「ねぇ、お姉さん達のパーティに同行してくれないかな?」 作:なごりyuki
超大型都市のアードベルの一画に広がる、魔導機械術師士たちの工房地区。そのなかでも、超精密な魔導具、魔導武具を開発するエリアには、魔導医療器具を専門に開発する研究所がある。
優秀な医術魔術士、治癒術士、錬金術士が雇用されており、技術者、或いは研究者として多数配属された、アードベルでもかなり特殊な施設でもある。
魔法という奇跡を、より多くの人々の生活に資するための彼らの試みは、新薬や医療機器類の開発、難病治療と予防と多岐に渡り、実質的な最先端医療を構築してきた。
「こうして自分が生きていることが、今でも信じられないよ」
この研究所にある、特別医務室。大型の魔導医療機器に埋もれるようにして、重厚な施術ベッドが設置されてある。
そのベッドの上で、マリヴェルが目を覚ましたのは3日前。面会が可能になったところで、彼女がアッシュを呼び立てたのだ。
「私が助かったのは、キミの御蔭だと聞いているよ。……本当にありがとう」
ベッドから上半身を起こしたマリヴェルが、潤むような眼差しでアッシュを見詰めて頭を下げてくれる。彼女の声にも微かな涙が兆していて、小さな震えがあった。
「いえ、僕の治癒魔法よりはむしろ、チトセさんや、医療用の魔導機械の御蔭に寄るところの方が大きいですよ」
曖昧な微苦笑のまま、アッシュは緩く首を振って応じる。
今のアッシュは、まだ“キニス=グレイモア”として女装を続けている。彼女の特別警護役としての任務が終わっていないからだ。
だがそれも、あと2、3日の間だけだ。アッシュは、マリヴェルの特別警護役を解かれ、代わりを『鋼血の戦乙女』のメンバーが務めることになっている。これもギルドの意向のようだ。
実質的に“キニス=グレイモア”としての警護役は、これで終えることになる。ただ、マリヴェルの警護から離れてからでいいので直接会っておきたいという申し出を、クラン『正義の刃』の総長であるマクネム=ジェルーテからアッシュは受けている。
マクネムの要件はアッシュにではなく、飽くまでサニアと共に特別警護役に就いていた“キニス”にこそ用があるらしく、彼女との面談が終えるまでは“キニス”としての冒険者認識プレートは持っているようにと、ヴァーミルを通じてギルドからの通達も受けていた。
アッシュはもう少しだけ、虚像としての“キニス”という嘘を纏うことになりそうだった。
ちなみに、面会可能なほどに回復したマリヴェルから呼び立てられたのは、アッシュだけではなかった。
「アッシュさ……、いえ、キニスさん。ここでは素直に礼を受け取るべきところですわ」
アッシュの隣に立って微笑んでいるエミリアも、意識を取り戻したマリヴェルによって特別警護役に指名されていた。あと数日間の間だけ、負傷してしまったサニアの代わりにということである。
実力はともかく、書類上は下級冒険者であるエミリアを起用することにはギルドからの反発はあったらしいが、マリヴェル本人の強い希望により実現したようだ。
「あの場にキニスさんがいてくれなれば、マリヴェルは助かってはいなかったんですもの」
「エミリアの言う通りだよ。素直に感謝させておくれ。……せめて、キミとエミリアには、私の言葉と声を、真っすぐに受け止め欲しいんだ」
何とか笑みを浮かべたというマリヴェルは、口調だけで冗談めかした。
「死の淵から生き返ったという今の私は、私の意志に関わらず、どうもシンボリックに扱われ過ぎているように感じてね。……本当に、偶像にでもなった気分だよ」
鮮やかな彼女の声は、やはり歌姫らしい華やかさがある。だが、頬や額に張られた治癒帯や、彼女の腕や脚から伸びる無数の管は痛々しい。持続的な魔法薬の投与により、急激ではないが確実な肉体の再生、活力の復活を促しているのだ。
チトセから聞いた説明では、人間の持つ自然治癒能力を大幅に高めるための施術のようだった。被術者の肉体と寿命負担を軽減しつつ、損傷の復元を可能する治癒技法である。
一般の傷病者に施術するには、まだまだ臨床実験を繰り返す必要のある治療法だ。
だが、瀕死のマリヴェルの助けるためなら何でも使えという貴族達からの強い要望というか、凶悪なほどの後押しもあって、今回は特例として施術されたのだ。
そして、チトセを筆頭とした救命医術士チームは、見事にマリヴェルを救った。
