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昼を過ぎ、時刻は四時に差し掛かっていた。
畳に敷いた布団から抜け出して、小五郎は窓際に胡坐をかいて寄りかかり、ぼんやりと外を眺めていた。
「空、青いなァ……」
なんとはなしにそうつぶやいて、そこに浮かぶ白い雲が流れゆくさまを目で追う。
半日以上が過ぎ去って、小五郎はこの世界が現実であるらしいと、最終的にそう認めるに至っていた。
なんといったって、まず、五感がリアルだ。食事も排泄もするし、痛みだってある。
これを夢や幻覚だと否定し続けることには、無理があった。
それに死に際の夢や幻だとするならば、今朝に目覚めてからすでに十時間近くが経っている。いったい、いつまで続く夢だというのか。
小五郎の肉体があのホテルにあったとして、すでに夜は明けているだろうし、その頃になると、もう小五郎の肉体は……考えたくもないことだが炭と化しているだろう。
それに、あの、意識を失う前の感覚――。
炎に巻かれ、熱と激痛に苛まれながら意識を落としたときの、あの冷たい闇に沈みゆくような虚無感……。
間違いなく。己はあのとき死んだのだ。
不思議な話だが、そのような確固たる自覚、認識が、小五郎にはどこか存在した。
助かったのかもしれない。これは病院で眠る俺が見ている夢なのかもしれない――。
どうしてもそのように考えたくなってしまうのだが、しかし、――
(俺は、死んだんだ……)
そんな感覚は、無視しようと思えばできるほどの小ささで、だけれどたしかな存在感をもって、心の中に潜在的な意識としてあった。
だからこそ。
だからこそ、この現状はわけがわからなかった。
過去の時代。過去の母と妻に、過去の体。
思い当たる節があるかと自問すれば、残る解答はただひとつ。
「時を駆けた……ってか? ハッ、バカバカしい……」
しかし、もう、それしか残ってはいない。
リアリストを自称する小五郎にはどうにもまったく信じられないことだが、彼は、死んだと共に過去の世界へと時間を遡行したようだった。
そう考えることが、現状を鑑みる限り、もっとも合理的なことのように、そう思えた。
……架空の人間だと、紙の上の話だとバカにしてシャーロキアンたちを敵にしてきた小五郎が、しぶしぶとはいえ自らそのようなオカルティックな発想をしている時点で、もうだいぶ、彼がこの未知の状況に困惑しきってまいっていることの証拠でもあった。
――しかし。本当に、そうであるならば。
疲れ切った小五郎のなか、心の奥底で、ひとつ、ほのかに灯る光がある。
――つまり己は、人生をやり直せる……ということなのではないか?
小五郎が気にしていることは、ただひとつだった。
あの、最期の夜……。
炎の中で、人生の走馬灯を見た己が、最期に想った幾つかの後悔。
そして今なお、小五郎の奥底で巣食う、よどんだ闇。
それらが、つまり、今からならば。すべてやり直せるのではないか?
……そんなことをふと思って。
「ハンッ……」
小五郎は鼻で笑って、意識を外の景色へと戻した。
「まったく……ばかばかしい……」
ばかげたこの現状も。そしてそのことに気付いたとき、己の中でたしかに湧き上がった、期待と希望の感情が……本当に、まったく、ばかばかしかった。
黄昏るようにして、真昼の空を眺める小五郎。
燃え尽きたかのようなその姿は、あまりの混迷さにくたびれたゆえの状態であったが、しかし、それと知らずに目撃する第三者には、まるで儚く、そのまま消え去ってしまうかのような脆さをもって映った。
なので。
「――……小五郎?」
このときに声をかけた英理のそれが、弱々しく、気遣わしげなものになってしまったのは必然だった。
突然にかけられた声に目を向けて、そして気の強さにまかせてずけずけと言う普段のそれからかけ離れた英理の様子に、小五郎も少し驚いたような空気を漏らす。
しかし。
「……どうした?」
それだけ言って、また空へと目を戻した。
疲れ切った今の小五郎は、諦観にも似た心境だった。
そんな彼の様子に戸惑いながら、英理は部屋の中へと入る。学校帰りでそのまま立ち寄ったので制服だし、学生鞄なども持っていた。
荷物を部屋の隅に置いて、改めて幼馴染の様子を見て、やっぱりおかしいと結論する。
「あんたのお見舞いよ。……それより、そっちこそどうかしたの?」
「どうもしねェよ……」
ぼそりと答える小五郎に、
「うそ」
確信を持った物言いで英理は追いすがった。
「具合でも悪化したの? それならちゃんと寝てなさい」
つかつかと近寄って小五郎の腕を取り、敷かれた布団へと引きずる。
腕を引っ張られて横たわせられ、掛布団を押し付けられた小五郎は、そんな英理の顔をしげしげと眺めた。
(……このころからこいつは、綺麗だったよな……)
本人には絶対に言わない言葉を、胸の内でつぶやく。
「……なによ、人の顔をじろじろと」
「いや……」
指摘されて目を逸らし、だが――と小五郎はふと思う。
彼の感覚では、彼女は自身の妻となり、そしてここ十年程を別居する関係だった。ちょっとしたことで喧嘩したが最初で、そのまま収めどきがつかめずに、ずるずると続いた、そんな。
会うたびにも喧嘩を繰り返して、復縁(同居)を望む蘭にはずいぶんとやきもきさせたことを覚えている。
……今思えば、自身も少し大人げなかったかもしれない。
たしかに小さなことでいちいち突っかかってくる妻も妻で大人げないと今でも感じるが、そんなやり取りは、今に始まったことではなかった。それこそ、この現在である中学時代や、その以前より、自分たち二人はそんな関係だった。
それでも最後にはなんだかんだとおさまって、最終的に、学生結婚まですることになったのだ。
だから、10年も続く別居の件については、……小五郎のほうにも少しばかり原因があったかもしれない。
……そんなことを、枕に頭を乗せながら考えた。
一度死んだことで、小五郎はなにかを悟ったのかもしれない。
人生の走馬灯を見て、後悔をした経験があるからなのか――小五郎の中でなにかが少しずつ変わろうとしていた。
「そんなに具合悪いなら、ちゃんと大人しくしてるのよ。……その。……じゃあ、私はそろそろ帰るわ」
途中でなにかを言いかけてつぐみ、英理はそう発言を締めて立ち上がった。
隅に置いておいた鞄を拾い、襖を開け――
「――ありがとな」
その背に、寝返りを打った小五郎がそう投げる。
英理は一度足を止め、
「……なら、さっさと寝て体調を治すことね」
そう残して、襖が閉じられた。
とん、とん――と、階段を下りる音が離れてゆく。
少し静かになった部屋で、小五郎はゆっくりと瞳を閉じた。
これが本当にタイムスリップした過去で、そして現実であるならば、きっと己はまた目を覚ますだろう。
そうしたら明日は、彼女と共に久しぶりの学校にでも行くとしよう――。
昨夜、己の死亡で終わったはずの人生が、今朝から再び、理解のできない現象となって始まった。
今となってもなにがなにやらまったく分からないのだが、これはおそらく現実で。
昔日の妻は懐かしく、そしてたしかな体温を持っていた。
今日一日でおそろしく頭を悩ませた小五郎の、その意識は次第に闇の中へと沈んでゆくが、それはつい最近に経験したような冷たさを持つものとはかけ離れて、とても暖かい眠りだった。