「失礼します」
カーテンの閉ざされた部屋は、相変わらずじっとりとしている。この部屋の空気、なんだか俺みたいだな、なんてくだらない事を考えながらカーテンを開ける。
すると、風に乗ってはらりと舞った何かが窓ガラスに張り付いた。……ああ、雪か。改めて窓の外を見てみると、ちらちらと降る雪がフレームの中の世界を白く染め上げていた。
たしか、貴女は雪が好きだったっけ。そんな事を思いながらいつものようにベッドの横に置いてある丸椅子に腰掛ける。
「……薫さん、雪みたいですよ」
俺がいくら話しかけても、貴女からの返事はない。貴女は朝が弱いから、きっとまだ寝ぼけているのだろうな。「そういうこと」にして、窓の外を見る。
この雪を見て、ふと今までのことを思い返してみたくなった。貴女と過ごした、この呪いみたいな日々のことを。
「君には、私のことを看取ってほしいんだ」
それは、突然のことだった。部活終わりにいきなり呼び出されたかと思えば、にわかには信じ難い話をされたものだから、俺はどんな顔をしていいのかわからなくて。
笑えない冗談はやめてください、俺がそう言うと、貴女は笑って嘘じゃないよ、と答える。貴女が嘘をつかない誠実な人だということはずっと知っていたけれど、今だけは違っていてほしかった。
「この前君の目の前で私が倒れたことを覚えているかな? あの後、家族と一緒に病院に行ってきてね。その時お医者さんから聞いたんだ。残念ながら、私はもうじき死んでしまうらしい、ということをね」
「……何、言ってるんですか? 薫さん、今だってこんなピンピンしてますし、今までだってずっと健康だったじゃないですか」
「……事実は小説よりも奇なり、とはこういうことを言うんだね。お医者さん曰く、私が患った病の原因も治し方もわからないらしい。今はまだこうして動けるけれどそのうちベッドから起き上がれなくなると、だからといってどうにも手の施しようがないと、神妙な面持ちで言われてしまったよ」
……いや、確かに前兆はあった。この前演技の練習を見てもらっている時、薫さんは俺の目の前で突然意識を失ったから。あの時は慌てて救急車を呼んだけど、その後、あんなことになってたんだ。
薫さんは笑いながら、「かのお医者さん曰く、私が生きていられるのはあと半年ほどかな」と、まるでシェイクスピアの言葉を引用するかのように告げる。……貴女がそうやって引用するのは、偉人の言葉だけであってほしかったのに。
世界が、どんどん温度を失っていく。信じたくない言葉が、どんどん真実味を増していく。悪い夢なら覚めてほしい、そう願うけれど頬に当たる冷たい風がそれを否定する。
「だから、私は最期のひとときを君と過ごしたいと思ったんだ。ダメかな? 子猫ちゃん」
「……親御さんは、それ、許してくれるんですか」
「両親にはもう話してあるよ。あとは、君がどうしたいか、だね」
なんでこの人はこれほどまでにいつも通りなのだろう。どうして、この人はそのままでいられるのだろう。
いや、もしかしたらこうしていつも通りを演じているだけなのかもしれない。飄々と振る舞う裏で、本当は何かに怯えているのかもしれない。でも、貴女は決してそれを俺に悟らせない。悟らせようと、してくれないんだ。
なんで、薫さんは最期を共にする相手に俺を選んだんだろうな。薫さんには、俺なんかよりも薫さんのことをよく知り、愛してくれる人たちがいるのに、どうしてその人たちと最期を過ごさないのだろう、と心の底から疑問に思う。
俺は、貴女のことがわからない。出会ってからずっと、これからもずっと。
「……後悔しても知りませんよ」
だからこそ、俺はどうにかして貴女の心に触れてみたいと思ったのかもしれない。
「いやー、驚きましたよ。まさか薫さんが俺の家に住みたい、って言い出すなんて。ほんと、俺が都合よくひとり暮らししてて命拾いしましたね。これからはタイミングの良さと俺の優しさに感謝して生きてください」
「フフ、やはり運命の女神は私の味方をしてくれるようだね……! 突然言い出したにも関わらず、私の願いを叶えてくれて本当にありがとう。すごく嬉しいよ」
「ほんっとーにね! だいたい、もうじき死ぬ人間看取るために居候させました、とか普通に考えて頭おかしいですから。薫さん、このこと絶対口外しないでくださいよ?」
「ああ、わかったよ」
ついに始まった、期間限定の共同生活。終活のために俺の家に引っ越すほどには気合い十分だ。
これの何が理不尽って、薫さんが俺んちに住みたいって頼んできたのがここに越してくる五日前。あまりにも急なお願いだったため、部屋の片付けがこの世の終わりぐらい大変だった。
ぐちぐち文句を言う俺を見て、薫さんはフフ、と上品に笑う。何わろてんねん。いやほんと、この人看取るために同居するとか俺マジで何やってんだろうなって自分でも思う。けど、この笑顔を見たらなんでも許せてしまう気がして。