このことは貴族達の間でも大きなニュースとなって評価され、魔導医術研究に出資したいという者が続出しているような状況だった。
そういった金銭支援が、マリヴェルが救われたことへの感謝には違いない。だが当然のことながら、貴族たちは医療技術発達による利益のことも視野に入れているのも、また疑いようがなかった。
自身の背後で動いている、こういった事情も既に把握しているのか。マリヴェルが維持している笑みには、内部からの空虚な軋みが響いていた。
「多くの人の手によって私は救って貰った。だが、死というものを経験してみると、やはり恐ろしい後味が残っている。今の私は、いったい何者なのかと……。とても心細いんだ。だから、せめてキミ達とは、偽りのない言葉を交わしたい」
ベッドに身を起こしているマリヴェルは、赦しを乞うような、縋るような目つきでアッシュとエミリアを見た。そしてすぐに、「そういえば」と声音に張りを持たせる。
「サニアは……、元気にしているかな?」
口調の明るさによって、悲痛に貫かれた心を自ら鼓舞するようだった。訊いておかねばならないという彼女の覚悟が透けていて、余計に悲愴感が増している。
「今は『慈悲の院』というところで静養中だと聞いたんだが」
口振りは普段通りだ。そのこと自体が、黙秘はせずに教えてくれという懇願の顕れに違いなかった。エミリアは微笑みのまま、何かを堪えるように一瞬だけ頬を強張らせてから口を開いた。
「えぇ。サニアさんも治癒を終えていますわ。命に別状もなく、意識もしっかしりとしているそうですわよ」
エミリアは穏やかに応じる。一方で、マリヴェルの方は相槌も打たない。微笑みのまま、眼差しだけに緊張を漲らせている。エミリアの言葉の、その先を無言で促している。
“せめてキミ達とは、偽りのない言葉を交わしたい”――。先程の彼女の言葉が、その深刻な響きと共にアッシュの胸に蘇っていた。アッシュは、マリヴェルと目を合わせて頷く。
「ただ……」
サニアと同じくマリヴェルの特別警護役だったアッシュこそが、エミリアの言葉のあとを継ぐべきだと思った。
「斬られた左腕と右脚に関しては、再生と復元が難しいとのことでした。大剣と手斧による負傷で、切断面の筋骨が著しく破損していたことと、軽度の魔力汚染が原因のようです」
アッシュは余計な感情を籠めず、敢えて事務的に伝えた。今はそうすべきだと思った。何度も小刻みに頷くマリヴェルが、強く奥歯を噛み締めているのが分かった。
「そうか。彼女は……」
絞り出すようにして言葉を溢したマリヴェルは、そこで俯きがちに黙り込んだ。深呼吸を繰り返し、震える手で顔を抑えてから、何度も唾を飲み込んでいた。
何かを必死に飲み込み、納得しようとしている様子の彼女を、アッシュとエミリアは黙したままで見守るしかなかった。
「教えてくれて、ありがとう。これは、私が知っておくべきことだ……」
大きく息を吐き出したマリヴェルは、やはり俯きがちになって小刻みに頷く。そして、胸に渦巻いて行き場を失ってしまった感情を、自責として引き受けるように呟いた。
「本当に私は、……多くの人を巻き込んでしまったな」
「マリヴェル、貴女が悪いわけではありませんわ」
エミリアが即座に応じた。大きな声ではなかったが、声には力があった。泣きそうに呼吸を震わせるマリヴェルが、口許にだけ笑みを作ってみせる。
「あぁ。そうだ。私の善悪ではなく、私という人間が原因になってしまった」
彼女の悲しみに満ちた断言口調が、何かを言い返そうとするエミリアを黙らせてしまう。
「……ケイスも死んでしまった。私を利用とした理由だけを残して」
涙を兆したマリヴェルの瞳が、自身の手元に滑り落ちる。清潔な毛布の中に隠されていた彼女の掌は、キューブ状の魔導具が大切そうに包んでいた。
カルビが持っていた、“アッシュ・キューブ”なる魔導具である。
ネクロスライムの内部から救出されたケイスだったが、肉体以上に魂の損耗が激しく、殆ど治癒が不可能の状態だった。彼の頭部は無事であったが、上半身の左側だけを残して、あとはネクロスライム化の生体触媒として蝕まれてしまっていた。
ケイスには、もう言葉を話す機能も残っていなかった。だが、自我と正気を宿した意思は、僅かに残っていた。生きていたのだ。
