒なことはどうにかしてくれるだろうと思う。

 そして伝えるだけ伝えた後、彼は駆けた。子供らしい好奇心が、家から出た途端に破裂したように現れてしまった結果だと言える。

 

 縁壱は、ただ一人の人間として、世の中に出た。上野の地を飛び出して駆けるうち、いつのまにか信濃の国に入ったことさえ、当時は自覚すらしていなかった。その意味の大きささえも。

 自らの行動に、責任が取れる年ではない。後世の人間であれば、そうも言えたであろう。しかし戦国時代は、誰もが自身のやったことに責任を持たねばならず、あらゆる結果への因果は否応なしに当人と周囲に降り注ぐものである。

 

 縁壱が生き延びられたのは、彼が並外れた才能を持っていたから。良い環境に転がり込めたのは、運に恵まれていたから。

 そういうしかない運命の寵愛を、彼だけが一身に受けていた。まさにそれこそが、彼の人生の幸運と、不幸の元凶であった。

 




 兄上の曇らせを書きたいがために始めた物語ですので、今回、少しだけ描写できたことがうれしく思います。

 読者視点でどうであったか、ぜひ聞いてみたいものですが、いかがでしょうか。
 よろしければ、次回もまた目を通していただければと思います。定期的な投稿を心がけているので、次回は来月になります。

 暇な時間をつぶす手段として、多少なりとも気にかけていただければ幸いです。
 では、また。次のお話を待ち望んでいただけたなら、筆者としても光栄であります。

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