俺、もしかしたら貢ぎ男の才能あるかもな。薫さんに頼まれたら普通に臓器とか差し出してそうだし……いや、やっぱり臓器は無理かなあ。
まあ、別にいいんだけどさ。なんか薫さんが生きてるうちは手持ちのギャラで家賃とか食費とか光熱費とか払ってくれるらしいし、基本的な家事もやってくれるらしいし? これって実質生活費と家政婦サービス半年間無料キャンペーンじゃん? いや、この言い方は流石に不謹慎か。
それにしても、だ。この家はあくまで俺が一人暮らしをするためだけの家。どうにも狭苦しいリビングとキッチン、二つある部屋のうち一室は、薫さんのベッドでほとんど埋まってしまった。これじゃ、本当に俺と薫さんしか過ごせない家だなって思う。
「てか、この広さで本当に良かったんですか? 多分、薫さんのだーいすきな子猫ちゃん、誰も呼べませんよ?」
「……元より、誰もこの家に呼ぶつもりはないよ」
まさかの返事に、びっくりした。薫さんのことだし、いつかこの家に子猫ちゃんたちを呼んで儚いパーティーをしよう、って言い出しそうだと思っていたから。俺は思いつく限り薫さんと仲が良かった印象がある人たちの名前を挙げてみるが、薫さん的には誰一人としてこの部屋に呼ぶつもりはないようだ。
戸惑う俺に、愛する子猫ちゃんたちには、『瀬田薫』との美しい思い出だけを残して死にたい。私は最期まで『瀬田薫』で有りたいのだと、貴女は語る。
それを聞いた時、貴女はどこまでも誇り高く、どこまでも残酷な人だなあ、と思った。貴女の選択は、どこまでもまっすぐな愛情に溢れている。だからこそ、残酷だ。
もし俺が遺される立場だったら、間違いなく死にたくなるな。大好きだった薫さんが知らない間に知らない男に看取られて死にました、なんて聞いた日にはきっと立ち直れないだろうし。
……ふと、薫さんの方はどう周りに説明したのか気になって聞いてみた。すると、子猫ちゃんたちにはバカンスに行ってくると伝えているよ、とドヤ顔で答えられて流石に笑いそうになった。だって、今薫さんを取り囲んでるのはどう考えてもバカンスとは程遠い環境だし。
あー、いいなあ。バカンスで休学かあ。俺も行こうかな、バカンス。なんて冗談を言ったら「儚くバカンスを過ごすのもたしかにいいけれど、高校生活は一度きりだよ?」なんて咎めてくる。まるで母さんみたいなことを薫さんが言ってくるのがおかしくて、大声を出して笑ってしまった。
笑う俺に、薫さんもつられてしまったらしい。少しの間、二人で笑い合う。願わくば、貴女と過ごす時間がこんな風に笑顔に溢れた時間になればいいな、って思った。
そうして始まった薫さんとの毎日は、思ったよりも普通で。朝起きて学校に行って、帰ってきたら薫さんが作ってくれる料理を一緒に食べて、適当にテレビを見ながらくつろいで、風呂に入って眠る。「あの」薫さんが隣にいることすら忘れてしまいそうなほど馴染んだ生活が、俺の日々を彩る。
なんていうかこう、こんな生活をしてるとたまに薫さんが母さんみたいに見えてくることがある。そんなこと、口が裂けても絶対言えないけど。
それに、薫さんと同じ屋根の下に住んで、薫さんの手料理を食べて、こんな至れり尽くせりな日々を見られたりなんかしたら俺、間違いなく子猫ちゃんたちに刺されるだろうな。その上母さんみたい、とか言った日にはどうあがいても地獄行きだよ。
「薫さん、朝ですよ。まーだ寝ぼけてるんですかー?」
「……ん……ああ……君か……」
薫さんが朝に弱いことも、多分、俺ぐらいしか知らない。ちょっとばかしの優越感に、口角が上がってしまう。
実はこうして寝起きの薫さんの布団を無理やりひっぺがす瞬間が、今の生活で一番楽しいかもしれない。だって普通に生きてりゃ布団を剥がされた薫さんの名残惜しそうな声とか、絶対聞けないし。
……ああ、俺、性格腐ってんのかなあ。多分、今の時点で四分の一ぐらいは腐ってそう。寝起きの薫さんと一緒にパンを食べた後、制服に着替えて玄関に向かおうとした。その瞬間、薫さんにポン、と肩を叩かれる。
「ネクタイが曲がっているよ、子猫ちゃん」
こんな時でも、薫さんってスマートなんだなあ。やっぱ、この人には敵わないや。
貴女のいってらっしゃいがあるだけで、学校に向かう足取りがちょっとだけ軽くなる。貴女のおかえりを聞くために、今日も一日頑張れる。大切な誰かが家にいるって、こんなに幸せなんだなって。
「てか、さっきからテレビ画面ジロジロ見てますけど、このゲームやりたいんですか?」
「……フフ……」
「えっ何急に笑ってんですか怖……そろそろ次のステージ始まるんでやるならやるって早く答えてもらいたいんですけど……」
「いいだろう。私がそのゲームをやってみたいかどうか……その答えはズバリ、イエスだね」
「そういうのめんどくさいんでもっと簡潔的に答えられません?」