現場に居合わせたギギネリエスの死霊魔術により、死にゆくケイスの魂から保持しつつ、意思を汲み出し、そこから言葉を再生した。
ケイスは己の命が消え入る前には、マリヴェルに向けた謝罪の言葉と、この事件に加担した理由を言い残しておきたいと。救命にあたったチトセに、彼自身がそう伝えたのだ。
そこで、ケイスの救命に参加していた治癒術士であるカルビが、「もしかしたら使えるじゃねぇか」ということで、アッシュ・キューブをチトセに提出。優れた医術士であり魔導機械術士であるチトセの判断により、ケイスの最期の言葉を、アッシュ・キューブに封じることに成功したのだ。
だから厳密には、マリヴェルの手の中にあるキューブは、ケイス・キューブといった方が正しいのかもしれない。
「私は、ケイスの最期の心情を聞くことができた。彼の本音に私は触れることができた。……チトセ達には感謝しているよ」
「……ケイスという男性は、貴女にとっては大事なひとだったのですね」
傷痕を気遣うようにエミリアが言う。
「エミリア、きみの言い方だと、私とケイスが只ならぬ関係のように聞こえてしまうな。……でも、大切なひとだったのは間違いない。私を見つけ出してくれた恩人でもある」
ケイスとの思い出を辿ろうとするように、マリヴェルが少しだけ遠い目になった。だが、その寂しげな表情の口許に笑みを作ってみせる。
「あぁ。そうか。エミリアはケイスには会ったことも無ければ、話をしたこともないんだったね」
「えぇ。私は今日初めて、貴女の特別警護役として指名されて此処にいますのよ。ケイスという方のお人柄も声も、私は想像するより他ありませんわ」
「そんなことは無いさ。……ちょうど私の掌の上に、本当の彼の姿がある」
マリヴェルは両手で包んでいたキューブを、そっと回そうとした。ケイスが彼女に向けて言い残した最後の言葉を再生しようとしている。
「……いいのですか。僕達に、そんな大事なことを聞かせてしまっても」
このアッシュの制止に、ひっそりと微笑んだマリヴェルは緩く首を振った。
「無論、キミ達だからだよ。私にも分別はある。無闇なことはしないさ。寧ろ、今回の騒動を収めてくれた『戦乙女』や冒険者ギルドの皆にも、本来ならケイスの本心を明かすべきだと私は思っている。……だが、“秩序の塔”に関わる証言は慎重に扱うべきだというのが、アードベル行政の意向のようだね」
マリヴェルは言いながら、大切そうにキューブを掌で撫でている。
「当面は、この騒動の背後にある思惑は伏せられることになるだろう。もしかしたら、もう表に出ることもないかもしれない。……明日にはこのキューブも、行政部に回収されることになっている。危険な物証として。だからその前に、この中に封ぜられているケイスの声と言葉も、キミ達にも聞いておいて貰いたいんだ」
起伏の無い彼女の喋り方だったが、却って彼女の必死さが伝わってくる。ケイスという男性が生きた証を、その死の際に残された魂からの言葉を、自分以外の何かに刻もうとするかのようだった。
アッシュとエミリアは、既に今回の裏側にあるものを知っている。それに現状では、マリヴェルの特別警護に就いている立場だ。もはや何を知っても、それは守秘義務として墓まで持っていかねばならない。
「貴女が望むなら、私は、そのケイスという男性の言葉を胸に刻みましょう。そして、決して口外もしませんわ」
鷹揚に頷いたエミリアが、誓うように胸に手を添えた。アッシュも倣うようにして頷く。「あぁ、ありがとう」と静かな感謝を口にしたマリヴェルが、そっとキューブを回した。
厳かな手つきで回転させられた、キューブ。積層型の魔法円が展開されて、音声が発生する。まだアッシュの記憶に新しい、ケイスの声だった。
『マリヴェル。俺は、お前を売った』
力強く、険しく、迷いのない声音だが、明らかな後悔が滲んでいた。
『お前を偶像に仕立て上げ、悲劇を演出し、“秩序の塔”が望む世相を引き寄せる計画に加担した。生命操作魔法による寿命延長、禁忌の領域にまで達した高位治癒魔法を正当化する大義名分のために、死んだお前を死体人形として操ることが目的だった』
内面で荒れ狂う罪悪感を押し殺し、せめて最期に誠実であろうとするかのような、そういう口調だった。
『ネクロマンサー。モッグス。奴は俺に約束した。この計画が成功すれば、俺は、“秩序の塔”の末席に加えられると。そうすれば、何れは不老魔術の恩恵を受けられると。俺は、時間を味方につけたかった。何よりも、時間が欲しかった』