俺のやっているゲームに興味津々なはずなのに、変にカッコつけながらやりたいと言ってくる薫さんが、ちょっとおかしくて、ちょっと嬉しい。
薫さんは、きっと今までゲームというものに一切触れてこなかったのだろう。基本のボタン操作もまともにできない薫さんにやり方を教え込むのは一苦労だったが、楽しそうに遊んでいる姿を見ているとそんな苦労なんてどうでもいいなって思えた。
たしか、シェイクスピアもこんなこと言ってたっけな。楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだって。それを薫さんに話したら、君もシェイクスピアが好きなのかい? なーんて嬉しそうに聞いてくる。
その質問にはどっかの誰かさんがよく使ってるので、とだけ返して、俺はゲーム画面に視線を戻す。すると、散々苦労してゲットしたレアアイテムを何もわかってなさそうな薫さんが売却しそうになっていた。全力で止めた。
……ああ、「瀬田薫」と暮らすのって、こんな気持ちなんだな。側から見ればなんてことない日常だけど、貴女は、そんな日常をほんのちょっとだけ劇的にする天才だ。俺は、貴女のそういうところが好きだな、って改めて気づいた。願わくば、こんな毎日がずっと続けばいいのにな、なんて思ってみたり。
それから、二週間が経った。キラキラ輝いていたはずの俺たちの日常は、案外あっけなく壊れてしまうものだったようだ。
いつものように部活から帰ってきた瞬間、貴女は廊下で意識を失っていた。
俺は急いで救急車を呼んだ。あの時と同じ大病院に、貴女は運ばれた。俺はただ、救急隊員が必死に貴女の心臓をマッサージをしている様子を見ることしかできない。
病院に着いた。そのまま貴女は病院の奥に運ばれていった。……俺はただ、貴女の目覚めを待つことしかできない。できることならずっと待合室で貴女を待っていたかったけれど、高校生だからと言う理由で追い返されてしまった。
「……かおる、さん」
今ここにいない人の名前を、俺以外誰もいないリビングで呼んでみる。当然、その呼びかけに対する返事はない。当たり前のことだ。
貴女のいない部屋は、あまりにも虚しく、寂しかった。最初の方はそのことから必死に気を逸らしていたけれど、途中から耐えられなくなって、俺の頭は全部薫さんに支配されて、薫さんのこと以外何も考えられなくなっていた。
薫さんが病院に運ばれてから、どうにもまともに寝付けないし、暇さえあればずっと貴女とのトーク履歴を見てしまう。何も変わらないトーク画面に、俺からの一方的なメッセージに、どうにかして既読がついてくれないか、と願うばかりだった。
テレビを見るのも嫌だ。ゲームをするのも嫌だ。SNSを見るのも嫌だ。ただ、検索履歴が不安を煽るような記事で染まっていく。ハロハピちゃんねるに上がっている貴女の動画だけが、唯一俺の不安を和らげてくれた。
貴女を待ち続けて数日。ようやく、貴女の電話番号から俺に電話があった。そこで貴女はこう俺に話す。昨日ようやく目を覚ましたこと、もう動けそうだから、明日には退院して俺の家に帰るらしいこと、それから。
病状が悪化して半年あった余命が三ヶ月程度になったこと。それなのにも関わらず、お医者さんに提案された手術を断り、俺の家で過ごしたいと伝えたこと。
「……なんで手術しないんですか。手術して、病院で延命処置を続けたらあと半年は生きられるって、お医者さん言ってたんでしょ?」
「そもそも私は長生きするつもりはないからね。半年間も三ヶ月間も、そう大きな違いはないと私は思っているよ」
「馬鹿!」
薫さんと再会できて、本当はすごく嬉しいはずなのに。俺はこの人に対する怒りが収まらなかった。ここが駅のホームであることも気にせず、俺は泣きじゃくる。
どんだけ情けなくてもカッコ悪くてもいいから、長生きしたいって言えばいいのに、俺は貴女のそう言うところが嫌いだ、と言うと貴女は少しだけ悲しそうな顔をする。
「……君は、私のことをそれほどまでに大切に思ってくれていたんだね。でも、手術をするとなると、私は入院することになる。つまり、こうして君の家で君と過ごせなくなるということだ。私は、それが嫌なんだ」
「……別に、貴女が入院したって俺は毎日でも会いに行きますよ。別に部活休めば毎日だって通えるし、そこまでして俺の家にこだわらなくたって……」
「私は『君』と最期のひとときを過ごしたいんだ。死にゆく私のことを看取るのは、世界でただ一人、君だけがいい」
まるで愛の告白のようなわがままを言うものだから、少しだけ面食らってしまう。君だけに看取ってほしいって言葉自体が、もはやプロポーズみたいだ。
今までの貴女は、こんなわがままを言うタイプじゃなかったはずなんだけどなあ。そのキザな言葉の裏に恐怖がうっすらと透けている気がして。貴女も心のどこかで怯えてるんだろうなって、そう思った。
「今日の薫さん、死ぬほどわがままですね。全然『瀬田薫』っぽくないや」
「フフ、そうだね。どうにも『瀬田薫』らしくない」
──俺は、そんな貴女も好きですけどね。
不意に出そうになったその言葉を喉の奥に押し込んで、ぎこちなく笑ってみせる。
まあでも、こうして貴女に呪いをかけられるのも別に悪くないなって思った。きっともう、何もかも手遅れなのだから。
……最近、貴女はあまりベッドから起き上がらなくなった。というのも、途中で力が抜けてしまって、上手く歩けないのだと言う。
だから、家事係も全部交代。もうちょっと薫さんの手料理食べてたかったな、なんてことを考えながら、今日の夕飯を作る。
薫さん、家事とか絶対できないと思ってたのにな。実際のところ、俺がやってた時よりも手際が良かった気がする。作ってくれるご飯も、全部美味しかったし。人って見かけによらないんだなあ、ってことがわかったな、この生活のおかげで。
そういう浮世離れしてるようで案外庶民的だったりするところとか、洋食が得意そうに見えて本当に得意な料理のレパートリーは和食ばっかりだとか、こうしてみんなが知らない薫さんを知れる喜びと、そんな薫さんと過ごせるのもあと数ヶ月という悲しみが同時に押し寄せるから、いつもどんな気持ちになればいいのかわからなくなる。
「薫さん、今日の夕飯です。味噌汁熱いんで、火傷しないように気をつけてください」
「ありがとう、子猫ちゃん」
ベッドの上に置いてある薫さん用の小さな机にお盆を乗せて、誰もいないダイニングに戻る。
いただきます、そう小さく呟いて白米を口に含んでみるけれど、どうにも味もしない。ふと、薫さんは食べ方綺麗だったよなー、なんて現実逃避をしてみる。
あの日から、何回も言ってみたんだ。俺みたいな医学の知識もない男のとこじゃなくて今からでも病院に行った方がいいって、俺みたいな気の利いた言葉もろくにかけてあげられないような男じゃなくてちゃんと大切な人たちと過ごした方がいいって。
そう何度も口にしているのに、その度に貴女は首を横に振るから。俺が貴女を案ずるたびに、貴女は決まってこう口にするんだ。『瀬田薫』として、子猫ちゃんたちに迷惑をかけたくないんだ、と。
その度に、俺は子猫ちゃんじゃないのかあ、とか、迷惑をかけてもいいって思えるような存在って思ってくれてるのかなあ、とか、でも、そうなったら薫さんにとって俺ってなんなんだろうなあ、って考えて頭がぐちゃぐちゃになる。
そのくせ、貴女は俺の目の前でさえも極力弱みを見せないようにしているから、貴女が本当に何をしたいのか、俺には到底理解できない。いや、きっと、俺は理解したくないのだと思う。貴女の心の内を知ってしまったら、俺が俺でいられなくなる気がするんだ。
貴女のあかい瞳には、一体何が映ってるんだろう。貴女の世界には、今何が映っているのだろう。もしかしたらさ、これ以上誰の目にも触れず、俺の手で終わってほしい、だなんて歪んだ独占欲も、見透かされているのかな。
誰かを看取るって、こういうことなんだな。あーあ、知らなくていいことばっかり知ってばっかりだな、最近。こんなことばっかり考えているせいで、頭がこんがりそうだ。
そんな時、ひどく咳き込む声が聞こえる。薫さんの部屋からだ。もしかして、そう思って急いでドアを開けると貴女は苦しそうに咳き込んでいて。その手には、赤黒い血がべっとりついていた。
どうしたらいいのかわからなくて、俺はとりあえず救急車を呼ぼうとした、が。薫さんがいきなり俺の携帯を持っている手を引いてきたせいで、携帯はくるりと宙を舞ってそのまま地面に落ちる。
なんでそんなことするんですか、怒る俺に貴女はこう言った。「何もしないで、ただそばにいてくれないか」と。
──ああ、「いつもの」だ。
あの日から、薫さんは俺以外の誰かの目に触れること、誰かと接することを極端に嫌がるようになった。家の外に出るのはもちろん、病院にも行きたがらないし、友人からの連絡に目すら通していないらしい。この前薫さんの携帯の画面を見た時、ずらりとメッセージアプリの通知が溜まっていたから、きっとそういうことなのだろう。
俺が、この人をおかしくしてしまったのだろうか。病気が、この人をおかしくしてしまったのだろうか。真相はわからない。ああ、こうして壊れていく貴女を知っているのも俺ひとりだけなのか、なんて笑ってみる。何も笑えなかった。
「わがままも、いい加減にしてください」
「薫さんにはきっと分からないでしょうけど、俺、きっと薫さん以上に薫さんが死ぬのに怯えてるんですよ」
「それに、今の貴女は、俺がどこかで選択をひとつでも間違えたら、すぐに死んでしまう気がして、怖い」
……もう器に入らなくなった水が溢れるように、俺の感情も溢れていたらしい。貴女の胸ぐらを掴むなんて、普通ならこんなことするわけないのにな。