体温さえ感じられるようなケイスの独白が、冷えた医務室の薄暗さに濃淡をつける。
『俺は、妻と娘を蘇らせたかった。死体人形としてではなく、完全な魂の復活と複生を望んだ。だが、そんな完全蘇生魔法の確立には、まだまだ時間が掛かる。掛かり過ぎる。このままでは、あと数百年は掛かる。その時間に耐えるために、俺はお前を売った。お前を偶像として売って、俺は不老になるつもりだった』
語られるケイスの言葉には、肉筆の文字にも似た存在感が備わっていた。
『信じては貰えんだろうが、俺自身は永遠の命も、莫大な金も、そんなものは要らなかった。ただ、もう一度、妻と娘に会いたかった。どうしても。何を差し出しても。俺は、俺が生きる意味を取り戻したかった。そのために、時間が必要だった』
粛々と述べられる懺悔のように、ケイスの肉声は揺るがない。
『だが、蓋を開ければこのザマだ。俺は利用された。俺は、俺自身の弱さで、お前を危険に曝しただけだ。俺は、俺自身の邪悪さに負けた。お前を巻き込んだ。赦されようとは思わん。好きに恨め』
この命令口調を、アッシュもどこか懐かしく思った。
『俺は家族のもとにいく。だが、お前は生きろ』
そこで、唐突に言葉が途切れる。最期までぶっきらぼうな言い草だった。アッシュの脳裏には、不機嫌そうに背中を向けて去っていくケイスの姿が浮かんでいた。
「ケイスという方は、随分と勝手なひとのようですわね。自分の心情だけを一方的に伝えてくるなんて。しかも、こんなにも横柄な物言いで」
眉間に薄らと影を作ったエミリアが、どうもフォローしようがなさそうだという感じで唇の下に皺を寄せていた。そもそもマリヴェルの殺害に加担している時点で、エミリアにとってケイスは好印象にはなりえない人物だ。
「ですが……。愛する人を取り戻したいという、その懸命で純粋な愚かさには共感できますわ。肯定も賛同もできませんが、理解はできます」
ただ、そう付け足したエミリアはもの悲しそうに頷いていた。
「ケイスは愛妻家だったんだよ。こんな、ぶっきらぼうな口調からは信じられないくらい。子煩悩だったし、家族を愛していたんだ。でも、馬車事故で二人を失ってね」
キューブを掌で撫でているマリヴェルが、記憶を覗き込むような遠い目になっている。
「でもケイスは、駆け出しだった頃の私も含めて、事務所に所属していた何人もの歌手を支えてくれたよ。あの頃の彼は、仕事に没頭して、悲しみを遠ざけたかったのかもしれない」
この騒動の真実がいずれ明るみに出ることになれば、ケイスは悪人として人々に記憶されることになる。皮肉なことだが、それは恐らく、もしもマリヴェルが死体人形として操られていたときと同種の、偶像性を帯びて世間に認知されるものだろう。
人々の認識において、ケイスという男性は悪人である。
それ以下でも以上でもない、悪性の一面だけの存在として。
事実として、ケイスが与した企みは悪意に満ちたものであるし、マリヴェルの命を奪うものだった。許されることではない。
だが、ケイスという人物が本当に、ただただ純粋な悪人であったかと問われれば、マリヴェルは首を縦には振らないだろう。
「……ケイスさんは、本当は優しいひとだったんですね」
アッシュは確信を籠めて言い切り、マリヴェルに微笑みかける。マリヴェルが小さく息を詰め、泣き顔と笑顔のあいだで揺蕩うような表情で頷いた。
いつか、墳墓ダンジョンでも同じことを言った記憶がある。あれは確か、仲間の身を真剣に案じていた茶髪の男に対してだったろうか。
誰にでも優しさは宿っている。それは真実だと思うし、アッシュは信じたかった。マリヴェルもまた、ケイスという人間が一面的な悪人ではないのだと声を上げたいのかもしれない。
家族を真剣に愛した父親であるというケイスの実像を。血の通った彼の人生の側面を。せめてアッシュとエミリアには知って欲しいと思ったのだろう。
「ライヴの最終日前、キミ達には打ち明けた通りだ……。私は今まで、自分は何者か、どう生きるのかと……。そんなことばかりを考えて悩んでいたよ」
洟を啜ったマリヴェルは、キューブを掌で包み直しながら呟く。一瞬、アッシュも息を飲んでしまう。マリヴェルが己に問いかける言葉は、そのままアッシュにも重なっていた。
「私は確かに、何者であるのかという答えを得た。それなのに、叶えた夢の陥穽に嵌り込んでいた。もがいていた。……あの苦しみの意味が、今になって分かった」
ぽつぽつと紡がれるマリヴェルの声は、弱々しく薄れていて、透明な雫のようだった。彼女の目に涙はない。涙の代わりに、言葉を溢しているというふうだった。
「私にとって、“生きるとは何なのか”……。そのことを全く考えていなかった。その回答を、ようやく私は得ることができたよ」
小さく震えるマリヴェルの肩を、エミリアがそっと抱いた。包むように。マリヴェルはゆっくりと息を吐き、瞳を閉じて、また言葉を紡ぐ。
「生きるというのは、誰かに助けられるということだ」
瞑目するマリヴェルの様子は、まるで祈りを捧げるようだった。アッシュは押し黙り、マリヴェルの独白を見守る。この大きな苦しみから彼女が汲み上げた真摯な問いと、それに応えようとする素朴な逞しさに、アッシュは心を打たれていた。
「私が何者であってどう生きるにしても、決して独りでは実現しない。誰かに助けて貰わねば、支えて貰わねば、どんな舞台にも立つことはできない」
そんな当たり前のことを、今になって漸く痛感している自分は大馬鹿者だよ。自嘲と自責によって付け足された己の言葉を、ほんの少しの希望によって飲み込み直すように、マリヴェルは声を震わせる。
「ケイスにもキツく言われたが……。私は、生きねばならないな」
「えぇ。傷ついた人達に報いるためにも、貴女は生きるべきです」
エミリアが力強く首肯する。マリヴェルの身体をゆっくりと擦る彼女の手が、親しい者の存在と体温を優しく確かめている。
「マリヴェル。生きているということ以上に、大切なことなどありませんのよ」
はっきりと言い切るエミリアの瞳には、その紅を濡らすような涙の膜が張りつつある。だが、彼女の眼差しの輝きと強さは、より一層増している。
「生きてさえいえば、人は誰かと交わりますわ。だから決して、無意味で無価値なままではいられないものです。……これは私が冒険者として生きてきて、学んだことでもありますが」
言い諭すというよりは、自身が得た確信によってマリヴェルに寄り添おうとしているふうだった。
「人間の本性とは、悪意ではなく協力なのです。それは、このアードベルの広大無辺な街並みを見れば一目瞭然でしょう。人は支え合うことを本能にしているのですわ」
眩しそうに、だが、温かい何かに触れて安らぐように目を細めるマリヴェルに向けて、エミリアも微笑んだ。確信と優しさに満ちた、彼女にしかできない表情だと思った。
「マリヴェル。貴女が歌姫であろうと偶像であろうと、いえ、例え何者であったとしても……。貴女が生きて、そして誰かを生かすという営みの実存的な尊さを、私は全存在を懸けて肯定しますわ」
こういうとき、エミリアという女性は怯まない。マリヴェルは肩を抱かれるような姿勢のまま、笑みを浮かべようとした。だが、笑みになり切れない表情は喉の震えによって崩れてしまう。
俯いたマリヴェルの頬に涙が伝う。彼女を包むように抱いたエミリアの頬にも、透明な雫が零れていた。温かな沈黙のなかで、互いの存在を満たし合う二人を見詰めながら、アッシュは先程のエミリアの言葉に打たれ、また同時に、打ちのめされそうになっていた。
アッシュの意識の裏に浮かぶのは、アナテという少女の、安らかな寝顔だった。彼女が生きることを、エミリアのように肯定したかった。今さら無意味だと分かっていても、願わずにはいられなかった。
残響する設問。
僕は、何者なのか――?
僕は、どう生きるのか――?
だが、もっと根本的で大事な設問を、今のアッシュはマリヴェルから分けて貰っていた。そして、彼女が今回の悲劇と悲痛によって触れ得た、大切な回答の一つも。
僕にとって、生きるとは何か――? 実存としての自身の答えを願いながら、アッシュは自分の掌を見詰めて、握り直した。
僕は、僕自身になりたい。その想いには、嘘も偽りもない。
いつも温かく応援してくださり、ありがとうございます!
あと数話で、第一部の完結とさせて頂こうと考えております。完走を目指して精進して参りますので、また皆様にもお付き合い頂ければ本当に幸いです。
今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!