それでもなお、貴女の目はどこか宙を見ている。俺ではない、その先の何かを見つめている。それが悔しかった。
「……すまない」
変わってしまった貴女の変わらない優しさが、痛い。俺は決して、貴女に謝ってほしいわけじゃないのに。俺は、貴女にどうして欲しかったんだろう。もう、それすらわからない。
行き場をなくした俺の身体を、貴女は優しく抱きしめる。貴女の体温は、雪のように冷たくて。本当に同じ人間なのかすら疑わしく思えてしまう。
「……私もね、死ぬことがとても怖いんだ」
ふと、貴女はこう小さく呟いた。俺にしか聞こえないような、かすかな声で。思えば、これが貴女が初めて自分の意思で見せた弱さなのかもしれない。
貴女は、ささやくような声でこう続ける。
「君は、人が本当の意味で死ぬ時を知っているかい?」
「知ってるも何も、肉体的に死んだ時……じゃないですか」
「それも一理あるね。でも、私はこう思っているんだ。人が本当に死ぬ時は、この世界の誰からも忘れられた時……だとね」
子猫ちゃんが私のことを覚えていてくれる限り、『瀬田薫』は生き続けられる、と貴女が時折子猫ちゃんたちに向かってそう口にしていたことを思い出した。
『瀬田薫』の肉体が死んでも、偶像としての『瀬田薫』が生き続けられるのなら、子猫ちゃんをいつまでも笑顔にできる。そう口にする貴女の笑顔は、変わらずキラキラと輝いていて。
「それに、こうやって君との記憶を刻んでいればいるほど、君はずっと私のことを覚えていてくれるだろう? そうしたら私は君の中で永遠に生き続けられるんじゃないかって、そんな気がしたんだ」
「……ひどい人だよ」
「ああ、本当にね」
今俺の目の前にいる瀬田薫は、そんなに綺麗な存在じゃないんだけどな。悪く言えば醜い、よく言えば人間らしい、そんな呪いのような願いを俺に押し付けてくる迷惑で困った人だ。
貴女は、俺の手をぎゅっと握ると、にこりと優しくはにかんでこう言うんだ。
「……君だけは、私のことをずっと覚えていてね」
本当に、貴女はひどい人だ。そんな風に言われたらさ、誰だってそうすることしか出来ないじゃないか。
「今日はクリスマスだね」
「はい、クリスマスですね。それが何か?」
「せっかくのクリスマス、君は誰かと過ごさないのかい? 君なら、一緒にイルミネーションを見にいくガールフレンドがいてもおかしくないと思うのだが……」
「薫さんもしや俺のこと煽ってますか? いくら病人でもぶん殴りますよ」
クリスマスになっても、特に生活が変わるわけでもない。冬休みに入ったからつきっきりで看病できるねー、ぐらいの変化があるだけの、何も変わらない生活だ。
ただ、クリスマスに恋人がいないことを煽ってくる病人がいるだけ。しかもこの人の場合煽るつもりは一切なく、純粋な疑問で言ってそうなのがよりムカついたりする。
「別に、一緒にイルミネーション見にいくような友人も恋人もいませんし。それだったら、動けない薫さんに少しでもクリスマスムードを楽しんでもらった方がいいかなって、そう思っただけです」
「……そうか。それじゃあ君がクリスマスツリーをこの部屋に置いてくれたのも、そのためかい?」
「さあ? ご想像にお任せしますー」
「フフ、相変わらず君は照れ屋さんだね」
多分、俺が薫さんのこと放っておけないのわかっててからかってるよな、この人。そもそも家に病人放置して遊びに行ける性格とかじゃないしな、俺。いや、誰だってそうな気はするけど。
少しだけ居た堪れなくなって、逃げるように玄関に置いてあるケーキを取りに行く。メリークリスマス! とプレートに書かれた小さな二人用のケーキ。
「美味しそうなケーキだね。私も食べられたら良かったのだけど」
「……薫さん、食べ物吐くようになりましたからね」
まあ、それを食べるのは全部俺なんだけど。薫さんが食べられないなら買わなくても、って言ったけど、君が食べるところを見たいんだ、ってよくわからないお願いをされたから買ってきたんだよな、このケーキ。
クリスマス仕様の歌番組をBGMに、ただケーキを頬張る。ひとりで食べるにしてはちょっと大きすぎたかもしれないな、と少しだけ後悔しながら、ケーキを頬張る。
どうやらその歌番組にはパスパレやロゼリアが出ていたらしい。彼女たちの姿が映った瞬間、薫さんは番組を変えた。薫さん曰く、彼女たちに合わせる顔がないから、らしい。
画面越しに目が合うわけがないのに、大袈裟だなあ。でもまあ、きっとみんな心配してるんだろうな。バカンスに行ったきり一ヶ月以上帰ってこなかったら、普通に心配になるだろうし。
大丈夫ですよ、みんな大好き瀬田薫サマは優しくて献身的な石油王と儚いバカンス中ですから。幸せに満ちた毎日をエンジョイしまくってるので、心配なんてノンノンノン、ですからねー!
……あーあ、馬鹿馬鹿しい。
「……子猫ちゃん」
「なんですか、薫さん」
「今日は一緒に眠らないかい? 最近、ひとりになるといろいろと考えてしまって、あまりよく眠れていないんだ」
儚いバカンスの正体は、クソ狭2LDKで男子高校生と病床ライフですよ。こんな悪夢、早く覚めたらいいんですけどね。
でも、この悪夢すらどこか心地よくて、この悪夢が永遠に続いてほしいって思う俺もいる。貴女も、薫さんも、そうなのかな。
寝支度を整えて、恐る恐る薫さんがいる布団に入り込む。緊張しなくていいよ、と言ってくれるけど、緊張するものはするし。
薫さんはそんな俺の頭を撫でてくる。生まれたのが俺より二年早かっただけで子供扱いしないでほしいよな、と心の中でぶう垂れてみる。
「……私はね、いつか雪に埋まってみたいんだ」
突然撫でるのをやめて話し出したかと思えば、ヘンテコで意味がわからない話をされてしまい、頭の中がハテナで埋まった。
わけがわからなくてただ困惑する俺に、あなたはこう続ける。
「儚い雪に埋まる儚い私、あまりの儚さに、雪中から儚い空気が溢れて世界中が儚さに満ち溢れるだろうね……!」
「儚い儚い言い過ぎです。儚い連呼選手権でも参加してるんですか? それに、雪に埋まったりなんてしたら風邪ひくでしょ……」
この人はバカなのかそうじゃないのか、時折わからなくなる。今の発言とか、特にそうだ。頭ハッピーなのが悪いこととは別に思わないけどさ。
それに、もしもだ。もしものもしもだ。貴女が雪に埋まったせいで凍死したりなんかした日には俺はどんな顔をしていいのかわからない。せめて、もうちょっと綺麗に死んでほしいと思ってしまう。
「私がいつか風邪をひくこともなくなったら、雪に埋めてほしいな」
本当に、貴女って何を考えてるんだろうな。ここまで一緒に過ごしてみたけど、結局何もわからなかったや。……でも、それでいいんだ。
暗闇はなく、無知はあるのみというシェイクスピアの言葉があるけれど。真実を知ることで残酷な現実が見えてしまうぐらいなら、何も知らないまま暗くて何も見えない世界にいた方がいい。
辛い現実と向き合うより、こうして優しい悪夢に浸っていた方が、きっと幸せだから。
「……ごめんね」
「なんで貴女が、謝るんですか」
絶対に笑うはずではないシーンじゃないけど、つい笑ってしまった。ここまで俺の人生に呪いをかけておいて、今更謝ったってもう遅いのにな。
──そう。それが、俺と薫さんの最後の会話だった。
十二月二十六日の朝になった。クリスマスツリーのライトアップが消えていくように、貴女の体温は消えていった。ベッドの中で瞼を閉じたまま動かない貴女の姿が、俺にはどうも眠っているようしか見えなくて。起こしてみようと何度も声をかけてみたけれど、貴女からの返事はなかった。
……どうやら俺は、頭では理解したが、心では理解できなかったらしい。どうしても貴女が生きていることを諦めきれなくて、俺は必死に少しでも貴女が「そのまま」でいられる方法を探した。
エンバーミングなんて言葉、初めて知ったよ。こうしてみると、この世界ってまだまだ知らないことばっかりだな、って思う。
もし俺に医学の知識があったら、防腐剤を入れてあげたりしてその身体が腐らないようにできたんだろうな。自分の無学さに嫌気がさす。
調べた記事には遺体を冷凍しろ、と書いてあった。人が入る大きさの冷凍庫なんて、うちにはない。だから、家中全体を冷たい氷まみれにした上で最低温度の冷房を入れっぱなしにして、極力窓も開けないようにした。これが、今の俺にできる限界だった。
「……もって、あと七日間かな」
ネットで調べた浅い知識と照らし合わして、貴女が貴女の姿を保っていられるタイムリミットを予測する。
それがわかった瞬間、俺は薫さんを抱き抱えてリビングに連れていき、いつも使っていた二人掛けのソファーに座らせた。
俺はその隣に腰掛けると、検索履歴がグロテスクに染まったスマホのブラウザを使って新しいおもちゃをもらった犬が嬉しそうにはしゃぐ動画を再生する。
「ねー、薫さん。俺、めっちゃかわいいワンコの動画見つけたんですよ〜。薫さんも見ます?」
そのまま貴女の肩に手を回し、その動画を見せる。貴女は何も反応してくれないし、そもそも貴女の首は別の方向を向いている。それでも、俺は構わず貴女に向かって話し続ける。
「あー、そういえば今日無料十連回してない! このソシャゲ、いつもなんか引き悪いんですよね。薫さん、代わりに引いてくれません?」
相変わらず貴女からの返事はない。俺はだらんと投げ出された貴女の右手を掴んで、ぶらぶらと揺れて安定しない指先をスマホの画面に押しつけてガチャを引く。最低保証だった。あーあ、瀬田薫の力をもってしても最低保証かあ。もっと確率なんとかしろ、運営。
「俺、これの新作やりたいんですよねー。なんか対戦モードあるらしいんで、薫さんも一緒にどうです? てか、薫さんまともに対戦ゲーやったことなさそ〜。ま、その時は俺が一から教えてあげますよ」
なんとなくつけたテレビに映った大好きなゲームのCMを見ながら、ケラケラと笑ってみる。それから、どさくさに紛れてこっそり貴女と手を繋いでみた。貴女の手は、まだ柔らかいような気がした。
「てかー、この映画のシナリオ、なんかセリフがクサくありません? 男も女もみーんなポンポン愛してるって言いますけど、普通に考えて愛してるってそんな軽い言葉じゃないと思うんですよね、俺」
サブスクで配信されているつまらない恋愛映画を観て、感想を一丁前語ってみたりとかした。ふと貴女がいる方を見てみたら、貴女はなぜか俺に寄りかかったまま変な方向を見てて、思わず笑ってしまった。この人、全然映画見る気ないじゃん。
「ねー、薫さん。薫さんは、俺のこと愛してくれてるんですかー? 答えてくれないなら、勝手にチューでもしちゃおっかなぁ〜。ほーら、じゅう、きゅう、はち……」
散々斜に構えておきながら、どうやら俺も映画の空気に当てられてしまったらしい。普段なら絶対聞かないような質問を、貴女に投げかけてみる。貴女はとんだ恥ずかしがり屋らしい。どんどんカウントが減っていこうが、ずーっとだんまりだ。
あーあ、これじゃあ俺のファーストキスが瀬田薫になっちゃいますねえ、なんて言いながら、俺は貴女の顔に自分の顔を近づける。抵抗しないってことは、受け入れてくれてんのかなあ、なんて。
あと、数センチで互いの唇が触れ合う。貴女だけで視界が埋まってしまうぐらい、顔が近くなる。そのまま貴女に触れられるまで、あと三センチ、二センチ、一センチ──。
──その瞬間、ようやく正気に戻った。
俺は急いで顔を離し、貴女の肩を掴んでそのまま突き飛ばす。かなり乱暴ではあるが、正気に戻ってしまった以上貴女のそばにいるのが怖かった。
ああ、俺、何、やってんだろうな。死んでしまった薫さんに一方的に話しかけるだけ話しかけて、挙げ句の果てにはキスを迫るなんて、本当にどうにかしている。
こんなの、まるで死体を使ったおままごとだ。ぬいぐるみみたいに意思がない貴女とのやり取りを勝手に捏造して、さも「そう」であるかのように振る舞う、ただ虚しいだけの一人芝居。
そんなことしたって、貴女はもうここにはいないのにさ。看取ってほしいなんて言っておきながら、俺の知らない間に死んじゃったんだよ。
俺は何も言わず立ち上がり、さっき乱暴に突き飛ばしてしまった貴女を抱き抱え、改めてベッドに寝かせて布団をかけてあげた。その顔は、変わらず穏やかだった。そんな貴女を見てたら、急に何かが込み上げてきて。
その日、俺はずっと泣いていた。夜が明けて、朝日が昇るまで、ずっと。
──時は現在に戻る。
誰もいない山の中に、ざく、ざく、とスコップによって土が掘り起こされる音が響く。百七十センチより少しだけ大きく掘った穴は、ようやく人が入れるほどの深さになった。
今朝、雪が降っているのを見た。その時、今日を「貴女の願いを叶える日」にしようと思った。うちの近くに大きい雪山があってよかったなあ、と改めて実感する。あーあ、せっかくなら一回ぐらいは貴女と一緒にスキーでもしてみたかったな。
そんなことを考えながら、俺は持ってきたスーツケースの「中身」を取り出す。無理やり詰め込んだから、ちょっと変な感じに曲がっちゃったみたいだ。でも、外に出してあげれば元通り。その身体がぐったりとしたまま動かないこと以外は、いつも通りだ。
「ほら、雪ですよ薫さん」
俺は薫さんをお姫様抱っこして、白銀に染まった世界を見せてあげることにした。綺麗な山奥の、誰にも踏みしめられていない綺麗なままの雪景色を二人占め。ちょっとロマンチックだな、って思った。
でも、流石にここまで貴女を運んだ疲れがどっと来たらしい。力尽きた俺は、そのまま掘り起こした穴に貴女を寝かせてあげた。
雪は今もなおちらちらと降っている。貴女の頬に、ひらりと舞った雪が積もる。ああ、いつのまにか雪みたいに儚くなっちゃったなって。
ねえ、知ってますか? 俺、時折ぽっと華やかに染まる貴女の頬が大好きだったんですよ。幸せそうにはにかむその笑顔が大好きだったんですよ。
それから、貴女がよくする自慢げな顔も、鬱陶しかったけど好きでした。そのぷくっと誇らしげに膨れた頬、つついてみたいって何回思ったかなあ。
てか、だいたいですよ。自分のこと看取らせるためにわざわざ高校生の家に引っ越すとか、普通に考えて頭おかしいですからね。少し間違えば変質者ですよ? 俺が警察に連絡したら、絶対貴女の方が捕まりますから。
大学も休学して姿消して、何がバカンスですか。貴女は温かい砂浜でくつろいでるんじゃなくて、冷たい病床で苦しんでるのに。
あと、血を吐いた時はちゃんと俺に言ってください。血がついて少し経った後の布団カバー、洗うの結構大変なんですからね。
それから俺が作った料理。体調が悪いせいで食べれないなら食べれないって、ちゃんと言ってください。貴女に苦しい思いさせたくて料理作ってるわけじゃないんですよ、こっちは。
そもそも俺の目の前で強がったって何も意味ないんですからね。病人は病人らしく、大人しく甘えてればいいんですよ。
……ほんと、もう少しぐらい俺に心を許してくれたってよかったのにな。
「……馬鹿」
何が楽しくて、俺に世界で一番大好きだった人間の死体を埋めさせてんだ、馬鹿。俺はそんな貴女のことが、世界で一番大嫌いで、大好きだった。喉の奥につっかえていた言葉が、貴女に言えなかった愛の言葉が、雪崩のように溢れ出る。
クリスマス、イタズラってテイでキスをしたりなんてしたら、貴女はどんな顔したのかな。冗談でも、好きだってもうちょっと言ってみればよかったかな。貴女が死んでからじゃ、もう遅かったなあ。
こうして貴女とたくさんの時を過ごしたはずなのに、結局何も残らなかった。残ったのは貴女のいない狭い部屋と、貴女の残り香だけ。これが戯曲なら、どんな悲劇だろう。
「俺は、貴女のことを、愛してました。……きっと、これからもずっと」
どうせ届くはずがないんだ。なら、せめて言葉にしてスッキリしたかった。体温を失った貴女の唇に、そっと自分の唇を重ねる。
当たり前のことだ。既に死んでしまった貴女の唇に、人間の唇のような感触はない。あーあ、生きてる時はもっと柔らかかったのかなあ、なんてことを考えながら貴女の頬に積もった雪をはらって、土を被せていく。貴女の身体は、雪が混じった冷たい土によって少しずつ埋まっていく。二人で過ごした優しい悪夢みたいな思い出と共に、少しずつ雪に埋まっていく。
俺はきっと、これからもずっと、貴女と共に生きていくんだ。貴女の笑顔も、貴女の声も、貴女と過ごした日々と一緒に全部背負って生きていく。それが貴女が俺に遺した、最期の呪いだから。
「……あー、久しぶりに肉体労働したせいで腹減ったー。なんか和食とか食べたいな」
真っ白に染まった帰路を一人歩く。山の中を、街の中を、住宅地を、家の前を一人歩く。ただいま、そう口にして玄関の扉を開けると、誰よりも愛おしい面影がそこで笑っているような気がした。